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散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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「バタくさい」が生きていた!

2018-12-03 20:53:49 | 日記

2018年12月3日(月)

 15年ほど前だろうか、とある特別養護老人ホームの利用者の中に、際立って洋風の居ずまいの女性があった。娘時代の様子は知る由もないが、20代でイギリス人の船長と結婚して人生の趣きが定まった。世界を股にかけ日本に落ちつくことの少ない夫とも、琴瑟相和したかどうかは知らず、一女をもうけて幸せに添い遂げた。夫をみとって後に認知症が進み入所にいたったが、その居室は調度・写真・衣類から流れる音楽まで洋一色、そもそもの顔立ちも彫りが深くて若い頃の写真は白人ハーフを思わせる風情である。

 居室を出たところで「バタくさい美人さんだねえ」と言ったら、若い女性スタッフが目をパチクリさせた。

 「は?バタくさい・・・ですか?」

 なるほど、これもアウトでしたか。もともと語彙がレトロなところへ加齢の効果が着実に表れ、年若いスタッフと話す時には言葉の選択に注意が必要になりはじめた、そういう時期の一コマとして印象に残っている。ちなみに手許の辞書類では、

「西洋的なくさみがある」(岩波国語辞典、1963)

「西洋風(で いやみ)だ」(三省堂国語辞典 7版、2014)

 本来、批判的な文脈で使うもののようだから、少々濫用だったかもしれない。ともかく辞書に載ってはいても、家庭でしか使えない言葉と思っておりましたら・・・

 「胸元にクマのアップリケがついた黄色い上っ張りを着た男性が、「いらっしゃい」と威勢のいい声をあげた。がっちりした体格で、茶髪で片耳にピアス、顔立ちはバタ臭い。カウンターの上には衣類が山積みだ。」

宮部みゆき『ペテロの葬列』文春文庫版(下)P.13

 もともと2010年の連載とある。「バタ臭い」が生き残っていたとは意外至極。宮部センセイも特に批判的な色彩なく使っておられるね。

 この小説には11月の帰省の時に助けられた。たまった疲れでか、気管支炎めいた症状が尾を引いている。あまり難しいことの考えられない時に、このあたりがありがたい。題名の「ペテロ」云々がどういう趣向か知りたくもあった。

 オチから言えば少し残念。宮部作品では『理由』と『火車』が断然好きである。本作品もさすがの構成力で、人物の描き分けや交流・錯綜も面白く、何よりたいへん勉強になる。だから不満といって特にないのだけれど、主要人物の一人がどうしても好きになれないのだ。もちろん、こちらの勝手というものである。

 ただ、好きになれないこの人物の存在と挙動が、物語の隠れた経糸として周到綿密に描き込まれているのに対して、「ペテロ」に託された主題のほうは、なぜ「ペテロ」なのか「葬列」なのか、謎の解かれる部分ではしばし鮮やかな光彩を放つものの、ほぼその場限りで完結してしまい、物語全体を律するリーチの長さを与えられていない・・・でもなかったのかな。

 まあ、批評するほうは気楽に何でも言えるので、何しろ大した書き手である。高齢の男性が事を起こす始まりからは、太田愛『天上の葦』と比べてみたくなったりした。女性作家らのスケールの大きさ、ただ事でない。

 もうひとつあったっけな、そう『ソロモンの偽証』。何がどうソロモンなのか、また楽しみに読んでみよう。

Ω


「日本語は主語が2つ?」??

2018-12-03 11:28:08 | 日記

2018年12月3日(月)

 最近の新聞記事の中から、家人が切り抜いてくれたコラムのタイトルである。街中の広告に「わたし、英語が伸びてきた!」というものがあり、これを題材に書かれてある。

 「英語の場合、単純な一つの文に出てくる主語は一つです。ところが、この広告文では、主語らしき部分として「わたし」「英語が」の二つがあります。英語式に考えれば、まことに非常識です。」

 どこが?

 「わたし、英語が伸びてきた」は、敢えて言葉を足すなら「わたしは、英語において進歩した」または「わたしの各科目の点数のうち、英語が向上した」のどちらかであろう。前者なら主語は「わたし」、後者なら主語は「英語」であって、何の紛らわしさもない。短縮した言い方であるために、そのどちらなのか曖昧・両義的になっているだけで、元来の主語が二つあるわけではない。

 そもそも、「わたし、英語が伸びてきた」という文がそんなに曖昧とも僕には思えない。「英語(の成績)が伸びた」と言ってるのだから、主語は「英語(の成績)」と読むのが自然である。いっぽう、この文の「わたし、」という部分は、英語の成績伸張という現象が「わたしという人間に起きた」ことを示すもので、当該領域に注意を喚起するフレーズであり主語ではない。君って英語が上達したんだね、良かったね。

 そう、良かったね、だ。単に英語が伸びただけではなく、英語の成績向上とともに「わたし」という人間そのものが成長しつつある手ごたえが、「わたし、英語が伸びてきた」という文からは伝わってくる。「わたし」という存在の主体性が、そのようなやり方で暗示されているということなら異論はないが、そこから遡上して「主語が2つ」は暴論である。いかなる言語であれ、主語を一つに決めないことには文というものが成立しない。逆に言えば、主語などとはそのような約束事の所産にすぎない。

 英語の場合、"I made a progress in English." といった具合に "I" を主語にすることが圧倒的に多く、この一般的傾向のために「わたし、英語が伸びてきた!」式の曖昧さは確かに生じにくくなっている。揺らぎが少ないだけに、揺らぎを逆手にとって多義性を醸す効果などは期待しにくかろう。英語の成績伸張と、「わたし」の全般的な成長とをこもごも表現したい場合は、発音する際に "I" と "Englidh" の二か所に強勢を置くなど、別のやり方で同種の効果を目ざすことになる。

 「肝心なことは、英語と日本語の文法は同じではないんだ、ということです」というコラムの結論は、あまりにも当然で異論の余地もありはしないが、具体的に何がどう違うかを論じる段になって「英語は常に主語が1つだが、日本語は2つある場合がある」などと展開するのだったら、いささか御免こうむりたい。

Ω