今年のフランス映画祭で初見した傑作。そして現在、恵比寿ガーデンシネマにて公開中。
私もクリスマスシーズンに再見することを心に決め、
もう随分前に輸入DVD(Blu-ray)を購入済だったので、先日改めて鑑賞した。
落ち着きのない円熟、静謐なる絢爛、そんな形容でもしたくなるような見事な傑作。
◆原題
原題は「UN CONTE DE NOEL」(英題はChristmas Tale)。
邦題も語感は悪くはないが、「ストーリー」という語を持ち出す安易な感覚は、
タイトル(言葉)と作品との間にうまれる緊密関係をやや削いでしまう気もする。
英題がなぜ「Story」ではないのか。それは原題が「Histoire」ではないから?
だとしたら、なぜ「Tale」にしたのか。そもそも原題の「Conte」とは?
そんな自問自答してからつけて欲しかった気がしなくもない。
ちなみに、「Noel」とは「誕生」というような意味から生まれた言葉であるらしいが、
そう考えると、これは「大きな誕生のおはなし(クリスマス)」と
「小さな誕生のおはなし(母の再生/家族の再生/それぞれの自己の再生)」
などが見事に重ね合わせられているようにも思えてくる。
だから大きな「Histoire」ではないし、より寓話的な「Tale」を選んでいるのかもしれない。
◆Bigger than Life
パンフに掲載されているマチュー・アマルリックのインタビューのなかで、
彼はこの作品には「bigger than life」という表現がしっくりくると発言。
さすが昨年はカンヌで監督賞まで獲得するに至ったマチュー。
実際が「そのまま」では見世物として面白くはないが、
「大袈裟」では興醒めしてしまう。
魅力に溢れたアクチュアリティーがシネスコいっぱいに展開される
至福の映画体験。それは限りなくファンタジックでもノスタルジックでもある記憶の氾濫。
あらゆる映画的記憶への心優しい反乱。
◆多中心的ですらない
この作品の主人公は誰か?
群像劇における最大の愚問が、見事に機能しない喜びを感じ続ける2時間半。
それが、この映画のマジックのひとつでもあるように思う。
群像劇では中心の移動が心地よく展開され、そうした「トリップ」に酔いしれる。
しかし、本作ではどの場面においても一つの中心に収束するような「意味」はない。
仕掛けずにバラ蒔き、役者ひとりひとりから醸造されたアンサンブルの結果として
観ているものに自由に作用する「トリック」がそこにはあるだけだ。
ひょっとすると、この映画の中心は、「不在」であるところの「ジョゼフ」なのかもしれない。
そして、それは冷笑的な「虚無」から、無限なる「虚空」へと変わろうとしているのである。
キャストが持ち寄ったという幼少期の写真に混じって、「ジョゼフ」の写真も飾られている。
そして、その写真こそアルノー・デプレシャンその人であるところが又、興味深い。
(実際は、幼くして死んでしまうジョゼフの写真に使われるのを皆嫌がったかららしいが)
◆文化的記憶
パンフの川口敦子氏の批評にも指摘されているが、
予想通り(予定通り?)にさまざまな「記憶」が散りばめられている本作。
それでいて
(川口氏曰く)「引用や目配せばかりを云々するカン違いの映画狂的態度とは無縁」な
健全な感慨が立ち込めてくるのは、記憶が「用いる」ものではなく、「在る」ものだからか。
時に顕れてくることもあれば潜んでいるときもある。
そんな記憶が支えている現実を、そのような現実として提示している世界。
そんな繊細さは、自由な豊潤さを作品全体にもたらしている。
◆クリスマスと雪の魔法
デプレシャン曰く「フランス人が絶対住みたくない街であるルーべ」ですらも
雪の魔法は美しい街へと変貌させる。
そして、儀礼といったものも又、人間の宿命や確執を超越する何かを秘めているのかも。
日本でのクリスマスはひたすらキラキラなお祭りかギラギラな商魂で満ち満ちているが、
年末年始には巷に隈なく一種の神聖さが行き渡っているように感じる。
雪がその白ですべてを蔽い、すべてを浄化するかのように。
それは、「どんなに醜いものでも美しく描けてしまう」映画の魔法に似ている気がする。
◆家族と神話と普遍性
こと恋愛ものなどに関しては、文化の違い(?)からか理解しがたいことも少なくないが、
どう考えても「われわれと異なった機微」で動いている家族の構造や展開なのに、
なぜかその普遍性ばかりが抽出されて読み取れてしまう不思議。
そして、登場人物の名前に刻印された「歴史」や「神話」が
人類共通の「経験」として共有される。
◆エリック・ゴーティエ
西のエリック、東のマーク(リー・ピンビン)。
「乗りに乗ってる」ひとはおそろしい。
この二人の画は、その構図や色彩もさることながら、「動き」のもつ躍動感が壮絶。
アラン・レネの『風にそよぐ草』(やっぱり一般公開はないのかなぁ)の超絶破壊力が
われわれに受容され得たのも、エリック・ゴーティエあってのことだったのかもしれない。
◆緻密な即興性
アルノー・デプレシャンの演出に関して、
パンフに掲載されているマチュー及びデプレシャン自身のインタビューから
いろいろと垣間見ることができます。そして、妙に納得したりもします。
デプレシャンは、作品の有機性を信じて、創造にあたっているように思います。
そして、そうした姿勢がよくあらわれているのが、幾通りもある台詞が書かれた台本。
さらに、現場で予期すべからざるアンサンブルの感染力を信じる直向さ。
緻密で周到な準備の先にこそ顕れる「真実」の説得力。
作り込んでいくうちに、出来上がってくる現実。
マチューはデプレシャンの求める演技を「アクロバット」と評していますが、
究極の内面性は身体にこそ宿っていると考えるならば、
それは究極の内面表現でもあるわけで、
そうした演技指導および演技がうみだす「行間」にこそ
「意味」は息づいているのかもしれない。
◆ラストシーンは8ヵ月後
ラストシーン(アンヌ・コンシニがカップを手に外を眺めている)は何と、
ルーベの家での最後の撮影が終ってから8ヵ月後に撮られたという。
おそるべし。それが画面から滲み出ている。
それまでの噺から異様なまでの距離を獲得した先に現われるかのような彼女の姿。
それは「確かに隔たった」末に収められたシーンだったのだ。
人間の「見る」という営みの深遠さを観るものに解させるためには、
それを妥協することなく追究し続ける本物の作家が必要なのだろう。
◆骨髄
駄目になるも骨髄であれば、移植し再生するのも骨髄。
それは「血」をうみだすところであり、「最も重要なところ」でもある。
ジョゼフには適合しないが、符合するジュノンとアンリとポール。
愛憎を超克するかのような血の関係。
そこには古くて新しい、新しくも古い問題が永久に横たわり続けているのかもしれない。