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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

第9回ラテンビート映画祭(4)

2012-10-08 22:27:44 | 2012 ラテンビート映画祭

 

結局、今年は13作品(短編1作品含む)を観てしまったLBFF2012。

台風の影響で購入済チケットを無駄にしてしまったこともあり、

バルトの仇をブルクで討つ。(長崎ほど離れちゃいないが同じ港町、横浜)

 

 

まずは予想外にとっても愛おしくてたまらなかった作品から。

 

トロピカリア(2012/マルセロ・マシャード)Tropicália

 

1967年から68年にかけてリオを中心に起こったカルチャー・ムーヴメント“トロピカリア”。

軍事政権下にあった当時のブラジルで、様々な抑圧への抵抗運動として

音楽・演劇・映画などを媒体とした表現活動で社会を変える試みが行われていた。

カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルなど、

今も第一線で活躍するミュージシャンの当時のライブ映像は勿論、

激しい抵抗運動の様子や時代の旗手となったアーティストへのインタビュー、

弾圧のニュース映像等も交え、トロピカリア・ムーヴメントの本質に迫っている。

 

以上の紹介文はチラシから引用したものなのだが、

その内容からイメージするプロテストやレジスタンスな印象は本作にない。

むしろ、作中でもしばしば語られるように、何かに立ち向かったりしないことで、

心のままにより自由な発想や表現を求めた青春の光と光をひたすら謳歌。

勿論、体制側への批判精神が皆無な訳ではないだろうが、

トロピカリズモに則り、拳を振りかざしたりせず、

行進せずに自由な闊歩。

 

それは述懐といった趣の俯瞰でもなく、

まして憧憬などを伴った郷愁旅行に堕することもなく、

体験した人もそうでない人も、知ってる人も知らない人も、

トロピカリアの真っ只中に入り込める開放的なつくりが嬉しい。

手をひっぱられることはないのに、自然に手をつなぎたくなってくる気分。

 

シネフィルだって熱狂してしまいそうな、冒頭の引用。

そう、カエターノ・ヴェローゾがトロピカリアの着想源として語った『狂乱の大地』。

そして、ほんの僅かながら登場するグラウベル・ローシャ本人のインタビュー映像。

初めて本人の喋ってるところ観て、勝手に一気にハイボルテージ。

 

私自身、こうした音楽周辺には全く詳しくなかったものの、

当時の《空気》を映像によって再現することに忠心たらんとする純粋構成で、

映像手法のあの手この手の可愛らしさに素直に心を託せる御機嫌な87分。

誰かのインタビューで、トロピカリアは相反するものや矛盾するものを

《統合》する精神に溢れてると語られていた。そう、《止揚》する弁証法でなく。

だからこそ、反体制だけに肩入れすることもなく(だから時に左翼に批判されもしたとか)

闘わぬヒッピー、花がどこへ行こうとも問い糾さない被支配じゃない非支配。

 

終盤には現在の彼らが語る姿が映し出される。

「亡命がなかったら音楽はそのうち止めていたと思う」というヴェローゾの言葉に

胸が熱くなる。否定や糾弾や怨言を微塵も滲ませることなく、これまでを受け容れる。

ムーヴメントは途絶えても、エモーショナルなモーション永遠に。

 

ラスト。

スクリーンに映し出されたかつてのライブ映像に合わせて口ずさむ彼らの姿に、

当時も現在も知らぬ私までもが胸を打たれ、しかしそれは殴打じゃなく優しき按撫。

ほのかにぬくもった胸いっぱいの愛こそが、トロピカリズモの消えない遺訓。

 

 

ヴィオレータ、天国へ(2011/アンドレス・ウッド)Violeta se fue a los cielos

 

チリを代表するアーティストの一人、ヴィオレータ・パラの半生を映画化した本作。

こちらも全く「現実」に関する知識は皆無で臨んだ観賞。

しかし、映画として興味深く観られる充実の一本。

 

今年のサンダンス映画祭ワールドシネマ(ドラマ)部門で審査員グランプリを受賞。

同映画祭で審査員特別賞を受賞した『我が子、ジャン』は今年、

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭のコンペティションにも参加しておりそちらで観賞

(明日、アテネフランセ文化センターでの上映もあり。)

たった2作から結論づけるのも無理があるが、米国部門のコンペ作品に比べて、

ワールドシネマ部門の作品群は些か渋いというか、地味な新しさで勝負している印象。

誠実な冒険というか、地に足つけたアートの探究というか。

 

奇しくも、『我が子、ジャン』と同様に「流動する時間軸、交錯するあらゆる時間」。

彼女の大まかな略歴だけは頭に入っていたので、自分でも再構築しつつ観ていたが、

むしろ本作の意図としては前後不覚な酩酊こそが正しい鑑賞姿勢かも。

前日に観た『パリの中で』でルイ・ガレルが映画館の前に立ち止まると、

そこにあった看板は『ヒストリー・オブ・バイオレンス』と『ラスト・デイズ』。

そんな記憶の作用か影響か、どことなく『ラスト・デイズ』の彷徨漂流を想起してみたり。

半生の映画化といっても、あくまで悲哀と破滅によって全体が包み込まれており、

しかしそれはおそらく彼女の生を「そのように」理解したということの表れであって、

そうした解釈にもとづいて提示される高揚場面には、悲しみこそが激しさを助長する。

主演のフランシスカ・ガヴィランの魂から込み上げてくるような歌声は実に素晴らしい。

フランシスカが1973年生まれ(つまり、まだ30代!!!)とは信じがたいほどだ。

 

撮影を担当しているMiguel Ioann Littin Menzは、次回作ではハリウッド進出のよう。

中南米を代表する伝説のボクサーのロベルト・デュラン(ガエル・ガルシア・ベルナル)と

トレーナーのレイ・アーセル(ロバート・デ・ニーロ)の人生を描いた

Hands of Stone』の撮影を担当するようだ。ラテンビートみなぎる映像を期待したい。

 

 

ゾンビ革命 フアン・オブ・ザ・デッド(2011/アレハンドロ・ブルゲス)

Juan de los Muertos

 

こちらは公開も決まっいてるが、関東では新宿武蔵野館のみみたいだから、

是非この機会に観ておきたいと思ったのだが、大正解!

なぜなら、とにかく音楽が好かった!

『ヴィオレータ~』、『トロピカリア』と観た流れで臨んだことも影響してるかもしれないが、

ラテンロックなフュージョンといった趣で、スコアがとにかくグルーヴィー!

音楽担当の名はIMDbには載ってなかったが、海外公式サイトにあった!

Sergio Valdésって言うのか。オリジナルアルバム早速注文しちまった。

横浜ブルク13の繊細かつクリアな音響で届けられる音楽の、

うねるスネアの響きは極上で、前のめりなのに後ずさり。

それでいて、しんみりスコアも周到準備。

 

音楽で言えば、ラストで流れてくる「マイ・ウェイ」が何とも言えず、分裂気味な感傷演出。

更にエンドロールで流れる同曲のロック・ヴァージョン聴きながら、ある映画を想い出す。

ジョージ・A・ロメロが久っ々に撮った2000年の作品『URAMI~怨み~』。

これ、なんとシアター・イメージフォーラムでロードショーしたんですよ!

で、そのラストで不意打ち上等で流れてくるのがパンク版「テイク・オン・ミー」!

いやぁ、私のロメロ体験はそれが初だったので(元祖ゾンビ映画とか未見だった)、

何とも言えない変な映画をイメフォの地下で観た締めにそれで、妙にアガった記憶。

 

さて、本作はさすが「キューバ発ゾンビ・コメディー」だけあって、

そのノリも或る種独特なうえに、起こる事柄への対処がいちいちビミョー。

でも、その「ビミョー」とは、あくまで日本人感覚から「読み取る」場合なんだと気づいた時、

そして、そんなもんから解放された方が素直に楽しめると察した時、

その独特なテンポに身をまかせ、ゾンビが来ててもリラックス!

殺すときもリラックス!客席にもやがて奇妙なリラックス!

脱力とは別種のファン・オブ・ザ・デッド。いい湯だな。

 

ただ、これ、場内に「わざとらしい笑い」が響いたりすると一気に白けそう。

絶対いるよな、この手の映画には。

幸い私が観たブルクの夜には、無粋な輩は一人もおらず、

平熱笑いが自然にもれて、実に心地好い場内でした。

 

この手の作品、そんなに得手な方ではないはずなのに、

余りにも常に斜め上とか斜め下ばかりなので、

違和感とかズレとか言う場合じゃなくなって、

気づけばゾンビデイズ・イン・ハバナ。

 

オフビートなだけじゃなく、エイトビートな画も撮れる、

硬軟差引自在な監督、アレハンドロ・ブルゲス。ちょっと期待しちゃおうか。

前作の『恋人たちのハバナ(Personal Belongings)』はなんと、

キューバ映画祭2009にて上映されていた!あぁ、観たかったぁ。

 

 

今年のラテンビート映画祭では、他に『悪人に平穏なし』も観たのだが、

その熱量はしっかり受けとったものの、いまいち整理つかないし、

来年公開予定なので、又の機会(があれば)に回してしまう。

 

というわけで、今年も日頃とは一味違ったシネマライフ週間を過ごせたLBFF。

十月のアジアの風が吹く前に、九月にラテンの風は吹き抜ける。

映画祭の秋が始まり告げる。

 

今年初参加した横浜開催での余りの快適さ(椅子セパレイト、前後広々、

そして何より客層が善い!)に、来年は横浜一本で行きたいくらいという移り気模様。

まぁ、来年からは選択肢が増えたと思って、巧く使い分けてみたいと思う。

 

今年は結局、オールデジタル上映だったのかな。

昨年は数本(おそらく2本かな)がフィルム上映だったけど、

ヴェネツィア国際映画祭のコンペですらフィルム上映が2本の時代に突入だからね。

ただ、デジタル上映でもまともな素材だったので、画質には大して文句もないが、

やはりシネスコサイズを「上下黒帯」状態で観るのは本当に味気ない。

というか、なんかテレビで観てるみたい感がやや付きまとう。

あれ、どうにかなんないのかな・・・。

 

あと、折角字幕も用意したことだし、

劇場公開は難しかったとしても、好評だった作品なんかは

何らかの形で観られるようになる「流れ」が出来てくることを切望したり。

本当は大回顧上映みたいな企画を願いたいところだが、

ここ数年は上映素材・形態が本当に目まぐるしく変化していたから、

そういうことも極めて困難だろうし、せめてDVD発売やらWOWOW放送やら・・・

でも、その昔はフィルムに字幕を焼き付けなきゃならなかったからこそ、

「そのフィルムが残る」という確かな恩恵が未来に授けられていたのだけれど、

フィルムだけ借りて字幕投影の時代になってそういう遺産は期待できなくなって、

デジタル上映なら素材は残るが、その素材自体がいつまで再生できるものなのか・・・。

来年はいよいよ10回目を迎える映画祭。アーカイヴ的な観点も芽生えると好いな。

ま、そういった発想および実現は、文化を支えるべき立場の人や機関こそが

もっとしっかり担っていって欲しいのだけれど。

 

何はともあれ、今年も市場原理には絶対適わぬ作品群までをも紹介してくれた、

映画祭の心意気に感謝したい。アルベルト・カレロ・ルゴ氏の無垢なる映画愛に乾杯!

 


第9回ラテンビート映画祭(3)

2012-10-07 13:59:03 | 2012 ラテンビート映画祭

 

今年は5都市(東京、横浜、大阪、京都、博多)での開催となるLBFF。

私も今年は初めて横浜まで足を伸ばしてみるつもり。

そのまえに。東京で観た残りの作品を振り返る。

 

 

ママと私のグローイング・プラン(2012/パトリシア・リヘン)Girl in Progress

 

エヴァ・メンデス主演だし、テーマというか物語展開的にも高需要そうなのに、

公開未定の映画祭上映なのが意外。それともソフト化くらいの予定はあるのか?

そんな疑問も観れば納得。そのお膳立てで何故そうなる!?レベルのビミョーさ加減。

ついでにトマトメーター見てみれば、なるほどな数値が弾き出されているし、

IMDbで4点台っていうのも珍しい。(激しくアート系なものも低スコアだったりはするが)

 

序盤からあらゆる設定や配置、ファッションから音楽に至るまで、

目指したい方向性(タイトでキュートにヒップでシュール)への用意周到な定石コレクション。

だからそれなりに、本当それなりだけど、安心はして観ていられるのだけれど。

終盤で「不覚にも涙」的展開をいくらでも捻り出すことが可能な《ジャンル》にも関わらず、

後半になって突如ムクムク頭をもたげた作家性?(推定)が物語を不自然に攪乱。

ご都合主義すら機能不全な、都合の好い都合の悪さに翻弄される観客は、

今まで真面目に観てきた自分を呪うだろう。

 

娘役のシエラ・ラミレスなんかは最大限健闘していたし、

恋人の妻子持ち医師を演じたマシュー・モディーンも「等身大」な任務を全う。

パトリシア・アークエットが霊感商法で母娘を騙すとかって展開があれば最高だったのに。

アホな皮肉はほとんど無いが、意外と辛辣な皮肉がつきまとうのは女性監督ゆえなのか?

この手の作品には無理矢理リアリティを注入するよりも、大切なのはファンタジー!

なんて発想は大人になれない永遠男子の妄想か!?

 

 

今年のベルリン国際映画祭の短編部門でテディ賞を獲得した

クラウディア・リョサの『Loxoro』が観るために駆けつけると自動的に

Perú Sabe』とかいうペルーの食ドキュメンタリー(料理学校の若者たちがメイン)を

観ることになったのだが、これって一体・・・少なくとも映画って感じでは全くなく、

長ったらしい観光広告みたいなイメージの羅列という趣で観てるの辛かった。

プログラミングとしてはおそらく成功(場内はかなり賑わっていたので)なのだろうが、

クラウディア・リョサの短編は別の作品との併映が望ましかったのは明らか。

いや、もしかしたら上映時間70分の『Perú Sabe』のおかげで運良くかけてもらったのが

『Loxoro』な気がしないでもないので、余り文句は言いませぬ。

が、観客の雰囲気的にも『Loxoro』がちょっと眺めの予告編的扱いで軽く処理されてた・・・

という事実は、なかなか作品鑑賞するには厳しかったという事実もあって、

興行と作品の質を両立させるための映画祭事業の難しさを痛感してみたり。

賑わっていたといっても、明らかに他作品とは異なる客層で奇妙ながらも活気はあった。

(とはいえ、隣のオヤジに終始ガムをクチャクチャされるという拷問付きではあった…)

 

肝心のクラウディア・リョサはいろいろな意味で戸惑っているうちに終わってしまい(19分)、

またもや私的鑑定不能な作家となった。彼女の作風をとらえることが私は未だできない。

以前、フィルメックスで『悲しみのミルク』(ベルリン金熊)を観たときも全然捉えられず、

再試合的に臨んだ直後のスペイン映画祭(新宿バルト9)でも同じように呆然のまま。

苦手なのかすら判然としない、不思議な映画作家。

まずは彼女のおじさんの本でもちゃんと読んでみますかね。

 

 

As luck would have it(2011/アレックス・デ・ラ・イグレシア)La chispa de la vida

 

昨年のLBFFで『The Last Circus』(今年の三大映画祭週間では

『気狂いピエロの決闘』として上映された)が紹介されたアレックスの次の作品。

今年1月にスペインでは公開された模様。失業中で求職叶わぬ広告業界の男が主人公。

いろいろと、タイムリー。原題の『La chispa de la vida』は、主人公の過去の栄光である

コカ・コーラのコピー。「chispa」は、英語で言うところの「flash」や「spark」の意。

彼の一瞬の栄光と、人生最後となるかもしれぬ瞬間に浴びるスポットライトを示唆し、

更にはそうして浴びるフラッシュの背後にうごめく人間の欲望や社会の構造を炙り出す。

「vida」は人生を意味するも、生命の意もあったと思うから、そう考えると、

主人公を見舞った状況(落下によって工事現場の鉄柱が頭にささり瀕死の状態)を

示してもいる。勿論、スペイン経済の状況にも重なるかもしれない。風前の灯火!?

 

得手不得手、好き嫌いで言えば、それほど自分と相性の好い監督ではないのだが、

とはいえ唯我独尊にブレがない作風が引き込む力は絶大で、

98分を一気に引きずり回してもらえる感がある。

 

シアターNなき後、何処で観られるのかが心配になるような物件の一つとしても認識。

シネパトスも消えるし、これから益々ミニシアター公開はお行儀の良い作品群に!?

もしくは、HTCや新宿武蔵野館のホームシアターにむさ苦しく押し込められながら観る!?

同じミニミニ感なら不自然な洒落っ気出してる箱よりも、

アニメイトの上や地下鉄の傍にある箱が好い・・・

なら最後くらいはもっと応援しなきゃだな。

 


第9回ラテンビート映画祭(2)

2012-10-05 23:58:28 | 2012 ラテンビート映画祭

 

台風のおかげで早めに切り上げられた休日出勤に小躍りするも束の間、

台風のせいで観賞を断念してしまった『ゾンビ革命』。

そんな嵐の夜の翌日、台風一過の清々しい日に観た三本はいずれも充実した作品。

 

 

Estudiante(2011/サンチアゴ・ミトレ)El estudiante

 

監督のサンチアゴ・ミトレは、本作が長編作品初監督となるようだが、

これまでもパブロ・トラペロ監督作品(『檻の中』『カランチョ』)の脚本を担当してきた。

後述のアレハンドロ・ファデル(『獣たち』)と併せて、トラペロ一派はやはり目が離せない。

 

本作はノンポリ学生が大学での政治活動にのめり込んでいく過程を淡々と、

それでいながら一気呵成に疾走し、ラストの一言で見事な《CUT》を迎える快作だ。

雰囲気としては、『ソーシャル・ネットワーク』に通ずるような会話劇のテンポを保ち、

それでいてアルゼンチンならではのパッション(情熱かつ受難)を常に忍ばせる。

 

上映後に登壇した監督はやたらと「政治への関心」を奨励している口ぶりだったが、

おそらく日本とアルゼンチンにおけるその意味は微妙に違っているようにも思えた。

実際、学生運動が持ち得た実効性は、両国の歴史において随分と異なるだろう。

そういうこともあってか、アルゼンチン情勢に疎いからか、監督の真意を汲み損ねてるか、

とにかく本作における「政治性」は決してイデオロギー闘争的な窮屈さに集約されていない。

むしろそこに終始垣間見えるのは、暴れ出した自由であり、狂い始めた歯車だ。

   

「政治に何ができるかというテーマは描いていきたいが、

政治そのものを描くのではなく、映画的手法で表現するのが自分の仕事」

と監督が語っていたように、

本作においても政治それ自体よりも、それに翻弄されては彷徨する人々を

随分ドライな眼差しで淡々と活写していたところが新鮮だった。

 

物語の終盤で語られるエピソードが面白い。

 

   あるところに150歳になるという老人がいて、

   彼に長生きの秘訣を尋ねると、「決して逆らわないことだ」と答えたという。

   「そんなことはありえない。必ず意見の相違はおこるはずだ」と質問者が返答すると、

   「確かにその通りだ」と老人は答えた。

 

このエピソードからラストへの連結が実に見事。作品全体を一気に重厚せしめるラスト。

そのうえ、日本人の長寿の秘訣まで暴かれてしまったような居心地の悪さ(笑)

 

 

獣たち(2012/アレハンドロ・ファデル)Los salvajes

 

サンチアゴ・ミトレと共に

パブロ・トラペロ監督作品の脚本を担当してきたアレハンドロ・ファデル。

ミトレの『エストゥデイアンテ』が意外なほど饒舌でアップテンポだったのに対し、

ファデルの本作は見事なまでに対照的な寡黙で低体温にサイケデリック。

トラペロ作品の奇妙な風味というか「居心地の悪さ」的独特さは、

こうした二者によるケミストリーに因るものなのか?などと独り腑に落ちながら。

 

上映後のトークショーでも名前が挙がっていたカルロス・レイガダスにも通じるし、

今年2月に日仏学院で観たアルベルト・セラに若さと熱が盛られたような意欲作。

まだ31歳という若さの監督が持つ野心が見事に散乱、氾濫、一心不乱。

支配的に物語を構築していない点に好感は持てるものの、

あらゆる意味を行間に依存し過ぎな意図が覗いてる気がしないでもない。

ただ、拙速に陥ることなく巧遅に徹する覚悟は十二分に伝わり、

そうした意志が結実したときには傑作が生みだされそうな予感は漂い続けてた。

 

冒頭、画面に大写しとなる顔。その眦から走った涙の痕。

その涙は川となり、雨となり。人は土に身を潜め、火に怯えつつも寄り添うさだめ。

自然の磁力に頼りすぎた感もある(人間の側の物語がやや負けてる気もする)本作。

しかし、それが結果として人間の儚さや脆弱さを浮き立たせてもいる不思議。

アレハンドロ・ファデルの更なる静謐凝視を見守りたい。

 

 

マリアの選択(2012/ロドリゴ・プラ)La demora

 

前々作『La zona』の輝かしい受賞歴からも想像つくように、

実力派の仲間入りを約束されている感のあるロドリゴ・プラ。

などと語り始めたものの、当然本作が初めまして。

 

三人の子供と80歳の父親を女手一つで養い、世話するマリア。

父親を施設にでも入れてもらえれば・・・と思って役所を頼っても、答えはNO。

そこで彼女がとった行動とは、自分が買い物に行っている間に父親をベンチに待たせ、

そのまま置き去りに・・・。そこから始まるマリアの葛藤と、父親の想いをじっくりと。

極めて静かに穏やかに、時に昂ぶる感情さえも丹念にそっと掬い取る。

 

この映画が、父親を入浴させるマリアの場面から始まったときには、

人間の陰惨さが露見することも辞さぬハネケ的な凝視を続けるのかと不安になるも、

むしろハネケ・フォロワーが持つクールな優しさ(ジェシカ・ハウスナーの『ルルドの泉』や

ウムト・ダーの『二番目の妻』)などに近い質感を持った私好みの佳作な小品だった。

撮影を担当しているのはMaría Seccoなる人物のようだが(おぉ、マリアだ)、

多少凝り過ぎのきらいがありつつも、女性なりの繊細さが丹精に光景を映し出す。

男性的な構図や設計といったアプローチより、しっとり追いかける視線を感じる画。

 

原題は遅延を意味する語のようだ。(英題は『The Delay』。)

このタイトルの含意が物語を追う毎に、観る者の心に降り積もる。

日本での公開はないだろうが、もし公開するなら原題をいかした邦題が好いと思う。

でも、難しい。

『遅延』だと、電車通勤の人々(とりわけ中央線ユーザー)をイラッとさせそうだし、

いっそのこと『遅れる』もしくは『おくれる』とかは?

西川美和っぽくて騙せそう(誰を?)じゃない?

もしくは『おくれびと』!

(ちなみに、こんなノリは微塵もない、しっとりとした味わいの良作です。)

 


第9回ラテンビート映画祭(1)

2012-09-28 23:58:50 | 2012 ラテンビート映画祭

 

ここ数年は10本前後を観賞しているラテンビート映画祭。

たまにピンと来ない作品に当たることもあるものの、

年間ベスト級の私的傑作に出会えることも珍しくなく、

概ね「観られることが有り難い」貴重な上映機会の宝庫でもある。

今年も回数券を2セット買ってしまったので、10本は観る予定。

例年は秋分の日あたりの祝日と絡んでいた新宿バルト9での開催日程も、

今年はやや後ろにずれ込み、私も丁度仕事が入っている土日と重なり、

スケジューリングにやや苦戦&観賞断念も少々。

 

 

ホワイト・エレファント(2012/パブロ・トラペロ)

 

いまやアルゼンチン映画界を背負って立つ男となったパブロ・トラペロ。

ラテンビート映画祭では『檻の中』(カンヌ・コンペ出品)や

『カランチョ』(カンヌ・ある視点出品)を観させてもらったが、

今年のカンヌある視点部門で上映された本作が早くも観られることに感謝。

ちなみに、パブロ・トラペロの長編監督作は日本での劇場公開はないのだが、

今夏に公開された『セブン・デイズ・イン・ハバナ』の火曜日(エミール・クストリッツァ主演)

を監督していたのが、パブロ・トラペロ。

 

『檻の中』には相当魅了される何かがあった為、

一気に私的注目監督の仲間入りしたものの、

続く『カランチョ』が全くもって響かなかったという一勝一敗のこれまで。

いよいよパブロと私の相性が決することとなるであろう、本作。

しかし、結論はまた次作へと持ち越しだった・・・。引き分けって印象で。

 

『檻の中』的な落ち着きと『カランチョ』的な散漫さが同居して、

「行間」とは異なった「ブランク」を随所に感じさせ、語ることへの信頼をやめたのか?

(原題「Elefante Blanco」の「blanco(白い)」は「blank」と語源が同じらしい…)

 

『檻の中』では、

贅肉が執拗に削ぎ落とされながらも確たる骨格に物語の力が宿っていたが、

本作では時折贅肉のような感傷に塗されながらも、物語の屋台骨は完全喪失で。

そうした「まとめ方」というよりも「まとめなさ」は確かに新鮮ではあるものの、

マイケル・ナイマンが虚飾すれすれに聞こえてしまいそうな過映画的ランドスケープは、

その心地好さにむしろ戸惑いを覚えてしまうほど。心の受け皿が判然とせず。

 

ただ、退屈することなく(する間もなく)時間は前のめりで進んでいくために、

体感時間は極めて短い。

しかし、それは同時に時間の経過に寄り添えぬことをも意味し、

だから登場人物の心の変遷が我々を帯同することもない。

リカルド・ダリンやマルティナ・グスマンというトラペロ組俳優陣の余裕の演技と、

ジェレミー・レニエお得意の慢心若造っぷりは、安定感がありすぎて緊張感が稀薄。

とはいえ、やはり好い役者の存在感はただ観ているだけでも堪能に値して、

とりわけジェレミーがこうした舞台に存在している違和感こそが

終始鮮やかな画をつくっている。

 

語りたい「おはなし」や「想い」よりも、

見せたい画や並べたい断片が過剰に自己主張しているところは、

西川美和と何となく重なったりして。(最近観たからなだけにも思うが)

大いなる散漫でありながら、見事に引きつけ続けるという点では、確かにそっくり。

 

 

シングー(2012/カオ・アンブルゲール)

 

実話に基づいて作られた映画らしい。

「ブラジル初の先住民保護区」ができるまで、みたいなお話なんだけど、

それを成し遂げるために貢献したヴィラス・ボアス三兄弟を中心に物語は進む。

上映が始まってからしばらく集中しにくかった(後述)影響のせいかは判らぬが、

個人的には全く心を動かされぬまま観終えてしまった印象だ。

 

ただ、画はひたすら素晴らしい。

撮影を担当しているのはアドリアーノ・ゴールドマン。

『闇の列車、光の旅』『ジェーン・エア』でキャリー・ジョージ・フクナガと組み、

フェルナンド・メイレレスが昨年発表した『360』でも撮影を担当。

ロバート・レッドフォード最新作『The Company You Keep』の撮影も彼。

August: Osage County』なんていう超豪華キャスト映画、

ジョン・クローリー(『BOY A』)が監督を務めるスリラー

(レベッカ・ホール&エリック・バナ主演)でも撮影を担当する模様。

というわけで、画が充実してるのは当然のことだった。

が、

その画の見事さは未踏の地を明らかに「文明の眼」で踏みしめる。

終始エキゾチシズムによる交流感覚に依存しすぎな展開の凡庸さに新の発見はなく、

描かれるべき葛藤や矛盾や欺瞞が極めて記号的。その深層へと分け入らず。

 

『ホワイト・エレファント』にしても、『シングー』にしても、

武力による侵略(植民地化)の先にある、啓蒙や教化による実効支配的側面がある。

などと勝手に思い込んでしまうのは穿ちすぎかもしれないが、

昨年のラテンビートで観た傑作『雨さえも』の真っ直ぐな誠実とつい比較して、

その「迷いのなさ」に心が動くのを躊躇ってしまうように思う。

 

 

※ラテンビート映画祭は、一昨年の劣悪上映素材問題で不信が高まったものの、

   昨年観たなかでは『The Last Circus』と『カルロス』がブルーレイ上映並の

   のっぺり画質だった以外は、まともな素材で上映していた。

   しかし、客層が時折微妙なのが難点だ。

   とりわけ「ラテン」な方々のマナーの悪さには閉口することも。

   かつて隣に座ったカップルがドンタコスの袋を上映中にバリバリ開け始め、

   臭いも音も撒き散らし、食べ終わったかと思ったらケータイをずっといじってる・・・

   などという絵に描いたような迷惑客に遭遇してしまったのもトラウマのひとつ。

   そして、今年は1本目から見事にラテン悪ビートの洗礼を受けました。

   『ホワイト・エレファント』上映中ずっとお喋りをしているラテンな方々。

   最もシリアスな場面ではクスクスし出したり…。故国ではどうか知らんが、ここは日本。

   郷に入っては郷に従え。

   それともラテンビート映画祭なのだから、こちらが合わせるべきなのか?

   更に2本目の『シングー』では両隣にフライドポテトを食べてる方々。

   上映始まってもムシャムシャ。音もウザいけど、とにかく臭いが…。

   でも、会場(新宿バルト9)で売ってるものだし、映画館の売上に貢献してるんだし、

   彼らを責めるのは間違い!というのは判ってはいるものの…。

   いくら監督の名が「Cao Hamburger」だからって、

   こういう作品をポテトの臭いに包まれて観たくはないよ。

   東京国際映画祭も「ポップコーンいかがっすかぁ~」の掛け声の中で開催されるし、

   シネコンで開催するとなると飲食販売でくらい少しは利益確保したいのもわかるけど、

   映画祭の上映作品ってポップコーン・ムービーと対極にあるラインナップ多数だし、

   本当何とかならないかなぁ・・・というのが本心。

   だから有楽町朝日ホールは椅子の座り心地最悪だけど、場内飲食禁止だから◎。

   いきなり最初の2本からLBFF負の洗礼を受け続け、今後の観賞が心配。

   心配といえば、平日の夜とはいえ、2作ともかなりの空きっぷりだったこと。

   そういえば、個人的にはイマイチと書いた『シングー』だけど、

   珍しくエンドロールではほとんどの観客が立たずに最後まで観ていたし、

   ほんの一部ではあるけれど拍手も聞こえたりしたので、

   フライドポテトさえなければ(しつこい)印象変わってたかも。

 

※『シングー』の監督カオ・ハンバーガー(allcinema表記)は、

   『O Ano em Que Meus Pais Saíram de Férias』で2007年のベルリン・コンペに参加。

   日本ではシネフィル・イマジカで放送されたらしい。(邦題『1970、忘れない夏』)

   是非、観てみたい。(撮影はやはりアドリアーノ・ゴールドマン!)