結局、今年は13作品(短編1作品含む)を観てしまったLBFF2012。
台風の影響で購入済チケットを無駄にしてしまったこともあり、
バルトの仇をブルクで討つ。(長崎ほど離れちゃいないが同じ港町、横浜)
まずは予想外にとっても愛おしくてたまらなかった作品から。
トロピカリア(2012/マルセロ・マシャード)Tropicália
1967年から68年にかけてリオを中心に起こったカルチャー・ムーヴメント“トロピカリア”。
軍事政権下にあった当時のブラジルで、様々な抑圧への抵抗運動として
音楽・演劇・映画などを媒体とした表現活動で社会を変える試みが行われていた。
カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルなど、
今も第一線で活躍するミュージシャンの当時のライブ映像は勿論、
激しい抵抗運動の様子や時代の旗手となったアーティストへのインタビュー、
弾圧のニュース映像等も交え、トロピカリア・ムーヴメントの本質に迫っている。
以上の紹介文はチラシから引用したものなのだが、
その内容からイメージするプロテストやレジスタンスな印象は本作にない。
むしろ、作中でもしばしば語られるように、何かに立ち向かったりしないことで、
心のままにより自由な発想や表現を求めた青春の光と光をひたすら謳歌。
勿論、体制側への批判精神が皆無な訳ではないだろうが、
トロピカリズモに則り、拳を振りかざしたりせず、
行進せずに自由な闊歩。
それは述懐といった趣の俯瞰でもなく、
まして憧憬などを伴った郷愁旅行に堕することもなく、
体験した人もそうでない人も、知ってる人も知らない人も、
トロピカリアの真っ只中に入り込める開放的なつくりが嬉しい。
手をひっぱられることはないのに、自然に手をつなぎたくなってくる気分。
シネフィルだって熱狂してしまいそうな、冒頭の引用。
そう、カエターノ・ヴェローゾがトロピカリアの着想源として語った『狂乱の大地』。
そして、ほんの僅かながら登場するグラウベル・ローシャ本人のインタビュー映像。
初めて本人の喋ってるところ観て、勝手に一気にハイボルテージ。
私自身、こうした音楽周辺には全く詳しくなかったものの、
当時の《空気》を映像によって再現することに忠心たらんとする純粋構成で、
映像手法のあの手この手の可愛らしさに素直に心を託せる御機嫌な87分。
誰かのインタビューで、トロピカリアは相反するものや矛盾するものを
《統合》する精神に溢れてると語られていた。そう、《止揚》する弁証法でなく。
だからこそ、反体制だけに肩入れすることもなく(だから時に左翼に批判されもしたとか)
闘わぬヒッピー、花がどこへ行こうとも問い糾さない被支配じゃない非支配。
終盤には現在の彼らが語る姿が映し出される。
「亡命がなかったら音楽はそのうち止めていたと思う」というヴェローゾの言葉に
胸が熱くなる。否定や糾弾や怨言を微塵も滲ませることなく、これまでを受け容れる。
ムーヴメントは途絶えても、エモーショナルなモーション永遠に。
ラスト。
スクリーンに映し出されたかつてのライブ映像に合わせて口ずさむ彼らの姿に、
当時も現在も知らぬ私までもが胸を打たれ、しかしそれは殴打じゃなく優しき按撫。
ほのかにぬくもった胸いっぱいの愛こそが、トロピカリズモの消えない遺訓。
ヴィオレータ、天国へ(2011/アンドレス・ウッド)Violeta se fue a los cielos
チリを代表するアーティストの一人、ヴィオレータ・パラの半生を映画化した本作。
こちらも全く「現実」に関する知識は皆無で臨んだ観賞。
しかし、映画として興味深く観られる充実の一本。
今年のサンダンス映画祭ワールドシネマ(ドラマ)部門で審査員グランプリを受賞。
同映画祭で審査員特別賞を受賞した『我が子、ジャン』は今年、
SKIPシティ国際Dシネマ映画祭のコンペティションにも参加しておりそちらで観賞。
(明日、アテネフランセ文化センターでの上映もあり。)
たった2作から結論づけるのも無理があるが、米国部門のコンペ作品に比べて、
ワールドシネマ部門の作品群は些か渋いというか、地味な新しさで勝負している印象。
誠実な冒険というか、地に足つけたアートの探究というか。
奇しくも、『我が子、ジャン』と同様に「流動する時間軸、交錯するあらゆる時間」。
彼女の大まかな略歴だけは頭に入っていたので、自分でも再構築しつつ観ていたが、
むしろ本作の意図としては前後不覚な酩酊こそが正しい鑑賞姿勢かも。
前日に観た『パリの中で』でルイ・ガレルが映画館の前に立ち止まると、
そこにあった看板は『ヒストリー・オブ・バイオレンス』と『ラスト・デイズ』。
そんな記憶の作用か影響か、どことなく『ラスト・デイズ』の彷徨漂流を想起してみたり。
半生の映画化といっても、あくまで悲哀と破滅によって全体が包み込まれており、
しかしそれはおそらく彼女の生を「そのように」理解したということの表れであって、
そうした解釈にもとづいて提示される高揚場面には、悲しみこそが激しさを助長する。
主演のフランシスカ・ガヴィランの魂から込み上げてくるような歌声は実に素晴らしい。
フランシスカが1973年生まれ(つまり、まだ30代!!!)とは信じがたいほどだ。
撮影を担当しているMiguel Ioann Littin Menzは、次回作ではハリウッド進出のよう。
中南米を代表する伝説のボクサーのロベルト・デュラン(ガエル・ガルシア・ベルナル)と
トレーナーのレイ・アーセル(ロバート・デ・ニーロ)の人生を描いた
『Hands of Stone』の撮影を担当するようだ。ラテンビートみなぎる映像を期待したい。
ゾンビ革命 フアン・オブ・ザ・デッド(2011/アレハンドロ・ブルゲス)
こちらは公開も決まっいてるが、関東では新宿武蔵野館のみみたいだから、
是非この機会に観ておきたいと思ったのだが、大正解!
なぜなら、とにかく音楽が好かった!
『ヴィオレータ~』、『トロピカリア』と観た流れで臨んだことも影響してるかもしれないが、
ラテンロックなフュージョンといった趣で、スコアがとにかくグルーヴィー!
音楽担当の名はIMDbには載ってなかったが、海外公式サイトにあった!
Sergio Valdésって言うのか。オリジナルアルバム早速注文しちまった。
横浜ブルク13の繊細かつクリアな音響で届けられる音楽の、
うねるスネアの響きは極上で、前のめりなのに後ずさり。
それでいて、しんみりスコアも周到準備。
音楽で言えば、ラストで流れてくる「マイ・ウェイ」が何とも言えず、分裂気味な感傷演出。
更にエンドロールで流れる同曲のロック・ヴァージョン聴きながら、ある映画を想い出す。
ジョージ・A・ロメロが久っ々に撮った2000年の作品『URAMI~怨み~』。
これ、なんとシアター・イメージフォーラムでロードショーしたんですよ!
で、そのラストで不意打ち上等で流れてくるのがパンク版「テイク・オン・ミー」!
いやぁ、私のロメロ体験はそれが初だったので(元祖ゾンビ映画とか未見だった)、
何とも言えない変な映画をイメフォの地下で観た締めにそれで、妙にアガった記憶。
さて、本作はさすが「キューバ発ゾンビ・コメディー」だけあって、
そのノリも或る種独特なうえに、起こる事柄への対処がいちいちビミョー。
でも、その「ビミョー」とは、あくまで日本人感覚から「読み取る」場合なんだと気づいた時、
そして、そんなもんから解放された方が素直に楽しめると察した時、
その独特なテンポに身をまかせ、ゾンビが来ててもリラックス!
殺すときもリラックス!客席にもやがて奇妙なリラックス!
脱力とは別種のファン・オブ・ザ・デッド。いい湯だな。
ただ、これ、場内に「わざとらしい笑い」が響いたりすると一気に白けそう。
絶対いるよな、この手の映画には。
幸い私が観たブルクの夜には、無粋な輩は一人もおらず、
平熱笑いが自然にもれて、実に心地好い場内でした。
この手の作品、そんなに得手な方ではないはずなのに、
余りにも常に斜め上とか斜め下ばかりなので、
違和感とかズレとか言う場合じゃなくなって、
気づけばゾンビデイズ・イン・ハバナ。
オフビートなだけじゃなく、エイトビートな画も撮れる、
硬軟差引自在な監督、アレハンドロ・ブルゲス。ちょっと期待しちゃおうか。
前作の『恋人たちのハバナ(Personal Belongings)』はなんと、
キューバ映画祭2009にて上映されていた!あぁ、観たかったぁ。
今年のラテンビート映画祭では、他に『悪人に平穏なし』も観たのだが、
その熱量はしっかり受けとったものの、いまいち整理つかないし、
来年公開予定なので、又の機会(があれば)に回してしまう。
というわけで、今年も日頃とは一味違ったシネマライフ週間を過ごせたLBFF。
十月のアジアの風が吹く前に、九月にラテンの風は吹き抜ける。
映画祭の秋が始まり告げる。
今年初参加した横浜開催での余りの快適さ(椅子セパレイト、前後広々、
そして何より客層が善い!)に、来年は横浜一本で行きたいくらいという移り気模様。
まぁ、来年からは選択肢が増えたと思って、巧く使い分けてみたいと思う。
今年は結局、オールデジタル上映だったのかな。
昨年は数本(おそらく2本かな)がフィルム上映だったけど、
ヴェネツィア国際映画祭のコンペですらフィルム上映が2本の時代に突入だからね。
ただ、デジタル上映でもまともな素材だったので、画質には大して文句もないが、
やはりシネスコサイズを「上下黒帯」状態で観るのは本当に味気ない。
というか、なんかテレビで観てるみたい感がやや付きまとう。
あれ、どうにかなんないのかな・・・。
あと、折角字幕も用意したことだし、
劇場公開は難しかったとしても、好評だった作品なんかは
何らかの形で観られるようになる「流れ」が出来てくることを切望したり。
本当は大回顧上映みたいな企画を願いたいところだが、
ここ数年は上映素材・形態が本当に目まぐるしく変化していたから、
そういうことも極めて困難だろうし、せめてDVD発売やらWOWOW放送やら・・・
でも、その昔はフィルムに字幕を焼き付けなきゃならなかったからこそ、
「そのフィルムが残る」という確かな恩恵が未来に授けられていたのだけれど、
フィルムだけ借りて字幕投影の時代になってそういう遺産は期待できなくなって、
デジタル上映なら素材は残るが、その素材自体がいつまで再生できるものなのか・・・。
来年はいよいよ10回目を迎える映画祭。アーカイヴ的な観点も芽生えると好いな。
ま、そういった発想および実現は、文化を支えるべき立場の人や機関こそが
もっとしっかり担っていって欲しいのだけれど。
何はともあれ、今年も市場原理には絶対適わぬ作品群までをも紹介してくれた、
映画祭の心意気に感謝したい。アルベルト・カレロ・ルゴ氏の無垢なる映画愛に乾杯!