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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

シンプル・シモン(2010/アンドレアス・エーマン)

2011-10-09 23:58:40 | 2011 映画祭(その他)

 

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2011にて観賞。

 

オープニングのヌリ・ビルゲ・ジェイラン新作目当てで

今年初めて参加することにしたIDCF。折角なので前売でコンペ3回券も購入した。

今日は『カラーズ・オブ・マウンテン』と『シンプル・シモン』を観賞したのだが、

前者もそこそこ良作ながら、後者は驚くほどのポピュラリティを備えつつ、

幾度の咀嚼にも耐え得りそうな「行間」に充ち満ちたストーリーテリング。

これは一般公開したらそこそこ成功するんじゃないか?

(宣伝の仕方次第なところもありそうだけど)

 

  シモンは宇宙と科学と兄・サムが大好き。

  そんな中、サムが恋人にフラれ、シモンのシンプルな生活は奪われてしまう。

  そこでシモンはサムに新しい恋人を見つけて自分の生活を取り戻そうと計画する。

  アスペルガー症候群のシモンを巡る、北欧らしいポップでキュートな心温まるストーリー。

  (公式サイトより)

 

オープニングからファニーさは全開で、主人公シモンがこよなく愛する(毎週観賞)

『2001年 宇宙の旅』の世界を模すかのような「ツァラトゥストラはかく語りき」を思わせる

ティンパニのようなドラミング(下手くそ)に興じるシモンから宇宙の映像へと移ってゆく。

色彩・音楽・編集・展開、どれもこれもがポップでキュート。なだけど、思いきや・・・

 

Q&Aでの監督の話では、そういった向きの内容は全く語られなかったので、

以下は私の勝手な解釈(をもとにした独りフィーバー)なのだが、

このシモンなる主人公は、アスペルガー症候群であるという設定を借りながら、

「正確」やら「精密」やらを常に求めては、「型」に嵌められ嵌ろうとする近代人の実相を

相対化するかのような含意がありはしないだろうか・・・そんなことを終始考え観賞していた。

 

シモンの思考は一見「単純」のようであり、事実そうでもあるのだが、

それは実は究極の論理や純粋を求める傾向でもあり、

時間に正確であったり、規律遵守な生活様式など、

まさに究極の近代人的「形式」と呼べるもの。

 

シンプルな在り方とは、現代においても最上の「クール」としてみなされることが多い。

モダンなデザインはシンプルを旨としたり、音楽もミニマルに突き進んでみたりする。

しかし、それはコンプレックス(複雑)を隠蔽、消失させるシンプル(単純)という脅威。

論理や規律が奪い去ろうとしてきた、人間の尊厳たる情動。

 

従って、規律の遵守に精密で、論理のみで説明しようとするシモンこそ、

実は近代社会が「標準」としてきたタイプの人間なのかもしれない矛盾。

しかし、そこには不完全こそが完全であるといったパラドクスを抱える世界の現実。

そして、究極の論理度外視な完璧現象としての「恋」。それを少しずつ学ぶことで

成長を覚えるかのようなシモンを軸に、この物語は展開してゆく。

 

本作では序盤を中心に、シモンの思考の様式が画面に「描き」込まれたりする。

それは時計の絵であったり、表情の「雛形」たる絵であったりする。

特に後者は、コンピュータで「スキャン」する際の認識を思わせもする。

つまり、近似値から絶対的なる基準への収斂による知覚。

こうしたコード化による解釈は「普通」の人間も行ってはいる。

それは時に哀しいほど単純でありながら、実は無意識に極めて複雑だったりする。

おまけに、主体たる人間が複数交錯する関係となれば、その主体自体が

半端に一貫性を保ちながらも常に流動的であるが故、尚更複雑怪奇極まりない。

そうした現実を顕在化させる装置として、「シンプル」シモンは機能する。

 

〇「13」という数字 : 「不吉」と感じてしまう非科学的な思考と、そう考えないシモン。

 

〇時間や回数を数値としてより印象としてとらえる常人と、正確な数値でとらえるシモン。

 

〇どんな病気や菌をもっているかわからぬ他人のイヤホンを平気で装着できる常人と、

   執拗に除菌を試みようとするシモン。

 

〇効率・耐久性・音質に「優れた」CDよりもレコードを愛する常人と、

   「いまどきレコード?」といった疑問を抱くシモン。

 

さて、「わたしたち」は一体どちらだろうか。必ず前者?そうとも限らない。

そして、私たちは前者だったり後者だったりを繰り返し、蛇行しながら歩んでく。

矛盾の巣窟「恋」ほど論理の通用しない場はないのだろう。

兄の恋人探しに勤しむシモンが試みたのは、

それを「証明」してゆくプロセスだった。

そこにはけっして「Q.E.D.」など訪れないが。

 

そんな過程でシモンを諭すかのような周囲の「人間的」な言動が興味深い。

バスの運転手(元シェフ?)は、「ソースと愛は同じ。時間がかかるもの」と独り言つ。

「だし」やら「こく」やらに味わい見出し、見立てで世界を読もうとする。

ジェニファーは奇抜な運命論者。「失敗しても運命のせいにできるしね」

「運命」が人を規定するのではなく、人が「運命」を利用するという発想。

そんな彼女が「マンホールを踏むと不吉だ」と言い、避けて道を歩いていると、

シモンは「丸いものは好きだから避けたくない」と切り返す。

しかし、シモンは茶色が嫌い。「このマンホールは茶色だけど?」と問い質すジェニファー。

人間はそもそも矛盾をかかえ、シンプルなどとは程遠い。

そんな気づきの一歩になった!?

 

秀逸な言葉や場面は随所に散りばめられているが、

特に私に響いた場面が二つある。

 

ジェニファーがシモンにイヤホンを渡し、一緒に音楽を聴く場面()。

「世界と音楽がひとつになって、新しい見え方がする」とアドバイス。

そうした感覚を解せぬシモンだが・・・眼前の風景に音楽が重なると・・・

確かに、現実の世界で響いていない音楽を、世界にのせるという行為には、

外部の世界を自己に取り込み解釈している人間の認識と似た構造が重なりもする。

同じ現実を目の当たりにしようとも、それをとらえる個人によって、

喜劇にも悲劇にも捉え得る。つまり、映像に音楽をのせるとは、

極めて「人間ならでは」の認識のカタチなのかもしれない。

 

ジェニファーがシモンに、感情の機微をレクチャーする場面も美しい。

「悲しい」や「嬉しい」はシンプルにカテゴライズもされなけりゃ、

いつも行ったり来たりを繰り返す。

そのときシモンは思い出す。

「兄さんが最優秀選手賞をもらったとき、

  母さんは〈嬉しい〉のに〈悲しい〉の顔をしてたっけ・・・」

人間の最も美しい感情は、まさにコンプリケイテッド。

ピュアでなくって、ハイブリッド。その結晶たる、嬉し泣き。

 

兄のサムがシモンに、惹かれ合う相手が自己とは「合同」などでは決してなく、

むしろ「正反対」だと説明するときに、磁石を用いて説明するが、

これはこれで興味深い。つまり、人間の複雑さを説明するのに、

ある意味「科学的」な法則を用いて説いている。

唯心的なはずなのに、唯物論的話法で語る。

いや、そもそも科学的なるものにこそ、結論づけられて終っているだけで、

それ自体はきわめて「おかしい」ことだらけなのかもしれない。

 

終盤、兄の恋愛成就のためにヒュー・グラントの恋愛映画を観まくり研究するシモン。

これだって、俗に言われるところの文芸を通して「学習」した近代人の恋愛観をなぞるよう。

しかし、そこにまた抵抗するかの反転展開。監督は、「在り来たりなハッピーエンド」とは、

実は「有り得ないハッピーエンド」であるがゆえ、意識的に避けたのだと語っていた。

私たちが「ありきたり」を望んでも、滅多に手に入らぬ「からくり」か・・・

 

軌道を維持することに執心していたシモンの感覚。

軌道に乗ること至上命令な、社会の要請、個人の満足。

しかし、人は得てして「真実を口にしない」ものである。

人生を豊かにさせるのは、軌道などでは全然なく、

喜怒哀楽の弁証法?いやいや、容易く止揚はありえない。

なぜなら、喜怒は同一円を巡りゆく。

 

 

"スウェーデン"映画で、ポップでカラフルな音楽が流れていたものだから、

   「マイア・ヒラサワとか流れたりして!?」とか冗談半分に思っていたら・・・

   流れ出してきたり、レモンジェリーとか微懐ミュージックまで。

   親近感をわかせた、ひとつのアシスト。

 

◇シモンを演じるのはビル・スカルスガルド。

   そう、姓で一目瞭然!ステラン・スカルスガルドの息子であり、

   アレクサンダー・スカルスガルドの弟です。

 

◇原題の『I rymden finns inga känslor』って、どんな意味なのかな。

   「シンプル・シモン」とほぼ同意なのだろうか。

   ちなみに、「Simple Simon」とは「だまされやすい人」のことを表したりするらしい。

   マザーグースの歌「Simple Simon met a pieman」(日本では「アルプス一万尺」として

   知られている曲)に由来するみたい。一方で、Simon(シモン)はキリスト教関連では

   さまざまな人物が存在していたりして、タイトルに込められた意味も気になる。

   (ま、英題なんだけどね)

 

◇上映後のQ&Aには、監督とプロデューサー(男女二人)が登壇されたが、

   非常に慎み深い印象の皆さんでした。「最後に観客へのメッセージを」と

   進行役の女性が振ると、やけに「困ったなぁ・・・」みたいな表情する御三方に

   妙に親近感をおぼえてしまいました。

   私も、Q&Aとかで色々訊きたいことあったとしても、

   手を挙げることのできない人間ですから(笑)

   ちなみに、監督は冒頭の挨拶で、敬愛する映画作家として宮崎駿と北野武の名を挙げ、

   日本へ来られたことを嬉しく思うと語ってくれてもいましたし、

   プロデューサーの男性(本作では共同脚本としても参加)は、

   「以前関わった作品でIDCFに参加したことがあったので、

    今作をデジタルで撮ると決めた段階から又IDCFに出品したいと思っていた」

   などと語ってくれたり、なかなか礼儀正しい(笑)方々で、今回何らかの受賞を経た後は、

   それこそ「凱旋上映」的な機会が将来待っていたりしそうな予感。

 

◇そのまえに、本作の日本公開を望みもするが、監督によると台湾で劇場公開されたらしい。

   が、IMDbにはその情報はなく、監督自身も「僕は知らなかったんだけど・・・」って!?

   ちなみに、ドイツではもうすぐ(11月)に劇場公開されるみたい。

   うーん、納得。スウェーデン語って、ドイツ語と(源流も同じだろうが)響き似まくりだって

   観ながら改めて思ったりしてたし(そんなこと、どーでも好いだろ・・・)

   ちなみに、本作は今年のスェーデン版アカデミー賞(Guldbagge Awards)で、

   作品賞・主演男優賞・助演女優賞・脚本賞にノミネートされていた。

   ちなみに、作品賞を受賞したのは、当サイトでも取り上げた『Sebbe』だったりします。

   こちらも個人的にはかなり好きだし、なかなかの佳作だと思うのですが、

   日本で紹介される気配はまるで無し・・・

   ちなみに作品賞ノミネートのもう一作は、ペルニラ・アウグスト監督作の『Svinalängorna』。

   こちらは8部門ノミネートで2部門(監督・助演女優)受賞。他にも映画祭などで

   ちょくちょく受賞を重ねた作品のようです。

   (主演は「ドラゴン・タトゥーの女」ことノオミ・ラパスです。

     監督のペルニラ・アウグストは女優出身で、

     SWのエピソード1でアナキンのお母さん役やってました。)

   もうひとつちなみに、『シンプル・シモン』はアカデミー賞外国語映画賞の

   スウェーデン代表に選ばれて、最終ノミネートの一歩手前まで(9作品)は残っていた模様。

   (今年のスウェーデン代表は、前述のペルニラ・アウグスト作品みたい。)

   ちなみに、そこには先日のラテンビート映画祭で観賞した力作『雨さえも~』も入ってた。

   この部門は最終ノミニーに直前で漏れたものにも良作多く、受賞逃したノミニー作品にも

   傑作が多い印象なので(祝『Incendies』日本公開決定!邦題は『灼熱の魂』・・・)

   映画ファンにとっては注目すべき重要リストかもしれません。

   あ、ちなみに昨日観た『昔々、アナトリアで』は今年のトルコ代表に決定したらしい。

   が、どう考えてもアカデミー賞でのノミネートは無理だろな。

 

[追記]「トーキョー ノーザンライツ フィルムフェスティバル 2012 (2/11-17)」での上映が

           決まっている模様。土曜の昼間や金曜のレイトなど、社会人が観やすい回もあり。

 

 


昔々、アナトリアで(2011/ヌリ・ビルゲ・ジェイラン)

2011-10-08 23:56:42 | 2011 映画祭(その他)

 

今年のカンヌでグランプリを受賞した本作。(ダルデンヌ兄弟と共に)

テレンス・マリックすらいなければ、パルムドールを獲得していておかしくなかったように思う。

いや、実際は、或る種の「事情」すらなければ、すんなりパルムでおかしくなかったろう。

それほどまでに、深遠で濃密な映像の叙事詩として圧倒的な力を放ち続ける157分。

 

それゆえ、私ごときが1回観た程度で語れるような代物ではない。

いま、世界で最も鮮やかなる個性を産出し続けるのは、

ルーマニア映画であり、そしてトルコ映画。

今年日本でも公開されたセミオ・カプランオールの『蜂蜜』はじめユスフ三部作など

その豊潤さが、ひと夏越えてもいまだに全身を駆け巡り続けていたりする。

ヌリ・ビルゲ・ジェイランは残念ながら未だ劇場観賞を一度も体験しておらず、

今回は初めてであるが、輸入DVDで旧作を何本か観ておいたこともあり、

途轍もない期待(今年最もドキドキしながら観賞日を心待ちにしてたかも)で臨んだ、

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭の初日。(本作がオープニング作品)

 

前半(というより大半?)が夜のシーンであり、

展開も至ってストイックだったり、会話などのやりとりも「リズム」と無縁かのような演出。

いやむしろ、あえて一定のベクトルや一律のテンポを排することで、

世界の混沌を活写し得ている気もする。

そして、そんな(特に観客側に蠢き続ける)混迷から

得体の知れぬ普遍性が立ち上る瞬間に逢着したところで

「途切れる」かのように幕がおろされる物語。

 

あたかも、もう一度はじめから、「昔々、アナトリアで・・・」と語り直されるかのようなラスト。

窓の外を眺めながら、新たな感覚が沸き起こった医師はおそらく、

前夜から今まで起こってきた一連の「出来事」をもう一度語り直すための思惟へと向かう。

観ている私たちも、「いま目の当たりにしてきた物語」が何であったのかの反芻を始める。

そうして、たった半日の出来事であり、世界の片隅で(しかも辺境の)展開された「退屈」に、

世界の時間と空間が圧縮されては解凍される。途方もない人間の現実と対峙する。

哀しみ、憎しみ、怒りと、笑い。微笑み。しかし、それらは分かたれることも、分かち合うことも、

十分厳密には不可能で。渾然一体であるからこそ、世界は嶮しくも和み続けるのだろう。

 

◆本作において、何度も象徴的に映し出される「窓(ガラス)」。

   窓ではじまり、窓で終わる映画でもある。

   しかし、それは外から内へと始まって、内から外へと還ってゆく。

   冒頭における「汚れたガラス」を突き抜けて内部へと透過してゆく視線の厳しさ。

   遠方に小さくしか見えぬ母と息子の「表情」すらも浮かび上がらす眼差しの豊かさ。

   時折挿入されるケナンの厳粛たる悲しみをたたえた表情は、

   視るべきものを失いながらも視ることの衝動が抑えきれない眼光を放ち続けていた。

   「息子」から石礫を投げられた眼。裁判所まで涙が途切れなかったというケナン。

   睨み続けるためだけに見開き続けた両の眼に、恵みの雨をもたらす投石。

   それは赦しなどとは程遠く、自責の始まりかのようであり、一つの浄化であるかもしれない。

   そうした「解放」と「自由」はきっと、母と息子にも訪れて、痛快なキックを繰り出させもした。

   見守る医師にも訪れる、〈夜〉の終わり。

 

◆夜のシーンが大半ではあるが、「闇」を描こうとしているというよりも、

   「光」を描くためのキャンバスとして「闇」がそこに在るように感じられて仕方がない。

   従って、ずっと暗がりにいるにも関わらず、それは夜や闇とは別種の暗い時間。

   そこに様々な表情を見せながら灯ってゆく光たち。広がったり、つながったり、瞬いたり。

   ヘッドライトの二つの筋や、一瞬にして全世界を灯すかのような雷光、

   少女がかかえる儚き灯火。

   光とは、存在の証明であると同時に、存在を承認するためのものであるかのごとき、光景。

 

◆闇が映画の底流を形成するとはいっても、実はその表情ですら多様なもので、

   「捜索」の始まりは薄明のなか。夕焼けなのか、朝焼けなのか。

   判然とせずに眺めていると、黄昏すすんで闇が来る。

   しかし、「捜索」の終わりには再び闇が去る。

   闇の影が消えると共に、光もまたその存在感を失うという宿命。

   視ようとしなければ見えない光の存在。

   暗がりを払った朝の時間は、迷妄を破りもするのだろうか。

 

◆途中、向こうに列車が走るシーンで想起した『マザー、サン』(ソクーロフ)。

   あちらが「よじれ」と幽閉の物語だとしたら、こちらは「ひずみ」と解放の物語。

   そんな気が何となくした。それら二つの作品は、別種の映像美が凝縮されつつも、

   とことん眠気を誘発しつつ、しかしそれと同等の緊張感も強いる不思議な魅力。

 

◆生きている人間は、「生」の実感が乏しい以上に、「死」の存在にも実は鈍感かもしれない。

   それは、そうした局面からの逃避を無意識に是としているからかもしれないが、

   死体を前に繰り広げられる冗談やそれに呼応する笑いの「自然」がおかしい。

   残酷とはいつも、必然と共にある。トランクに入らぬ死体に対応する必要。

   そのときもはや、死体はモノで、解剖されたそれもまた、モノと化す。

   しかし、そこから飛び散り、頬についた赤い血は、他人を介して

   この世に生き続ける「まなざし」と化す。

   血が通い合い、世界はぐるり。

 

◆検事の過去と、医師の過去。

   実際に何があったのかは定かに示されず。

   しかし、何かがあって、それが在り続けてきたことは、

   会話や写真が物語る。「昔々、・・・」と始めれば、自己と自己の対話が始まる。

   「過去」をもつということは、自己(現在)から記憶(過去)を照射する。

   照らす光は時と共に変遷し、照らし方すら一回性。

   だからいつでも語りは止まない。

 

◆上映時間が長く、長回しが多用されたり淡々と進むタイプの映画を観るときに感じる、

   不思議な時間の感覚。

   つまり、外部の時間(客観的に刻み進み続ける時間の感覚)とは別次元の時間の流れ。

   「短い」とか「長い」とかの指標とは無縁の、ひたすら自己が噛みしめ続ける時間。

   と同時に、本作におけるラストの暗転と共に私を見舞った感覚は、

   作品の冒頭からラストまでが「一連」としての「物語」へ、いちどきに収斂され、

   2時間半という長さとして迫ってくるのではなく、時間を超越した一塊の経験として

   私の内なる水面に波紋を広げて「はじまり」を喚起する「おわり」であった。

   木から落ち、斜面を転がり、水のなかへとその身を浸した林檎のように。

   そうして、そこにはいくつもの林檎があった。

 

 


唇を閉ざせ Tell No One (2006/ギョーム・カネ)

2011-08-20 02:31:48 | 2011 映画祭(その他)

 

こちらも、三大映画祭週間上映作品の一本。 

原題は『Ne le dis à personne』。

2007年のセザール賞で、監督・男優・編集・音楽の4部門を受賞した、

2006年を代表するフランス映画の1本。

ちなみに、その年の作品賞は『レディ・チャタレー』で、

他にも女優・脚色・撮影・衣装デザインで計5部門を受賞している。

『レディ・チャタレー』と本作が、(少なくとも国内的には)フランス映画を代表する

2006年の2本だったということだ。

ちなみに、フランス版アカデミー賞ことセザール賞だが、日本アカデミー賞とは大違い。

興行成績上位の作品が軒並スルーされることも珍しくないらしい。

さすが芸術の都たる自負を固持するフランスだけあって、

「質」で選ぼうといった姿勢を崩すまいと頑張っているようだ。

大ヒット作連発のダニー・ブーンがほとんど無視され抗議するも、

「あ、そう」的対応で終了!だったみたいだし。

おまけに、2007年の授賞式では、『レディ・チャタレー』の監督であるパスカル・フェランが

かなりの辛辣スピーチでフランス映画界に問題提起をした年でもあり、それを端緒として、

映画業界全体でも制作者たちが「13人のクラブ」を結成し改革案を作成し始めたとか。

(ちなみに賛同者は300人を超えるらしい。)先日紹介した映画本に詳細がわかりやすく

まとめられています。(さすが市民革命発祥の地だけある、個人のたくましさ。)

 

さて、本作は俳優業でも知られるギョーム・カネの監督2作目。

ちなみに、最新作は昨年封切となり、観客動員500万人という『Les petits mouchoirs』。

しかも、2時間半超のコメディだという・・・。フランス人は凄まじく(特に最近)コメディ好きで、

フランス映画の観客動員の大半を、テレビで人気のコメディアン主演による大作映画が

占めてしまったりする状況(だった)らしい。公開が近づくと番宣出まくり、超拡大公開・・・

って、日本と全く同じでしょ?グローバル化というのは、そんなとこまで同調するのか。

と、映画本読んだからって、ついついフランス映画界情報ネタを仕込ませたくなる・・・

 

話をギョームに戻しましょう。そんなわけで、監督業としても名実共に成功し、

ダイアン・クルーガーの後はマリオン・コティヤールがパートナー。

マリオンとのあいだには、今年第一子誕生。しかし、結婚はまだ(のよう)。

とまぁ、ほとんどエネミー・オブ・ボーイズなギョーム様ですが、

ダイアンやマリオンが「あげまん」なのか、その逆か。

いずれにしても、幸福のオーラが幾重にも漂いまくっておるわけで、

拝めば御利益ありそうだ。最新作も気になるし、観てみよっかなぁ

・・・って、出てないじゃんっ!?ついに、監督業に専念モード!?

と思ったら、クリストフ・バラティエ(『コーラス』『幸せはシャンソニア劇場から』)の新作で

主演(?)するみたい。ますます、順風満帆じゃん。

 

本作『唇を閉ざせ』の余りにも巧みな職人技に感心しつつ、

「おぉ、これはヨーロッパのベン・アフレックだなぁ」と思っていたら!

なんと、ベン・アフレックが監督を務める本作のハリウッドリメイク話が進行中とか!?

そういう類には不安と違和感がつきまとうのが常ながら、ベンならきっと

ギョームとは違った「巧さ」で料理してくれそう。楽しみだ。

 

本作は、アメリカのベストセラー作家ハーラン・ベーコンの小説が原作となっている。

(映画の邦題は、原作本の邦題に由来するようだ。)

上下巻の小説のようなので、度重なる紆余曲折や、多くの登場人物を2時間程度で

まとめあげるのは容易いものではなかったろうが、なかなか手堅く「収まって」いる印象。

原作は読んでいないので、脚色が「どの程度」巧いのかはわからぬが、端折り具合が

心地よさそうだなぁという気がする。緩急つけて、説明過剰を避けてる感じ。

だから、たまに観客が置いてかれそうになることもあり、

そういう時には休憩所が設けられ、そこで丁寧な解説が待ち受ける。

で、「そういうことかぁ」って思ってるうちに、「あれ?」とか思い始めると、

「説明しよう!」とストーリーテラーが登場するってサイクル繰り返す。

なので、安心っちゃぁ安心だけど、まどろっこしくもあったりする。

ただ、それらの「つなぎ」はしっかりスペクタクルしてくれてるので、

まさしく喜怒哀楽のデパート状態。一喜一憂、一進ゼロ退。

心地よい「つめこみ」感が味わえる、土曜ワイド2回分。

サスペンスやスリラー要素は勿論、アクション、ドラマ、そしてロマンスまで。

まさしくビュッフェ形式の立食パーティー!(座る余裕もスペースもない!!)

131分、一生懸命!

 

◆131分が飽きない理由はいろいろあれど、とにかく場所(舞台)が変わる。

   飛行機に乗ったりするような大移動は皆無でありながら、場所「柄」がとにかく変わる。

   郊外ののどかな自然のなかの優雅な夕食会から始まれば〔群集〕、

   二人っきりで裸の湖〔カップル〕。事件が起きて8年後、仕事に打ち込む診察室〔一人〕。

   回想シーンに入ってゆくと、婚礼葬儀のミキシング。テンポが好すぎる交錯に、

   胸しめつけられる、参列者たち、観客一同。

   アレックス親衛隊に入ったら、準備完了、チェイサー始動!

   「俺達はわかってるからな」って声かけながら、傍ら走る私たち。

   そうしていつしかアレックス、見事なまでの「アウト」サイダー!

   ハイウェイ横切り、飛び込んだ、おんなじ街の異なる世界。

   世界を異とした仲間との、クロスオーヴァー友情劇。

   ラヴ・イズ・オーヴァーさせません!

 

   主人公が劇中で自宅にいたことってあったっけ?って思うほど、安らがない。

   勤務先の病院ですら、ほとんどいなかった気がするくらい。

 

◆音楽は、やたらと英語ものが使用されてはいるが、エンドロールはしっかりフランス語。

   冒頭のオーティス・レディング、中盤のU2、ベタの極致の爽快さ。

   クラシックかけまくるテレンス・マリックと同じだよ(怒られそう・・・)

   オーティス・レディングとフランス映画といえば、『フェリックスとローラ』で流れる

   「I'VE BEEN LOVING YOU TOO LONG」が印象的だった。しかも、この曲は

   『パリの確率』で流れてた。てっきり、その順序だと思っていたら、後者の方が先だった。

   ってことはルコントのおっさんが、クラピッシュを模倣した?

   いやね、ルコント作品好きなのあるよ。でも、例の本読んだらさ、

   今や彼は本広克行状態みたい。いや、でも、ルコントは大ヒットも出してるみたいだから

   (キャスティングとか宣伝の効果らしいけど)まだマシかも(笑)

 

   そんなわけで、冒頭流れる唄からゴキゲン。

   それで、予告で流れてたU2がクライマックスでかかるんでしょ?

   とか思ってたら、見事に真ん中(折り返し地点!)でかかんだよ。

   しかも、画的には地味なシーンだが、内心「イェス!」なそのときに。

   おまけに曲名、「With Or Without You」よ。2つの「With」に挟まれて、

   無限に感じる「Without」。その真ん中で流れ出す。

   「選」曲だけじゃ、終らせない。「閃」曲的なタイミング。

   100万円でライフライン使い切り、1000万円獲る覚悟!@クイズ・ミリオネア

   あとは自力で魅せるばいっ!

 

◆この手のタイプの映画って、アバウトながらもディテール凝る!

   その匙加減が最重要。

   飼い犬の存在感とか、ハンパない。

   実は、あの犬が妻なのではないだろか?なんて思ったりもしたし。(ジャンルが変わります)

   おまけに、その存在感で主人を救うしね。(「ペットおことわり」も役にたつ!?)

   存在感といえば、ネットカフェで隣に座ったあの男性。

   そしたらちゃっかり再登場(実際には出てこないけど)。

   いやぁ、やること細かいよ!でも、結構わかりやすいから、偉い!

   気づいた自分、褒めてやりたくなるから、嬉しい!おいしい!

   任意同行してった時に、事情聴取してるとき、後ろでスタンプ押してるうるさい部下とか

   どうでもいいから、マジ最高。だって、ああいう無駄こそリアリティ。

   一寸の無駄にも五分の魂。

   (でも、あのスタンプって日付押すやつだった気もするから、

    もしそうだとしたら、あれで「いつ」かを知らせる役目だったのか?

    だとしたら、尚更クール。)

   ブルーノの腕には「ゴッドファーザー」のタトゥー。

   こいつは、信用できる!究極の、ダサかっこいい!

   他にも、いろいろありそうだ。(女カメラマンが妙な写真撮ったりもしてたなぁ)

 

◆キャストが豪華で吃驚だ。

   でも、それは「疑惑の分散」に効果的。

   ジャン・ロシュフォールが感じが違って(髪型のせい?)新鮮だった。

   ってか、ジャンはリアルに馬のブリーダー。ギョームも両親、ブリーダー。

   やっぱり必然の積み重ねって、画面に現れるもんなのかもね。

   フランソワ・クリューゼは犬のトップブリーダーだったりして(笑)

 

◆女性の脇キャラが際立ってたな。あの「一団」の女とか。最初から最期まで、怪オーラ。

   女刑事に関しては、終始心配しちまった・・・

   (だって、『この愛のために撃て』観た後だったからさ)

   彼女も変に存在感あったよな。

 

◆いろんな動物登場映画だが、ラストを飾る「あれ」なんて、

   『スタンド・バイ・ミー』の「あれ」想起。そしたらラストも、ジュヴナイル。

   移動は場所にとどまらず、時間もトリップし続ける。

 

◆奇を衒わずに、映すものの選別とカメラの移動を丁寧かつ慎重にすすめる撮影は、

   Christophe Offenstein。ギョーム・カネの監督作ではいずれもタッグを組んでるようだ。

   嫌味のない移動撮影で、最後はシネスコ画面の中央に収めるものを収めてキメる、

   オーソドックスながら映画的演出の立役者。

   ナディーン・ラヴァキ(『キャラメル』監督・主演の超美人才女!)の新作に参加してるよう。

   そちらも、作品ともども楽しみだ。

 

ギョーム・カネのインタビュー記事を読むと、それなりに苦労もあったようだ。

   特に、主役をヴァンサン・カッセルにしなくて筆頭出資者に降りられたり・・・テレビ局!?

   いまのフランス映画はテレビ局から大量の資金提供を受けているらしいので(これまた

   日本の映画界と重なるところがある)、テレビ放映時にも注目されるキャスティングが

   常に念頭にあるんだとか。そりゃ、フランソワよりヴァンサンの方がスマートだけど、

   だって「ジャック・メスリーヌ」だよ(笑)(まだ、当時は演ってなかったけどさ)

   そこで妥協せずフランソワを起用したってぇのが成功の基だよな。

   ギョーム・カネにとっての仕事はきっと「業務・金」じゃなかったわけだ!

   ちなみに、ハリウッド版ではダスティン・ホフマンが演じるらしい(ウソ)

 

 


夏の終止符(2010/アレクセイ・ポポグレブスキー)

2011-08-16 00:27:54 | 2011 映画祭(その他)

 

三大映画祭週間のラインナップにも入っている本作

原題(英題)は、『How I Ended This Summer』(2010/Aleksei Popogrebsky)。

昨年のベルリン国際映画祭で、男優賞と芸術貢献賞を獲得した。

作品自体の評価や評判はいずれも芳しく、結果発表前からかなり有力視されていたが、

実際に観てみると、上記2賞で妥当(十分)だったんじゃないかなって納得。(詳細は後述)

全体的な完成度としてはまだまだ粗削りな印象ながら、魂は十二分にこもってる。

 

物語のあらすじ[三大映画祭週間チラシより]は、

 

   北極圏の孤島の気象観測所を守るセルゲイとパベル。 

   ある日、パベルが観測記録をごまかし、セルゲイ宛の重大な知らせを隠したことから、 

   二人の間に修復しがたい亀裂が生ずる。

 

本作の主演はグリゴリー・ドブリギンとセルゲイ・プスケパリスだが、

出演自体が二人のみ。無線で声の出演する男性、残り数分で登場する作業員、

そして白熊くらいしか画面に映るキャストはいない。あとは広大な自然が常に在るのみ。

したがって、主演の二人の重荷は『127時間』のジェームズ・フランコ並。

いや、まだあちらには「回想シーン」とかがあったから好いものの、

本作では一切「島の外部」や「現時点の外部」が映ることはなく、

開放的な自然のなかに閉じ込められた「密室劇」という趣。

そこが救い難い幽閉感へといざってもくれる。

 

しかし、滑り出しは至ってポップ(に見えるという罠)。

イケメン中2のパーシャの坊ちゃん、独り優雅に観測日和。雄大自然にヴァカンスモード。

ベテラン・セルゲイ、昔の男。職人気質は筋金入り。電子にゃ仕事はゆずれねぇ。

パーシャはヘッドフォンで音楽なんか聴きながら、ブラブラのんびりお仕事するも、

ある日ガイガーカウンターが唸りまくるスポット発見。しかし、面倒くさいことマジ勘弁。

音楽聴きつつ気ままに闊歩、孤島の小屋に戻りましょ。

一見ポップな始まりからは、予想もつかぬ悲劇が待機。

滑稽なのか、残酷か。見放すべきか、見守るか。

観賞姿勢がさだまらない。そんな蛇行を繰り返し、名状し難い後味遺す。

純度の高い感情は、決して喚起されたりしない。葛藤よりも仄暗い、

しかしやたらと美しい、光がどこかに射すようで・・・。

 

この作品は観る人によってというよりも、観る前の(作品に対する)印象によって

観た後の感覚に大きな違いを引き起こすだろうと思われる。

シノプシスやキャストの風貌から、観客が本作に「求めがち」な欲求や作風が、

展開するにしたがって、徐々に裏切られては、掴みどころを見失う。

それこそダニー・ボイル的なポップさを序盤でお見舞いしておいて、

室内の二人芝居や無線のやりとりが始まると、巧緻な知能戦の予感が高まる。

しかし、非常事態へ突入し始めると、展開よりも演者の表情に執心する作劇。

って、ことは心理戦?などと思っていると・・・

 

日頃身にしみついた、先読み合戦メンタリティ。

カテゴライズな習慣は、ジャストフィットな型捜さがし。

しかし、そんなの通用しません、だって、ここは「孤島」だよ。

時間の流れも天候も、生活だって違います。空気も確認必要です。

そんなの常識「異世界」に、いつも通りに踏み込んだ、パーシャも私も牧歌的。

しかし、そんな甘かない。リゾート気分はお断り。まして、ネバーランドじゃありません。

 

しかし、モラトリアムはフォーエヴァー、そんなパーシャにセルゲイは、

「仕事の何たるか」を教えます。その時ハッとする自分。やばい、俺も完全パーシャ脳だった。

映画だから寝過ごして数字誤魔化すくらい面白味あってよくね?なんて思ってた。

ってか、パーシャの寝癖や寝ぼけ顔、見事なまでのリアリティ。

さすがベルリン芸術貢献賞(そこじゃありません)。

そんな等身大(どんだけ、やばいんだ>俺)なパーシャ君。

気づけば音楽聴きながら、自然と優雅に対話気分。

そこにシンクロするあまり、職場であること忘れてました。

本当すみませんでした>セルゲイ先輩。いや、セルゲイ師匠。

と、私は一応気づけたものの、ピーターパンなパーシャは勿論・・・

いや、でも、しかし。突発的な感情は、理の当然も見誤る。倫理の掟も忘却す。

とはいえ、事の重大さを考えれば、そこはグッとこらえられるだろう。

確かにね。でも、ここは極めて異質な環境。〈社会〉と乖離した世界。

いくら中2なパーシャでも、他者の眼あらば死守した常軌。

環視はおろか一切の監視も消えた北の果て。「魔」でも射さぬと退屈か!?

 

セルゲイ師匠の「ど突き」など、観てる分にはほのぼのよ。

あぁ、セルゲイのおやじはパーシャを成長させてやりたいんだなぁって。

師弟愛というか、父性というか。パーシャだって、半ば反省したかしらんが、

「背中流しましょうか?」とまではいかぬまでも、急に一緒にサウナ入ったり。

付かず離れずというより、付いたり離れたりしながら、「好機」を伺い続けるパーシャ。

 

しかし、そういう支配欲が不味かった。

そもそも、彼は自分の世界にひきこもりがちというか、自分の世界をなるべく確保したい性質。

その必殺ツールがヘッドフォンなわけだけど、セルゲイに小突かれ、はずされる。

そんなイライラ(自分の部屋に入られると異様な逆上みせる思春期少年のように)を

募らせていただけに、不意に手にした折角の「秘密」(に自分で仕立てただけど)は

自分を優位にするツールにもなり得るな位の打算が無意識に働いてもいたのだろう。

だからこそ、常識的な好機(当然、「なる早」です)より、自分にとっての「好機」を待った。

自分でコントロールできると思っていた世界において、そうしたモットーゆずれない。

そもそも本作では、セルゲイとパーシャは何かと対照的で、年齢や仕事観も勿論ながら、

何より「他者(外部)」の存在の有無が決定的ではないかと。

つまり、セルゲイは妻子や過去を想う。パーシャは全く他者や過去を想いもしない。

暇があれば音楽聴いて自然を眺め、お菓子食べたり、ゲームをやったり。

内心は、恋人やら友人やらを想うこともあったかしらんが、ケータイ世代の弊害か、

手軽な「つながり」手段の不在は、「つながり」不在と同義かも。

だとしたら、そうしたなかで他者不在の感覚が増幅したか、もしくは本当にもとから

厭世モードに傾倒してたか。いずれにしても、他者との交流に価値を見出さぬ傾向あり。

それは自然に対してもそうであり、すぐに「音楽聴く」ってことは、外部の音を遮断する。

風の音や、水の音、靴が鳴らす大地の音も、みんな彼には存在しない。

つまり、あくまで背景、眺めるだけで好い対象。しかし、セルゲイは対照的に、

常に自然に「出てゆく」人間。魚を釣っては自然を享受。サウナのあとには水浴びに。

(このときも、すぐに帰ろうとするパーシャ)

 

つまり、〈他者〉の存在しないパーシャにとって、こうした事態は必定だったのかもしれない。

そして、〈社会〉も〈自然〉も欠いた認識は、「やられたらやりかえす」な精神が熟んでしまう。

〈他者〉の存在を前提とした社会的観念は、「思い通りにならない」という前提を弁える。

しかし、それと引き換えに、得られる価値も知っている。

他者としての〈自然〉はきっと、人智の及ばぬ深淵で、諭し導くこともある。

〈社会〉以上に太刀打ちできぬ、容赦のなさで「説教」くれる。

だから、両者を亡くした若者は、「逃げる」か「勝つ」しかないのだろう。

つまり、「自分の世界」を狂わすものは、自分の視界から「消す」しかない。

パーシャのそうした精神がもたらす悲劇と、対照的なセルゲイがの見せる詩劇が展開。

前者の暴走を具に描きつつ、後者は寡黙に終始する。

そうした描写は現実の、両者の関係見るようだ。

しかし、それら各々のもつ「意味」を、ラストに思い知らされる。

そして私(たち)が実は、どちらに身を寄せ生きてきたのかも。

 

現在の日本で観るには余りにも痛烈な皮肉に思える展開が、

最後の最後に待っている。しかし、だからこそ余計「思い、知らされる」内容があるのでは?

これまでの我々は「パーシャである」ことを知らずに生きてきた。

楽して手にした快適に、至福の表情浮かべると、そこに自滅の始まりが。

そして、旨味は独占しておきながら、不都合シェア、いや道連れ以上を要求す。

パーシャを嘲笑した自分。それこそ自嘲の極みだと、自重をうながす黄昏の、

悲しいほどの美しさ。

 

人がどれほど愚かでも、人がどれほど悲しくも、

常(とわ)に流れてゆく自然。残酷なのか、寛容か。

ただ一つわかるのは、自然は包み込みはしようとも、

ぎゅっと抱きしめはしてくれぬ。自然は強く、人は弱い。

自然は壮大、人は卑小。それでも、だから育ててゆける、

強さや優しさ、あるかもしれない。

 

 

◆「映画祭」という形態ゆえに公開が可能になったかもしれぬ本作。

   しかし、こうした時期だからこそ、今の日本で観るべき作品に思われる。

   原発関連のドキュメンタリーの公開は後を絶たず、興行も順調なようで、

   そうした関心の高さや啓発の契機は重要だとは思う。ただ、そのような啓蒙主義的で

   「直接的」な作品(及び宣伝の仕方)は、結局「直截的」な方向を生み出しかねない。

   本作のような表現から、「物語」を通じ、そのなかに身を置いてみることにより、

   現在の日本で起こっている現実を「対象化」した「完全理解」に陥る危険(これこそが

   さまざまな社会構造の問題の根源であったと気づいたはずなのに)を、

   少しでも減じる努めも必要かと。映画を観るということは、その物語に入り込む、

   もっと言えば身を投じる営為であるように思う。そして、映画館の暗闇から抜け出たとき、

   そこで「感じたあらゆること」に、白日の下では感知し得ない自己の深部を垣間見る。

   当事者と傍観者の違いとは、物語のなかに「いる」か「いない」かではないだろうか。

   当然、体験していないものが当事者面したり解ったようなことを言うのは違うだろうが、

   だからといって無数の物語を統括できるかの如き事実や理念の収集は、

   「どこにもない」ものの疑似体験でしかないと思えてならない。

  もう少し、「語り方」「伝え方」「読み方」に、多様性があっても好いのでは。

  そんなことを無力に考えたりする日々。

 

◆原題の「Ended」、邦題の「終止符」。共に終わりを表しているのに、

   本作のラストシーンは新たな「始まり」を告げるかのよう。それが、絶望なのか希望なのか。

   そこに豊かな解釈を許す、爽やかに後味悪い、この感じ。私は好きです。

 

◆パーシャ役のグリゴリー・ドブリギンは、ティムール・ベクマンベトフ(『ナイトウォッチ』

   『ウォンテッド』)製作の『Chernaya Molniya』(詳細はこちら)に主演していたりする。

   (監督はベクマンベトフ作品で編集や助監やってた人と誰か(笑)が共同で担当)

   ユニヴァーサルとフォーカス・フィーチャーズが制作してるだけあって、至極ハリウッド的。

   ただ、そこは作家性や芸術性にも理解がある(と勝手に推測)フォーカス絡みらしく、

   多少の「無駄」(アドレナリンの分泌に無関係な「機微」)は許容してくれた模様。

   ちなみに、噂ではその作品はハリウッド・リメイクが決まったとか決まらないとか。

   グリゴリーが英語出来るなら、ハリウッド・デビューもあり得る?

   って、さすがに同作ではないかな。

   ってか、フィルモ観ると、役者としてはほとんど新人だったのに、

   二人芝居、一人芝居オンリーの本作に抜擢、そして完遂、随分頼もしい若手。

 

 

◇2010年のベルリン国際映画祭(コンペ)を勝手にふりかえる

ベルリンは開催が2月なので、「昨年」とは言ってもかなり経っている感もあれば、

日本公開済の作品も結構ある。ちなみに今年は、金熊も銀熊(女優・男優ともに)も

アスガー・ファルハディ(『彼女の消えた浜辺』)がかっさらっていった・・・

そんだけ獲りゃぁ、日本でも公開されそうだ。でも、他のスルーされた作品が心配・・・。

ちなみに、タル・ベーラ(PFFではなんと『サタンタンゴ』[7時間!]が劇場上映される・・・

が、平日に組み込まれる悲しき市場原理への隷属)が審査員グランプリを撮ったりもした。

そちらも何とか日本公開がありそうで安心。

 

さて、今年の話はさておき、昨年のベルリンは個人的に佳作揃いの好ラインナップだった

という気がします。今になってみれば。

 

   金熊:『蜂蜜』(セミフ・カプランオール)

   銀熊:審査員グランプリ『If I Want To Whistle, I Whistle』(Florin Serban)

     監督賞『ゴーストライター』(ロマン・ポランスキー)8/27公開

            女優賞:寺島しのぶ『キャタピラー』(若松孝二)

            男優賞:グリゴリー・ドブリギン、セルゲイ・プスケパリス『夏の終止符』

            芸術貢献賞:Pavel Kostomarov[撮影]『夏の終止符』

 

というように、主要な賞を獲得した作品は『If I Want To Whistle, I Whistle』以外、

日本で公開されたのですね。カンヌですらそこまでいかぬ昨今では、珍しい。

『If I Want ~』はルーマニア映画なのですが、非常にストイックなつくりながら

(ほとんど刑務所[少年院?]内で展開される・・・ちなみに最近はプリズンものに佳作多し)

感情の起伏も機微も実に繊細かつ大胆に(どっちだ!?)活写した充実の逸品ゆえに、

どこかでこっそりとでも公開されたりしはしないだろうか・・・イメージフォーラムあたり合う感じ。

 

ちなみに、賞は獲らずとも日本で公開された作品もこの年は実に多く、

『サラエボ、希望の街角』(ヤスミラ・ジュバニッチ)、

『キラー・インサイド・ミー』(マイケル・ウィンターボトム)、

『再会の食卓』(ワン・チュアンアン)、『光のほうへ』(トマス・ヴィンターベア)

映画祭上映では、『ハンター』(ラフィ・ピッツ)が昨年の東京フィルメックスで、

マムート』(ブノワ・ドゥレピーヌ、ギュスタヴ・ケルヴェン)は今年のフランス映画祭で上映済。

また、今後公開予定の作品もある。

女と銃と荒野の麺屋』(チャン・イーモウ)〔シネマライズ゛9/17公開〕(『ブラッド・シンプル』リメイク)

幸せのパズル』(ナタリア・スミルノフ)〔シャンテシネほか10/1公開〕

 

他にも、『イカとクジラ』のノア・バームバック最新作『Greenberg』なんかは、

ベン・スティラー主演だし(日本じゃだからキビしいのか?)公開なくともDVD発売はあるかも。

尺短いし、ジェームズ・フランコ主演だし(彼も日本じゃイマイチ人気出てないよね)

当サイト紹介済だし(余計です)な『HOWL』とかは、昔のライズならレイトショーでやってたな。

シアターNなら拾ってくれるかもしれない『A SOMEWHAT GENTLE MAN』[ノルウェー]や、

ヒューマントラストシネマ向き(憶測)『En Familie』[デンマーク]あたりは観てみたいもの。

 

三大映画祭週間は、今年の集客次第では来年も開催されるかもしれないようだが、

やっぱり受賞作品限定となるのだろうか。賞にもれても面白そうな作品多いし(その方が

買付価格(?)も多少は安いだろうし)、そうした作品群を恒常的にレイトだけとかでも

かけてくれる劇場でも出来たりしないかなぁ。ってか、そういうことしろよ>フィルムセンター

ってか、場所くらいもっと開放(貸)してやれよ>フィルムセンター