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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

ユスフ三部作(セミフ・カプランオール)

2012-01-11 23:57:40 | 映画

 

個人的な年間ベスト10のなかで、首位に位置づけた『蜂蜜』。

観賞後すぐに(翌週)、『ミルク』『卵』と制作年を遡るようにして三部作を観終え、

それらの作品が私の琴線に触れることが止まず、想いはまとまらず、

言葉に置き換えられずに過ごしたままに2011年を終えた。

そんなかで振り返ったとき、たおやかな滲みのたまりで、

確実に焼きついている作品こそがユスフ三部作であった。

 

自分は果たしてこの作品の、どこに、なぜ、惹かれているのか。

そこに明確な説明や解釈が与えられぬまま選んでしまったがゆえの、

マイベストの不可解さに多少の後悔がまとわりつきながらの再検証の好機。

しかし、三部作を新たな流れで見通すなかで、そのような認識が誤謬であり、

至極当然でもあるような安らぎにつつまれた。

この寡黙な端正さを、説明や定義の道具としての言葉でなぞってはいけない。

叙情的な言葉を拝してうまれる詩情の味わいは、

映像が叙事的であるという事実を確かめ、原点を革める。

瞳を凝らせば凝らすほど、そこから見馴れや既視の諸相は消える。

浮かびあがるは無窮の世界。何度もうまれかわり、どこまでも続く。

1・2・3や上中下などの、一方向とは無縁の時間。

どの作品もが始点であり終点である、円環する三部作。

4拍目はないが、それが1拍目に還ることもせぬ円舞曲。

それは遍くループなルーツの森。

人間が世界の「一部である」ことを祝福しながらも、

それは幸福であることのみを意味しないリアリズム。

そして、そこに時折立ちこめるロマンティシズムの甘美は優美。

母の死から父の死へと遡る。それは、父の死から母の死までの物語。

死から生まれる物語。死を生きぬくための物語。

あたえられた死をうけとった人間の精神史。

 

 

◆『蜂蜜』(2010年)におけるユスフは小学校にあがりたての年代であり、

   『ミルク』(2008年)では青年となって徴兵の召集令状が届くような年齢になる。

   母親の元から遠ざかったままのユスフは、『卵』(2007年)で亡き母の元へ還る。

   昨年の公開時、私はユスフの時間にしたがい観賞した。『蜂蜜』から。

   そして今回は、セミフ(監督)の時間にしたがい観賞した。『卵』から。

   そうすると随所に新たな発見が浮かび上がり、物語りも再構築されてゆく。

   『ミルク』から観始めた場合や、その次にいずれを観るかによっても、

   そこには新たな物語が紡がれそうな気がする。順列などない三部作。

   いや、順序が同じであろうとも、過去と現在と未来の交錯する世界では、

   一回性の混沌があるのみなのかもしれない。現実は固定と整理を拒むもの。

 

◆明確な筋立てがないようであり(そうした見せ方は意図的でもあるだろうし、

   各作品が独立した完結性をも内包しているから)、

   実は周到精緻な世界の共有も図られている。

   しかし、それは必ずしも同じ直線上に在る三点というよりは、

   どの点からも同じ真理に辿り着けるように並行する普遍の神秘を忍ばせる。

   とはいえ、やはり無尽に張り巡らされたかに思えるほどの交錯は、

   純粋に楽しめる「気づき」でもあり、沈黙に語りかけられるのを待つのではなく、

   沈黙に語りかける充実なのだ。どんな「読み」をも受容する、その肥沃さに舌を巻く。

 

三作における「つながり」をランダムに挙げてみると、

 

  *「ミルク」がいずれの作品でも印象的に登場している。

     ユスフ時系列で言うならば、ミルクが嫌いだったが飲むことを選択し(『蜂蜜』)、

     やがてミルクを売る仕事を始め(『ミルク』)、ミルクを買うようになる(『卵』)。

     《ミルク=母乳》といった解釈は短絡すぎるかもしれないが、

     一旦乳離れをしたユスフ(『蜂蜜』)は父と心を通わせるようになっていた。

     しかし、その父亡き今、彼は母を引き受ける覚悟を決め、ミルクを飲む。

     やがてミルク(それは母が丹念につくったもの)を売るようになるユスフは、

     もはや母の愛が大きな支えとなっていた。

     しかし、やがて役に立たなくなったミルクは散乱するだろう。

     そのまま母から遠ざかったユスフが還った母の家。ミルクを買う。

     母を再び受け容れ始める暗示だろうか。

 

   *『卵』で詩人となったユスフが家のまえに座って会話をする際、

     彼の手元にある冊子には、「BAL」(『蜂蜜』の原題)の文字。蜜蜂の絵。

 

   *必ず誰かが昏倒する。『蜂蜜』ではユスフの父が昏倒する。

      遺伝性なのか、『ミルク』でも青年ユスフは昏倒する。

      『蜂蜜』では序盤にやはりユスフが昏倒する。

      しかも、そのとき彼が眺めた光景は、かつて見た光景と重なった?

      ロープを伸ばす(?)場面が『蜂蜜』では度々登場するが、

      ユスフの父がユスフの友人に「何かあげている」のを目撃して嫉妬する際、

      その背後ではその友人の父親が同じくロープを張っている。

      その後に父親に対してわだかまりを覚えたユスフの葛藤が、

      父がロープを張る横で彷徨しながら描かれる。

      そうした嫉妬の腹いせに友人にした仕打ち。

      悔いて友人宅を訪ねる時にも、そのロープの光景はある。

      そして、父の最期とも結びつくロープ。

      いつかみたその光景を目の当たりにした瞬間、昏倒したユスフ(『卵』)。

     (『蜂蜜』における父がロープを伸ばす場面の遠近感は3D技術を葬る画)

 

   *豊かな自然の美しさにあふれる全篇ながら、直接的な陽光の存在感は希薄。

     共通する光は、夕陽であったり、月光であったりする。

     《父性》の象徴たる太陽よりも、《母性》の象徴たる月の存在感。

     ユスフの物語における「光」のあり方か。

 

   *「食卓」がいずれの作品でも重要な《舞台》となっている。

     団欒として描かれる『蜂蜜』の食卓は、やがて喪失を覚え、

     ミルクを飲むという通過儀礼の場所となるだろう。

     『ミルク』では、互いよりもテレビを観ている母と息子だが、

     食卓で慈しみを確認する会話もまだあった。

     しかし、その食卓におかれた二つのカップを見たユスフ。

     豪華な夕食で彩られた食卓で独り待つ母の元にユスフは来ない。

     やがてユスフは母から離れ、二度と食卓を共にすることはなくなった。

     そして、『卵』のラストは母の「忘れ形見」である娘と食卓で向かい合っている。

 

   *その『卵』のラストでは(エンドロールに入ってからも)雨の音がしている。

      いずれの作品でも、雨の音がしばしば印象的に鳴っている。解釈未遂だが。

 

   *どの作品にも動物が印象的に登場する。(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン作品を想起)

      『蜂蜜』では白馬や鷹。『ミルク』では蛇やナマズ、水鳥。『卵』の羊や犬。

      『蜂蜜』の終盤、授業で女の子が読むテキストの内容が興味深い。

      「すべての動物は食べ物が必要です」

      人間が生きるために利用されたり犠牲にされる動物たち。

      そして、それを同じ種同士でおこなう動物、人間。

       しかし、その犠牲を自覚し、弔ったり贖ったりできるのも人間。

 

   *《夢》の存在(現実との交錯)が、『蜂蜜』では見事に描かれる。境をもたず。

     夢の話は他の人に聞かれてはいけないからと、小声で話すよう促す父。

     夢でみた幸福な家族三人の様子を声を落とさず話した母。

     『ミルク』でユスフの詩が掲載される雑誌のタイトルは「夢」。

     『蜂蜜』でユスフは、母が彼と一緒に来たかったという湖を訪れ、

     母の願った羊を生贄にする儀式を遂行する。母の「夢」を叶えるため。

     かつて理解を拒んだ母の夢(再婚?)への償いも、感じたりしたのだろうか。

 

   *いずれの作品でも印象的なのは、もしかしたら光より闇かもしれぬ。

      いや、闇のなかの光なのかも。

     『蜂蜜』ではユスフが部屋の電灯を点けたり消したり。

     そうしたなかでも変わらず灯り続ける暖炉の火。

     影に満ちた屋内から光溢るる窓外戸外を眺める画も多い。

     『ミルク』ではやはりラストの光。光を失ったユスフ。

     自らに注ぐ光はなく、常に光の背後に存するしかないユスフ。取り巻く闇。

     『卵』では停電が起こる。そこに灯る美しきローソクの火。

     ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの光のように。

     しかし、最も美しい光は水面に映る月あかりかもしれない(『蜂蜜』)。

     絶対つかめない、その光。

 

     また、光の存在をここまで豊かにとらえうるフィルムの魅力を

     再認識せざるをえない。かつて、写真が「光画」と呼ばれたことを思い出す。

 

共通性というわけではないが、或る種の継承も見受けられる気がする。

『蜂蜜』でユスフの隣の席の友人は、『ミルク』に出てくる詩を読む作業員では?

そのように私には思え、幼き日の気まずさやその後の微かな労わり交わす姿が、

『ミルク』における束の間ながら交わされる友情の光景とつながり、じんわり。

『ミルク』の書店で出会う少女と『卵』のアイラは、同じ女性が演じている。

『ソフィアの夜明け』で印象的だったサーデット・ウシュル・アクソイが。

彼女のデビュー作が『卵』だったらしい。

 

◆タイトルには必ずセミフ監督なりのこだわりがあるのだろう。

   私なりに拘ってみたい読みとしては、生と死によるリレーとでも言えようか。

   蜂蜜は、外から集めてきた生命の源。

   ミルクは、内から流れ出た生命の源。

   卵は、産み落とされた生命そのもの。

   しかし、それもまた何物かの生命の源。

   そして、そのいずれもが、各作品で消失するさだめでもある。

   『蜂蜜』では蜜蜂が消え、『ミルク』ではミルクが散乱し母の存在を消そうとする。

   『卵』では序盤に卵が落とされ割れる。しかし、そのどれもが最後に食卓に集う(?)

 

◆主人公が詩人になる話なだけに、当然「言葉」も重要なテーマの一つ。

   『蜂蜜』では吃音に悩むユスフ。小声と親密で癒そうとする父親。

   他の人に聞かせなくて好いという教え。言葉とは、他者との交信の道具でもあり、

   そのために必要な一義性や共有性が個人の内的現実を抑圧するものでもある。

   だから、幼少のユスフは「外から与えられ」「外に届ける」ための言葉を拒む。

   そして、成長したユスフは詩の言葉を手にすることで、内的現実を固持するだろう。

   しかし、それはやがて他者との交信を拒絶する側面を助長してしまいもする。

   『卵』のラストにおける幸福な食卓。そこで交わされる、言葉のようなもの。

   それは言葉そのものかもしれないし、ほころぶ表情かもしれないし、

   雨や樹木といった自然の音かもしれない。

   五感すべてに言葉があふれてる。

   この映画、そのもの。

 

 

◇とにかく、こうしてユスフ三部作を一挙に観る機会を得られ、幸福このうえない。

   川崎アルテリオでも、キネカ大森でもチャンスはあったのだが、スケジュール合わず。

   おそらくしばらくないであろう、ラストチャンス。

   これほどフィルムの美に陶酔しきれる時間はそうそうない。

   早稲田松竹で13日まで。

   但し、極めて「独特」な作風であるゆえに、そこを理解のうえ観賞を。

   私が観たとき、『ミルク』のエンドロールが終わるやいなや即座に出口へ向かい、

   私の横を通りすぎながら「金かえせ」とかなり大きな声で呟く婦人がいた驚愕。

   周りの凍りついた空気。これもまた、本作のもつ力の所以と解したい。

   という、人によってはどこまでもどこまでも肯定に突き進むほどの魅惑な作品。

 

◇『卵』を観なおすなかで、一度目にはあまり意識できなかった小津の影響が、

   とてつもないほどに随所にあふれていることに興奮した。

   しかも、ユスフ三部作のまえに早稲田松竹でかかっていたのは小津2本立。

   このあまりにも幸福な巡りあわせ(粋な計らいだったりするのか?)は豊饒すぎて、

   年始早々末恐ろしい(笑)  とにかく『卵』では執拗なまでの凝視と奥行がある。

   しかも、人物を絶対に(と言っていいほど)並置しない。移動は必ず手前と奥。

   映画の冒頭からして、そうした表明で幕をあけるのが『卵』と『ミルク』。

   (だからなのか、私のなかの印象記憶は、二作ともスタンダードサイズ。)

   そして、撮影監督が変わったこともあってか、『蜂蜜』ではそれらのビジョンが

   更なる換骨奪胎を経て、愛すべき佳作から愛さねばならぬ傑作へ。

 

 


撮影監督クリストファー・ドイルの仕事

2011-07-19 20:42:46 | 映画

 

日本に入ってこない作品も多いものの、

近年もクリストファー・ドイルはお仕事をバリバリなされているようで。

今月公開された『海洋天堂』が彼の撮影した作品だったこともあり、

ついでに昨年公開された彼の仕事(『Ondine』と『Passion Play』)を続けて

確認してみた次第。

 

海洋天堂(2010/ シュエ・シャオルー)

 

先日、たまたま時間が空いたので、当初は観賞予定外だった『海洋天堂』を観た。

ジェット・リーが出ていることと物語の簡単なプロットくらいは知っていたものの、

撮影がクリストファー・ドイルで音楽が久石譲という、ミーハー映画ファン(そう、私です)には

注目要素がふんだんで吃驚。確かに、ウェルメイドに仕上げられてる印象を終始実感。

しかし、作品全体としては、あまり心動かされることがなかったのも正直なところ。

そうした感想には、おそらく個人的な経験が影響しているとも思われ、

果たしてそれが「正しい」感慨とは思えず、語るのが難しい。

 

余命幾許も無い父(ジェット・リー)が、

成人したものの自活は厳しい自閉症の息子のために、

死ぬまでに何ができるか。そういったお話なのだが、描き方が「美談」すぎるように思えた。

その理由は前述の通り、個人的な経験からなのだが、その経験も中途半端・・・

ほんの5日間だけ、知的障害者向けの入居施設で実習をしたことがある。

たったそれだけの経験から「美談」とか言い放つのはあまりにも独善的。

本作の監督は14年間も自閉症施設でボランティア活動をしてきたというし。

だから、これはこれで誠実な描き方なんだと思う。

しかも、最後には「わが子を愛するすべての親に捧げる」的な献辞も現れ、

本作が自閉症の息子をかかえた父親の特別な愛情ではなく、

どの親にも共通して見られる普遍的な愛情を描きたかったのだとわかる。

しかし、ならば、なぜこのような設定が必要だったのだろうか。

息子が自閉症であったり、片親であったり、父親は末期癌を患っていたり・・・。

更には、都合よく(見えてしまう)配されている周囲の人々の一途な優しさも然り。

社会があまりにも優しすぎるように思えてしまい、それゆえに肝心な親子が逞しく見えない。

あんな環境なら、冒頭で無理心中しようとした父は随分と脆弱に思えてしまう。

いや、ああいう状況で彼らのああした選択しかないように思う切迫感は現実的だろう。

しかし、作中を観ている限りでは、そうした彼らの痛みや苦しみ、絶望などは

伝わり難いように思えてしまう。私が、「行間」を読めていないだけかもしれないが、

制度の整備不足や多少の不寛容(バスの乗務員など)は垣間見えはするものの、

精神に支障を来した者へ見せる社会の反射的な拒絶は余り描かれていないように思う。

勿論、そこに制作者の本意などはないのだろうが、こういった題材を扱う以上、

そうした社会の基底となる思想や実態はきっちりと描くべきだと私は思うし、

避けてはいけないとさえ思う。そうでないと、あらゆる設定が「感動」のための記号の如く、

私の眼には映ってしまう。そう、それは確かに私の思考(嗜好?)によるものかもしれない。

なぜなら、私が同様の印象で観終えた『ディア・ドクター』を、本作の監督は大学の授業で

取りあげるほどに感銘を受けたと語っていたから。本作に対する見解も、

私が「世間」からズレているだけなのかもしれない・・・

まぁ、ジェット・リーがアクションしてなかったり、ノーギャラだとか聞いたり、

久石譲の泣き旋律流れまくりだと、俺みたいな人間はそれだけで構えちゃうしね。

 

でも、クリストファー・ドイルの起用はどのような意図だったのだろう。

どちらが先に撮られたかわからないが、公開順では本作より先の『Ondine』(後述)では

美しい緑と紺碧の世界にグレイを重ねて精緻に収める職人芸を披露していたドイルは、

本作では淡く明るい青の世界で画面を埋め尽くす。しかし、それがどこかファンタジックで、

それはこのような物語には(私にとってはご法度な)甘美な語りを付加してしまう。

しかし、(誰の意図かわからぬが)そこに明らかに異質なものが終始混入している。

それが父がいつも背負っているリュックの「赤」だ。

そして、それはラストで息子へと引き継がれていく。

「赤」ということは、「血縁」でも表しているのだろうか。

だとするなら、血の繋がった親子の情を、絆を表現するにはもってこいだが、

彼ら父子を支えてきたのも、これから息子を支えていくのも、

むしろ非血縁的な絆ではなかろうか。

まぁ、その「赤」にまつわる解釈は完全に自作自演な展開だけどね(笑)

 

とまぁ、個人的には消化不良に終った(でも、丁寧につくられた良作だとは思います)し、

実はひそかに楽しみにしていたグイ・ルンメイ(『藍色夏恋』「遠い道のり」『言えない秘密』

といった個人的佳作に多数出演!)が微妙な扱いだったり、ジェイ・チョウの主題歌が

やたらと泣ける感じだったりもして(それはそれで模範的なんだけど)、

ドイル画をすっきり堪能しきれずじまいだったので、

リベンジすべく『Ondine』。

 

 

Ondine (2009/ニール・ジョーダン)

 

本国では2009年公開、アメリカ等では2010年公開だったようだが、

今春観賞した輸入ブルーレイで、何度か本作の予告編を立て続けに観て

(海外ソフトでは、日本でのレンタルもの同様、自動的に冒頭で

他の作品の宣伝が流れたりすることが結構ある)以来、

気になって入手し、そのままだった。

最近は、『HUNGER』や『Flipped』のように、

日本での公開に絡めて自主上映企画を立ち上げることで

積観の山を少しでも切り崩していくようなサイクルが出来つつあるな・・・

 

で、本作に関しては、なぜ未公開のまま終っているのかが不思議でならない。

というのも、昨年の東京国際映画祭の審査委員長はニール・ジョーダンだったから。

前年に完成・公開した最新作が未公開&公開予定なし&映画祭上映もなし、

の状態で監督を審査委員長として招聘するのって、失礼と言うより不自然。

現に、2009年に審査員を務めたイエジー・スコリモフスキなんかは前年にTIFFで

審査員特別賞を受賞した『アンナと過ごした4日間』の公開が控えた段階での来日だった。

ということは、実は『Ondine』も何かしらのかたちで公開される計画があったのだろうか。

一般公開は難しかったとしても、監督の来日にあわせてTIFFで上映することは?

やっぱり何か事情があったのだろうか。

 

ただ、作品を観た限りでは、内容的に問題になりそうなところはなかったように思う。

むしろ、音楽がキャルタン・スヴェインソン(シガー・ロス)だったり、

主人公(コリン・ファレル)の娘役の女の子は可愛いし、

ヒロインのアリシア・バークレーダは綺麗かつ十分エロいし、

いろんな需要を喚起できそうな要素もつまってるんだけど。

 

ただ、観終わってみると、観賞前に抱いたようなインパクトはなく、

物語も思いの外、淡々と進み、結末も衝撃的なわけでもないので、

「エキサイト」が求められる昨今の洋画志向からはやや遠いかも。

それに、オンディーヌとは「水の精霊」の名らしいのだが、

そうした神話や伝承がベースにある話しというのは、

日本人には如何せん取っ付き難いし、わかり難い。

かく言う私も例外ではなく、スムーズに入っていき難いところもあった。

単語レベルでも、辞書に出ていない言葉がしばしば出てきたりとかあったし。

たしかに、アイルランドの映画賞では8部門ノミネートで4部門受賞という好成績ながら、

国際映画祭なんかでは、それほど話題にならなかったみたいだし(上海国際映画祭2010で、

クリストファー・ドイルが撮影賞は獲っている)、ローカル色が強いのも事実みたい。

 

『海洋天堂』が色のあわい(淡い/間)の雰囲気が全篇漂っていたとすれば、

本作では恋がテーマなだけあって、濃い(笑)

黒味の強い画は引き締まると共に、全体に漂う陰影が実に神秘的。

おまけに、ノスタルジックなアンビエントといった趣のキャルタンのスコアが絶妙にマッチ。

ちなみに、『海洋天堂』と同様、本作でも唐突な違和感で混入してくる「赤」がある。

オンディーヌを連れ戻しにくる男の乗った船の「赤」と、娘が透析する際に管を通る「血」。

『花様年華』は赤三昧だったり、『HERO』にも赤パートあったけど、ドイルは基本的に

「赤」に何らかの神通力を見出したりするのだろうか・・・。それとも、偶然の一致!?

夜のシーンや物(人)越しに捉える場面が多く、遠近表現や遠近感を増幅させる

フィルム&劇場の上映をやっぱり体験したいと思わせる逸品。

こうなったら、EUフィルムデーズ2012にでも期待するしかないな。

 

 

Passion Play (2010/ミッチ・グレイザー)

 

本作のタイトルは「キリスト受難劇」を意味するのだが、

皮肉なことに、本作の末路がまさに受難そのものという・・・。

作品に関して知ろうと思って検索しても、主演のミッキー・ロークが本作について

「駄作」呼ばわりした記事と、それを反省して「謝罪」した記事ばかりがヒットする・・・。

IMDbもロースコア、限定公開をひっそり経て(事実上ほとんど)DVDスルー状態だった本作。

撮影がクリストファー・ドイルで、本企画(って、勝手に一人で立ち上げただけじゃん)もなく、

タイミングよく本作を借りることなどできなければ、WOWOWでやってても観なかったかも。

ちなみに、ミッキー・ロークは本作をこき下ろす際に、『ロシアン・ルーレット』も道づれにして

語ったらしい(やっぱりね)。ちなみに、リス・エヴァンスが出てるの観てる間気づかなかった。

ビル・マーレイなんか、それこそ『ロシアン~』のミッキーばりに無駄遣い。

イメージ的には『リミッツ・オブ・コントロール』のラスボス想起で、一瞬面白かったけど。

 

監督は『大いなる遺産』『リクルート』の脚本家で、本作が監督デビュー作。

可哀想に、デビュー作が引退作とは。(決めつけ、酷い&何様>俺様)

でも、大のオトナが、翼のはえた女性を真剣に奪い合う様を

真剣に映画として撮ろうとしている様子を想像するだけでも、

或る意味かなりシュールなコメディかもしれず、見方さえ変えれば、

笑えぬ駄作から笑わずにはいられぬ(しかし、どこか胸が痛い)怪作くらいには化けるかも。

 

クリストファー・ドイルなんかは、シネスコに意気込んで(推定)、

横への移動や位置関係を重視した構図、人物配置とその流動性にかなり敏感だったのに、

さすがに見えもしない翼(CG)とかを核に物語を進めたがる展開には辟易したのか、

翼が主になるシーンには明らかに「俺、知らねぇ~」感が滲み出てる気がする。

というか、作中のヒロインをとりまく人物たちが皆抱く疑問(この翼、ホンモノ?)を

観ているこっちにも抱かせるような安っぽい(=ウソっぽい)CGってどうなのよ・・・。

まだ、「つくりもの」を実際に付けた方が・・・。

 

『海洋天堂』および『Ondine』では、水にまつわる撮影が実に多かったドイルが、

本作では天空へとその視線を移動させようとしたわけだが、作品はまったく飛翔できず。

 

しかし、ドイルのおそるべきヴァイタリティ&チャレンジ精神!

公開待機作には、日独合作ピンクミュージカル『おんなの河童』(いまおかしんじ監督)が!

シネマトゥデイ記事より)

おまけに、その『おんな河童』ブログのトップページには・・・

自身のプロフィールに負けぬ、ボーダーレス人生に感服。

 

ちなみに、9月17日公開予定の『ラビットホラー 3D』(清水崇)の撮影も担当。

とりあえず3D撮影の経験を積みたかったのかな。そのへんも意欲的だわ。

 

昨年公開されたドイル撮影作品はもう一本あって、それはスタンリー・クワンの新作。

スタンリー・クワンの作品はめっきり日本に入ってこなくなってしまったけど

(凄まじく退屈だった『異邦人たち』が最後かな?だとすると、もう10年新作日本公開なし)

やっぱりゲイテイストとかが増してて、入ってきにくくなっているのだろうか。

新作は昨年のヴェネチアにコンペ外ながらも出品されているようだし、観てみたいけど。

(ある記事ではミュージカル・コメディーだと紹介されていたので、尚更日本公開不向き?)

 

 

 

 

 


マイ・プライベート・ソダーバーグ

2010-08-18 01:34:12 | 映画

先月にシネマライズで公開されたソダーバーグの新作(2009)と旧作(2005)。

全然話題にならなかった気がするのだが、これは固定客がいないということなのだろうか。

渋谷で見損ねたので、先週そして今週と吉祥寺バウスシアターのレイトで観賞。

観客は、『ガールフレンド・エクスペリエンス』10数名、『Bubble』4名という状況。

評判も全然聞こえてこないので、観るのも迷ったが、

予想外に面白く観られた『インフォーマント!』で、ソダーバーグと復縁(?)した身としては

(ちなみに、チェ二部作で一度離縁しました(笑))、興味を断ち切ることもできずに

足を運んでしまったというわけ。

 

 

◆ガールフレンド・エクスペリエンス 

Photo                                                                       

       

            

           

              

              

                 

公式 http://www.tfc-movie.net/girlfriend/

 

主演のサーシャ・グレイ(Sasha Grey)は、現役のポルノ女優。

1988年生まれにも関わらず、既に輝かしいキャリアの持ち主。

18歳でAV業界にデビューし、「アダルト界のオスカー」と呼ばれる(らしい)

AVN年間最優秀主演女優賞を2008年には受賞。

American Apparelの広告モデルに起用され、スマパンのPVなどにも出演。

更に驚くのは、PETA(国際動物擁護団体)の広告モデルまで務めてるんだとか。

自らプロダクションまで起ち上げ、自身で監督作も発表する(した?)らしい。

そして、「現在までに180本以上のハードコア・ポルノに出演」している。

今後も、ジャンルや活動はボーダレスに「パフォーマンス・アート」として活躍したいとのこと。

これだけの経歴を耳にしただけで、興味深く思ったのだけれど、そのような情報だけでは

真の実力者なのか、メディアがつくりあげたマスコットなのかが判然とせず、

そんな彼女の実力(というより魅力か)を確認するために劇場へ。

 

彼女の魅力だけに関して言えば、「脱衣」あっての「着衣」なのかな、とも。

「12歳から18歳まで演技のクラスに通っていた」とか「大学で映画の勉強もした」

と語るサーシャは確かに、それなりにこなれた演技をしているのだが・・・。

そもそも高級エスコート(要は売春)を生業としているチェルシー(サーシャ・グレイ)にとって

仕事中は常に演技中。

しかし、恋人と同棲しているプライベートもある。

ところが、こちらもどこか演技中。

そして、「演技しない自分」には誰も魅力を感じたりしない(高額な代償を払わない)

という認識で、自己の実人生を割り切りながら生きてきた。

「演技」への対価として金銭を受け取るという意味では、

エスコートも、ポルノ女優も、映画女優も同じかもしれない。

しかし、演技の目的やそれと自己との関わり方には大きな差異があるだろう。

そして、その微妙な差異を繊細に演じ分けるのか、繊細なままとりとめもなく映し出すのか。

今回のソダーバーグが選択したのは後者であり、それは或る意味

ドキュメンタリー的手法への志向を示した結果かもしれない。

従って、ソダーバーグにとって、サーシャがどのような演技をするかが重要なのではなく、

「彼女(サーシャ)である」ことの方が、キャスティング段階も撮影中も

最重要課題だったのではないか。

実際、サーシャが演技しようという努力や真摯な姿勢は見える。

しかし、それが見えてしまう(観客に伝わってしまう)ということは既に、

そこにある種の不自然さがあるわけだ。しかし、その不自然さが独特の空気をつくる。

それは、フィクションにおける演技の不自然さがうむ綻びとも捉えられるが、

そもそもチェルシーの仕事が生活が、フィクションとしてあることを前提にして成立する以上、

それは極めて切実なアクチュアリティとして訴えかける力を持っているようにも思える。

ソダーバーグが、チェルシーのそうした虚無感と、そこから生まれる他者を求めるという

シンプルな回帰を描こうとしたのであれば、サーシャをキャスティングした時点で

あらゆる成功の要素を揃っていたのかもしれない。

「チェルシーを演じるサーシャ」がどのような演技を見せようとも、

サーシャの人生を知ったうえでチェルシーを見守る観客には、

「正しく曖昧な行間」が広がり続けるしかないのだから。

 

よって、映画女優としてのサーシャ・グレイは、好くも悪くも「未知数」なのかもしれない。

そして、ソダーバーグの狙いは、そこにあったのかもしれない。

同じ役をある程度の経験を積んだ、もしくは演劇へのヴィジョンが確立した映画女優が

演じたとしたら、この映画の醸し出す「あいまいさ」は得られなかったかもしれない。

相手役の男優も今回が映画初出演のようだが、そんな彼も含めて、

二人のある種の「つたなさ」が、むしろ彼らが発する言葉や仕草の真偽を

極めてボーダレスにしている。そして、そこに、束の間ですら幻想ですら「本当の自分」を

見出せない泥沼から目を背けるためだけに「とっておき」たい「確かな空間」。

それが、二人の「ごく普通の暮らし(同棲)」だった。

それを、「偽り」だとか「欺瞞」だとか呼ぶことは容易いし、実際そうでもあるのだろうが、

それはそれで一つの「素直」がうみだした日常であり、確かな現実であるようにも思えた。

だからこそ、歯車が狂い始め、すれ違い、どうなっていくのかが

彼らにも僕らにもわからなくなったとき、この映画は完結することのない「一部」となる。

しかし、その「一部」がなければ、個人の一生も、組織も、国も、世界も、「全体」はない。

とはいえ、「一部」が孤立したままでは、「全体」もない。

 

いまや、世界経済は歯車が密接に組み合わさった運命共同体になりつつある。

リーマンショックにしたってアイスランドでの噴火にしたって、陸地は続いてなかろうが、

見えるか見えないか知ってるか知らないかに関わりなく、影響は降ってくる。

時折挿入される、当時の社会状況(リーマンショックの余波や大統領選挙など)は、

それこそが「全体」を動かし、そしてその「全体」に「一部」が動かされるという

社会の摂理を示すと同時に、一方でそうした流れや論理があくまで人間という生き物には

かならずしも機械的には当てはまらないということを示唆してくれているようにも思う。

計画や計算は、それが例え勝算続きであっても、するだけ虚しいこともある。

結局根底で求めてしまうもの、守ろうとしてしまうもの、それは計算から最もかけ離れた存在

である(べきだと考えられている)「家族」なのかもしれない。

そして、確かな拠り所をもてない個人にとって、

そうした「家族」と天秤にかけられた際の焦燥は、

その敗北と共にいよいよ止められないものとなる。

そう考えると、「都会の孤独」というものは、「家族」というシステムを維持するための

一つの段階に過ぎないのだろうか。

 

チェルシーが誰よりも独立独歩で凛として生きていくだろうと勝手に期待した観客に、

彼女が見せた失意の表情は、あくまで一つのエクスペリエンス(人生の「一部」)なのか。

それとも、彼女の人生「全体」を示唆するエクスペリエンスなのか。  

 

 

◆Bubble

Bubble (2005) [DVD] [Region 1] [US Import] [NTSC]

『ガールフレンド・エクスペリエンス』で感じた心地よい違和感が、

その原型として、よりリアルで新鮮な喜びが聞こえるかのように、充満していた。

 

ショベルカーが砂をすくいげるショットから始まり、

シネマスコープが田舎の寂寥を生々しく映し出す。

結局、都会でも田舎でも、ひとりの人間にとっては吸収しきれない空間であり、

それが包み込まれるかのような都会に比べ、何もしてくれない田舎は、

「埋められる」ことで誤魔化す術の存在を知った者(都会人or都会に価値を見出す人間)には

いつまで経っても内側が空虚なままで、それを投影したかのような外側の空虚さに

幻滅し続け、幻想を見続けてしまうのかもしれない。

 

『ガールフレンド・エクスペリエンス』でも、リーマンショックや大統領選挙などの社会状況が

登場人物たちの動向や心理にどことなく繋がりをもつような示唆がなされていたが、

今作でも、テレビのニュースで「定年間際の多くが健康保険に未加入」というような

報道がなされていた。 舞台となる田舎町でも、教会に行けば老人ばかり。

華やかな仕事も、華やかな目的も叶うように「思えない」町。

 

自己犠牲(父の介護)とコンプレックス(容姿)と依存的性質(食欲)に、耐える女マーサ。

 

人の多い場所ではパニック起こし、一見繊細そうだが無目的で不感気味なカイル。

 

地元に常に不満をもち、退屈さに抵抗するのか利用するのか、欲望暴走型のローズ。

   

同質な虚無感で友情を育んでいたカイルとマーサ。

異質さゆえの憧憬の萌芽をカイルにもたらしたローズ。

 

2歳の私生児がいるのに、赤ん坊の人形をつくる工場に勤めるローズ。

その人形の奇妙さは、随所でクローズアップされるのだが、

エンドロールでのゴス(goth)調にメイクされた人形の気味悪さは、

この映画全体に漂う「違和感」(しかし、実は誰しもが秘めてる善意と表裏一体の悪意)を

見事に表現していて、魅了されるものがある。

 

(以下ネタバレ含む) 

カイルとローズは喫煙者。マーサは非喫煙者。

バイト先の喫煙所。独特の親密さがうまれる場所。

学生時代は非喫煙者であった自分(今はまた非喫煙)には、

その「神聖領域」に近づけない疎外感を、たびたび味わった。

いや、そんな深刻に受け止めたことはなかったが、

「吸わない=健康的=禁欲的=或る種の正しさ」といった感覚を

持ってしまいがちになるわけで、そこからは何らかの選民思想が生まれる可能性がある。

そして、それはどちらに属そうがあり得るわけで、喫煙ルームとの間にある壁は

(それがガラス戸であるところが何ともいえず欲望の複雑さを象徴するかのよう)

容易に越えられるものであるがゆえに(一度した自己決定の重さも作用しつつ)

結局自ら打ち破ることはできない。

「絶対に越えられない」塀の中へと導かれることも知らずに。

 

作中で一見最もイノセントな存在はカイルであるが、

実は最も奇異で、最も末恐ろしい存在でもある。

両腕に入れたタトゥーは「左右対称」であると嬉しいそうに語る。

ローズの死(しかも殺人)を知らされたときの無表情どころか軽い笑み。

(ローズとは軽く挨拶を交わした程度のカイルの母親の方が驚いている。

母親は、カイルの反応にも更に驚いているような様子。)

ローズが消えた後も、特にショックをひきずるような様子も見受けられない。

将来に対する不安を抱えているようにも見えない。何なんだ、この青年(少年?)は・・・。

 

それに比べれば、盗癖があったり職権濫用したりするローズや、

殺人まで犯してしまうマーサにしたって、自分の気持ちに忠実な「だけ」なのかもしれないし、

暴走する欲望が「ある」だけまだマシなのかもしれない。

カイルには、そうした欲望すら枯渇気味なのだ。

 

ローズの出現で萌芽した「欲望」ですら、対象の存在(の質量)が消えうせた途端、

「・・・なら好いや」的に消滅してしまったかのよう。

執着などというものは当然ないし、彼の感情には上り坂も下り坂もない。

決意や矜持に支えられながら汗水垂らして上ることも、

ブレーキかけることも忘れて下り続けることもない。

とにかく、フラット。その平坦さが怖い。

平坦さに抑揚を些細ながらも求めていた(だから、慎ましい生活にも耐えられた)マーサや

平坦さを憎み抑揚ばかりを求めて彷徨っては軽く不義を外れてみていたローズの方が、

よっぽど「人間らしい」のかもしれない。

 

「生」への執着すらも「べつに・・・」なカイル。

赤ん坊の手足がバラバラに山積みされてる異様な光景のなかで

平然と淡々と僅かなバイト代のためだけに労働し続けられる秘訣なのかもしれないが。

 

時折流れるギター一本による劇伴が、いい塩梅で虚しく響く。

ムーディーでアコースティックなギターでもなく、

情熱的で高揚感を煽るギターでもなく、

失くした感情の行き場を不安定に探るようなギターの音色。

音楽は、Guided By Voices の ロバート・ポラードが担当しているらしいのだが、

過不足ないスパイスとして、今作にベストな仕事。

 


タル・ベーラ と ホセ・ルイス・ゲリン

2010-08-15 23:49:41 | 映画

 

Photo 

  ブログ開設1本目の記念すべき作品は、

  『シルビアのいる街で』にしようと思い、

  ついでに比較検討できる一本、

  或いはお盆のゆるい時間の内でこそ敢えて集中できる一本

  を観て、そこから『シルビア~』を考えるヒントでももらってから

  書こうと思い・・・。

 

 

 

そこで、選んだのがタル・ベーラの日本未公開作『Damnation』。

『倫敦から来た男』を観た直後に、海外から取り寄せたDVDなのに、

届いたその日に最初のシークエンスにしびれまくったまま、全篇観るのは今日が初。

 

 

英語字幕で観なきゃならないストレスも忘れるほど(それはウソだけど、ただそのくらい)、

無我夢中な没入感で満たしてくれる、まさしく唯一無二な世界の提示。

おかげで、オシャレ感とシネフィル臭とクレバーなフレーバーで幕を開けるはずのブログが

(つまり、『シルビアのいる街で』を詩的[私的?]にサラッと語ってしまったりする感じ)、

いきなり、「DAMNATION(=地獄へ堕ちること・天罰・非難)」から始まってしまうことに。

ストーリーはシンプルで、不倫していた男女の別れ話。

家庭を選択した女性にしつこくつきまとう中年男性。

中心の筋は、ただそれだけ。(だと思う。)

そのストーキングぶりや執念深さは、確かに『シルビアのいる街で』に通ずるものがあり、

最初は「これは好い組み合わせだな」などと内心思いながら観始めたのだが。

そのうち、共通性よりも対照性の方がより際立ってきてしまい、一緒に語るのを断念。

ただ、その対照性は各各(タル・ベーラとホセ・ルイス・ゲリン)の作家性を考えるうえで、

非常に有効な観点になりうるとも思い、比較しながら『Damnation』を振り返ってみたい。

(というより、この比較ポイントがあったからこそ、最後まで集中して観られたかも)

 

まずは、共通性を感じるところは何と言っても、「画」と「音」への執念。

しかし、そのアプローチには、微妙ながらも確かな差異がある。

タル・ベーラが全てを自らの管理の下に、自らの完璧な設計で構築されるのに対し、

ホセ・ルイス・ゲリンは、フィクション<必然>とドキュメンタリー<偶然>の綯い交ぜを模索する。

(それは「画」以上に「音」の設計にあらわれている気がする。

 そして、そこがゲリン愛好家にもタル好きが少なそうな気がする一因でもある。

 ・・・「タル」と書くと「タルコフスキー」みたいだし、「ベーラ」だと「シネマヴェーラ」っぽい・・・)

いずれにせよ、私がこの両名に魅了されるのは、

彼らのフィルムには〈必然〉も〈偶然〉も凌駕した世界の実相が映し出されている

ように感じてしまうからかもしれない。

両作家ともにみられる綿密さは、偶然を排除しようとも、偶然に恋焦がれたとしても、

そこにはあくまで「流動的」「多元的」な世界が提示されようとしているのではないだろうか。

インタビューで自作の意図や解釈の詳細を語りたがらない姿勢も共通している。

その一方で、映画と観客の「自由」な関係を切望しているように思う。

タル・ベーラは以下のように答えている。(DVD『Damnation』封入ブックレットより)

「作品を観た人の意見は、どれもが重要に思う。

(中略) 誰もが異なった文化的背景や社会的背景を持っていると思うが、

誰もが魂や感情を持っているのだから、そこに訴えることはできるはず。」

と述べる一方で、「だからといって、全ての観客のために撮ろうとは思わないよ」とも。

ホセ・ルイス・ゲリンも、「映画というものは観客の視線にとって開かれた空間であるべきだ」

と語っている。(http://www.outsideintokyo.jp/index.html インタビュー記事より)

 

タル・ベーラはインタビューの中で、テオ・アンゲロプロスとの類似性を指摘されているが、

(タル自身は「あまり本数は観ていないが、『旅芸人の記録』は素晴らしい」と言及)

アンゲロプロスの緻密さは、解釈を見事に収束させるだけの力に導かれていくように思う。

しかし、タル・ベーラは「制作の最中に、論理的思考なんていちいちしちゃいない」と語り、

日常においても「実際上の問題があるだけだ」と言い切ってしまう。

アンゲロプロスは寸分の狂いもない確かな技巧で残酷な迄にも美しい叙事詩を書き上げ、

タル・ベーラやホセ・ルイス・ゲリンは「あらゆる可能性」を内包した散文詩を綴る。

つかみどころのない「映像表現」ゆえの、豊かな可能性を感じる。

 

タル・ベーラは、「なぜ白黒か?」という問いに対して、

「ロケでは色まではコントロールすることができないから」という主旨の答えをしている。

(カラー作品では、「全シーンが屋内で、セットで撮影し、すべてをコントロールした」とも。)

一方のホセ・ルイス・ゲリンは、作中何度も映る印象的な落書きを「自分で書いた」という。

見事に構築された世界の中に、ただの「行間」は存在しない。

そこには無限に広がる「間」があるのかもしれない。

そして、そんな「奥」に手が届きそうで届かない。きっと永遠にふれられない。

ホセ・ルイス・ゲリンは、小津作品への敬愛や日本文化への関心をインタビューでたびたび

言及している。タル・ベーラは、日本文化への関心が特に高いといった情報は知らないが、

東京国際映画祭で来日した際に鑑賞した能の舞台に関しては(事前にかなり勉強してきた

らしい)、随分と憤慨して苦言を呈したことがあるとどこかで読んだ。

また、『Damnation』以降の脚本をすべて担当しているクラスナホルカイ・ラースローは、

京都を舞台にした小説(『北は山、南は湖、西は道、東は川』)を書いているほどの親日家。

日本人には彼らのセンスを自然に受容する精神的土壌がある(残っている?)

のかもしれない。

 

ここまで、『Damnation』の内容に全く触れていないことに今更気づく。

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冒頭のシーン(画も音も)がとにかく印象的。

ゆっくりと動くロープウェー。人ではなく、石炭か何かが入ったゴンドラ(?)が行き交う。

静かに響く轟音。それを見ている主人公の男の後頭部がフレームに入ってくる。

タバコの煙が、美しく立ち昇る。

次のシーンで男は鬚を剃る。画面に響き渡る、顕微なその音。

タル・ベーラの現在の作風は、この『Damnation』から確立されたらしいのだが

(それ以前は[タル自身も敬愛する]カサヴェテス風の作品もあったらしい)

『ヴェルクマイスター・ハーモニー』や『倫敦から来た男』にしびれた者はおそらく

このオープニングでもう全面降伏、ときめく2時間弱のはじまりはじまり。

そう、上映時間が日本公開作2本より短いことからも察しがつくかもしれないが、

ストイックな度合いは若干緩め。テンポがやや「ある」。

台詞にも、心情を直接吐露したものが近作よりも多い気がした。

 

オープニングで移された「ロープウェーで行き交う貨物(鉱物?)」は何度か登場する。

なかでも衝撃を受けたのは、不倫関係にある二人がベッドを共にした後、

格子窓の隙間から眺めていると、冒頭で多くのゴンドラが行き交っていた光景が

まるで異質な光景へと変貌する。ゴンドラへとズームしていった視界に入るのは、

ほんの1・2台のゴンドラ。しかも、そのゴンドラ間の距離は非常に長く見える。

2台のゴンドラが同じ画面におさまる時間の短いこと。

そして、距離が縮まることはない。

バーの場面でも、皆が口を噤み物憂げな表情で「孤独」が集合している空間が映される。

タル・ベーラの作品には、肯定も否定もしてくれないが、

ひたすらつきつけられる「孤独」が存在するように思う。

この映画のラストに出てくる、独りで雨の中や宴の後にタップのような踊りに興じる男や、

宴において皆で手をつなぎ輪になって踊る様子なども、

やはり「孤独」を描き出しているように思える。

主人公は「老い」から来る焦燥感も口にしていた。

ロープウェーは、遠くから見れば「にぎやか」で「つながっている」ように見える。

しかし、近くに寄ってみれば、いつまでも「交わらず」「近づかない」孤立が浮き彫りになる。

人間関係そのもののようである。近づくほどに距離を感じる。

「壁」が見えてくる。

 

スコリモフスキ(同じ東欧出身)は、『アンナと過ごした4日間』について語る際、

「人と人の間に築かれている壁」について言及し、

それ故につながりたいと思う親密な感情の必要性について語っていた。

(今作とはアコーディオンつながりでもある。)

 

昨年の東京国際映画祭で観た『牛は語らない/ボーダー』(アルメニア)でも、

「壁」(この場合は、主に国境)の存在が、生きるための「連帯」すらも断ち切る現状を

言葉もなしに(牛が主役だから当然台詞はない)見事に表現していた秀作であった。

 

そして、今作における「壁」は、男と女の間にある「壁」のみならず(それは崩しては築かれ

の繰り返しでもあり、崩されたままならままで結ばれることはない複雑怪奇な「壁」)、

家族という「囲い」や生命という「限界」までが、人を孤立に追いやる羽目になる。

国境を引く時代から、なくす時代へ。

ボーダレスな次代が、ボーダーゼロになる訳ではない。

国境が喪失したり曖昧になればなるほど、

個人はより強固なシャッターをおろす必要に駆られる。

東欧の映画に漂っている「孤独」は、そんな人間の真実を映し出しているように思う。

それでは、そんな「壁」は人間に癒えることのない悲しみや恐れを与え続けるのだろうか。

それこそが幸福の源泉にもなりうるような可能性を感じさせてくれる映画こそが、

『シルビアのいる街で』だったように思われる。

 

主人公の「彼」は、6年前にシルビアとの間にある「壁」に躊躇ったのか退いたのかし、

今は自らの記憶の「壁」と格闘する。

つかめそうになった途端に消えてしまうイメージ。

手を伸ばし触れようとすると、壊れてしまうもの。離れていってしまうもの。「シルビア」。

どんな理想でも現実になった途端に、それは既に理想ではなくなってしまっている。

「これこそが理想だ、これさえ手に入れれば理想だ」と思い込めば思い込むほど、

それはただの自己暗示に過ぎず、尚更もはや理想ではない。

 

(「彼」の美貌に免じて?)「彼女」が受け容れてしまったならば、どうなっていたのだろう。

いや、そもそもシルビアはどうなったのか。そして、「シルビア」はどうなるのか。

可視世界における具体的な欲求は、際限なく哀れな顛末を展開するが、

不可視な理想を追い求める夢三夜の何とも繊細で愛おしく美しきことか。

そして、そんな漠然や抽象だらけの「夢」こそが、

現実世界における「色」や「形」や「音」を息衝かせることができるのかもしれない。

そして、映画に「触覚」と「嗅覚」、そして「味覚」がないことを恨めしく思う。

いや、確かにストラスブールの風が頬を吹きぬけた気がしたし、街の匂いが残ってる。

それに、あのバーで飲んだビールは格別だった。6年前は。

 

ストラスブールという舞台も、まさに「壁」が消失した定義困難な場所。

しかし、それ故に顕在化する人と人との「壁」。過去と現在の「壁」。

ところが、それは流動的であり、その流動性は「彼」そして私たちの意識によって

築かれも壊されもする。

そこに生まれる唯一無二な瞬間を慈しむ朗らかな気持ちこそが、

「つかむ」とか「とらえる」とか「所有する」といった欲望を凌駕する可能性なのかもしれない。

 

ホセ・ルイス・ゲリンはインタビューで、終盤に現れる「顔に傷のある女性」について、

「シルビアに起こった、もしかしたら起こっているかもしれない事、シルビアがもしかしたら

そうなっているかもしれない事というものの一つの可能性として提示」したと語っている。

実は、私も同様の感慨で「顔に傷のある女性」を眺めていた。

ホセ・ルイス・ゲリンのインタビューを読んだとき、

彼と私の間の「壁」がほんの一瞬消えた気がした。

そんな瞬間のときめきが胸を躍らせている事実。

「壁」を崩した「intimate(スコリモフスキ曰く『アンナと過ごした4日間』を一言で表す語)」が

うみだす確かな鼓動。そして、それを知れば知るほど、崩し甲斐のある「壁」。

つながらないからこそ、つながりたいと思える個人(孤人?)。

 

ペドロ・コスタは先日、講演のなかで

「映画の肝は、プロットよりもポエジーにある」というような発言をしていた。

確かに、精巧なプロットからは明白なストーリーと確かな快楽が約束される。

それはそれで、コミュニケーションの歴史が積み重ねてきた「記号」の成果であり、

発展的な応酬である。(これはこれで楽しくもあり、好きでもあるが。)

観客の間からも、映画と観客の間からも、「壁」を除去するための仕掛けであるプロット。

なるほど、そう考えると、プロはプロでも、「プロパガンダ」へのアプローチに通ずる部分も。

それなら、いっそバラバラでも好い。バラバラゆえに広がる可能性を楽しめば好い。

でも、たまに感じる「つながり」や「かさなり」にときめいたりもできるのだ。

プロットもポエジーもプロパガンダでさえ、すべては「p」から始まる。

唇を結ばなければ生まれないし、離さなければ生まれない、そんな「p」から始まる。

そういえば、peopleなんて言葉もあったっけ。