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Living Is Difficult with Eyes Opened

モーリス・エンゲル=ルース・オーキン特集

2012-06-16 23:25:46 | 2011 特集上映

 

トリュフォーがヌーヴェル・ヴァーグの先駆的存在として語ったとされる、

モーリス・エンゲル=ルース・オーキンによる『小さな逃亡者』は1953年の映画。

『アメリカの影』も『勝手にしやがれ』も『大人は判ってくれない』も1959年。

確かに後発のセンセーショナルな作品群に比べれば、クラシカルな魅力に拠っている。

それはサイレント映画的「雄弁さ」であったり、光と影の胸高鳴る競演だったり。

スタジオからの解放運動というよりも、自然に街に繰り出してみたカメラ。

そんな趣は新鮮な喜びをみなぎらせ、無邪気な純真「ヌーヴェル・ヴァーグ」。

 

今回のアテネフランセ文化センターでは、4日間にわたり彼らの全3作を上映。

最終日には満席立見の回もあったりするなど、なかなかの盛況だった模様。

私は初日と二日目に3作を観て、幸福な季節が吹き抜けてゆく悦楽と離愁が去来。

映画史における価値とは別に、極めてパーソナルな愛しさを感ずる小品群。

子供のあどけなさ、それに翻弄される大人、それとは無縁になりゆく大人たち。

生きてゆくなかで彩度を変えながらも愛を交わしたり躱したりな人間模様。

エンゲル=オーキン夫妻が映画に捧げた年月の果敢と果敢無さに胸しめつけられる。

 

三作に共通しているのは「父の不在」。

『小さな逃亡者』でも『恋人たちとキャンディ』でも主人公は母子家庭。

『結婚式と赤ちゃん』でも、主人公カップルの男には年老いた母親がいるのみだ。

その穴を埋めるかのごとく、『小さな逃亡者』ではポニーの調教師(?)が、

『恋人たちとキャンディ』では母の昔なじみの男友達(やがて恋人になる)が、

子供たちへの慈しみを示してくれたりもする。

しかし、それは幸福な帰結としてだけの認識では済まぬもの。

『恋人たちのキャンディ』が提示するラストの幸不幸のせめぎ合いを予感させる展開や、

『結婚式と赤ちゃん』で流れてくるマイナー調のウェディング・マーチ(ワーグナー)。

カメラを持て、町へ出よう。高揚はそのうち現実の重力に圧せられ・・・

光と影というシンプルで世界を描こうとする写真家によるモーション・ピクチャーは、

多幸と薄幸が隣り合わせで背中合わせな現実を静観しながら受け容れる。

 

バットを振ったはずがバットに振られる男の子。

水面で往生する船をたぐり寄せたい女の子。

まだ見ぬ二人の間の子。

 

エンゲルとオーキンの間には子供がいたのだろうか。

いずれにしても彼らは「二人」いや「三人」の忘れ形見を残していった。

勝手に判ってあげたくなる子供たち。永遠の君たち。

 


グッバイ・マイ・ファーストラヴ(2011/ミア・ハンセン=ラヴ)

2012-03-19 23:55:27 | 2011 特集上映

 

〔追記〕2013年3月にシアターイメージフォーラムにて劇場公開決定!

フレンチ・フィーメイル・ニューウェーヴ」と題された特集上映(3本)のうちの1本として。

(邦題は『グッバイ・ファーストラブ』[英題に同じ]になったようです。)

 

 

東京日仏学院での「フランス女性監督特集」のなかで上映された、

ミア・ハンセン=ラヴの最新作『グッバイ・マイ・ファーストラヴ』。

日本語字幕付(寺尾次郎氏が担当)のニュープリントで日本初上映。

劇場公開は未定らしいが、これは必ず公開されるだろう。

それは作品を観れば多くの人が確信するはずだが、

それ以前に「公開させねばならない」「公開しないなどありえない」といった気概で

見事な御膳立を率先した本企画の覚悟と意義にはただただ感服するばかり。

たった2回、それも平日の夕方と昼間という上映時間の設定も、

おそらく適度な浸透と適度な飢餓感を図ってのことだと理解している。

幸運にも2回とも観賞することが叶った自分にとって、

一見最高な本作が、二見すると至高を遥かに突き抜ける破壊力をも包含して疾走する

唯一無二な存在であることを記さずに、この「体験」は終れない。

そう、本作は絶え間ない運動を継続し、時間も空間も移動を続け、

観客はそこに寄り添うというよりも、引きずり回されては「永遠に追いつけない」感覚で

「すべてをゆだねる」しかない心地よさを手にすることとなる。

すべてを自らで掌握することを切望しながらも、

それが叶わぬ《距離》を無意識に醸成している「青春の《愛》」(原題)の光につつまれて、

果てを予期し続ける不幸な幸福に身を浸す感覚に、それはどこか似ている。

誰もが追いつけないほどに二人が駆け抜けるとき、

一歩でも間違えばどちらかがとり残される。

二人きりの純粋に解放を感じるか閉塞を感じるか。

前者のままでいるためには、解けることのない魔法が必要だ。

《青春》 も 《愛》 も、相手に注ぎ続けねばならない。

しかし、そうした完璧な瞬間の成就は束の間で、だからこそ美しく永遠だ。

その儚さを知りつつも、一度垣間見たその美しさに眩んだ衝撃が

《記憶》にこびりついてる限り、それはいつまでも在り続ける。

《過去》としてというよりも、《過去》を内包した《現在》に。

劇中の二人は過去や記憶をすべて引き摺りながらも常に前のめり。

成長するということは、過去との訣別を果たすことで得られるわけではない。

過去をすべて引き摺らざるを得ぬ現実を覚悟することから始まるのだろう。

だからこそ勢いを借りなければ前へ進めない。

自力のみでは運べぬ過重な過去という貨物はいつも、

他者の助力(家族であったり、恋人であったり・・・

本作には友人が機能していないのが興味深い)や

自然の恩恵(風や傾斜など)によって与えられた前進の慣性を借りながら、

加速度的な前進でしか引き受けられない。

 

本作はスリヴァンが自転車を漕ぐ場面から始まる。

スリヴァンだけの場面から始まり、カミーユだけの場面で終わる。

二人の関係(の記憶)を主軸にし、カミーユの眼で語られるようでいて、

実は数度挿入されるスリヴァンだけの場面(カミーユの見ていない世界)の存在が印象的だ。

果てなき世界の実相を示唆することで、

カミーユの内省と開放されている世界の運動が対比される。

それは無常であり、時に無情である。

しかし、膨らみ続ける世界のなかで生活している人間にとって、

たった一人の相手とはいえ共有できる宇宙(UNIverse)は僅かで、

それぞれの個人を起点として広がり(移ろい)続ける宇宙を各々もっている。

 

あれほど塞ぎ込んでいるように見えるカミーユにもかかわらず

(彼女は内面の吐露も僅少だ)、本作の大部分を占める彼女だけの世界が、

観ている者にとって手に負えないほどの雄弁さで迫ってくるのは、

そこに映し出される世界が彼女の自己で充満しているというよりも、

彼女にとって親愛なる他者が欠乏し続けているからではないだろうか。

それは、スリヴァンと居るときも含めて。

しかし、そうした満たされぬ感覚を代替や妥協で埋めようとしないカミーユは、

喪失感や不足の想いを募らせるばかりではない強靭さをも併せ持つ。

 

通常、喪失感を描いた物語の常として、

そこが何かで補填される過程を描こうとする。

しかし本作はそうした補填に興味はない。

カミーユの味わったスリヴァンの喪失は、

決してロレンツ(建築家)であがなわれるものでもなければ、

そもそもそうした期待も希望もカミーユにはないように思う。

喪失は喪失のままなのだ。

(スリヴァンとは異なり、カミーユは「行きずりの恋」を楽しんだりできぬ。)

そして、《過去》の耐えがたき重さとは、

「なかったこと」や「不在」によって与えられるものだろう。

有よりも無がもつ重みや広がり。

カミーユが建築の仕事に魅せられたのは、

「スペース(無)を捉えたかったから」という。

そして、ミア・ハンセン=ラヴは建築に映画との類似性を見ると語っていた。

映画も、無から果てなき有を生み出す作業であり、

一方で省略やフレームによる喪失との対話から免れ得ない。

ミアの前二作共に喪失が物語の根幹にある。

そして、彼女の作品に私が魅せられるのは、

その喪失を「埋められるため(べき)」虚無としてではなく、

「そのままとらえるべき」虚空として描いているように思えるからなのだ。

 

 

◆ 本作においては「赤」がとにかく印象的だ。

   冒頭、スリヴァンがカーテンを閉めるとそこに浮かび上がるタイトルの赤。

   カミーユのコートも赤。

   そして序盤、もっとも印象的な赤は、別荘で過ごす二人がもいでは食す果実の赤だ。

   「禁断の果実」でもあるかのように、その後二人はぎくしゃくし始める。

   そして、スリヴァンは旅に出て、やがてカミーユに別れを告げる。

   画面から「赤」が消えてゆく。カミーユも赤を着なくなる。

   そして、研修旅行でルイジアナを訪れたとき、カミーユは赤のシャツを身にまとう。

   ロレンツとの心の交流が始まる。

   そして彼女は書く、「はじめて孤独を感じない。雲が去ったのか?」と。

   しかし、スリヴァンとの再会のときにもカミーユは赤いシャツを着ていた。

   そして、ラストシーンでカミーユが着ていたのは、赤い水着。

   水のなかに入ってゆき、再び聞こえてくる(本作の中盤でも一度流れていた)

   Johnny Flynn ( featuring Laura Marling )「The Water」。

   そこに再び浮かび上がる、赤い文字(タイトル)。

 

◆「赤」といえば、冒頭でスリヴァンがカミーユにプレゼントする花も、

   赤い薔薇だった(と思う)。

   スリヴァンがカミーユの元へ行く途上で買ったのは、

   赤い薔薇とコンドーム(だった気がする)。

   何という取り合わせ。華やかながらも結ばれぬ。

   薔薇というのは『ロミオとジュリエット』を想起したりもして、

   窓から出入りするロミジュリごっこ(?)と勝手に連関。

 

◆いくつかの対照性も興味深い。

   例えば、女性と比していつまでも幼い男子たち。

   それはカミーユとの情事を終えて帰宅しては、

   水鉄砲を持った弟にホースで水かけしては応戦するスリヴァン。

   別荘でも無駄に木に登っては「ここから入れるよ!」といったアホさに

   カミーユは「はいはい、降りて普通に入って来なさいよ」と一蹴するし、

   スリヴァンが選ぶ部屋は子供部屋だったりする。

   おまけにスリヴァンは、買い物に行ったついでに湖で泳ぎたくなって実際泳ぎ、

   待ってるカミーユを心配させる。

   同年代のスリヴァンのみならず、

   ロレンツだって娘ほど歳の離れたカミーユからバス車内での携帯使用を注意される。

   そして、二人とも自らの好奇心や使命感(?)から気ままに巣から離れていったりする。

   ただ、これは性別といった問題よりも、

   パリから離れたくないフランスに根を張るカミーユと、

   フランスにいながら常に「アウトサイダー」という意識が拭えぬ

   移民的なアイデンティティのスリヴァンやロレンツといった対照性があるのだろう。

   また、これまで自分から離れる男たちに不安や不満を覚え続けてきたカミーユが、

   最後の場面では自ら独り歩き、独り川に入ってゆく。

   風がさらった《記憶》を追いかけて。

   その静かな幕切れに、万感交到る。

   ミアの作品はいつも、

   とりかえしのつかない人生の一回性という悲劇が幸福でもあることを示唆して終る。

 

◆何度も挿入される「授業」風景が意味するものはなんだろう。

   最初は数学、次に政治(レーニンの遺書におけるトロツキー評)、

   そして哲学(ライプニッツとヴォルテールの連関?)の授業を受けるカミーユは上の空。

   そして、薬品を飲んで運ばれた病院の枕元にはいよいよ

   ル・コルビュジエの『モデュロール』が登場する。

   科学する心と、社会への思索、更には内省がそこに結びつき、

   建築こそが彼女なりの世界との対話へと成就したのだろうか。

 

◆ 大学のレクチャーのなかで、

   「人は家を愛し、芸術を憎む」といった内容の話が出てくる。

   その根拠は必要性の有無だという。

   家とは「家族」のようなものなのだろうか。

   そして、芸術とはまさに「青春の恋」。

   趣味も嗜好も頭も精神年齢も異なる二人が惹かれあう。

   スリヴァンは「根本が同じ」だという。

   確かに、そういう具体を超越した抽象世界でつながる恋、

   それこそがファーストラヴなのかもしれない。

   でも、だからこそ完結も結論もない永遠の恋なのだ。

 

◇ロレンツとカミーユの関係は当然(?)、ミアとアサイヤスの関係を想わせもするが、

   ロレンツ役のマグネ・ホーバルト・ブレッケは、

   『あの夏の子供たち』で孤高のスウェーデン人映画作家を演じていた。

   そう考えると、ミアのなかで芸術と人間の関係がどのように深められてきているのかが

   興味深い。

 

◇フランス映画祭(『あの夏の子供たち』上映時)で来日した際のミアは

   あまり上機嫌には見受けられなかったが、

   今回の来日では(体調が随分と悪そうなのにも関わらず)非常に熱心に

   観客へ語りかける姿勢の凛とした美しさに聴いているこちらの身が引き締まる思いだった。

   フランス映画祭の聞き役の無能さはやはり彼女に伝わってしまっていたのだろう。

   開口一番、「女優さんみたいに綺麗ですよねぇ」などと間抜けな発言をかました司会者に、

   会場の空気は完全に凍っていたからな。

 

◇『グッバイ・マイ・ファーストラヴ』というタイトルは、英題に由来するようだ。

   アン・ルイスのヒット曲を想起してしまったりして。

   (とはいえ、私の生まれる前の曲なんだ・・・という驚き)

   あの曲調とはそんなにかけ離れてない気もする、とか言ったら怒られそうだが。

   さよなら(BYE)なのに素晴らしい(GOOD)、永遠に初めて(FIRST)の恋(LOVE)。

   いつまでも始まっては終ってゆく永劫回帰かのような深遠さが

   キュートに響くこのタイトルも、個人的には結構気に入ってしまった。

   勿論、ふたつの「ラヴ」が重なるベタさも好きだしね。

 


イン・ザ・シャドウズ(2010/トーマス・アルスラン)

2012-03-10 23:57:32 | 2011 特集上映

 

今週のアテネフランセ文化センターではトーマス・アルスラン特集が組まれていたのだが、

全く足を運べぬまま、何とか最終日の最新作上映&監督トークには駆けつけることができた。

アルスラン作品は、一昨年に同じくアテネで組まれた特集で

『兄弟』『売人』『晴れた日』の三部作を観て以来、

明朗な弁明は困難な半ば戸惑いながらの魅惑に翻弄され、

彼の名は私の胸に深く刻まれたのだった。

にもかかわらず、今回は1本のみの観賞となってしまった自分に遺憾。

こうして最新作を観ると、やっぱり再見しておくべき作品群だったと反省しきり。

おまけに、実は『彼方より』は未見で、かつてアテネで何度か(二度?)上映された時にも

(確か一日限りだった気がする)行けずに涙をのんでいたので、

今回こそは「やっと会えたね」な観賞になるはずだったのに、

またもや仕事によってあえなく断念。

まあ、最新作を観られただけでも、そしてアルスランを直に拝み、

更にはたっぷりトークが聴けただけでも十分至福ではありましたが。

 

一昨年の特集上映は、

その直後に開催された大阪ヨーロッパ映画祭で組まれたトーマス・アルスラン特集

(同じくトルコ移民二世であるファティ・アキンの初来日記念企画?として組まれたよう)で

日本上陸した35mmプリントによる上映という至極贅沢なものだった。

(渋谷哲也氏の多大な尽力による成果であろう。)

今回の特集上映ではすべてデジタル素材ではあったが、

アテネの魔術的な(?)上映環境ではデジタルでも何故か魅せられる。

実際、本作においてもクリアな映像で

アルスランの静謐な映像詩を心ゆくまで堪能するのに十分なスペックだった。

(「BD上映」ってことは、ブルーレイでの上映だよね。

  にしては、映像のクリアさが見事でドキドキ(笑))

 

実は、一昨年の特集上映内で渋谷哲也氏のレクチャーに参加した際、

本作の話題にも触れられ、

その冒頭部分をほんの少し見せてもらうというお楽しみがあったのだが、

そんなこともあって本作のオープニングを目の当たりにしたときの感慨は一入だった。

三部作を観た後で聞かされた「最新作はジャンル映画としての犯罪映画」という事実には、

驚きと共に一抹の不安と魅了が薄れそうな予感をおぼえてしまったが、

本作を実際に観てみると、とんでもない杞憂に過ぎなかった。

トーマス・アルスランは何を撮ってもトーマス・アルスランだったのだ。

そして、トーマス・アルスランが何者か、アルスラン作品とは何物か、

それを的確に説明するのにぴったりの言葉がまたもや見当たらないことを

喜びとして受け容れられる、二度目ゆえの妙な安堵と共に味わう感嘆。

 

アルスランの映画では、快晴でも雨催でもない、しかし微晴な曇天が印象的だ。

そして、冒頭に提示されるベルリンの姿も、

夜になりきらぬ薄明残るもネオンが輝き始める微妙な頃合。

室内でも、仄かな闇が浸透し始める時間をしっとりと見つめる眼差しが反復されたりする。

そんな清冷たる景色のスケッチは、自然のなかに分け入っても尚継続されて、

今回も終盤で出てくる森の姿は、

ホラーやスリラーで誇張される怪奇的な闇でもなければ、

文芸作品における牧歌的美とも異なった、

冷徹なまでに「木の集合体」であるという森の事実を

主人公を囲む「場所」として浮かび上がらせている。

そう、彼にとって《場所》とは単なる「背景」であってはならないものなのだ。

そう、監督自身が語っていた。

 

物語は後半に意表をつく展開を迎えるものの、

筋における観客の翻弄や浄化が主体では決してない。

そうした意味では、ジャンル映画の形式は流用しつつも、

ジャンル映画の存在理由を純粋に継承することを拒んでいるような独自性は垣間見られる。

ところが、そうした逸脱や再構築などにも主眼はなく、

監督本人のモットーであるかのような

「眼前の事実へのシンセリティ」に貫かれた映画のように思えてくる。

そして、それは単なるリアリズムなどではなく、

凝視することでステレオタイプが瓦解することを「待つ」時間なのだろう。

90分を切る長編作品も多いアルスランだが、

それはただ「通り過ぎる」かのような短さではなく、

凝視するために必要な一続きの時間としてあるように思われる。

 

本作の上映時間も90分を切っており、85分。

そして、本作上映後に行われた監督のトークも(ほぼ)85分。

数的には残念な入りながら、そこに集った人々が醸した雰囲気は、

日頃のシネフィルの集い的な空間特有の磁場とは全く異なる温かさを感じるものだった。

実際、次々と手が挙がった質問者たちの話の内容や姿勢までもが味わい深く(?)、

作品同様に素晴らしい時間を過ごすことができた。

 

※3月12日(月)19:00

    トーマス・アルスラン監督作品『休暇』の上映&監督トーク

    場所:ドイツ文化センター

 

※3月13日(火)14:30~17:30

   トーマス・アルスランと映画を語る(上智大学)

 

 


フランス女性監督特集[東京日仏学院](1)

2012-03-09 23:56:37 | 2011 特集上映

 

3月4日(日)から東京日仏学院で始まった「フランス女性監督特集」。

8日にはミア・ハンセン=ラヴの最新作の上映とトークショーがあり、

同日の上映作品はいずれも興味深かったので、4本とも観てしまった。

ちなみに、「珍しく木曜に上映やるんだ」と思っていたら、

この日(3/8)が「国際女性の日」になっているらしく、

それにちなんでのスケジュールのようだった。

 

ナナ(2011/ヴァレリー・マサディアン)

 

この特集は個人的に相当の発見感で充満するものになるだろうという確信。

それが胸裏に刻まれた、特集最初の観賞作品。

昨年のロカルノでは新人監督賞を受賞しているとのことだし、

今年のロッテルダムにも出品されている。

斬新さなどをこれ見よがしに漂わせてなどいないのに、

確実に唯一無二な手触りを覚える作品。

よって、作品の印象は観る者の感性との相性に委ねられてしまいそうな気はするが、

合致したときには奥の奥まで浸透する美しさと恐ろしさを湛えている、大いなる幻影。

 

主な登場人物は数人で、主人公の少女ナナ(4歳)以外の出番も極めて少ない。

(それには物語的な事情もある。)

彼女の動きや言葉はどこまでも自然で、演出によるフィクションなのか、

別の導きによるドキュメントなのか、(観ているだけでは)判然としない。

撮影や編集にも関わったようであるヴァレリーが、

どのようにして本作を完成させていったのかが非常に気になる。

IMDbには、脚本のクレジットがない。やはり、そうした撮り方なのか?

 

時間の流れや自然観照な眼差しなどは、

昨年日本でも公開されたセミフ・カプランオールの作品(とりわけ『蜂蜜』)

にも通ずるものを感じさせるも、本作には虚栄めいた虚飾が一切感じられない。

これは、昨今の女性監督作品を観るときの最大の「感心」事なのだが、

意図が丸見えな「美しい画」や「魅惑の展開」といった衒気の暴走とは無縁のなかで、

自らが収めたい本質に一途邁進する潔さが心地好い。

だから、本作のようにドキュメンタリーかと見紛うほどのアクチュアリティも、

教条主義的リアリズムとは無縁のように思え、

そうした「文脈」にこだわらない自由さに覚える解放感は、

自然という開放の密室には抜群の相性だった。

 

◆オープニングは豚のから始まるのだが、我々が予定通り受ける衝撃を他所に、

   ナナは「これって血?」などと無垢に尋ねたりする。

   ここで観る主人公のナナは、明らかに子供なのだが・・・。

   小さい子には文脈も背景もない。

   そして、事実とは「いま、ここ」で目にしている現象でしかない。

   そんな彼女が《物語》を獲得し、人生を始める。

   大袈裟な表現かもしれない。

   が、4歳だろうがいくつだろうが、

   そうした一つ一つの「気づき」を積み重ね、

   人は少しずつ世界を学んでいくのだろう。

   そんな荘厳なる断片を、きわめてミニマムなレベルで提示する愛すべき小品なのだ。

 

◆ナナは母親から「読み聞かせ」をしてもらっていた。

   それが、作品の後半では自分で読む。

   「聞く」という受動性から「読む」という能動性へ。

   しかし、そこでどうしても巧く発音できない語がある。

   それが、「recognition[認識](のフランス語)」だった(と思う)。

   しかし、何度も発音を試み、《認識》を手に入れようとする前進。

   そして、その獲得は彼女に新たな現実を提示する。

 

◆本作を観ていて驚くのは(これは、作中のみならず現実世界でも

   頻りに感じる瞬間であるが)、少女のなかに垣間見る《女性》性。

   男がいくつになっても男子(Boys will be boys)であるのと同様に(とは逆に?)、

   女の子は生まれたときから女性なのではないかという事実。

   ナナのさまざまな仕草には、ハッとするような《女性》が宿っている。

   とりわけ何度か登場する髪をいじる手の仕草。

   特に中盤、鏡に向かってブラシでとかすシーンなど、

   その向こうで粗野に自分の身体を洗う母親以上の「色気」を放たんばかりである。

   ベッドに母親と寝ているときの「手遊び」なども末恐ろしいものを感じるし、

   ラストの彼女の一言「大丈夫?」などは、女性から男子への母性すら感じるものがある。

 

◆ ナナの「色気」とは裏腹に、母の現実的な要請に支配された機能的な動作には、

   美も色気もない。そんな彼女が唯一見せる超現実な瞬間。享楽のとき。

   そこに最も漂う《死》の気配。

   この複雑な関係性が、ナナの胸にどのように落とし込まれていったのか。

 

◆ 終盤に出てくる(以上に)衝撃的な名シーンがある。

   ナナによる「火葬」シーンだ。

   彼女が《死》を学ぶ通過儀礼のような、

   夢から覚め現実を引き受けるための儀式のような、

   神々しさと同時に漂う辛酸な決意。それをも淡々と、静かに、美しく。

 

◇ 本作は英語字幕での上映だが、会話は僅少。

   デジタル上映で、素材はわからないが、画質的にはDVDとブルーレイの中間くらい。

   映画に集中できる程度なので、気になるレベルではありません。

   ただ、バッチリ画質で観てみたい気も。3月17日(土)13:30からの上映あり。

   都合がつけば再見したいほど、個人的には気に入ってしまった。

 

 

チャーリー(2007/イジルド・ル・ベスコ)

 

巷では(というかシネフィルの間で)、随分と評判の好かった本作。

私も、観終わったときの感銘はなかなかだったものの、

中盤までは正直感情の移入が困難だった。

あえて単純な美を遠ざけるかのような少年ニコラの微妙な体型や表情、言葉。

強烈な生命力を放つも、キャンピングカーという手狭な空間で

空回りを続けるチャーリーの存在感。

それらの空疎な戯れは、なるほど刹那的でも直截的な交流を図ってる。

そして、最終的には究極の「交流」まで。

終盤における二つの「通過儀礼」は、

見事な解放感と達成感を爽やかなスピードでもって作品にもたらしている。

それまでの密室劇から急激な移動によるネクストへの回帰。

95分のなかで、収まりの好すぎぬ絶妙なバランスでまとまっている。

 

チャーリーの「わかった?」とニコラの「わからん」の掛け合いは、

確かに多幸なリズムを形成し、二人のキャラを立たせてもいたけれど、

個人的にはややしつこくも感じてしまった。

また、終盤のあえてアップな映像も、

処女(長篇)作ゆえに「何かしらの署名行動を欲してしまった」感が否めず。

ただ、それらはあくまで個人的な「趣味の問題」。

 

ちなみに、本作と同年に処女長編が公開されたのは、

この特集で3本(トリロジー的に本人も捉えているとか)が上映される、

ミア・ハンセン=ラヴ。

そして、この処女作対決において、

イジルド・ル・ベスコに軍配を上げたのが青山真治

 

そしてこの日、

『チャーリー』に続いてミアの処女長編『すべてが許される』が上映された意味

(というか続けて観られた意義)とは、そんなところにもあったのかも。

ミア・ハンセン=ラヴの作品に関しては別の記事で改めて書きたいと思う。

『あの夏の子供たち』には惚れ込み、

フランス映画祭・劇場公開時・二番館と度々足を運んでしまうほどの稀有な一本となった。

今回、彼女の1本目である『すべてが許される』を初めて劇場観賞し、

更には最新作(『グッバイ・マイ・ファーストラヴ』)まで観られる

(しかも、ニュープリント&日本語字幕付)という幸福。

おまけに、ミア本人の来日&登壇。

あまりにも幸福すぎて(最新作も結局二回とも観にいってしまった・・・)興奮しすぎて、

しばらくまとまりそうもないので、日を改めて。

 

とにかく、この「フランス女性監督特集」は

今年一番の《発見》と《事件》に満ちた重要なプログラムになりそうな予感でいっぱいだ。

 


ワンダ(1970/バーバラ・ローデン)

2012-03-05 23:58:10 | 2011 特集上映

 

アテネ文化センターで先月組まれていたマグリット・デュラス特集と、

日仏学院で日曜に始まったフランス女性監督特集の架け橋のような特別上映。

エリア・カザンの二番目の妻であり女優であったバーバラ・ローデンの初長編監督作。

処女作にして遺作。(1970年38歳のときに監督し、1980年48歳で死去)

何でもマグリット・デュラスは

この映画を公開するためならなにを差し出してもいいとまでいって絶賛」したらしい。

今回はフランス語字幕付の35mmプリントでの上映。

このプリントは昨年の3月12日に行われた北仲スクール主催のイベントで上映するために

坂本安美氏が取り寄せ、そのまま「隠し持っていた」とのこと。

今回の上映にあたり権利元に確認、

「フランス女性監督特集」の企画協力者でもあるドミニク・パイーニ氏の来日にあわせて

特別上映が決まったのだという。

何とも贅沢な企画だ。

アテネと日仏が見事なコンビネーションで、二つの企画を華麗につなぐ至福の横断。

 

事前の情報や知識もなく臨んだ上映だったが、

フィルムからは強烈な威力が103分絶え間なく放たれ続け、

映像の力、風景の力、人間の力、それらが見る者に深く深く沈潜してゆき、

ミニマムな印象の作風とは不釣合いな豪奢な映画体験が待ち受けていた。

アメリカン・ニューシネマの薫りが充満しつつも、

先日観た『ヤング≒アダルト』にまで通底しそうな、

女性のもつ普遍的な存在の耐えられない重さを感じ続けながら見守ることに。

 

自らが演じ、そして監督も務めたバーバラ・ローデンの発するオーラは

「ワンダ以外の何者でもない」(上映後のパイーニ氏の講演でも力説されていた)

というほどの《真実》そのものが濃縮されたかのような強烈さがフィルムに焼きついていた。

ところどころ、フレデリック・ワイズマンまでをも想起しながら観ていたのだが、

どうやら撮影を担当したニコラス・プロフェレスという人は当時

シネマ・ヴェリテやダイレクト・シネマで撮っていたりしていたらしく、納得。

多くの人がそうであるように、私もカサヴェテスを想起したが、

昨年ニュープリントで日本初公開された『マイキー&ニッキー』などとの親和性も

勝手に感じながら観たりもしたが、おそらく女性監督という点で、

カサヴェテス以上に要素的な重なりが感じられたのかも。

しかし、そうした様々な想起を超えて、この作品には唯一無二な魅力が確かにあった。

マグリット・デュラスが熱烈支持をする理由がわかり過ぎるほどの特別があった。

 

本作は、実際に起こった事件(1960年頃の三面記事)に着想を得てつくられたとか。

(マグリット・デュラスの『かくも長き不在』の元ネタも三面記事らしく、

デュラス自身も三面記事に人間の現実や真相を垣間見て非常な関心を示していたらしい。)

男女で銀行を襲撃し、男性はその場で射殺され、女性は裁判にかけられた。

判決は懲役20年で、その際その女性が裁判官に感謝の言葉を口にしたことが

奇異として報道されたらしい。

しかし、そうした《謎》こそがバーバラ・ローデン、

ひいてはマグリット・デュラスをひきつけてやまぬところだという。

バーバラ・ローデンは、その女性の内面を理解したかったからこそ本作を撮った

と語っているらしい。

処女作ということもあってか、

全てのシークエンスにバーバラ・ローデンの映画に対するこだわりが

様々な形で具現化されているかのように、隅々まであらゆる魅惑の贅を尽くしている。

 

冒頭の採掘場におけるブルドーザーの音に重なる赤ん坊の泣き声。

その混沌のなかでまどろむワンダ(バーバラ・ローデン)。

その情景を日常として淡々とおさめてゆくカメラ。

もうこれだけで、日常に潜む強烈な固有性が焙り出されてくる。

白い服に身をまとったワンダを遠くから長らく眺めるカメラの映像は、

16mmの粗さと厚さで黒と白のコントラストが闇のなかを彷徨する光のようだ

とはパイーニ氏の評。

私も、あのシーンには強く感銘を受けた。

私の場合は、その距離の果てしなさに。

観ている自分からスクリーンの距離、更にその奥にまで広がる被写体までの距離。

しかも、絶対的に縮めまいとするカメラ。

かと思えば、車中においては何度も顔がアップとなる。

横からとらえるカメラに正面を向いて。

その不自然な「正面」は、

ワンダという女性がまっすぐ前を向くことに違和感を払拭しきれずにきた人生と呼応する。

 

粗い画の魅力は神妙に、空の青にしばしば向けられる。

うっすらと拡がる千切れ雲を圧倒する青の空。見上げるワンダ。

空に浮かんでいるような感覚にひたっているかに見える画もあったりする。

 

パイーニ氏もお気に入りという劇場でのシーン。

映画内で登場人物が映画を観ているシーンというのは珍しくないが、

上映中のみならず、上映後も闇につつまれているかのような場内で、

いつまでも醒めぬ夢(映画であり、自己の夢想)がまとわりついてる幻想の光景。

そこで疎通してるのかしてないのか些か判然としない少年との交流が仄かに温かだ。

 

アメリカン・ニューシネマの風貌をしながら、

ロードムービーの倦怠と疾走を体現し、

女性映画としての陰鬱もひきつけつつ、

ドキュメンタリーとしての表情が透けて見えもする。

唯一無二でありながら、

当時のみならず現代の映画ともさまざまな親和性をもつ普遍の孤高。

ダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』なんかもふと想起した。

 

フランスではイザベル・ユペールが権利を買い、配給・公開に尽力したとか。

旧作のニュープリント公開などが最近じわじわ増えてきている日本での公開も切望したい。

本作のような隠れた傑作が映画ファンに時空を超えた僥倖をもたらしてくれるのは

確かなはずだ。