ほろ苦かろうが、甘酸っぱかろうが、
高校時代というステージを誰もが回顧して止まぬのは何故だろう。
それはおそらく、余りにも嘘くさい演技にまみれた虚構の空間でありながら、
「演じる」本人は純粋に必死で、だからこそそうした演技の間隙に真実は顔を出し、
実を覆い尽くせぬ虚を破って剥き出しになった自己は、痛々しくも美しい。
大人になれば簡単にボロは出さなくなるけれど、それはただ単に
嘘が巧くなったからなわけではなく、嘘が真になったから。
だから、どんなに惨めで浅ましくとも、
真の己に再会したくなる。
本作は、
演技経験豊富な子役出身のベテランから演技経験ゼロの新人まで、
年齢的にも実際の高校生から二十代半ばまで、
背景や世代も多様なキャスティング。
それでいて、奇跡的に「自然」なアンサンブルが終始映し出されるのは、
高校生活が何処までも不自然な力に支配される宿命だから。
人生で経験する第三の学舎たる高校は、
理性の価値こそ大人なりに弁えつつありながら、
それによって統御されるべき情緒は最も獰猛だ。
その貪欲さは時に自らの自然を食い尽くしてまで
執拗に「自己」を演出する。しかし、それはいつでも不完全。
いや、未完成。
理性が乏しいからじゃない。
理性なんておそらく死ぬまで大して変わらない。
そもそも、誰もが同等程度のそれしか持ちあわせていないかも。
何が違うのか。理性の言いなりになれない獣が潜んでる。
だけど、以前には発散できた獣性も、羞恥心からひた隠し。
とはいっても滅却できるはずもなく、膨張の一途を遂げるだけ。
自分の内から外からひっきりなしに刺激され、その刺激だって内外格差激しくて、
何が何だかわからない。そもそも自分がわからない。なりたい自分もわからない。
それでも必死に演じていなくては、傷つきやすい自己がむきだしに。
だから与えられた「立場」を精一杯全うするしかない。
いや、でも、それは、自分で選んだ立場かも。
その相克に嘘つけない。
人生で最も他人を責め続けてる高校時代は、
人生で最も自分を背負い続けてる時代かも。
演技は巧くなる程それを司るのは自己であり、
演技が拙いその時は、自己が露わになっている。
その紛れもない事実が交錯し続ける高校の生活。
本作の出演者たちが交わす虚実の応酬は、
語り尽くせぬ真実の、余白に余白を書き足してゆく。
(以下、映画の内容[結末含む]に触れて書きます。)
◆この物語の最大の特徴は、存在する中心の不在であり、
その不在こそが物語を駆動しているということだろう。と、よく言われるし、そうだろう。
ただ、実際は誰も本気で桐島本人のことを気にかけていたりしないところが正直だ。
彼らが気にしているのは「桐島との関係からうまれる何か」であって、
在るのはそれに対する期待や落胆、希望や絶望だけなのだ。
確かに大人になれば(親子関係などが象徴的なように)
半自己的な他者が自分の内に巣食うこともあるだろう。
しかし、それとて「自分のことのように」な発想だ。
自己を幽閉するための絶対的要塞に他者を招き入れることなど以ての外たる高校生は、
互いの聖域を踏まずに、見せ合いもせず、周到に仕込んだ「自己」だけで対峙する。
自己の要塞を死守するだけで必死なその時に、
壊れかけの誰かの要塞を気にかける余裕はない。
自分のだけでは心許ない要塞を、庇護してくれる要塞だけを求めてる。
それが「中心(人物)」であったり、「集団」であったり、実は「学校」だったりもする。
◆しかし、そうした自己がまとった防御幕を
どうしても自己そのものだと認めたくない自分が暴れ出すのも高校生。
大人になれば、公私を時に都合好く言い訳にして、防御幕を脱着可能にしたりする。
「なりたい自分」と「なれる自分」と「今の自分」の区別に、随分と物わかりがよくなる。
それは生きるために必要な頭だが、心まですんなり浸透し尽くすことは難しい。
だから、頭は未熟だが、その分飼い慣らされていない心を目撃すれば、
眠り続けた心が暴れ出す。束の間でもひっそり愛でてやる。映画館の暗闇で。
◆それこそ高校の授業でよく読まれたりする、夏目漱石の『心(こころ)』。
あの物語でもやはり「Kの不在」が大きな存在だ。
カフカの『審判』の主人公も「K」だし、彼を敬愛する安部公房の小説にもKが出てくる。
梶井基次郎の「Kの昇天」などもあれば、
村上春樹『スプートニクの恋人』の「ぼく」も「K」ではなかったか。
そして、本作の中心(?)もまた「K」である。
◆前述のように、桐島への本気の心配は概ね希薄に見えながら、
私が作中で最も桐島を真剣に心配しているように見えた存在は、風助(太賀)だ。
彼は桐島の存在ゆえにレギュラーの座(つまり、自分の存在証明の場)が
与えられずにいたわけで、本来なら最も喜ぶべき「立場」にある。
しかし、彼こそが唯一(?)桐島の内面にまで深刻に思いを馳せる。
傍から見れば、桐島と風助に見えている世界は全く異なっているように思われる。
しかし、実は彼らが立っている場所は同じなのかもしれない。
涼也(神木隆之介)が、
自分たちの作ってる映画と自分の憧れる映画が「つながってる」と思えるように。
◆本作の最大の魅力は「桐島の不在」よりも、
「大人の不在」にあるのではないかとも思ってしまう。
(それは同時に、「社会の不在」と同義の側面も併せ持つだろう。)
学園ものにおいては必ずといって好いほど、教師や親がしばしば顔を出す。
妨害したり理解したり、傷つけたり癒したり励ましたり。
都合好く助けてくれる。物語を。作劇を。
しかし、高校時代とは最も「大人が遠い」時間に思う。
それは心的距離からくる自然でもあるが、
大人ぶりながら大人の介入をかわす真空状態な時間を生きる。
社会に直接埋め込まれていないから、社会への違和を正直に覚えもできる。
ところが実際は、社会(=まだ他者)との接点が部分的かつ一時的であるが故、
より純粋に、より直向きに、関心は自己へと流れ着く。
◆映画部の連中に限らず(いや、むしろ他の連中の方が)
眼前で進行する現実(成り行き)に絶えず抵抗するための「シナリオ」を持っている。
それは自分のなかで日々(いや毎分毎秒)更新されながら、
結末は意地でも書き直さない。
自分で決めた結末に到達するための「シナリオ」だ。
しかし、それは決して他人に「読まれ」てはいけない。
そんな涙ぐましい滑稽が展開されていた事実を知っている元高校生(大人の観客)は、
本作で銘々が必死で書き殴っている「シナリオ」が読めてしまう。
勿論、それは彼ら自身が書いたそのままのそれではないかもしれない。
しかし、それが「読める」ことに心地好い距離感を覚えながら、
自らの高校時代を読み始めていくのだろう。
◆現実と常にリンクした「シナリオ」の執筆は多大なる困難がつきまとる。
何が起こるかわからない。自分の力ではどうにもならないことばかり。
だからこそ、夢(虚構)のなかで完結できる「シナリオ」をもった連中に憧れ(?)る。
それは羨望よりも嫉妬となって、時に排斥し、時に見下しては相対的優位を獲得する。
「お待たぁ~」の壮絶なイタイタしさは、純粋正直な信頼や安堵の裏返しかもしれない。
現実の駆け引きから解放された「ダサさ」のなかで生きる存在を認めぬことで、
自らの必死を慰めるしかない。そのための嘲笑。
しかし、そんな自分のイタさを無意識に感じていたりもする。
そんな敏感さが虚勢の舌打ちや攻撃的「はぁ?」に化けもする。
(大人になると鈍感になるので、そんな汚れにも馴れてしまう人もいるだろう。)
武文が涼也に「昨日、満島ひかりに会った」と報告する。
「どこで!?」と興奮して尋ねる涼也に武文は「夢で」と答える。
普通はそこで、「夢かよ・・・」という落胆で終わってしまう。
ところが、涼也の興奮は冷めるどころか好奇を増して身を乗り出す。
彼らがより純粋に「夢」のなかで生きられる証拠だろう。
彼らにとっては、残酷すぎる現実を乗り切るためのシェルターなだけかもしれない。
しかし、現実から自由になった「シナリオ」を持てる彼らの存在は、
そこそこ好い現実のなかで「シナリオ」を更新し続けねばならぬ緊迫下の者にとって、
羨望すら生むから疎ましい。
◆高校時代の人間関係がファッション(流行/流儀)みたいなものであるのは、
単なる喩えにとどまらず、実際にファッション(服装)によって決している。
本作では制服の設定なので、際立って顕在化はしていないようにも思えるが、
綿密な設計によってさりげなく「色分け」がなされている。
(女子はかなり直截的だが、男子のそれはその微細さが面白い。)
例えば、放課後バスケの3人は、さりげなく型を崩して自己主張する。
失敗パーマだろうが許容してもらえる一応公認「おしゃれ」獲得の竜汰(落合モトキ)は
誰も着ないような色(実はイケてない)のカーディガンで自分のポジションを確保、主張。
不器用ながらも人当たりの好さで幅広く(それは浅くでもなるが)信頼確保に必死な
友弘(浅香航大)は、無難な紺の(だが、カーディガンではなく)パーカーを着る。
顔も人も頭も好い宏樹(東出昌大)は王道の濃紺カーディガン。
飾る必要の無さにも因るが、おかげでその色のカーディガンを「他者」は着られない。
ベージュやグレーのカーディガンを着る映画部の仲間たち。
彼らが着るジャージはみすぼらしい処刑服でしかないのに、
部活に燃える体育会系たちのまとっているそれは輝かしい戦闘服。
涼也の袖はどれも長いが、あれこそまさにシェルター機能。
サッカーボールを空振りしたり、現実には在り得ない好機に緊張したら、
自分を慰め宥めるために必要な伸びしろだ。
◆物語の序盤、教室内で配られる「進路調査」の用紙。
小さく折りたたまれポケットに入ったままの宏樹のそれ。
去ったはずの野球部のバッグを持ち続ける宏樹の肩には、
「Shorai(高校名だと思うが、《将来》でもあるだろう)」の文字がぶら下がる。
必死で練習に励みながらも「こんなに頑張って何になるんだろう」という不安も抱える
バレー部員たちの胸にも刻み込まれた「Shorai《将来》」。
バレーボールやバドミントンのプレイヤー、野球選手、演奏家や映画監督になるために、
毎日毎日精力を注いでるわけじゃない。なら、なぜ努力する?努力は報われる?
たとえ一瞬報われたとしても、それは私たちの将来に何を刻む?
そのときには不安だらけでわからない。
でも、その不安と、それを凌駕した達成は、紛れもなく《将来》に光を灯す。
それが、その時の自分にとって、最も素直に向かってしまうものであるならば。
だから、私は宏樹が野球部に戻って欲しいし、そうなるだろうと信じてる。
という主観の暴走と成就で幕を閉じたエンディング。
そこに読む内容は、おそらく観客一人一人の人生をもが刻まれる。
余談ながら、私自身も高校時代(2年の一時期)に部活を数ヶ月やめていたことがあり。
宏樹のそういった気持ちはわかる気がして(観てる最中は実際わかりすぎる感充満)、
野球場の横を歩いて通りたくなく(なるべく素早く通り抜けたくて)、
自転車の後ろに乗っけてもらうとかの切実に胸いっぱい。
現役高校生に「届きにくい」要素もある本作だと思うが、
こういった観点(実際にやめないまでも部活が最大の悩みの生徒も多いだろう)から
本作が大いなる示唆を与えてくれることもあるだろうと思う。
だから、もしかしたら公開は(物語の舞台でもある)晩秋が絶好だったようにも思う。
シーズンが終わり、退屈でヘヴィな「冬練」に突入する晩秋に、
運動部員は必ずその問題に直面するからね。
おまけに高2となれば、受験のことも頭をチラつき(いや、実際は重くのしかかり)、
ここで続けるとなると高3の夏頃までは覚悟しなければならないし、
この時期でやめる部員は本当多い。
(やめて受験も失敗するケースもこれまた多い。)
そんな悩める迷える高校生(運動部員)に、本作が届いて欲しいと思ってみたり。
というわけで、Blu-rayの発売は11月25日でお願いします。
日曜だから無理か。ならば、エンディングである11月29日。それなら木曜日。
(ちなみに、物語の始まり11月25日(金)は2011年の暦のようですね。)
◆映画部の顧問は「半径1mのリアリティ」を語れと涼也に説く。
しかし、彼にとってゾンビ映画こそがリアリティ。
リビング・デッド。
映画のことを考えているときには生き生きと、
でも教室やグラウンドでは死んでいる。
そして、時には「人間」たちから人間扱いしてもらえずに、
蔑みや排除の対象として弄ばれる。
屋上で涼也の「見た」物語は、そうした連中への逆襲であったのだが、
彼らの敗北が8mmのなかで投影されるのに対して、
かすみへの逆襲はシネマスコープ。生々しい虚構の欲望。
◆素直に「よきもの」「きれいなもの」に感動や尊敬を表明できる時代から、
「あしきもの」「きたないもの」への気軽なアクセスこそがクールになる時代。
それが十代であり、そのピークこそが高校時代(とりわけ前半)だろう。
例えばそれは女子のオープンな陰口や蔑みの眼差しだったり、
例えばそれは男子のオープンな排泄への言及だったりもする。
社会通念的には極めて滑稽で、醜いと一蹴されがちながら、
その涙ぐましい必死さは、裏の裏を垣間見せ、実は至って清廉なのだ。
華のある梨紗(山本美月)や、その華の衛星たる沙菜(松岡茉優)、
彼女等と気楽に会話し真の姫(橋本愛)までモノにする竜汰などはその典型。
太陽的存在たる桐島や(菊池)宏樹 と 彼ら の間に位置するのが、
実果(清水くるみ)や友弘なのだが、彼らの存在までが活かされているフラットに感嘆。
実果は随分とフィーチャーされてるし、物語にもかなり直接的に機能しているが、
(同性だからかもしれないが)友弘には特段の愛着をもって見守ってしまう。
彼はとにかく「いいひと」路線なので、かなり広く浅く巧くつきあっている印象だ。
「金曜」のホームルーム、担任が来る前に彼は「名もなき」クラスメートと談笑。
屋上でいつもサックスを吹くクラスメートを「女子」呼ばわり。
(竜汰は「沢島さんだろ?」と素直に返答。
「名前知らない」ふりでスカそうとする友弘のいじらしさ。)
桐島目撃というスクープを手にして体育館へ一目散。
屋上の乱闘では素早く「ノーマンズランド」へ。
宴の後、ポツンと一段上に体育座りする姿が印象的。
◆「立場」や「視点」といった言葉のもつ比喩性は極めて現実的。
教室内での座席の位置は、その人物の「立場」に引きずられ、
立場の上下は前後に倒錯する。
映画館での座席も同様で、
『鉄男』を観賞している涼也はかなり前方だ。(かすみは中断よりやや後方)
最前列ではないが、おそらく座っている観客のなかでは最も前に座っている。
自分とスクリーン(虚構)の間に何物も(現実)を介在させたくない。
いや、現実は彼にとって美しくない。(「現実のかすみ」もそうだったという哀しみ)
(私も一時期、映画館では前方や最前列が好きだった時期があり、気持ちはわかる。)
本来なら、空間性と「立場」の関係で言えば、屋上は最高峰とも言える場所。
(だから、ラストは「頂上決戦」という意味合いも?)
しかし、本作ではそういったステレオタイプに堕したりしない。
ありがちな学園ものでは、屋上ははぐれ者の聖域だったり、
現実からの解放が保証される唯一の場所だったりするが、
本作では地上の人間たちの方が「自信」を手にしてる。
遙か眼下で展開される、無意味に興じるバスケの三人。
高嶺を見下ろす沢島(大後寿々花)の倒錯。
涼也を見下ろす長身の宏樹は、ファインダー越し涼也に畏敬を覚える。
物質的高低は、必ずしも精神的高低を決しないという想像力の悲劇と喜劇。
◆想像力といえば、昨今はやたらとありがたがられる「モラルの大好物」化が激しいが、
換言すれば主観でもあるわけで、
想像力という言葉にどこか流動的客観性を忍ばせようとする言説が私は厭だ。
「フィルムの画を汚いって言う人もいる」ことを解り(納得し)ながらも、
「僕はそこが好き」だと無垢に語れる主観が好い。
宏樹の「汚い(笑)」にも「うるさいよ(笑)」と言える涼也の主観が好い。
形は違えど、武文も宏樹も認めてて、でも「汚い」には異議唱え、
それは否定のための「違う」じゃなくて、肯定するための「違う」だろう。
宏樹が初めてファインダー越しに見た世界。
今まで自分が見てきた世界が「すべて」ではないことを知ったとき、
でもそれはかけがえのない「すべて」でもあるということを識る。
相手から見られる自己よりも、自分が識ってる自己でいい。
◇今夏の映画興行における本作の存在が、本作の内容とリンクする。
表舞台は人気者が割拠する『アベンジャーズ』(映画部よ、これが青春だ)
地味目だけと時に表舞台な剣道部(『るろうに剣心』)の奥にひっそりと
潜伏する『桐島』映画部(映画よ、それが青春だ)。
しかし、実は『桐島』愛好家は『アベンジャーズ』が大好き。
という皮肉。いや、正直。
だから取り巻きじゃない『アベンジャーズ』そのものは、
真剣な『桐島』に羨望を抱きもする。
◇今まで監督作を悉くスルーしてきてしまった映像作家・吉田大八の偉業を
語る資格は私にないが、日本のCM畑出身監督への不信を見事に払拭してくれた。
(市川準とかですら、個人的にはどうしても好きになれない色を感じていたので。)
原作は未読だが(映画観た帰りに買ってはみたが、いまいち読む気になれず)、
見事な会話劇と行間の躍動感をうみだす構成を両立させた脚本は絶品だ。
本作のもう一つの(真の?)主役とも言うべき「視線」を担う撮影は近藤龍人。
若手ながら(30代!)フィルム撮影での経験もバッチリ積みながら、
松江哲明監督の『ライブテープ』や『トーキョードリフター』というリアリズムも経て、
緩急も静も動も自在な世界の切り口は、
ヒリヒリとした瑞々しさをデジタルにすら焼き付ける。
フィルムじゃないのにフィルムにすら見えてくる不思議。
シネスコが得意とする「距離」のみならず、天地の圧迫感が転化する閉塞性も。
『天然コケッコー』のラストや『マイ・バック・ページ』の死における緩やかな横移動。
『ソラニン』のオープニングにおける緩やかな上昇。
それらの優雅な眼差しを内包しつつ、新たな峻烈さを携える。
豊田利晃作品で私が好きな作品は限られるが(『青い春』『ナイン・ソウルズ』など)、
それは日下部元孝の編集力の恩恵に与っていたような気がする。
本作もタイミングひとつ間違えれば、
喚起される生々しい感情は掻き消されていただろう。
主題歌は個人的には好みではないし、
今でも別のパターンを夢見もするが(むしろ音楽なしの日常音だけでも・・・)
それでもそれなりに「しっくりくる」ようにねじ伏せる力がある。(映画の方に。)
あと、細かく指摘するのは難しいが、学園ものを見ていてしばしば覚える違和感を
本作から見事に消し去ってくれたのは、美術の仕事も大きいだろうと思う。
とりわけ、「綺麗じゃない黒板」のリアリティがお気に入り。
数式(だったかな?)が微かに見える雑な消し方。高校をリアルに思い出す。
(綺麗すぎる黒板が学園ドラマや映画に多すぎる。他は雑然としていても。)
何度も観れば観るほどに、物語は増幅し、その度に更新されゆくだろう。
それは足し算でもかけ算でもなく、その都度うかびあがる新たな地平。
いくつもの視点がありながら、それらが常にねじれてはすれ違う物語。
本作を繰り返し観るとすれば、自己の内にそれが起こってくるかもしれない。
誰でもない自分はきっと、誰でもある自分なのだろう。