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Living Is Difficult with Eyes Opened

クレイジーホース・パリ 夜の宝石(2011/フレデリック・ワイズマン)

2012-07-30 03:31:54 | 映画 カ行

 

先週末、映画好きコミュニティ的巷では、壮絶に終わる伝説に関心集中。

勿論私めも先週はずっとそわそわして過ごすくらい楽しみだったりもした訳です。

で、映画ブログやってる身として、ここはまず壮絶に終わった伝説を壮絶に語るべき・・・

とは思うものの、勢いで書くタイミングを逸してしまった今、何だか荷が重くて・・・

とか鬱々としていたところ、頭に流れてきた何とも心地好い歌声。

そう、それが本作の終盤でダンサーたちが唱う「クレイジーホースのテーマ」!

あのヤル気あるんだかないんだかわからん骨太アンニュイな歌声が、

素人風味を確信犯的に味付けたに違いない匠なオケに生々しく乗っかる迷曲!!

その旋律に歌声に、同じ「つかめなさ」でもワイズマンなら好いんじゃない?

とでも囁かれたかのように導かれ、先週ようやく出逢えた待望作についてサラッと語る。

 

昨年の東京国際映画祭で日本初上映。ワイズマン自身も登壇。

そうなりゃ万難排して行くべきながら、一応社会人としては排せぬ難もあるわけで、

泣く泣く断念。ただ、夕方の『ボクシング・ジム』上映には駆けつけ、ワイズマンを拝む!

生きてる間に(どっちが!?)本人を拝めるなんて思ってもいなかったので、激感動。

ちょっとヨーダっぽかったけど(おいっ!!!!!!!!)、愛想好い感じでもなく弱ってる感じなのに、

時間たっぷりに語ってくれたり予定外の登壇まで希望したり、さっすがのマスター!!

 

「バレエ」が絡んだ2作は劇場公開されたりしたが、

基本的にワイズマン作品はアテネとかユーロとかの特集上映で観るのが常で、

とてもじゃないがBunkamuraル・シネマで観るとか超絶違和感禁じ得ない・・・

おまけに、改装後もあの構造のままで全席指定制に突入しているマダム・シアター。

まぁ、本作は「エロ」目的なオヤジたちで場内ごった返しとの噂も聞こえてきたりして、

これはいよいよカオスな観衆のなかで悲願の観賞を迎えるのだな・・・

という覚悟でル・シネマに赴くも、平日の夕方なので場内かなり余裕あり。

しかし!

残席全然余裕あるにも関わらず、詰めまくって配置するチケ販売員。

息苦しいわ・・・と思ってたら、隣のおじさんが予告上映中に移動してちょっと余裕でき、

(もしかして俺が何かしたのか!?)

前には誰もいなかったから頭部がスクリーンにかかる心配もなく、

好かった好かった・・・と思ってたら、後ろのオヤジが背もたれを蹴る蹴る。

2回目蹴ったときに振り返ったものの、止む気配なさそうだから諦めた。

ま、おそらく映画館で映画観るの慣れてなさそうだし、

シネコンと比すれば断然エコノミーな座席間隔は身体的にもキツかったのだろう・・・

と自分を納得させ、まぁ本作を味わうのに「客席」にもドラマくらいなきゃねと積極思考。

 

って、作品の内容に全然入っていく気配がない・・・が、

まぁドキュメンタリーを観るときっていうのは、

その「場」全体を楽しむっていうのが僕らの流儀。

(「ら」って誰だ?ってか、楽しんでないだろ、絶対。)

 

さて、本作もいつものワイズマン印で溢れてる訳だったけど、

いくつか新鮮というか変遷?を感じさせるようなところもあったりした。

 

ワイズマンのドキュメンタリーは大抵、

街(メインとなる施設や組織がある土地の風景)が冒頭で映し出され、

作中でも時折挿入され、最後にもその光景を写して終わる。(確か)

今回も冒頭にパリの街並は映し出されるのだが、

その前に「クレイジーホース」でのパフォーマンスが入る。

そういうケースもあるにはあったのかもしれないが、

何となくその順序が新鮮で、そこに何らかの意図を汲むべきに思った。

 

私はその意図を、

内側に入りすぎずに「クレイジーホース」を捉えようとするための選択だと考えてみた。

本作はいつものワイズマン作品なら確実に在るであろう(むしろメイン)

ダンサー個人に自分のことをたっぷり語らせる仕掛けがなかったりするものだから。

次第にメンバーの顔を確認できるようになってくると、個々の「背景」なんかに興味がわき、

そろそろ彼女たちの身上や心情にフォーカスしていくんだろうなぁと思って観ているも、

一向に彼女たちにプライベイトなトークを求めない。というか、個々の吐露はほぼ無い。

勿論、ステージに関する意見や運営に対する批判などを口にしている場面はある。

しかし、ダンサーたち一人一人のキャラクターが確認できるような流れはない。

というより、むしろ避けられている(特に編集で)ようにさえ思える。そこが不思議。新鮮。

今までのワイズマン作品は、とにかく個々の鮮烈なキャラ立ちが魅力の一つでもあった。

バレエを扱った作品でも、ダンサーたちの個々の葛藤やら素顔やらを

さりげなく、しかし確実に切り取り、印象に刻み込むよう配されていた。

だから、本作でダンサーたち個々の内面に踏み込まない「つくり」に最初は違和感。

おそらく、彼女たちの「自分語り」も撮影中には収められていたと思う。

今回は撮影もデジタルのようなので、とにかく回し続けていたかもしれない。

ただ、ワイズマン作品はとにかく「編集」によって語る作品でもあるので、

集めた素材を「使わない」選択によって作品が持ち得る「語り」を方向づけることがある。

彼が今回、ダンサーたちの個人的な話を挿入しないという選択は、

本作から浮かび上がらせたかったであろうテーマと密接に関与するのだろう。

それでは、そうしたテーマ性は何処にあるのだろうか。

 

ワイズマン作品には個人による語り以上に、会議場面が実に多い。

個を掘り下げるよりも、個と個の関係性(つまり、社会)を捉えようとする彼ならば、

当然とも言える事実だが、本作はそうした会議場面も意外と少ない。

また、クリエイターたちの話も取材場面を映し、それを本作に挿入していたりと、

「クレイジーホース」の《内面》探索というよりも、

客席からは離れずに「クレイジーホース」を凝視しようというスタンスだ。

だからこそ、本作はステージから始まりステージで終わる。

つまり、外(街)から入って内側(ステージ)を覗いて外(街)へ戻ってゆくのではない。

眼(カメラ)は客席に、あくまで客席から始まり客席で終わる。

つまり、観客にとっての「クレイジーホース」とは何なのか。

社会からみた「クレイジーホース」でも、芸術としての「クレイジーホース」でもない。

だからこそ、本作は真相の示顕よりも表象の次元を彷徨う恍惚に身を委ねようとする。

『パリ・オペラ座のすべて』でも終盤に演目を長々と見せていた気がするが、

本作では大トリがダンサーたちではなく、「影絵」だったりもする。

しかも、その最も終わりで現れるのは飛び去る鳥だ。

光あふるる外や昼から遠く離れ、影のなかで夜の魅惑に酔いしれる。

そして、それは時の魔法が解けたなら、遙か彼方へ飛んでゆく。

そうして訪れた黒い幕(エンドロール)の向こうには、我らが還るべき現実が。

明るくなる場内。映画内映画ならぬ夢内夢というか影内影からの帰還。

 

クレイジーホースのステージを、「誘惑のゲームを視覚化したもの」と称するスタッフ。

目に見えぬ、欲望。それを目に見えるものに翻案し、それを美として提示する。

欲望を満たすことで提供する満腹感などではなく、むしろ欲望を更に喚起する渇望感。

影になった客席に身を潜め、光あふれるステージからの照射が影を飛翔さす。

いつものワイズマンとは一味違うキラメキ(片仮名表記的)と豊満がそこにある。

健全でも妖艶でもなければ勿論卑猥などとも懸け離れた身体美。

統率不能な肉体の「自然」が魅せる流動性。

曲線と微動。 膨張と収縮。

まったく主張などすることしないのに、

沈黙こそが最大の絶対メッセージたる女性賛歌がそこにある。

 

 

◇今年は本当に「馬」映画の当たり年。

   『ニーチェの馬』、『戦火の馬』、そして『クレイジーホース』。

   2012年三大馬映画。これで今年が午年なら完璧だったのに(笑)

 


〈無〉表情の計り知れぬ豊かさ~バーン=ジョーンズ展

2012-07-25 23:34:23 | 2012 Art

 

三菱一号館美術館で開催中(8月19日迄)の

バーン=ジョーンズ展-装飾と象徴」をみてきた。

美術展は好きでちょくちょく足を運びながらも、

なかなか記事にはしていなかったけれど、

このブログもそろそろ2周年(実質は1年半ちょっとだけどね)だし、

少し幅広げてみようかと。

ただ、美術に関しては当然浅薄ながらの知識すら持ちあわせておらず、

徹頭徹尾、直感や主観にみちびかれた感情的感想に終始すると思いますが。

 

   絵とは、私の考えでは、 

   かつて存在したことがなく、この先も存在することもないであろう何物かについての

   美しいロマンティックな夢のことです。

 

   I mean by a picture

   a beautiful, romantic dream of something that never was, never will be.

 

これはエドワード・バーン=ジョーンズの言葉。

その表現からだけ想像すると、ダリのようなシュールレアリスム的世界が展開されそうだが、

実際に彼が好んで描いた絵画の世界は、聖書・神話・物語などをモチーフに展開している。

1833年に生まれ、20世紀を迎える直前(1898年)に没したバーン=ジョーンズの作風は、

一貫性を帯びているようでいて、その実なんとも取つき端のない奔放さも内包してる。

そこには一人の画家の創作における変遷のみならず、

その時代のもつ強力なコンテクストを感じてしまう。

 

聖書や神話をモチーフに描いた絵画にも関わらず、

そこには通常なら漂うべき達観が一切無く、当時の社会不安を吸い込んでいるかのよう。

 

例えば、「運命の車輪」という油彩画(バーン=ジョーンズ自身が最も好んだらしい)は、

運命の女神が回す車輪の上に、三人の人間が無力に身を預けている。

その三人とは、奴隷、王、そして詩人。

封建的主従関係はおろか、芸術までもが車輪に運命を預けている。

縦長のキャンバスを埋め尽くす巨大な車輪。

『モダンタイムス』でチャップリンを巻き込んだ歯車を想起させる。

19世紀末。機械文明の黎明。疎外されゆく人間。

カール・マルクス(1818-1883)なんかとも同時代。

世界は縦にも横にもつながっている。

 

彼の作品全体を見て歩き、私なりに注目せざるを得なかったことが2つある。

 

一つ目は、その唯物性というか、いやむしろ有機と無機のボーダーレス化と言うべきか。

まず非常に興味深い一枚を展示の序盤に見つける。

それは、「慈悲深き騎士」と名付けられた画。

道端の聖堂でひざまずく騎士の肩を木彫の聖像(キリスト)が抱きしめる(!)のだ。

鎧を身にまとって自らの罪に許しを請う騎士の穏やかな悲嘆の表情も新鮮だが、

木像が動き出して人間を抱きしめるという超自然的ストーリーテリングの奇妙な魅力。

これまで見てきた聖像絡みの画では味わったことのない不思議な感覚が支配する。

 

その後、バーン=ジョーンズは>「ピグマリオンと像」の物語に着想を得た連作を発表。

生身の女性を避けて生きてきた彫刻家ピグマリオンは、

自身が産み出した彫像の女性に恋をする。

女神ウェヌスへの祈りが叶って彫像には命が吹き込まれ、

ピグマリオンの妻となる。

そうした物語の主要な4つの場面を抽出した連作の油彩画を2組(1870・78年)も描いた。

ここにも無機から有機へ、唯物と唯心のボーダーレス化がみてとれる。

何とも不思議で興味深いテーマではないだろうか。

 

私の関心事二つ目も一つ目と関連するのだが、それは彼が描く人物の表情だ。

感情を湛えた表情をみせる人物が描かれることもあるが、

多くは無表情をしている。

しかも、それは「真顔」だとか「素顔」だとかいうニュアンスとは異なり、

明らかに表情の〈無〉として存在している顔なのだ。

つまり、物体としての「顔」がそこに在るだけ。

そこで、前日に塩田明彦氏のアテネフランセで行われた講義と結びつく。

彼は成瀬巳喜男の『乱れる』のラスト(高峰秀子の「何とも言えない」表情)から始め、

自作の『月光の囁き』終盤のつぐみの表情にまで話を進め、

「表情を失った顔こそがあらゆる感情を内包し喚起する」(私解釈)とまとめた。

(詳細に関しては次回の講義で掘り下げられるとのことだが・・・)

その講義での中心的な話題は、映画における「動線」の構築および意義だった。

要は即物的な表現である映画における、「語り」の機能と作用についての解説だ。

そうした発想が脳内で反芻されているなかで鑑賞したバーン=ジョーンズの絵画たち。

そこに紛れもなくある物質的な顔の数々。その顔たちが喚起する底知れぬ感情の深奥。

 

表情に宿された〈無〉は、一切の示唆を拒むが故に、計り知れない豊かさで迫ってくる。

 

近代の到来により、見る側の者たちが共有できる信念や思想は多様化を余儀なくされ、

そうした人間たちが「見ているもの」は、もはやその絵画の中にあるのではなく、

個人個人の脳で心で構築される《(想)像》なのだろう。

まさに、「かつて存在したことがなく、この先存在することもないであろう何物か」。

バーン=ジョーンズを友人の画家は次のように称したそうだ。

「ジョーンズという青年がいて・・・『夢の国』に住む一番素敵な若者の一人だ」と。

 

 

◇今回の展示では、「いばら姫(眠れる森の美女)」を描いた油彩画もある。

   そして、その画の間の一つ手前には、眠れる女性たちの画が四方に飾られた間。

   覚めている無表情から、眠りによる無表情へ。

   その背後には更に解放的な夢の世界が広がっているのだろう。

 

◇チケットの裏面にも記載がある通り、

   この美術館のフローリングは極めて靴音が響きやすい材質。

   なるべく配慮ある靴の選択が賢明かと。(特に女性)

   (相当な騒音になり得るノイズを発するので、自他共に落ち着いて観られない。

    というか、靴の貸し出しとか履き替えとかやっても好い気がする。あれほどだと。)

 

◇私は美術展は基本的に二巡するのが常。

   最初に全体を通して観た後に、そこで自らの内に沸き立ったテーマ(仮説)の検証がてら、

   そして「じっくり観て目に焼き付けたい作品」を心ゆくまで見つめるための二巡目に。

   日本の美術館(特に企画展のための建物)は堅苦しい「順路」で動線の強制力大。

   三菱一号館美術館はその典型ですが、別に逆流は可能です。(余計なお世話)

 

◇タペストリーも数点展示。特に巨大で色鮮やかなものは圧巻。

   そして、『メリダとおそろしの森』を観た直後であれば感慨も一入。

   タペストリーというのも又、或る意味、絵画の即物性を象徴する表現媒体かも。

 

◇解説等では全く触れられていなかったので、素人の勝手な妄想に過ぎないが、

   「種を蒔くキリスト」「波を鎮めるキリスト」と題された色チョークによる画は、

   その背景が浮世絵の影響をモロ受けているかのような際立った特徴が見受けられた。

   ちょうどジャポニスムの時代だったりもするので、関係がありそうな気がする。

   というか、バーン=ジョーンズの面白さは作風の「一定し無さ」にある気がする。

   ポスト印象派的な要素が感じられるものや、抽象絵画的萌芽が見受けられるものも。

 

◇人物の表情が「少女漫画」的(特に憂いを帯びた表情など)だったり、

   幻想的な画では天野喜孝っぽかったり(例えが、俗っぽい・・・)もするし、

   意外と十分に一般受けしそうな画が多かった気がします。

   東京~有楽町界隈には映画館も多いですし、

   映画の合間にフラッと立ち寄るのも好いかも。

 


汚れた心(2011/ヴィセンテ・アモリン)

2012-07-24 23:56:19 | 映画 カ行

 

日本の敗戦を信じない、ブラジル在住の日本人たち。

敗戦の事実を受け容れようとする日本人たちを、「國賊」と呼ぶ。

彼らは「汚れた心」の持ち主(原題:Dirty Hearts)だから、殲滅せねばならぬと。

終戦直後のブラジルで実際に起こった出来事を元に物語は書かれているらしい。

その原作本に出会ったオーストリアの監督が、入念なリサーチによって映画化。

そうしたこともあってか、偏った取捨選択は見当たらず、日本人の眼にも自然に映る。

そう、あれだけの異様な惨劇が自然に腑に落ちてしまう日本人的特質がそこには在る。

《他者》の眼だからこその直視がそこにはあり、《自己》が求めてしまう救済に陥らない。

映画としての出来は凡庸かもしれないが、日本人が直視すべき普遍性がそこにはある。

たった七十年足らずで心根がごっそり入れかわっているはずがない。

現在と過去を切り離さずに、「つながっている」部分から眼をそらさない。

「つながる」のが好きな日本人なのだから。

無視すれば「つながり」を断てる訳ではあるまい。

歴史の継承を拒むことは、醜ならず美までも葬ることになるだろう。

どちらも真摯に受け止めて、美徳の保持し難さと醜悪の破棄し難さを引き受ける。

日常でそうした覚悟は至難だが、暗闇で独り内省する2時間弱。

束の間でも、歴史と自己と対話を試みる。それが「物語」の力でもある。

 

◆本作の主人公・高橋(伊原剛志)は写真館を営んでいる。

   (『悲情城市』を少し想起させるような設定。写真を撮る場面が少し重なる。)

   写真とは「真実を写す」と言う意味にとれるが(江戸の頃は絵画を指したようだが)、

   本作はまさに「真実」を巡る物語でもあり、そうしたところに奇妙な符号を感じる。

   物語の終盤では、写真が「真実を写す」ものであっても「真実を語る」ものではない

   という皮肉な展開が待ち受けている。それは主人公の顛末をなぞっているかのよう。

 

◆本作における展開(ということは歴史的事実とも重なるということになるが)を俯瞰すると、

   内部抗争に至る道程が興味深い真実を語っているように思われる。

   当初は、日章旗を汚したブラジル人に対して制裁しようと日本人たちが決起する。

   しかし、それは叶わず、そうして遂げられなかった思いの矛先が「國賊」に向けられる。

   いや、そもそも自らに巣喰っている排他性(それによって自己(自国・自民族)の団結を

   保とうとする)のやり場がなくなった現実に耐えられず、とにかく《敵》が欲しかったのだろう。

   それは、戦争のメカニズムとも似ているように思う。

   内側でぶつかり合う力を外に向け、内部での団結を図る。

   そして、そうしたシステムには必ずそれを設計したり運用する者がいる。

   本作においては、渡辺登(奥田瑛二)がそれに当たるだろう。

 

◆しかし、ブラジル人保安官(だったかな?)を討つために襲撃した日本人たちを

   取り調べる際に、「おまえらは誰に命令されたんだ?」と訊かれ、

   彼らは皆「誰からも命令されていない」と答える。

   それは確かにそうなのだろう。

   システムが十全に構築された近代社会において、

   指揮系統に因らぬ軍隊行動は極めて奇異に映るだろうが、

   おそらく戦時中の日本は、機構や系統などよりも《信仰》が支配していたのかもしれない。

   (だからこそ、戦後の《信仰》アレルギーは反動によるものなのかもしれない。)

   これは或る意味、恐ろしくもあり強力でもある。

   なぜなら、《外》からの指図で動くのではなく、《内》から湧き出るものに従うのだから。

   ただ、それとて絶対的な存在があってこそ。そして、個人の感情と共存できてこそ。

   だから、その双方が叶わなくなった高橋(伊原剛)は、信じ抜くことが厳しくなる。

   しかし、だからといってあっさりと否定し、転向できるほど、

   人間の心は都合好くできちゃいない。

   安易な改悛で物語を収束させないリアリティや誠実さは、

   《他者》の眼でとらえ、語られたからこそ可能になった特殊性に思う。

 

◆物語の終盤、タカハシ(伊原剛志)の「何故、嘘をつく必要がある?」との問いに

   ワタナベ(奥田瑛二)は「嘘には嘘で対抗するしかない」というような事を言い、

   「真実は我々のなかにある」と言い放つ。なんと潔い矛盾だろうか。

   つまり、「真実」とは嘘をついてでも死守しなければならないものだと言うのだ。

   もはや真偽が対立概念ではなく、表裏でも白黒でもなく不可分だという自白。

   「疑う」ことは「信じる」ことの敵だと言う。《疑》は確かに《信》の裏にあたるかもしれない。

   しかし、《疑》を乗り越えてこそ《信》が深まるのも事実ではないか。

   本当に強靱な《信》とは、数多の《疑》を経てこそ生まれるものではないか。

   《疑》を経ぬ狂信は、その《信》自体の脆弱さ故に、外部への攻撃で弱さを隠す。

   弱い犬ほどよく吠える。怖いからとにかくぶっ放す。かくして凶暴な集団が出来上がる。

 

◆ある人物が殺された場面。

   一面の綿花(白)に横たわり、その真ん中に広がる血(赤い丸)。

   彼らが命よりも守りたかった「日章旗」がそこに浮かび上がる。

   《他者》だからこそ可能な表現かもしれない。

   (日本人が描くのは色々大変だろうから。)

 

◇このようなテーマの映画を観ながら、

   場内にはランチに勤しむ女性や度々スマフォをいじる女性が・・・

   其奴等の「汚れた心」を粛清してやりたい衝動に駆られた自らの心に、

   狂気の萌芽を感じたり・・・。そう、誰にもそうした「心根」はあるはずだ。

   それを根絶することはできずとも、自覚し向き合い、

   どうすべきか逡巡葛藤することはできるはず。

   時には発散させたいけどね(笑)

   いや、現実にそれをやるのではなく、

   それを疑似的に叶えてくれるのがフィクションの力。

   そして、それを可能にしてくれるのが人間最大の(唯一の?)「武器」である想像力、

   なのかもしれない。

 

 

※日本人が見ても違和感を覚えないのは、奥田瑛二の細かな監修が奏功したみたいだね。

 

 

 


SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2012(3)

2012-07-22 23:59:14 | 2012 SKIPシティ国際Dシネマ映画祭

 

我が子、ジャン(2011/ラシト・チェリケゼル) Can

 

トルコ映画は昨年のコンペにも選出されていたが(『クロッシング』セリム・デミルデレン)、

その作品同様、本作も現代的なトルコを映し出しており、新鮮に映る。

日本に紹介されるトルコ映画はヌリ・ビルゲ・ジェイランやセミフ・カプランオールといった

郊外のやや伝統的な空気のなかの牧歌的雰囲気を醸した作品が多いように思うので。

昨年のコンペではその『クロッシング』も観ており、本作と併せてやや共通の印象を受けた。

 

カンヌやベルリンで高評価を受ける美麗エキゾチシズムあふれる作品群とは対照的に、

極めて仄暗い不信と不安がそこはかとなく漂う作風は、

東洋と西洋の狭間で引き裂かれゆく現代トルコのアイデンティティを象徴するかのよう。

そういった側面は、日本のそれと重なり合うところも多く、

後述の『二番目の妻』(トルコ系家族を描く)ともやや共通するように思う。

したがって、現代的な問題の大状況に重なりを実感できた場合、

そこで描かれる人間関係や慣習的事情に多少の違和を覚えても、

抽象的な次元でのシンクロが可能となるだろう。

その方向で入り込めたのが『二番目の妻』ならば、

本作は最後まで些か引き気味な俯瞰を強いられた気がする。

 

無精子症の夫が自らの「不備」を恥じる余り(勿論、子供が欲しいというのもあるが)、

不法な手段で子供を買う。(その息子の名が「ジャン(原題:Can)」)

そして、本作はその前後を映し出す時制と、それから数年後の彼らを交互に行き来する。

夫妻は別れ(というか夫が蒸発し)、残された妻とジャンの距離とすら称しがたい隔絶は、

関係を定義できぬまま刻まれてきた時間の重みを観客にも如実に語り、息詰まる。

106分間を終始「静かに駆け抜ける」奇妙なスピード感溢れる本作は、

説明的な台詞も描写も極力抑えながら、しかし卓抜なストーリーテリングの力を擁す。

しかし、扱っている問題が問題だけに、観客個々人の倫理観や経験に左右されるリスクも。

実際、私には最後まで彼らにとっての「モラル」(社会的なそれではなく)がのみ込めず

(承認や受容といった理解ではなく)、彼らの心象に寄り添えずまま終局を迎えてしまった。

とはいえ、サスペンスフルな語りと緊迫を途切れさせぬリズムは心地よく、

それでいて葛藤は常に内側で起こっているという非映像的ゆえの映像の喚起作用は見事。

 

私のなかの拭えぬ違和は、妻の方に母性がなかなか萌芽せず、

夫の方には不自然なまでの父性が無条件に宿っているかのような印象によるもの。

余りにも一般論(女性の母性は先天的で、男性は子供が生まれても不正獲得が困難)に

支配されすぎ発想が過ぎるようにも思うが、彼らを「女」や「男」として観る視点が

私には不足していたのかもしれない・・・などと後から反省。

ただ、そうした戸惑いのなかで見続けられる作品というのは、

得てして複雑かつユニークな問題提起が内包されているからであって、

そうした意味で本作の存在意義は高いのだろうと思う。是非、再挑戦したいもの。

 

◇原題の『Can』とは、夫婦が「手に入れた」息子の名だが、

   中盤で夫の働く自動車販売店の看板に「CAN」と見えてニヤリ。

   ロビーで監督に訊いてみたところ、あれは支店の名前で、

   同じ名前の支店だからということで選び、ロケを懇願したという。

   勿論小ネタ的な面白さもあるが、夫の意識におけるジャンの存在の象徴とも受け取れる。

   逃れられない「命」(たしか、CAN(ジャン)の意味として「命」って出てた気が)の重み。

 

◇本作上映後には、監督と共同プロデューサー(監督もプロデューサーなので)が登壇。

   監督は随分と日本に対する敬意を口にして下さるなど親日アピール。

   やっぱりトルコ人は親日家が多いのかなぁ~などという目出度い思考で嬉しくなる。

   (一方で、日本人は親〇家だったりするのか!?と思うと、実はかなり閉鎖的な気も)

   おまけに、来場者全員プレゼントとして、本作のポストカードが1枚ずつ配られた。

   そのポストカードがまた手作り感あふれるもので、余計あったかい気持ちで会場を出た。

 

◇コンペ作品を事前チェックした記事でも書いたけど、

   IDCFにはサンダンス映画祭に縁のある監督や作品が多い。

   (まぁ、映画祭の趣旨からすればそれは必然の結果なのかもしれないけれど)

   例えば、2011年のワールドシネマ部門(コンペはアメリカ部門と分かれている)。

   グランプリの『Happy Happy (Sykt lykkelig)』は『真実の恋』の監督による作品。

   脚本賞は『レストレーション~修復~』が受賞している。

   観客賞は、昨年のIDCFグランプリの『キニアルワンダ』。

   ちなみに、昨年TIFFワールドシネマ部門で上映された『ティラノサウルス』が

   監督賞を受賞している。(『思秋期』として今秋公開予定)

   今年のサンダンス映画祭ワールドシネマ部門では、

   『我が子、ジャン』が審査員特別賞を受賞していたりもする。

   グランプリの『Violeta se fue a los cielos』はチリ・アルゼンチン・ブラジル共同制作、

   今年のラテンビートあたりでかかるのを期待したい。

   脚本賞の『Joven y alocada』もチリ映画だし、まとめてお願いしたいところ。

   チリ映画といえば、昨年のTIFFワールドシネマ部門で上映された『Bonsai~盆栽~』が

   個人的にはかなり好きな作風で、クリスチャン・ヒメネス監督は今後要注目と思われる。

   私が見逃してただけかもしれないけれど、今チリ映画が熱い!のかもしれない。

 

◇どうでもいいことかもしれないけれど、『我が子、ジャン』主人公の女性と、

   『二番目の妻』主人公(?)の女性の名前がいずれも「アイシェ」だったという偶然(?)。

   トルコ女性の一般的な名前ってだけなのか、その名が持つ意味が作品と関係あるのか?

   ちょっとばかし気になった。

   けど、さすがにQ&Aとかで訊けるネタでもなけりゃ、勇気もない(笑)

 

 

二番目の妻(2012/ウムト・ダー) Kuma

 

コンペ作品観賞のラストを飾った作品。

ウィーン・フィルムアカデミーでミヒャエル・ハネケにも師事したという新人監督の一作目。

そういった情報だけで既に興味津々。

ハネケ作品のキャスティング・ディレクターによる初監督作『ミヒャエル』や

本作の監督同様にアカデミーでハネケの指導を受けたジェシカ・ハウスナーの

『ルルドの泉で』がいずれも個人的にかなりの充実作だっただけに期待も大きかったが、

序盤こそ作品の描こうとしている物語性にゆるやかな拒絶を感じてしまったものの、

中盤から終盤にかけては作品のもつ魔力に魅入られっぱなしとなった。

 

物語は、

ウィーンでイスラムの伝統を守りながら暮らしていたトルコ系家族に、

トルコの村から若い娘アイシェが嫁いでくるが、この結婚には秘密が隠されていた・・・

というもの。

で、その秘密の内容が少しずつ間接的に露わになっていく。

但し、群像劇に描かれる家族のメンバーたちの「本当の気持ち」は、はぐらかされる。

それは演出としてもだが、そもそも伝統を重んじて生きようとする人々の宿命でもある。

忍耐と寛容を美徳と信ずる家族の中心的存在である母ファトマと、

トルコの片田舎で育ったものの、伝統への懐疑も生まれつつある若者たるアイシェ。

その二人はいずれも自らの感情を抑圧することに世界の均衡を見出し、

だからこそ最初は寄り添え合えるのだが、次第に彼女たちの指針はすれ違う。

そうした構図は家族や親戚全体にも流れており、

母ファトマ世代の中高年の女性たちは「伝統の継続」を信じて疑わない。

そして、それを永遠なる日常として謳歌すらしているかもしれない。

しかし、ファトマは、「ある決断」が伝統の死守を果たしながらも

崩壊への序章であることを識っている。だからこそ、彼女は「表情」を殺さねばならない。

嫁のアイシェは、見知らぬ土地の見知らぬ共同体に独り生きねばならぬ状況で、

心は容易く許せる環境でないだけでなく、心の向かった先にも「交通規制」が付きまとう。

納得はできるが、耐えがたいそうした拒絶に、行き場をなくした心は彷徨う。

しかし、アイシェはファトマとは違い(これがやはり世代間の差異を象徴しているようにも)、

そうした心を幽閉するのではなく、解放する選択に出る。

当然、そこに「ペナルティ」は生ずるものの、受容の兆しが見えたとき、

心を幽閉し続けてきた《伝統》の砦たるファトマは、呆然と震えるしかない。

さまざまな抑圧や虐待を受けながらも、解放を選択する「次世代」の談笑。

そこに入っていこうとすることは、自らの人生の現実を否定することになるファトマ。

扉を開けられない。自らを苦しめ続け、これからも苦しめることがわかっている「美徳」。

それを持ち続ければ苦しみ続けるばかりだが、それを捨てることも耐えがたい。

そうした「美徳」(例えば《伝統》)がもたらした豊穣はあったはずだし、

それが失われることによって消えゆく蓄積もあるはずだ。

 

世間体というものに意識が支配され、

無意識に因襲的な慣習の奴隷と化しがちな日本人にとって、

《自由》や《解放》との対峙から生まれる葛藤や矛盾の物語は、

自らをも取り巻く切実な問題として認識することも難くないように思う。

《個人》の確立を目指した近代が、《個人》をシステムへの従属に駆り立てたという実質。

だからこそ、本作における人物(感情)描写は《個人》を起点とすることなく、

メカニズムからの作用反作用に因って起こってきているようにも見える。

ファトマの(執心の反動としての)激昂、

アイシェの(抑圧からの解放としての)恋慕などを例外として。

それらは時折直線的に発露する。余りに巨大な強制力に屈する不自然に耐えられず。

実は同様に、長男の海外生活、次男の性質、長女の最後の決断、次女の批判なども、

そうした「機械」を止めたり変化させる動力にはなっているが。

ただ、本作が興味深いのは、そうした「機械」への批判を明言せず、

個人の勝利(信頼)に対しても楽観視しているわけではないと思われるところ。

 

上映後のQ&Aにおいても、

しばしば「観客の想像に委ねたい」という旨の返答をしていたウムト・ダー監督。

それは空虚な行間に対するエクスキューズなどでは決してなく、

綿密緻密に構築された行と行の間に自ずと滲み出る「解釈」への自信と私は理解した。

構造主義的側面とメロドラマ的好奇心のバランスが幾許か歪(いびつ)な感は否めぬが、

そうした端正さに執着しないところも新人らしい新鮮さに思えて好感だ。

 

本作は今年の映画祭で最優秀作品賞が与えられた。

コンペ12作品のうち、7作品を観賞したにも関わらず、

審査員特別賞・脚本賞・監督賞を獲った3作品は未見という残念さのなか、

本作にグランプリを与えるという最後の結末だけは審査員団と一致したというわけか。

 

好みで選ぶなら『レストレーション~修復~』、

ポピュラリティで選ぶなら『真実の恋』、

文学性で選ぶなら『二番目の妻』というのが極私的審査結果。

 

最終日に観たもう一本『真実の恋』は、

当初観るつもりは無かったものの、観賞された方の評判を聞き、急遽観賞することに。

結果、極めて大満足な濃縮83分の見事な愛らしさ。

いろいろ語りたい作品でもあるので、改めて振り返ってみたい。

(とかいって、時間と余力があるかどうか・・・)

薦めて下さった方が予想されていた通り、

『真実の恋』は昨年の『シンプル・シモン』のように

ノーザンライツ・フェスティバルあたりで大ウケするに至りそうな気がする。

字幕が寺尾次郎ってのも、確かに明らかに2次利用想定な感じもするし。

 

今年は、のべ4日も通った(しかも6日間のうちに)ということもあり、

ちょっとした「習慣」に化したりもした映画祭通い。(というか、川口への通い。)

なんか終わるとちょっと寂しいね(笑)

東京国際映画祭の六本木通いなんて心底清々するから大違い。

SKIPシティは確かに駅から遠いし、時間つぶす選択肢少なすぎたりもするものの、

実はあの長閑な雰囲気は「時間をつぶす」のに躍起にならなくても好い気がしてくるし、

映像ミュージアムでは山村浩二のミニ個展やってて色々と作品を観られたし、

プラネタリウムまで堪能することが出来た。

川口駅からのバスだって無料だし、1時間に3本も出てるし(すべての時間帯が

00分・20分・40分[一部例外あるも]と憶えやすいのも好い)、直通でスイスイ。

バスだって基本混まないから、座って車窓でも眺めてれば心地好い。

観客は、他の映画祭では考えられない地元のお祭りにフラッとやって来た住人たち。

聞こえてくる会話もほのぼの微笑ましい。

「あたし、どの作品でも寝ちゃうのよねぇ~」とか、

「(映像が出た瞬間)あら、綺麗ねぇ~」とか、

ル・シネマのマダムたちとは全く別種の生態系がそこには出現。

一見蘊蓄たれそうに見える中高年男性たちだって、

「古き良き映画世代」といった感じで、実にオープンに楽しもうとしてる印象だった。

素直に感動したり、素直に不可解吐露したり、素直に笑ったり。

でも、礼儀正しく律儀な拍手や、アテネフランセ文化センターの数倍も静かな場内。

同じ客層(年齢的に)でも、フィルムセンターの乞食臭は漂わず、

決して病院の待合室や軍隊の整列みたいな状況にもなり得ない。

ただ、若年層の観客が圧倒的に少なすぎるのはやっぱり気になる。

夏休みに入る頃に開催されている訳だし(大学生は試験の時期だけど)、

もう少し工夫して中高生や大学生が足を運ぶような努力を

映画祭側が試みても好いのでは?

(開催中、SKIPシティで見かける若者の大半は映画祭参加作品のスタッフかキャスト

  ・・・という現実。ただ、SKIPシティ内には「早稲田大学川口芸術学校」なるものが

  在るらしいのだが、そこの生徒さんたちは足繁く観に来たりしないのだろうか・・・)

 

来年は記念すべき10回目(開催されればだけど)。

その節目を期に・・・とかならずに、発展してゆく映画祭になって欲しいものです。

 

[追記]あと、この映画祭の最大の魅力は、監督来日率の高さ(ほぼ全作品)。

           そして、2回ある上映の両方で登壇するゲストも少なくない。

           質疑応答も実にアットホームな雰囲気だし、

           質問者による虚栄心発表会にもならない。

           ロビーやSKIPシティ内で気軽に監督に声をかけたり立ち話できる・・・感じ。

           (実際に自分が出来るわけではないので。あ、でも一度だけ質問してみたけどね。)

 


SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2012(2)

2012-07-20 23:58:05 | 2012 SKIPシティ国際Dシネマ映画祭

 

昨年はオープニングのヌリ・ビルゲ・ジェイラン最新作『昔々、アナトリアで』目当てで赴き、

ついでに(失礼)コンペ作品も3つほど観た。『シンプル・シモン』はその一本だった。

上映後のQ&Aの独特な雰囲気(本当の意味での「アット・ホーム」な空気)は稀少(?)で、

他の映画祭には決して味わえない「地域密着の可能性」を感じられるのも一つの特徴。

ただ、東京から近距離の埼玉県川口市というのが地域性と都下性(?)の狭間で

必ずしも巧いこと集客や話題性に結びつかないという困難も抱えてそうな気もする。

とはいえ、やはり手作り感と形式的に決して堕さぬ「おもてなし」の心がそこはかとなく漂い、

都心開催の映画祭とは一味も二味も違った体験は得がたく、今年はついにフリーパス購入。

といっても、全作は当然観られぬものの、長編コンペ全12作の半数でも観られれば

十分に元がとれる良心価格(3,000円)ということもあり、利用させてもらうことにした。

 

そして、私にとっての2日目となった18日には、コンペ2作品を観賞。

フリーパスを買ったので観ることにした『死と乙女という名のダンス』と、

地味に期待を膨らませて臨んだ『レストレーション~修復~』。

 

 

死と乙女という名のダンス(2011/アンドレ・ヒューレス) The Maiden Danced to Death

 

監督を務めるアンドレ・ヒューレス(Endre Hules)、

役者としても知られているが、長編劇映画の監督は本作が初めてとなるらしい。

彼自身、ハンガリーで生まれ育ち、舞台の演出や大学での教鞭を世界各地で行いながら、

現在はロサンゼルスに在住し、テレビや映画への出演もコンスタントにこなしつつ、

さまざまな創作活動に意欲的に取り組んでいるようだ。

IMDbのトリヴィアによると、相当数の言語に長けているようで、

確かにQ&Aで彼が発した感謝の言葉は、「アリガトゴザイマス」じゃなかった。

 

さて、私が本作を観賞しようと思ったポイントは二つあり、

一つは撮影監督が大ベテランのヴィルモス・スィグモンドだということ。

今年に入ってすぐに浮かぶだけでも、彼が撮影した作品を既に2本も劇場で観ている。

午前十時の映画祭で観た『ディア・ハンター』、爆音映画祭で観た『未知との遭遇』。

いずれも映画史に残る名作。

そして更に、個人的にも好きすぎる『さすらいのカウボーイ』(ピーター・フォンダ監督作)

までが彼の撮影によるもの。絵画に精通している彼らしく、ため息まじりの画が連続。

そんなヴィルモス・スィグモンドもアンドレ・ヒューレス同様、ハンガリー出身。

ハンガリー動乱の後にアメリカへと亡命し、その後にアメリカ映画界に多大なる功績を残す。

(そのあたりのことはこのサイトが詳しい。)

アンドレ・ヒューレスが監督を務めたハンガリー動乱に関するドキュメンタリーでも

ヴィルモス・スィグモンドは撮影を担当していた。

今回は、ダンスシーンの撮影に随分と工夫を凝らしたそうで、

スタジオ内の鏡に映り込まぬために細心の注意を払いつつ、

同様に「照明」が画面に映り込むのを避けるために、屋外に設置して撮影したとか。

さすがの名カメラマンにとっては、当然すぎる逸話にニヤリ。

 

本作観賞の二つ目の決め手は、ハンガリーの映画だということ。

当サイトでは取り上げられずじまいだし、シネフィル的巷でも話題にのぼらずじまいだったが、

今年のEUフィルムデーズで観た『メイド・イン・ハンガリー』(2009/フォニョーゲルゲイ)が

個人的にはかなりのヒットを記録し(本国でもヒットしたらしいが)、ハンガリー熱急上昇。

最近のハンガリー映画というとすぐに想い出すのはタル・ベーラといった名前。

(勿論、彼の作品には魅了され続けているが)

一味違ったハンガリー(これが従来かも)に触れられた『メイド・イン・ハンガリー』

に描かれる感情の機微が私の心の襞にグイグイ入り込み、実は大変感動しちまった。

爾来、ハンガリーに対する奇妙な親近感を覚えだし、その深層に興味津々。

そもそも、ハンガリーは名前の表記が日本と同じく「姓」から「名」の順序。

(本作も冒頭のクレジット表記の際には、「名姓」表記から入れ替わって「姓名」表記となり、

  祖国への《帰還》で始まるオープニングを演出。監督の故国愛も感じて、じんわり。)

些末なことかもしれないが、「ファミリーネーム」優先という名前の序列は、

思想の根底にも影響を与えてそうだし、

日常生活のコミュニケーションにおける「呼び方」は人間関係のあり方に

少なからず関係するだろうから、そうした共通点から生じる類似性もあったりしそう。

 

そうした個人的興味に対しては、それほど「応え」てくれはしなかったが、

それなりにウェルメイドな作品だったとは思う。

ただ、私は不覚にも中盤で随分とウトウトしてしまったが為に、

物語の根幹に迫る肝心なシークエンスを捉え損なっている可能性がある・・・

ということを告白し、断った上で言わせてもらうなら、

「構想10年」というだけあって、少し丁寧(慎重)過ぎた印象で、

1ミリも逸脱を許さぬような感情の完全補正が施されている気がしないでもなかった。

だからこそ、安心して観られるし、主要キャストは確かな魅力を兼ね備えてるけど、

それが個人的には凡庸に思えてしまったみたいだ。

肝心のダンスシーンも「遊び」がない分、随分と堅いままだった気がした。

が、それは「何を求めるか」という個人的欲求によって好みが分かれるところだろう。

 

コインの裏と表の喩え話が、ただ単に「二者択一」という分岐点的発想に陥らず、

「反対側は決して見えない」といった着地にもっていったところは感心もしたし(偉そう)、

実際にそうした対立軸は冷戦時代の構造をも念頭にあったりするのだお思うと、

その意味するところは計り知れない。ただ、そこに敢えて説教的な解答を出さず、

「見えない」という事実の確認に留まっているところが好くもあるが、やや物足りず。

監督が語っていたテーマの一つであるところの、妥協がどこまで許されるのかという点も、

「人間はひとつの妥協で死ぬまで踊らされる」という演目との相関関係や相乗効果を

もう少し手際よく相互乗り入れさせられていたら、ダイナミックな飛躍が期待できたかも。

 

でも、そもそもそうした方向性は監督が望むものでもないだろうし、

女性や年配の方々には概ね好評そうな空気も漂っていたので、

ちゃんとした佳作なのだろうと思います。

 

ただ、邦題にはちょっと難ありだよね。(意味違ってるし)

 

 

レストレーション~修復~(2011/ヨッシ・マドオニー) Boker tov adon Fidelman

 

こちらは、昨年のサンダンス映画祭で脚本賞を獲得している。

確かに、全体が「機微」で優しくコーティングされ、

言葉は勿論のこと、動きや表情でも語ることにゆるやかな抑制が張り巡らされ、

しかし、その伏し目がちな眼差しこそが本作の魅力とも言えるだろう。

 

デジタル撮影による映像も、フィルムの質感にやや近い印象を受け、

その淡さというか柔らかさが心地よい。

監督曰く、ノスタルジックな映像にしたかったとのこと。

レンズを2枚重ね、ソフトフォーカスで撮ったとのこと。

最後の数分間は極めて原色的なデジタル・クリアな映像に変貌するが、

その対比が実に鮮やかで、確かに「硝子の向こう」を眺める郷愁の時間が流れる。

(言ってみれば、セピアなイメージが映像全体に漂っている感じ。)

 

物語は、アンティーク家具の修復屋を共に営んでいた親友に他界され、

残された相棒である主人公とその実子、更にその直前に雇われ始めた若者という三人が、

微妙な関係を微妙に震わせながら物語は進む。実子には妊娠中の妻がいて、

バイト君には大変富裕な兄がいて、どちらも互いになかなか向き合えない。

おまけに、主人公と息子も全然向き合えない。主人公とバイト君は次第に打ち解ける。

主人公の息子は他界した主人公の親友を実父のように慕っていた。

そうした人間関係の複雑さを、スキャンダラスに描こうなどと一切しない。

彼らが常に間に挿し挟んでしまう「硝子1枚」の見えるのに届かないような距離感、

それが終始淡々と静かに映し出されてゆく。しかし、変化はいつも潜在的に起こってる。

 

工房の古めかしさ、暗さに射し込む柔らかな陽光が、

その場に「アンティーク」のぬくもりを充満させる。

しかし、そうした空気に一抹の懐疑が常につきまとい、

だからこそ登場人物たちは思い思いの決断を静かに迫られる。

その道程がゆるやかだったり、唐突だったりで、アンバランスさのリアリティ。

 

この物語で鍵を握るアイテムが、スタインウェイのアンティークピアノ。

その「お宝」を見つけ、かつて音楽家を志したバイト君アントンがいきなり弾き始めるのが、

ベートーベンのピアノソナタ「月光」第三楽章。

あの指の動きや上昇した後の連打は、確かに運動的な気持ちよさがある。

そして、物語のクライマックスで流れてくるのもベートーベン。

こちらもピアノソナタ。「悲愴」第2楽章のもの悲しくも希望の決意をみなぎらせ。

ヴァイオリン・アレンジによる伸びやかな調べが、懐かしくも新鮮。

 

上映後のQ&Aで、「月光」の方の曲名を観客から尋ねられたときに、

「Spring」という答えをしていた(だから、通訳は「春のソナタ」と翻訳してました)のだけど、

あれは何処から出た(何に由来する)答えだったのだろう・・・そういう別名でもあるのかな。

 

アントン(バイト君)が街にやって来るところから始まり、

再び彼が街を歩いている場面(しかし《世界》が異なって見える)で幕を閉じる物語。

彼の名(「アントン」)は、主人公親子の「ヤコブ」や「ノア」という明白なユダヤの名とは異なり、

明らかに《外部》の名であることを示唆しているとのこと。

ちょっと意地悪な見方すると、やっぱり外部の者には入り込めない「ユダヤの地(血)」?

などという穿った理屈を吐きたくなったりもしなくはないが、それはそれで安易な融和で

予定調和で収束させるより、ある種の厳粛さが感じられて私は好きだった。

 

 

映画祭7日目にはコンペ1作品を観に行く予定だったので、

ついでに「SKIPシティ・セレクション」とやらの1作品を観てみることに。

 

春、一番最初に降る雨(2011/佐野伸寿、エルラン・ヌルムハンベトフ)

 

この作品は、昨年の東京国際映画祭(日本映画・ある視点)でも上映された。

昨年のユーラシア国際映画祭でグランプリを獲っていたりもするらしい。

監督の佐野伸寿は元々、カザフスタン大使館に勤務していたらしい。(出典

『ウルグイからきた少年』の監督だったりもしたのか・・・失念してた。

エルラン・ヌルムハンベトフは、『トルパン』の第2監督も務めていたらしい。

 

チラシの物語解説には、

「中央アジアのカザフスタン、広大な大自然の中、

ある一家がこの地に流れ着いたシャーマンと暮らしていた。

ある日、年老いたシャーマンは、生まれ変わって長男のアスハットの花嫁になる

と予言して亡くなるが・・・。」

とあるので、てっきりかなり幻想的な展開に向かうのかと思ったら、

意外にもドキュメンタリータッチで(というか、そもそもそういう作風か)、

出演者もほとんどが素人(というか現地の人々)なもので、

その土地で生活する人々の有様を収めた感じの85分。

それもそのはずで、警察官や役所の職員なども登場するのだが、

彼らは実際にそういった仕事をしている(していた)人々で、

小道具含め自前で素に近い形で立ち居振る舞っていたそうだ。

 

また、監督の話で面白かったのは、

撮影の際にスタッフを現地調達しようとしても全然人が集まらないのだとか。

「別にちょっとくらいお金もらうより、いつもの生活を続けてた方が好いや」というノリらしい。

観客から「ああした僻地で生活するのは困難なのでは?」という問いに、

「彼らはむしろ自分たちの土地や自分たちの生活から離れたがらない、

というより、むしろ積極的に幸福を感じているようだ」と答えていた監督。

確かに、本編でも徹頭徹尾、むやみな批判や断定の精神は微塵も感じられなかった。