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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

Playback(2011/三宅唱)

2013-01-10 02:56:10 | 映画 ナ・ハ行

 

オーディトリウム渋谷で『Playback』を観た。

公開直後に観てから2ヶ月近く経った後の再会。

永遠の再会、それが「二度目」。

作中のなかを錯綜する数多のプレイバック。

そうした作品をまさにプレイバックする再会で起こるのは、

反芻でも反復でもなく、増幅や氾濫とも違う、

「上書き」でも「名前をつけて保存」とも違う、

過去への解放。

 

ビデオ撮りをフィルム変換しての上映。

その意図や豊穣が自分のなかでしみ渡る、再会。

フィルムに変換された作品を包むのは、「時のベール」。

「剥き出し」であり「同時性」を曝し続けるデジタルを蔽う、

優しい時間の隔たりがそこには確かに生起する。

 

作業という工程が生み出すラグの贅沢さのみならず、

置き換わることに伴う継承の運動があり、変遷のなかの一貫があり、

時間と共に育った事実が刻印される。勿論、フィルムのまろやかな質感が、

限りなく透明なベールで時間の隔たり(現実との境界)を醸成してる。

 

更に、前回観たときにはなかった極上の味わいが其処に加わった。

それは、フィルムについた塵。これが観たかったからフィルムにしたのかも・・・

そう思いたくなるほど、その塵のひとつひとつが明らかに物語を彩っている。

しかも、モノクロフィルムの塵のなんと美しいことか。

それを強調するかのような白地のエンドロール。

やはり、「時」を見たかったのだ。見たがったのだ、この物語は。

デジタルには出来ない、デジタルでは叶わない、時間の「表現」。

未完であり続けることで、完成は無限になる。

時間と共に更新され続ける作品。

 

次観る時にはもう、そこにある「刻印」は変わっているのだろう。

そう思うと限りなく今が愛おしく、限りない未来が頼もしい。

もう二度と会えない過去に出会えたことがうれしい。

 

◆現在の姿のまま過去に戻る登場人物たちだが、過去の姿のままの一人がいる。

   (三宅監督の前作『やくたたず』の観賞を経ると何とも言えぬ妙味も加わったが。)

   彼は現在から過去を回顧することができない存在だということだ。

   未来は将来としての可能性をもちながら、それが叶わず消えたとき、

   未来は未来のままであり、過去は過去のまま残される。

   だから、未来が将来になり、現在となった者たちは、

   過去に必ず現在が交錯する。

   「プレイ」バックは「プレイ」とは異なるプレイ。

   それはしばしば純粋な再生が叶わぬ悲哀として描かれる。

   しかし、そこに生じる不完全さと不純さこそ、

   無情な時間が授ける可憐な無常。

   それを丹精に慈しむ本作。

 

◆漠とした印象を曖昧な言葉で延々と綴ってしまいそうな一方で、

   とりとめもない具体的な細部を具体的にいちいち解明したい衝動もある。

   そして、そうした企みを試みたとき、

   掴もうとした両の手からはあまりにも多くがこぼれ落ちてゆく・・・

   もうそれを眺めるだけで幸せなのだ。そこに真実を感じられるから。

   そんな感覚、フィクションではなかなか味わえない。

   私たちが見ているのはフィクションでありながら、

   実感するのは自分がフィクションを見ているというノンフィクションで、

   更に自らのなかでは自らの〈Playback〉が共時上映されている。

 

◇たとえば僕は、

   エドワード・ヤンに会いたくなった。

   でも、もう彼はいない。でも、彼は確かにいた。

   そのことが、そのことに関与できたことが、

   そのことがまだ自分のなかに残ってることが、

   奇跡として嬉しくて、軌跡として愛おしい。

   不在の存在感は虚空などでなく、記憶の無限。

   そんな失われゆくことへの悼みが未来に照射されたとき、

   そこに灯された、在ったこと。在ったことは消えないこと。

   消えぬことが在り続けることは、生まれ続けること。

   いつでも会える、また会える。

 

◇本作にパンフがないのは至極残念ながら、

   サウンドトラック収録の缶バッチ型音楽プレーヤー「PLAYBUTTON」なるものを

   劇場では販売している。得体の知れないものに2,000円・・・正直高いと思ったし、

   「普通のCDだったら即買いしてたのに」などと思っていたのだが・・・

   やはり見終わった後にそのまま帰るのも名残惜しく

   (まだ「見続けていたい」感覚で・・・)

   買ってしまった。

   で、これがもう最高なGoes On!

   この物体がもたらすものは、まず〈体験〉であり、

   そして結果として生じる〈所有〉。それも、ワン・アンド・オンリーに。

   まず、ヘッドホンやイヤホンさえ在れば、帰りにすぐ聴くことができる。

   そして、村上淳自らが編集したという音楽・台詞・環境音の「再生」は、

   まさに聴く者の脳内に新たなPlaybackを映し出す。この切ない感覚は他にない。

   そして、「このモノ」でしか聴けないというLOAD不能と

   「それしか」聴けないという汎用性皆無。

   そのアナログ感がもたらす愛着。

   USBケーブル(付いてます)で充電可能ゆえ、繰り返し聞くことはできるものの、

   例え今後壊れるか何かで聴けなくなったとしても、この物体と共に、

   記憶はずっと残っていくだろう・・・などと尚早感傷気分にひたり。

   フィルムにこだわった本篇と呼応するかのよう。

 

   とはいえ、ムラジュンだってあくまでも「ノリ」で買うことを推奨(?)しているし、

   勢いがふつふつと身内にわきおこって来た方のみ限定で、オススメです!

   そういう人にとってはきっと、愛おしいプレイバックの時間が延長され続けることでしょう。

   (ループ再生されるのが、また何とも言えず好い。終わりが始まり。)

 

東京では18日(金)まで![注意!16日(水)休映]

レイトは人によっては不都合だろうけど、レイトに観るのに最適な作品でもあります。

そして、このフィルムの旅はまさに始まったばかりで、

これからさまざまな地で、新たな美塵にまみれに往くのです。

そんな旅の途中で、もしくは旅を一通り終えた後、

「更新」されたフィルムとの再会が、今から楽しみだったりします。

 


ふがいない僕は空を見た(2012/タナダユキ)

2012-12-12 23:59:14 | 映画 ナ・ハ行

 

どうせ「ふがいない」のもファッションで、

「僕」だってきっとメルヘンで、「空」もファンタジックに援用するだけだろ。

なんて思いつつ。おそらく苛々しそうなので退屈はしないんじゃないかな。

そうまで思って観ることにした本作。観ながら普通に、いや随分と、

魅せられちまった悲しみに。汚れちまった僕たちに明日が来る。

 

タナダユキ、なんて表記からしてウゼェ~とか思ってたし、

一本も劇場で観てない(=食指が微動だにしなかった)上に、

WOWOWで観た数本も『さくらん』くらいしか完走できぬほど相性極悪。

だからこそ劇場で観ておこうかな、とも。(家で観たら絶対最後まで観られなさそうだから)

 

あと、やっぱり田畑智子は気になる。

『お引越し』から入っていない自分としては、鈴木杏の時のような気まずさもない(笑)

むしろ、『私の青空』(朝ドラ)から入っている自分としては、やや禁断色にアガりそう。

なんて不謹慎も反省するくらい、いやらしさよりも切ない美しさをたたえていた裸体。

アニヲタ設定も「道具」に堕さず、それなりに切実さに結実してた気がするし。

やっぱり好い女優だわ。相米慎二のDNA、今も其処此処に息づいて。

 

瑛太の弟君も、瑛太よりも結構好きだったりするし。いまだに名前は読めないけど。

彼は声が好いね。瑛太と声そっくりだけど、瑛太よりも頼りなさげが、好い。

『I'M FLASH』でもなかなか好かったけど、俺が彼に味わいを感じた初めては、

『ソフトボーイ』(2010/豊島圭介)。共演の俳優もかなり好かったが、映画自体かなり好き。

ちなみに、同年同月に公開された『さんかく』(吉田恵輔)も抜群のオモロ切なさで好き。

こちらには、田畑智子が出ております。

というわけで、本作は見事なまでに日本映画私的注目キャスティング!

 

更に!

実は秘かに最も期待していたりしたのが窪田正孝。

映画では『十三人の刺客』(どんな役か覚えてない)と『るろうに剣心』しか観てないけど、

俺は何せ『ケータイ捜査官7』を録画して1年間観てましたから。

いやぁ、かなり楽しかったなぁ。懐かしい。

製作総指揮は、三池崇史だからね。

監督陣も、押井守やら鶴田法男やら金子修介などなど、錚々たるメンバー。

それぞれがそれぞれの個性を発揮させて、その回毎に異なるテイストに仕上げてたけど、

物語のベースが高校生エージェントとケータイ型ロボットのバディものという不思議感。

で、そんなどう考えても奇天烈分裂起こしそうな懸念を何食わぬ顔で軽く飛び越えたのが、

窪田正孝の無垢と諦観を自在に往来する表情と佇まい。

いやぁ、あのオモチャみたいなロボット相手に、実に見事な演技っぷりだった。

というわけで、1年も付き合ったものだから、親戚みたいな感覚めばえたり。

 

他にも実力たっぷりなキャスティングで、

原田美枝子はもともと好きだから今更どうこうってこともないけれど、

彼女のもとで働いている役の梶原阿貴が本作の閉塞感に巧い具合の風穴っぷり。

銀粉蝶のイッちゃってる姑&息子溺愛ママっぷり、最凶すぎてマジ最高。

息子役(田畑智子の夫役)の山中崇は、今最も「欠陥人物」の似合う男優。

小篠恵奈って新人もなかなか今後が楽しみかもね。

『リリイ・シュシュのすべて』の頃の蒼井優を想い出したりした。

山口百恵の息子(三浦貴大)も、イミテーション桐谷健太から少しずつ脱皮しつつある!?

 

というわけで、役者陣は本当に適材適所な上に、

見事に各々の魅力を発揮していらっしゃる。

まぁ、それを引き出したのが監督の手腕なのかもしれないけれど、

向井康介の細心に丁寧な脚本がやはり有機的なドラマを醸造しているのだろう。

 

あれ、全然中身に触れてないんですけど・・・

まさか、記事にするほど好いとは思わなかったので、

余りにボーッと観すぎててあんまりちゃんと憶えてない(言い訳)。

とりあえず、『ソフトボーイ』や『さんかく』、そして『ケータイ捜査官7』、かなりオススメです!

 

俺が観ながら感心しきりだったのは、脚本で。

説明と示唆の間を見事に突く「ガラス越し」な世界が展開してて、

共鳴よりも反響が無尽な広がりをもたらしながら、観る者の心の内でも育まれる。

放擲でもなく、牽引でもない、丹精こめた叙事の積み重ね。丁寧な安寧。

 

時折、空の映像が挿入される。

『エレファント』の空や、『SOMEWHERE』のふがいない父娘が見上げた空を想起。

ハリス・サヴィデスよ、ありがとう。ふがいない僕はあなたの空が大好きでした。

 

※そうえいば、あんず(田畑智子)は岡本里美が本名なんだけど、ということは・・・

   岡本の嫁のくせしてゴムつけずにやりまくりだったから、罰が当たったとか!?

   くだらなくて、すみません・・・。

 

さんかく(予告)

 

ソフトボーイ(予告)

 

ケータイ捜査官7 第1話(正規にまるごとアップされてるんだ!)

この第1話は、三池崇史が演出!

 


ハンガー・ゲーム(2012/ゲイリー・ロス)

2012-10-17 22:20:23 | 映画 ナ・ハ行

   

先日観たトニー・スコットの2本立て。

彼の長編1作目は『ハンガー(The Hunger)』だったが、

こちらは『ハンガー・ゲーム(The Hunger Games)』。

勿論、単なるハンガーつながりなだけなのだが、

妙に自分のなかで繋がる2つの作品。

それは、どちらも明らかに「娯楽作としての王道」から逸れている作風なのだ。

 

『ハンガー・ゲーム』を観たのはもう先々週になるのだが、

瞬間的な興奮ヴォルテージが急上昇したりせぬまま終わってしまったものの、

落としどころが行方不明といった名状し難い微かな魅力がこびりついたまま。

そして何より、こうした作風で勝負した作品が大ヒットしているという事実への羨望。

『トップ・ガン』にしてもそうだが、作家性と娯楽性の融合を試みた結果として

生み落とされる(実は)怪作(だったりする作品)が広く支持される奇跡。

そこには「物語」への信頼という文化の底力を感じたりもする。

それに比すれば、

日本の現況は確実に大切なものを喪失しつつあるように思えてならない。

それは本作が壮絶にコケているという受け手の問題というよりも、

そもそも送り手の側が「物語」への信頼を期待する想いを放棄しているからかもしれぬ。

 

本作が肉体的な殺し合いを描いた活劇などではなく、

精神的な葛藤と超克を静かに凝視し続ける心理劇であることは明らかだ。

そして、社会的正義の欺瞞を明らめ、個人的正義の柔靱に見惚れる。

機械仕掛けの社会秩序に卑小な人間が挑む正しさを、

堂々と、しかし穏やかに丁寧に、語ってみせる。

 

◆本作で描かれる「ゲーム」は、現代における様々なイベントに置換可能。

   オリンピックのようでもあり、オーディション番組のような様相まで窺える。

   その背後では勝敗や生死を左右するスポンサーや大衆の存在。

   資本主義、大衆社会。メディア論やゲーム理論がわかりやすく盛り込まれ、

   そこには駆け引きや政治が入り込むものの、主人公の信念に寄り添うことを貫く本作。

   大きな力に翻弄されたり、呑み込まれそうになっては恐怖と興奮を行き来する。

   そんな娯楽の定石を踏むことを頑なに拒み、描くべきはあくまで個人とその内面。

   序盤からカメラがとらえるのは身体の動きではなく、あくまで顔の表情。

   個人と個人の関係性(パワー・バランス)に興味はなく、個人の内を掘り下げる。

   揺らぐカメラに、苦悩しながら対峙する自らの内面をいつしか託してる。

 

◆大統領(ドナルド・サザーランド)は云う。

   「(殺し合いをさせて恐怖を植え付けるだけじゃなく)

    なぜ勝者を出すかわかるか?

    それは、民がそこに希望(hope)を見出させるから。」

   勿論、恐怖によって民衆を支配するという策を採ってはいるのだが、

   実はそうした恐怖よりも「強い」衝動がある。それが希望なのだ。

   一旦見えた希望に人は夢を見る。一縷の望み、可能性。

   それらは、恐怖にすら打ち克つもので、その「強さ」こそ管理の原動力。

   希望を滅却してしまえば、民衆に失うものはない。それこそ転覆のファーストステージ。

   だからこそ、「勝者になれるかもしれない」という可能性を呈示することで、

   恐怖のなかに希望を灯す。それは権力によっていつ消されてもおかしくないのだが。

   資本主義における欲望のメカニズムとも符合する。(権力=市場)

 

◆ゲームの「世界」において、為政者側は「創造主」になっている。

   自然の事象を人工的につくりだす。自然の生命体を人工的にうみだしてゆく。

   更には、ルール(=法律)を決めるのも彼らだが、その基準は何に左右されるのか?

   暴徒と化す状況を避けたいがために、ルールを変更する恣意性。

   その「意」は何処にある?それは必ずしも権力側とも言い切れず、

   かといって、民衆の力が常に変えさせられるとも言い難い。

   独裁と民主が交錯する世界。

   現実社会においてはそれが、更にソフィストケイトでインビジブル。

   ラストの展開にしても、個人の勝利か権力の持続かは定かではない。

   誰もガッツポーズできないという真実味。本当の勝利は非戦にあるという正義。

   ところが、そうした「大いなる希望」こそが「大いなる支配」の持続を約束する皮肉。

 

◇ゲイリー・ロスは、丹精込めてウェルメイドを目指しながらも、

   確固たる主張を語りたい欲求がそれを突き破ってしまう傾向をもつ作家。

   それゆえに、居心地の悪いアンバランスを生みはするものの、

   その出所があくまで誠意だったりするために厄介なのだ。

   無下にできず当惑するうちに、根負けしては愛芽生え。

 

◇撮影のトム・スターンの素晴らしい仕事。

   今年最もゾクゾクした画の連続であった『J.エドガー』。

   動きながら静なる鼓動をとらえさせたら、右に出る者はいないだろう。 

 

◇続編では監督・脚本のゲイリー・ロスが降板し、

   監督:フランシス・ローレンス&脚本:サイモン・ボーフォイといった組み合わせ。

   撮影監督もトム・スターンからジョー・ウィレムズ(『ハード・キャンディ』『リミットレス』)に。

   編集は『(500)日のサマー』『アメイジング・スパイダーマン』のアラン・エドワード・ベル。

   衣装のジュディアナ・マコフスキーも次作では担当しないようで、本当に刷新だ。

   (要は、ゲイリー・ロスの人脈が全て抜けたってだけなのだろうけど。)

   これは作風がガラッと変わるであろうことは明らかな気がするし、

   おそらくこちらの布陣の方が日本ではウケるだろうが、時既に遅し。

   『トワイライト』よりはやや好調な出足だったようだけれど、続編の運命や如何に。

   内容的には、本作にあった滋味がすべて削ぎ落とされて、スリムでアクティヴになって

   まさに無垢に娯楽してる!映画へと「落ち着く」ことが心配だ。

   

◇とはいえ、やっぱりジェニファー・ローレンス!

   『あの日、欲望の大地で』では些かハッとはしたものの、

   大好評『ウィンターズ・ボーン』ではあまりピンと来ず。

   今や人気も評価も絶頂ものな彼女だけれど、最近まで「?」だった俺。

   『LIKE CRAZY』(『今日、キミに会えたら』として11/9DVD発売)で

   出番は僅かながら印象的な彼女を観て、完全降伏。

   今更ながら、本当ようやく、この娘すごい!と痛感。

   女性の涙(しかも恋愛がらみ)にもらい泣きするなんて滅多にないのに、

   『LIKE CRAZY』におけるジェニファーの涙(顔)は至宝たる切なさの代名詞!

   早くもオスカー最有力なんて声も聞こえる『Silver Linings Playbook』への期待が

   とんでもないレベルで暴れだす。楽しみ!愉しみ!!たのしみ!!!

 


ボーン・レガシー(2012/トニー・ギルロイ)

2012-10-02 23:59:21 | 映画 ナ・ハ行

 

ボーン・シリーズは人並みに大好きで、

脚本を務めたトニー・ギルロイの初監督作『フィクサー』にはえらい感心し、

続く『デュプリシティ~スパイは、スパイに嘘をつく~』も世評は芳しくないながら

個人的には随分気に入ってしまい(ブルーレイ買っちゃうくらい)、

明らかにお気に入り監督視しつつあったトニー・ギルロイ。

 

そんな彼がボーン・シリーズのスピンオフでメガホンとるとなれば、

一気に期待も高まるが、おや待てよ的一抹の不安がみるみるうちに膨らんで・・・

そうしたら案の定、公開前後には酷評の嵐・・・満身創痍のトニーを救うのは俺だ!

そう意気込んで観賞してみれば、原則無条件降伏適用の珍品だった。

本作に関わった一流のキャスト・スタッフにとって、

これは明らかに負のレガシー・・・。

 

というわけで、

ダメなとこやトホホ・ポイントは至る所であれこれ語られることでしょうから、

ここでは、そんな本作でも注目すべき「面白い!」ところを挙げてみたい。

 

◎さりげない自虐ネタ!?

   アーロン(ジェレミー・レナー)たちが定期的に服用していた二種類の錠剤。

   ブルーとグリーンのものだが、グリーンは服用中止(不要)になったとか。

   これって、明らかにポール・グリーングラス(スプレマシー&アルティメイタムの監督)

   なんてもう要らないからっ!って表明?

 

◎シェアリング博士(レイチェル・ワイズ)に渡された偽パスポートの名は、

   ジューン・モンロー。

   そういえば以前からレイチェル・ワイズって

   ジャンヌ・モローに少し似てると思ってたんだよね。

   気が合うね!>トニー

 

◎本作の最大のサプライズは何と言っても

   おなじみのテーマ曲「Extreme Ways」に遂に日本語字幕がっ!

   しかも超訳・戸田奈津子!!そして、サビでは遂に!もはや日本語ですらないっ!

   BABY... BABY...

   いや、嫌味とか皮肉とかじゃなく、

   本作における最大の「観て好かった」と思える面白ポイントでした。

   (歌詞の字幕が出た瞬間、椅子から転げ落ちるかと思ったわ・・・

    これほどの規模の作品で、あのような悪い冗談を堂々とぶっ放す根性、最高!!)

   ちなみに、今回の「Extreme Ways」の超絶ダサアレンジは何なんだ!?

   出来上がった本作を観たMOBY最大限のプロテスト!?

   でも、不自然な歌もの感増量仕上げが、字幕付に妙に合ってしまっていたのも事実。

 

あれ?結局・・・

 

そして、黒歴史となったキャストやスタッフたちに注目してみたい。

 

まず、キャストでは何と言ってもエドワード・ノートン。

『アベンジャーズ』断っておいて、こっちでジェレミーと共演果たす。

『ディクテーター』での全く意味不明なカメオ出演に続いて、彼のキャリア心配過ぎる。

 

スタッフでは何と言っても、撮影監督のロバート・エルスウィット。

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』ではアカデミー賞も手にし、

ポール・トーマス・アンダーソンとの名コンビでも有名な彼。

ポールの最新作『The Master』でも確か当初は撮影を担当するらしかったのに、

撮影時期が本作と重なってしまった為に交代せざるを得なかったと聞いた憶えが。

(それで抜擢されたのが『テトロ』等のコッポラ最近作の気鋭若手監督!)

明らかにオリバー・ウッド(ボーン3部作の撮影監督)を意識させられながらの仕事

って感じが余りにも不憫に思えてしまう画の仕上がり(と勝手に判断・・・)

 

更に、

音楽を担当するジェームズ・ニュートン・ハワード近年の作品運の無さが尋常でない。

『ツーリスト』、『幸せの教室』、『グリーン・ホーネット』、『グリーン・ランタン』・・・。

『ツーリスト』なんかはスコア単品で聴けば、随分と好い仕事してたと思うんだけど。

『ダークナイト ライジング』ではクレジットから外されてたけど、

実際にも関わってなかったのかな?

(アカデミー賞関連でクレジット問題があったから?)

いずれにしても、こちらも前任者(ジョン・パウエル)の仕事が見事過ぎて、

「そうした好い思い出を邪魔しない」程度を顧慮することで手一杯といった印象。

 

そして、監督のトニー・ギルロイは言わずもがなの株大暴落。

なんかやっぱり俺の好きなポール・ハギスと似た道のりを歩んでない?

彼も脚本で脚光浴びて、初監督作(『クラッシュ』)で評価も実績も上げたものの、

『告発のとき』では微妙な結果(俺は断然支持!)で微妙な流れが始まれば、

最新作の『スリー・デイズ』は俺も正直トホホな出来で・・・。

やっぱり二人とも、社会に対する批評眼や人間に対する洞察こそが本領で、

アクションやらスリラーやらを職人的にさばくのは明らかに向いてないんだろうね。

というわけで、早いところ自分に合った畑で最高の果実を産み出してくれ!

 


ハングリー・ラビット(2011/ロジャー・ドナルドソン)

2012-06-22 23:02:32 | 映画 ナ・ハ行

 

人間性と理性が導くべき正義とは?

そんな真摯な問いを試みて、「正しい」答えは放擲する構え。

娯楽映画にとって正当であり、かつ社会派たり得る娯楽映画の唯一の途。

それは中心(感情移入の拠点)を固定したまま突っ走った後にその中心を消されたり、

中心が凄まじい振幅でもって絶えず移動を止めなかったり、

結局中心などどこにも見当たらなかったり。

本作はそのどれにも当てはまる。

 

かといって落ち着きがなかったり、煙に巻かれ続けるような映画ではない。

驚くほどシンプルでギミックなどに頼らずに、かなり人間そのものに拠っている。

予算の問題でもあるのだろうが、とにかく役者の身体や表情に全幅信頼ドナルドソン。

それを適度に賺しつつ、自分のキャラ模索に奔走するかのようなニコラス&ガイ。

そして見事に彼等が(とくにニコラスが)苦手な「中途半端」という味わいの達成。

でも、それは善悪の彼岸をあぶり出そうとする本作にとって最適な没着地。

 

いろいろ起こったはずなのに、なにも起こらなかったような、「ふりだしに戻る」感。

しかし、それは決して「ふりだし」などではなく、むしろ無間のゴール。

勝者が敗者に、敗者が勝者にみせる笑み。

正義を中心に回る車輪。

一人一人が輻となり、轂はいつでも空洞だ。

結局何のために回るのか。何が彼等を回すのか。

正義はいつでもハイド・アンド・シーク。

見つけられたら隠れる番。

見つからないなら隠れない。

 

 

◆ウィル(ニコラス・ケイジ)の職業が高校教師というのは、

   或る意味「道を説く」側から始まって・・・という落差を味わう前提でもあるが、

   彼は文学のクラスを担当しており、冒頭でシェイクスピアの創作活動を引き合いに出し、

   やさぐれた高校生を前に昇華の創造性について熱弁を振るっている。

   激情を制するのも超克するのも「言葉」だと。

   しかし、愛する者を傷つけられたウィルは、言葉で表現するよりも、

   言葉の機械(論理)に呑み込まれ、言葉を失い暴力へ?

   (その葛藤のなか、言葉が彼を苦しめ、彼は教壇で生徒と向き合えない。)

   しかし、彼は合い言葉の真意を知ったとき、激しい違和感を覚えたのでは?

   言葉をそんな風にしか利用できない者たちに、真のロゴスは存しない。

   ロゴス(言葉/理性)とは、パトスの氾濫と対峙し凌駕するためのもの。

   パトスの解放や成就に弄ばれるものではない。

   All you have to say is "the hungry rabbit jumps."

   そんな言葉、ロゴスじゃない。信頼できる理由(reason:理性)もない。

 

◆主人公の名はウィル(will:意志)で、彼が彷徨う一方で、

   自らの信念に一途だったジャーナリストの名はアラン・マーシュ。

   彼は友人から「マーシー(mercy:慈悲)」と呼ばれていた。

   「mercy」は裁判などによって赦免的措置を表したりするようだ。

   つまり、機械的な《裁き》や救済的《処刑》とは対極を為す発想だ。

   なかなか興味深い細部(ネーミング)にちょっとばかり唸らせてもらったり。

   ついでに勝手な妄想展開すれば、サイモン(ガイ・ピアース)はおそらく

   「Simon Says」から命名か!?彼の言いなりになるしかないゲームの参加者たち。

 

◆ちなみに、アラン・マーシュ役のJason Davisは、

   『ニューオーリンズ・トライアル』にも出演してる模様。

 

◆ウィルが或る尋問を受ける場面で、「好きな色は?」との問いに、

   「パープル」と答えている。確か本作のチラシって紫っぽい色してたよな?

   この場面から採ったのか?

 

◆ロジャー・ドナルドソンの手堅い仕事は、ちょっと説明的すぎる気がすることもあるが、

   安心して物語に寄り添うことを許してくれる。カー・クラッシュの場面に、

   「大丈夫かな?」って恐る恐る振り返って確認するとかいう正しい蛇足のもつ説得力。

   よくありがちな《主人公なら何やっても許される》的エクスキューズは濫用せず。

   飛び降りる高さにもリアリティ。この手の作品で地に足着けるのは意外と至難。

 

◆とはいえ、やっぱり基本はユルユルなんですけどね。

   けれども、そこで効いてくるニコラスの顔。トンデモ色に染まりきったフィルモの彼が、

   「の割りにオーソドックスじゃね?」的落ち着き効果をもたらすかと思えば、

   ガイ・ピアースの空気と同化しちゃうんじゃないかというくらいフラットな貌。

   双方を善悪どちらにも転ばせない覚悟でもって、とにかく「保留」で突っ走る。

   これは或る意味、『フェイス/オフ』!?

 

◆今週観た映画で、絶対住みたい!くらいに魅惑な街がシカゴ(『君への誓い』)なら、

   絶対住みたくない!くらいに不穏なニューオーリンズ(本作)。

   ジャズの聞こえぬニューオーリンズ、リセットされた街。

   廃墟と化したモールなど実際あるのだろうか。

   皆がゴーストに囚われる街。

 

◆結局、どちらの側にも自警団的発想は通底している気もする。

   あの決着のつけ方だって、そんな発想の「自然さ」を物語っているようで、

   人々を分かつも結ぶも見えない脅威。災害の爪痕はいまだ自警団を駆動する?

 

◇邦題は『ハングリー・ラビット/跳梁跋扈』なんてのもいかがかな?

   もしくは『跳梁する飢餓兎』(ないない・・・)。