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Living Is Difficult with Eyes Opened

裏切りの戦場 葬られた誓い(2011/マチュー・カソヴィッツ)

2012-12-18 23:56:25 | 映画 ア行

 

原題は「L'ordre et la morale(秩序とモラル)」。

英題は「Rebellion(反逆、反乱、反抗)」。

そう、これは邦題から想像するような戦争映画ではない。

戦争のメカニズムというより、戦争を駆動する政治のメカニズム。

大衆と戦場を都合好く分かったり利用したりするポリティクス。

それを擁護も糾弾もせず、自戒に耐え続ける本作。

今年最もスクリーンと渾身で対話した一作。

この時期に見られる偶然という必然。

これはもう、必見。

 

実は本作を私は2回観た。

1回目はチネチッタで観たのだが、

デジタル上映素材の画質(特に色味)が好くなく、

痛みを産むであろう光景の美しさの現出叶わず失意。

シネマスクエアとうきゅうでの上映がフィルムだという情報を得て、

最終週に駆けつける。そう、東京では今週木曜(20日)まで。

緩慢なカメラの動きとシネスコの儚き雄大さ。

慈悲深き空の青、ヘリと車の無情な青。

緑の深さと闇の奥深さ。

 

◇物語の背景や史実的な側面は、公式サイトなどで軽く予習して行った方が好いかと。

 

◇今週観るべき映画は、何よりも本作であるように思う。

   本作に私が強い感銘を受けたのは、主人公の内面を軸とした視点ながらも、

   大きな社会のダイナミクスを淡々と描き、そこに投石などして終わらない。

   政治がかかえる必至の欺瞞は、「民意」が嗾けては保証する。

   そうした絡繰り自体は直接描かれることはないが、じりじり伝わる。

   若き日のマチュー・カソヴィッツは本作で描かれるような事実を知らず、

   「真実」のみを受け取ってしまっていたという事実を知ることからこの映画は始まった。

   そして、〈裏切り者〉であるフランス人大尉の立場から眺めることにこだわった。

   利用された「真実」の向こうにある事実が大衆には見えないように、

   権力を常に擁護するはめになる大衆が本作では見えてこない。

   そのフェアな反転が、民主主義の陥穽へ注視を促す。

   ここで描かれる悲劇の書き手は誰なのか。

   そこには常に「民意」が作用してないか。

   自覚的にしろ、無自覚にしろ。

 

   戦闘に向かう兵士達を映すカメラはNikon製。

   世界はつながっている。堅い絆で。

 


新しい靴を買わなくちゃ(2012/北川悦吏子)

2012-10-12 23:57:32 | 映画 ア行

 

この映画は、貶さなきゃ。

信頼される映画ブロガーになるために。

それでも素直に、ならなくちゃ。

 

『ハルフウェイ』は観ている間中、かつてないほどの苛々に見舞われ続けていたくせに、

何を間違ったのか、どこかで予期せぬ倒錯が起こってしまい、

Salyuの声が聞こえるや否や、ぎゅっと抱きしめたい。

同じ体験が再び起こるとは。

 

ツッコミどころは挙げればキリがなさそうだけど、

もう後半からはそういう部分が常態化しちまったというか、

完全免疫が培養されてしまったからか、気にならないを通り越して、

その痛痒さに「もっともっと」な気分すら覚え始めてしまったり。

でも、やっぱり・・・

誰からかの着信かも確認しないで電話出るとか、

母親が千昌夫のファンで千と命名とかいう余計な小ネタとか、

お守りお兄さんとか不幸自慢とかの説明的ご都合設定とか、

テレビドラマだったらあっさりと観念できる力業も、

映画館での沈黙鑑賞では受け容れ難い。 

 

「すき家」とか「高須クリニック」とかの固有名詞で引っ張るテレビ流は見事に不発ながら、

それはそれで《映画》というフィールドにおいて何が求められるかを再考する契機となり、

一方で、「すべからく」とかっていうテレビ風ですらない不自然唐突は意外なフックに。

いずれにしても「こういうのが思いっきり受け容れられていた時代」を知ってる身としては、

そこから発する気恥ずかしさ全てがノスタルジーへと転化可能だったりする恐ろしさも。

当時あれだけ癇に障りまくっていた北川脚本に、気づけば相当心を許し始めてる。

諸行無常に無様に立ち向かっているという自覚すらない澄まし顔に一種の敬意すら。

或る意味、当時ヒットした作品群に特段思い入れもない分、その不変を愉しめるのかも。

そして、そのスタンスはプロデュースという名の実質共同監督、岩井俊二にも当てはまる。

『ヴァンパイア』が10年前もしくは20年前に撮られていようが驚かないだろうことに驚く。

その意固地や成長の無さに呆れたり憤ったりする人の方が健全に思うのだが、

ここまでの偏執狂を目の当たりにすると、自らの内なるパラノイドが刺激され。

やはり「物心つくまえ」に触れたものの影響はデカ過ぎて、

私が映画を自覚的に見始める前に「自然に美しい」とか思っちゃっていた映像の一つに、

岩井俊二の映画が自然と入っていたりもしたものだから、その頃の感覚は未だ消えず。

もしかしたら、眼前の映像を観ているのは「今の自分」などではなく「あの頃の自分」

なのかもしれないけれど、それならそれで、それは或る種の映画体験な気がしなくもない。

時間を旅する。

 

中山美穂の劣化ぶりを指摘する声は当然あふれてる。

俺も最初の登場シーンで公開処刑かと目を疑った。

しかし、徐々に(相対的にだが)「修正」され、魅力的に映るように設計されている。

それでも彼女の絶頂期に本気で魅せられていた人ならば、

複雑な想いが去来するだろう。

私も実は、中山美穂にちょっとした思い入れがある。

彼女の深夜ラジオを聴く習慣があったから。中学生の頃だったか。

日曜の深夜は終夜放送ではない。放送が終わる直前までのプログラム。

それが彼女の番組だった。あの声は深夜に、それも日曜の深夜に、映えた。

そしてラジオとは本当に奇妙な親密さを秘めたメディアであって、

それ故に生じる「知っている」感は無辺際。そして、半永久。

期待よりも受容ベースで受け止められる適度な距離感。

いや、むしろ、素直に「こっちも年をとったな」って認められ、

お互いが経た年月を受け容れ合うよな気持ちになってしまう。

 

相手役の向井理の「これが演技だ」と言わんばかりの「演じる」ぶりは、

バラエティ等での自分披露好きな一面が暴走する(コーヒー煎れたり、野菜切ったり)

と同時に違和感を払拭。いつしか八神千などでは全くなく、完全に「向井理」役。

前半が北川主導のトレンディドラマタッチだとするならば、

後半は岩井主導のドキュメンタリー風。

中盤の自分語りごっこを境に。

 

その後半でいきなり魅せられ始めて困ってしまった。

余りにも茫漠たる退屈にのみこまれた時間の全てが見事に助走と化し、

予期せぬ飛躍が訪れる。船に乗ったアオイとセンがセーヌ川から見るパリの街、

そして冬と春のあはひの斜陽が包む二人の時間。流れる。止めたいけど、流れる。

移ろう。そのままでいたいのに、移ろう。それでも、あと少しだけ、この距離を愛したい。

 

落ち着きがなさ過ぎるカメラは、余りにも粗雑すぎる眼差しは、

パリの風格から受け容れてもらえずに、だから屋内へと逃げ込んだとばっかり思ってた。

セーヌ川をゆく二人の眼差しだけが手に入れた、静かな安寧。

(それはラストシーンへと引き継がれる。)

そのために「止まる」「留まる」ことを拒み続けたカメラの視線。

アオイとセンの無限(夢幻)に感じる束の間を、私も一緒になって希う。

神様、もう少しだけ。

 

アオイの歩く後ろ姿で終わっていたら、完璧な不完全さが宿った気がする。

もしくは、ロビーで寝入ってしまう兄妹で終われば、おとぎばなしな感じが好い。

しかし、岩井か北川かどちらか判らぬが、この作品の選んだ終着駅には、

ひとり列車を待つ女。いつ来るかはわからない。でも、それは必ずや始発の列車。

終電に乗り損ねた大人たちにはいつも、始発に乗れる喜びが待っている。

 

 

◇東映の荒波&三角形が出てきた後に始まる本作。

   あのオープニングはもうすこし配慮してあげても・・・

   ハリウッドがよくやってる微妙なアレンジでは解決できそうもないけど。

   というか、例えばフォックス・サーチライトとかみたいな子会社を設立して、

   本社制作のものと差別化図るとかって不経済だったりするのかな。

 

◇センが「お風呂で寝る人」なのは、『海がきこえる』オマージュなのか!?

   (おそらく北川の趣味からして全く関係なさそうだが)

   個人的思い入れから勝手に許せてしまった、というか懐かしさの入れ子構造。

   (本作自体、私のなかではノスタルジーだけで成り立っているので。)

 

◇ところで、本作のスクリーンサイズってもしかしてヨーロピアン・ビスタ?

   だとしたら、妙なこだわりだけど、そういう偏執狂も嫌いじゃないんだよな。

   昔惚れた誼みって、本当に恐ろしい(笑)

 

◇『ハルフウェイ』というタイトルは、

   撮影中に北乃きいの口からたまたま発せられた「誤り」から付けられたという。

   本作のタイトルも、中山美穂のアドリブに由来したりする・・・訳ないか。

   でも、あのタイミングのあの口調は、ちょっぴり吹き出してしまったよ。

 

◇本作の裏テーマ(?)は、新しい猫飼わなくちゃ。だったのね。

   逃げた猫はいま、戻ってきた!?

 


エージェント・マロリー(2011/スティーヴン・ソダーバーグ)

2012-10-03 23:59:21 | 映画 ア行

 

ハリウッドで絶大なる力を手にしている二人のS.Sバーグ。

スティーヴン・スピルバーグが「みんなの」幸福を運んで来てくれるとしたら、

スティーヴン・ソダーバーグは「自分だけの」愉しみを偏執的に味わい尽くす。

本作でもソダーバーグは自身の《支配欲》を遺憾なく発揮。遖!!!

 

よって、彼の趣味に相容れない人間は本作においても当然相手にされない訳で、

これほど豪華キャストでジャンル的にも間口が広いはずの本作でさえ、

媚びるどころかサービス精神を微塵も見せぬ潔さには、

『ボーン・レガシー』のトニー・ギルロイは羨望必至!

ソダーバーグと書いて唯我独尊と読む。

だから好きになった方が負け。

 

ガールフレンド・エクスペリエンス』でAV界の女王を引っ張り出してきたと思ったら、

今度は女子総合格闘技界の女王をしれっとすかさず主役に抜擢。

この「ちょっと興味ある」からの産地直送的鮮度の高さこそが、

心のままに興奮享受で鼻歌まじりの一丁上がり。

思いついたら、やりたくなったら、やる。

それだけ、やる。

 

そんなん許されるの(この規模で)、ソダーバーグくらいじゃない?

そう考えればもう、或る種の「文化」ともいえる域に達しそうな奇妙な存在。

勿論、カンヌのパルムを史上最年少とかで獲得しちゃった結果の代償として、

計り知れない「肩の荷」を早期に背負い込んでしまったことからきっと、

随分とハイスピードで大人にならなきゃならなかったんだろうなぁ的一足飛びで

随分と歪なフィルモや道程を辿ってきている気もするソダーバーグだが、

そういう懊悩の片鱗を垣間見せることなく「興じて見せる」プロを貫く姿勢に感心。

 

初期の007シリーズが好きだったというソダーバーグ。

(一番のお気に入りは『ロシアより愛をこめて』らしい。)

そんな可憐な想いを冷静に培養し、研究の結果、原題に「自分印」で甦らせる。

ジーナ・カラーノという飛び道具も存分に弄び、弄ばれて、翻弄イーチアザー。

彼女に関わる男性たちは、ジーナの演技未経験というスリリングと戯れて、

格闘経験豊富にノックアウト。キャスティングのアンバランスによるバランスが、

不要なフェミニズムをあっさり廃し、彼女を中心にしながらもドライに並置。

軽く誘っては移入を拒む焦らしの達人ソダーバーグは本作でも沸点未到達の全力疾走。

 

ただ、今回はクリフ・マルティネスのような牽引の音楽との駆け引きはない。

もう一人の、新しき盟友デヴィッド・ホルムスによる見事なリバイバルがアライバル。

『ガールフレンド~』では、デヴィッドのソロアルバムの曲まで流しちゃう仲良しだから、

本作でもきっと「よう!デヴィッド!こんな感じでよろしくメカドック!」

 

『インフォーマント!』では

マーヴィン・ハムリッシュ(合掌)を見事に引っ張り出して来たものの、

後発の育成への配慮もあってか、新たな職人を見事に育てつつあるように思う。

デヴィッド・ホルムスはソロ・アルバムでも多様な曲調にチャレンジしていたが、

本作のサントラもスパイ・テイストに『ダーティーハリー』のラロ・シフリン的ドキワク感を

仕込ませて、全編を包み込む洒脱な不穏をさりげなくアシストしてくれる。

サントラ仕入れて予習していた時は、タイトル曲である「Haywire」が冒頭でバーン!

ってなるかと思いきや、まさしく「とっておき」でぶっ放してくれた爽快感は至極!

(撮影も編集も自分でこなそうとするソダーバーグにとってはやはり、

  音楽という要素は極めて重要な「他人任せ」なのだろう、きっと。)

 

ソダーバーグは、

「物理的に不可能なことは誰にもして欲しくなかったし、

この世にまだ存在しないようなテクノロジーを使うのも嫌だった」と語っている。

更には、「映画なんだから、時にはウソも必要だなんて逃げたくない」とも。

そんな発言にも納得できるのに、どこか見事に「ウソっぽい」。

そのオモテしか見せないからウラばっかが見えてくる感。

「思わせぶり」は観客の自作自演?

 

◆スタント・コーディネーターのR・A・ロンデルの話。

   「僕たちがジーナに教えなければならなかったのは、

     相手を実際に殴らない方法だった。(中略)

     実際、彼女は当初、何度かノック・ダウンさせたりもしていたよ。」

 

◆本作に情事そのものは登場しないのに、常時ラヴ・アフェアな空気が充満。

   まさに、ジーナが「演じる」格闘シーンが放つエロティシズムは超一流。

   女優初挑戦ゆえに、やはりラブシーンそのものではこうもいかなかったろう。

   全身全霊、前戯から全力の体当たり。駆け引きなしの真剣勝負。危険な情事。

 

◆「場所」が変わるたびに画調は転換し、質感も自由にコントロールしてる印象で、

   レトロな淡さ(とりわけ本作では「光」のそれが執拗で好い)とエッヂなデジタル質感が、

   せめぎ合うようにして相互乗り入れし、それなのにソダーバーグによって掌られる。

   それでいて、必要以上の「トリップ」で魅せようとはせずに、あくまでどの地もフラット。

   不要な《移動》を描くことなどせず、あくまでどの地にいても現場で仕事場。それだけ。

   各地の俯瞰ショットの観光っ気のなさが物語る。オーシャンズなラスベガスと正反対。

 

◇作品を気に入ってしまうとつい悪い癖で(笑)パンフを購入してしまうのだが、

   モンキー・パンチのちょっとした寄稿はちょっと面白く読ませてもらったが

   (「決めた!! 『ルパン三世』のハリウッドでの実写版は

      スティーヴン・ソダーバーグ監督に撮って貰おっ!!」とのこと!!!)

   高橋ターヤンとかいうライターのコラム(?)が見事に単なるInfoに過ぎなかったり、

   スタッフ紹介に本作の要たる音楽を担当したデヴィッド・ホルムスすら掲載なし。

   キャストに至っては、マチュー・カソヴィッツすら省かれちゃってますからね。

   ジーナの見事なアクション場面を収めた写真も皆無・・・

   編集:ファントム・フィルム、がんばってください。

   

◇脚本のレム・ドブスはロンドン生まれ。(18歳でロサンゼルスに)

   ソダーバーグとは『イギリスから来た男』(あぁ、懐かしの恵比寿ガーデンシネマ)

   以来ぶり3度目のお仕事。こういう長期インターバルはさんで複数回のタッグって

   ソダーバーグ結構好きな気がする。意図的意識的にマンネリ回避!?

   カリスマ革命家の大河ロマンの後には、AV女優に高級娼婦を演らせてみたり、

   ジェイソン・ボーンにオバカな内部告発コメディやらせた後は、

   アカデミー賞俳優大集合でパンデミック・フェスティバル!

   そして、本作で格闘技の女王に見事な「絡み」を仕付け終わったら、

   旬な男優たちを脱がせてストリップ!

   究極の自由人のようでいて、かなり巧緻な知能犯。

   やっぱりソダーバーグからは目が離せない。

 


踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望(2012/本広克行)

2012-09-11 23:58:08 | 映画 ア行

 

あの『少林少女』『曲がれ!スプーン』の本広克行監督最新作!

制作は『SPACE BATTLESHIP ヤマト』のROBOT!

プロデューサーに『アマルフィ 女神の報酬』の亀山千広、

同じく『アマルフィ~』からは主演の織田裕二、音楽の菅野祐悟も参加!

脚本は勿論、『恋人はスナイパー』の君塚良一。

 

ま、そう考えれば、

「踊る」シリーズにはいかに魔法がかかっているかが判るというもの。

TVシリーズもTVスペシャルドラマも映画版も、実はほとんど観てたりする。

が、映画版の3作目(ヤツらを解放せよ!)は観に行かず、

そして未だ観ておらず。という、マイ「踊る」プロフィール。

 

映画版の1作目は劇場では観ていないんだけど、

バイト先の高校生が「マジ面白かった!観た方が好いっすよ!俺もまた観たい!」

みたいに熱く語っていたのをよく憶えてる。テレビシリーズ未見の彼が。

それだけ開かれながらも熱狂する要素に満ちていた黄金時代!?

シネコンでバイトしてた時も、「踊る」映画1作目の動員力は語り草になってたな。

(俺がバイトする前の話なので聞いただけだけど。

  勢い的には『もののけ姫』や『タイタニック』に劣らぬ凄さがあったらしい。)

そして、101億円という超サプライズ特大ヒットという結果を残し、

映画版の第2作が173.5億円の日本映画(実写)の歴代1位という記録を樹立。

質は低下を始めるも、もはや事件は日本全国で起こってるレベルにまで。

動員が1250万人って・・・。日本じゃ、『アバター』より稼いでるんだよ。でも・・・

「国民的」級に浸透した結果、従来の魅力であったマニア誘因オーラは減退。

シリーズの精神的支柱「和久さん」役いかりや長介がこの世を去り、

柏木雪乃役の水野美紀はバーニングを去り、「踊る」メンバーの集結は不可能に。

そんな事情もあってか(作品自体も凄まじい酷評の嵐だったけど)、

前作の半分も稼げないというシャレにならん惨敗ぶりだった映画の3作目。

こうなると、「死ぬまで(勿論、「踊る」の方が)お供します」的殊勝なファンか、

「昔は好かったんだけどねぇ」的遠い眼の懐古趣味ファンくらいしか見向きもしない!?

4作目になる本作は、一応「ファイナル」を謳ってはいるけれど、それで釣れるだろうか!?

ま、ここに釣れたのが1匹いますから、そこそこ釣れそうな気もします。

 

ただねぇ。

何でちゃんと「完結!」って感じで結ばないのだろう・・・。

勿論、シリーズファンが「思い思いにあれこれ想像できる」楽しみを残したのか?

とも考えられるけど、これまでの往生際の悪さを考えると、

「あわよくば調子乗って続けるつもりもある」的な気配を感じてしまう観客は

少なくないと思う。いや、たとえ続編が想定されている作品だったとしても、

あの空中分解のままLove Somebodyなエンドロールはね・・・

ま、最も感慨深かったのは、

これまでのLove Somebodyダイジェストを聞きながら眺める、

「踊る、思い出のアルバム」だったりしたのも事実だけど。

とはいえ、無駄に上映時間が長くなってきていた2・3作目に比べれば、

今回は何とか120分台に留まって、ややタイトに引き締まってる気もする。

少なくとも『るろうに剣心』に比べれば超素晴らしいRHYTHM AND TEMPO。

前半の空回り過ぎるドヤ顔小劇場な停滞空気は先日放送されたスペシャルと同種。

後半はちょっと「古き良き」な踊る空気が漂っていた気もするけれど、

バディ感が異様に不足。ま、そもそも「3」からの参加組が活躍しても、

オールドファンはあまり面白くないだろうし、かといって昔の仲間は「再現」できないし、

そうなると《青島&室井+恩田》くらいで何とかまとめるしかなかったのも事実かな。

でも、そういう事情が常に透けて見え始めた時点で、本シリーズの夢は覚め始め、

観ている方もすっかり冷めた目で興醒め自嘲気味な享受しかなくなっていったのかも。

とはいえ、十年以上の時間の経過を実人生と重ね合わせながら享受できるのも、

どんなに凋落や迷走に陥ろうとも、「継続」による蓄積の賜物でもあるだろう。

同じ役を演じ続けるのが明らかに辛そうな深津絵里や柳葉敏郎に比べて、

本当に心底「青島俊作」を愛している織田裕二のプライベート・プロ意識の暑苦しさは、

それはそれで何処か尊敬しちゃう説得力から免れ難い。

 

素直に清々しく「おしまい」って気分になれぬのは残念だけど、

まぁ憎めない小品に仕上がってるし、区切りつけるには適当な節目になった気もします。

 

◆冒頭の『ALWAYS お台場の夕日』は、ちょっと懐かしくも新鮮なシークエンス。

   ROBOT制作だけにセルフ・パロディ的要素と、かつてのリミックス的なノリが交錯し、

   適度な悪ふざけはそんなに悪くなかった。けど、演出のキレの悪さは最後まで・・・

   『サマータイムマシンブルース』とか『曲がれ!スプーン』とかの演劇翻案映画

   にハマってる本広監督が、「踊る」からダイナミズムをすっかり削ぎ落としちゃった気も。

 

◆あと、「踊る」は基本コメディ要素をふんだんに入れながら、

   適度な批判精神と友情物語が全体を貫いているのが魅力。

   だったんだけど、いつしか「泣き」の展開があまりにも直接的すぎたり、

   色分けされ過ぎたりして、「笑い」の要素との好い塩梅の融合がなくなっていった。

   間接的なアプローチにジーンと来る、みたいな瞬間が消えていったのは寂しい。

 

◆でも、終盤に青島が口にする言葉、

   「正義なんて胸にしまっとく位が好いんだよ」(だったかな)にはグッときた。

   そう、この感じこそが「踊る」シリーズ唯一無二の加減なんだよな。

   うん、好い言葉じゃねぇか。これ、聴けただけでも好いかな。

 


アベンジャーズ(2012/ジョス・ウィードン)

2012-09-08 22:52:20 | 映画 ア行

 

ようやく観ました。

実際、かなり楽しみでした。

『グリーン・ランタン』だけは観てないんだよなぁ・・・

なんてトボけた懸念が頭を過ぎる程度の微妙さはありながらも、

気づけば一応全作劇場観賞済ませてました、な殊勝さも。

なのに今週ようやく観ました。

これで夏が終われます。

 

ウレシー!タノシー!!ダイスキ!!!

 

とってもとってもとってもとってもとってもとっても大好きよ!

 

確かに前半はダレる(けど、あれ2回目観たら絶対興味津々なはず)ものの、

一旦スイッチ入ったらもう完全幸福ですわ!

幸せって何だっけ何だっけ?アベンジャーズを観ることさっ!

ってなくらいに、もうニヤニヤブハブハドッカーンってなわけです。

 

噂通り、いちげんさんウェルカム!なユニバーサル・デザイン(?)は、

シリーズのファンが自分なりに楽しむことをも、思う存分可能にしてくれる。

それでいて、今まで彼らを追いかけてきたファンたちの目に映る、

馴染みと新鮮の絶妙なバランス、そしてブレンド。

これぞクロスオーバー、娯楽の極上交差点。

 

内容に関してちゃんと語るに足る能力は元々ないけれど、

とにかくそれ以前に「語ろうとする」左脳が見事なまでに完全停止で、

ひたすら体感的愉しさで爆走し続ける!なんで、こんなに燃えるんだ!?

 

いくらシリーズ初見の人でも十分楽しめるからって、

そうした人がどうしてこういった「世界」にすんなり入っていき、

更に魅せられては素直に興奮必至だったりするのだろう。

そこで又、私はくだらぬ妄想にいきつくわけです。

 

こ、こ、これはまさに「多神教」的世界だ!

だから、日本人もすんなりハマり、楽しめるのでは!?

そもそも、色んな神様(どれもが個性的であり、その関係の序列化も絶対的ではない)が

日本の、あるいは日本人が好む物語には実に多いような気がする。

日本古代の神話の世界はまさにそうだが、

かつて日本中の子供たちを魅了した「ビッックリマン」の世界も同様だ。

ドリフターズだって、聖闘士星矢だって、日本の戦国時代も中国の三国志も、

AKB48だって『桐島、部活やめるってよ』だって、みんなみんな多中心で流動的。

更に、本作にはコミカル要素がふんだんに盛り込まれているが、

日本にも神を「神格化」し過ぎぬ傾向が古来よりある。

江戸時代には、あらゆる神々が遊郭に出入りするなんて話がベストセラーになったとか。

つまり、親近感のあるヒーローが、誰か一人を絶対的な中心とせずにいっぱい登場!

日本人の心理に合いすぎる!

(おまけに、東映の戦隊ヒーローものにハマった幼少期を送った世代にとっては、

  更に何とも言えないバック・トゥ・童心が待っている!)

 

そう考えると、「絶対的存在」が突出した能力や存在感を発揮して、

ヒエラルキーの頂点に孤高にそびえ立ち続けることを醍醐味とする

本来のアメコミヒーローもののストーリーテリングには馴染みにくいが故、

日本では1人のヒーローを中心に据えた従来のアメコミ映画には惹かれにくいのかも。

私は、そういう世界観が好きというわけではないけれど、勿論両方好き。

こんな「全員集合」が夢のように楽しいなんて、いつか見た夢くらい完璧だ。

 

◇ちなみに、私のなかでこれまでのシリーズ作を好きな順に並べると、

   マイティ・ソー

   インクレディブル・ハルク

   アイアンマン

   キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー

   アイアンマン2

   といった感じかな。

   上3作はどれも最高に面白かった。

   下2作は・・・睡魔との格闘まで挿入されるバトル!

   にしても、本当どのキャラも見事なまでに活かされてたなぁ。

   これを劇場観賞1回に留めておくのはもったいない。

   もっと早く観ておれば(知っておれば・・・)。

   とにかく、あと1回は観たいっ!