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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

これは映画ではない(2012/ジャファール・パナヒ)

2012-09-30 22:57:06 | 映画 カ行

 

実際に観た後にはきっと、

「これは映画ではない」というタイトルに正しい違和感を覚えるだろうと思ってた。

しかし、実際に作品に接してみて、

『これは映画ではない』というタイトルは極めて正しかったように思えてしまう。

むしろ、『これこそは映画だ』という結論で片付けようとする評者の言説にこそ、

正直言って違和感を禁じ得ない。

 

「これは映画ではない」という表明は、

映画を作ることを禁じた政府への言い訳でありながら、

実はパナヒ本人が自身へ向けた言い訳でもあり、

更にはそう明言することで映画がつくれない痛みを刻み込みたかったようにも思う。

だから、「このような状況下においても紛れもない映画をつくっている」などという評は、

些か冷ややかな頭脳による明察で片付けられてしまう寂しさを感じる。

 

作中のクライマックスの一つでもある、パナヒが声をつまらせる場面。

映画を撮ることは禁じられているが、脚本を読むことは禁じられてないと言って、

悪戯っぽい表情を浮かべてせっせと室内に「セット」を拵え始めたパナヒがやがて、

「脚本を読んで済むなら映画を撮る意味なんてないじゃないか」と語り顔を伏せる場面。

『これは映画ではない』を「これぞ映画だ」などと他人が容易く賞賛することは、

蹂躙と喪失がパナヒにもたらした苦悩を安易に看過してしまわないだろうか。

「これは映画ではない」という彼の痛切な叫びを受け止めているだろうか。

「これこそが映画だ」と納得できる創作を希求する本懐に応えているだろうか。

 

パナヒが現実への悲嘆に暮れた後、

彼は自作における〈映画〉の瞬間を確認し始める。

それはまさに「具体の芸術」であり、「自然との格闘」である映画が持つ偶発性。

ドキュメントの中からしか浮かび上がれないフィクションの力の源。

中心となる権威(映画監督/政府)の意図や管理を凌駕する〈自然〉を

監督下の個人(キャスト/パナヒ)は常に宿しているという確認。

そこに南三陸町の津波映像が流れるのも必然なのだ。

 

そうした精神的な絶対的自由(自然の感情)は、

誰もが等しく持っている、いや保ち続けるべきものなのだと、

この作品は声をひそめながらも語り続けているように思う。

「A Film By ・・・」と表記することのできない現実はしかし、

「An Effort By・・・」と表明したい理念を抑圧しきることはできない。

「Thanks to colleagues」に続く名は明記されず、「・・・・・・・・・」が並ぶのみ。

それは、具体的な名を挙げられた者に圧力や制裁が加わることを避けるためだが、

もしかしたらもう一つの匿名性として記されたのかもしれない。

そう、この「物語」を目撃した我々一人一人こそがcolleagueなのだという期待。

そんな祈りが届き、想いを共有してくれた相手へと送る「Many Thanks to ・・・・・・・・・」。

 

「This Is Not a Film」というパナヒの叫びと悲しみに束の間寄り添って、

その《共有》から私たちの足下を見つめたい。

 

◇こういった作品を観てしばしば語られる「自らの環境が恵まれていることへの感謝」。

   とりわけ本作を観ても、そのように楽観的でいられるとしたら、少し寂しい気がする。

   本作における軟禁は、極めて「紳士的」であり、物質的には非常に恵まれ、

   身体的な自由もそれほど侵害されていない(一見)からだ。

   つまり、そのような「洗練」されてきている(つまり、より不可視で潜在化する)拘束は、

   民主的な国家においてこそ識らぬうちに激しく進行しているものだと思う。

   とりわけ、「ネットワーク」やら「コンピューター」やらが実権を握る社会では。

   その一方で本作が持つ逞しさは、そうしたソフィストケイテッド管理社会からいかにして

   「はみだす」かを試みているところにあるのだろう。《政治》で対抗することなく。

   管理(呪縛)を意識した時、人間はより管理から逃れようとするという事実。

   不自由を認識せざるを得ない者ほど、自由を希求して止まぬという現実。

   そんなことをふと思うとき、私たちがパナヒより自由であることの証左は消える。

   しかし、其処此処に《自由》が宿っていることを祝福できる自由は等しく手にしてる。

   悲観することからうまれる最高の楽観を、『これは映画ではない』は教えてくれる。

 


第9回ラテンビート映画祭(1)

2012-09-28 23:58:50 | 2012 ラテンビート映画祭

 

ここ数年は10本前後を観賞しているラテンビート映画祭。

たまにピンと来ない作品に当たることもあるものの、

年間ベスト級の私的傑作に出会えることも珍しくなく、

概ね「観られることが有り難い」貴重な上映機会の宝庫でもある。

今年も回数券を2セット買ってしまったので、10本は観る予定。

例年は秋分の日あたりの祝日と絡んでいた新宿バルト9での開催日程も、

今年はやや後ろにずれ込み、私も丁度仕事が入っている土日と重なり、

スケジューリングにやや苦戦&観賞断念も少々。

 

 

ホワイト・エレファント(2012/パブロ・トラペロ)

 

いまやアルゼンチン映画界を背負って立つ男となったパブロ・トラペロ。

ラテンビート映画祭では『檻の中』(カンヌ・コンペ出品)や

『カランチョ』(カンヌ・ある視点出品)を観させてもらったが、

今年のカンヌある視点部門で上映された本作が早くも観られることに感謝。

ちなみに、パブロ・トラペロの長編監督作は日本での劇場公開はないのだが、

今夏に公開された『セブン・デイズ・イン・ハバナ』の火曜日(エミール・クストリッツァ主演)

を監督していたのが、パブロ・トラペロ。

 

『檻の中』には相当魅了される何かがあった為、

一気に私的注目監督の仲間入りしたものの、

続く『カランチョ』が全くもって響かなかったという一勝一敗のこれまで。

いよいよパブロと私の相性が決することとなるであろう、本作。

しかし、結論はまた次作へと持ち越しだった・・・。引き分けって印象で。

 

『檻の中』的な落ち着きと『カランチョ』的な散漫さが同居して、

「行間」とは異なった「ブランク」を随所に感じさせ、語ることへの信頼をやめたのか?

(原題「Elefante Blanco」の「blanco(白い)」は「blank」と語源が同じらしい…)

 

『檻の中』では、

贅肉が執拗に削ぎ落とされながらも確たる骨格に物語の力が宿っていたが、

本作では時折贅肉のような感傷に塗されながらも、物語の屋台骨は完全喪失で。

そうした「まとめ方」というよりも「まとめなさ」は確かに新鮮ではあるものの、

マイケル・ナイマンが虚飾すれすれに聞こえてしまいそうな過映画的ランドスケープは、

その心地好さにむしろ戸惑いを覚えてしまうほど。心の受け皿が判然とせず。

 

ただ、退屈することなく(する間もなく)時間は前のめりで進んでいくために、

体感時間は極めて短い。

しかし、それは同時に時間の経過に寄り添えぬことをも意味し、

だから登場人物の心の変遷が我々を帯同することもない。

リカルド・ダリンやマルティナ・グスマンというトラペロ組俳優陣の余裕の演技と、

ジェレミー・レニエお得意の慢心若造っぷりは、安定感がありすぎて緊張感が稀薄。

とはいえ、やはり好い役者の存在感はただ観ているだけでも堪能に値して、

とりわけジェレミーがこうした舞台に存在している違和感こそが

終始鮮やかな画をつくっている。

 

語りたい「おはなし」や「想い」よりも、

見せたい画や並べたい断片が過剰に自己主張しているところは、

西川美和と何となく重なったりして。(最近観たからなだけにも思うが)

大いなる散漫でありながら、見事に引きつけ続けるという点では、確かにそっくり。

 

 

シングー(2012/カオ・アンブルゲール)

 

実話に基づいて作られた映画らしい。

「ブラジル初の先住民保護区」ができるまで、みたいなお話なんだけど、

それを成し遂げるために貢献したヴィラス・ボアス三兄弟を中心に物語は進む。

上映が始まってからしばらく集中しにくかった(後述)影響のせいかは判らぬが、

個人的には全く心を動かされぬまま観終えてしまった印象だ。

 

ただ、画はひたすら素晴らしい。

撮影を担当しているのはアドリアーノ・ゴールドマン。

『闇の列車、光の旅』『ジェーン・エア』でキャリー・ジョージ・フクナガと組み、

フェルナンド・メイレレスが昨年発表した『360』でも撮影を担当。

ロバート・レッドフォード最新作『The Company You Keep』の撮影も彼。

August: Osage County』なんていう超豪華キャスト映画、

ジョン・クローリー(『BOY A』)が監督を務めるスリラー

(レベッカ・ホール&エリック・バナ主演)でも撮影を担当する模様。

というわけで、画が充実してるのは当然のことだった。

が、

その画の見事さは未踏の地を明らかに「文明の眼」で踏みしめる。

終始エキゾチシズムによる交流感覚に依存しすぎな展開の凡庸さに新の発見はなく、

描かれるべき葛藤や矛盾や欺瞞が極めて記号的。その深層へと分け入らず。

 

『ホワイト・エレファント』にしても、『シングー』にしても、

武力による侵略(植民地化)の先にある、啓蒙や教化による実効支配的側面がある。

などと勝手に思い込んでしまうのは穿ちすぎかもしれないが、

昨年のラテンビートで観た傑作『雨さえも』の真っ直ぐな誠実とつい比較して、

その「迷いのなさ」に心が動くのを躊躇ってしまうように思う。

 

 

※ラテンビート映画祭は、一昨年の劣悪上映素材問題で不信が高まったものの、

   昨年観たなかでは『The Last Circus』と『カルロス』がブルーレイ上映並の

   のっぺり画質だった以外は、まともな素材で上映していた。

   しかし、客層が時折微妙なのが難点だ。

   とりわけ「ラテン」な方々のマナーの悪さには閉口することも。

   かつて隣に座ったカップルがドンタコスの袋を上映中にバリバリ開け始め、

   臭いも音も撒き散らし、食べ終わったかと思ったらケータイをずっといじってる・・・

   などという絵に描いたような迷惑客に遭遇してしまったのもトラウマのひとつ。

   そして、今年は1本目から見事にラテン悪ビートの洗礼を受けました。

   『ホワイト・エレファント』上映中ずっとお喋りをしているラテンな方々。

   最もシリアスな場面ではクスクスし出したり…。故国ではどうか知らんが、ここは日本。

   郷に入っては郷に従え。

   それともラテンビート映画祭なのだから、こちらが合わせるべきなのか?

   更に2本目の『シングー』では両隣にフライドポテトを食べてる方々。

   上映始まってもムシャムシャ。音もウザいけど、とにかく臭いが…。

   でも、会場(新宿バルト9)で売ってるものだし、映画館の売上に貢献してるんだし、

   彼らを責めるのは間違い!というのは判ってはいるものの…。

   いくら監督の名が「Cao Hamburger」だからって、

   こういう作品をポテトの臭いに包まれて観たくはないよ。

   東京国際映画祭も「ポップコーンいかがっすかぁ~」の掛け声の中で開催されるし、

   シネコンで開催するとなると飲食販売でくらい少しは利益確保したいのもわかるけど、

   映画祭の上映作品ってポップコーン・ムービーと対極にあるラインナップ多数だし、

   本当何とかならないかなぁ・・・というのが本心。

   だから有楽町朝日ホールは椅子の座り心地最悪だけど、場内飲食禁止だから◎。

   いきなり最初の2本からLBFF負の洗礼を受け続け、今後の観賞が心配。

   心配といえば、平日の夜とはいえ、2作ともかなりの空きっぷりだったこと。

   そういえば、個人的にはイマイチと書いた『シングー』だけど、

   珍しくエンドロールではほとんどの観客が立たずに最後まで観ていたし、

   ほんの一部ではあるけれど拍手も聞こえたりしたので、

   フライドポテトさえなければ(しつこい)印象変わってたかも。

 

※『シングー』の監督カオ・ハンバーガー(allcinema表記)は、

   『O Ano em Que Meus Pais Saíram de Férias』で2007年のベルリン・コンペに参加。

   日本ではシネフィル・イマジカで放送されたらしい。(邦題『1970、忘れない夏』)

   是非、観てみたい。(撮影はやはりアドリアーノ・ゴールドマン!)


鍵泥棒のメソッド、夢泥棒のリゾット。

2012-09-26 22:48:18 | インポート

 

『鍵泥棒のメソッド』と『夢売るふたり』を続けて観た。

もう1週間以上も前になるので記憶はおぼろ。今夜の月も?

と思ってベランダ出たけど、月見えず。位置関係。

 

私の中では全幅の信頼印が燦然と輝く、内田けんじ。

全身で苦手表明したいくらいに相性の悪い、西川美和。

そうした好悪の傾向は、それぞれの新作を観た後も変わらぬものの、

若手(中堅?)最注目な二人の作家性は、やっぱりちゃんと進化はしてた。

 

『鍵泥棒のメソッド』は正直、

前半(というより三分の二くらい?)どうも乗り切れず、

「またか?」という程でもないのに妙な胃もたれ停滞感から抜けきれず、

一時期の竹中直人を彷彿させる頻出っぷりの香川照之に辟易・・・

のはずが、意外にも堺雅人にじれったさを覚えてしまうとは。

いやね、本作の香川照之は好かったわ。

彼の「新鮮」がなければ、途中リタイア絶対してた。

最近の食傷傾向は明らかに「香川印」でしかない演技ばかりで押し切っていたからで、

こうしてまだ新しい抽斗があったのか!という醍醐味を引き出す内田監督はやはり匠。

ただ、「元に戻った」後の香川照之は香川照之でしかないんだけど、

さっきまでの「新鮮」からの反動は妙に心地好い「しっくり」を運んで来てくれた。

広末の成長しない演技に絶妙な「違和感」を託したりしてるところも、何だかんだで巧い。

主役(の一人?)のはずの堺雅人には、最後の最後にちょこっとだけ見せ場がある程度。

ってところの「引き」加減も観ている最中は馴染めぬものの、

終わってみればナイスバランス。

 

前半に味わった「停滞感」はおそらく、

これまでの作品における交通や運動といった主成分が、

観察や凝視に移り変わりつつある過渡期における脱皮の時間だったのかもね。

これまでの内田作品においては、

人間そのものよりも、人間相互の関係性やそこで発生する紛糾の可笑しみを、

神の視点によって操り続けて最後には観客がその操作を疑似体験。

そこに浮かび上がる「公式」の完全無欠に万歳喝采。

 

しかし、今作では人間そのものにこそ照準は絞られる。

そして、関係性が生みだすダイナミクスより、関係性が生む内的バイオリズムに注視する。

そういう眼で再度観賞すべき秀作なのだと見終えて実感。

 

これまでの作品が加速度的にスピードアップ後の跳躍!

であるならば、

今回の作品はひたすら歩きに歩いて突然駆け出す躍動!

 

平易に言い切ってしまうとするならば、

頭脳戦から心理戦、いや心裏腺。

ウラを隠すことで引きつけてきた策士が、ウラを最初から見せて勝負してるから、

その更にウラを勘ぐる観客に、そもそもウラもオモテもありません!

とはいえ、確かな助走なしに、あのような最後の飛躍を楽しむことはできないだろう。

ラストが胸にキュンときちまう私には、冗長助走が生き返る。

 

それに比して『夢売るふたり』の投げやりな失速感はどうだろう。

そこにこそ「疲弊しきった色気」のような匂いが立ち籠めて来てるでしょ?

的な媚態が終盤幕間、顔を出す。松たか子のドヤ顔っぷりが監督のそれを映し出す。

というか、ドヤ顔ってもう滅多に聞かなくなったねぇ。流行後の流行語。

 

阿部サダヲのモテ度に疑問云々はわからないでもないが、私はそこまで訝りもせず、

むしろ直前に見た『鍵泥棒~』の無垢香川に胸キュンだったので(笑)

インパクトの薄さというか阿部サダヲ想定内に些か物足りず。

 

つい先日に早稲田松竹で堪能した名カメラマン柳島克己の仕事、その現在。

ベタがべたっとしない画を、さりげなさとえげつなさの間を右往左往。心地好い定点。

そんな魅惑を味わいつくせる配慮には、西川監督の余裕を感じたり。

 

それでも、彼女が紡ぐ物語の歪さに作為しか感じられぬのは、

人間の内面を掘り下げることを主意としながらも、

結論(完成形)から図面を引いたフィクションだから?

まずは主張が先にあり、そこから「そのための人物」「そのための展開」が配置され、

それらが効率よく作用するよう組み立てられる。そんな駒の動かし方に見えてしまう。

あまりにも主張したげな「行間」は、想像力を緊張状態に追い込んでしまう。

弛緩による解放の美学は許されない。だから作品はいつだって開放しない。

ただ、そうした性念の主張にバッチリ共鳴できる人々にはおそらく、

他では味わえぬような感銘や感慨がもたらされるのだろう。

だから、「デキる」リーダーであることには間違いない。

 

内田・西川両名とも、

作家性と娯楽性を意固地に峻別することなく、

共存を探りつつも自分なりの表現を模索する真摯な姿勢には敬服する。

一方で、マンネリかブレイクスルーかの分岐が次作で決するだろうことにも期待と不安。

 


ラウル・ルイス特集上映 フィクションの実験室(3)

2012-09-23 22:56:39 | 2012 特集上映

 

ラウル・ルイスが亡くなってから1年が経過した今年9月。

夏の入り口でラウルの寵児メルヴィルが届けてくれた「見られざる虚匠」の足跡を継承。

夏の出口に向けてアンスティチュ・フランセ東京で開かれた「見られるべき巨匠」の確認。

 

3週に渡って通った飯田橋で溺れに溺れる夢幻時間。

それも今日で最後かと思うと、ただただ寂しい。

勿論、底無しの敬愛が親愛として膨らむような「新しい」巨匠像がたまらなく、

掴もうとすると指間を抜ける感覚が面白くて仕方なく、

掴めないために掴むという運動に中毒状態。

 

最終日にも興味深い3本のラインナップを堪能。

ただ、たっぷり睡眠で臨んだにも関わらず、

前日の疲労のせいもあり、不覚にもラウル作品初の寝落ちを・・・。

まぁ、これも経験しなければラウル・ルイスを味わいつくしたとは言えないしな!

という無意味な強がりに興じることも、彼の作品群なら可能だな。

 

 

宝島(1986)は、本特集のなかでも極めて貴重な1本であることは定か。

なぜなら、無字幕での上映だから・・・それだけ「かけるべき」作品という証左。

12(13?)歳頃のメルヴィル・プポーが堪能できるのみならず、

ジャン=ピエール・レオまで出てきたりして、それだけで豪奢な渾沌館。

相変わらず可愛らしい「影使い」を味わいながら、自然美のグラデーション目まぐるしく、

空の七変化に眩暈を覚える魅了は続き、観客すらも「おはなし」に没入し始める。

ラウル・ルイスの作品にはどれも言えることだが、とりわけ本作においては、

他の作品では絶対に味わえない「感覚」を喚起するに足りる包容力が凄まじい。

波に浚われて目覚めた浜辺から、観客は物語に導かれ、やがて海へと還される。

ペダンチックな難解さとは次元の異なる、感興フェスティバルが今日も始まった。

 

 

クリムト(2006)は、日本でも公開された作品。だから、日本語字幕入。

だけど、ラウル・ルイスの作品においては、字幕の有無は小さな問題な気もするので、

もはや日本語字幕がついている方が違和感、とは言い過ぎまでも妙に不安だったりも。

言葉への依存と、それによって込み上げる困惑や不可解にのみ込まれそうで。

それだけ、私にとってのラウル・ルイス作品鑑賞は「委ねる」ことが必定なのだ。

もはや鑑賞でも観賞でもなく、干渉など以ての外で、ひたすら感傷に身をまかす。

ところが、本作は全編英語であったり、(おそらく)受注生産的だったりもして、

ラウル・ルイス自身の個性が窮屈そうな迷走を重ねている気もしてしまった。

『見出された時』では原作との相性もあってか、相乗効果的結実をみせていたものの、

本作ではグスタフ・クリムト自身の魅力との心地好い戯れが叶わなかったよう。

97分という上映時間がディレクターズ・カットなのかどうかは判らぬが、

本作も2時間超で語り尽くさぬ贅沢な緩慢を味わえるような可能性があった気もする。

やはり、ラウル・ルイスという作家には、奔放さを許容する絶対的自由が必要だ。

 

 

向かいにある夜(2011)はラウル・ルイスの遺作となった1本。

今年のカンヌで初公開されたらしい本作が、もう観られるなんて幸甚の至り。

そもそも、今年2度に渡って確信をもってラウル・ルイスを紹介してくれた日仏学院

(改めアンスティチュ・フランセ東京)というかPDの坂本安美氏には敬服しきり。

そして、赤坂太輔氏の旗振りによって「大規模な回顧上映」が本当に実現することを、

心の底より願って止まぬ。

というよりまず、この『向かいにある夜』をもう一度、いや何度も観たい!

ミステリーズ 運命のリスボン』を経て、

デジタルという新たな玩具を手にしたルイスは、確実にネクスト・ステージに跳ね上がり、

「デジタルに魅せられる世界」を見事に建立してみせた。

フィルムを知り尽くした表現者だからこそ挑めるデジタルの必然性と偶発美。

フォーマットが違うのだから、明らかに違った美を追求し、

それでやっぱり見たことないもの見せてくれるのだ。

そこにはもう、柔らさと淡さを灯す光はないが、

明滅の危うさと背中合わせの儚い光が刻まれる。

影はもはや光の裏面にあるのではなく、ただただ暗闇を呈するのみ。

しかし、そんな世界の見え方にも、どんな世界の見え方にも、

豊穣さを見るのは人間なのだと諭された気がしてしまう。

 

夜はもう直ぐそこまで来てる。

ならば夜に抱かれよう。夜から眼をそらさずに。

The night in front, night across the street, into the night.

英題はいくつもの貌をもち、最後まで多面の豊かさを湛えたラウルの作品を讃えてる。

 

 

『盲目の梟』を観られなかったのは残念でならないが、

それ以外の作品を全部観られたという事実は明らかに、

ラウル・ルイスという作家の得体の知れぬ吸引力の為せる業。

6月の特集上映で見逃した『夢の中の愛の闘い』や『ファドの調べ』

(どちらも本当に本当に素晴らしい!)を観られた悲願成就の有り難さ。

大規模レトロスペクティヴが困難ならば、毎年特集組んで欲しい。

浸透までは時間が幾分かかりそうな作家性。だからこそ。

 

いよいよ来月に公開が迫った『ミステリーズ 運命のリスボン』。

宣伝のアプローチは或る意味「正しい」と思うが、『わたしたちの宣戦布告』同様に、

届くべき(観てほしい/観ればハマる)対象を引き込む務めが未遂な気も。

何はともあれ、まずはラウル・ルイス認知の一歩目を2012年に確実に刻め!

今回のラウル・ルイス特集上映はラウル・ルイスという恒久麻薬を私に注入!

二度と覚めない夢の旅。永遠の旅の途中。向かいにある夜、後の朝。

 


『カルロス』爆音上映

2012-09-21 23:59:14 | インポート

 

『カルロス』を観るのは初めてではないはずなのに、

明らかに、確実に、絶対に、初めて観た。

ようやく、出会えた。実物に。

 

映画作家とは、映画館でしか出会えない存在だ。

どんなに高画質大画面の自宅で観ようとも、

それはやはり映画に似た何か、限りなく近づこうとも成れないない何か。

視界いっぱいに広がるスクリーン、そこから視界を超えて放出される画の飛沫。

座席に身を埋め、固唾を呑んで共に目撃する同乗者たち。

いま、ここに、映画という怪物にのみ込まれんとする空間が立ち現れる。

 

アサイヤスが選んだシネスコ。

それは大きなスクリーンに映し出されてこそ映える《世界》。

元はテレビシリーズとして制作された本作に、

そのような選択と使命を装填したアサイヤス。

テレビに映画の魂、お見舞いしてくれた。

 

何から何まで映画を生きている。

世界を切り取り、世界を編集し、世界を語ろうとする映画として。

全編に隈無く張りめぐらされたシンコペーションなエディティング。

闇のリズムに時折挿し込むブラックアウトは一瞬不在を刻み込み、

フィルムの矜持に魅せられ続ける光の饗宴ライティング。

映像も、音も、すべての残響は鳴り止まず、

あらゆる予響を喚び起こす。

 

私はセザンヌの絵が大好きで、

それは凝視していると胸騒ぎがするからだ。

そして、今回の爆音『カルロス』を観る私の胸はまさにそれ。

絶対に止まらず固まらぬ世界のざわめきに、私の胸は弄ばれる。

そのために必要な、大きな画面と大きな音。うねりの目撃、狂騒への埋没。

臨場する価値を享受せねば、本作が放つ熱量の半分すらも受け止められぬ。

いま観るべき傑作に間違いない本作に、いま最上な環境で立ち会える悦び。

3部をまとめて(通して)観られぬという口惜しさは否めぬが、

この上映を「体験」することは、伝説に立ち会うことかもしれないと、

早くも来年の爆音映画祭における「一挙上映」への夢想が確信させる。

 

残念ながら第1部の上映は今日で終わってしまったが(※)

明日からは第2部、そして来週末からは第3部の上映が控えている。

また、本作が放つ威力を存分に享けられるのは、二度目や三度目の観賞でこそ。

反復するたびに、映画のもつ縦軸と横軸は伸長を続け、すべての奥の揺らぎは止まぬ。

ゾクゾクでもソワソワでもない、渾沌たるゾワゾワの全身体験を、

夏を駆逐する秋の夜にぶちかませ!

 

『カルロス』公式サイト

シアターイメージフォーラムでは各部をいずれも続映中。

    但し、上映形態やタイムテーブルは日によって変わるので要注意。

吉祥寺バウスシアターならサービスデーも充実してるので、利用するのも好いかも。