ヒジュラ暦1426年サシャッワル(10月)3日 ヤウム・ル・アハドゥ(日曜日) |
ぶらり旅から昨日帰ってきた。心身ともに完全にリフレッシュ! ああ、気分がいい…と思っていたら、帰りの電車の中で、微妙に「う~ん、どうなんだろう?」ということがあった。
ある駅から、満員電車に乗り込んできた老年男性が、優先席に座っている中年夫婦の前に立ちはだかった。60歳は超えているだろう(髪と顔から推測)。
しかしジーンズにスニーカーで、とてもお元気そうである。他の客を押しのけ、ダッシュで乗り込んできたくらいだし。
このご老人、
「お前たち、年寄りのわしが目の前に立っているのに、席を譲らないとはけしからんのじゃないかな? さっさとわしに席を明け渡しなさい!」
という無言のメッセージをパワー全開で中年夫婦に送っている。というか、どう見ても
「ガンを飛ばしている」
中年夫婦は、困ったように目をそらし、呆然と虚空を見つめていた。
さらに困ったことに、多くの客が
(優先席を年寄りに譲らないなんて、なんて非常識な夫婦だ)
という、非難の目で見ている。
自分が、もしあの夫婦の立場だったら、たぶん席は譲れない。譲りたくても、あのようにガンを飛ばされたら、どうしていいかわからずに、きっと中年夫婦と同じ態度をとったと思う。
非難の目で見ていたお客様には、「別に優先席でなくても、あなたが譲ればいいのではないですか?」と申し上げたい。
「優先席を年寄りに譲らないのはけしからん。ちなみに、ワシらは優先席ではないので譲る必要がないがな」
という態度もいやらしいと思いますよ。
それに、中年夫婦だって、もしかしたら外見からはわからない障害を持っていたかもしれないし。中年夫婦には弁解の余地も与えられない。
本質は、「自分より席を必要としている人に、善意から自主的に席を譲る」ということだと思う。
「優先席」の存在って、もしかしたら、その本質を見失わせているんじゃないかな?
アレって、人々の善意に訴えているというより、「座った人の良心の呵責」に訴えているように見える。
「若くて健康なくせにそんなところに座っているヤツはロクなもんじゃないよ」
という暗黙の了解によって、席を譲らせるという存在になっているようにさえ感じる。
悪いが、先述したご老人の態度は、それを逆手に取っているように見えた。
人々の善意に訴えるなら、優先席なんか作らないで、車両の至るところに「お年寄りや体の不自由な人や困っている人には、席を譲りましょう」と書いておいたり、放送でそのようなことをアピールすればいい。
突然、イスラーム的な発想になるが、「財産も、体力も、気力も、知力も全て神から授かったものである」という気持ちが大切だと思う。
そこから、「余った財産は、財産の足りない人に施すのが当然」という喜捨につながるわけだし。
財産だけでなく、体力、気力の余った人が、足りない人に自然に席を譲ったり、荷物を持ってあげたりすればいい。
「優先席」が設置されるようになった経緯を知らないので、もしかしたら偏った見方になったかもしれない。
しかし、私にとっては「善意」というものについて考えさせられる、良いきっかけだった。そんなきっかけに出会えるのも旅の良さなのかもしれない。