日本のイスラーム (Islam in Japan)

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正しい謙虚さ~「神助受けし明証」より 

2010年05月27日 | ウラマーゥ(学者先生たち)に学ぶ
アッサラーム アライクム。

皆さんに平安あれ。


さて、アハマド・アッリファーイー師(ヒジュラ歴578年/西暦1181年没、アッラーのお慈悲あれ)の
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』より、
第16項目「正しい謙虚さ」についての拙訳です。

             ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名において
我らが主アッラーにこそすべての称讃あれ。
我らが指導者ムハンマドさまとそのご家族、ご教友全員に最高の祝福と平安がありますように。

筆者たるアハマド・アッリファーイー師(アッラーのお慈悲あれ)は、
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』という著作の中で言われました。
願わくは至高のアッラーがかの先生を通して私たちにとって役立つものをお恵みくださいますように。
そして学びの友として共に学ぶ皆さんを通しても、役立つものをお恵みくださいますように。アーミーン。

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التواضع الصحيح
أي سادة، أنا لست بشيخ، لست بمقدَّم على هذا الجمع، لست بواعظ، لست بمعلم، حُشِرت مع فرعون وهامان إن خطر لي أني شيخ على أحد من خلق الله، إلا أن يتغمدني الله برحمته فأكون كآحاد المسلمين.
مُتْ مسلماً ولا تبالي. الإسلام حبل الوصلة إلى الله. لو عبد الله غيرُ المسلم بعبادة الثقلين، بعيد عن الله مغضوب عليه، ولو أتى العبد المسلم بذنوب الثقلين، له من الله حظ العبودية.
﴿قُلْ يَاعِبَادِي الَّذِينَ أَسْرَفُوا عَلَى أَنْفُسِهِمْ لا تَقْنَطُوا مِنْ رَحْمَةِ اللَّهِ إِنَّ اللَّهَ يَغْفِرُ الذُّنُوبَ جَمِيعًا إِنَّهُ هُوَ الْغَفُورُ الرَّحِيمُ﴾ (الزمر 53)
أحكموا رابطة الوصلة مع الله بشرائط الاسلام: "المُسلمُ مَن سَلِمَ المُسْلِمُونَ مِن لِسَانِهِ ويَدِهِ". (متفق عليه عن سيدنا عبد الله بن عمرو رضي الله عنهما)


「正しい謙虚さ」

諸君、私はシャイフ(導師)ではない。
私はこの集団の先頭に立つものではない
(訳注-心の浄化の道において頭領たる者ではない、の意)。
私は啓発者ではない。
私はムアッリム(教師)ではない。
もし私が自分はアッラーがお造りになった存在の中の誰かのシャイフだと少しでも思うようならば(思いが浮かんだならば)、
私はフィルアウンとハーマーンとともに甦らせられることになるであろう。
(訳注-増長慢かつ不信仰のシンボルたるファラオとその側近たる執務大臣とともに甦らせられるとは、すなわち地獄行き、の意)
ただただアッラーがそのお慈悲によって私に目を瞑ってくださり、
一介のムスリムにならないかぎりはである。

ムスリムとして死に、(ほかは)気にしないことだ。
イスラームはアッラーへと至る手綱である。

たとえ万一ムスリム以外の者が人間とジンの二世界全員分のイバーダ(信仰行為)を捧げたとしても、アッラーからは遠く、怒りを受けしまま。
ところがもし万一しもべたるムスリムが人間とジンの二世界全員分の罪を持ってやってきたとしても、その者にはアッラーよりウブーディーヤ(しもべたること)の運がある。

『言いなさい。自らに対して度を越し過ちを犯したわがしもべたちよ、アッラーのお慈悲に絶望してはならない。
まことにアッラーは罪をすべて赦してくださる御方。かの御方こそはよく赦す慈悲深き御方なのである。』(クルアーン第39集団・アッズマル章53節)

アッラーとのつながりの絆は、イスラームの条件で判断するがよい。
「ムスリムとは、ムスリムたちがその人の口と手から安心できる人をいいます。」
(イマーム・アルブハーリーとイマーム・ムスリムがサハービー・アブドッラー・ブン・アムルさま(父子ともにアッラーのご満悦あれ)にまで遡るハディースとして伝承)




【訳者のつぶやき】
アハマド・リファーイー師のような方が「私はシャイフではない」と言われるなら、誰がシャイフたりえるのか?という話になりますが、
シャイフたる人ご本人の心構えはリファーイー師のおっしゃるとおりなのでしょうね。
我が師シャイフ・ムハンマド・アルヤアクービーもメールでご返信くださる時には必ず最後に
「The servant of the seekers of knowledge Muhammad al-Yaqoubi」と「知識探求者たちの奉仕者」であることを添えておられます。

スブハーナッラー、早いもので日本に帰国して4年、単独でのダアワ活動にはやはり限界があると
イスラミック・サークル・オブ・ジャパンの正式なメンバーに加えていただいてから来月で1年になります。
単独で活動していたころはほとんどが大人向けの講義活動をしていたわけですが、この1年でICOJメンバーとして、
また現在6歳、4歳、2歳の子どもたちの父親として、子どもたちにもイスラームのお話をする機会が随分と増えました。
(それでも実の子どもたちに対してはまだまだ足りない!と家内から時々お叱りを受けていますが…汗)

そんな中、やはり私一人では手が回らない。

打開策は一人でも多くの両親、特にお母さんたちに先生役になってもらうことだ!と、本腰据えてICOJのメンバーズダルスを始めて来月で第5回を数えますが、
その中で私は参加者の皆さんにあるお願いをしました。
ここに学びあうのは皆先生役になる人ですから、お互いに「先生」と呼び合いましょう、というお願いです。

アラビア語では指導役への敬意を込めて「シャイフ(導師)」、「ウスターズ(先生)」、「イマーム(指導者)」、
「アーニサ(女性の先生、「ウスターザ」でも可)」など様々な呼称がありますが、日本語では「先生」がいちばん馴染みやすく自然な敬称でしょう。
「気恥ずかしいからやめてください」、「先生と呼ばれるに相応しくないのでやめてください」、
「授業中は先生でもそれ以外では先生ではないので、先生とは呼ばないでください」など、反対意見もいくつかありました。

でも誰かが先生やらないとダメでしょう?

あの人がやってくれるから、と人任せでいては、子どもたちはあっという間に大きくなって私たち親の言うことなど聞いてくれなくなっちゃいますよ!

その際私は、「我以外皆師」をモットーとする賛成派として以下のように考えをまとめました。
ICOJの日本人ムスリムメンバーの間では一応コンセンサスを得られたのですが(私の声が大きいから?〔苦笑〕)、皆さんはどう思われるでしょうか。
ご意見お聞かせいただけると幸いです。


【ダアワ活動に携わるムスリム同士がお互いに『先生』と呼び合うとよい理由】

-自分が教えを乞う、あるいは何かを教えてもらう相手を「先生」とみなすかみなさないで、学びそのものに大きな違いが出てくる

-「先生」と口にして呼ぶことは、心で相手を先生とみなすことの助けとなる

-子どもたちにも早くから先生方への礼儀を身につけてもらいたい

-子どもたちは親が相手をどう呼ぶか、その真似をする

-「~さん」はただの丁寧語で、発話者自身が相手への敬意をその言葉を通して感じることは難しい

-謙遜はイスラームの美徳だが、教育にかかわる人が自らを「教育者」と自覚して責任感をもっと授業に臨むのと、兄弟姉妹やお友達感覚で臨むのとではコミットメントの度合いが違ってくる

-今は亡きハビーバ中田先生〔アッラーのお慈悲あれ〕が、「私も最初は『先生』と呼ばれるのがイヤでした。
でもいやがおうにもいずれは教える者として「先生」としての自覚を持つようにならなければならないわけで、
そのためにも先生と呼ばれることに慣れる必要があると思うようになりました」といったニュアンスのことを言っておられました。

↑私が理解するに「人様に教えるんだから、甘えるな。先生としての自覚と責任感を持て。」ということかと思います。


娘が小学校に通い始めて、以前よりも強く感じるようになりましたが、親が学校の先生を「誰々さん」呼ばわりして敬意を示さなかったら、きっと子どももその真似をするでしょう。
日本では職業的な呼称として教授職にある人を「先生」と呼ぶ習慣がありますが、
たとえ習慣とはいえ「先生」と呼ぶか呼ばないかで、相対する人から得られる「学びの質」に大きな違いがあるように私には感じられます。
ならば「イスラームの先生」を「先生」と呼ばずして、誰を先生と呼ぶのか・・・

…とまあ、色々と思うわけです。
もちろん、賛成・反対様々な意見があってしかるべきですので、
私としては反対意見にも学びたいと思います。
どうかご指導ください。

アッラーのご加護と祝福を。
アブー・ハキーム

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5 コメント

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Unknown (ムジャーヒド)
2010-05-28 19:53:53
ジャザークムッラーフハイラー

大人を素直に尊敬できる子供が育ってくれること(そして、子供が素直に尊敬できる大人がいてくれること)は、とても素晴らしいことですね。
マーシャーアッラー。

小生個人は、人の敬称の決定は個人の自由だと思っているので、反対派でも賛成派でもないのですが、
二点のみ、感想を述べさせていただきます。

①「ダアワ」に携わる方を「先生」とカテゴリー化し、それを集団的に推奨した場合、少なくともその集団の周囲では「先生/非先生」の明確な区分が発生します。
それは、「我以外皆師」のエートスと真反対な結果を招くことになる気がしますが、どうでしょうか。

②賛成者/反対者に意見がはっきりと分かれてしまう(ことがあらかじめわかっている)ようなアジェンダを団体として採用し続けることは、日本でダアワの裾を広げるにあたって、必ずしも好ましい選択ではないと感じますが、その点はいかがでしょうか。

例えば、「先生」と呼び合うのがICOJの方針となった場合、「先生」と呼ばれるのが嫌いな人、あるいはそういう方が主導権をもつ団体は、もうICOJには参加できませんし、協力もためらうかもしれません。
アッラーフアアラム。
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なるほど! (Abu Hakeem)
2010-05-28 22:31:18
アッサラーム アライクム。
なるほど!ごもっともなご助言ありがとうございます。ジャザークムッラーフ ハイラン!
ICOJ日本人部の方針とするのはやめにしたいと思います。(改めて撤回するような周知徹底された方針ではありませんので、この提言を繰り返さないという程度ですが)
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Unknown (ムジャーヒド)
2010-05-31 17:02:11
>ICOJ日本人部の方針とするのはやめにしたいと思います

えっ!
折角合意が形成されつつあった(?)のに私の意見のせいで申し訳ないです。
聞き流していただければ幸いです。

(合宿の写真アップ、お待ちしています。)
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Unknown (rubi)
2010-06-05 19:05:50
アッサラームアライクム ワラフマトッラーヒ ワバラカートゥフ、前野先生。

アルハムドリッラー、久しぶりにこちらのサイトに勉強に来ました。

スブハナッラー、方針の転換、良いことかもしれません、インシャアッラー。
インシャアッラー、今後も大人、子供向けの勉強会などを続けていくことによって、自然にイスラームを教えてくれる「先生方」を素直に敬えるムスリムが育っていけると良いですね。
ICOJのGWキャンプで子供たちのクラスを覗いてみましたが、幼児~小学生くらいまでは本当に素直にお話を聞くことができるように感じますが、中学生以上のムスリムの子供たちはどうも、悪ぶっているような、日本人の一般の中高生と同化したいような、なんとも言えない印象があります。とても寂しく感じました。
普通にイスラームの学校のない日本では、まずは小さいころから各家庭内でのイスラーム教育が本当に大切なんだろうなあ、と思います。両親がアッラーと預言者ムハンマドさまSAWが大好きで、毎日の生活にイスラームが根付いている、ような家庭がどんどん増えることをドゥアーします。

アハマド・アッリファーイー師のお話もとてもためになりました。
ジャザークムッラーフハイラン
ワッサラームアライクム
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Baaraka-llaahu feekum (Abu Hakeem)
2010-06-20 02:48:02
アッサラーム アライクム。
貴重なコメントありがとうございました。
アクラマクムッラー!

そうですね、おっしゃるとおり家庭内教育の大切さに加え、家庭の外にどれだけ「僕も/私もああなりたい」と思えるお兄さん(おじさん)お姉さん(おばさん)がいるかも大きな鍵となるかと思います。

いずれにしても、皆がスクラム組んで協力し合う必要があるかと…。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします!
バーラカッラーフ フィークム!
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