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散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ちょっとした言い換え

2018-12-25 10:48:23 | 日記

2018年12月25日(火)

 連想というのはカート・ヴォネガットの下記のくだりである。

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 コンスタントは思い出し笑いをした ー 時間厳守(punctual)という警告に対してである。パンクチュアルであるということは、時間とおりにどこかへ到着することだけでなく、点として存在する(punctual)ことを意味する。コンスタントは点として存在している ― それ以外の存在のしかたなど、彼には想像もできない。

 かつてウィンストン・ナイルス・ラムファードは、火星から二日の距離にある、星図に出ていない、ある時間等曲率漏斗(chrono-syncratic infundibulum)のまっただなかへ、自家用宇宙船でとびこんでしまったのである。彼と行をともにしたのは、一頭の愛犬だけだった。現在、ウィンストン・ナイルス・ラムファードとその愛犬カザックは、波動現象として存在している ― その起点を太陽内部に、そしてその終点をベテルギウス星にもつ歪んだ螺旋の内部で、脈動を続けているらしいのである。

 地球はまもなくその螺旋と交叉するところなのだ。

『タイタンの妖女』

***

 まただよ、思ったのと少し違う。連想、というより記憶というものが、その本性上かならず何ほどか揺らぎを含む。DNAの複製が必ずある程度の間違いを伴い、それが変異という多様性の源になっているのと似ている。そしてDNAの複製ミスの大多数が徒花(あだばな)であるのと同様、記憶の間違いも大概は無意味であるか混乱のもとになるか、どちらかにしかならない。ただ、ごくまれにケガの功名が生じる、それをめあてに今日も記憶は間違える・・・ということにしておこう。

 ヴォネガットはさすがに凝っている。僕の妄想はずっと単純で、要するに映画のフィルムのようなものだ。人の一生が一巻のフィルムに収められているとする。そして、これまでに存在したすべての人生フィルム - すべての生物のすべての生涯フィルムと大盤振る舞いしてもよい - が、広大無辺な宇宙のあるエリアに整然と保存されているとしよう。ある人物の17歳のある日に会いたければ、索引の指示に従ってそのエリアの然るべき地点に行けばよい。そこでいつでも出会うことができる。時間は全てを無に帰するが、このように時間が空間に変換されたところでは、何ものも決して消え去ることがない。このように、すべて存在したものは常に存在し続け、あらゆるものが永遠に生きる・・・のかどうか。

 そのように静止したフィルムは、命の設計図ではあっても躍動する命ではない。命をあらしめるためにはフィルムを上映せねばならず、そこで初めて anima が animation になる。地球は宇宙の映画館であり、人生は上映されたフィルムなのだ。人生という映画は一定の上映時間をもち、初めがあり終わりがある。しかし一回の上映が終わったからといって、その作品の存在が失われた訳ではない、むしろ上映の完結によって存在が証明されたのである。

 君、なに言ってんの?

 「現実にないことも心の中では見ることができます。」

 友達がくれたこの言葉を、少し言い換えてみたかった。それだけだ。

Ω

 

 


現実にないものも

2018-12-25 08:08:41 | 日記

2018年12月25日(火)

 「今年は松尾和男先生がお亡くなりになったこともあり、中学の頃のことをふと思い出すことが時々あります。現実にないことも心の中では見ることができます。」

 ✔ 本当に今年は significant others の中から物故者が続いた。そのことが一つ。

 ✔ 名古屋市立汐路中学校昭和46年度3年B組というのが、ちょっとあり得ないクラスだった。そのことで二つ。

 ✔ 松尾和男先生という恩師の人柄と人生が、時代背景の中でまた稀有のものである。これにて三つ。

 いずれ別に記すとして、まずは便りの主の心根に深く敬意を表する。喪中挨拶を送ったのを受けて、「さぞ寂しくお思いかと拝察、賀状代わりにせめてクリスマスカードを」とある。中学校時代に特に親しかったというわけでもない。頭のいい子だったのは間違いないが、あのクラスにはすさまじく頭のいい子たちがゴロゴロいた ~ 「頭がいい」というのは世間の用法と少し違って、ある程度の学力を前提とはするけれども、決してそれだけで完結しない本質的な明敏さのことである。

 彼女のお家は雑貨屋さんか何かで、通りすがりに覗くと二階から降りてくるエプロン姿の前ポケットで、小銭がじゃらじゃら音を立てたりした。親御さんの不在時には娘たちが店番していたのである。確か三人娘、この子は二番目だったろうか、後に首都圏の名門大学を出て名古屋に戻り、英語の先生になった。それをこちらは遠巻きに見ていただけだったが。

 同窓会の交わりというものも、過去の追憶の共有だけで成立しているのではない。それなら死んだ関係である。共通の記憶を素材に、盛り込み発展させていく関わりが二日目のカレーのように美味しく、日ごとに美味を増すこともあるだろう。

 「現実にないことも心の中では見ることができます。」

 ああそうだ、そうだった。「大事なものは目には見えない」は、星の王子様に贈るキツネの金言。その裏格言である。これには連想があるが、後は通勤の道々続けよう。

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