散日拾遺

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オスカー・ワイルド/旅の途中

2018-12-02 22:56:36 | 日記

2018年12月2日(日)

 折しも今朝の保護者科は、主の祈りの7回め「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」

 「試練」はむしろ自分を鍛える機会として歓迎するのが、山中鹿之助から星一徹・飛雄馬父子に至る男性文化の表看板、その感覚からするといかにも意気地のない祈りのようだが、ここにいう試みはそんな甘いものではない、試練と戦って成長しようとする魂を根元から腐らす悪性のもので、そういうものに限って見かけ・耳あたりは甘やかであること「楽園喪失」物語の示す通り。

 「試み」は「誘惑」と換言でき、事実マタイではそのように訳されている云々。クラムスコイの一対の絵が、手ごろな準備になった。

 いつになく多数、30人近くの保護者たちが熱心に聞いてくれたあと、長身のお父さんが話しかけてこられた。御一家でこの道の、常連さんである。

 「お話でオスカー・ワイルドを思い出しました。戦おうとすれば間違いなく絡めとられてしまう、誘惑の恐ろしさについて書いていたと思いますよ。戦うことなどできない、逃げるしかないのだと。ならば祈りの言葉も『誘惑にあわせないでください』となりますよね。」

 「良いことを教わりました。ワイルドのどの作品でしょう?」

 「『ドリアン・グレイ』、だったかな」

 このお父さん、確か大学の数学の先生である。守備範囲が素敵に広い。さっそく読んでみよう。

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 「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住んだ。」(へブル書 11:9)

 この世を最もよく生きる生き方 - それはこの世を目的地にしないこと、永遠の命に向かう通過点として生きることです。故郷に帰ってゆく旅人がたまたま他国に宿るように、今という時を生きるのです。

小島誠志『朝の道しるべ』12月2日

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 「しかし、わたしたちの本国は天にあります / ημών γαρ το πολίτευμα εν ουρανοισ υπάρχει. 」(フィリピ書 3:20)

 これも呼応するか。「本国」πολίτευμα は「国籍」とも訳される。ふと、等しくみな難民の境遇ではないかと思いつく。地上に国籍を与えられず、本国の幻を求めてさまよう魂の難民である。ニーチェなら「背面世界論者」と切って捨てるかもしれないが。

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