アテネ文化センターで先月組まれていたマグリット・デュラス特集と、
日仏学院で日曜に始まったフランス女性監督特集の架け橋のような特別上映。
エリア・カザンの二番目の妻であり女優であったバーバラ・ローデンの初長編監督作。
処女作にして遺作。(1970年38歳のときに監督し、1980年48歳で死去)
何でもマグリット・デュラスは
「この映画を公開するためならなにを差し出してもいいとまでいって絶賛」したらしい。
今回はフランス語字幕付の35mmプリントでの上映。
このプリントは昨年の3月12日に行われた北仲スクール主催のイベントで上映するために
坂本安美氏が取り寄せ、そのまま「隠し持っていた」とのこと。
今回の上映にあたり権利元に確認、
「フランス女性監督特集」の企画協力者でもあるドミニク・パイーニ氏の来日にあわせて
特別上映が決まったのだという。
何とも贅沢な企画だ。
アテネと日仏が見事なコンビネーションで、二つの企画を華麗につなぐ至福の横断。
事前の情報や知識もなく臨んだ上映だったが、
フィルムからは強烈な威力が103分絶え間なく放たれ続け、
映像の力、風景の力、人間の力、それらが見る者に深く深く沈潜してゆき、
ミニマムな印象の作風とは不釣合いな豪奢な映画体験が待ち受けていた。
アメリカン・ニューシネマの薫りが充満しつつも、
先日観た『ヤング≒アダルト』にまで通底しそうな、
女性のもつ普遍的な存在の耐えられない重さを感じ続けながら見守ることに。
自らが演じ、そして監督も務めたバーバラ・ローデンの発するオーラは
「ワンダ以外の何者でもない」(上映後のパイーニ氏の講演でも力説されていた)
というほどの《真実》そのものが濃縮されたかのような強烈さがフィルムに焼きついていた。
ところどころ、フレデリック・ワイズマンまでをも想起しながら観ていたのだが、
どうやら撮影を担当したニコラス・プロフェレスという人は当時
シネマ・ヴェリテやダイレクト・シネマで撮っていたりしていたらしく、納得。
多くの人がそうであるように、私もカサヴェテスを想起したが、
昨年ニュープリントで日本初公開された『マイキー&ニッキー』などとの親和性も
勝手に感じながら観たりもしたが、おそらく女性監督という点で、
カサヴェテス以上に要素的な重なりが感じられたのかも。
しかし、そうした様々な想起を超えて、この作品には唯一無二な魅力が確かにあった。
マグリット・デュラスが熱烈支持をする理由がわかり過ぎるほどの特別があった。
本作は、実際に起こった事件(1960年頃の三面記事)に着想を得てつくられたとか。
(マグリット・デュラスの『かくも長き不在』の元ネタも三面記事らしく、
デュラス自身も三面記事に人間の現実や真相を垣間見て非常な関心を示していたらしい。)
男女で銀行を襲撃し、男性はその場で射殺され、女性は裁判にかけられた。
判決は懲役20年で、その際その女性が裁判官に感謝の言葉を口にしたことが
奇異として報道されたらしい。
しかし、そうした《謎》こそがバーバラ・ローデン、
ひいてはマグリット・デュラスをひきつけてやまぬところだという。
バーバラ・ローデンは、その女性の内面を理解したかったからこそ本作を撮った
と語っているらしい。
処女作ということもあってか、
全てのシークエンスにバーバラ・ローデンの映画に対するこだわりが
様々な形で具現化されているかのように、隅々まであらゆる魅惑の贅を尽くしている。
冒頭の採掘場におけるブルドーザーの音に重なる赤ん坊の泣き声。
その混沌のなかでまどろむワンダ(バーバラ・ローデン)。
その情景を日常として淡々とおさめてゆくカメラ。
もうこれだけで、日常に潜む強烈な固有性が焙り出されてくる。
白い服に身をまとったワンダを遠くから長らく眺めるカメラの映像は、
16mmの粗さと厚さで黒と白のコントラストが闇のなかを彷徨する光のようだ
とはパイーニ氏の評。
私も、あのシーンには強く感銘を受けた。
私の場合は、その距離の果てしなさに。
観ている自分からスクリーンの距離、更にその奥にまで広がる被写体までの距離。
しかも、絶対的に縮めまいとするカメラ。
かと思えば、車中においては何度も顔がアップとなる。
横からとらえるカメラに正面を向いて。
その不自然な「正面」は、
ワンダという女性がまっすぐ前を向くことに違和感を払拭しきれずにきた人生と呼応する。
粗い画の魅力は神妙に、空の青にしばしば向けられる。
うっすらと拡がる千切れ雲を圧倒する青の空。見上げるワンダ。
空に浮かんでいるような感覚にひたっているかに見える画もあったりする。
パイーニ氏もお気に入りという劇場でのシーン。
映画内で登場人物が映画を観ているシーンというのは珍しくないが、
上映中のみならず、上映後も闇につつまれているかのような場内で、
いつまでも醒めぬ夢(映画であり、自己の夢想)がまとわりついてる幻想の光景。
そこで疎通してるのかしてないのか些か判然としない少年との交流が仄かに温かだ。
アメリカン・ニューシネマの風貌をしながら、
ロードムービーの倦怠と疾走を体現し、
女性映画としての陰鬱もひきつけつつ、
ドキュメンタリーとしての表情が透けて見えもする。
唯一無二でありながら、
当時のみならず現代の映画ともさまざまな親和性をもつ普遍の孤高。
ダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』なんかもふと想起した。
フランスではイザベル・ユペールが権利を買い、配給・公開に尽力したとか。
旧作のニュープリント公開などが最近じわじわ増えてきている日本での公開も切望したい。
本作のような隠れた傑作が映画ファンに時空を超えた僥倖をもたらしてくれるのは
確かなはずだ。