先週から始まったトーマス・アルスラン大回顧展もいよいよ本日最終日。
作品はいずれも劇場未公開、アテネなどでの特集上映のみ。
とはいえ、今回の特集上映(アテネ)で長篇5本と短篇1本、
特別上映(ドイツ文化センター)で長篇1本が観られるという贅沢なレトロスペクティヴ。
そして、更には監督本人が初来日し、
連日登壇されてはたっぷりと話を聴かせてくれる好企画。
来日直後にはアテネに駆けつけ上映時に挨拶されたらしいし、
翌日の『イン・ザ・シャドウズ』上映後にはたっぷり1時間半トーク。
映画学校での講義(?)を挟んで、
昨日にはドイツ文化会館で日本初公開となる『休暇』の上映後にも1時間ほどのトーク。
そして、いよいよ今日、上智大学で「トーマス・アルスランと映画を語る」
と題されたセミナーが開催された。一般公開で入場無料、たっぷり3時間超。
前日の『休暇』上映には100名近く来場していたのだが、
さすがに平日の真昼間(14:30スタート)という時間帯は厳しいらしく(そりゃそうだ)、
小ぢんまりとした雰囲気での実施となったものの、
それはそれでアットホームな感じもしたし、
アルスラン作品らしい(テキトーな表現すぎるだろ)独特な味わいのある会となった。
私はこの間、土日に仕事が入ってしまったものの、土曜は早めに切り上げられたし
昨日今日と休みというまさに奇遇にもアルスラン・シフト
(ちなみに仕事はシフト制な訳ではないのですが、
たまたまもともと合致するスケジュールだったという)。
そんな勝手に《運命》感じつつ通い続けたアルスランDAYSも
最終日となると些か寂しい。
3日とも足を運んでいると思しき同志(笑)もちらほら確認できて、
ちょっとしたゼミ合宿みたいな気分がしたりして。
昨日観た『休暇』は前評判通り、アルスランの新境地を確認できる新鮮な作品だった。
撮影前にはクルーたちで小津の映画を観てから臨んだという逸話も聞いていたので、
その影響がどのように出ているか気になるというか少し不安だったりしたものの、
やっぱりアルスランはアルスランでしかなく、
『イン・ザ・シャドウズ』撮影前に参照したメルヴィルの『仁義』同様に、
引用でも流用でもなく彼なりの消化を経て自身のスタイルへと吸収されていた。
彼のこうした姿勢が、アルスラン作品に通底する「慎み深き独自性」をうんでいる気がする。
映画の《過去》に抗ったり、距離をとろうとするわけではないが、
素直に助けを借りた後は独立独歩で《現在》に集中しようとする姿勢。
彼がトークのなかでしばしば口にしていた「コンテクスト」という言葉が、
そんな姿勢を象徴しているかもしれない。
つまり、作品という「テクスト」にも、必ずその背後に「コンテクスト」がある。
それは、その作家のフィルモグラフィーであったり、作品制作における過程であったり、
作品制作および発表時の社会性や時代性などなど。
どんなに傑出した作品であろうと、その「テクスト」に絶対的価値が内在するわけではない。
かなり乱暴な解釈だが、そんな風に考えられたりしないだろうか。
「テクスト」の傑作たる所以は、
必ずその「コンテクスト」に置いてこそ浮かび上がってくるものなのかもしれない。
従って、「テクスト」内部の要素をそのまま別の「テクスト」に移植することは、
その要素を活かす手段にはならない。
いま編んでいる「テクスト」がどのような「コンテクスト」を背負っているか。
それを見極めた上で、お手本から取り出した要素の加工を始めなければならない。
それは、作中における背景と人物の関係にもあてはまる。
アルスラン監督は、風景を「コンテクスト」として意識し、
その記録によって人物への理解が深まるよう努めていると話していた。
都市(主にベルリン)という《空間》を切り取る上で、
それ自体の趣も大切にしたいとは語っていた一方で、
必ずや《空間》と《人間》、そして《空間》と《物語》の有機的な連関にこそ
興味の中心があるという。
アルスラン作品を観ていて覚える独特な感覚は、
「肖像画」でありながら「風景画」であるという印象だ。
そして、彼にとっての「コンテクスト(風景)」と「テクスト(人物)」の
有機的(双方向的)関係こそが、
そうした明言や断定を拒むような作風となって結実しているのだろう。
余りにも落ち着き払い、奇を衒おうなどしていないにもかかわらず、
何故か掴みどころが「ない」ような「だらけ」のような名状し難いアルスランの語り。
人物や言葉といった点に《中心》があるわけでもなければ、
それらの点を結んだ線を《中心》に進むわけでもない。
点や線の背景が時折《中心》たり得たりもする。
そして展開においても《中心》を定めることのないまま終わる作品が多いように思われる。
つまり、遠近法的視覚とは異なる世界との対峙がそこにはあるような気がする。
かといって、《中心》が全くないわけでもない。
近代と前近代の混血児たるトルコと
2つのベルリンを擁したドイツの間で生まれ育ったアルスラン。
彼にとっては《周縁》のすべてが《中心》であり、
あらゆる《中心》が《周縁》たり得る「見え方」こそが真実なのかもしれない。
いや、彼にとってだけではない。本来、世界とはそういうものだったはずだ。
そんな「当然」が淡々と実直に黙って語られていくアルスランの作品群。
饒舌すぎたり冗長すぎたりする映画がどんなに言葉や時間を弄しても到達できぬ、
「内省し続ける一場面」が提示する人間の深淵。
アルスランの作品はいずれも70分から90分程度。
どれも一幕物といった印象だ。
アルスラン監督は『イン・ザ・シャドウズ』での質疑応答で、
完結していないように思われる幕切れについて、
彼にとっては一つの「終わり」と見ていると答えている。
言い換えると、完結していないように思われるのは、
そこに「始まり」を見るからだということだった。
しかし、そこで何かが始まったということは同時に何かが完結していることと同義でもある
と彼は語る。前述の《中心》と《周縁》の流動的な変遷と重なる見方だ。
私がトーマス・アルスランの作品に強く惹かれる理由は
当然言葉でうまく説明できるものではない。
しかし、彼が進んで「国際舞台」に躍り出ようとか、
「国際的名声」を手にしようとしていない(と思われる)姿勢にも深く関わっている気がする。
つまり、そうした進出を図り承認されるためには、
当然そこには《普遍性》がより求められることになるだろう。
従って、物語(およびその背景)がもつ特殊性や固有性は
認識を共有しやすい形で提示(説明)されることになるだろうし、
それが困難な場合はそもそも普遍的な背景を前提として物語を始めなければならなくなる。
確かに、アルスランの諸作には日本でも理解や共感ができる要素が少なくない。
しかし、2010年の渋谷哲也氏の作品解説(講演)で
物語の背景がもっている特殊性や固有性を初めて知ると、
それらを「親切な説明」によって矮小化することなく、
現実を映し出すための誠実さにこそ忠実であろうとする姿勢を貫いていることが
強く感じられた。(要するに、背景の事情を聴いて初めて「わかる」ことが多かった。)
ユニバーサルによってコーティングされたりオーガナイズされることのないローカリズム。
しかし、それでもそこに宿っている《普遍性》があるとしたら、
そこから受け取る《真実》は深愛すべきものとなろう。
ところが、そうした映画作家の作品が国外に紹介されることは稀有である。
ここ日本においても、
ジャンクフードか高級フレンチかといった二者択一的映画輸入が常である。
トーマス・アルスランのような質素ながらも味わい深い家庭料理的作品は、
日本で観られる外国映画には多くはない。
確かに、他の家庭で御呼ばれする家庭料理の味には些かの躊躇いや戸惑いがつきものだ。
しかし、「みんなの味」と「自分の味」の間にも《味》が無数に存在することは、
外食か自炊の二者択一では知りえない。
万人が賞賛する文化はもはやどこからも異文化ではないが、
それは確かに至高の文化ではあろう。
一方、万人と個人の間の無数の存在と対話することも重要だろうし、
何よりそこにある「微かな差異」を自由に拡げたり縮めたりする主体的な語らいは、
双方向な文化の交流を可能にしてくれる気がする。
権威を通じての交流(何らかの受賞や評価を前提として)ではなく、
作品自体への興味や感銘に基づいた直接的交流のもつ豊饒さ。
それをつくづく感じながら過ごした数日間となった。
惜しむらくは、こうした場に興味(というか足)が向く「シネフィル」が
あまり多くなかったということだ。(まぁ、色んな企画と重なってるからかもしれないが。)