個人的な年間ベスト10のなかで、首位に位置づけた『蜂蜜』。
観賞後すぐに(翌週)、『ミルク』『卵』と制作年を遡るようにして三部作を観終え、
それらの作品が私の琴線に触れることが止まず、想いはまとまらず、
言葉に置き換えられずに過ごしたままに2011年を終えた。
そんなかで振り返ったとき、たおやかな滲みのたまりで、
確実に焼きついている作品こそがユスフ三部作であった。
自分は果たしてこの作品の、どこに、なぜ、惹かれているのか。
そこに明確な説明や解釈が与えられぬまま選んでしまったがゆえの、
マイベストの不可解さに多少の後悔がまとわりつきながらの再検証の好機。
しかし、三部作を新たな流れで見通すなかで、そのような認識が誤謬であり、
至極当然でもあるような安らぎにつつまれた。
この寡黙な端正さを、説明や定義の道具としての言葉でなぞってはいけない。
叙情的な言葉を拝してうまれる詩情の味わいは、
映像が叙事的であるという事実を確かめ、原点を革める。
瞳を凝らせば凝らすほど、そこから見馴れや既視の諸相は消える。
浮かびあがるは無窮の世界。何度もうまれかわり、どこまでも続く。
1・2・3や上中下などの、一方向とは無縁の時間。
どの作品もが始点であり終点である、円環する三部作。
4拍目はないが、それが1拍目に還ることもせぬ円舞曲。
それは遍くループなルーツの森。
人間が世界の「一部である」ことを祝福しながらも、
それは幸福であることのみを意味しないリアリズム。
そして、そこに時折立ちこめるロマンティシズムの甘美は優美。
母の死から父の死へと遡る。それは、父の死から母の死までの物語。
死から生まれる物語。死を生きぬくための物語。
あたえられた死をうけとった人間の精神史。
◆『蜂蜜』(2010年)におけるユスフは小学校にあがりたての年代であり、
『ミルク』(2008年)では青年となって徴兵の召集令状が届くような年齢になる。
母親の元から遠ざかったままのユスフは、『卵』(2007年)で亡き母の元へ還る。
昨年の公開時、私はユスフの時間にしたがい観賞した。『蜂蜜』から。
そして今回は、セミフ(監督)の時間にしたがい観賞した。『卵』から。
そうすると随所に新たな発見が浮かび上がり、物語りも再構築されてゆく。
『ミルク』から観始めた場合や、その次にいずれを観るかによっても、
そこには新たな物語が紡がれそうな気がする。順列などない三部作。
いや、順序が同じであろうとも、過去と現在と未来の交錯する世界では、
一回性の混沌があるのみなのかもしれない。現実は固定と整理を拒むもの。
◆明確な筋立てがないようであり(そうした見せ方は意図的でもあるだろうし、
各作品が独立した完結性をも内包しているから)、
実は周到精緻な世界の共有も図られている。
しかし、それは必ずしも同じ直線上に在る三点というよりは、
どの点からも同じ真理に辿り着けるように並行する普遍の神秘を忍ばせる。
とはいえ、やはり無尽に張り巡らされたかに思えるほどの交錯は、
純粋に楽しめる「気づき」でもあり、沈黙に語りかけられるのを待つのではなく、
沈黙に語りかける充実なのだ。どんな「読み」をも受容する、その肥沃さに舌を巻く。
三作における「つながり」をランダムに挙げてみると、
*「ミルク」がいずれの作品でも印象的に登場している。
ユスフ時系列で言うならば、ミルクが嫌いだったが飲むことを選択し(『蜂蜜』)、
やがてミルクを売る仕事を始め(『ミルク』)、ミルクを買うようになる(『卵』)。
《ミルク=母乳》といった解釈は短絡すぎるかもしれないが、
一旦乳離れをしたユスフ(『蜂蜜』)は父と心を通わせるようになっていた。
しかし、その父亡き今、彼は母を引き受ける覚悟を決め、ミルクを飲む。
やがてミルク(それは母が丹念につくったもの)を売るようになるユスフは、
もはや母の愛が大きな支えとなっていた。
しかし、やがて役に立たなくなったミルクは散乱するだろう。
そのまま母から遠ざかったユスフが還った母の家。ミルクを買う。
母を再び受け容れ始める暗示だろうか。
*『卵』で詩人となったユスフが家のまえに座って会話をする際、
彼の手元にある冊子には、「BAL」(『蜂蜜』の原題)の文字。蜜蜂の絵。
*必ず誰かが昏倒する。『蜂蜜』ではユスフの父が昏倒する。
遺伝性なのか、『ミルク』でも青年ユスフは昏倒する。
『蜂蜜』では序盤にやはりユスフが昏倒する。
しかも、そのとき彼が眺めた光景は、かつて見た光景と重なった?
ロープを伸ばす(?)場面が『蜂蜜』では度々登場するが、
ユスフの父がユスフの友人に「何かあげている」のを目撃して嫉妬する際、
その背後ではその友人の父親が同じくロープを張っている。
その後に父親に対してわだかまりを覚えたユスフの葛藤が、
父がロープを張る横で彷徨しながら描かれる。
そうした嫉妬の腹いせに友人にした仕打ち。
悔いて友人宅を訪ねる時にも、そのロープの光景はある。
そして、父の最期とも結びつくロープ。
いつかみたその光景を目の当たりにした瞬間、昏倒したユスフ(『卵』)。
(『蜂蜜』における父がロープを伸ばす場面の遠近感は3D技術を葬る画)
*豊かな自然の美しさにあふれる全篇ながら、直接的な陽光の存在感は希薄。
共通する光は、夕陽であったり、月光であったりする。
《父性》の象徴たる太陽よりも、《母性》の象徴たる月の存在感。
ユスフの物語における「光」のあり方か。
*「食卓」がいずれの作品でも重要な《舞台》となっている。
団欒として描かれる『蜂蜜』の食卓は、やがて喪失を覚え、
ミルクを飲むという通過儀礼の場所となるだろう。
『ミルク』では、互いよりもテレビを観ている母と息子だが、
食卓で慈しみを確認する会話もまだあった。
しかし、その食卓におかれた二つのカップを見たユスフ。
豪華な夕食で彩られた食卓で独り待つ母の元にユスフは来ない。
やがてユスフは母から離れ、二度と食卓を共にすることはなくなった。
そして、『卵』のラストは母の「忘れ形見」である娘と食卓で向かい合っている。
*その『卵』のラストでは(エンドロールに入ってからも)雨の音がしている。
いずれの作品でも、雨の音がしばしば印象的に鳴っている。解釈未遂だが。
*どの作品にも動物が印象的に登場する。(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン作品を想起)
『蜂蜜』では白馬や鷹。『ミルク』では蛇やナマズ、水鳥。『卵』の羊や犬。
『蜂蜜』の終盤、授業で女の子が読むテキストの内容が興味深い。
「すべての動物は食べ物が必要です」
人間が生きるために利用されたり犠牲にされる動物たち。
そして、それを同じ種同士でおこなう動物、人間。
しかし、その犠牲を自覚し、弔ったり贖ったりできるのも人間。
*《夢》の存在(現実との交錯)が、『蜂蜜』では見事に描かれる。境をもたず。
夢の話は他の人に聞かれてはいけないからと、小声で話すよう促す父。
夢でみた幸福な家族三人の様子を声を落とさず話した母。
『ミルク』でユスフの詩が掲載される雑誌のタイトルは「夢」。
『蜂蜜』でユスフは、母が彼と一緒に来たかったという湖を訪れ、
母の願った羊を生贄にする儀式を遂行する。母の「夢」を叶えるため。
かつて理解を拒んだ母の夢(再婚?)への償いも、感じたりしたのだろうか。
*いずれの作品でも印象的なのは、もしかしたら光より闇かもしれぬ。
いや、闇のなかの光なのかも。
『蜂蜜』ではユスフが部屋の電灯を点けたり消したり。
そうしたなかでも変わらず灯り続ける暖炉の火。
影に満ちた屋内から光溢るる窓外戸外を眺める画も多い。
『ミルク』ではやはりラストの光。光を失ったユスフ。
自らに注ぐ光はなく、常に光の背後に存するしかないユスフ。取り巻く闇。
『卵』では停電が起こる。そこに灯る美しきローソクの火。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの光のように。
しかし、最も美しい光は水面に映る月あかりかもしれない(『蜂蜜』)。
絶対つかめない、その光。
また、光の存在をここまで豊かにとらえうるフィルムの魅力を
再認識せざるをえない。かつて、写真が「光画」と呼ばれたことを思い出す。
共通性というわけではないが、或る種の継承も見受けられる気がする。
『蜂蜜』でユスフの隣の席の友人は、『ミルク』に出てくる詩を読む作業員では?
そのように私には思え、幼き日の気まずさやその後の微かな労わり交わす姿が、
『ミルク』における束の間ながら交わされる友情の光景とつながり、じんわり。
『ミルク』の書店で出会う少女と『卵』のアイラは、同じ女性が演じている。
『ソフィアの夜明け』で印象的だったサーデット・ウシュル・アクソイが。
彼女のデビュー作が『卵』だったらしい。
◆タイトルには必ずセミフ監督なりのこだわりがあるのだろう。
私なりに拘ってみたい読みとしては、生と死によるリレーとでも言えようか。
蜂蜜は、外から集めてきた生命の源。
ミルクは、内から流れ出た生命の源。
卵は、産み落とされた生命そのもの。
しかし、それもまた何物かの生命の源。
そして、そのいずれもが、各作品で消失するさだめでもある。
『蜂蜜』では蜜蜂が消え、『ミルク』ではミルクが散乱し母の存在を消そうとする。
『卵』では序盤に卵が落とされ割れる。しかし、そのどれもが最後に食卓に集う(?)
◆主人公が詩人になる話なだけに、当然「言葉」も重要なテーマの一つ。
『蜂蜜』では吃音に悩むユスフ。小声と親密で癒そうとする父親。
他の人に聞かせなくて好いという教え。言葉とは、他者との交信の道具でもあり、
そのために必要な一義性や共有性が個人の内的現実を抑圧するものでもある。
だから、幼少のユスフは「外から与えられ」「外に届ける」ための言葉を拒む。
そして、成長したユスフは詩の言葉を手にすることで、内的現実を固持するだろう。
しかし、それはやがて他者との交信を拒絶する側面を助長してしまいもする。
『卵』のラストにおける幸福な食卓。そこで交わされる、言葉のようなもの。
それは言葉そのものかもしれないし、ほころぶ表情かもしれないし、
雨や樹木といった自然の音かもしれない。
五感すべてに言葉があふれてる。
この映画、そのもの。
◇とにかく、こうしてユスフ三部作を一挙に観る機会を得られ、幸福このうえない。
川崎アルテリオでも、キネカ大森でもチャンスはあったのだが、スケジュール合わず。
おそらくしばらくないであろう、ラストチャンス。
これほどフィルムの美に陶酔しきれる時間はそうそうない。
早稲田松竹で13日まで。
但し、極めて「独特」な作風であるゆえに、そこを理解のうえ観賞を。
私が観たとき、『ミルク』のエンドロールが終わるやいなや即座に出口へ向かい、
私の横を通りすぎながら「金かえせ」とかなり大きな声で呟く婦人がいた驚愕。
周りの凍りついた空気。これもまた、本作のもつ力の所以と解したい。
という、人によってはどこまでもどこまでも肯定に突き進むほどの魅惑な作品。
◇『卵』を観なおすなかで、一度目にはあまり意識できなかった小津の影響が、
とてつもないほどに随所にあふれていることに興奮した。
しかも、ユスフ三部作のまえに早稲田松竹でかかっていたのは小津2本立。
このあまりにも幸福な巡りあわせ(粋な計らいだったりするのか?)は豊饒すぎて、
年始早々末恐ろしい(笑) とにかく『卵』では執拗なまでの凝視と奥行がある。
しかも、人物を絶対に(と言っていいほど)並置しない。移動は必ず手前と奥。
映画の冒頭からして、そうした表明で幕をあけるのが『卵』と『ミルク』。
(だからなのか、私のなかの印象記憶は、二作ともスタンダードサイズ。)
そして、撮影監督が変わったこともあってか、『蜂蜜』ではそれらのビジョンが
更なる換骨奪胎を経て、愛すべき佳作から愛さねばならぬ傑作へ。