散日拾遺

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長い目で見れば

2018-12-17 15:38:15 | 日記

2018年12月17日(月)

 朝刊、社会面から。

 「長い目で見れば、いずれ米軍はいなくなります。自衛隊が引き継いだときに、今のような反発を招いた基地で本当にいいのでしょうか。」

 語っているのは元・米軍属それも海兵隊スタッフである。さらに「安倍政権を評価する立場」であり、「日米同盟は当然、強く支持」するという、その人物の発言であることに留意。

 発言を励起しているのは、政策の方向性とはまったく別の軸から生じる疑問で、軍事といえども/軍事なればこそ、民主主義の俎上で調理されねばならないということである。いかにも米国人らしい。

 もうひとつ、「長い目で見れば」とあることについて。「長い」とはどれほどの長さか、そこが大いに問題ではあるけれど、それでも「いずれ必ずいなくなる」と考えるか、「そんな先のことを考えても意味がない」と考えるかは、世界観を両極に分かつほどの転轍点である。

 アメリカ滞在中、日本の歴史の長さを賞讃され羨望されることがよくあった。素直に喜べなかったのは、それらがありきたりの外交辞令だったからではない。歴史の短さ・国の新しさを自覚するがゆえに懸命に歴史的自覚を模索する彼らのひたむきに対し、歴史の長さ・伝統文化の豊かさにあぐらをかいて「長い目」をもとうとしない我らが怠慢(あるいは傲慢)を、その都度自覚させられたからである。

 この違いは現在のものであり、従って未来のあり方に時々刻々、影響を与えずにおかない。歴史的展望をもたなくては、先の見えるはずがない。なお引用文中で、靴紐の譬えが秀逸だ。

【記事抜粋】

 来日して10年以上、日米の政治外交の研究を重ねた後、2009年から15年まで沖縄の海兵隊で働きました。地域住民とのパイプ役として基地の実情を話したり、時には、米軍関係者が起こした事件事故に対応することもありました。

  私は安倍政権を評価する立場ですし、日米同盟は当然、強く支持しています。それだけに辺野古への土砂投入は、非常に残念です。いったん砂を入れてしまえば、なかなか取り出せない。日米関係における「悲劇」だと思います。

  海兵隊も辺野古移設を望んでいるわけではありません。移設後の基地は、普天間飛行場よりも滑走路が短く、有事に動く主力の軍用機が離着陸できない。普天間のように高台にもないから津波にも弱い。

  日本の方々には今も、米国に占領されているような意識があると思います。私は即時、沖縄にあるすべての基地を自衛隊の管理下に置き、日米の共同使用にすべきだと思います。基地の中で何をしているのかが今は県民に見えませんが、自衛隊管理となれば透明性が高まります。

  長い目で見れば、いずれ米軍はいなくなります。自衛隊が引き継いだときに、今のような反発を招いた基地で本当にいいのでしょうか。国民のお金を使い、使えない施設を造る。これは、政治・行政の大きな失敗といえます。

  辺野古では、警察や警備会社の方々が大変な苦労をされて、反対している人たちを排除しています。そこまでしないといけないのは、日本政府が説明責任を果たしていないからです。

  一方の米国務省や国防総省は、ある時期までは日本政府よりも沖縄を知っていました。でも、繰り返し日本と米軍再編に合意したこともあって、いまは極めて無関心。「あくまで日本の問題」という立場です。

  ただ、その再編協議自体は、強引なものでした。

  沖縄問題が靴ひもの結び目であるとしましょう。日米政府の関係者が「基地問題」と書かれた靴ひもを無理やり引っ張って、結び目が固くなってしまったのが、いまの状態です。丁寧にやれば、きれいにほどけるはずでした。沖縄問題はお金では解決できない。「哲学」が必要です。

  県民投票が来年2月に予定されていますが、県民投票は、民主主義を実践する最大の手法です。私の知人に多い保守系の方々には、実施に反対したり、ボイコットしたりする動きがありますが、辺野古への移設に本当に賛成であれば、その立場から大いに参加すればいいと呼びかけています。

  住民投票には法的拘束力はありませんし、権力者は住民投票を軽んじたい。ただ、日米同盟は結局のところ、権力者の意向ではなく、両国民の理解と支持に支えられているのです。

 正しく実施されれば、住民投票ほど正確なものはありません。県民が本当にどう考えているのかを知る、非常に良い機会です。

 民主主義を大切にする本来の米国ならば、結果は真剣に受け止めるでしょう。

 (聞き手・成沢解語)

     

 ロバート・D・エルドリッヂ(50)

 元米海兵隊政務外交部次長。大阪大大学院准教授や米海兵隊太平洋基地政務外交部次長を歴任。主著に「沖縄問題の起源」。「正論」など保守系論壇に多く登場している。

Ω


ヨハネ命名

2018-12-17 09:00:00 | 日記

2018年12月16日(日)

 待降節第三週。教会の中高生クラスは何にタマゲたのか、朝から日頃の倍以上の生徒が詰めかけ椅子が足りない騒ぎである。エリアの某ミッション校が「何か」を課したのと、クリスマスに備えてハンドベル(の代わりのトーンチャイム)練習があるため、だったらしい。

 ともかく「先週の続きで・・・」というのは大半通じそうもなく、これ幸いにマリアとエリザベトの語らいの場面をふりかえってみる。聞き手は1名の例外を除いて全員10代の女子。彼女らといくつも違わない(あるいはまったく同年代の?)マリア、その母あるいは祖母に近い年齢のエリザベト、ともに思いがけず胎に子を宿した遠縁老若の女二人が、たがいに労(ねぎら)い寿(ことほ)ぐ美しい場面である。「その胎内の子がおどった」(ルカ 1:41)に少しの誇張もなく、部屋の戸を閉める音にすら鋭敏に反応する胎児が、母の昂揚に正しく同調したに違いない。

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(同 1:45)

 微笑みを呼ぶ聖書の筆致が、ここにも仕掛けられている。主の言葉が実現するとはとても信じられず、おかげでとんだ災難を被った者が言外に対置されているのだ。他ならぬエリザベトの夫ザカリヤ、彼こそ今朝の主人公である。

***

 ルカの福音書はザカリヤの物語から始まる。マタイが例の長い系図から始めるのと対照的、マタイが歴史から個人へ降りていくのに対し、ルカは個人から歴史へ舞い上がっていく。

 ザカリヤは祭司であったが、この年「主の聖所に入って香をたく」という重い役があたった。註解書によれば当時パレスチナに総べて18,000人の祭司があり、24の組に分かれて聖務を遂行したという。各組750人の計算である。「アビヤの組」が時の当番、その中でさらに籤を引いてザカリヤが指名された。単純な「くじ」に神意が示されるとの思想は旧約以来くりかえし表れている。

 まさに宝(の)くじを引き当てたザカリヤだが、これ真に大役である。ただひとり至聖所に入って香を焚き、そこで示された神の言葉を民に告げるのだ。神託がイスラエルの命運を左右するともなれば、共同体全体の存亡に関わる重大使命と言える。

 果たしてザカリヤの前に御使いが現れた。当然の反応として不安・恐怖に襲われるザカリヤに御使いが何を告げたか、

 「あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」(同 1:13)

 は?

 ザカリヤの混乱や思うべし。彼は公務で至聖所にいる。よもや自身の家庭がテーマになるとは予想の端にもなかったであろう。まして彼は老齢、妻も老齢、「不妊の女、子のない夫婦」という古代社会では最大級のスティグマを覆すべく祈り祈った年月の末、ついに諦め運命を甘受するに至ったこの時この場で、その話ですか?しかも、老妻がいまさら受胎?

 「御使い様、悪い御冗談を、ぜんたいそれは無理と申すもの、そもそも何を根拠に・・・」(同 1:18 意訳)

 震えながら四の五の言うザカリヤがもっともというもので、酷似した反応はイサクの誕生を予告されたアブラハムとサラの夫婦に前例がある(創世記 18章)。99歳のサラは御使いの言葉を聞いてひそかに笑い、「なんで笑うの?」「笑ってません」「いいや、笑った」と押し問答の末、生まれた男子がイサク(笑い)と名づけられることになった。

 どうも聖書に登場する御使いは、しかつめらしい外見の下でユーモアを含まずには任務を遂行できない生まれつきのようである。ガブリエル、この度はザカリヤの口を封じた。

 「あなたは口がきけなくなり、この事の起きる日まで話すことができなくなる。時が来れば必ず実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(同 1:20)

 「つべこべ逆らうこの口は、チャックしちゃうよ」というわけで、子どもの減らず口を業を煮やしてセロテープで封印した、どこかの母親を思い出す(親子のじゃれ合いであって虐待ではないことを急ぎ付け加えておく)。セロテープならすぐ剥がせるが天使の封印はそうはいかない。

 それからエリザベトの懐妊が明らかになり、妊娠が進行して臨月を迎え、ついに男子が誕生するまでの一年近く、ザカリヤの胸中はどうであったか。口をきくことのできないつらさもどかしさとともに、黙って見守る時間の切ない豊かさをも満喫したに違いない。無言の行の恵みである。

 「語る前に、まず満ち溢れねばならない」 ~ Also sprach Zarathustra

 満を持してあふれ出したザカリヤの預言が 67-79 節に開花する。それに先立ち命名のこと。当時のイスラエルでは子の命名に厳格なルールがあった。そのほうが人類史上の標準形であることは、日本各地の例でも分かるし最近までの(現在でも?)韓国人の命名習慣からも知られる。

 しかし男子の奇跡的な誕生を現実に体験した今、夫婦はガブリエルの命を奉じて揺らがない。

 「この子の名はヨハネ」(同 1:63)

 「ヨハネ」は「主、恵み給えり」の意とある。「恵みを与えられるだろう」ではない「与えられた」である。「約束されたことは、既に実現したのと同じ」という絶対の信頼が、この名に託されている。

Bartolomé Esteban Murillo, "The Birth of St. John the Baptist" (1655年頃)

(https://blogs.yahoo.co.jp/htanakaakanath/12096435.html より拝借)

Ω