◆本作の大沢たかお演じる検事には、
絶対に何か《過去》があるに違いないと思って観ていたのに、
何もない(何も語られない)まま終わって拍子抜け。
普通なら「なんと紋切り型な色分け芝居」と一刀両断するような演出ながら、
つくりが余りにも匠(巧み)オーラを発し続けているが故に、
その迫力にのまれて自己解決(反芻による行間の氾濫)を
試みようとしてしまうではないか。
◆ただ見方を変えれば、
そうしたステレオタイプはもしかしたら反ステレオタイプを目指したが故なのかもしれない
という積極的自己矛盾の産出による所産を期待したものだったのでは
という独善仮説を打ち上げてみたくもなる。
検事(大沢たかお)=《社会》:責める、
被疑者(草刈民代)=《個人》:責められる、
といった対立軸をあえて明確にしながらも、
そこで前半で具に描かれた「個人」への違和感と結びつくように。
そこに生まれるのは、「どちらにも感情移入できない」という救いのなさであり、
それは同時に「救われる解決」などを求めて議論を始めてはならない
という徹頭徹尾アンチテーゼに踏み止まろうとする覚悟にすら思えてくる。
この映画において、
積極的に「拒むべき」対象として描かれている人物は思いのほか少なく
(原作では、江木さんの家族や検事は典型的な非情な設定のようだが)、
しかし同時に気安く「移入」が可能となる人物も不在。
そこに登場するわかりやすい「敵」キャラ、それが大沢の演じた検事なのだろう。
しかし、実は彼のみが理性と感情をフルに働かせて社会的使命に突き動かされている。
そう考えれば「健全な社会」の体現者のようでもある。
一方で、恋愛に溺れたり弱さにやたら肯定的であったり
私的感情に翻弄されることへの陶酔も辞さぬ「ヒロイン」は、
裁かれるべき人間のようにも映じてしまう。
理性を感情が軽く凌駕してしまうような恋愛体質のヒロイン。
それは確かに受けいれ難く認めがたい
(しかも、東大卒で仕事もできるエリートゆえに余計)厄介な代物だ。
従って、彼女が糾弾されることに何ら抵抗もなく進むであろう
と高をくくった面談で、
予期せぬ必要悪としての社会正義が傍聴人(観客)に強烈な違和感をお見舞いする。
行き場をなくした感情の移入先。
同情のシステムにも駆動され、ヒロインの人生や行動への理解を再試行。
そのとき突如浮かび上がってくるのは、
冗長で退屈でしかなかった前半が蓄積した時間の重さ。
面談で語られる十五年に及ぶ江木と綾乃のスピリチュアルな関係。
確かに、二人に恋愛的な感情が混入していたであろうことは紛れもないが
(そもそも恋愛とそうでない感情の線引きほど無意味なものもないと思う)、
そのような要素を遙かに凌ぐ信頼が積み重なってきたであろう時間がそこには流れてた。
そのためには、前半の退屈さは必要だったのかもしれない。
語りの効率とは無縁の、存在に伴う茫洋たる時間の淡々。
そうした駆け足ながらも遅遅として重さを迫る「患者の時間」を
本作ではまず体験させたかったのだろう。
失意のエリート女医と死の恐怖に囚われた喘息患者の時間を
延々と「感じさせる」ことで。
◆そう考えると、
「何もこんな映画であんな濡れ場をわざわざ演じなくても」というトホホ感は、
「何もそんな人生であんな恋愛にわざわざ拘らなくても」
というヒロインのトホホ感と行き場のなさ(それはやがて彼女なりの《尊厳》へと向けられる)
を醸し出すには十分すぎる役割を果たしていたようにも思え出し、
自らの妻をそうした構造に放り込む周防正行というのは、
実はかなり鬼畜なプロ意識の高い映画監督なんだろうと再確認。
◆検事との面談が始まるまでは、
とにかく「途方もない駄作をつくってくれたもんだ」くらいに思っており、
唖然に苦しみつつも堪能してやろうと試み続けては何度も寝落ちしそうになっていた。
ところが、あの面談シーンで一気に覚醒すると共に、
それまで当然だったはずの駄作レッテルがいとも簡単に剥がれゆき、
逆の唖然が今度は奇妙な困惑を催させ、戸惑いのまま気づけばエンドロール。
(いやぁ、種ともこの声にも嬉しい驚き。)
だから、「過去」の場面でもとりわけ違和感を覚えた江木さんの臨終時の
女医の取り乱し具合(家族の前で!)にしても、解釈が見事に反転し始めてしまったり。
例えば、あのシーン含め、主人公が感情移入しやすい「良識派」であったとしたら、
そこで物語は見事に或る方向性へと導かれてゆくだろう。
ところが、彼女の歪さはそれを許さず、
だから物語を見守る者が期待する「解決の糸口」は見当たらない。
『それでもボクはやってない』に見られた明快な問題意識や明確な問題提起も
本作にはない。いや、これは意識的に回避されているようにしか思えない。
それが進化か、単なる拘泥による深化に過ぎぬのかはわからぬが、
前作における周防監督なりの「反省」として異なる作劇を試みたようにも思える。
(好意的に解釈すれば、の話ではあるが。)
そして、確かに本作におけるテーマは、
前作のような「制度」への懐疑に焦点を絞った場合とは異なり、
制度などの局所的構造に止まらぬ思索が必要な問題だ。
そう考えるならば、あえて「社会派」のつくりから逸脱し、
討論的議論の浸透を期待するよりも、
静かなる内省的思惟のための一滴として落ちれば好いと思っての試みだったようにも
思えてくる。
以上のような感想を書いた後、
キネマ旬報10月上旬号に掲載されている周防監督のインタビューを読むと、
私見との一致を見るような監督の思惑が散見できた。
「『それでもボクはやってない』は、刑事裁判というシステムについての映画、
人をどう裁くのかというシステムが主役の映画でした。
今回の『終の信託』は、システムに組み込まれた人間がどんなふうになるのか、
その人間そのものを描いてみようと。
(中略)
システムを解説すると図式のようになるけれど、
そこからはみ出る部分は当然ある。そこに人間が見えるはずだと。」
「人が人を裁くことに、人はもっと恐れを抱くべきなんじゃないか、
そういうことも問いかけてみたかったのです。」
「私たちの社会は法律を必要としている。
それはあくまでも、私たちが生きていくための手助けとして必要なものなのですが、
最後はすべてを法律が解決してくれると思っていないか。
判決はあくまでも法律上の解決、単に裁判における決着にすぎず、
本質的な意味での問題の解決ではない、ということを忘れてはいけないはずです。
裁判が終わってもある意味、事件は終わっていない。
それから先の解決だってあるはずだし、
あるいは最初から裁判に頼らない解決だってあるかもしれない。
事件が起きれば刑事裁判ですべてを解決する。そんなことできるわけがない。
僕が描きたかったのは、そういった人間の世界のありようです。
言ってみれば、恋愛も、医療も、司法も描きたかった。
それが人の世の中だから。」
◇ちなみに、周防正行は現在、法制審議会の委員もやっているらしい。
周防監督は今や、
《近代》が抱えている問題(とりわけ社会的側面で)を糾弾するに留まらず、
日本的《近代》が抱え込んだ矛盾と真摯に向き合い、欧米に範をとろうとせず、
自分自身に巣喰った問題の特殊性を凝視することを厭わない。
それを露わにしつつ、葛藤を辞さない。
彼への「信託」は当分続けてよさそうだ。