誰も指摘しない教育のタブー「子供の格差」を引き起こす親の経済力以外の"ある要素"
なぜ、教育格差はいつまで経っても解消されないのか。格差は一般的に親の年収の差=家庭の貧富の差と見る向きもあるが、文筆家の御田寺圭さんは「教育格差の真因は親の所得格差ではなく“別の理由”がある。そのことをSNS上で述べると、『不道徳でただしくない発言だ』と大勢で寄ってたかって非難するコミュニケーションが、核心に迫る議論を委縮させている」という――。
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■「教育格差=経済格差」では見えなくなってしまうもの しかしながら、教育格差の問題について考えるとき、「親の経済力によって受けられる教育投資の差によって生じたものだ」というわかりやすい物語だけでは見えない部分があまりにも多い。
結論を述べれば、「貧しい家庭は十分な教育投資が受けられない」だけではなくて、「貧しい家庭には、貧しさと同じかそれ以上に受けられる教育が乏しくなる“べつの理由”がたくさんある」からこそ、結果的に教育格差が発生してしまうのだ。
あまり声を大にして言いたいことではないのだが、幼いころの私は諸事情により、貧しくなおかつ学歴の乏しい人が多く暮らす街で長い時間を過ごしてきた。幸いにも、当時の貧しさがつらかったとかそんな記憶は私にはない。そこで私は多くの友人に恵まれたからだ。
その街でできた友人たちの家にしばしば遊びに行くこともあった。その経験則からいえば、貧しい街の貧しい家のほとんどでは、まず机がない。冗談で言っているわけではない。家のなかに「机」と呼ばれる家具が存在しないのである。言うまでもないが、勉強するための静かで落ち着いた部屋もないし。
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家に机がない、周囲の人間には集中して勉強するという概念がない、YouTubeは娯楽のツール――そうした「前提」が広く共有されているような場所では、エリート層が考えるような「塾に行かなくても効率的に学習できるやり方」を実践するような土壌がない。
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貧しい暮らしのなかに根深く共有されている習慣や文化や価値観こそが、そこで暮らす子供たちが得られる教育の質的・量的な乏しさをつくりだしている。国や自治体から「子育て世帯の(教育費)支援」の名目で多少のお金が入っても、それでは「貧しさをもたらす慣習や文化」そのものを変えることはできない。
しかしながら「貧しさはカネがないことと同じかそれ以上に、貧困層に共有される慣習や文化こそが原因だ」
――と述べることは、現代社会では差別主義者として非難されるリスクをともなう。そのため「教育格差」の問題の核心部を理解している人も、自身の社会生活を危うくしかねない不名誉なレッテルが貼られるのを恐れて「各家庭の経済格差や貧困をなんとかしなければいけませんね」とお茶を濁す。
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