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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

初任地にて Il primo incarico (2010/ジョルジャ・チェチェレ)

2011-05-07 23:47:52 | 2011 イタリア映画祭(有楽町)

 

今回の映画祭でのダークホース的存在。

何となく選んで観た(スケジュール的に都合が好かったのが最大の原因だろうが)作品。

当日、(初回の上映だったこともあり)「ゆっくり寝てたいから行くのやめよっかなぁ」などと

怠惰な気持にも何とか打克ち、、、観に行って好かったっ!

 

ジョルジャ・チェチェレ監督(女性)は、1966年生まれ。本作が初長篇。

エルマンノ・オルミが設立したワークショップ型の映画学校で中篇は撮ったことがあったとか。

『家の鍵』で助監やったり、『血の記憶』で原案・脚本担当したりしてたと聞くと、

満を持しての長篇監督デビュー作なんだろうから、それなりに期待は高まる。

 

作品の舞台は1953年の南イタリア。

ファーストカットから魅せられた。

小学校教師として故郷を離れる主人公ネーナが、妹の写真を撮る場面。

妹が、「きれいな色のお花の傍で撮って欲しい」と懇願するも、

「色は映らないのよ」と言うネーナ。

観客には見える花の色。しかし、そのカメラで撮られた写真には映らぬ色。モノクロの世界。

記録される世界がモノクロだった時代。記憶のなかの世界には色はついていたのだろうか。

鮮明な彩りでもって世界を記録できる現在は、記憶に刻まれる世界に色はついているのか。

 

ネーナが赴任した村は、非常に質素で昔ながらの生活を営んでいる場所。

そこにある色も極めてシンプルで、しかし、その自然な色には奥行がある。

そこには自然の鉛筆が描き出す微細な陰影があり、時に刻まれた老朽も浮き彫りにする。

陰影はより陽光の存在を際立たせ、老朽との対峙が再生への活力を産み落とす。

それは極めて単調で平板な生活の積み重ねであり、

格式ある調度に囲まれた生活を送る裕福な家庭の恋人とは

全く異なる世界に埋没していく日々である。それが耐えられないネーナ。

しかし、彼女は徐々に、そうした質素な生活の中に宿る逞しき生命力を感じ始める。

 

それは、例えば生徒の眼差しや取り組みであり、生徒の正直な発言である。

「好きなものは?」とネーナが尋ねると、「(女性の)胸!」と答える男子。

脚が美しかったからとジプシーの空中ブランコの娘に手を出してしまった男。

そして、彼はネーナの脚にも欲情を隠し切れない。

洗練の教育を主意に考えてきたネーナは、

そんな生活における人間の「自然」にどこか、

今まで覚えたことのない「確かさ」を感じ始めたのではないだろうか。

その村にあるのはあくまで「必然」なことであり、それを営むことこそが「自然」なのだ。

壊れたら直す。美しいものをみれば手にしたくなる。身体が結ばれれば、生活も結ばれる。

それは、身体への強い信頼の為業でもあるのだろう。

だから、机上で、暗唱で、知識を頭に注入しようとするネーナの教授法に、

ベテラン教師は最初「こんなの授業じゃない」と言い放つ。

しかし、町から来た役人は、そうして得た頭の知識に対し、

「すばらしい教育の成果だ」との評をあたえる。

一方で、ネーナ自身も自らの思いを言葉のみならず、

身体への刺激で伝えようとし始めもする。

算数のできぬ児童の掌を打つ。

 

恋人への想いと、

やがては僻地の生活から脱出することを渇望する気持でいっぱいだったネーナには次第に、

思惟的生活を漂う恋人の気まぐれや覚束なさへの懐疑が芽生え、

自分にとって「確かなもの」が何なのかを見つめ直す。

 

相手が必要なのかどうなのかを思考する関係から、

ただ求める、ただ必要とする相手との「必然」で「自然」な関係にこそ、

自らの選択の必然性を見出し、彼女は再び村での日々を送り始めるのである。

 

 


最後のキス/もう一度キスを(2001/2010 ガブリエーレ・ムッチーノ)

2011-05-05 21:39:09 | 2011 イタリア映画祭(有楽町)

 

映画祭で上映される『もう一度キスを』は、『最後のキス』(2001年)の続篇ということで、

後者も特別上映作品として(一回のみではあるが)上映された。

同じ映画祭でまとめて観られるなら・・・程度の軽い気持で観賞選択。

そうしたらキャストがかなり豪華だし、続篇のほうは139分もあるし、

登場人物が多いこともあって、とにかくこってりした二作品だった。

 

ムッチーノ監督は、ウィル・スミス主演の『幸せのちから』『7つの贈り物』の二作を監督。

(ちなみに『もう一度キスを』では、主人公が『アイ・アム・レジェンド』観てるシーンあり)

イタリア映画界においては異色のキャリアを重ねているムッチーノ。

次作はジェラルド・バトラー主演。元サッカー選手が息子のチームのコーチをしてる内に、

そこの母親たちと色恋沙汰に発展するといった内容のよう。

 

もう一つ余談をはさむと、『最後のキス』は2006年にトニー・ゴールドウィンが監督し、

『The Last Kiss』としてハリウッド・リメイクされているらしい。知らなかった。

ムッチーノも製作に関わったようだが、撮影がイーストウッド組のトム・スターンだったり、

音楽はマイケル・ペン(ジョーン・ペンの兄でエイミー・マンの夫)が担当してたり、興味津々。

そして、脚本がなんとポール・ハギスなんだよ。これも全然ノーチェックだった・・・。

WOWOWやスタチャンの「発掘」系で放映されてもよさそうなもんなのに。

ポール・ハギス新作『The Next Three Days』(これも仏映画『すべて彼女のために』リメイク)

は評判も興行もあまり芳しくなかったようだし、日本公開も未定のままみたいだから、

『The Last Kiss』共々、DVDでも取り寄せて自主観賞しようかな。

(ついでに、ハリウッド版の予告 ↓ )

 

 

で、ムッチーノのキス二部作ですが、続篇制作は失敗だったように私は思います。

この手の作品で、上映時間139分(2時間19分だよ)という時点で嫌な予感はしたけれど。

『最後のキス』の方から観賞したこともあり、続きを見守る的アプローチで

多少の興味は持続したけれど、それでも後半は「もうどうでもいいよ」な気分に。

ただ、明らかに王道をやろうとしつつ微妙に道を踏み外したかのような作劇(これを、

「味」わえるか、「無粋」と受け容れられないかで本作の印象は大きく変わりそう)は、

明らかにイタリア映画の精神が受け継がれている証拠な気もして、嫌いにはなりきれず。

 

最後のキス L'ultimo Bacio (2001年)

画像

なんといっても、ジョヴァンナ・メッゾジョルノとステファニア・サンドレッリの母娘コンビ最高。

ジョヴァンナは『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(傑作!)の公開を控えているし、

ゲストの来日があれば来てたかもなぁなどと勝手に残念がったりして。

 

そんな新旧名女優の競演も見どころながら、

本作の中心は、三十間近の男たちがロマンティックな青春と訣別できるかどうか。

旧知の5人は、仕事や立場は公私共々異なれど、人生の岐路を迎えつつある。

自分のことだけを考えて生きてきた人生からの卒業が迫られている。

本作の冒頭で結婚するマルコ(ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ)以外は、

程度の差こそあれ、責任や義務に縛られゆく人生に懐疑的に陥ってゆく。

一方で、ステファニア・サンドレッリ演じるジュリア(ジョヴァンナ・メッゾジョルノ)の母は、

自らの老いとマンネリな夫婦生活に対して限界を感じ始め、夫との別居を始める。

 

キャラクターもエピソードも多種多様につめこまれた印象だが、

私なりにテーマを読み解くならば、「人生において必要な自由とは?」といったところだろうか。

人生の岐路に立ち、そこから家庭に入ったり家業を継いだりすることで失う自由に対して、

あるいは家庭に押し込められてきた事で犠牲にしてきた自由に対して、

不安や懐疑を抱く人間たちの葛藤が中心にあるような気がする。

そして、そうした自由の喪失をムッチーノはどう捉えているかと言えば、

おそらく「保留」もしくは「問題提起」といったかたちのまま終っている印象を受ける。

本作を観終わり、明快なカタルシスやクライマックスが訪れぬように感じたのも、

そのせいかもしれない。しかし、本作の整理しきれぬ回収しきれぬ物語こそが、

各自の都合はいつでも擦れ違い、滅多に一致をみない実情を映し出しているようにも思う。

いや、勿論十分に「巧い」撮り方や編集で観客を魅了してくれはするのだが、

何か一つのテーマに収束するようなハリウッド的展開とは明らかに異なる。

しかし、よくよく考えてみれば、テーマというのはいわば一つの主張でもあるわけだから、

群像劇においてテーマが氾濫したまま終るというのも、一つの「正解」なのかもしれない。

 

そんななかで私が勝手に主眼として受け取ったメッセージがある。それは、

新婚のマルコ夫妻が、

乳飲み子と妻を残して旅に出ようとするアドリアーノ(ジョルジョ・パゾッティ)に語る言葉だ。

「続けることで唯一無二の関係になれるはずだ」

「平凡にこそ進化があると信じる」

その言葉に私はハッとした。

つまり、同じことが続くこと(マンネリ)は平凡で不自由でつまらないという先入観こそが、

実は壮大なステレオタイプなのではないかという結論。

「結婚」だとか「子育て」だとか「通勤」だとか・・・それを「皆がやっているから」という理由で、

鋳型にはめられるかのような恐怖や嫌悪を抱くというのは、実はただの受動態なのでは?

そうした状況を不自由だとか束縛だとかしか考えられない価値観こそ、

個としての主体的な生を自ら把捉しながら能動的に生きる姿勢の欠如による所産では?

どんなマンネリであろうとも、どんな平凡であろうとも、そこに自己が宿り続ける限り、

それはuniqueであり続けられるのではないだろうか。

根をおろすことが窮屈で退屈だとしか思えぬ根無し草には、

いつまでたっても深みも高みももたらされはしないだろう。当然、花も実も生ることはない。

 

不可逆な束縛に身を委ねることが、可能性の殲滅に思えたとき、

そうした決断に背を向けることはロマンチックかもしれない。

しかし、そうした不安や懐疑と格闘しながらも、葛藤の日々を生きる誠実さこそ、

本当はロマンチックなのかもしれない。

 

 

もう一度キスを Baciami Ancora (2010年)

前述のようなテーマを勝手に読み取ってしまった私の眼にこの続篇は、

前作の縮小再生産のような、前言撤回のような、いまいち捉えどころのない歪な物語として

終始映ってしまった。何しろ、私が最も感銘を受けたメッセンジャー夫妻こそが

最も支離滅裂な破綻を来しているわけだから。

ま、私の解釈が随分独り善がりだった、それだけの話。

なのかもしれないけれど、前作では散々「男はバカ」って教訓をつめこんだから、

今回はちょっとばかし「男も複雑」な面と、「女だってバカ」な部分をスパイスしたのだろうか。

いや、前作でも感じたけど、この独特なドタバタ感は嫌いになりきれないんだけど、

今作では作り手が迷ったまま無理矢理まとめちゃってポイッ!って印象なんだよね。

ラスト間際の悲劇とか、その唐突さはある意味リアリティあるのかもしれないし、

前作からの流れを思い出すと、「確かにそういう帰結こそ真なり」と思えなくもない。

また、そこからあっさり立ち直っていく、あっさり新しい生活に飛びついていける人々も、

「それでも人生は続く」って感じで逞しいっちゃぁ逞しいけど、、、

 

続篇ということで、役名もキャストも前作を踏襲しているものの、

ジュリア役の女優は交代し、親の世代のエピソードはなくなっており、

上映時間は30分近くも長くなっているのに、物語が矮小化した印象を受けてしまう。

親の世代がドラマの外に押し出されたかわりに、子供がドラマに絡んでくるが、

展開のための道具として使われてるに過ぎない表面的な描き方。

おまけに、「彼」のあの決断をラストカットに持ってくるということは、

ムッチーノの理想は、「それでも続く人生」からの脱却なのか!?

自分の読解能力のなさ故か、観賞後の疲れ(虚脱感)はかなりのものだった。

 

それにしても、新ジュリア役のヴィットリア・プッチーニは確かに魅力的だが、

前作でのジョヴァンナ・メッゾジョルノの存在はやはり大きく、

彼女との掛け合いからこそ生まれたステファノ・アッコルシのキレは結局見られず、

キャスト交代の違和感も手伝って、どことなく「残念」がつきまとい続けてしまった気がする。

 

ただ、興味深いのは、

本国の映画賞でもあまり評価されなかったにもかかわらず

(ナストロ・ダルジェント賞:5部門ノミニーで無冠、

ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞:3部門ノミネートで歌曲賞のみ受賞)

なぜか上海国際映画祭では、作品賞・女優賞・脚本賞という三冠を果たしているという事実。

おまけに同コンペには、ナストロ・ダルジェント賞を受賞した『はじめての大切なもの』も

出品されていたというから、興味深い。

審査員は、ジョン・ウー、アモス・ギタイ、ビル・グッテンバーグ、レオス・カラックス、

滝田洋二郎、ワン・シャオシュアイ、ヴィッキー・チャオ。

この面子によるこの判断、わかるような、わからないような。

 

まぁ、何だかんだ言っても、

文芸色の強いアート系ばかりが並んでいても映画祭は面白くないし、

今回のキス二部作もこういう機会がないとスクリーンで観られることはなかっただろうし、

そういった意味では、イタリア映画祭の有意義な一翼(二翼?)を担っていたように思います。

 

 

 


ぼくたちの生活 LA COSTRA VITA (2010/ダニエーレ・ルケッティ)

2011-05-01 22:51:41 | 2011 イタリア映画祭(有楽町)

 

ルケッティ監督の前作『マイ・ブラザー』は、

なぜか東京国際映画祭で2007年に観ていたりする。

監督のQ&Aが上映後にあったのだが、作品内容同様あまり憶えていない・・・。

その頃は、映画観賞のペースも落ちたまま、映画祭からは当然遠ざかっていたような時期。

しかし、それがなぜわざわざ六本木まで観に行ったかと記憶の糸を手繰ってみると

(正確にはマイ脳というより電脳による検索結果なのですが)

エドワード・ヤンの追悼上映に通っていたことが判明。

そうだ。『恐怖分子』を観る前に、「せっかく六本木まで行くんだから」と思って

ついでに前売買っておいたのが『マイ・ブラザー』だったんだ、きっと。

仕事終ってかけつけたもんだから、『恐怖分子』に備えてレスト&ウォームアップ的に

プレ観賞モードで流し観しちゃったんだな、おそらく。

確かに、初めてフィルムで観る『恐怖分子』はやっぱり凄まじかったし、

そのまえに観た(当時は誰ひとり知ってる役者も出てなかった)本作では、

観た事実を憶えているだけラッキーな気さえしてくる。

 

そんな背景があるものだから、本作の観賞も「カンヌ・コンペ出品」というお墨付き

(まぁ、それをそうとらえる俺も随分ミーハーなんだろうけど・・・

ただ、カンヌのコンペはやっぱり他の三大映画祭と比べても断トツにクオリティ高い気がする)

がなければ、見逃してたかもしれない。

イタリア映画祭2011チラシにもつかわれているキーヴィジュアルを見ると、

ハートウォーミングなファミリードラマのようなので余り食指動かずも、

そこで更にカンヌ男優賞を獲っているという事実が、権威に弱いこの体質には堪えてしまい、

おまけに(予定されていた)座談会(結局、映画祭自体Noゲスト故に中止)の直前に

上映があることもあり、そんな諸々の条件が見事に重なり、無事観賞。

そして、これが意外や意外、随分と良作だった。

 

日本映画に限らず、洋画ですら、その予告篇は勿論、邦題からチラシ・パンフの装丁まで、

デザイン性や作品の内容など度外視で、「売れる」ことを意識して制作されるものたち。

それが奏功する場合も稀にあるものの、やっぱり邦題のみが唯一の欠点・・・

と思える作品の多さを考えれば、作品が「適材適所」に在ることを阻害してしまう慣習は、

芸術としての映画が先細り、娯楽としての一過性に賭けるだけの現状を形成してきた。

それは、どうやらイタリアも同様らしい。

確かに、ポスターから「作品の精神」が沸き立つものは、ロビーに並んだものを眺めても、

随分と少ない気がする。

映画祭パンフで岡本太郎氏の厚く熱い批判に垣間見られるイタリアと日本の

(負の)共通点は、大状況からうまれでた文化の窮状にも共通しているのかもしれない。

しかし、昨年のカンヌでそんなイタリア映画界に舞い込んだ明るいニュースが、

マストロヤンニ以来、実に23年ぶりにエリオ・ジェルマーノの男優賞受賞。

コンペ星取表なんか見ると、3点満点で平均1点強というかなりの低評価だった本作。

にもかかわらず、わざわざハビエル・バルデムと共に男優賞を与えた昨年のカンヌ。

どっちが男優賞の本命だったのか?なんて邪推(当然、未見段階ではハビエル本命と推測)

をこの眼で確かめる第一章。(第二章は『BIUTIFUL』観賞にて)

 

私的結論としては、こういう作品のこういう演技に

男優賞を与えるカンヌ(というか昨年の審査員たち)って、いいなぁ。

審査員のなかにはイタリア人が二人入っていて、うち一人は役者だし

(そう!『勝利を』主演女優ジョヴァンナ・メッツォジョルノ!!)

そういった後押しもあった気がしないでもないものの、

「自然体」を演出するクレバーな演技のエリオが

今後のイタリア映画界を面白くするのは確実。

 

「端麗」だとか「貫禄」だとかの強烈なオーラをもったイタリアの役者の迫力とは全く異なった、

小市民的でありつつも内なる生命力で訴求する長熟タイプの華の持ち主、

エリオ・ジェルマーノ。

そんな彼の魅力が、従来のイタリア映画がもつオイリーなこってり感を抜き、

手持ちカメラによるダルデンヌタッチも相まって、個にもとづいた普遍的な人間模様を展開。

人物の関係性や、社会というコンテクストから個を浮かび上がらせることを得意としてきた

(ように思われる)イタリア映画とは少し違った、個人によりそいながら社会を映し出す作劇。

ルケッティ監督とも縁の深いナンニ・モレッティにも通ずるテイストを感じる。

 

映画の冒頭では、これでもかというくらい仲睦まじい若夫婦が微笑ましく映し出される。

仕事の安定も手応えもたいしてなかろうが、愛する妻と子供たちに囲まれた幸せは、

経済的(収入)にも政治的(社会的地位)にも不安や不満にまみれていようが、

そうした不安定な地盤に立脚していることをも忘れさせてくれる。

それはそれで人間の「愛」や「幸福」という想像力の勝利でもあるのだが、

中心たるピースのミッシングが一気に崩壊を招くほど脆くもある実像が浮かび上がってくる。

しかし、貧乏暇なし。生活するには、いつまでも悲しみと戯れていくわけにもいかない。

家庭では父親として、建設現場では監督者として、「指導」すべき立場にありながら、

手を引っ張ってくれる存在を失ったクラウディオ(エリオ・ジェルマーノ)の意識からは

「幸福」を維持するために守ってきた大義は姿を消し始め、生活のための実利優先

つまり目的による手段の正当化が止め処なく推し進められていってしまう。

 

そうした男の姿を、エリオは観客の共感を見事に誘う「健気さ」で演じきっているのだが、

ルケッティ監督のインタビューを読むと、その皮肉とリアリティに改めて感銘を受ける。

つまり、主人公クラウディオが選択するあらゆる非合法な手段は全て悪なるものなのに、

その目的(つまり、生きるため)の不可避な賛美ゆえ、又その「純粋」な欲望のかたちゆえ、

そこに人間の「あるべき姿」のみを見出して終ってしまう我々の眼差しが浮かび上がるのだ。

そして、そうした直向に生きる人間の情熱も、その姿に生命力の根源を見出す「健全さ」も、

理不尽で傲慢さに満ちたコンテクストの硬直化を推し進めてしまうパラドキシカルな宿命。

 

そうした社会を変える力はどこにも生まれ得ないのだろうか。

確かに、生きるためには生活が必要だが、

生命が生活(vita/Life)だという感覚が固着するまえの子供たちこそ、

目の前の現実に支配されない、もう一つの現実を内なる世界に秘めているのかもしれない。

妻の死後、Wiiを物欲しげに眺める子供たちに「パパが買ってやる!」という父親にたいし、

「甘やかしちゃダメだってママが言ってたじゃん」と直観的に言い放てる子供たちの超現実。

手を握り合って強く思えば、いなくなった人が戻ってくると信じて(?)念じる精神信奉。

かと思えば、妻の死後父が聖域視していたダブルベッドへの誘いに気を遣う思慮深さ。

そして、どんなに存在を蔑ろにされても平気で息をする、末っ子の赤ん坊。

「自分のせいで母親は死んでしまった」という十字架を、やがて大人が与えることも知らずに。

しかし、寿命は人智が働きかけることのできる領域になく、受容こそが稀少な解決だが、

社会の構造もそれらと同視し、受容にまわって好いのだろうか。

たとえそれでも逞しく生きれば、そこに人間の美しさは立ち上り、

そこには確かな尊厳が宿る。などと考えてよいのだろうか。

 

監督のインタビューを読むまで、私も人間の美しき生命力の表出としてしか抽象できず、

無責任で自己中心的な現実主義的側面を無意識に捨象し続けて観てしまっていた。

監督曰く「ベルルスコーニに投票する人間」として、

「普通」に世界を解釈する人間に為り得るのだ。

 

そんな監督の言葉からは、

本作を喜怒哀楽の道具としてのドラマに観て欲しくない意気込みが伝わるが、

「人間ドラマ」としての機能を随所に確かに備え、

「大きな」ふるまいにこそ閉塞的な現実はこびりついているが、

「小さな」さけびにはしっかりと、ロマンチシズムが流れている。

妻の葬儀で、想い出の曲を熱唱(絶叫?)する夫の声と、それに負けじと歌う子供たち。

最も甘美な想い出が、最も残酷な現実を際立てようとも、最も逞しい糧にする記憶のちから。

受容が必ずしも隷属や反復だけを意味せずに、再生や蘇生にとどまらぬ新しいかたちを

模索するための原動力になることに、監督は希望を失いたくないのだと確信するラスト。

Our Life を死守するだけの日々から、Our Own Life を取り戻す闘いへ。

Sweetheart なき現実のなかで、どうやって生き、活きるべきか。

サルデーニャ行きのチケットを手にしたクラウディオ。

現実と離れて見てみよ、と妻の最後のアドバイス。

 

 


はじめての大切なもの La Prima Cosa Bella (2010/パオロ・ヴィルズィ)

2011-04-29 23:57:07 | 2011 イタリア映画祭(有楽町)

 

今年も無事開催のイタリア映画祭。

2001年に始まったので今年で11回目。

会場は本来「映画館」ではないので、多少難はあるものの、

やはりきちんとフィルムで映画を観せてくれる誠実な映画祭には通い続けたい。

 

今年の前売券発売日は3月19日の土曜日だった。

そう、あの地震から一週間が経った後の週末だった。

チケット情報も震災後に一旦サイトから消されており、

開催が一時は危ぶまれたのだろう。しかし、発売前日(or その少し前?)に情報復活。

まだ「すこし先」のことなど考える余裕もなければ、

そもそも「ゴールデンウィーク」なんてものも残り続けるのか不安な時期に、

あえて「すこし先」に「不要不急」な予定を入れるささやかな抵抗(?)。

チケットを買った後に、何となく日常が還ってきてくれるような、

いや日常に還っていかなきゃな、って気持が僅かに芽生えた。

震災後、はじめて入れたビューティフルな予定。

そんな今年のイタリア映画祭1本目は(本当は2本目・・・)

The First Beautiful Thing 。

 

監督のパオロ・ヴィルズィは、イタリア映画祭では常連のようだが、

日本での劇場公開作はないようだ。なるほど、確かに「イタリア的」な映画をつくっている。

イタリア人でもない俺が、一回くらいイタリアに行ったくらいで、イタリアの空気を知ったように、

「イタリア的」なんて言い放つのも不遜なものだが、そんな俺ですら「なんとなくイタリア」って

気分が味わえちゃうんだから「イタリア的」だろうって乱暴な結論もありにしてください。

 

そんな印象は観る前からもっていた。

だからこそ、そうした先入観が余計そうした結論を後押ししたかもしれない。

なぜ、そんな印象というか予測があったかというと、

本作は本国の映画賞では色々と受賞している。

ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞では主演男優・主演女優・脚本(ちなみにノミネート数最多)、

ナストロ・ダルジェント賞では主演女優・脚本・衣装(こちらも最多タイのノミネート数)が受賞。

前者がイタリアのアカデミー賞といわれるもので、後者は映画批評家による賞。

そして、いずれも脚本賞を受賞していることからも、

この映画における「物語」がイタリア人に支持されていることがわかる。

ついでにIMDbを覗いてみると(7.5点のハイスコアだ・・・)、

サレルノ国際映画祭やモンペリエ地中海映画祭なんかでも受賞している。

とはいえ、いずれもやはり御当地色豊かなフェスティバルゆえ、やっぱりイタリア的に思える。

って、随分しつこい所以は、「だからこの作品には普遍的な好さがない」ってことじゃなく、

こういう映画を観られるのも国別・地域別の特集上映である映画祭の醍醐味だなって事と、

こういう映画を観たときにこそ文化の多様性だとか(それを通しての)自国文化への省察が

何となく浮かび上がってくるんだよなぁ、って感想。

 

フランス映画なんか観ていると、たまに(家族ものなのに)あまりに自己実現優先メンタルな

親が登場したりして、やや過剰な子供中心主義(=自己犠牲厭わぬ親)な日本の家庭に

無意識に馴染んでしまったメンタルでは、入り口から違和感を激しく覚えてしまうのだが、

イタリア映画の場合は、自己実現的暴走を繰り返しながらも、どこかで子供に戻って来て、

やっぱりファミリー的関係に最上の絆を見出そうと努める姿勢が根底にある気がし、

そうしたところには親近感が芽生えるし、そうしたところがあるからこそ、多少の奔放さも

可愛くみえたり、時にはやや羨望入ったりしながら見守ることができるというもの。

 

以前から何度か目にしていたポスター(?)のヴィジュアルからは、

若くて美しいママが、女手一つで子供二人を育てる奮闘記を陽気な人間讃歌として描く、

みたいな内容を勝手に予想していた。

1971年の夏から映画が始まり、そのまま時が流れるのかと思いきや、

次の場面では現在にとび、公園で無気力に寝転がる中年男にサッカーボールが当たる。

冒頭の若ママ美人コンテストを複雑な表情で見守る少年が、その中年男なのだが・・・

自分の母親が、その美しさと向こう見ずな性格ゆえに、

約束された未来が来ないことを既に知っているかのような少年の表情は、

その繊細さが才能や職能にさほど結びつくことなく、複雑さだけを抱えて成長してしまった。

そして、常にぽっかりと胸に空いた空洞を埋めるため、ドラッグ調達に公園へ。

しかし、そんな彼をまるごと理解し受けとめようとする頼もしい恋人。

彼は、妹がその彼女を「婚約者」と呼ぶと、「同居人」だと訂正。

女性不信かもしれないが、むしろ自己不信のスパイラル。

ただ、この屈折具合が「絶妙」と言えば言えるのだけれど、

正直ちょっとつかみづらい気もした。ただ、そこが好い気もする(どっちなんだよ)。

彼は高校生のとき、「逆子」という自作のポエトリー・リーディングを(何かのイベントで)未遂。

その詩を見つけた甥から、「バンドで伯父さんの詩に曲つけて演奏したいんだけど・・・」

なんて言われる一幕も。

「バンド仲間はドラッグとかやったりしてんのか?」と期待を胸に尋ねるも、

「そんなことするわけないじゃん」と甥にあっさりかわされ、ションボリ。

本作では何度も、

このブルーノが「精神安定」のためのドラッグ入手を試みては失敗する場面が登場し、

その中毒未満ながらも何ともしがたい虚脱感に見舞われた失意の男に、

観客はいつしか、希望の出口が待っていることを望み始める。

少年時代、幸福は手に入ったかと思っては失われゆくものだった。

そうした過去がいつしか、幸福を手にすることすら臆病にさせていた。

しかし、母はいつでも幸福を求め、そうした姿勢は死に際までも変わらなかった。

妹のヴァレリアも、窓越しの会話で一瞬にして恋に落ちた相手と二人の息子を育て上げ、

更なる新たな幸福を求めようかというシュールなまっすぐさ。何かを失うことは必須だし、

手にしたものだっていつまであるかわからない。それでも、求めずには得られない。

いろいろ試しても「やっぱりあなた達のお父さんが一番だった」と語った母は、

さんざんあちこち求め歩いたからこそ、最高の幸せの在り処を知れた。

そして、そんな「一番」の隣に眠った母を見送り、

ブルーノは恋人と海へゆく。

 

イタリア語で海(イル・マーレ)は、男性名詞らしい。

フランス語では女性名詞なのに。(おまけに、そのなかに母[mere]が入ってる)。

しかし、海辺をあらわすマリーナは女性名詞らしい。

ラストシーンで、海辺に佇み、ゆっくりと海へ入っていくブルーノは、

母との過去に縛られ続けた自分から、大人の男へと自立しようとしているのだろう。