映画祭で上映される『もう一度キスを』は、『最後のキス』(2001年)の続篇ということで、
後者も特別上映作品として(一回のみではあるが)上映された。
同じ映画祭でまとめて観られるなら・・・程度の軽い気持で観賞選択。
そうしたらキャストがかなり豪華だし、続篇のほうは139分もあるし、
登場人物が多いこともあって、とにかくこってりした二作品だった。
ムッチーノ監督は、ウィル・スミス主演の『幸せのちから』『7つの贈り物』の二作を監督。
(ちなみに『もう一度キスを』では、主人公が『アイ・アム・レジェンド』観てるシーンあり)
イタリア映画界においては異色のキャリアを重ねているムッチーノ。
次作はジェラルド・バトラー主演。元サッカー選手が息子のチームのコーチをしてる内に、
そこの母親たちと色恋沙汰に発展するといった内容のよう。
もう一つ余談をはさむと、『最後のキス』は2006年にトニー・ゴールドウィンが監督し、
『The Last Kiss』としてハリウッド・リメイクされているらしい。知らなかった。
ムッチーノも製作に関わったようだが、撮影がイーストウッド組のトム・スターンだったり、
音楽はマイケル・ペン(ジョーン・ペンの兄でエイミー・マンの夫)が担当してたり、興味津々。
そして、脚本がなんとポール・ハギスなんだよ。これも全然ノーチェックだった・・・。
WOWOWやスタチャンの「発掘」系で放映されてもよさそうなもんなのに。
ポール・ハギス新作『The Next Three Days』(これも仏映画『すべて彼女のために』リメイク)
は評判も興行もあまり芳しくなかったようだし、日本公開も未定のままみたいだから、
『The Last Kiss』共々、DVDでも取り寄せて自主観賞しようかな。
(ついでに、ハリウッド版の予告 ↓ )
で、ムッチーノのキス二部作ですが、続篇制作は失敗だったように私は思います。
この手の作品で、上映時間139分(2時間19分だよ)という時点で嫌な予感はしたけれど。
『最後のキス』の方から観賞したこともあり、続きを見守る的アプローチで
多少の興味は持続したけれど、それでも後半は「もうどうでもいいよ」な気分に。
ただ、明らかに王道をやろうとしつつ微妙に道を踏み外したかのような作劇(これを、
「味」わえるか、「無粋」と受け容れられないかで本作の印象は大きく変わりそう)は、
明らかにイタリア映画の精神が受け継がれている証拠な気もして、嫌いにはなりきれず。
最後のキス L'ultimo Bacio (2001年)

なんといっても、ジョヴァンナ・メッゾジョルノとステファニア・サンドレッリの母娘コンビ最高。
ジョヴァンナは『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(傑作!)の公開を控えているし、
ゲストの来日があれば来てたかもなぁなどと勝手に残念がったりして。
そんな新旧名女優の競演も見どころながら、
本作の中心は、三十間近の男たちがロマンティックな青春と訣別できるかどうか。
旧知の5人は、仕事や立場は公私共々異なれど、人生の岐路を迎えつつある。
自分のことだけを考えて生きてきた人生からの卒業が迫られている。
本作の冒頭で結婚するマルコ(ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ)以外は、
程度の差こそあれ、責任や義務に縛られゆく人生に懐疑的に陥ってゆく。
一方で、ステファニア・サンドレッリ演じるジュリア(ジョヴァンナ・メッゾジョルノ)の母は、
自らの老いとマンネリな夫婦生活に対して限界を感じ始め、夫との別居を始める。
キャラクターもエピソードも多種多様につめこまれた印象だが、
私なりにテーマを読み解くならば、「人生において必要な自由とは?」といったところだろうか。
人生の岐路に立ち、そこから家庭に入ったり家業を継いだりすることで失う自由に対して、
あるいは家庭に押し込められてきた事で犠牲にしてきた自由に対して、
不安や懐疑を抱く人間たちの葛藤が中心にあるような気がする。
そして、そうした自由の喪失をムッチーノはどう捉えているかと言えば、
おそらく「保留」もしくは「問題提起」といったかたちのまま終っている印象を受ける。
本作を観終わり、明快なカタルシスやクライマックスが訪れぬように感じたのも、
そのせいかもしれない。しかし、本作の整理しきれぬ回収しきれぬ物語こそが、
各自の都合はいつでも擦れ違い、滅多に一致をみない実情を映し出しているようにも思う。
いや、勿論十分に「巧い」撮り方や編集で観客を魅了してくれはするのだが、
何か一つのテーマに収束するようなハリウッド的展開とは明らかに異なる。
しかし、よくよく考えてみれば、テーマというのはいわば一つの主張でもあるわけだから、
群像劇においてテーマが氾濫したまま終るというのも、一つの「正解」なのかもしれない。
そんななかで私が勝手に主眼として受け取ったメッセージがある。それは、
新婚のマルコ夫妻が、
乳飲み子と妻を残して旅に出ようとするアドリアーノ(ジョルジョ・パゾッティ)に語る言葉だ。
「続けることで唯一無二の関係になれるはずだ」
「平凡にこそ進化があると信じる」
その言葉に私はハッとした。
つまり、同じことが続くこと(マンネリ)は平凡で不自由でつまらないという先入観こそが、
実は壮大なステレオタイプなのではないかという結論。
「結婚」だとか「子育て」だとか「通勤」だとか・・・それを「皆がやっているから」という理由で、
鋳型にはめられるかのような恐怖や嫌悪を抱くというのは、実はただの受動態なのでは?
そうした状況を不自由だとか束縛だとかしか考えられない価値観こそ、
個としての主体的な生を自ら把捉しながら能動的に生きる姿勢の欠如による所産では?
どんなマンネリであろうとも、どんな平凡であろうとも、そこに自己が宿り続ける限り、
それはuniqueであり続けられるのではないだろうか。
根をおろすことが窮屈で退屈だとしか思えぬ根無し草には、
いつまでたっても深みも高みももたらされはしないだろう。当然、花も実も生ることはない。
不可逆な束縛に身を委ねることが、可能性の殲滅に思えたとき、
そうした決断に背を向けることはロマンチックかもしれない。
しかし、そうした不安や懐疑と格闘しながらも、葛藤の日々を生きる誠実さこそ、
本当はロマンチックなのかもしれない。
もう一度キスを Baciami Ancora (2010年)
前述のようなテーマを勝手に読み取ってしまった私の眼にこの続篇は、
前作の縮小再生産のような、前言撤回のような、いまいち捉えどころのない歪な物語として
終始映ってしまった。何しろ、私が最も感銘を受けたメッセンジャー夫妻こそが
最も支離滅裂な破綻を来しているわけだから。
ま、私の解釈が随分独り善がりだった、それだけの話。
なのかもしれないけれど、前作では散々「男はバカ」って教訓をつめこんだから、
今回はちょっとばかし「男も複雑」な面と、「女だってバカ」な部分をスパイスしたのだろうか。
いや、前作でも感じたけど、この独特なドタバタ感は嫌いになりきれないんだけど、
今作では作り手が迷ったまま無理矢理まとめちゃってポイッ!って印象なんだよね。
ラスト間際の悲劇とか、その唐突さはある意味リアリティあるのかもしれないし、
前作からの流れを思い出すと、「確かにそういう帰結こそ真なり」と思えなくもない。
また、そこからあっさり立ち直っていく、あっさり新しい生活に飛びついていける人々も、
「それでも人生は続く」って感じで逞しいっちゃぁ逞しいけど、、、
続篇ということで、役名もキャストも前作を踏襲しているものの、
ジュリア役の女優は交代し、親の世代のエピソードはなくなっており、
上映時間は30分近くも長くなっているのに、物語が矮小化した印象を受けてしまう。
親の世代がドラマの外に押し出されたかわりに、子供がドラマに絡んでくるが、
展開のための道具として使われてるに過ぎない表面的な描き方。
おまけに、「彼」のあの決断をラストカットに持ってくるということは、
ムッチーノの理想は、「それでも続く人生」からの脱却なのか!?
自分の読解能力のなさ故か、観賞後の疲れ(虚脱感)はかなりのものだった。
それにしても、新ジュリア役のヴィットリア・プッチーニは確かに魅力的だが、
前作でのジョヴァンナ・メッゾジョルノの存在はやはり大きく、
彼女との掛け合いからこそ生まれたステファノ・アッコルシのキレは結局見られず、
キャスト交代の違和感も手伝って、どことなく「残念」がつきまとい続けてしまった気がする。
ただ、興味深いのは、
本国の映画賞でもあまり評価されなかったにもかかわらず
(ナストロ・ダルジェント賞:5部門ノミニーで無冠、
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞:3部門ノミネートで歌曲賞のみ受賞)
なぜか上海国際映画祭では、作品賞・女優賞・脚本賞という三冠を果たしているという事実。
おまけに同コンペには、ナストロ・ダルジェント賞を受賞した『はじめての大切なもの』も
出品されていたというから、興味深い。
審査員は、ジョン・ウー、アモス・ギタイ、ビル・グッテンバーグ、レオス・カラックス、
滝田洋二郎、ワン・シャオシュアイ、ヴィッキー・チャオ。
この面子によるこの判断、わかるような、わからないような。
まぁ、何だかんだ言っても、
文芸色の強いアート系ばかりが並んでいても映画祭は面白くないし、
今回のキス二部作もこういう機会がないとスクリーンで観られることはなかっただろうし、
そういった意味では、イタリア映画祭の有意義な一翼(二翼?)を担っていたように思います。