〔追記〕2013年3月にシアターイメージフォーラムにて劇場公開決定!
「フレンチ・フィーメイル・ニューウェーヴ」と題された特集上映(3本)のうちの1本として。
(邦題は『グッバイ・ファーストラブ』[英題に同じ]になったようです。)
東京日仏学院での「フランス女性監督特集」のなかで上映された、
ミア・ハンセン=ラヴの最新作『グッバイ・マイ・ファーストラヴ』。
日本語字幕付(寺尾次郎氏が担当)のニュープリントで日本初上映。
劇場公開は未定らしいが、これは必ず公開されるだろう。
それは作品を観れば多くの人が確信するはずだが、
それ以前に「公開させねばならない」「公開しないなどありえない」といった気概で
見事な御膳立を率先した本企画の覚悟と意義にはただただ感服するばかり。
たった2回、それも平日の夕方と昼間という上映時間の設定も、
おそらく適度な浸透と適度な飢餓感を図ってのことだと理解している。
幸運にも2回とも観賞することが叶った自分にとって、
一見最高な本作が、二見すると至高を遥かに突き抜ける破壊力をも包含して疾走する
唯一無二な存在であることを記さずに、この「体験」は終れない。
そう、本作は絶え間ない運動を継続し、時間も空間も移動を続け、
観客はそこに寄り添うというよりも、引きずり回されては「永遠に追いつけない」感覚で
「すべてをゆだねる」しかない心地よさを手にすることとなる。
すべてを自らで掌握することを切望しながらも、
それが叶わぬ《距離》を無意識に醸成している「青春の《愛》」(原題)の光につつまれて、
果てを予期し続ける不幸な幸福に身を浸す感覚に、それはどこか似ている。
誰もが追いつけないほどに二人が駆け抜けるとき、
一歩でも間違えばどちらかがとり残される。
二人きりの純粋に解放を感じるか閉塞を感じるか。
前者のままでいるためには、解けることのない魔法が必要だ。
《青春》 も 《愛》 も、相手に注ぎ続けねばならない。
しかし、そうした完璧な瞬間の成就は束の間で、だからこそ美しく永遠だ。
その儚さを知りつつも、一度垣間見たその美しさに眩んだ衝撃が
《記憶》にこびりついてる限り、それはいつまでも在り続ける。
《過去》としてというよりも、《過去》を内包した《現在》に。
劇中の二人は過去や記憶をすべて引き摺りながらも常に前のめり。
成長するということは、過去との訣別を果たすことで得られるわけではない。
過去をすべて引き摺らざるを得ぬ現実を覚悟することから始まるのだろう。
だからこそ勢いを借りなければ前へ進めない。
自力のみでは運べぬ過重な過去という貨物はいつも、
他者の助力(家族であったり、恋人であったり・・・
本作には友人が機能していないのが興味深い)や
自然の恩恵(風や傾斜など)によって与えられた前進の慣性を借りながら、
加速度的な前進でしか引き受けられない。
本作はスリヴァンが自転車を漕ぐ場面から始まる。
スリヴァンだけの場面から始まり、カミーユだけの場面で終わる。
二人の関係(の記憶)を主軸にし、カミーユの眼で語られるようでいて、
実は数度挿入されるスリヴァンだけの場面(カミーユの見ていない世界)の存在が印象的だ。
果てなき世界の実相を示唆することで、
カミーユの内省と開放されている世界の運動が対比される。
それは無常であり、時に無情である。
しかし、膨らみ続ける世界のなかで生活している人間にとって、
たった一人の相手とはいえ共有できる宇宙(UNIverse)は僅かで、
それぞれの個人を起点として広がり(移ろい)続ける宇宙を各々もっている。
あれほど塞ぎ込んでいるように見えるカミーユにもかかわらず
(彼女は内面の吐露も僅少だ)、本作の大部分を占める彼女だけの世界が、
観ている者にとって手に負えないほどの雄弁さで迫ってくるのは、
そこに映し出される世界が彼女の自己で充満しているというよりも、
彼女にとって親愛なる他者が欠乏し続けているからではないだろうか。
それは、スリヴァンと居るときも含めて。
しかし、そうした満たされぬ感覚を代替や妥協で埋めようとしないカミーユは、
喪失感や不足の想いを募らせるばかりではない強靭さをも併せ持つ。
通常、喪失感を描いた物語の常として、
そこが何かで補填される過程を描こうとする。
しかし本作はそうした補填に興味はない。
カミーユの味わったスリヴァンの喪失は、
決してロレンツ(建築家)であがなわれるものでもなければ、
そもそもそうした期待も希望もカミーユにはないように思う。
喪失は喪失のままなのだ。
(スリヴァンとは異なり、カミーユは「行きずりの恋」を楽しんだりできぬ。)
そして、《過去》の耐えがたき重さとは、
「なかったこと」や「不在」によって与えられるものだろう。
有よりも無がもつ重みや広がり。
カミーユが建築の仕事に魅せられたのは、
「スペース(無)を捉えたかったから」という。
そして、ミア・ハンセン=ラヴは建築に映画との類似性を見ると語っていた。
映画も、無から果てなき有を生み出す作業であり、
一方で省略やフレームによる喪失との対話から免れ得ない。
ミアの前二作共に喪失が物語の根幹にある。
そして、彼女の作品に私が魅せられるのは、
その喪失を「埋められるため(べき)」虚無としてではなく、
「そのままとらえるべき」虚空として描いているように思えるからなのだ。
◆ 本作においては「赤」がとにかく印象的だ。
冒頭、スリヴァンがカーテンを閉めるとそこに浮かび上がるタイトルの赤。
カミーユのコートも赤。
そして序盤、もっとも印象的な赤は、別荘で過ごす二人がもいでは食す果実の赤だ。
「禁断の果実」でもあるかのように、その後二人はぎくしゃくし始める。
そして、スリヴァンは旅に出て、やがてカミーユに別れを告げる。
画面から「赤」が消えてゆく。カミーユも赤を着なくなる。
そして、研修旅行でルイジアナを訪れたとき、カミーユは赤のシャツを身にまとう。
ロレンツとの心の交流が始まる。
そして彼女は書く、「はじめて孤独を感じない。雲が去ったのか?」と。
しかし、スリヴァンとの再会のときにもカミーユは赤いシャツを着ていた。
そして、ラストシーンでカミーユが着ていたのは、赤い水着。
水のなかに入ってゆき、再び聞こえてくる(本作の中盤でも一度流れていた)
Johnny Flynn ( featuring Laura Marling )「The Water」。
そこに再び浮かび上がる、赤い文字(タイトル)。
◆「赤」といえば、冒頭でスリヴァンがカミーユにプレゼントする花も、
赤い薔薇だった(と思う)。
スリヴァンがカミーユの元へ行く途上で買ったのは、
赤い薔薇とコンドーム(だった気がする)。
何という取り合わせ。華やかながらも結ばれぬ。
薔薇というのは『ロミオとジュリエット』を想起したりもして、
窓から出入りするロミジュリごっこ(?)と勝手に連関。
◆いくつかの対照性も興味深い。
例えば、女性と比していつまでも幼い男子たち。
それはカミーユとの情事を終えて帰宅しては、
水鉄砲を持った弟にホースで水かけしては応戦するスリヴァン。
別荘でも無駄に木に登っては「ここから入れるよ!」といったアホさに
カミーユは「はいはい、降りて普通に入って来なさいよ」と一蹴するし、
スリヴァンが選ぶ部屋は子供部屋だったりする。
おまけにスリヴァンは、買い物に行ったついでに湖で泳ぎたくなって実際泳ぎ、
待ってるカミーユを心配させる。
同年代のスリヴァンのみならず、
ロレンツだって娘ほど歳の離れたカミーユからバス車内での携帯使用を注意される。
そして、二人とも自らの好奇心や使命感(?)から気ままに巣から離れていったりする。
ただ、これは性別といった問題よりも、
パリから離れたくないフランスに根を張るカミーユと、
フランスにいながら常に「アウトサイダー」という意識が拭えぬ
移民的なアイデンティティのスリヴァンやロレンツといった対照性があるのだろう。
また、これまで自分から離れる男たちに不安や不満を覚え続けてきたカミーユが、
最後の場面では自ら独り歩き、独り川に入ってゆく。
風がさらった《記憶》を追いかけて。
その静かな幕切れに、万感交到る。
ミアの作品はいつも、
とりかえしのつかない人生の一回性という悲劇が幸福でもあることを示唆して終る。
◆何度も挿入される「授業」風景が意味するものはなんだろう。
最初は数学、次に政治(レーニンの遺書におけるトロツキー評)、
そして哲学(ライプニッツとヴォルテールの連関?)の授業を受けるカミーユは上の空。
そして、薬品を飲んで運ばれた病院の枕元にはいよいよ
ル・コルビュジエの『モデュロール』が登場する。
科学する心と、社会への思索、更には内省がそこに結びつき、
建築こそが彼女なりの世界との対話へと成就したのだろうか。
◆ 大学のレクチャーのなかで、
「人は家を愛し、芸術を憎む」といった内容の話が出てくる。
その根拠は必要性の有無だという。
家とは「家族」のようなものなのだろうか。
そして、芸術とはまさに「青春の恋」。
趣味も嗜好も頭も精神年齢も異なる二人が惹かれあう。
スリヴァンは「根本が同じ」だという。
確かに、そういう具体を超越した抽象世界でつながる恋、
それこそがファーストラヴなのかもしれない。
でも、だからこそ完結も結論もない永遠の恋なのだ。
◇ロレンツとカミーユの関係は当然(?)、ミアとアサイヤスの関係を想わせもするが、
ロレンツ役のマグネ・ホーバルト・ブレッケは、
『あの夏の子供たち』で孤高のスウェーデン人映画作家を演じていた。
そう考えると、ミアのなかで芸術と人間の関係がどのように深められてきているのかが
興味深い。
◇フランス映画祭(『あの夏の子供たち』上映時)で来日した際のミアは
あまり上機嫌には見受けられなかったが、
今回の来日では(体調が随分と悪そうなのにも関わらず)非常に熱心に
観客へ語りかける姿勢の凛とした美しさに聴いているこちらの身が引き締まる思いだった。
フランス映画祭の聞き役の無能さはやはり彼女に伝わってしまっていたのだろう。
開口一番、「女優さんみたいに綺麗ですよねぇ」などと間抜けな発言をかました司会者に、
会場の空気は完全に凍っていたからな。
◇『グッバイ・マイ・ファーストラヴ』というタイトルは、英題に由来するようだ。
アン・ルイスのヒット曲を想起してしまったりして。
(とはいえ、私の生まれる前の曲なんだ・・・という驚き)
あの曲調とはそんなにかけ離れてない気もする、とか言ったら怒られそうだが。
さよなら(BYE)なのに素晴らしい(GOOD)、永遠に初めて(FIRST)の恋(LOVE)。
いつまでも始まっては終ってゆく永劫回帰かのような深遠さが
キュートに響くこのタイトルも、個人的には結構気に入ってしまった。
勿論、ふたつの「ラヴ」が重なるベタさも好きだしね。