物書きは、それぞれ独自の文体を持っています。
もちろん、内容や目的によって何種類も使い分け/書き分けはしますが、これぞという「決め玉」は必ずあるでしょう。
小生の場合では、ニュートラルな現代語に江戸下町方言をまぶしたような文体、かつ一人称の語り、ということになるのね(江戸下町方言だけだと、落語の活字化のようになってしまい、文章としてはちょっと読みにくい)。
各々の物書きの得意とする文体には、かなりの個性が現れているので、そこには読み手の趣味に合わないものもあります。
それは趣味の問題なので、よい文章か悪い文章か、ということとは関係がありません。
何で今回このようなことを書き付けているかといえば、かなり癖のある文体で書かれた小嵐九八郎『悪たれの華』を読んだからです(ああ、江戸時代の花火の話ね)。
小生、この人の作品を読むのは初めてなので、他のものがどのように書かれているかは分りませんが、少なくと、この作品は、趣味には合いませんでした。そうなると、読むのが辛くなる。必然的に読書速度も遅くなるので、読書の爽快感の一つが失われる、ということになります(一種の「ピカレスク・ロマン」なんだから、爽快感がなくっちゃね)。
さて、内容はともかくとして、「癖のある」ところを引けば、
また、用語にも独自の使い方があって、
これらの特徴は、江戸時代の人間に近代意識を持たせたことによるのでしょう。つまり、状況が江戸時代なのに、主人公は近代人的な罪悪感や贖罪感などを持っている。
現代小説なら翻訳語や外来語で表せばいいところを、時代小説ということで、持って回った言い回しとなってしまう。
というのが、この文章が、小生の趣味に合わない最大の原因だと思われます。
教訓:時代小説の登場人物に近代意識を持たせたい場合には、読者に分りやすくさせる工夫が必要。「地の文」に特定の役割を与える、とかね。
小嵐九八郎
『悪たれの華』
講談社
定価:2,415 円 (税込)
ISBN978-4062135085
もちろん、内容や目的によって何種類も使い分け/書き分けはしますが、これぞという「決め玉」は必ずあるでしょう。
小生の場合では、ニュートラルな現代語に江戸下町方言をまぶしたような文体、かつ一人称の語り、ということになるのね(江戸下町方言だけだと、落語の活字化のようになってしまい、文章としてはちょっと読みにくい)。
各々の物書きの得意とする文体には、かなりの個性が現れているので、そこには読み手の趣味に合わないものもあります。
それは趣味の問題なので、よい文章か悪い文章か、ということとは関係がありません。
何で今回このようなことを書き付けているかといえば、かなり癖のある文体で書かれた小嵐九八郎『悪たれの華』を読んだからです(ああ、江戸時代の花火の話ね)。
小生、この人の作品を読むのは初めてなので、他のものがどのように書かれているかは分りませんが、少なくと、この作品は、趣味には合いませんでした。そうなると、読むのが辛くなる。必然的に読書速度も遅くなるので、読書の爽快感の一つが失われる、ということになります(一種の「ピカレスク・ロマン」なんだから、爽快感がなくっちゃね)。
さて、内容はともかくとして、「癖のある」ところを引けば、
「――一人。といった具合。
年が明け、早、卯月四日。
玉屋市郎兵衛は、(中略)今は、一人歩く。」
「みんな、銭、金、銭を要する。
いや、独立しないと技は鍵屋に奪われる。独り立ちせねばなるまい。鍵屋からの独立不可は不文律、初代玉屋は泥棒のならず者の例の外だった。
銭金と、独り立ち……。
二つとも達したい、焦がれるほどに。
遠過ぎる……。」
また、用語にも独自の使い方があって、
「この火炙りの刑の底での、足掻きの志だ。ゆめ、忘れてはならない。」「足掻きの志」「生きてきた史」、分ったようで分らない表現ですね。
「啖呵というのではない、この五十幾年の五助の生きてきた史(ふみ)から漏れ出る本音だろう。」
これらの特徴は、江戸時代の人間に近代意識を持たせたことによるのでしょう。つまり、状況が江戸時代なのに、主人公は近代人的な罪悪感や贖罪感などを持っている。
現代小説なら翻訳語や外来語で表せばいいところを、時代小説ということで、持って回った言い回しとなってしまう。
というのが、この文章が、小生の趣味に合わない最大の原因だと思われます。
教訓:時代小説の登場人物に近代意識を持たせたい場合には、読者に分りやすくさせる工夫が必要。「地の文」に特定の役割を与える、とかね。
小嵐九八郎
『悪たれの華』
講談社
定価:2,415 円 (税込)
ISBN978-4062135085