実際に観た後にはきっと、
「これは映画ではない」というタイトルに正しい違和感を覚えるだろうと思ってた。
しかし、実際に作品に接してみて、
『これは映画ではない』というタイトルは極めて正しかったように思えてしまう。
むしろ、『これこそは映画だ』という結論で片付けようとする評者の言説にこそ、
正直言って違和感を禁じ得ない。
「これは映画ではない」という表明は、
映画を作ることを禁じた政府への言い訳でありながら、
実はパナヒ本人が自身へ向けた言い訳でもあり、
更にはそう明言することで映画がつくれない痛みを刻み込みたかったようにも思う。
だから、「このような状況下においても紛れもない映画をつくっている」などという評は、
些か冷ややかな頭脳による明察で片付けられてしまう寂しさを感じる。
作中のクライマックスの一つでもある、パナヒが声をつまらせる場面。
映画を撮ることは禁じられているが、脚本を読むことは禁じられてないと言って、
悪戯っぽい表情を浮かべてせっせと室内に「セット」を拵え始めたパナヒがやがて、
「脚本を読んで済むなら映画を撮る意味なんてないじゃないか」と語り顔を伏せる場面。
『これは映画ではない』を「これぞ映画だ」などと他人が容易く賞賛することは、
蹂躙と喪失がパナヒにもたらした苦悩を安易に看過してしまわないだろうか。
「これは映画ではない」という彼の痛切な叫びを受け止めているだろうか。
「これこそが映画だ」と納得できる創作を希求する本懐に応えているだろうか。
パナヒが現実への悲嘆に暮れた後、
彼は自作における〈映画〉の瞬間を確認し始める。
それはまさに「具体の芸術」であり、「自然との格闘」である映画が持つ偶発性。
ドキュメントの中からしか浮かび上がれないフィクションの力の源。
中心となる権威(映画監督/政府)の意図や管理を凌駕する〈自然〉を
監督下の個人(キャスト/パナヒ)は常に宿しているという確認。
そこに南三陸町の津波映像が流れるのも必然なのだ。
そうした精神的な絶対的自由(自然の感情)は、
誰もが等しく持っている、いや保ち続けるべきものなのだと、
この作品は声をひそめながらも語り続けているように思う。
「A Film By ・・・」と表記することのできない現実はしかし、
「An Effort By・・・」と表明したい理念を抑圧しきることはできない。
「Thanks to colleagues」に続く名は明記されず、「・・・・・・・・・」が並ぶのみ。
それは、具体的な名を挙げられた者に圧力や制裁が加わることを避けるためだが、
もしかしたらもう一つの匿名性として記されたのかもしれない。
そう、この「物語」を目撃した我々一人一人こそがcolleagueなのだという期待。
そんな祈りが届き、想いを共有してくれた相手へと送る「Many Thanks to ・・・・・・・・・」。
「This Is Not a Film」というパナヒの叫びと悲しみに束の間寄り添って、
その《共有》から私たちの足下を見つめたい。
◇こういった作品を観てしばしば語られる「自らの環境が恵まれていることへの感謝」。
とりわけ本作を観ても、そのように楽観的でいられるとしたら、少し寂しい気がする。
本作における軟禁は、極めて「紳士的」であり、物質的には非常に恵まれ、
身体的な自由もそれほど侵害されていない(一見)からだ。
つまり、そのような「洗練」されてきている(つまり、より不可視で潜在化する)拘束は、
民主的な国家においてこそ識らぬうちに激しく進行しているものだと思う。
とりわけ、「ネットワーク」やら「コンピューター」やらが実権を握る社会では。
その一方で本作が持つ逞しさは、そうしたソフィストケイテッド管理社会からいかにして
「はみだす」かを試みているところにあるのだろう。《政治》で対抗することなく。
管理(呪縛)を意識した時、人間はより管理から逃れようとするという事実。
不自由を認識せざるを得ない者ほど、自由を希求して止まぬという現実。
そんなことをふと思うとき、私たちがパナヒより自由であることの証左は消える。
しかし、其処此処に《自由》が宿っていることを祝福できる自由は等しく手にしてる。
悲観することからうまれる最高の楽観を、『これは映画ではない』は教えてくれる。