先週末、映画好きコミュニティ的巷では、壮絶に終わる伝説に関心集中。
勿論私めも先週はずっとそわそわして過ごすくらい楽しみだったりもした訳です。
で、映画ブログやってる身として、ここはまず壮絶に終わった伝説を壮絶に語るべき・・・
とは思うものの、勢いで書くタイミングを逸してしまった今、何だか荷が重くて・・・
とか鬱々としていたところ、頭に流れてきた何とも心地好い歌声。
そう、それが本作の終盤でダンサーたちが唱う「クレイジーホースのテーマ」!
あのヤル気あるんだかないんだかわからん骨太アンニュイな歌声が、
素人風味を確信犯的に味付けたに違いない匠なオケに生々しく乗っかる迷曲!!
その旋律に歌声に、同じ「つかめなさ」でもワイズマンなら好いんじゃない?
とでも囁かれたかのように導かれ、先週ようやく出逢えた待望作についてサラッと語る。
昨年の東京国際映画祭で日本初上映。ワイズマン自身も登壇。
そうなりゃ万難排して行くべきながら、一応社会人としては排せぬ難もあるわけで、
泣く泣く断念。ただ、夕方の『ボクシング・ジム』上映には駆けつけ、ワイズマンを拝む!
生きてる間に(どっちが!?)本人を拝めるなんて思ってもいなかったので、激感動。
ちょっとヨーダっぽかったけど(おいっ!!!!!!!!)、愛想好い感じでもなく弱ってる感じなのに、
時間たっぷりに語ってくれたり予定外の登壇まで希望したり、さっすがのマスター!!
「バレエ」が絡んだ2作は劇場公開されたりしたが、
基本的にワイズマン作品はアテネとかユーロとかの特集上映で観るのが常で、
とてもじゃないがBunkamuraル・シネマで観るとか超絶違和感禁じ得ない・・・
おまけに、改装後もあの構造のままで全席指定制に突入しているマダム・シアター。
まぁ、本作は「エロ」目的なオヤジたちで場内ごった返しとの噂も聞こえてきたりして、
これはいよいよカオスな観衆のなかで悲願の観賞を迎えるのだな・・・
という覚悟でル・シネマに赴くも、平日の夕方なので場内かなり余裕あり。
しかし!
残席全然余裕あるにも関わらず、詰めまくって配置するチケ販売員。
息苦しいわ・・・と思ってたら、隣のおじさんが予告上映中に移動してちょっと余裕でき、
(もしかして俺が何かしたのか!?)
前には誰もいなかったから頭部がスクリーンにかかる心配もなく、
好かった好かった・・・と思ってたら、後ろのオヤジが背もたれを蹴る蹴る。
2回目蹴ったときに振り返ったものの、止む気配なさそうだから諦めた。
ま、おそらく映画館で映画観るの慣れてなさそうだし、
シネコンと比すれば断然エコノミーな座席間隔は身体的にもキツかったのだろう・・・
と自分を納得させ、まぁ本作を味わうのに「客席」にもドラマくらいなきゃねと積極思考。
って、作品の内容に全然入っていく気配がない・・・が、
まぁドキュメンタリーを観るときっていうのは、
その「場」全体を楽しむっていうのが僕らの流儀。
(「ら」って誰だ?ってか、楽しんでないだろ、絶対。)
さて、本作もいつものワイズマン印で溢れてる訳だったけど、
いくつか新鮮というか変遷?を感じさせるようなところもあったりした。
ワイズマンのドキュメンタリーは大抵、
街(メインとなる施設や組織がある土地の風景)が冒頭で映し出され、
作中でも時折挿入され、最後にもその光景を写して終わる。(確か)
今回も冒頭にパリの街並は映し出されるのだが、
その前に「クレイジーホース」でのパフォーマンスが入る。
そういうケースもあるにはあったのかもしれないが、
何となくその順序が新鮮で、そこに何らかの意図を汲むべきに思った。
私はその意図を、
内側に入りすぎずに「クレイジーホース」を捉えようとするための選択だと考えてみた。
本作はいつものワイズマン作品なら確実に在るであろう(むしろメイン)
ダンサー個人に自分のことをたっぷり語らせる仕掛けがなかったりするものだから。
次第にメンバーの顔を確認できるようになってくると、個々の「背景」なんかに興味がわき、
そろそろ彼女たちの身上や心情にフォーカスしていくんだろうなぁと思って観ているも、
一向に彼女たちにプライベイトなトークを求めない。というか、個々の吐露はほぼ無い。
勿論、ステージに関する意見や運営に対する批判などを口にしている場面はある。
しかし、ダンサーたち一人一人のキャラクターが確認できるような流れはない。
というより、むしろ避けられている(特に編集で)ようにさえ思える。そこが不思議。新鮮。
今までのワイズマン作品は、とにかく個々の鮮烈なキャラ立ちが魅力の一つでもあった。
バレエを扱った作品でも、ダンサーたちの個々の葛藤やら素顔やらを
さりげなく、しかし確実に切り取り、印象に刻み込むよう配されていた。
だから、本作でダンサーたち個々の内面に踏み込まない「つくり」に最初は違和感。
おそらく、彼女たちの「自分語り」も撮影中には収められていたと思う。
今回は撮影もデジタルのようなので、とにかく回し続けていたかもしれない。
ただ、ワイズマン作品はとにかく「編集」によって語る作品でもあるので、
集めた素材を「使わない」選択によって作品が持ち得る「語り」を方向づけることがある。
彼が今回、ダンサーたちの個人的な話を挿入しないという選択は、
本作から浮かび上がらせたかったであろうテーマと密接に関与するのだろう。
それでは、そうしたテーマ性は何処にあるのだろうか。
ワイズマン作品には個人による語り以上に、会議場面が実に多い。
個を掘り下げるよりも、個と個の関係性(つまり、社会)を捉えようとする彼ならば、
当然とも言える事実だが、本作はそうした会議場面も意外と少ない。
また、クリエイターたちの話も取材場面を映し、それを本作に挿入していたりと、
「クレイジーホース」の《内面》探索というよりも、
客席からは離れずに「クレイジーホース」を凝視しようというスタンスだ。
だからこそ、本作はステージから始まりステージで終わる。
つまり、外(街)から入って内側(ステージ)を覗いて外(街)へ戻ってゆくのではない。
眼(カメラ)は客席に、あくまで客席から始まり客席で終わる。
つまり、観客にとっての「クレイジーホース」とは何なのか。
社会からみた「クレイジーホース」でも、芸術としての「クレイジーホース」でもない。
だからこそ、本作は真相の示顕よりも表象の次元を彷徨う恍惚に身を委ねようとする。
『パリ・オペラ座のすべて』でも終盤に演目を長々と見せていた気がするが、
本作では大トリがダンサーたちではなく、「影絵」だったりもする。
しかも、その最も終わりで現れるのは飛び去る鳥だ。
光あふるる外や昼から遠く離れ、影のなかで夜の魅惑に酔いしれる。
そして、それは時の魔法が解けたなら、遙か彼方へ飛んでゆく。
そうして訪れた黒い幕(エンドロール)の向こうには、我らが還るべき現実が。
明るくなる場内。映画内映画ならぬ夢内夢というか影内影からの帰還。
クレイジーホースのステージを、「誘惑のゲームを視覚化したもの」と称するスタッフ。
目に見えぬ、欲望。それを目に見えるものに翻案し、それを美として提示する。
欲望を満たすことで提供する満腹感などではなく、むしろ欲望を更に喚起する渇望感。
影になった客席に身を潜め、光あふれるステージからの照射が影を飛翔さす。
いつものワイズマンとは一味違うキラメキ(片仮名表記的)と豊満がそこにある。
健全でも妖艶でもなければ勿論卑猥などとも懸け離れた身体美。
統率不能な肉体の「自然」が魅せる流動性。
曲線と微動。 膨張と収縮。
まったく主張などすることしないのに、
沈黙こそが最大の絶対メッセージたる女性賛歌がそこにある。
◇今年は本当に「馬」映画の当たり年。
『ニーチェの馬』、『戦火の馬』、そして『クレイジーホース』。
2012年三大馬映画。これで今年が午年なら完璧だったのに(笑)