三菱一号館美術館で開催中(8月19日迄)の
「バーン=ジョーンズ展-装飾と象徴」をみてきた。
美術展は好きでちょくちょく足を運びながらも、
なかなか記事にはしていなかったけれど、
このブログもそろそろ2周年(実質は1年半ちょっとだけどね)だし、
少し幅広げてみようかと。
ただ、美術に関しては当然浅薄ながらの知識すら持ちあわせておらず、
徹頭徹尾、直感や主観にみちびかれた感情的感想に終始すると思いますが。
絵とは、私の考えでは、
かつて存在したことがなく、この先も存在することもないであろう何物かについての
美しいロマンティックな夢のことです。
I mean by a picture
a beautiful, romantic dream of something that never was, never will be.
これはエドワード・バーン=ジョーンズの言葉。
その表現からだけ想像すると、ダリのようなシュールレアリスム的世界が展開されそうだが、
実際に彼が好んで描いた絵画の世界は、聖書・神話・物語などをモチーフに展開している。
1833年に生まれ、20世紀を迎える直前(1898年)に没したバーン=ジョーンズの作風は、
一貫性を帯びているようでいて、その実なんとも取つき端のない奔放さも内包してる。
そこには一人の画家の創作における変遷のみならず、
その時代のもつ強力なコンテクストを感じてしまう。
聖書や神話をモチーフに描いた絵画にも関わらず、
そこには通常なら漂うべき達観が一切無く、当時の社会不安を吸い込んでいるかのよう。
例えば、「運命の車輪」という油彩画(バーン=ジョーンズ自身が最も好んだらしい)は、
運命の女神が回す車輪の上に、三人の人間が無力に身を預けている。
その三人とは、奴隷、王、そして詩人。
封建的主従関係はおろか、芸術までもが車輪に運命を預けている。
縦長のキャンバスを埋め尽くす巨大な車輪。
『モダンタイムス』でチャップリンを巻き込んだ歯車を想起させる。
19世紀末。機械文明の黎明。疎外されゆく人間。
カール・マルクス(1818-1883)なんかとも同時代。
世界は縦にも横にもつながっている。
彼の作品全体を見て歩き、私なりに注目せざるを得なかったことが2つある。
一つ目は、その唯物性というか、いやむしろ有機と無機のボーダーレス化と言うべきか。
まず非常に興味深い一枚を展示の序盤に見つける。
それは、「慈悲深き騎士」と名付けられた画。
道端の聖堂でひざまずく騎士の肩を木彫の聖像(キリスト)が抱きしめる(!)のだ。
鎧を身にまとって自らの罪に許しを請う騎士の穏やかな悲嘆の表情も新鮮だが、
木像が動き出して人間を抱きしめるという超自然的ストーリーテリングの奇妙な魅力。
これまで見てきた聖像絡みの画では味わったことのない不思議な感覚が支配する。
その後、バーン=ジョーンズは>「ピグマリオンと像」の物語に着想を得た連作を発表。
生身の女性を避けて生きてきた彫刻家ピグマリオンは、
自身が産み出した彫像の女性に恋をする。
女神ウェヌスへの祈りが叶って彫像には命が吹き込まれ、
ピグマリオンの妻となる。
そうした物語の主要な4つの場面を抽出した連作の油彩画を2組(1870・78年)も描いた。
ここにも無機から有機へ、唯物と唯心のボーダーレス化がみてとれる。
何とも不思議で興味深いテーマではないだろうか。
私の関心事二つ目も一つ目と関連するのだが、それは彼が描く人物の表情だ。
感情を湛えた表情をみせる人物が描かれることもあるが、
多くは無表情をしている。
しかも、それは「真顔」だとか「素顔」だとかいうニュアンスとは異なり、
明らかに表情の〈無〉として存在している顔なのだ。
つまり、物体としての「顔」がそこに在るだけ。
そこで、前日に塩田明彦氏のアテネフランセで行われた講義と結びつく。
彼は成瀬巳喜男の『乱れる』のラスト(高峰秀子の「何とも言えない」表情)から始め、
自作の『月光の囁き』終盤のつぐみの表情にまで話を進め、
「表情を失った顔こそがあらゆる感情を内包し喚起する」(私解釈)とまとめた。
(詳細に関しては次回の講義で掘り下げられるとのことだが・・・)
その講義での中心的な話題は、映画における「動線」の構築および意義だった。
要は即物的な表現である映画における、「語り」の機能と作用についての解説だ。
そうした発想が脳内で反芻されているなかで鑑賞したバーン=ジョーンズの絵画たち。
そこに紛れもなくある物質的な顔の数々。その顔たちが喚起する底知れぬ感情の深奥。
表情に宿された〈無〉は、一切の示唆を拒むが故に、計り知れない豊かさで迫ってくる。
近代の到来により、見る側の者たちが共有できる信念や思想は多様化を余儀なくされ、
そうした人間たちが「見ているもの」は、もはやその絵画の中にあるのではなく、
個人個人の脳で心で構築される《(想)像》なのだろう。
まさに、「かつて存在したことがなく、この先存在することもないであろう何物か」。
バーン=ジョーンズを友人の画家は次のように称したそうだ。
「ジョーンズという青年がいて・・・『夢の国』に住む一番素敵な若者の一人だ」と。
◇今回の展示では、「いばら姫(眠れる森の美女)」を描いた油彩画もある。
そして、その画の間の一つ手前には、眠れる女性たちの画が四方に飾られた間。
覚めている無表情から、眠りによる無表情へ。
その背後には更に解放的な夢の世界が広がっているのだろう。
◇チケットの裏面にも記載がある通り、
この美術館のフローリングは極めて靴音が響きやすい材質。
なるべく配慮ある靴の選択が賢明かと。(特に女性)
(相当な騒音になり得るノイズを発するので、自他共に落ち着いて観られない。
というか、靴の貸し出しとか履き替えとかやっても好い気がする。あれほどだと。)
◇私は美術展は基本的に二巡するのが常。
最初に全体を通して観た後に、そこで自らの内に沸き立ったテーマ(仮説)の検証がてら、
そして「じっくり観て目に焼き付けたい作品」を心ゆくまで見つめるための二巡目に。
日本の美術館(特に企画展のための建物)は堅苦しい「順路」で動線の強制力大。
三菱一号館美術館はその典型ですが、別に逆流は可能です。(余計なお世話)
◇タペストリーも数点展示。特に巨大で色鮮やかなものは圧巻。
そして、『メリダとおそろしの森』を観た直後であれば感慨も一入。
タペストリーというのも又、或る意味、絵画の即物性を象徴する表現媒体かも。
◇解説等では全く触れられていなかったので、素人の勝手な妄想に過ぎないが、
「種を蒔くキリスト」「波を鎮めるキリスト」と題された色チョークによる画は、
その背景が浮世絵の影響をモロ受けているかのような際立った特徴が見受けられた。
ちょうどジャポニスムの時代だったりもするので、関係がありそうな気がする。
というか、バーン=ジョーンズの面白さは作風の「一定し無さ」にある気がする。
ポスト印象派的な要素が感じられるものや、抽象絵画的萌芽が見受けられるものも。
◇人物の表情が「少女漫画」的(特に憂いを帯びた表情など)だったり、
幻想的な画では天野喜孝っぽかったり(例えが、俗っぽい・・・)もするし、
意外と十分に一般受けしそうな画が多かった気がします。
東京~有楽町界隈には映画館も多いですし、
映画の合間にフラッと立ち寄るのも好いかも。