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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

ウェンディ&ルーシー(2008/ケリー・ライヒャルト)

2012-03-31 23:59:07 | 日本未公開

 

この年度末最後の週末(というか最終日)には、映画ファン必見の作品が一挙公開。

(ライアン・ゴズリングの2本一挙もすごいが、

ケン・ローチとダルデンヌ兄弟の作品が同日公開って、盆と正月がいっぺんに・・・だよ)

正直、分散させてくれ(期待値高かったり結果傑作だったりするとハシゴできない!)

という気持半分、武者震い(笑)半分、

これから一週間は心身共に疾風怒濤な一週間になるだろう。

私は今週ずっとオフだったので、封切がもう一週早ければどんなに助かったことか・・・

と恨めしく思いつつ、よりによって昨日今日は出かけることができなくて、

そんなヤサグレ気分で(本来、「やさぐれる」って家出する意なんだと・・・逆じゃん)

普段観られない積観タワーの一角でも崩せればと思いつつ、

未公開外国映画観賞を決意。

しかし、初見は疲れるし(笑)とか思って、

ちょうど一年前くらいに観た『SEBBE』をまず再見。やっぱり大好きな映画だった。

昨年のゴールデン・ビートル賞(スウェーデン版アカデミー賞)で作品賞を受賞したり

(『シンプル・シモン』もノミネートされていた)、

ベルリンでも新人賞を授与されてたりしたものの、日本では全く話題にもならず。

このまま全く陽の目を見ないのは本当もったいない。

母子家庭の息子セバスチャンが主人公なのだが、

彼の背中に「父」という字のタトゥーがあるのだよ。

その切なさは、日本人に観られるべき(無理な力説)。

基本的に本当地味で暗いし、

小さな作品(メイキングみたら、卒業制作レベルの小ぢんまり現場)なので

ヒットとかはしないだろうけど、

ケン・ローチやダルデンヌ兄弟、ガス・ヴァン・サントあたりが好きな人(で、

口うるさくないシネフィル)なら、その荒削りさも十分堪能できそうだし。

来年のトーキョーノーザンライツフェスティバルあたりで是非!

選定用に試し観するならDVD貸しますよ(笑)

 

で、ダルデンヌ兄弟の最新作も公開されるし、

淡々・薄幸・小品(随分と乱暴なレッテルだ)といった似たタイプの映画がまた観たくなり

選んだのが本作。

『マリリン 7日間の恋』観賞記念としても、

ミシェル・ウィリアムズ成長記のミッシング・ピースを少しでも埋めるタイミングかなと。

 

改めて彼女のここ数年のフィルモを振り返ってみると、

巨匠から気鋭まで、とにかく多様なディレクターと充実のコラボを重ねてきた

ということがわかる。

ヴェンダース、アン・リー、トッド・ヘインズ、チャーリー・カウフマン、

ルーカス・ムーディソン、デレク・シアンフランス、マーティン・スコセッシなど。

セス・ローゲンと共演サラ・ポーリー監督作の公開も控えている。

2年連続3度目のアカデミー賞ノミネートという輝かしいキャリアを積みながらも、

本作のようなインディペンデント魂あふれる作品に映える魅力を失わずにいて欲しい。

私は、『マリリン~』でのクレヴァー演技より、本作でのラフなのに繊細な演技が好きだ。

 

本作の監督は、ケリー・ライヒャルト。

彼女はアメリカのインディペンデント映画で最も注目されている監督の一人。

カンヌの「ある視点」部門でも上映された本作は、

主にインディペンデント系の映画賞で数々のノミネート&受賞を果たしたが、

前作の『Old Joy』でもケリーは既に高い評価を得ていた。

また、一昨年のヴェネツィアのコンペに選出された『Meek’s Cutoff 』では

再びミシェル・ウィリアムズを主演に迎え、こちらも賞レースで度々見かける評判の高さ。

(ポール・ダノやエリア・カザンの孫娘なんかも出ている。)

同作は、東海岸からオレゴンに移住した開拓民らの過酷な旅を描いた作品らしいが、

ライヒャルト監督は、イラクやアフガニスタンに駐留する米兵たちの現状と

開拓民の姿を重ねて描いたと語っているらしい。

なかなか骨太な女性監督だ。(ネクスト・キャスリン・ビグロー!?)

 

前口上ですっかり疲れ果ててしまった(笑)

SHOTGUN STORIES』の記事でも書いたけど、

アメリカのインディペンデントや小規模・中規模な作品の公開場所・機会が

年々減少傾向にあって、ケリー・ライヒャルトですら劇場公開作が一つもない

という寂しい現状が、余計な説明文を長々と付けさせているわけです。(自己正当化)

オレゴン三部作ってことで、『Old Joy』『Wendy and Lucy』『Meek’s Cutoff』の一挙公開

とかどうですか?(せめて後ろ二つでミシェル二本立てとか…まぁ無理だわな。)

 

〔作品について〕 公式サイト

主人公のウェンディは仕事を求めてアラスカに向かう。

愛犬のルーシーと車(ホンダ)に乗って。

宿なしケータイなし。そんな彼女の車が故障。

ドッグフードも底を尽き、余計な出費を控えぬウェンディはドッグフードを万引きし、

店員にみつかり警察へ。

店外にルーシーをつないだまま去らねばならず、

釈放して戻ってみるもルーシーは消えていた・・・。

 

ルーシーはなぜアラスカに行くのか?

彼女曰く「アラスカって人少ないから仕事あるでしょ」(要約すると)

ルーシーはどんな家庭環境なの?

一度、姉夫婦に電話かける場面あるけどそれきり。

以前は彼らと同居していたみたいだけど、今は車が自宅がわり。

とにかく、彼女の人となりなどが具に語られることはない。

かといって、その時々の感情があからさまになることもない。

それを行間だらけと捉えるか、説明不足と捉えるか。

 

ケリー・ライヒャルト監督は、「空白の行間」を披露して喜んだりしない。

かといって主演女優に啓示めいた表情を強いたりなど一切しない。

これは、ミシェル・ウィリアムズの演者としての幅を感じさせ、実に好い。

懸命な逡巡を、目的地を先取りさせぬ落ち着きで、とことん共有させるのだ。

ロードムービーにおける一場面を掘り下げるような語りでありながら、

そこに感じるのは 《停滞》 ではなく 《逗留》 だ。

けっして 《stop》 しない進行形の 《stay》 。

 

ウェンディ(ミシェル・ウィリアムズ)はとにかく歩く。

そして、とにかく立ち止まる。佇む。見つめる。案ずる。

少年のような無垢さと直向さ。

しかし、口を硬く噤んだ彼女の強さは、自己愛として費やすばかりではない。

唯一の愛を注げる対象(愛を感じられる他者)を守らねばという使命にも向けられる。

旅を続けるため、ルーシーを見つけるため、 奔走するウェンディが垣間見る世界には、

過剰な悪意も不自然な慈善もない。

しかし、そこには各人にとって必要な略奪と贈与があるだけだ。

そこに議論の余地などない。

行き掛かりで交流の始まった警備員(ウォーリー・ダルトン)が

ウェンディに僅かばかりの餞別を渡しながら言う。

  Don’t argue. Just don’t argue.

本作の登場人物は言い訳をしない。

それは自らの言動に責任をもっているなどという高級な感覚とも違う。

あくまで苦しみも喜びもそのまま受納することが自然なのだ。

覚悟、などという大袈裟な言葉を持ち出すまでもなく。

しかし、そうした正直は、 自らの本能を解放として作用するばかりではない。

ウェンディの最後の決断は、明らかに根本的な愛が宿っている。

母性にも近い、いや母性そのものな慈愛があふれだす。

それを感涙にも落涙にも処さずにみつめる誠実さ。

 

ウェンディは母であり、ルーシーは娘。そして、車は家。

サブプライムローン問題が顕在化した2007年頃に撮影されたと思しき本作。

住宅問題や雇用問題と重ねて読むこともできそうな物語。

家の必要性(車への執着)、求職の困難、経済格差の拡大。

底辺となった自分。安定の好機が訪れた娘を、自分はどうすべきか。

奇遇にも決断の結果は、『SEBBE』と一致していてハッとする。

あちらでは息子の視点から眺めた世界だったので、

二作を読み合わせると新たな切実が双方に降りかかる。

 

また、本作の始めと終わりで登場する列車。

そして、その中間で終始重要視されている自動車。

車を「家」とするなら、彼女が車を捨てて列車に乗るということは、

彼女の「家」が変わったことを意味するだろう。

ワンルームから長屋へ。個人主義の閉塞感から共同体の連帯へ。

本作における「ゆるやかな」顧慮のリレーがそう思わせる。

 

80分という一息で、人間の懸命を賢明に陥らずに静観する秀作。

フランス映画における女性監督の活躍も確認したばかりだが、

アメリカ映画においても女性監督の新たな才能がインディーズを面白くするだろう。

 

 

◇興味深いキャストもちらほら。

   序盤、ウェンディの万引きを目撃し、

   温情皆無のムカツキマックス「正義漢」アンディを演じる若者。

   「どっかで絶対観たことある・・・」とずっと思いつつピックアップできぬ記憶の断片。

   後で確認すれば、『エレファント』の少年(金髪)ではないですか。

   ジョン・ロビンソンって言うんだね。めっちゃお仕事してるし

   エンドロールで本作のロケ地がポートランド(ガス・ヴァン・サントのホームグラウンド!)

   と知って、ポートランド出身の彼が出演してるのも納得。

   冒頭に貨物列車が行き交う光景が出てくるのだが、

   あれって『パラノイド・パーク』のあのシーンと同じ場所かな?

   (ちなみに、本作は脚本も担当しているジョナサン・レイモンドの短篇小説を元にしていて、

   その小説のタイトルが「Train Choir」だからなのかもしれない。)

 

◇ウェンディと唯一心を通わせる警備員を演じるWally Daltonは、

   テレビを主に活躍してきた俳優みたいだが、彼の淡々とした優しさがじわじわ沁みる。

 

◇ミシェル・ウィリアムズとW主演(のはずだが、実際の出番は僅少・・・)の

   ルーシーことLucy(犬)。彼女のIMDbがちょっと面白い。

   ケリーの前作『Old Joy』から引き続いての出演のようだが、

   本作でいよいよ女優(?)デビューを果たしたということか!?

   ちなみに、彼女は本作でカンヌのパルムドッグ賞を獲得しているのだ!

 

◇本作のエグゼクティブ・プロデューサーを務めたのは、

   トッド・ヘインズ(『ベルベット・ゴールドマイン』『アイム・ノット・ゼア』など)。

   脚本のジョナサン・レイモンドは

   トッドが監督を務めた『ミルドレッド・ピアース』の脚本(1話~3話)も担当したようだ。

   『ミルドレッド・ピアース』は昨年放映されたケイト・ウィンスレット主演の

   テレビ・ミニシリーズで、エミー賞やゴールデングローブ賞などでも受賞をしている。

   日本でもWOWOWで映画版(1945)と共に早々と放映してくれた・・・

   のはありがたいのだが、何故か吹替版のみで、録画するにはしたが未見のまま。

   別に字幕原理主義でもないしアンチ吹替でもないが、

   さすがにケイト・ウィンスレット(つまり、馴染みのある役者)が日本語喋ってるのは

   違和感あるからね。と思ってたら、WOWOWで字幕版の放映があるみたい。

   4月9日(月)から五夜連続ならぬ五早朝連続で放映されるみたい。

   ガイ・ピアースにエヴァン・レイチェル・ウッド、ブライアン・F・オバーンやホープ・デイヴィス、

   メリッサ・レオまで出演しており、大作映画並みの豪華キャスティング。

   同じくWOWOWで放送されたテレビ映画とえいえば、

   昨年亡くなったジャック・ケヴォーキアンを主人公にしたHBOのドラマ

   『死を処方する男 ジャック・ケヴォーキアンの真実(You Don’t Know Jack)』も

   バリー・レヴィンソンが監督し、アル・パチーノやジョン・グッドマン、

   ブレンダ・ヴァッカロにスーザン・サランドンまで出演。

   見応え十二分な力作だった。

   WOWOWはオリヴェエ・アサイヤスの『カルロス』も放映してくれたし、

   テレビ映画&ミニシリーズの配給(?)に関しては今後も大いに期待したい。

   せっかくBS移行でHD化したイマジカのチャンネルも、

   さすが「シネフィル」の名がとれただけあって、特長なきワン・オブ・映画チャンネルズ。

   4月はアンジェイ・ワイダ監督特集とかありもするけど、

   『パンナム』イチオシとか好いから(まぁ、そこそこ面白いけどさ)、

   もっとしっかり映画の伝道チャンネルになってくれ・・・。

   同じような映画チャンネルが乱立し過ぎ。(多チャンネル化の意味がない)

   だってさ、この『ウェンディ&ルーシー』だって

   「洋画★シネフィルイマジカ」で放映されたらしいんだよ。

   ちなみに、作品紹介文には「トッド・ソロンズ」というケアレスミスも。

   でも、俺も気持ちわかるから許す(笑)

   他にもシネフィルイマジカは、ヌリ・ビルゲ・ジェイランの作品を放映したり、

   アンドレア・アーノルドの『フィッシュタンク』とか、

   グザヴィエ・ドランの『I Killed My Mother(マイ・マザー/青春の傷口)』等々、

   とにかく国際的高評価を軒並得ながらも劇場未公開に終わった作品群(しかも地味めな)

   を放映してくれる貴重なチャンネルだったのに・・・

   それがHD化するんで(スカパーHDなんてセレブなシステムはさすがに未導入)

   大いに期待してたのに・・・。

   『Meek’s Cutoff』とか、以前のシネフィル・イマジカなら絶対放映してくれてたっぽいのに。

 

◇ 本作は、『HOWL』を観賞した際に、

   そのディスクに入っていた予告編で知って興味をもった。

   アメリカのDVDやブルーレイは、セルのものでも日本のレンタルビデオみたいに

   ディスク挿入後に強制的に予告編を見せられる(飛ばせない場合もある)。

   ただ、日本未公開のものも多かったりするので、

   日頃は苦手な予告観賞(チラッ観は好いけど、見過ぎると本編妄想暴走しちゃうから)も、

   輸入物観るときには大事な資料なんだと再認識。

 

◇本当は『マリリン 7日間の恋』について書こうと思い、

   そのまえに参考的に観ておこうと思った本作。

   期せずしてヒロインは「青いパーカー」を着用し、監督は女性。

   『マーガレット・サッチャー~』から『マリリン~』への見事な架け橋となりました(笑)

 

[追記]

本作のDVD発売が決まったようです。

ウェンディ&ルーシー』(販売元:エプコット)2012年7月27日発売予定

 


SHOTGUN STORIES(2007/ジェフ・ニコルズ)

2012-03-20 23:36:51 | 日本未公開

 

今週末より『テイク・シェルター』がいよいよ公開となるジェフ・ニコルズ監督の

前作にして一作目『ショットガン・ストーリーズ』。

ジェフ・ニコルズは1978年アーカンソー州リトルロック生まれの33歳。

若手の部類に入るのだろうが、無用な発散も抑圧もなく、

荒涼たる人間模様の寂寞を厳かな情熱で語る。

タイトルから想起されるようなヴァイオレンスは本作の中心にはない。

凶器としての散弾銃が活躍するのではなく、

憎悪の連鎖からショットガンを手にするしかない狂気の背後が丹精に描かれた秀作。

 

マイケル・シャノン演じるサンは三人兄弟の長男で、

彼らは夫に逃げられ憎しみにまみれた母親によって育てられた。

ある日、その父親が死に、三兄弟は葬儀に出向く。

憎むべき父親は、別の女との間に四人の息子をもうけ、

彼らによって葬られようとしていた。

サンは、父に対する恨みと蔑みを口にし、棺に唾を吐く。

最悪の葬儀を契機に、二つの兄弟の間に諍いの火種がくすぶり始める。

 

ストーリーはシンプルだが、

わかりやすい具象を避けられた登場人物たちの錯雑とした内面の混沌は、

安易な収束とは別次元の葛藤を見せ続け、

劇中で度々映し出される空と同様に、曇天と黄昏の往来を続ける心境が観る者に去来する。

 

映像の向こうでは、時折ギターが爪弾かれる。

長閑なはずの光景は、それに苛立つかのような人々の焦燥を静観してる。

シネスコ映えする大地と空の広がりは、

「誰もお前等をここに幽閉などしていない」と常に宣言するかのよう。

憎しみの銃口を他人に向けることでしか、心の平穏を確かめられぬ男たち。

そうした「銃」を手放さぬ限り、彼らの生活が彼らの手に戻ることはない。

(タイトルは複数形であり、その「錯綜」感も本作には息づいている。)

 

劇中で具体的な事情の詳細が語られることはない。

そうした「つくり」は『SHAME』にも少し似ている気がしたが、

あちらが「抑圧」の苦悶だとするならば、こちらは「発露」の悲劇ともいえる物語。

しかし、情動のダイナミクスを弄ぶのではなく、

心の襞の一枚一枚を丹念にめくらせるかのような行間にあふれている。

そして、カタルシスで済ませぬ慈愛の眼差しも。

 

極めて限定的な空間と時間(90分程度の上映時間)と人間関係(二つの兄弟)のなかで、

人間の現実の諸相を浮かび上がらせるストーリーテリングには驚嘆する。

小さなドラマでありながら、彼らの諍いは

宗教戦争(同じ《父》から生まれた二つの宗派)であり、

近代戦争(母国の異なる二つの国民)である。

 

また、双方の長男には息子がいる。

父と息子の関係が、反復するのか更新されるのか。

《歴史》をどのように受容し、それを実践にどう活かすのか。

そうした問いに対する答えを模索するかのような展開も内包されている。

 

三兄弟の名(Son/Boy/Kid)にしても、

《息子》という抽象的な存在として描かれるなかで、

個人としての名が与えられるまでを描こうとしたかのように思われる。

概念的な存在では、人間は実感を手にできぬ。

だからこそ、サンのson(息子)には名が与えられ、

その具体的な存在が彼をつなぎ止めている。

また、ボーイ(次男)にしても、

クレマンの二人の息子を実際に目の当たりにし、

《生》の実感をかみしめた。

そして、そうした具体的な現実こそが、

抽象的な戦争に終わりをもたらすのだ。

現代的でありながら、真摯な古典の語りを辞さぬ「現代映画」たり得る存在感を秘めた、

観られるべき映画。

 

シネマライズやシネセゾン渋谷、シネアミューズなどでのレイトショーが活況だった頃なら、

本作も間違いなくかかっていたのではないだろうか。『テイク・シェルター』公開記念ででも。

しかし、そうしたひっそりとエッヂの効いた映画興行の小さな文化は現在消えつつある。

こういった作品こそ、平日のくたびれた身体でまったりレイトショー観賞する

「ささやかな贅沢」としてさりげなく享受したいものなのだが。

本作はフィルムで、スクリーンで観るべき映画。

DVDの再生を何度も止めたくなるほど、映画たる映画であった。

こうした佳作をこの機会に劇場で公開しないなど、後々悔いること必至だろうに。

 

◇前述したギターが印象的なスコア(?)は、Luceroというバンドの担当か?

   メンバーのベン・ニコルズが書いているようなのだが、

   監督のジェフ・ニコルズと兄弟だったりして?

   (Web上でみつけたインタビュー記事でベンはアーカンソー出身だと答えていたので、

   やっぱり兄弟っぽいな)

   ちなみに、カーステレオから何度かちょこっと流れるベニー・マードーンズ。

   「Into the Night」の一発屋という強烈なイメージが作品の哀愁を高めつつ、

   どこかトボけた空気も漂わせる。

 

◇撮影を担当しているアダム・ストーンは、本作が撮影監督デビューのようだ。

   ジェフ・ニコルズの次作『テイク・シェルター』(本当楽しみ)も担当している。

   また彼は、ゴッサム賞でブレイクスルー監督賞も受賞しているクレイグ・ゾベル作品でも

   撮影を担当している。(しかし、クレイグ・ゾベルの作品はいずれも日本未公開)

   『Great World of Sound』なんてシノプシス読んだだけで快作の予感がトゥー・マッチ。

   新作の『Compliance』だって面白そう。

   日本未紹介の気鋭監督ってまだまだいるんだな。

   来週末に『ドライヴ』(こちらも楽しみすぎる)が公開される

   ニコラス・ウィンディング・レフンの前作『ヴァルハラ・ライジング』は

   レイトショー公開が決まったみたいだし(デジタル上映って

   まさかDVDとかじゃないよな・・・)、本作も公開して欲しかったなぁ・・・。

   それにしても、ヨーロッパ映画(フランス・イタリアを筆頭に)は

   映画祭や特集上映がそこそこ充実してるから、

   劇場公開されなくとも劇場観賞が叶ったりするものの、

   アメリカ映画(特にインディペンデント)が良作でもなかなか劇場で観られない現状は

   悲しすぎる。せめてデジタル化の恩恵として(DVDとかの手抜き公開は御免だが)、

   地味でも良質なインディペンデント作品が劇場公開される場や手段が

   生まれてこないものかな。

 


Dogtooth(2009/Giorgos Lanthimos)

2011-12-27 00:17:29 | 日本未公開

(『灼熱の魂』公開[勝手に]記念企画)

第83回アカデミー 賞で外国語映画賞ノミネートされた他の作品を観てみようの巻。

[追記]『籠の中の乙女』として8月シアターイメージフォーラムほかで公開

 

2009年カンヌの「ある視点」部門での受賞をはじめ、

数々の映画祭や映画賞での受賞を重ね、アカデミー賞でも外国語映画賞にノミネート。

カンヌ、しかも「ある視点」での受賞作品がアカデミーに絡むとはやや意外な印象だったが、

本作を実際に観てみれば、ますます謎なノミネート。何枠だったの?(笑)

こんな分析してる人もいます)

 

設定はきわめてエキセントリックながら、物語はいたってシンプルに淡々進行。

一見、極度な家父長制的家族が閑静な郊外で長閑な暮らしを営んでいる。

しかし、何かおかしい。いや、何から何までおかしい。

妻も子供3人も、邸内のみでの棲息しか許されぬ。

外へは車でしか出られないという「真実」。

外界は魔物だらけという「真実」。

外部など不要だという「真実」。

父だけが知っている真実。

 

設定の奇抜さや、理由は背景の省略によって物語世界の純度を高めている点などから、

いわゆる不条理ものの様相を呈し、カフカや安部公房の翻案もの的空気を醸す。

一方で、確かにミヒャエル・ハネケ(特に初期)を彷彿させもする。

しかし、それらいずれとも異なる微妙な特殊性が確かにある。

最近私が観た作品で近い空気をもつ作品を挙げるとすると、

それは間違いなくマルクス・シュラインツァーの『ミヒャエル』だ。

ハネケ作品のキャスティング・ディレクターを務めてきたマルクスが

初監督した『ミヒャエル』はいきなりカンヌのコンペに選出され、

今年の東京国際映画祭ワールド・シネマ部門でも上映された。

聞こえてくる感想としては、「ハネケの亜流」的見方が強い印象だったが、

私はむしろ(ハネケの作法を確信犯的に踏襲しつつも[タイトルからしてねぇ・・・])

明らかにハネケとは異なる機軸で語ろうとする決意に満ちた観点が感じられてならなかった。

それは本作とも根底で共通するのだが、観客に対する絶対的な信頼と期待があることだ。

ハネケは、観る側に対して開示し現出させるにしろ、隠匿に興じようとも、

そこには観客を挑発しつつ自らの表現欲を充足させるに足る自信がはりついている。

途轍もない求心力を発揮しもする作家性に裏打ちされているからこそ可能なスタイルだ。

但し、それは作品を(とりわけ物語を)気軽に転がしながら語るような姿勢を許さない。

観客が行間に手出しすることを許さぬ厳粛さが作品全体に漂い続けているからだ。

しかし、『ミヒャエル』のマルクスにしても、本作のヨルゴスにしても、

明らかに観客が行間に書き込むことで作品を完成させてもらおうという仕様でもって

作品が成立している。といっても、彼方任せな訳ではなく、緻密に誠実に手を引きながら。

ハネケが有無も言わさず腕をひっぱるか(少しゴネてると)腕をあっさり放すかするのに、

気鋭の二人は直接触れもせず、こちらのペースを気遣いながら少し前を往く感じ。

ハネケ的強引さにメロメロになる気持もわかるし、時にはハマってしまいもするが、

私は後者のようなアプローチにこそ得体の知れぬ可能性を大いに感じてしまう。

 

そう考えてみると、彼らのような映画は異常を日常として提示することで、

最初こそ興味本位な酔狂として奇異さばかりが強調されて映ってしまうものの、

それが単調と化したところ(つまり、観客が異常を日常として受け容れてしまい始めて)から、

鱗の剥ぎ取られた眼が「観察」に向かい出す。厳密な監督の監察化にありながら、

その観察は実に自由。観客が一旦ペンを握ったら、あとは余白に書きたい放題。

そのためには厳格なリアリズムと究極のアブストラクトが必要だ。

現前に実存する演劇において得意とされそうな世界の構築に思えるが、

映画という〈一回性の永遠性〉でそれが追究されたなら、

そのために許された模索と反復が「いまここ」を凌駕する時間の凝縮を達成するだろう。

「全く同じ」であるがゆえに、「全く同じ」がありえないような感覚だ。

余白は多ければ多いほど、説明を自ら加えねばならなければならぬほど、

同じものを反復した場合の齟齬は肥大化するだろう。

従って、私たちがこのような映画から繰り返しを求められた場合(再見だろうが反芻だろうが)

その物語のなかにある同じ(最初からそのままだったはずの)生活(現実)が

とんでもなく「変わって」いることに戦慄する自分を禁じ得ない。

だから、二度と見たくない感覚に駆られるが、既に瞼の裏にはこびりついている。

そして、そうした衝動は本作の登場人物も体現してしまう。

 

同じモノでも、どこから見るかで真実の姿は変わる。

それは豊かさと同時に揺らぎの宝庫となる真実。

大体同じ方向からなら大体同じような幸福が得られるアングルとは違い、

極限に達したかのように感ずる美や幸福を感得した歓喜は反復再現不能な瞬間。

ならば永遠不変なアングルを手に入れ安堵につつまれ生活するのも悪くない?

どちらを採るかに真実の答えなどない。あるのは自分が感じられる「真実」だけ。

本作における父の「真実」が、家族全員の共有財産であったとき、

それはどれほど「異常」であろうとも、確かに幸福であっただろう。

(別の「真実」を経験済の妻だけが例外として、恐怖の表情を時折浮かべる。)

そして、監督はそれを見事に具象化している。ハネケ的シニシズムにも陥らず。

その証拠に、「異常」が「正常」へと矯正されようとしている瞬間に観客を襲う感情は、

単なる安堵や浄化でないばかりか、漠とした不安と回帰への憧憬が入り混じるのだ。

究極のフラットは、映画作劇におけるキュビズムとでも呼びたくなるよな「写実」性を叶え、

複数の(無限の)観点によって縒らずしては見えてこない真相の深層を束の間覗かせる。

即物的世界が喚起する唯心論の揺らぎは、解放されるのか。閉じ込められたままなのか。

静止するほど暴れだす、そんな本作から導き出される「答え」は厖大だ。

 

 

◆さまざまな読みが可能な本作は、単なる因習的旧弊への批判としてだけでは片付かず、

   むしろ新たな統治や管理のシステムとも共通する側面を垣間見ることが出来る気がする。

   情報化社会やマルチメディア社会などは、「特権」を切り崩して市民が原初の権利を

   奪還した革命かのような言説で語られることがしばしばだが、果たしてそうだろうか。

   私たちは「いつでも」「自由に」「あらゆるものと」つながっている感覚を享楽しているが、

   それが「お家のなか」でだけの話ではないと言い切れる(確かめられる)のだろうか。

   眼前の機械の中すら把握していない我々がすぐ先の回路ですら不可解であるのみならず、

   そもそも人間の五感を超越した「データ」で世界が動く現代において、個人どころか

   人類が世界を動かしている事実も実感ももはや希薄と化して来てはいないだろうか。

   いや、どこかに操作や管理の実体(人間)がいたとして、その「彼」だって自ら確信し得る

   何かに突き動かされながら生きてるだろうか。本作の父が見せた使命なき逡巡のように、

   不可知な圧力に抗いきれずに深みに嵌り続けているだけかもしれない。

   ならば、何も知らずに享楽的生活に「落ち着いて」いるままの方が好いかもしれない。

   しかし、迷いも衝突もない世界のなかに、手応えや広がりはうまれない。

   理不尽や不条理、エロもグロもある世界に触れてこそ、

   重力を負って浮力を持った人間の存在を確かめられる。

   ところが、そのためには代償を払わねばならぬ。それが大人になるということだ。

   それは太古の時代から変わらない。いつの時代も、通過儀礼はつきものだ。

   再生不能な無垢を手放して、揺り籠からトランクへ。

   大人になるとは単なる独立を指すわけではない。

   ある程度の委託を弁える。社会の歯「車」となるのだから。

   しかし、己を委ねた社会が自身の身を、いつ解放してくれるかはわからない。

   ※ラストの一連の手前から通過儀礼は始まっているからこそ、あの踊りと音楽は切ない。

 

◆あらゆるディテールに読まれるための仕掛けが施されていて、実に興味深い。

   未公開ながら何故か本作の感想を綴ったブログ等が多数存在しているようなのだが

   (なかでも、ここは監督のインタビューまで翻訳してくれていて読み応え十二分)

   それらのどれもが(異なれば異なるほど)面白く読める感想であるのも興味深い。

   せっかくだから余り触れられていない小ネタを分析してみると、

   父親が「おじいちゃんの歌でも聴くか」といって持ち出したレコードをかけると、

   「Fly Me  to the Moon」が流れ出す。

   (莫大な権利料は払えないから[推定]、勿論シナトラではありません。)

   こんな我が家だけに幽閉しておきながら、何とも真逆ベクトルソングという皮肉。

   いや、待てよ。「月って、なぁに?」って訊かれ、何か又すごい答えを与え済なのだろう。

 

◆もう一つ。この家に変革の契機をもたらす存在が、冒頭に登場する女性クリスティーナ。

   長男の性処理のため、父親が金で雇ってくる(父の工場の)警備員なのだが、

   まず、この女性の名が興味深い。明らかに「キリスト教」を意識したネーミング。

   そうした意味では、私たちが外界との接触および共存(果ては統制)へ向かう第一歩として

   信仰やその体系化があったという人類史がなぞられているように思えてしまう。

   その次に「革命」の引き金となるのは、クリスティーナの持っているビデオテープ。

   拝金主義で欲望のままに行動するクリスティーナ(現代的クリスチャン!?)が

   こよなく愛する娯楽ムービー。そこには、人間の欲望とその暴走が描かれていた。

   (どのようなものを観たかは具体的には出てこないが)

   こちらはまさに、「映画」という形で提示される「人為の世界」なのではないか。

   つまり、神にかわって人間が世界を構築し始めた近代の流れを汲んでいる。

   だからこそ、神(父親)を捨てる道へと続く運命なのだ。

   ミニマムがもつメタファーの力を存分に発揮している、見事なまでに快作な怪作だ。

 

 

◇アカデミー賞などのように、公開済の作品に御褒美をあげるタイプの受賞結果は、

   数年経って見返すと「あれ?これってどんな映画だったっけ?」ってことがたまにある。

   その一方で、国際映画祭の受賞結果やラインナップは数年経ってから眺めると、

   いつの間にか既知へ置換済な嘗ての未知作品に満ちているから面白い。

   本作は、2009年のカンヌで上映されたのだが(ある視点部門)、

   同部門では、ミア=ハンセン・ラヴの『あの夏の子供たち』と

   バフマン・ゴバディの『ペルシャ猫を誰も知らない』が審査員特別賞を獲得し、

   本作が「ある視点賞」を得ている。

   (他にも有名どころでは、『空気人形』や『母なる証明』、『プレシャス』も同部門で上映。)

   そして、審査員賞を獲得した『Police, Adjective』は、

   2006年のカンヌでカメラ・ドール(新人監督賞)を受賞したルーマニア映画

   『A fost sau n-a fost?(12:08 East of Bucharest)』を撮ったCorneliu Porumboiuの作品。

   それらの作品を全く観られていないので妄想するしかないのだが、

   これだけ国際的に熱視線向けられまくりのルーマニア映画が、

   ここ日本ではほっとんど公開されていないのは悲しいね。

   2007年のカンヌパルムドール『4ヶ月、3週と2日』くらいしか公開されてないのでは?

   映画祭とかでもほぼスルー。EUフィルムデイズとかも1国1作とかの縛りなしにして、

   良質なものに日の目見る機会を優先的に与えて欲しいところ。

   そろそろいい加減「ルーマニア映画祭」とか企画されても好い気がする。

   ・・・おっと、これはギリシャ映画の記事でした。

   で、本作の監督Giorgos Lanthimosは、次作の『Alpeis』では見事

   ヴェネチアのコンペ(2011)に選ばれた上、脚本賞まで獲得してる。

   文明と文化の栄枯盛衰は必ずしも比例しないことの、これまた好例(?)。

 

◇ちなみに、本作は2011年のアカデミー賞で外国語映画賞にノミネートされているが、

   同賞に同じくノミネートされていた『灼熱の魂』のドゥニ・ヴェルビヌーヴ監督の前作にあたる

   『Polytechnique』が同じ2006年の監督週間で上映されていたりもする。

   こちらの監督週間も素晴らしいラインナップ。

   そのドゥニと共にケベック映画の旗手であるグザヴィエ・ドランの処女作

   『J'ai tué ma mère(I killed my mother)』といったもぎ立てワクワクなフレッシュ快作が

   上映される一方で、コッポラの『テトロ』という爛熟フレッシュ(どっちだ?)傑作まで上映。

   ペドロ・コスタやホン・サンスといった映画祭常連の中堅の作品から、

   同年の東京国際でグランプリを獲得することになるカメン・カレフの『ソフィアの夜明け』を

   一足先に発掘していたり、『ラブ、アゲイン』で匠の階段昇り始めた(?)監督コンビの

   『フィリップ、きみを愛してる』までもがラインナップに入っていたりする狂宴ぶりに乾杯さ!

   さすがはカンヌ、コンペ以外の充実ぶりもとんでもない。

   話の流れ的には、ここで我が日本で開催される国際映画祭を憂う展開が必須だが(笑)、

   本年度アカデミー賞最有力(宣伝じゃなく実際の)『アーティスト』の監督である

   ミシェル・アザナヴィシウスの『OSS117 私が愛したカフェオーレ』にグランプリを与え、

   どこよりも早く(たぶん)その才能を讃えたのが実はその2006年の東京国際映画祭。

   OSSシリーズ(そう、続篇まであるのです)は未見なので、近日中チェックの使命感

   ビンビン来てますが(笑)、それにしてもこの手の作品にグランプリ与えたTIFFって、

   ある意味凄い・・・でも、このときの審査委員長がジャン=ピエール・ジュネと聞けば、

   なるほどぉ~って気がしなくもない。今となっては、大いに先見の明!ですが。

   OSSシリーズが如実(というより忠実?)に007パロディだったのと同様に、

   『アーティスト』もモノクロ無声映画の醍醐味をがっつり駆使した娯楽作とのこと。

   今年のカンヌでも開催直前に特別招待枠からコンペに格上げになって男優賞をさらい、

   年末からの映画賞レースでは本命級で、アカデミーにまで最も近いと噂され。

   いよいよこれで、東京国際のコンペも格が上がりそう!(んな訳ないか)

 


POLYTECHNIQUE(2009/ドゥニ・ヴィルヌーヴ)

2011-12-24 03:28:35 | 日本未公開

 

先週末より日本でも公開されている『灼熱の魂』。

その監督であるドゥニ・ヴィルヌーヴが、その前年に発表したのが本作である。

彼は本作が長篇3本目なのだが、前作の『渦』(2000年)は日本でも公開され、

私も銀座テアトルシネマで観た記憶がある。ちなみにDVDも買ってあるはずだが、

結局観た記憶がない(笑)・・・ちなみにDVDタイトルは『渦~官能の悪夢~』。

劇場でマダムに、レンタルでオヤジに売ろうって魂胆は、一時期流行ってた。

(ル・シネマで観た『シビラの悪戯』も、DVDのジャケットが・・・)

 

その『渦』では、淡々とした語りのドラマとは対照的に、

偏執なまでのこだわり映像(とりわけ色彩)に、駆け出し映画追っかけの私は結構心酔。

ちょうど『渦』を観た時期と(たしか)前後してカナダ映画祭が開催されたりもして、

カナダ映画面白いかも!って思っていたものの、日本での公開本数は増えもせず。

外国映画の配給が厳しい昨今(最近復調の兆しはあるけどね)、

『灼熱の魂』だってアカデミー外国語映画賞ノミネートがなければ、

日本公開はなかったろうな。で、本作はカナダ国内では映画賞総ナメ状態だったものの、

国際的な称賛を表舞台で浴びる機会はあまりなかったようで、

結局日本でも未公開に終わりそう。

しかし、

『渦』のようなオシャレ・ミニマム・アートシネマを撮っていたデニ・ビルヌーヴ(当時表記)が、

なぜ10年近い沈黙(長篇発表なし)の後に重厚な社会派ドラマを制作するに至ったのか・・・

それを掴むためには、極めて重要なミッシング・ピースである本作。

かつてのシネマライズとかシネ・アミューズとかシネセゾンとかなら、

『灼熱の魂』公開記念とかでレイト上映してただろうなぁ・・・などと遠い眼。

今からでも遅くはない。たった77分だし、台詞少ないし(字幕制作ラクでしょ)、公開しない?

モノクロだし、シネスコだし、どこまでも闇に満ちてるし、劇場映えする作品なんだけど。

 

本作は、実際の事件(モントリオール理工科大学虐殺事件)を下敷きに制作されている。

1989年12月6日、25歳の男性が大学に乗り込み、女性ばかり14人射殺。直後に本人自殺。

タイトルの「Polytechnique」とは、大学名(École Polytechnique de Montréal)に由来。

モントリオール大学の附属大学の一つらしく、理工系分野におけるカナダ有数の研究機関。

ウィキによれば)2003年冬学期時点では学生5713名のうち女性は1198名とのこと。

日本の理工系教育機関では考えられないほどの比率だ。

犯人の動機は「フェミニストに対する憎悪」だとする説が有力らしいが、

その背景には女性の盛んな進出が現実にあったのだろう。しかし、出る杭は打たれる。

いや、もはや〈出る杭〉ではなくなったから、〈凹んだ杭〉に「復讐」されたのか?

また、同大学には約20%もの留学生が在籍しているということで、

よりボーダーレスな環境が構築されてきた場なのかもしれない。

 

しかし、

多様性を尊び個性を重んじる風潮は同質化・水平化の圧力に抗うための反動である

という事実を裏書するかのように、

近代以降(とりわけ20世紀以降)は浄化からグローバル化まで

異者の存在を微塵も許さぬ徹底ぶりでナショナリズムを強固なものに育て上げて来た。

そうして植えつけられた排斥志向は個人の精神にも影を落とし、

それを利用する形で(自爆)テロが仕組まれ、

勝手に暴走する形で「個人による事件」が起こる。

しかし、それはいずれも近代が創り出した怪物(「リヴァイアサン」)によって

産み落とされた卵が孵っただけではないだろうか。

被害者であるまえに加害者である。

そうした意識と共に、

傍観者は加害者ではない・・・そうした意識を改めて、

たとえ改変不能な過去となろうとも、真摯に向き合うことこそが、

絶対的な正義や幸福を永久固持できない人間に与えられた唯一の「正解」かもしれない。

そして、そうした答え(目的地)を追求せぬ思考(旅)への同行をより叶えてくれるのが、

映画という「文学」なのではないかと思う。文学よりもより「文学」的な映画なのではないかと。

 

久々に(?)前置きが長くなりすぎたが、

それも本作のもつ熱量が原因かもしれない。

たった77分間の叙事詩の持つ行間が、

観賞後に絶えず増殖するかのようだから。

叙情的になる直前で引き返すストイシズムは、

深淵を覗こうとした勢い余って転落させる。

しかし、落下の衝撃は用意されぬまま、宙に浮いたまま。

天にも召されず、大地に叩きつけられもしない。

人間が背負った重荷を忘れるために必要なカタルシスとは無縁な語り。

苛烈な傷みで「麻痺」することは許されず、希望の光につつまれ楽になることは叶わない。

天が地となろうとも(底のない、足場も立場もない恐怖)、

地が天になろうとも(絶えず蓋をされ続ける圧迫感)、

希望を絶やさずにいられるだろうか。

 

本作で二度挿入される幻想的な「さかさまの世界」。

それらが辿った帰結は相反するが、それは共通の分岐点から発している。

そこで為される選択は、個人に拠るもののようでいて、もはや個人の問題ではない。

しかし、〈個人〉が確立された近代において、それでも自己が引き受けねばならぬものとして

教化された個人たちは「自分の問題」としてとらえて、もがく。

空が青かったり、海に波が起きたり、草を風が戦がせたりするのは、自分のせいじゃない。

そんなことで自分も他人も責めやしない。いくら自然と対等になった気でいる人間でも。

ところが、社会と対等とみなされた個人は、自分か他人を責めずにいられない。

結局、攻めずにいられない。何かが壊れる。誰かが壊れる。

 

破壊の連鎖を断ち切るために、人は何ができるだろう。

「civilization」とはまさに、〈市民〉という社会の産物が前提にあるのだろう。

そして、それは腐蝕や崩壊の宿命を負った物質的発展しか齎さぬ。

しかし、「culture」は耕し栽培することで、生命を育みつづける営み。

精神的な修養は、形を失した後であれ、受け継がれる可能性を孕んでる。

(その最も神聖なる営みこそが、生命の誕生に寄与する力なのだろう。)

奇しくも「civilization」は「文明」と訳される。

「明」しか見ない両の眼は、背後の闇に気がつけぬ。

強すぎる光は眼をダメにするが、闇はどんなに眼をこらしても見尽すことなど出来やしない。

振り返ることが必要だ。光のある方ばかり見てはいられない。見ていてはいけない。

闇しか見えなくなったとき。振り返ることが必要だ。後ろに光があるからだ。

「過去の栄光」も、「暗い過去」も、真実だ。同じ事実の二つの顔だ。

どちらも併せて引き受けなければ、待つのは光ばかりの空虚な未来。

然もなくば、一道の光明すら見出せぬ真っ暗闇の未来。

光も闇も待ち受ける未来を知るために、光と影が一体となった過去を分かたず受容する。

 

光と影を「止揚」しようとしてきた社会は束の間、光で闇を蔽ったつもりで悦に入る。

しかし、光が消えたあとの闇の力は甚大だ。

それは永遠に思えるほどだから、永遠にしてしまう者もいる。

闇に光を見出したいのなら、光のなかに闇を見よ。

渾然一体としてある世界。そのすべてを享け止める。

拒絶や排除で「理解」しない。それは自他の別なく滅びの美学。

すべての人間が母から分かれ出た存在であること、それだけで十分だ。

多くの(poly)ヨセフ(大工/techneの原義は「木を切る術」)は皆、

マリアに嫉妬し、マリアに救われ、マリアから命を授かるだろう。

 

 

◆シノプシス読んだり、観始めた当初の印象としては、

   やっぱりどうしても『エレファント』の幻影がチラついたりしてしまったのも事実。

   監督自身が、『エレファント』にどの程度影響(触発?)されたのか知りたいところだが、

   そうした「カブり」を避けるためかと思って観ていた「モノクロ」「シネスコ」という仕様。

   スタンダードで鮮やかな色彩も時折定着させていた『エレファント』。

   そんな先行作品との差別化と思しき形式は、ただそのためだけにあったのではなかった。

   シネスコのもつ魅力は、その広がりにあるわけだが、それは壮大さや解放感と共に、

   荒涼なり孤立なりを強調する画を際立たせるのにも最適だ。

   世界が増殖するほどに、個人は卑小と成り行くさだめ・・・。

   そして、モノクロなのに余りにも豊かな色彩を思わせる木洩れ日が見せられたとき、

   これは「色をみせる(より鮮やかに想像させる)」ためのモノクロなのではなく、

   美しい色を失った世界を提示するためのモノクロなんだと確信した。

   色(=多様性)を駆逐する世界。脱色の果て、モノクローム。

 

◆ヴァレリーがインターンの採用試験で受ける「差別」が、

   フェミニスト排斥に銃を乱射する男の思考と重なって見えもする。

   既得権の侵害を危惧するがゆえに固執する旧弊、それが差別の実態だ。

   そこで、「子供は産まない」との弁で採用を勝ち取ったヴァレリー。

   それは会社のためにはなるかもしれぬが、社会のためには?

   いや、社会のためになれば、世界は好くなるのだろうか?

   男は会社に尽力し、社会に貢献しようとするが、

   女は世界を創っているのかも。

   世界を動かすのは男でも。

   男は女に産み落とされる。

 

   そして、社会が拒絶するものさえも(『灼熱の魂』で言えば、異教やレイプ)、

   すべて許容し引き受ける究極の強さを宿した存在として、

   反社会的になり得るがゆえに、善き社会に導く可能性を秘めたる女性。

   本作における「事件後」の分岐は、過去から未来を算出する男と

   未来で過去を清算する女の違いを表すかのようである。

   しかし、だからといって前者を蔑み、後者を讃えたりしていない。

   そのどちらもがあって(双方向な時間の交流によって)、

   新しい命は大切にされるのだろうから。

 

◆「犯人」は謝罪のメモを、母に残そうとする。

   その事実だけで、彼がいかに矛盾をかかえた人間であるかが判然とする。

   その矛盾こそが彼に破綻を来たしたのだろう。矛盾を許せぬ生物である男。

   母への想いを消せぬなら、女性嫌悪を燃やし尽くすまで。

   しかし、殲滅を期待できぬと覚ったとき、選ぶ道は二つに一つ。

   矛盾を認めて生きるか、矛盾を拒んで死ぬか。

 

◆そんな彼とは対照的なのが、面接後にトイレで自己分裂気味なヴァレリーだ。

   絶望的な自己矛盾に苛まれながら「個」室(固執)から抜け出ると、

   鏡が産み出す数多の自分。無限とも思える鏡像(矛盾錯雑した自分)すべてを引き受ける。

   そんな覚悟で自分をみつめる自分。

   「悪人」の男(犯人)とも、「善人」の男(ヴァレリーの友人)とも異なる覚悟。

 

◆自らの行動(「した」ことのみならず「しない」ことにも)に責めを負う覚悟を有する善き男が、

   事件の直前、壁に貼られた「ゲルニカ」(ピカソ)に見入る場面が挿入されている。

   誠実さを兼ね備え、平凡さを滲ませる(優秀な友人のノートをコピーさせてもらったり、

   ちょっぴり遅刻しちまったり)善良な市民は、自覚という十字架に磔にされるだろう。

   二人の男がどこか交錯しつつも重なり合うよな悲劇の重複、連鎖する。

 

 

◇本編が終わり、暗転してエンドロールに入る前。

   事件で亡くなった女性の名前が全員「IN MEMORIAM」として映し出されるのだが、

   14人が同時に画面に映し出されるのではなく、一人ずつゆっくりと表示されてゆく。

   死を悼み、痛みを噛みしめるようにして。その時間の長さは観ている者に、

   これまで提示されてきた物語があくまで「ほんの一部」に過ぎない事実を気づかせる。

   本作でも3人の視点から全く異なる世界が見えてたように、

   失われた14の視点に想いを馳せてみる時間。

 

◇主要人物の一人ヴァレリーを演じているカリーヌ・ヴァナッスは、

   日本で公開中のフランス産スリラー『スウィッチ』(エリック・カントナも出演)で主演している。

   本作ではプロデューサーにも名を連ねており、ウディ・アレン最新作『ミッドナイト~』にも

   端役のようではあるが出演している。更に、ケベック映画至宝の新人グザヴィエ・ドラン

   (詳細後述)の次回作にはなんと主演している模様。今後が楽しみな女優であろう。

   犯人役のマキシム・ゴーデット(本作でジニー賞の助演男優賞受賞)は

   『灼熱の魂』で双子の弟(?)役を演じていた。共感にも反感にも転ばせぬ名演だ。

 

◇来日した監督が、カナダ大使館での試写後のQ&Aで「今後の目標は?」と訊かれ、

   「よき映画監督であり、よき父親」と答えたとか。3児のパパなんだと。(公式サイトより)

   つまり、『渦』と本作の間に8年ものインターバルがあったのは、育休だったとか!?

   もしそうだとするならば、彼なりの「母性」考やら平和を希求する心の昂ぶりなんかが、

   作品テーマや作風の変遷に影響してると思われる。

   (勝手な妄想に基づくトンデモ推理かもしれんが)新しいタイプの映画監督になり得るかも。

   だからこそ、国内で頗る評判が好いとか!?(妄想は続きます・・・)

   本作でも『灼熱の魂』でも国内賞レースで激突(未遂)したグザヴィエ・ドラン

   (『I killed my mother』はジニー賞[カナダ版アカデミー賞]では無視され、

     ケベック映画限定のジュトラ賞では『Polytechnique』と主要部門を分け合った)とは

   対照的な存在なのかも。グザヴィエはゲイで、作風も奇抜で、物語も私小説的。

   ただ、いずれにしてもケベック映画における中堅と若手の二大実力派には違いなく、

   カナダ(というよりケベック?)発トランスナショナル・カルチャーの隆盛極まり始めたか!?

 

 


It's Kind of a Funny Story(2010/アンナ・ボーデン&ライアン・フレック)

2011-10-02 19:49:28 | 日本未公開

 

    Sometimes what's in your head

        isn't as crazy as you think.

 

上記は本作のコピーなんだけど・・・うん、いいね。

ありがちなフレーズで意訳しちゃうと、「自分のことは自分じゃわからない」ってことかな。

でも同時に、「自分を常に判定してかかるのも自分」という、どうしようもない前提あってこそ。

それじゃ、どうやって自分と向き合って(時には向き合わないで)、

付き合っていけばいいんだろう。

 

笑えるか笑えないかって結局、その話自体に内在する効能なんかじゃなく、

それを受け止める側の問題だよね。だから、実は誰もが笑える話って、

実はとっても表層的な、とんでもなく薄っぺらい反射的な作用だったりするわけで。

喜怒哀楽、すべてそう。だから、誰にとっても「わかりやすい」悩みの種なんて、

実はちっとも深刻だったりするわけじゃない。「わかりにくい」悩みこそ、

共感とか共有とかいうシェアが望めぬ分、独りで深化してゆくばかり。

つまらぬことほど、些細なことほど、「止め処」なく肥大化してゆくもので。

でもでも、180度の回転すれば、〈深い深い〉は〈高い高い〉。

内部で続く〈depress〉も、外部へ向けて〈express〉。

 

劇中でノエル(エマ・ロバーツ)たちは、自殺した有名人の名を挙げ合っていた。

表現者こそ、外へとプレスする意思・力・機会・衝動失えば、そうした力は内部で深化。

クレイグ(キーア・ギルクリスト)が回想する5歳の自分が抱える悩みの根源には、

同年代でモーツァルトは既に作曲を始めていたという事実。表現者になれない煩悶。

外に出すほどの中身がないこともあれば、外に出すための適切な方法を持たぬこともある。

 

「笑えない」現実を解消するために、まず必要とされるのが「笑えない」理由の診断。

そうしてそれを治療するための、薬なりオペなりが施されてゆく。

適当なものがみつからなければ、麻薬でその場をしのぐ者も出てくるかもしれない。

しかし、それらはいずれにしたって「その場しのぎ」に変わりはない。

人生において「笑えない」ことが尽きることなどないはずだから。

少なくとも、「笑えない」ことに目を瞑ったり、「笑えない」側面から眼を逸らさなければ。

 

それじゃ、どうすりゃ完治する?

いやいや、完治は無理だけど、「笑える」要素を感知してみては?

そもそも、「滑稽」なんて、喜怒哀楽の混血児。ハイブリッドな物語。

「笑える」要素を感受せよ。「笑えぬ」要素も甘受せよ。

 

受け容れがたい現実ばかりを嘔吐せず、内発的な自我も時には吐きまくれ。

プレッシャー下にいることだって、一緒に謳えりゃこわくない!

いっそ一緒に憂えちゃえっ!!

 

あらゆる種類の親切が、可笑しな歴史を物語る。

共有できない固有の人生。どんなに普通に見えたって、結局特殊な個人の歴史。

だからこそ解り合えたり分かち合えたりする感情が、奇跡に思える素敵なシステム。

違いは嘆くためにはない。笑うためにあるかもしれない。

自分じゃ自分を見られない。自分と他人の区別が難しい!?

だから他人と違う別個の存在だって、忘れぬために負わされる。

だから、それこそ享受せよ。

爽快、Breathe!

そうして、Live!

 

 

◆なんだか思いっきり独善的な感想文状態・・・。

   しかし、結構「形而上的」考察を促すほどの繊細なヒントがちりばめられてるなぁ~などと

   これでも感心しながら観た気がするが、終ってみると、清々しさの感覚こそが上回り、

   やっぱり脳で考えるよりハートで感じろってことだな、という手抜き考察(笑)

 

◆しかし、例えば主人公の描く「地図」は何なのだろう。

   無理に「trace」しなくても、「imaginary」で好いんだよ。って台詞が当サイト的にはツボ(笑)

   彼の描く「地図」とは、いわゆる鳥瞰的な画なわけだけど、それって「相対化」ってことかな。

   なんてウダウダ考えているうちに、「自殺の構造」ってそんな感じ?とか。

   「kill myself」って、主体も客体も「自分」なわけで、そうなると自分を殺す側の自分は

   自分を外から見ている自分だってことなのか?とかね。そう考えると、確かに鬱な人

   (もしくは、鬱なとき)って、大抵自分の内側から見た世界よりも、自分の外側から見た自分

   の像によって(自分の内側にあるはずの)自我が雁字搦めになってしまう感じかなってね。

   だから当然、自分の内側からしか絶対に世界を見ないような輩(いわゆる傍若無人タイプ)

   っていうのは、鬱になりようがないんだろう。

 

◆勿論、本来は主体であるはずの自我を対象化しちゃうっていうのは、

   近代人の病める習慣なのかもしれないけれど、そうした思考こそによって

   近代社会が成り立っているのも事実なわけで、今更自己内だけに留まれない。

   空間的な捉え方のみならず、時間的な捉え方はより顕著。

   だからこそ自分がいなかった時代はもとより、自分がいなくなった時代に拘りもする。

   だからといって、そこでの「不在」を嘆くより、そこへの「貢献」を夢想したい。

 

◆自転車で始まり、自転車で終わる映画。

   だから、好き。だから、俺の映画(笑)

   中学も、高校も、大学も、自転車で通っていた自分。

   会社に勤め始めて満員電車。辟易、うんざり、即行退社(苦笑)

   それから自転車で数年ブラブラ(?)していたら、社会復帰して電車通勤復活するも、

   今ではやっぱり自転車通勤。やっぱり自転車じゃなきゃダメな人生なのか!?

   でも、だからこそ主人公の気持はわかる(いや、何か間違ってないか!?)。

   劇中の回想シーンで登場する、親友とあてもなく自転車でブラブラして

   他愛のないことで楽しめていた中学時代の光景とか好い好い、わかる。

   歩いてたり、乗り物のってたりすると、結構会話がメインになったりするから、

   常に「相手側」への意識の配慮が増幅しがち。でも、自転車だと自分の領域保ちつつ、

   必要に応じて他者と交信する感じ。(そんなこと意識したことなかったけどね。)

   最近やることないけれど、ポッカリ時間が空いたとき、自発的に迷子になるサイクリング

   とかやってたなぁ。(ある時間までは好き勝手に遠出して、予め決めた時間になったら

   帰宅を目指す[なかなか知ってる道に出ないと焦るんだけどね]みたいなこと。)

 

◆思い出話が過ぎたけど、本作が自転車映画の証拠に、

   入院前と入院後に主人公が口にする「ハンドル」がある(違うだろ)。

   他の皆は全てを巧く「handle」できてるのに、自分は・・・

   そんな彼も退院するにあたっては、何とか「handle」できそうな気がしてきた、と。

   そして、ラストの自転車のハンドル握るシーンへと。

   いいじゃん、いいじゃん、自転車映画。

 

◆久しぶりにジェレミー・デイヴィス見た気がしたけど、

   彼が『ミリオンダラー・ホテル』で演じてた役って、本作なら患者側のタイプだったから、

   ちょっと不思議なキャスティング。おまけに、主人公がノエルをライブに誘う練習してるとき

   最初に口をついて出るバンドは「U2」。(『ミリオンダラー・ホテル』の原案はボノ)

 

◆サントラが極めてゴキゲンなのは、俺なんかが語るまでもないのだろうけれど、

   ブロークン・ソーシャル・シーンってこんなに映画に絡んでいたとは・・・

   でも、そもそも俺が彼らをしっかり認識したのって、『Wicker Park』のエンディングで

   流れてくる印象的な「Lover's Spit」だったっけ。

   『The Tracey Fragments』のサントラもBSSがスコア担当だって聞いて即買いしたものの、

   映画自体を観られていないので、俺のなかではいまいち認識未満・・・。

   おまけに、本作の監督も務めているRyan Fleckの『Half Nelson』でもガッツリ・タッグ。

   ってか、その『Half Nelson』ってめちゃくちゃ評判高いじゃねーか。知らなかった・・・

   内容的にも個人的には必見だし、何より間違いなく「今最も注目すべき俳優」の一人である

   ライアン・ゴズリング主演とか、めちゃくちゃマストな映画じゃねーか・・・

   もうすぐ『モンスター上司』とか公開されるし、『Drive』は日本公開決まってるみたいだし、

   ジョージ・クルーニーの新作(『The Ides of March』)にも出てるし、

   そうしたゴズリング祭りの一貫として(便乗して)、公開してくれたりとか・・・ないよな。

   自力で観るしかないのかな。ヨーロッパやアジアの未公開良作の受け皿(映画祭やら

   特集上映)って意外と充実してるように思うけど、アメリカ映画ってその点不遇で不憫で

   不便・・・。

 

◆サントラといえば、なかでも意表を突かれた「Where is my mind」ピアノ・ヴァージョン。

   ばっちりな選曲な上に、ピアノ一本であの場面に・・・素敵過ぎ。

   で、それを奏でるはフランスの新世代ピアニスト、マクサンス・シラン

   めっちゃ面白そうな存在じゃん。注目しないわけにはいかないな。

 

[追記]映像特典にはNGのようなものが収められていたが、

          ザック・ガリフィアナキスが妙なことばかり云うなかで鬱表情しなきゃいけない人々が

          とにかく笑いをこらえるのが至難だったようで、皆(特にキーア・ギルクリスト)が

          何度も吹き出していて、なかなかファニーな現場だったようだ。