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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

映画から遠く離れて

2012-08-30 23:59:08 | インポート

 

 

映画から遠く離れて。時間も空間も。

映画ではない物語の旅に、

身をゆだねる。

 

 

先週の後半から、岩手県のある町を4日間ほど訪れた。

三陸沖にあるその町に、親戚が住んでいる。

25年ほど前に一度だけ、そこを訪れたことがある。

当然、憶えている光景は限られた瞬間がいくつか。

だが、微かな記憶が眼前に現れる現物によって甦ることはない。

おぼろな記憶が鮮やかに転じてしまうほど、眼の前に広がるのは消滅。

 

 

しかし、その光景は予想を遙かに逸脱し、

名状を凌駕した強度で迫り来る激情などではなく、

渾沌たる静謐が無限なる不可視な時間を展開し、

消滅の隙間から生命力が溢れ出す。

 

つい最近草むしりをしたらしい一帯にも、

草花は生い茂り、瓦礫や土砂の山はいつしか長閑な丘に化す。

 

 

私の親戚は幸いにも被災を免れた。

数軒先の家までがすべて波に浚われながらも、自宅はほぼ無傷。

近い親類もほぼ無事という極めて「運が好い」立場にあった。

 

あれから約一年半が経ち、

あの日やあの日々のことを淡々と客観的に語れるほどにまでなっている。

ところが、激烈すぎる記憶の断片とは裏腹に、

喪ったままの記憶の欠片が時折脳裏を蝕んでいるようにも見えもした。

敢然と前へ進む時間と、止まったままの時間が混在しているのだろうか。

 

 

津波の爪痕に立つと、海は必ずこちらを見てる。

海を眺めていたはずなのに、気づけば海がこっちを見てる。

 

 

人間が見たい貌だけを見てきた海は、

文明という技術の未熟さをそっと囁きかけただけかもしれない。

 

 

単位も桁もまるで違う。まして想定するなど過ち。

 

 

それでも今さら引き返せずに、技術は復興し、技術が復興さす。

 

 

自分たちが産んだものを、自分たちで片付ける。

そんな営みは日々の営みで、間に自然のリセットが入っただけかもしれない。

 

 

仲人たる自然は、人間の生成と消滅の表裏を一時一箇所に、集結させ、集約させる。

生産ばかりに気をとられ、破壊の自覚を失った人間が、

消滅を凝視しながら創造する姿は想像できない。

でも、いまここに在るのは、その姿。

破壊と対峙しながらの、建設。

再見のための再建。

 

人影が消えた海辺の町。

破壊の後始末に従事する作業員以外、

日常に身をひたしている者が往来することなど極めて稀だ。

身体も家も無事だったとはいえ、海を見るのがいまだに怖いと言う人もいた。

そう言いながらも、ひとたび海に眼を遣れば、自然と浮かび出す恩讐。

海から離れた再起の場所に、静かに灯る遠慮深げな胎動の兆し。

そこから必ず眼に入る、受難と受容の相克風景。

癒える間もなく傷口から剥がされる絆創膏。

対峙するしかない傷痕に浮かぶ静寂。

自然と唯一の対話法、沈黙。

 

数ヶ月の後に自宅への電力供給は復旧するも、

町の電灯に明かりが戻ったのは、つい数ヶ月前。

家々が消えた一帯の夜は暗い。深い闇が蔽う夜道。

 

 

町の灯りは厳かに、月の光に啓蒙される。

 

 

空かない腹も、見果てる夢も、明けない夜もない。

再出発。

 

 

駅に入ってくる列車はない。

映すカメラはここにある。それを動かす人もいる。

もう一度、物語を始める準備はある。

物は消えても、心に残ったレールを走る。

今度は暴走しない線路を敷きたい。

 

 

夜の月と同様に、昼の太陽の存在感。

自然は脅威でありながら、それでも微笑み続けるという驚異。

それは人間もまったく同じで、それは人間がまったく自然だという証。

 

 

自然が人間と関係なく在り続けても、人間は自然と関係なく在り続けることなどない。

 

栄華から遠く離れて。

そこを支配しているはずの哀しみは、いま歓びの産声に変わる。

 

 

※時の経過と事態の収拾によって、奇妙な秩序と不穏な安穏がそこには在り、

   背後にある人間の現実への思慕や顧慮に欠けた感慨かもしれない。

   実際は、現実的な復興への道のりは極めて遠く険しいという実感で、

   それはメディアの媒介では伝わりにくく、また伝わらないという諦めからか、

   達成や希望にばかり目を向けようとする。現地の人々の前向きとは訳が違う。

   彼らにとっての「がんばろう」や「ありがとう」や「絆」という言葉(実際よく目に入る)は、

   不運や艱難辛苦をすべて飲み込みながら、精一杯歯を食いしばっての前向きで、

   その響きや訴えには、正負も表裏も陰陽もすべて引き受ける覚悟が刻印されていた。

   綺麗事な前向きと疎んじては、その空気を批判するだけで過ごしてきた自分こそが、

   逞しき前向きに背を向けて、無責任な前向きの先頭を歩いていたことを思い知る。

   今頃足を踏み入れることに、今更な感を覚えもしたが、

   おそらく実際は「今更」などという言葉が相応しくなる迄に

   厖大な月日を要するだろう。そのことすらも行かずには知ることができなかった。

   百聞は一見に如かず。

   いまは、「聞」ばかりがメディアじゃなくて、「見」のメディアが溢れてる。

   でも、実際に「見る」ということは、その場に「立つ」ことでもある。

   それはほんの束の間のことかもしれないし、

   時には傲慢既知の奴隷と化すかもしれない。

   それでも、「見る」ということの本当の意味を知るためにも、

   「見る」ということの意義を(再)発見する稀少で貴重な体験であることは間違いない。

   そのうえで、何も見ていなかったという事実が、何も知らないということを気づかせる。

   その呆然の向こうに、知ることの悦びを渇望する新しい自分が現れることを期待する。

   まだ戸惑いと躊躇いのなかにいるけれど。

 


桐島、部活やめるってよ(2012/吉田大八)

2012-08-23 15:22:44 | 映画 カ行

 

ほろ苦かろうが、甘酸っぱかろうが、

高校時代というステージを誰もが回顧して止まぬのは何故だろう。

それはおそらく、余りにも嘘くさい演技にまみれた虚構の空間でありながら、

「演じる」本人は純粋に必死で、だからこそそうした演技の間隙に真実は顔を出し、

実を覆い尽くせぬ虚を破って剥き出しになった自己は、痛々しくも美しい。

大人になれば簡単にボロは出さなくなるけれど、それはただ単に

嘘が巧くなったからなわけではなく、嘘が真になったから。

だから、どんなに惨めで浅ましくとも、

真の己に再会したくなる。

 

本作は、

演技経験豊富な子役出身のベテランから演技経験ゼロの新人まで、

年齢的にも実際の高校生から二十代半ばまで、

背景や世代も多様なキャスティング。

それでいて、奇跡的に「自然」なアンサンブルが終始映し出されるのは、

高校生活が何処までも不自然な力に支配される宿命だから。

人生で経験する第三の学舎たる高校は、

理性の価値こそ大人なりに弁えつつありながら、

それによって統御されるべき情緒は最も獰猛だ。

その貪欲さは時に自らの自然を食い尽くしてまで

執拗に「自己」を演出する。しかし、それはいつでも不完全。

いや、未完成。

理性が乏しいからじゃない。

理性なんておそらく死ぬまで大して変わらない。

そもそも、誰もが同等程度のそれしか持ちあわせていないかも。

何が違うのか。理性の言いなりになれない獣が潜んでる。

だけど、以前には発散できた獣性も、羞恥心からひた隠し。

とはいっても滅却できるはずもなく、膨張の一途を遂げるだけ。

自分の内から外からひっきりなしに刺激され、その刺激だって内外格差激しくて、

何が何だかわからない。そもそも自分がわからない。なりたい自分もわからない。

それでも必死に演じていなくては、傷つきやすい自己がむきだしに。

だから与えられた「立場」を精一杯全うするしかない。

いや、でも、それは、自分で選んだ立場かも。

その相克に嘘つけない。

人生で最も他人を責め続けてる高校時代は、

人生で最も自分を背負い続けてる時代かも。

 

演技は巧くなる程それを司るのは自己であり、

演技が拙いその時は、自己が露わになっている。

その紛れもない事実が交錯し続ける高校の生活。

本作の出演者たちが交わす虚実の応酬は、

語り尽くせぬ真実の、余白に余白を書き足してゆく。

 

 

(以下、映画の内容[結末含む]に触れて書きます。)

 

◆この物語の最大の特徴は、存在する中心の不在であり、

   その不在こそが物語を駆動しているということだろう。と、よく言われるし、そうだろう。

   ただ、実際は誰も本気で桐島本人のことを気にかけていたりしないところが正直だ。

   彼らが気にしているのは「桐島との関係からうまれる何か」であって、

   在るのはそれに対する期待や落胆、希望や絶望だけなのだ。

   確かに大人になれば(親子関係などが象徴的なように)

   半自己的な他者が自分の内に巣食うこともあるだろう。

   しかし、それとて「自分のことのように」な発想だ。

   自己を幽閉するための絶対的要塞に他者を招き入れることなど以ての外たる高校生は、

   互いの聖域を踏まずに、見せ合いもせず、周到に仕込んだ「自己」だけで対峙する。

   自己の要塞を死守するだけで必死なその時に、

   壊れかけの誰かの要塞を気にかける余裕はない。

   自分のだけでは心許ない要塞を、庇護してくれる要塞だけを求めてる。

   それが「中心(人物)」であったり、「集団」であったり、実は「学校」だったりもする。

 

◆しかし、そうした自己がまとった防御幕を

   どうしても自己そのものだと認めたくない自分が暴れ出すのも高校生。

   大人になれば、公私を時に都合好く言い訳にして、防御幕を脱着可能にしたりする。

   「なりたい自分」と「なれる自分」と「今の自分」の区別に、随分と物わかりがよくなる。

   それは生きるために必要な頭だが、心まですんなり浸透し尽くすことは難しい。

   だから、頭は未熟だが、その分飼い慣らされていない心を目撃すれば、

   眠り続けた心が暴れ出す。束の間でもひっそり愛でてやる。映画館の暗闇で。

 

◆それこそ高校の授業でよく読まれたりする、夏目漱石の『心(こころ)』。

   あの物語でもやはり「Kの不在」が大きな存在だ。

   カフカの『審判』の主人公も「K」だし、彼を敬愛する安部公房の小説にもKが出てくる。

   梶井基次郎の「Kの昇天」などもあれば、

   村上春樹『スプートニクの恋人』の「ぼく」も「K」ではなかったか。

   そして、本作の中心(?)もまた「K」である。

 

◆前述のように、桐島への本気の心配は概ね希薄に見えながら、

   私が作中で最も桐島を真剣に心配しているように見えた存在は、風助(太賀)だ。

   彼は桐島の存在ゆえにレギュラーの座(つまり、自分の存在証明の場)が

   与えられずにいたわけで、本来なら最も喜ぶべき「立場」にある。

   しかし、彼こそが唯一(?)桐島の内面にまで深刻に思いを馳せる。

   傍から見れば、桐島と風助に見えている世界は全く異なっているように思われる。

   しかし、実は彼らが立っている場所は同じなのかもしれない。

   涼也(神木隆之介)が、

   自分たちの作ってる映画と自分の憧れる映画が「つながってる」と思えるように。

 

◆本作の最大の魅力は「桐島の不在」よりも、

   「大人の不在」にあるのではないかとも思ってしまう。

   (それは同時に、「社会の不在」と同義の側面も併せ持つだろう。)

   学園ものにおいては必ずといって好いほど、教師や親がしばしば顔を出す。

   妨害したり理解したり、傷つけたり癒したり励ましたり。

   都合好く助けてくれる。物語を。作劇を。

   しかし、高校時代とは最も「大人が遠い」時間に思う。

   それは心的距離からくる自然でもあるが、

   大人ぶりながら大人の介入をかわす真空状態な時間を生きる。

   社会に直接埋め込まれていないから、社会への違和を正直に覚えもできる。

   ところが実際は、社会(=まだ他者)との接点が部分的かつ一時的であるが故、

   より純粋に、より直向きに、関心は自己へと流れ着く。

 

◆映画部の連中に限らず(いや、むしろ他の連中の方が)

   眼前で進行する現実(成り行き)に絶えず抵抗するための「シナリオ」を持っている。

   それは自分のなかで日々(いや毎分毎秒)更新されながら、

   結末は意地でも書き直さない。

   自分で決めた結末に到達するための「シナリオ」だ。

   しかし、それは決して他人に「読まれ」てはいけない。

   そんな涙ぐましい滑稽が展開されていた事実を知っている元高校生(大人の観客)は、

   本作で銘々が必死で書き殴っている「シナリオ」が読めてしまう。

   勿論、それは彼ら自身が書いたそのままのそれではないかもしれない。

   しかし、それが「読める」ことに心地好い距離感を覚えながら、

   自らの高校時代を読み始めていくのだろう。

 

◆現実と常にリンクした「シナリオ」の執筆は多大なる困難がつきまとる。

   何が起こるかわからない。自分の力ではどうにもならないことばかり。

   だからこそ、夢(虚構)のなかで完結できる「シナリオ」をもった連中に憧れ(?)る。

   それは羨望よりも嫉妬となって、時に排斥し、時に見下しては相対的優位を獲得する。

   「お待たぁ~」の壮絶なイタイタしさは、純粋正直な信頼や安堵の裏返しかもしれない。

   現実の駆け引きから解放された「ダサさ」のなかで生きる存在を認めぬことで、

   自らの必死を慰めるしかない。そのための嘲笑。

   しかし、そんな自分のイタさを無意識に感じていたりもする。

   そんな敏感さが虚勢の舌打ちや攻撃的「はぁ?」に化けもする。

   (大人になると鈍感になるので、そんな汚れにも馴れてしまう人もいるだろう。)

 

   武文が涼也に「昨日、満島ひかりに会った」と報告する。

   「どこで!?」と興奮して尋ねる涼也に武文は「夢で」と答える。

   普通はそこで、「夢かよ・・・」という落胆で終わってしまう。

   ところが、涼也の興奮は冷めるどころか好奇を増して身を乗り出す。

   彼らがより純粋に「夢」のなかで生きられる証拠だろう。

   彼らにとっては、残酷すぎる現実を乗り切るためのシェルターなだけかもしれない。

   しかし、現実から自由になった「シナリオ」を持てる彼らの存在は、

   そこそこ好い現実のなかで「シナリオ」を更新し続けねばならぬ緊迫下の者にとって、

   羨望すら生むから疎ましい。

 

◆高校時代の人間関係がファッション(流行/流儀)みたいなものであるのは、

   単なる喩えにとどまらず、実際にファッション(服装)によって決している。

   本作では制服の設定なので、際立って顕在化はしていないようにも思えるが、

   綿密な設計によってさりげなく「色分け」がなされている。

   (女子はかなり直截的だが、男子のそれはその微細さが面白い。)

   例えば、放課後バスケの3人は、さりげなく型を崩して自己主張する。

   失敗パーマだろうが許容してもらえる一応公認「おしゃれ」獲得の竜汰(落合モトキ)は

   誰も着ないような色(実はイケてない)のカーディガンで自分のポジションを確保、主張。

   不器用ながらも人当たりの好さで幅広く(それは浅くでもなるが)信頼確保に必死な

   友弘(浅香航大)は、無難な紺の(だが、カーディガンではなく)パーカーを着る。

   顔も人も頭も好い宏樹(東出昌大)は王道の濃紺カーディガン。

   飾る必要の無さにも因るが、おかげでその色のカーディガンを「他者」は着られない。

   ベージュやグレーのカーディガンを着る映画部の仲間たち。

   彼らが着るジャージはみすぼらしい処刑服でしかないのに、

   部活に燃える体育会系たちのまとっているそれは輝かしい戦闘服。

   涼也の袖はどれも長いが、あれこそまさにシェルター機能。

   サッカーボールを空振りしたり、現実には在り得ない好機に緊張したら、

   自分を慰め宥めるために必要な伸びしろだ。

 

◆物語の序盤、教室内で配られる「進路調査」の用紙。

   小さく折りたたまれポケットに入ったままの宏樹のそれ。

   去ったはずの野球部のバッグを持ち続ける宏樹の肩には、

   「Shorai(高校名だと思うが、《将来》でもあるだろう)」の文字がぶら下がる。

   必死で練習に励みながらも「こんなに頑張って何になるんだろう」という不安も抱える

   バレー部員たちの胸にも刻み込まれた「Shorai《将来》」。

   バレーボールやバドミントンのプレイヤー、野球選手、演奏家や映画監督になるために、

   毎日毎日精力を注いでるわけじゃない。なら、なぜ努力する?努力は報われる?

   たとえ一瞬報われたとしても、それは私たちの将来に何を刻む?

   そのときには不安だらけでわからない。

   でも、その不安と、それを凌駕した達成は、紛れもなく《将来》に光を灯す。

   それが、その時の自分にとって、最も素直に向かってしまうものであるならば。

   だから、私は宏樹が野球部に戻って欲しいし、そうなるだろうと信じてる。

   という主観の暴走と成就で幕を閉じたエンディング。

   そこに読む内容は、おそらく観客一人一人の人生をもが刻まれる。

 

   余談ながら、私自身も高校時代(2年の一時期)に部活を数ヶ月やめていたことがあり。

   宏樹のそういった気持ちはわかる気がして(観てる最中は実際わかりすぎる感充満)、

   野球場の横を歩いて通りたくなく(なるべく素早く通り抜けたくて)、

   自転車の後ろに乗っけてもらうとかの切実に胸いっぱい。

   現役高校生に「届きにくい」要素もある本作だと思うが、

   こういった観点(実際にやめないまでも部活が最大の悩みの生徒も多いだろう)から

   本作が大いなる示唆を与えてくれることもあるだろうと思う。

   だから、もしかしたら公開は(物語の舞台でもある)晩秋が絶好だったようにも思う。

   シーズンが終わり、退屈でヘヴィな「冬練」に突入する晩秋に、

   運動部員は必ずその問題に直面するからね。

   おまけに高2となれば、受験のことも頭をチラつき(いや、実際は重くのしかかり)、

   ここで続けるとなると高3の夏頃までは覚悟しなければならないし、

   この時期でやめる部員は本当多い。

   (やめて受験も失敗するケースもこれまた多い。)

   そんな悩める迷える高校生(運動部員)に、本作が届いて欲しいと思ってみたり。

   というわけで、Blu-rayの発売は11月25日でお願いします。

   日曜だから無理か。ならば、エンディングである11月29日。それなら木曜日。

   (ちなみに、物語の始まり11月25日(金)は2011年の暦のようですね。)

 

◆映画部の顧問は「半径1mのリアリティ」を語れと涼也に説く。

   しかし、彼にとってゾンビ映画こそがリアリティ。

   リビング・デッド。

   映画のことを考えているときには生き生きと、

   でも教室やグラウンドでは死んでいる。

   そして、時には「人間」たちから人間扱いしてもらえずに、

   蔑みや排除の対象として弄ばれる。

   屋上で涼也の「見た」物語は、そうした連中への逆襲であったのだが、

   彼らの敗北が8mmのなかで投影されるのに対して、

   かすみへの逆襲はシネマスコープ。生々しい虚構の欲望。

 

◆素直に「よきもの」「きれいなもの」に感動や尊敬を表明できる時代から、

   「あしきもの」「きたないもの」への気軽なアクセスこそがクールになる時代。

   それが十代であり、そのピークこそが高校時代(とりわけ前半)だろう。

   例えばそれは女子のオープンな陰口や蔑みの眼差しだったり、

   例えばそれは男子のオープンな排泄への言及だったりもする。

   社会通念的には極めて滑稽で、醜いと一蹴されがちながら、

   その涙ぐましい必死さは、裏の裏を垣間見せ、実は至って清廉なのだ。

   華のある梨紗(山本美月)や、その華の衛星たる沙菜(松岡茉優)、

   彼女等と気楽に会話し真の姫(橋本愛)までモノにする竜汰などはその典型。

   太陽的存在たる桐島や(菊池)宏樹 と 彼ら の間に位置するのが、

   実果(清水くるみ)や友弘なのだが、彼らの存在までが活かされているフラットに感嘆。

   実果は随分とフィーチャーされてるし、物語にもかなり直接的に機能しているが、

   (同性だからかもしれないが)友弘には特段の愛着をもって見守ってしまう。

   彼はとにかく「いいひと」路線なので、かなり広く浅く巧くつきあっている印象だ。

   「金曜」のホームルーム、担任が来る前に彼は「名もなき」クラスメートと談笑。

   屋上でいつもサックスを吹くクラスメートを「女子」呼ばわり。

   (竜汰は「沢島さんだろ?」と素直に返答。

   「名前知らない」ふりでスカそうとする友弘のいじらしさ。)

   桐島目撃というスクープを手にして体育館へ一目散。

   屋上の乱闘では素早く「ノーマンズランド」へ。

   宴の後、ポツンと一段上に体育座りする姿が印象的。

 

◆「立場」や「視点」といった言葉のもつ比喩性は極めて現実的。

   教室内での座席の位置は、その人物の「立場」に引きずられ、

   立場の上下は前後に倒錯する。

   映画館での座席も同様で、

   『鉄男』を観賞している涼也はかなり前方だ。(かすみは中断よりやや後方)

   最前列ではないが、おそらく座っている観客のなかでは最も前に座っている。

   自分とスクリーン(虚構)の間に何物も(現実)を介在させたくない。

   いや、現実は彼にとって美しくない。(「現実のかすみ」もそうだったという哀しみ)

   (私も一時期、映画館では前方や最前列が好きだった時期があり、気持ちはわかる。)

 

   本来なら、空間性と「立場」の関係で言えば、屋上は最高峰とも言える場所。

   (だから、ラストは「頂上決戦」という意味合いも?)

   しかし、本作ではそういったステレオタイプに堕したりしない。

   ありがちな学園ものでは、屋上ははぐれ者の聖域だったり、

   現実からの解放が保証される唯一の場所だったりするが、

   本作では地上の人間たちの方が「自信」を手にしてる。

   遙か眼下で展開される、無意味に興じるバスケの三人。

   高嶺を見下ろす沢島(大後寿々花)の倒錯。

   涼也を見下ろす長身の宏樹は、ファインダー越し涼也に畏敬を覚える。

   物質的高低は、必ずしも精神的高低を決しないという想像力の悲劇と喜劇。

 

◆想像力といえば、昨今はやたらとありがたがられる「モラルの大好物」化が激しいが、

   換言すれば主観でもあるわけで、

   想像力という言葉にどこか流動的客観性を忍ばせようとする言説が私は厭だ。

   「フィルムの画を汚いって言う人もいる」ことを解り(納得し)ながらも、

   「僕はそこが好き」だと無垢に語れる主観が好い。

   宏樹の「汚い(笑)」にも「うるさいよ(笑)」と言える涼也の主観が好い。

   形は違えど、武文も宏樹も認めてて、でも「汚い」には異議唱え、

   それは否定のための「違う」じゃなくて、肯定するための「違う」だろう。

   宏樹が初めてファインダー越しに見た世界。

   今まで自分が見てきた世界が「すべて」ではないことを知ったとき、

   でもそれはかけがえのない「すべて」でもあるということを識る。

   相手から見られる自己よりも、自分が識ってる自己でいい。

 

 

◇今夏の映画興行における本作の存在が、本作の内容とリンクする。

   表舞台は人気者が割拠する『アベンジャーズ』(映画部よ、これが青春だ)

   地味目だけと時に表舞台な剣道部(『るろうに剣心』)の奥にひっそりと

   潜伏する『桐島』映画部(映画よ、それが青春だ)。

   しかし、実は『桐島』愛好家は『アベンジャーズ』が大好き。

   という皮肉。いや、正直。

   だから取り巻きじゃない『アベンジャーズ』そのものは、

   真剣な『桐島』に羨望を抱きもする。

 

◇今まで監督作を悉くスルーしてきてしまった映像作家・吉田大八の偉業を

   語る資格は私にないが、日本のCM畑出身監督への不信を見事に払拭してくれた。

   (市川準とかですら、個人的にはどうしても好きになれない色を感じていたので。)

   原作は未読だが(映画観た帰りに買ってはみたが、いまいち読む気になれず)、

   見事な会話劇と行間の躍動感をうみだす構成を両立させた脚本は絶品だ。

   本作のもう一つの(真の?)主役とも言うべき「視線」を担う撮影は近藤龍人。

   若手ながら(30代!)フィルム撮影での経験もバッチリ積みながら、

   松江哲明監督の『ライブテープ』や『トーキョードリフター』というリアリズムも経て、

   緩急も静も動も自在な世界の切り口は、

   ヒリヒリとした瑞々しさをデジタルにすら焼き付ける。

   フィルムじゃないのにフィルムにすら見えてくる不思議。

   シネスコが得意とする「距離」のみならず、天地の圧迫感が転化する閉塞性も。

   『天然コケッコー』のラストや『マイ・バック・ページ』の死における緩やかな横移動。

   『ソラニン』のオープニングにおける緩やかな上昇。

   それらの優雅な眼差しを内包しつつ、新たな峻烈さを携える。

   豊田利晃作品で私が好きな作品は限られるが(『青い春』『ナイン・ソウルズ』など)、

   それは日下部元孝の編集力の恩恵に与っていたような気がする。

   本作もタイミングひとつ間違えれば、

   喚起される生々しい感情は掻き消されていただろう。

   主題歌は個人的には好みではないし、

   今でも別のパターンを夢見もするが(むしろ音楽なしの日常音だけでも・・・)

   それでもそれなりに「しっくりくる」ようにねじ伏せる力がある。(映画の方に。)

   あと、細かく指摘するのは難しいが、学園ものを見ていてしばしば覚える違和感を

   本作から見事に消し去ってくれたのは、美術の仕事も大きいだろうと思う。

   とりわけ、「綺麗じゃない黒板」のリアリティがお気に入り。

   数式(だったかな?)が微かに見える雑な消し方。高校をリアルに思い出す。

   (綺麗すぎる黒板が学園ドラマや映画に多すぎる。他は雑然としていても。)

 

何度も観れば観るほどに、物語は増幅し、その度に更新されゆくだろう。

それは足し算でもかけ算でもなく、その都度うかびあがる新たな地平。

いくつもの視点がありながら、それらが常にねじれてはすれ違う物語。

本作を繰り返し観るとすれば、自己の内にそれが起こってくるかもしれない。

誰でもない自分はきっと、誰でもある自分なのだろう。

 


盗聴犯 死のインサイダー取引(2009/フェリックス・チョン、アラン・マック)

2012-08-21 23:58:42 | 映画 タ行

 

今年は香港映画ファン垂涎の作品群が続々と公開されている。

比較的新しいものから、数年前の発掘系まで。

なかでも本作は、とびきりの傑作。

ぼくたちが香港映画で見たいもの、感じたいもの、

そのすべてが集結し、凝縮混濁浄化の嵐。

皆香港電影愛好家必見傑作!!! 

キャスティング的には、ジョニー・トーmeetsベニー・チャンみたいな印象で、

それが中途半端に堕すること一切なく、弁証法ですらなく、

ただひたすら正攻法、いや最高峰!!!

 

『インファナル・アフェア』の脚本コンビだけあって(他にも結構組んでるけど)、

あのシリーズというよりも『ディパーテッド』(好きだけど)への返答というか、

「アメリカよ、これが映画だ!」な惚れ惚れする矜持が暴れ出す!!

そう、これぞ香港電影!やっぱり大好き、香港電影!

わが香港電影は永久に不滅です!!!

 

金融絡みのエピソードやミニマム群像劇的アプローチは、

昨年のフィルメックスで観た(本国でもかなりの高評価)ジョニー・トーの『奪命金』を想起。

あちらはコーエン兄弟にも通ずる渋みを効かせるも、こちらは断然トニー・スコット!!

などと、つい口にしてしまうのは安易な感傷からかもしれないが、トニーはいつも、

香港電影の好敵手的な「心も頭もフルスロットル」映画を届けてくれた。

どんなに評論家や同業者から賞賛されても(「貶されても」より難しい)、

「からだ」より「あたま」に働きかけようなんて絶対しなかった。

そんな精神は多くの映画人を刺激し、これからもきっと脈々と受け継がれるだろう。

本作にはまさにアンストッパブルな圧倒的磁力が100分間!全編全身全霊、奮!

 

喩えて言うなら、最後の最後まで終始ぶんぶん振り回されて、

そのとんでもない遠心力に戦慄きながらも、禁断の恍惚に身をやつし、

最後にふっと手を離された瞬間、とんでもなく遠くまで飛ばされて、

いつまでも着地できない・・・。そんなです。(どんなだ?)

とにかく、四の五の言わずに観るべし!な映画ってことです。

 

◆冒頭、夜の路地裏を彷徨く一匹のネズミが映る。

   そして、闇へと入っていくと・・・何とも魅惑ながら、

   あらゆる示唆を丸投げ(褒めてます)な香港風暗喩の国。

   確かに、この映画はネズミに溢れてる。

   そもそも、人のもの(カネも女も)を盗もうとする連中ばかり。

   そんな奴らをネズミ算式に増殖させる現代のテクノロジー。

   彼らが運命託して握りしめるのは・・・マウス。

   そうなりゃ、最後。袋のネズミ。

 

◆冒頭の「潜入」からしてクライマックス級。

   ベタを抑えてツボを外さぬ、名人芸より職人芸。

   複雑な人間関係をシンプルに呈示しながら、複雑さをかみしめさせる手際に心酔。

   自在に動き回るカメラが止まって寄れば、そこに映し出される顔の主張は強烈だ。

   これまで彼らが演じてきた様々な役柄の印象が、消されぬことなく抱擁される。

   脇まで本当に抜かりない顔のオンパレードながら、それでも主演三人は別格絶品。

   それぞれに個人的な事情も愛情も背負いつつ交わされる、大人の友情。

   それは決して熱くはないが、断じて厚い。

 

◆舞台となるオフィスや香港のランドスケープは、

   何故か『ダークナイト』を想起してみたり。あのときの興奮と地続きのような妙な感覚。

   それは、本作も同様に善悪渾然一体のカオスが底流にあったかもしれないが、

   『ダークナイト』ではあくまで善悪の相克を外化(人物毎に担わせる)させていたが

   (トゥー・フェイスにしたって、前後で境界線を引いているし)、

   本作では誰ものなかに相克を埋め込んでしまう。

   だから、境界線への懐疑やその無力さを噛みしめるというよりも、

   境界線など始めから在り得ないことを体感しながらも自制不能な生を映し出す。

   それも、両面という提示でなしに、一面に。

 

◆エンドロール。

   ラウ・チンワンとルイス・クーとダニエル・ウーの名が横一列に浮かび上がる。

   ただ、それだけでドラマになる。

   そんな映画。

 

◇本作(英題『OVERHEAD』)の好評を受けて(?)、

   第二弾(英題『OVERHEAD 2』)が制作されており、

   そちらも『盗聴犯 狙われたブローカー』として今回の特集で上映されている。

   私は未見で、今回の上映では観られそうにないが、

   キャストや制作陣の多くは続投ながら、物語は全く別のよう。

   だから、本作だけで独立した作品でもある(という但し書き)。

 

◇キャストが全員好演のみならず、スタッフ陣も盤石。

   音楽を担当しているのは、「香港映画の佳作にこの人あり」なコンフォート・チャン。

   『インファナル・アフェア』の「落下」に重なる女声の名旋律のあの人だ。

   撮影は、『香港国際警察/NEW POLICE STORY』『コネクテッド』

   という個人的大傑作を手がけたベニー・チャンの盟友アンソニー・プン。

   どうりでアクションだろうがドラマだろうがカメラが宙を舞う(笑)

   そして何より影響が大きそうなのが、プロデューサーを務めたイー・トンシン。

   最近では『新宿インシデント』の骨太ぶりも記憶に新しい彼。

   その公開時に彼のレトロスペクティヴを開催してくれたのもシネマート六本木だったな。

 

◇ところで、監督・脚本コンビのアラン・マックとフェリックス・チョンの誕生日は、

   なんと同じ1月1日ではないか!(アラン・マックが3歳年上)

   なんてめでたい2人。だから愛でたい2人。

   本作もまさに「金が信念!?」な一作だし!

   ・・・でも、香港は旧正月かな。

 

◇理詰めで見れば破綻だらけの展開だけど、

   そもそもその「綻び」を味わってこその香港映画。

   仕事では非理性的・非論理的社会に嫌気がさすこともしばしばな日本。

   しかし、こうして同じアジアの渾沌や曖昧を直感的に享受できる悦びは格別。

   それでいて因果応報や自業自得っていう一貫性だって通底してたりする訳で、

   体感興奮で時間いっぱい満たされた後の反芻思慕に我が人生も顧みる。

   どんなに粗くても、その粗さの隙間にこそ滲み出る情緒が愛おしい。

 

◇シネマート六本木ではデジタル上映で、おそらくブルーレイでの上映だが、

   あれだけしょっちゅうデジタル上映に懐疑的でブルーレイ上映とか許さん!状態の私も、

   シネマート六本木で観るブルーレイ上映には何故か好意的になってしまう・・・

   (ただの気分屋というか、わがままというのも有力な説)

   DCPに比べればもちろん「のっぺり」した画ながら、何故かさほど気にならない。

   しかも、六本木の大きめ劇場のサイズには何となく色々合っている(答えになってない)。

   そして、何より、これだけの傑作を未公開(未紹介)に終わらせまいという気概と、

   いっつもブレては戻って来なさそうな時もあるのに、それでもアジア映画専門館!

   の看板を固持しようというシネマート六本木への判官贔屓(だって、ガラガラガラだよ)

   も手伝ってか、人間信頼劇場なんかよりも断然断然支持します!

 


オレンジと太陽(2010/ジム・ローチ)

2012-08-19 23:59:04 | 映画 ア行

 

(下高井戸シネマ:8月18日~24日11:40/13:45) 全国順次公開中

 

監督をつとめるジム・ローチは、本作で映画監督デビューとなる。

大学で哲学を学び、ジャーナリストを志し、ドキュメンタリーでテレビの世界へ。

その後、テレビドラマの演出を着実にこなし、いよいよ初長編映画を手がけることに。

父は同じくテレビの仕事からキャリアをスタートさせ、いまや巨匠たるケン・ローチ。

本作のシノプシスを知り、父と「同じ土俵」に挑もうとしている気概に感心するも、

些か無謀に思えなくもなく、ケン・ローチ作品をこよなく愛する自分としては、

観る前から勝手な憶測で識らず識らずのうちに二の足を踏んでいた気がする。

一見甘ったるい印象のタイトルやキーヴィジュアルも又、変な心配を喚起した。

しかし、実際に観てみると、父からの見事な継承を感じさせながらも、

ジムならでは篤実と厳格が確かに全編しみ渡ってる。

ケン・ローチの息子のデビュー作ではなく、

ジム・ローチのデビュー作。

 

主人公(エミリー・ワトソン)はソーシャル・ワーカー、しかも彼女は母でもある。

そんな彼女の眼を通して語られるなら、感情で感情に訴える術に走ることになるだろう。

ところが、驚くほどに移入を拒むかのような俯瞰の眼差しは、同情を駆逐する。

それは同時に、何か(誰か)を責めることで「解決」しようとする安易との訣別だ。

父ケン・ローチがこれまで貫いてきた常に自戒の先の慈愛の自愛。その不信。

 

救済であり闘争でもある彼女の物語に、

ジム・ローチはクライマックスもカタルシスも与えない。

あらゆる再会にドラマを与えない。そこに在る、そこに生起する姿を写す。

それらを最大の「見せ場」にすることは、本作が「贖罪」という癒しに堕してしまうから。

過去と現在を切り離し、過去を他者として責める自己(現在)。

しかし、過去は必ず現在に含まれて、不可分など不可能だ。

ならば、それをどう引き受ければいいのだろうか。

過去を奪われた人間も、過去を自在に育めたはずの人間も、

常に過去になる現在を生きている。喪われようがなかろうが、過去は常に在る。

そうした時間のなかで「自分とは誰か」という問いをつきつけられながら生きている。

喪われたアイデンティティを取り戻そうとする人間の方がより「自分」を掴み、

アイデンティティの喪失を憐れみ助ける者の自我が揺らぎ始める。

 

人間は、他者からの承認によって自己の存在を認められるところがある。

主人公のマーガレットは承認を授けるための仕事に従事し、

いつしか承認される機会を逸していってしまう。

だが、その時初めて、彼女が勤しんできた仕事の意味を知る。

その価値の大きさは不可避の代償を求めるが、

その使命を彼女自身のアイデンティティとして他者が認めるとき、

彼女は自分のために、自分の足で歩き出す。

 

主人公が終盤に訪れるある場所。

そこに隠遁している「罪人」こそ、自分が誰かがわからぬ「下僕」であり、

それは欲望の「奴隷」であることに自ら承服してしまった崩壊自我の「未成年」。

罪を憎んで人を憎まぬが、罪を恐れて罪を重ねる者の矛盾を憐れみながら認めない。

本作では怒りなどの感情をストレートに表出するような場面が極めて稀だ。

むしろ、それを堪え忍ぶ姿、あるいはそれに堪え続けた挙げ句自己に染みこんだ姿。

それを人間のひとつの優しさとして、人間に唯一残された「自由」として呈示する。

 

やや煽情的に響かないでもない女流作曲家によるスコアや、

ロードムービー的感傷がたびたび去来する構成から、

父ケン・ローチに比べればドラマ性を求める作風なのかと思っていると、

最後の最後に父親以上に厳粛な現実主義的側面を垣間見せられ驚いた。

 

(物語の最終場面に触れます。)

 

主人公が支援してきた人々が開いたクリスマス・パーティー。

彼女の夫や子供も出席。

参加者の女性が彼女の息子にプレゼントを私ながら冗談まじりに尋ねる。

「あなたから私たちにプレゼントはないの?」

息子は表情一つ変えずに答える。

「お母さんをあげたでしょ。」

強ばる主人公や周囲の人々の表情。

「そうね、私たちはそのプレゼントを本当に喜んでるわ」と答える女性。

そこで微笑をもらす息子に救われる一同。

その次の場面ではオーストラリアの彼女のオフィスから

イギリスに帰国するため去ってゆく夫と子供。涙で見送る主人公。

現実の厳しさを描くことに全くの妥協を許さぬ、畏るべきラストシークエンス。

客席では安堵まじりに咽び泣くような女性の声がしていたが、

私はむしろ出かかっていた涙がぴたりと止まってしまった。

息子の一言は、まぎれもなく主人公が払ってきた(いる)犠牲の大きさを、

彼女にも、観客にも決して「忘れさせまい」とする、紛れもない戒めだ。

しかし、その現実をただ受け容れるだけでなく、自覚し葛藤する。

彼女の選択の正しさだけを語って終わらない。

どの選択にも正しいとは言えない側面が付随する。

それを忘れない。それがどうしようもないことであったとしても。

迷いと悔恨の涙を常に両眼にためて、その源泉を抱きしめる。

「正しくない」ことを識っているとき、人はかろうじて「正しく」いられるのだろう。

そして、そんな想いだけが人を強くする。

 

 

◇イギリスとオーストラリアの共同制作である本作には、

   オーストラリア気鋭のスタッフが多く参加している。

   撮影監督のデンソン・ベイカーはその仕事をオーストラリアで高く評価されており、

   本作もフィルムによるシネマスコープの画面で、臨場感と静観を見事に使い分けている。

   閉塞を免れぬ展開のなか時折訪れる解放の風景(海や砂漠などの自然のなかで)は

   心許なさと美しさを一手に引き受け、この物語の尊厳を詩情によって体現させる。

 

◇脚本のロナ・マンロは、ケン・ローチの『レディバード・レディバード』でも実話を基に

   社会派作品ながら滋味あふるる筆致で物語に厚みと柔らかさを与えていた。

   確かな脚本は勿論だが、やはりそれをどう演出し、どう映すかという段における

   ジム・ローチの才気を私は感じずにはいられなかった。本当に今後が楽しみ。

 


アンハッピー・リリースな映画たち

2012-08-18 19:27:27 | インポート

 

横文字(ってか、片仮名か)にして幾許か愚痴っぽさを軽減(したつもり)。

洋画の配給本数が減少する一方で、洋画が日本へ紹介される術も多様化してる。

フィルムで劇場公開後、ソフトリリース&レンタル、各種チャンネルでの放映・・・

といった従来の流れ(順序)も変容し、いまでは多様な形態や流れが可能となった。

しかし、その一方で「本物」に近い状態で作品に触れる機会が稀少化してるのも事実。

 

1.劇場公開されずにソフト化

残念パターンにもいくつかあるが、

まずその典型(従来からもあるパターン)が、DVDスルー。

ただ、最近ではその「スルーされるスピード」も相当迅速で、

本国公開から1年も経たず(下手すると半年すら経たず)スルーされることも珍しくない。

ソフトは販売にしろレンタルにしろ低調(というか下落?)を続けていると思われる一方、

多チャンネル化によって最近目立ってきているのが、

BSやCSのチャンネルで放送される劇場未公開作。

 

WOWOWプレミアでは興味深いラインナップが展開されているし、

BSスカパー「スカパー!シネマアワー THE PRIZE」でも未公開作が放送されたり。

なかでも最近随一のオススメはWOWOW今夜初放送のなんだかおかしな物語

iTunesで観られるようになってはいたが、ソフト未発売の快作秀作佳作な逸品。

原題は、『It's Kind of A Funny Story』。(私が昨年書いた感想はこちら

『4.3.2.1』にも出演していたエマ・ロバーツの魅力もたっぷり堪能できます。

そういえばこの2作、冒頭シーンがちょっとダブります。橋の上から川に・・・っていう。

これを機に、ライアン・フレック&アンナ・ボーデンによる絶品日本未公開作群が

日本に紹介されることを祈ります。(ライアン・ゴズリング主演作もあるんだし。)

 

 

2.作品を汚す冒涜のボカシ

私が映画を観始めた学生時代、映倫の規準なのか時代の趨勢なのか、

映画における性器の露出に対する規制は随分と緩和していってた印象だった。

それが昨今では退行が加速し、おぞましい作品汚しをしばしば見かける。

ボカシ(時にモザイク)をかければ公序良俗が守れるという単細胞な発想が、

余りにも卑猥なボカシを出現させている愚劣極まりない卑劣な所業の数々。

数年前に観た『バーダー・マインホフ/理想の果てに』の冒頭では、

ビーチを裸で駆ける幼児たちの股間にボカシを入れていた。

誰が入れてるか知らんが、とんでもなく「卑猥な施し」をしてることに何故気づかないのか。

 

今日から公開されている『籠の中の乙女』(2010/ヨルゴス・ランティモス)にも

同様の受難が起こってしまったらしい。(おまけに、BD上映だから[後述]でもある・・・)

最初に観たときから予想してはいたことだが(それゆえに日本公開は難しいだろうとも)、

R18指定にまでしておきながら、滑稽なボカシで作品のもつ空気を台無しにする。

映画だろうが何だろうが性器が見えたら即ポルノ(扱い)。ってことだよね。

「意味がある」から「意義のある」露出を記しているというのに、

それを何の思想や権利があって塗りつぶすというのか・・・。

真っ黒に塗りつぶされた戦時中の映画の脚本や、

最初と最後の挨拶くらいしか読めぬほど塗りつぶされた思想犯の手紙、

それらと同様の扱いを受けているように思えてしまう。

映画は産業でもあるので、闘うよりも妥協で模索するしかないのかもしれないが、

ボカシで解決しようとする思想が再び蔓延し始めたことで、

日本における映画の娯楽的位置づけは増進され、芸術化は妨げられる。

どちらも大切な側面であり方向性だが、自由に舵をとれない現況は文化後進国。

 

『籠の中の乙女』は実に興味深く、見事な作品なので、

多くの人に「目撃」してもらいたくはあるのだが・・・

(私が昨年書いた感想はこちら

 

 

3.低クオリティ画質で劇場公開

いまやデジタル上映でもフィルム上映に比肩するクオリティの画を映し出す時代。

しかし、そのためには「まともなデジタル素材」を用意せねばならず、

現在スタンダード化しつつあるデジタル上映フォーマットのDCPを制作するには

およそ100万円程度がかかるらしい。その費用を節約するためか、

ブルーレイやDVDによる上映で公開に踏み切るケースも少なくない。

 

今月、銀座テアトルシネマにて2週限定ずつでレイトショー公開されてる作品も、

ブルーレイ上映によるものだ。

公開が決まったことに喜び、入手したソフトにも手をつけず公開を楽しみにしていると、

残念画質のケチくさい上映だったりするということが少なくない。

DVDなど問題外だが、ブルーレイでも映画館のスクリーンに映すには不十分。

というか、何故自宅で観るよりも劣化した画質で観なければならないのか自問のお時間。

しかも、映画館のスクリーンで観る「あの画調」は家でソフトを観るよりも虚しさが増幅。

 

前述のレイト枠で絶賛公開中の『ヘッドハンター』(2011/モーテン・ティルダム)

こちらはフィルム撮影のシネマスコープ作品。それをブルーレイで上映か・・・。

ハリウッドリメイク(マーク・ウォールバーグ主演?)も決まってる秀作だというのに。

 

監督のモーテン・ティルダムと主演のアクセル・へニーは、

監督の前々作にあたる『Buddy』でも仕事をしている。

いくつもの映画祭で観客賞系を獲っていて、本作同様娯楽色豊かな作品のよう。

(「額は既に」だが、アクセル・へニーが若々しい。)

 

敵役のニコライ・コスター=ワルドーは、

『トロン:レガシー』のジョセフ・コシンスキー監督によるSF大作『Oblivion』にも出演予定。

共演はトム・クルーズ、モーガン・フリーマン、アンドレア・ライズブロー、メリッサ・レオ等。

(当初主演を務めるはずだったジェシカ・チャステインは降板・・・)

ジョセフのオリジナル・ストーリーをウィリアム・モナハン(『ディパーデット』)が脚色。

それを更にカール・ガイジュセック(『ブレイクアウト』)がリライトしたらしいが、

IMDb情報ではマイケル・アーント(『リトル・ミス・サンシャイン』『トイ・ストーリー3』)も

脚本に参加しているみたいなので、それが何を意味するのかは興味津々!?

音楽には、ダフトパンクが『トロン:レガシー』から引き続き参加するようだ。

情報的には怪しさ満点なオーラがムンムンだが・・・

『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』で気を吐きながら、

ロック・オブ・エイジズ』では壮絶にコケてしまったトムの今後は如何に!?

(『Oblivion』の前には『Jack Reacher』の公開が控えているようだが、

  ロバート・デュヴァルやリチャード・ジェンキンス、ヴェルナー・ヘルツォーク(!)

  といった渋い共演陣には期待だが、『誘拐犯』以来の超久々にして監督2作目となる

  クリストファー・マッカリー(いまだに『ユージュアル・サスペクツ』脚本家という肩書)が

  仕事ぶりを見せてくれるかが半信半疑・・・)

 

原作は、ノルウェーのベストセラー作家ジョー・ネズモによる同名小説。

この原作者、随分とマルチな才能をお持ちのようで、豪快プロフィール

 

エンディングテーマを担当しているのは、

A-haのポール・ワークター=サヴォイと

Oursジミー・ネッコによるユニット、Weathervane。

(今回のコラボや楽曲についてのインタビューはこちら。)

 

と、久々に余計な情報てんこ盛りで本編そっちのけ。

個人的な感想としては、巷の絶賛ぶりに比べれば「そこまでノレなかった」かも。

100分程度を一気に見せる監督の手腕は確かだろうし、役者陣も好い。

ただ、「ハリウッドがリメイクしたくなる」ってところのみが醍醐味っぽくなっていて、

冒頭と最後で語られる主人公のコンプレックス(及びそこから派生する内面的葛藤)が

本編全体にとっては随分と希薄な気がする。

原作は小説で、そちらではおそらく内面的な描写も充実していそうなので、

映画化においてそうした部分は割愛してスピーディな運びを実現したのかな、と推測。

でも、そうなるとやっぱり話の中心はドキドキハラハラな展開重視に偏って、

折角冒頭で「おっ!」と思った奇抜なアプローチが全く活きず。

確かに、敵役の男や妻との「明白な身長差」は、画だけで大いに語ってるとはいえ、

それだけに頼りすぎな気もするし、低身長が判官贔屓の一誘因として処理されてる気も。

ノルウェーのランドスケープが醸し出す空気は十分味わえるし、

言葉より表情や間で魅せようとするのはアンチ・ハリウッドっぽいけど、

やっぱりハリウッド的な勢い偏重型の傾向を感じなくもない。

というか、ヨーロッパ映画でもこの手の作品が(逆輸入的目的もあって?)

量産されてる気がするけれど、楽しければ楽しいほど寂しさもこみ上げる変な気分。

そんな中、来月公開の『スリープレス・ナイト』は真剣にオススメなので

(おそらくブルーレイじゃなく、まともなデジタル上映。フランス映画祭でそうだったから)、

公開が近づいたら感想を記事にしておきたいな。

 

どんな形でも日本に紹介されるのが好ましい、と考えるか

酷い形で日本に紹介されるのは好ましくない、と考えるか

なかなか難しい問題ですね。

TO BE or NOT TO BE... ちょっと(だいぶ?)違うか。

ま、少なくとも、TO BE CONTINUEDだな。