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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

終の信託(2012/周防正行)

2012-11-15 23:16:34 | 映画 タ行

 

◆本作の大沢たかお演じる検事には、

   絶対に何か《過去》があるに違いないと思って観ていたのに、

   何もない(何も語られない)まま終わって拍子抜け。

   普通なら「なんと紋切り型な色分け芝居」と一刀両断するような演出ながら、

   つくりが余りにも匠(巧み)オーラを発し続けているが故に、

   その迫力にのまれて自己解決(反芻による行間の氾濫)を

   試みようとしてしまうではないか。

 

◆ただ見方を変えれば、

   そうしたステレオタイプはもしかしたら反ステレオタイプを目指したが故なのかもしれない

   という積極的自己矛盾の産出による所産を期待したものだったのでは

   という独善仮説を打ち上げてみたくもなる。

   検事(大沢たかお)=《社会》:責める、

   被疑者(草刈民代)=《個人》:責められる、

   といった対立軸をあえて明確にしながらも、

   そこで前半で具に描かれた「個人」への違和感と結びつくように。

   そこに生まれるのは、「どちらにも感情移入できない」という救いのなさであり、

   それは同時に「救われる解決」などを求めて議論を始めてはならない

   という徹頭徹尾アンチテーゼに踏み止まろうとする覚悟にすら思えてくる。

   この映画において、

   積極的に「拒むべき」対象として描かれている人物は思いのほか少なく

   (原作では、江木さんの家族や検事は典型的な非情な設定のようだが)、

   しかし同時に気安く「移入」が可能となる人物も不在。

   そこに登場するわかりやすい「敵」キャラ、それが大沢の演じた検事なのだろう。

   しかし、実は彼のみが理性と感情をフルに働かせて社会的使命に突き動かされている。

   そう考えれば「健全な社会」の体現者のようでもある。

   一方で、恋愛に溺れたり弱さにやたら肯定的であったり

   私的感情に翻弄されることへの陶酔も辞さぬ「ヒロイン」は、

   裁かれるべき人間のようにも映じてしまう。

   理性を感情が軽く凌駕してしまうような恋愛体質のヒロイン。

   それは確かに受けいれ難く認めがたい

   (しかも、東大卒で仕事もできるエリートゆえに余計)厄介な代物だ。

   従って、彼女が糾弾されることに何ら抵抗もなく進むであろう

   と高をくくった面談で、

   予期せぬ必要悪としての社会正義が傍聴人(観客)に強烈な違和感をお見舞いする。

   行き場をなくした感情の移入先。

   同情のシステムにも駆動され、ヒロインの人生や行動への理解を再試行。

   そのとき突如浮かび上がってくるのは、

   冗長で退屈でしかなかった前半が蓄積した時間の重さ。

   面談で語られる十五年に及ぶ江木と綾乃のスピリチュアルな関係。

   確かに、二人に恋愛的な感情が混入していたであろうことは紛れもないが

   (そもそも恋愛とそうでない感情の線引きほど無意味なものもないと思う)、

   そのような要素を遙かに凌ぐ信頼が積み重なってきたであろう時間がそこには流れてた。

   そのためには、前半の退屈さは必要だったのかもしれない。

   語りの効率とは無縁の、存在に伴う茫洋たる時間の淡々。

   そうした駆け足ながらも遅遅として重さを迫る「患者の時間」を

   本作ではまず体験させたかったのだろう。

   失意のエリート女医と死の恐怖に囚われた喘息患者の時間を

   延々と「感じさせる」ことで。

 

◆そう考えると、

   「何もこんな映画であんな濡れ場をわざわざ演じなくても」というトホホ感は、

   「何もそんな人生であんな恋愛にわざわざ拘らなくても」

   というヒロインのトホホ感と行き場のなさ(それはやがて彼女なりの《尊厳》へと向けられる)

   を醸し出すには十分すぎる役割を果たしていたようにも思え出し、

   自らの妻をそうした構造に放り込む周防正行というのは、

   実はかなり鬼畜なプロ意識の高い映画監督なんだろうと再確認。

 

◆検事との面談が始まるまでは、

   とにかく「途方もない駄作をつくってくれたもんだ」くらいに思っており、

   唖然に苦しみつつも堪能してやろうと試み続けては何度も寝落ちしそうになっていた。

   ところが、あの面談シーンで一気に覚醒すると共に、

   それまで当然だったはずの駄作レッテルがいとも簡単に剥がれゆき、

   逆の唖然が今度は奇妙な困惑を催させ、戸惑いのまま気づけばエンドロール。

   (いやぁ、種ともこの声にも嬉しい驚き。)
 

   だから、「過去」の場面でもとりわけ違和感を覚えた江木さんの臨終時の

   女医の取り乱し具合(家族の前で!)にしても、解釈が見事に反転し始めてしまったり。

   例えば、あのシーン含め、主人公が感情移入しやすい「良識派」であったとしたら、

   そこで物語は見事に或る方向性へと導かれてゆくだろう。

   ところが、彼女の歪さはそれを許さず、

   だから物語を見守る者が期待する「解決の糸口」は見当たらない。

   『それでもボクはやってない』に見られた明快な問題意識や明確な問題提起も

   本作にはない。いや、これは意識的に回避されているようにしか思えない。

   それが進化か、単なる拘泥による深化に過ぎぬのかはわからぬが、

   前作における周防監督なりの「反省」として異なる作劇を試みたようにも思える。

   (好意的に解釈すれば、の話ではあるが。)

   そして、確かに本作におけるテーマは、

   前作のような「制度」への懐疑に焦点を絞った場合とは異なり、

   制度などの局所的構造に止まらぬ思索が必要な問題だ。

   そう考えるならば、あえて「社会派」のつくりから逸脱し、

   討論的議論の浸透を期待するよりも、

   静かなる内省的思惟のための一滴として落ちれば好いと思っての試みだったようにも

   思えてくる。

 

 

以上のような感想を書いた後、

キネマ旬報10月上旬号に掲載されている周防監督のインタビューを読むと、

私見との一致を見るような監督の思惑が散見できた。

 

「『それでもボクはやってない』は、刑事裁判というシステムについての映画、

  人をどう裁くのかというシステムが主役の映画でした。

  今回の『終の信託』は、システムに組み込まれた人間がどんなふうになるのか、

  その人間そのものを描いてみようと。

  (中略)

  システムを解説すると図式のようになるけれど、

  そこからはみ出る部分は当然ある。そこに人間が見えるはずだと。」

 

「人が人を裁くことに、人はもっと恐れを抱くべきなんじゃないか、

  そういうことも問いかけてみたかったのです。」

 

「私たちの社会は法律を必要としている。

  それはあくまでも、私たちが生きていくための手助けとして必要なものなのですが、

  最後はすべてを法律が解決してくれると思っていないか。

  判決はあくまでも法律上の解決、単に裁判における決着にすぎず、

  本質的な意味での問題の解決ではない、ということを忘れてはいけないはずです。

  裁判が終わってもある意味、事件は終わっていない。

  それから先の解決だってあるはずだし、

  あるいは最初から裁判に頼らない解決だってあるかもしれない。

  事件が起きれば刑事裁判ですべてを解決する。そんなことできるわけがない。

  僕が描きたかったのは、そういった人間の世界のありようです。

  言ってみれば、恋愛も、医療も、司法も描きたかった。

  それが人の世の中だから。」

 

◇ちなみに、周防正行は現在、法制審議会の委員もやっているらしい。

 

周防監督は今や、

《近代》が抱えている問題(とりわけ社会的側面で)を糾弾するに留まらず、

日本的《近代》が抱え込んだ矛盾と真摯に向き合い、欧米に範をとろうとせず、

自分自身に巣喰った問題の特殊性を凝視することを厭わない。

それを露わにしつつ、葛藤を辞さない。

彼への「信託」は当分続けてよさそうだ。

 


ディクテーター 身元不明でニューヨーク(2012/ラリー・チャールズ)

2012-09-20 01:15:29 | 映画 タ行

 

本作の冒頭、独裁者アラジーン将軍の暴君っぷりを示すため、

「よい」も「わるい」も「アラジーン」という一語に統一したというエピソードが紹介される。

そして、これこそが本作に通底するシニカルながら真剣ニヒルの宣言だ。

 

「独裁者」という語は、アラジーン将軍にとっては甘美な善の体現者なのに、

国連(というかデモクラシーな国家の面々)にとっては極悪卑劣な未開の産物。

本作ラストの演説(最高!)も全く同様の、光と影のダブル・ミーニング。

「影」の現実にゾッとした聴衆(大衆)が、ほんの一筋の「光」を語られた途端、

闇を忘れて透かさず啓蒙されてしまうという見事なアイロニー。

刺される棘は戯画バイト。笑う門の人のふり。見つめて直そう我が大義。

 

◆フェミニストの活動家(アンナ・ファリス)の「情熱的」な抗議が

   ファシストの演説に見えたりするっていう紙一重。

   懊悩の果てに橋から身投げしようとする暴君に重なる、

   ヒーローの苦悩。

   髭が消えただけで悪の権化を認識できない市民の眼差し、

   髭が消えようが忘れもしない我が最愛の敵。

   国民の不自由が国家の自由を絶対的に保証するのが独裁国家なら、

   民主国家は国民の自由を保証するために自らの不自由に耐えている?

   あれ?でも、民主主義は国民が国家でもあるわけで、

   それなら僕らは自由なの?不自由なの?

 

◆「我等の自由を!」の結果として独裁者は打倒され、

   国民は自由を手にするという革命の前日譚には当然、

   自由を謳歌しまくる独裁者の楽園が刻まれているだろう。

   そうした立場から放擲されたアラジーンが初めて味わう不自由。

   それは国民のそれなのか、国家のそれなのか。

   いずれにしても、 そうした不自由さに積極的な意義や価値を見出す

   などという安易な幻想を混入させない「リアリズム」には感心しきり。

   独裁者が愛でる自由は、実は国民が慈しむ自由であり、国家が厭う自由でもある。

 

◆下品さが(実は大真面目な)テーマを確実に笑い飛ばしてくれるので、

   そうした落差による「麻痺」は痛快で、

   本格的劇映画スタイルもジャンル映画を些か諷刺。

   言い訳がましく理由をでっち上げないラブコメの魔法でねじ伏せる。

   結局すべては「胸キュン」解決ハッピーさ!は、

   『鍵泥棒のメソッド』に奇しくも通じててニヤリ。

 

◇キャストとか未チェックで観に行ったものだから、

   サシャ・バロン・コーエン演じる独裁者の側近タミルを

   ベン・キングズレーが演じてるのに楽しい驚愕!

   『ヒューゴの不思議な発明』でメリエス演じてたベンが、

   戦争で脚に傷を負った公安官を同作で演じてたサシャの側近!?

   スコセッシとの栄光仕事すら「踏み台」に使おうっていう正しき魂胆に感嘆。

   『アベンジャーズ』蹴って、こっちにカメオ出演かますエドワード・ノートン・・・。

   サシャばりの強かさで渡っていけるだろうか。

 

◇エンドロールで最も笑ったのは、

   サントラ盤の発売レーベルが、「Aladeen Records」だったとこ。

 

◇確かな劇映画っぷりを見せてくれている本作は、スタッフが盤石。

   例えば、シネスコで安定かつ躍動の撮影で適度な画力を発揮させているのは、

   『ハングオーバー』シリーズや『宇宙人ポール』等のローレンス・シャー。

   編集は、『ブルーノ』にも参加していたエリック・キサックに加え、

   『ミート・ザ・ペアレンツ』シリーズや『トロピック・サンダー』等のグレッグ・ヘイデンも担当。

   ドラマによる語りの確かさを保証するための適材適所。

   プロデューサー陣にスコット・ルーディンの名前を見つけて意外に思うも、

   なんだかんだで堅実さも見せてる本作なら納得だ。

 


盗聴犯 死のインサイダー取引(2009/フェリックス・チョン、アラン・マック)

2012-08-21 23:58:42 | 映画 タ行

 

今年は香港映画ファン垂涎の作品群が続々と公開されている。

比較的新しいものから、数年前の発掘系まで。

なかでも本作は、とびきりの傑作。

ぼくたちが香港映画で見たいもの、感じたいもの、

そのすべてが集結し、凝縮混濁浄化の嵐。

皆香港電影愛好家必見傑作!!! 

キャスティング的には、ジョニー・トーmeetsベニー・チャンみたいな印象で、

それが中途半端に堕すること一切なく、弁証法ですらなく、

ただひたすら正攻法、いや最高峰!!!

 

『インファナル・アフェア』の脚本コンビだけあって(他にも結構組んでるけど)、

あのシリーズというよりも『ディパーテッド』(好きだけど)への返答というか、

「アメリカよ、これが映画だ!」な惚れ惚れする矜持が暴れ出す!!

そう、これぞ香港電影!やっぱり大好き、香港電影!

わが香港電影は永久に不滅です!!!

 

金融絡みのエピソードやミニマム群像劇的アプローチは、

昨年のフィルメックスで観た(本国でもかなりの高評価)ジョニー・トーの『奪命金』を想起。

あちらはコーエン兄弟にも通ずる渋みを効かせるも、こちらは断然トニー・スコット!!

などと、つい口にしてしまうのは安易な感傷からかもしれないが、トニーはいつも、

香港電影の好敵手的な「心も頭もフルスロットル」映画を届けてくれた。

どんなに評論家や同業者から賞賛されても(「貶されても」より難しい)、

「からだ」より「あたま」に働きかけようなんて絶対しなかった。

そんな精神は多くの映画人を刺激し、これからもきっと脈々と受け継がれるだろう。

本作にはまさにアンストッパブルな圧倒的磁力が100分間!全編全身全霊、奮!

 

喩えて言うなら、最後の最後まで終始ぶんぶん振り回されて、

そのとんでもない遠心力に戦慄きながらも、禁断の恍惚に身をやつし、

最後にふっと手を離された瞬間、とんでもなく遠くまで飛ばされて、

いつまでも着地できない・・・。そんなです。(どんなだ?)

とにかく、四の五の言わずに観るべし!な映画ってことです。

 

◆冒頭、夜の路地裏を彷徨く一匹のネズミが映る。

   そして、闇へと入っていくと・・・何とも魅惑ながら、

   あらゆる示唆を丸投げ(褒めてます)な香港風暗喩の国。

   確かに、この映画はネズミに溢れてる。

   そもそも、人のもの(カネも女も)を盗もうとする連中ばかり。

   そんな奴らをネズミ算式に増殖させる現代のテクノロジー。

   彼らが運命託して握りしめるのは・・・マウス。

   そうなりゃ、最後。袋のネズミ。

 

◆冒頭の「潜入」からしてクライマックス級。

   ベタを抑えてツボを外さぬ、名人芸より職人芸。

   複雑な人間関係をシンプルに呈示しながら、複雑さをかみしめさせる手際に心酔。

   自在に動き回るカメラが止まって寄れば、そこに映し出される顔の主張は強烈だ。

   これまで彼らが演じてきた様々な役柄の印象が、消されぬことなく抱擁される。

   脇まで本当に抜かりない顔のオンパレードながら、それでも主演三人は別格絶品。

   それぞれに個人的な事情も愛情も背負いつつ交わされる、大人の友情。

   それは決して熱くはないが、断じて厚い。

 

◆舞台となるオフィスや香港のランドスケープは、

   何故か『ダークナイト』を想起してみたり。あのときの興奮と地続きのような妙な感覚。

   それは、本作も同様に善悪渾然一体のカオスが底流にあったかもしれないが、

   『ダークナイト』ではあくまで善悪の相克を外化(人物毎に担わせる)させていたが

   (トゥー・フェイスにしたって、前後で境界線を引いているし)、

   本作では誰ものなかに相克を埋め込んでしまう。

   だから、境界線への懐疑やその無力さを噛みしめるというよりも、

   境界線など始めから在り得ないことを体感しながらも自制不能な生を映し出す。

   それも、両面という提示でなしに、一面に。

 

◆エンドロール。

   ラウ・チンワンとルイス・クーとダニエル・ウーの名が横一列に浮かび上がる。

   ただ、それだけでドラマになる。

   そんな映画。

 

◇本作(英題『OVERHEAD』)の好評を受けて(?)、

   第二弾(英題『OVERHEAD 2』)が制作されており、

   そちらも『盗聴犯 狙われたブローカー』として今回の特集で上映されている。

   私は未見で、今回の上映では観られそうにないが、

   キャストや制作陣の多くは続投ながら、物語は全く別のよう。

   だから、本作だけで独立した作品でもある(という但し書き)。

 

◇キャストが全員好演のみならず、スタッフ陣も盤石。

   音楽を担当しているのは、「香港映画の佳作にこの人あり」なコンフォート・チャン。

   『インファナル・アフェア』の「落下」に重なる女声の名旋律のあの人だ。

   撮影は、『香港国際警察/NEW POLICE STORY』『コネクテッド』

   という個人的大傑作を手がけたベニー・チャンの盟友アンソニー・プン。

   どうりでアクションだろうがドラマだろうがカメラが宙を舞う(笑)

   そして何より影響が大きそうなのが、プロデューサーを務めたイー・トンシン。

   最近では『新宿インシデント』の骨太ぶりも記憶に新しい彼。

   その公開時に彼のレトロスペクティヴを開催してくれたのもシネマート六本木だったな。

 

◇ところで、監督・脚本コンビのアラン・マックとフェリックス・チョンの誕生日は、

   なんと同じ1月1日ではないか!(アラン・マックが3歳年上)

   なんてめでたい2人。だから愛でたい2人。

   本作もまさに「金が信念!?」な一作だし!

   ・・・でも、香港は旧正月かな。

 

◇理詰めで見れば破綻だらけの展開だけど、

   そもそもその「綻び」を味わってこその香港映画。

   仕事では非理性的・非論理的社会に嫌気がさすこともしばしばな日本。

   しかし、こうして同じアジアの渾沌や曖昧を直感的に享受できる悦びは格別。

   それでいて因果応報や自業自得っていう一貫性だって通底してたりする訳で、

   体感興奮で時間いっぱい満たされた後の反芻思慕に我が人生も顧みる。

   どんなに粗くても、その粗さの隙間にこそ滲み出る情緒が愛おしい。

 

◇シネマート六本木ではデジタル上映で、おそらくブルーレイでの上映だが、

   あれだけしょっちゅうデジタル上映に懐疑的でブルーレイ上映とか許さん!状態の私も、

   シネマート六本木で観るブルーレイ上映には何故か好意的になってしまう・・・

   (ただの気分屋というか、わがままというのも有力な説)

   DCPに比べればもちろん「のっぺり」した画ながら、何故かさほど気にならない。

   しかも、六本木の大きめ劇場のサイズには何となく色々合っている(答えになってない)。

   そして、何より、これだけの傑作を未公開(未紹介)に終わらせまいという気概と、

   いっつもブレては戻って来なさそうな時もあるのに、それでもアジア映画専門館!

   の看板を固持しようというシネマート六本木への判官贔屓(だって、ガラガラガラだよ)

   も手伝ってか、人間信頼劇場なんかよりも断然断然支持します!

 


ダークナイト ライジング(2012/クリストファー・ノーラン)

2012-08-15 23:07:38 | 映画 タ行

 

(物語全体を踏まえて書きます。)

 

クリストファー・ノーランはインタビューで次のように語っている。

「どう終わるかわからない映画は、つくると約束することすらできないよ。

脚本を書き始めるずっと前から、この話がどう終わるのかは決まっていたんだ。」

そして、「エンディングは、最初に考えた」と。

 

本作のエンディングは、彼が手がけたバットマン三部作を「結ぶ」ためのものでもある。

では、彼は一体そこにどのようなエンディングをもってきて、

そこにはどんな意味があるのか。

 

三部作を通じて語られてきたテーマは単純ではない。

極めて複雑で、多様で、それでいて現代社会の問題を確実にトレースする物語。

矛盾を正面から凝視することに怯まず、大きな問題を大きいまま語ろうとする気概が、

「誰でもヒーローになれる」とか「ヒーローは特別ではない」などという一般論に

帰着するはずがない。私はそう思う。そこからエンディングの解釈を始めたい。

 

そこで鍵を握るのが「仮面」の存在であり、その捉え方だろう。

「仮面」は語源的にもそうであるように、「人格(パーソナリティ)」を象る仕掛けにある。

バットマンの仮面をつけた時、ブルース・ウェインは「ヒーロー」となる。

「ヒーロー」という存在は、仮面によって保証されているとも言える。

本人に超人的な能力が備わり、本人に絶対的な使命感が宿っていれば、

「ヒーロー」になるために仮面などは必要ない。

バットマンにとっての仮面とは、他者にとって必要なイコンであると同時に、

自己にとっても不可欠なエクスキューズ(免罪符?)であるように思える。

それは同時に、バットマンがブルース・ウェインである必要性を否定する。

いや、そればかりか、仮面をつけさえすれば誰でも「ヒーロー」になれる。

『ダークナイト』でバットマンが登場するより先に現れる偽バットマン。

しかし、彼らが「偽」であることを証明するためには、

「真」のバットマンの登場を待たねばならなかった。

そこで、偽バットマンたちが投げかけた「俺らとどこが違うって言うんだよ?」という問いに、

バットマンは「俺はホッケーパッドなんかつけない」としか答えていない。

 

本作の中ではしばしば、真偽が問題となる。

つまり、本当のことを話しているのか、嘘をついているのか。

その二項対立は、頂上決戦の後に裁定が下されるべきだが、

本作はその場面こそを無化してかかる。はぐらかす。むしろ、弱める。

おそらく、その「問い」に答えるのではなく、「問い」を破ろうとする。

ただ、三部作のエンディングとして、前作のような「問うという答え」では収まらない。

そこで、ノーランは「答える」覚悟で臨んだのだろう。それも、より明確でより爽快な。

 

私も最初は、その明快な解答に対して拍子抜けした。

しかし、この物語を反芻するうちに、

その清々しさの背後にある構造の脅威が浮かび上がってきた。

 

脱封建社会として誕生した近代社会は、

自由や平等といった権利を万人が等しく有している

というフィクションに支えられている。

そのフィクションを成立させるために、

私たちは数多の抽象的なシステムのなかに

抽象的な個人として参加してゆく。

封建社会のように、はじめから具体ではないのだ。

だから、後天的な努力や営みによって何にでもなれる(はずである)。

そして、そうしたフィクションによって輝かしい成功譚も恐るべき独裁者も産み出した。

仮面は必ずしも「正当」な継承者に渡されるとは限らない。

あるいは、その仮面が常に「正当」性をもつとは限らない。

仮面は或る種の神秘性を発揮しながらも、そこに効力を付与するのはあくまで市民。

そうした市民とは、恒久的で普遍的な倫理を備えた存在だろうか。

本作から読み取れる結論は、否である。

だからといって、絶対正義で不惑の指導者が出現するわけでもない。

いや、出現も存続も許さない社会こそが、市民革命後の近代社会なのだろう。

 

具体社会の抽象化から始まったフィクションは、

いまや最初から抽象的なもう一つの世界(サイバースペース)を伴い、

「現実感」は更に基軸を分散流動化させつつある。

それは社会構造に変化をもたらし、大衆社会の単純な促進に留まらず、

大衆の多様化と硬直化という奇妙な分裂状況をうみ出している。

それは一方で安定を欠いた状態であるがゆえに、

その脆弱さが孕む危険は常にある。

何らかの契機によって凶暴な群衆になる準備はできている。

 

誰もが「ヒーロー」になれるということは、

「ヒーロー」という存在の絶対性を否定することであり、

「ヒーロー」が実は何処にもいないということかもしれない。

しかし一方で、「ヒーロー」が抽象的な存在である限り、それは永遠に絶対だ。

 

本作において、バットマンを落とすのも揚げるのも、

結局は巡り巡って「民意」の為せる業ではなかったか。

主役不在とも思える本作で、常に物語を支配していた存在、

それが市民なのかもしれない。民主主義とはそういうことだ。

 

 

◆仮面の話としては、ジョン・ブレイク(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)が回想し、

   ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)の表情に自分と同じものを感じたと語る。

   つまり、「仮面をかぶっているようだ」と。

   そう考えると、二人とも「より確かな仮面」を求めた存在なのかもしれない。

 

◆本作で「仮面」をつけるのはバットマンだけではない。

   ベイン(トム・ハーディー)も又、「仮面」をまとっているとは言えないだろうか。

   その機能や必要性は異なるものの、二つの「仮面」には興味深い関係がある。

   つまり、口の部分のみを露わにした「仮面」と、口の部分のみを覆った「仮面」である。

   この対照性は見事な表裏を際立たせ、ノーランが最後に求める救いを感じる。

   それは、「言葉(=ロゴス/それは、もしかしたら理性かもしれない)」なのだろう。

   ひたすら肉体的な強さで迫ってくるベインに対し、

   暴力による凌駕を鮮明にしない決着の理由は、そこにあるかもしれない。

 

◆一作目でウェインの父が投げかけた「人はなぜ落下するのか」との問いに呼応して、

   本作において闇の騎士は上昇に向かってゆく。(本作も「落下」で始まるが)

   その動きは様々な示唆に富んでいる。

   ただ、そこに光(地上)と闇(地下)の関係性を編みこむと、

   物語の大枠に本作のテーマを窺い知ることができる気がする。

   地上(光)は常に地下(闇)に支えられて存在する。

   だから、本作で「革命」を起こそうとするベインたちは地下に爆弾を仕掛け、

   地上を崩壊させる。その関係性は前作の善悪の関係にも通ずるところがあるが、

   前作はその混沌を混沌のまま提示した。(それ故の傑出性はやはり凄まじいものがある)

   しかし、本作においては「決着」をつけねばならない。

   ノーランが勝たせたのはベインではなくバットマンだった。

   では、結局は光が闇に勝利したのだろうか。

   いや、おそらくそうではない。

   なぜなら、地上に這い上がって来たのは光の騎士ではなく、

   闇の騎士だったのだから。

   では、闇と闇の闘いにおいて何故優劣や勝敗を決することができるのか。

   それはおそらく、ベインは光を拒絶(敵視)する闇であり、

   バットマンは光を渇望する闇だったからなのだろう。

   だから、本作(というか三部作)は単純な「光の肯定」という帰結でもなければ、

   決して「闇の否定」に着地してもいないように思うのだ。

 

以上のような(独善的とはいえ)「腑に落ちた」感覚を得られれば、

さぞ興奮の坩堝で観賞を遂げたように思われるかもしれないが、

実際は相当の戸惑いのなかで観賞し、膨大な疲労感に見舞われた。

要は、単純に「面白かった!」「好かった!」と言えないものを終始感じてた。

それは前作の『ダークナイト』に対する個人的な思い入れの強さもあれば、

『プレステージ』や『インセプション』に垣間見えた洒脱ながらも娯楽なエスプリ色が

本作には随分と後退してしまっていたといったような要因もあるように思う。

ただ、いくつかの事実を確認するうちに、『ダークナイト』が醸した傑出性は、

確かにヒース・レジャーの怪演自体がもたらしただけではないように思えてきた。

勿論、彼の存在感が最大の魅力の一つであることに異論はないが、

その演技自体というよりも、「新しい要素」との邂逅から生じるケミストリーこそが

作品に無尽蔵の魅力を与えるに至ったように思う。

ノーランはヒース・レジャーの役作りを信頼し、かなりの自由度で演じさせたらしい。

また、ハービー・デント役のアーロン・エッカートも同様のようだし、

演技に関してはどうか知らぬがマギー・ギレンホールもノーラン組初参加。

しかし、本作ではアン・ハサウェイ以外の主要キャストは皆(ほとんど?)、

ノーラン組の常連もしくは連投の俳優陣だ。

アン・ハサウェイのインタビューを読んでも、

プレッシャーの大きさとそれに対応するための創意工夫が大いに感じられたし、

『インセプション』におけるノーラン組初参加の面々の活き活きとした姿には興奮した。

思うに、完璧主義者であろうクリストファー・ノーランという作家は、

その完璧さに拮抗する力を得てこそ、止揚たる飛躍を作品にもたらすのではないか。

そんなつまらない仮説で今のところ自分を納得させている。

また、基本的には「文化系」と思しき彼が初めて

「体育会系」的要素を包含したバットマンシリーズを手掛けることになり、

第一作では律儀に「体育会系」的要素を自分のものにしようと努力したものの、

結局は「アクションがわかりづらい」だの「説明的すぎる」だのの批判も受け、

それじゃぁ思いっきり「文化系」でヒーローものを撮ってやる!となったのが二作目。

などと勝手に妄想してみると、それで好評を得たものだから、

リヴェンジのごとく再び「体育会系」に挑んだのが本作なのかな、と。

ただ、当然「文化系」アプローチで得た興奮も捨てがたく、

いざ「体育会系」にモロ参入するほどのノリには馴染めず、

結局はやや中途半端な(どちらの系統からも容易くは受け容れられぬ)作風に

落ち着いてしまったようにも思う。

それでも、一作目よりはかなり体育会系しているので、

そのノリに素直にシンクロできる観客は迷わず共に疾走できるだろう。

頭でっかちな文化系は簡単に解せない「走り」なわけだ。

私のなかには文化系的・体育会系的双方の要素がある分厄介で、

それが二度観賞したところで「落とし所」が見当たらない印象につながったように思う。

とはいえ、結局は時間がたって俯瞰できるようになったとき、

そこには「やっぱり読んでみたい」と思わせる構造や行間が散らばっていて、

こうしていざまとめてみると、裏切られた期待こそに応えが隠されているような不思議な感覚。

 


ダーク・シャドウ(2012/ティム・バートン)

2012-05-21 23:42:48 | 映画 タ行

 

なんで評判が悪いのか理解に苦しむ・・・。

やたら評価が低いのに他意を感じる・・・。

 

勿論、絶賛で迎え入れられるほどの傑出した要素は感じられないけれど、

バートン・ファンと言えそうな層の一定は随分満足できそうな久々の快作では?

実際、観賞後の周りの観客(平日ゆえに中高年女性多し)のほとんどが、

満悦表情浮かべてた。ティム自身の「不健全」が、バートン観を変えてしまったか!?

 

同様の観念はジョニー・デップにもあてはまり、

彼の《肖像》もいつしか妙な方向に書き換えられていった気がしてならない。

『パブリック・エネミーズ』なんてジョニー・デップ・トピックスから黙殺/即時埋葬級だったし。

 

観客はいつの間にかティム・バートン&ジョニー・デップに

「チャーリー」やら「アリス」やら(「スパロウ」やら)の幻影を重ねざるを得なくなり、

本末転倒。チャーリーとかアリスで「見限る」宣言してたタイプが、今更「今度こそ終了」発言。

って、別に具体的に誰かや何かに対してぼやいてる訳ではないけれど、

「片足だけはお帰りなさい」っぽい本作に小さくガッツポーズ!

な自分としては、敵のいないところで擁護を始めてしまった訳だ。

中途半端な空気とか詰め込み過ぎの緩々とか、確かにまとまり悪いけど、

そうしたバラ撒き収拾の微妙な悪ノリも、なんだか久しぶりな気がしたりして多幸ダコール!

 

冒頭の「前日譚」ダイジェスト紙芝居の求心力に、バートン・ワールド真髄予感。

収まりの好いビスタに収まり悪く走らせる列車の直線。

いつまで経っても「知ってる」名ばかりが浮かんで消えるキャスティング。

否が応でも期待の気流、急上昇。

 

ところどころの失速も適度な弛緩として、

無駄な説明がないかわりに全てが無駄な気配もムンムン(笑)

テキトーな肌露出で一見無防備ヴァンパイアなくせして、サイドまでレンズ付サングラス。

アンジェリークの先代の肖像画はレンピッカの筆によるものと思しき画風。

いちいち愛おしい無駄な小ネタ(しかし、無駄に洒脱が堂に入る)の嵐。

全てのキャラが「紹介」レベルで終わってしまうのも、本作がエピソード1(or 0)だから?

と思いきや、興行的には苦戦していそうなので黄信号?

でも、キャストもスタッフも思い入れたっぷりに楽しそうにつくっていそうだし、

本領発揮の第2弾を実現させて欲しいと切望・・・こういう楽しい既視感なら大歓迎!

 

ジョニー・デップ演じるバーナバス・コリンズの

徹底的な破綻っぷり(そこに自覚も葛藤もない爽快さ!)が極上キュート。

デフォルメを楽しむ出演者たちは活き活きし、エヴァ・グリーンはネヴァー・クリーン。

ヘレナ・ボナム・カーターやミシェル・ファイファーの必然性なきブツ切り脇役感は珍妙で、

完全に語りの遠近法は崩壊し、クロエ・グレース・モレッツが実は・・・で最高潮!

もう目の前を駆け抜けるパレードをスーパースローで確認するよな享楽!

「おばあちゃんとバーナバス」が収まる画の楽しさなんて幸せすぎる。

 

近年ではキッチュさかダークさのどちらかへの偏重傾向があった気のするバートン作品。

ブラックなユーモアで間口を広げた感があるものの、それはそれで薄味で・・・。

ところが、今回はちゃぁ~んとブラックとユーモアが表裏一体かつ絡み合う。

しっかり可笑しさ醸しつつ、しっかり殺しと血が踊る。

道徳的語りで「殺しがあったからノレなかった」コメントな教育テレビは、

Eテレ未満のリテラシー。バッチリ吸血殺生する「リアリティ」こそがユーモアの裏打ち。

あれやこれやに中途半端なリアリティ盾に辻褄収集家なコメントは、本作には御門違い。

まぁ、確かにそのくせ(最近の大作仕事慣れか)弾けきれないところもあるけどね。

でも、大工さんたちの「世界の頂上」のタイミングは、『ドラゴン・タトゥー~』のエンヤ並。

選曲というか楽曲で言うならもう・・・エンディング!!

知らなかったよ!(まぁ、だからこそ鳥肌実[って最近何やってんだろ]!)

まさかラズベリーズの「Go All The Way」が流れてくるなんて!

し、し、しかもキラーズのカバーでだよっ!!両方大好きだよ!!

 

そういえば、キラーズって『コントロール』でも

ジョイ・ディヴィジョンのカバー(「Shadowplay」)を提供したりしてたな。

ラズベリーズといえば「All By Myself」でお馴染みのエリック・カルメン率いる

1972年(本作の舞台!)にデビューしたバンド(1974年解散/2004年再結成)で、

彼らの曲もちょくちょく映画で耳にした気がするけれど、

エリック・カルメンが久々に出したヒット曲「ハングリー・アイズ」は

あの『ダーティ・ダンシング』への提供曲だったし、

『フットルース』の愛のテーマ(「Almost Paradise」)もエリックのペンによるもの。

エリック・カルメンと映画、かなり縁が深い。

 

私がティム・バートンの映画を劇場で初めて観たのは、『スリーピー・ホロウ』。

あの時に味わったワクワクと、ジョニー・デップしか出せない「挙動の味」にようやく再会。

スパイダーマンでの達成と疲弊を経た後に『スペル』を解き放ったサム・ライミよろしく

ティム・バートンもここらでもっと思いっきり趣味に走り、

吹っ切れて、いや振り切れて欲しい!

 

今回はデジタルで観てしまったし、

早稲田松竹あたりで『スリーピー・ホロウ』と2本立とかやってくんないかな。

忘れた頃に(これがまた時に絶妙なスパイス)フィルムで再会する日を楽しみにしよっと。