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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

ヤング≒アダルト(2011/ジェイソン・ライトマン)

2012-02-29 23:25:20 | 映画 マ・ヤ行

 

Everyone gets old. Not everyone grows up.

年は取っても成長できないヒロイン、メイビス。

ステイ・ヤング・アダルト。

年は早く取りたくて、なのに成長したくなかった、あの頃。

ティーンエイジには、ファンがつまったクラブのメンバーだったのに。

例えビッチと呼ばれても、勝利のティアラが輝けば、

批判はすべて嫉妬のせい。きっと羨望してるだけ。

そして、彼女ら憐れむワタシ。世界がワタシを待っている。

 

お呼ばれしたから仕方なく、帰ってやるわよ、田舎町。

マーク・ジェイコブスもないメイシーズ。私に似合いの町じゃない。

だけど私に訪れる、人生最高時代の再来。イエスタデイ・ワンス・モア。

いいや、まだまだ愛のプレリュード。彼と私の第二章、いま始まったばかりなの。

 

◆ヤング・アダルト小説のライターであることも関係あるだろうが、

   テレビ番組でも(オーデション番組)、ファーストフード店なんかでも、

   ひたすら十代の動向に敏感なのは、そこに共感スイッチが留まったままだから?

   無理して「わかる、わかる」な若年層への阿りよりも、更なるイタさの温床か。

   職業病的な側面かもしれないが、素性が職業につながっているとも考えられる。

 

◆冒頭の覇気のない倦怠ムード充満な生活空間が一瞬憐れみ誘う・・・

   しかし、テラスに出てみれば、そこから見えるハイソな眺望。

   愛車に乗り込むやいなやのシンガロン。マイ・フェイバリット・ソングス、カセットテープ。

   キティを着ている本人がキティまがいだったりする自虐(のつもりはない)。

   徹頭徹尾アンバランス。笑えないほどのイタさの秘訣は、セロンの美力?

   美しさにも、いろんな用法あるもんだ。

 

◆帰郷後に酒場でマット(パットン・オズワルト)に会ったとき、

   彼から「 writer やってるんだって?」と訪ねられ、すかさず「 author よ!」と訂正。

   クリエイティブな仕事であることを強調しようとしたのだろうが、

   彼女の最重要アイテム《 authority 》への固執が露わになった瞬間でもある。

   プロムクィーン的特権階級の賞味期限は短くて、

   テレビ放映終了で在庫処分のノベライズ(原作本?)。

   権威も失墜。・・・復権めざして、ティーンエイジ・ドリーム。

 

◆テレビ放映が終了すると見向きもされなくなるっていう切なさは、

   「見られる」ことによってはじめて「承認される」という現実でもあって、

   そうした他者からの承認によって保証されるのが、人気であったりするわけだ。

   しかし、そうした人気に自らのアイデンティティを重ねてしまうとしたら、

   どうしても客観指標の「上流」を目指してしまう。誰もが羨むだろうから。

   しかし、主観指標に適う幸福は、必ずしも客観指標と一致しない。

   それは、メイビス(シャーリーズ・セロン)がわざわざ田舎の平凡な男である

   バディ(パトリック・ウィルソン)に拘る事実が証左。

   想い出もまた、主観ばかりで出来ている。

 

◆バディを求めるのは当然、自らの「過去の栄光」を取り戻すためでもあるが、

   取り戻すというよりも、最も輝いていた自分を知っていて認めてくれる存在として、

   相手の記憶に期待することでもあるだろう。いまは落ちぶれてしまった自分でも、

   かつて輝いていた頃の自分を知っている人間と話していると、勇気がわいてくる。

   やばい、他人事じゃないぞ(笑)

 

◆しかし、そうした懐古にばかり走ってしまうと、

   負の経験を受容せぬまま、トラウマばかりが裏庭純粋培養で。

   結婚の失敗や、終盤で明かされる苦い経験など、

   彼女はそれを直視しないまま(結婚式の写真を外せと両親に怒鳴ったり)。

   抑圧封印かさねても、水面下では深化一途の傷となる。

   ヌーブラをつけていることそれ自体より、その偽りを独りで引き受けねばならぬ懊悩。

   ベスト・ヘア賞級の美しきブロンドこそが、禿げる程に毛むしりさせるプレッシャー。

   完璧を装えば装うほど、粗はない(なかった)ことにしなければ。

   爪先まで完全美貌な出で立ちも、目を瞑ってしまったら、そこに幸福なんかはない。

   まぶたの裏に幸福が、滲むような自分になりたい・・・

 

◆鏡のまえでバッチリな自分をつくりあげる。

   しかし、それは「鏡に映った自分」が完璧になったに過ぎず、

   他者に映っている自分をつくっているだけで、自分に映る自分は手つかずだ。

   だから、いつまで経っても体感も実感も無縁のままだ。

   しかし、痛感する。ワタシはイタい。しかし・・・奴らもイタい。

   イタくて何が悪いのさ。こんな町には居たくない。

   私の街は、ミネアポリスなの。私のちっちゃな精神安定剤。

   (「apple」は「精神安定剤の入った赤いカプセル」を指すスラングでもあるとか)

 

◆理想と現実の間を彷徨する、ある意味典型的な物語でありながら、

   単純な二項対立として描かずに、両義性をもたせつつ双方を皮肉ってもいる。

   メイビスの生活を空疎な「理想」の体現として描いておきながら、

   現実を羨望できるくらいの人間味が残されているところには、誠実な情味を感じる。

   腫れ物に触るような田舎の人々の憐憫は、寛容と慈愛に満ちた包容力を持っている

   かのように見えて、実際は閉鎖的な共同体の事なかれ的均衡策として見え出す妙。

   何だかんだ言っても(一言も口に出さないが)マイ・ホーム・タウン愛しいメイビス。

   この町を脱出して都で暮らす者への羨望を抑圧するための、「善き」人々の連帯感。

   メイビスが気づいたのは自分のイタさだけじゃなく、皆も「イタいところ」を抱えつつ、

   それを時に騙し騙し生きてるってことなんだろう。

   そのうえで、幸せを「感じようとする」努力。

 

◆ラストでメイビスに羨望語る女性には、幸せになるチャンスがあるだろう。

   彼女の瞳にうつるのは、嫉妬と表裏な羨望なんかじゃない。

   純粋な憧憬の想いだったから。

   いつしかすり替わってた、憧れの的から羨望の的へ。

   嫉妬されることが幸福なんて、ちょっと歪んだ快感だったかも。

   私が羨むバディとベスの新婚生活は、嫉妬が芽生えちゃったから。

   けっして憧れの幸福なんかじゃなかったわ。そうよ、憧れ、アコガレよ。

   他人からも素敵な眼差し浴びながら、自分もハッピー気分になれちゃう、

   憧れ生活、再出発。

   そのためまずは、

   憧れる([あくがれる]本来の場所を離れてさまよい歩く)。

 

 

◇まぁ、本作最大のイタさは、邦題な訳だけど。

   こういうのって意外と自己満足的に流行りそうで怖い・・・

 


pina / ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち(2011/ヴィム・ヴェンダース)

2012-02-28 23:59:19 | 映画 ナ・ハ行

 

批評的にも一般的にも絶賛の嵐のなか、

俺如きの「いまいち」ほど空しいものはない・・・のを承知で書く。

本作が、何に拠って/何の為に つくられたのかがわからない。

これは、誰の映画なのか?誰のための映画なのか?

きっと答えはこうだろう。

ヴィム・ヴェンダースの映画で、ピナ・バウシュのための映画。

しかし、終始映し出される舞踊およびその世界観はヴェンダースに拠るものではないし、

ピナの精神を正当に継承した者たちの踊りと語りがピナ・バウシュに捧げられ、

鎮魂や追悼の匂いは微かに漂うものの、懐古的な不在の証明に帰結するばかり。

断片やエッセンスを料理するという意味では、

まとまりというか収まりよく束ねたかもしれないが、

《映画の時間》を費やしながら浮かび上がる《語り》は感じられなかった。

ライブビューイング的上映やかつてのIMAXでかかっていたようなドキュメントものに近く、

確かに魅惑の舞踏と確かな画面の美しさも、魅せるために見せてる自己目的化。

極めてスマートなプロポーションで、クレバーなプロモーション。

しかも、それは満腹よりも飢餓感を煽るように出来ている。

そうか。それなら確かに、これほどピナ・バウシュ本人へ渇望をかきたてるものはない。

 

本作では明らかに、

《弟子》たちによる《師》不在の舞いが、《師》の欠乏感を煽って止まない。

ほんの時折挿入される「在りし日」(《過去》)が束の間の充足をもたらすも、

その充足を《現在》は超えない。そもそも、超えようとも思わぬのだろうか。

それを《師》は望むだろうか。亡霊が《現在》を支配するかのように、

「忘れないよ」と表明し続ける葬列を何度も拝みたいだろうか。

 

ヴェンダースは3Dの技術を得て、本作の制作を決意したという。

ここにきて経済原理に拠らぬ新たな芸術的探求として3D技術が活用され始めてる。

それに前向きな作家たちには敬服しつつも、「新しい」が「素晴らしい」とは限らない。

本作の3D映像に序盤は斬新さを感じて気分が高揚したのは事実だし、

自然でありながらも映像的であらんとするのも解る気がした。

しかし、3Dによって産み出された2Dにない奥行(本作では飛び出し要素は稀薄)は

しばらくすると(長く観続けるからかもしれないが)どうしても作為的に映り出す。

とりわけ、背後にあるガラスに映る像たちの居心地の悪さは空間を崩壊させる。

飛び出す絵本的「浮き上がる」人物たちは、確かに2Dにはない実在感を帯びる。

しかし一方で、2Dに埋め込まれた人物たちよりも極めて《薄い》印象も伴ってしまう。

全くもって質量が感じられないのだ。

ジョン・ラセターも「CGにおける最大の困難は質量を感じさせることだ」といっていた。

本作の踊り手たちはCGではないが、3D技術にかかるとCG的になってしまう。

彼等にあるはずの《厚み》や《重み》は消失し、着地の音は空しく響く。

地面から享ける衝撃を体感するかのような身体言語の共有は薄れてく。

身体表現における(言語表現に優る)力は、

プロセスであり続ける《動き》による語りであると私は思う。

しかし、現状の3Dとはその《動き》こそを不得手としている。

それなのに見切り発車してしまった感が付きまとうのは避けられぬ。

事実、《動き》は3Dという加工によって全く殺がれてしまっているのだから。

 

結局、ライブで表現されるべきものを、再現づくしで表現していることに無理がある。

そんなこと、ヴェンダースは百も承知であろうから、

本作の意図はむしろそうした《欠陥》によって照射されるライブの意義なのかもしれない。

しかし、映画を愛する者とは、ライブに敵わぬという羨望や嫉妬から解放されるべく、

自己正当化も厭わずに映像の存在意義に自問自答を重ねる営みを貫くべきだろう。

勿論、ヴェンダースほどの「巨匠」となれば、失うものが得るものであったりもする。

しかし、映像化によって失われたものが、観る者に何を得させようとしているのか。

その問いに解答をみつけられず、回答もままならぬまま観終えた自分としては、

このような拙い《抵抗》の足跡を残すことくらいしかできないものだ。

 

◇やっぱ『ピナ3D』より『ピラニア3D』だよなぁ~とか思っちゃうような

   「芸術」を解さぬ人間の負け惜しみゆえに、大目にみてください(笑)

 

◇新宿バルト9で観賞したものの、久々のXpanDはやっぱりキツかった・・・

   都内だとヒューマントラストシネマ有楽町のややこぢんまり劇場との二者択一ゆえに、

   眼鏡の重さと画面の暗さに我慢する方を選んだものの・・・

   新宿バルト9の最大箱(シアター6)は、空間や席数に比して画面が小さすぎ、

   本作を観るにあたっては余り最適とは言い難かった。前方なら好いかもしれんが。

   最大箱よりも中箱の方がスペック(?)が好いかもしれない。

   もしくはユナイテッド・シネマ浦和まで行くとか、かな。

   バルトで観るならシネマチネを使うと1,600円で観られるから、

   その場合はKINEZO(ネットからの座席指定)を活用すると好いかも。

   俺もKINEZOを久しぶりに利用し、珍しく定価(しかも2,100円!)で観たのに・・・

   ちなみに、購入してないがパンフレットはハードカバーで1,600円だとか。

   随分とセレブな興行してますな・・・

 

   更に余談ですが、バルト9ではコンセが充実してるからか(?)

   場内にはホットドッグやポテトの匂いが充満しておりました。

   まぁ、昼飯時だったこともあるし、たまたま俺の周辺に多かっただけかもしれんが、

   作風には余りにもそぐわぬ意外な「3D」効果に、ややがっかり。

   でも、そういった客層まで取り込めてるってことはある意味成功なんだろう。

 


おとなのけんか(2011/ロマン・ポランスキー)

2012-02-27 23:58:16 | 映画 ア行

  これから観るつもりの人は、予告観ない方が純粋に楽しめるよ!

 

このキャスティングで、その内容、あの監督で面白くないわけがない。

完全無欠の79分。匠な面々の巧みが連綿、緩急なんてつけてる暇はない。

誰かが踏んだアクセルは、ブレーキ不能でアクセル返し。

 

シネスコに浮かぶ4人の佇まいは、広すぎる空間を心許なく彷徨い続ける。

交わされる言葉の空々しさと、作風とは不釣合いな画面の余白が見事に競演。

その気になればいつでも相対化できる「鏡」の存在。しかし、見向きもせずに、

   I get angry, therefore I am.

いわば密室劇であるにもかかわらず、窓外には常に不敵な贅沢ランドスケープ。

そして、いわゆる勝ち組な方々の「キッカケさえあれば」という念願成就の爆発。

案外、「人生最悪の日」と「人生最高の日」は紙一重なのかも。

だって、素だろうが(登場人物的に)演じてようが(役者的に)凄まじい発散ぶり。

原題の「carnage」は大量殺戮や大虐殺を意味する語らしいけど、

それが可能になる背後には必ず凄惨な異常恍惚の心理があるわけで、

あの高揚感(激昂すればするほど役者冥利に尽きる職業病)からしても、

いかに徹底的な打倒に歓喜する獣性が人間に潜んでいるがわかる。

それを俯瞰で観て楽しんでいるつもりの自分がふと足元見てみれば、

それは束の間の安全地帯(客席という蚊帳の外)にいるからに過ぎない事実。

 

中盤にさしかかったあたりだっただろうか。

近くに座っていた客が携帯電話をいじりだす・・・

そういった光景は昨今、それほど珍しくはないのだが、

作品が作品だけに(観ればわかります)、その感覚に戦慄。

勿論イラッとは来たが、それ以上にこれまでもケータイネタに笑い、

その後もケータイネタに笑っている彼の精神構造が怖い。

さりげなく普通にケータイ出していじってたからね・・・

とりあげてトイレにでも落としてくれば好かったかな(笑)

『おとなのけんか』観ながら、おとなのけんか。

 

本作では登場人物の逆鱗に触れるポイントが悉く、

画集やケータイ、化粧品といった自分のコア・アイテムへの攻撃だったりしたから、

そういった意味では、映画観てる時の「妨害」に最高レベルの怒りが込み上げるのも、

劇中の彼等を追体験してるようで、なかなか興味深かった。

・・・なんて冷静に思えるかっつーの!!

 


セクシャルな関係はそこにはない(2011/ラファエル・シボニ)

2012-02-26 00:34:58 | 2011 特集上映

 

*予告篇はこちら。周囲に人がいないことを確認してから観ることをお勧めします(笑)

 

日仏学院にて開催中の「カプリッチ・フィルムズ ベストセレクション」にて観賞。

フランスでも先月封切られたらしい(どういう公開形態なんだろう?)本作。

カプリッチ・フィルムズの代表ティエリー・ルナスがトークショーで

オススメの一本として紹介しており俄然観たくなってしまったので、

1回のみの稀少な上映(観賞機会)を逃すまいと何とか駆け込み観賞。

本当は、ブリュノ・デュモンが主演(!)している『シベリア』も観たかった。

監督のジョアナ・プレイスって、アサイヤス作品(『クリーン』『レディ・アサシン』)や

クリストフ・オノレ作品、諏訪監督の『不完全なふたり』なんかに出てる女優さんなんだね。

今更気づいてますます後悔だけど、仕事だからしょうがない・・・と思えんわ。

本当に、この世から会議とか消滅して欲しい・・・

そもそもまともに懐疑すらできぬ人間が、いくら会議なんかもったって、

何ら改善も前進も発展もないだろう。・・・食い物の恨みならぬ、映画の恨み(笑)

もういっそのこと、みんな真っ裸で話し合った方が早い(何が?)だろ!

 

本能を見事に演出し、観る者の本能を刺激するために、

明確なヴィジョンをもつポルノ職人は、自らも素っ裸になって撮影する。

「見たいもの」を、「見せたいもの」を作り上げるため、

飽くなき一人会議は果てなく続く。ポルノ映画版、プロフェッショナル仕事の流儀。

 

   (配布された作品解説より)

   本作品はポルノ映画の俳優、監督、プロデューサーである

   HPG(エルヴェ=ピエール・ギュスターヴ)の作品の撮影時に

   撮り集めたメイキング・オフ映像の何千時間から構想された、

   HPGのポートレートである。ハード・ポルノの男優として著名なHPGは、

   10年以来撮り続けてきたメイキング・オフ映像を、

   若きアーティスト、ラファエル・シボニに託す。

   このドキュメンタリー作品はポルノグラフィーやポルノグラフィーを特徴づけている

   現実に対する情熱を考察している。

 

「刺激の強い表現が苦手な方、若年者の出席はご遠慮下さい」

との但し書きがあるように、確かに終始性器は露わだし当然行為にも至ったりするのだが、

そこにセクシャルな関係はない。性行為も自慰行為もなく、労働行為がそこにある。

いや、単なる労働というよりも、こだわりの職人技の裏側を覗き見る感覚だ。

「主演」であるHPG以外にも、「台詞」や「キャラ設定」は稀薄とはいえ、

さすがのキャラ立ちはバッチリの(特に女優)面々には、

観てるこちらが行間に書き込むドラマがふんだんだ。

仕事が仕事だけに、単なるサクセスストーリー的な輝きは自ずと翳り、

それでも逞しくあろうとする無理矢理な矜持と、性より生を感じさせるユーモアが随所に。

あんなにも「エロティック」なはずの画面に《物語》が焼き付けば、

何が映っているかよりも、何が起こっているかに注視する。

 

場内はたびたび笑いに包まれる。

しかし、ラストの倦怠(煩悶のなかで貪るように寝入る男優二人)に見舞われて、

不意に閉じられる《物語》。それは、ファニーでキッチュな「現場」からの解放であり、

我々と同じ凡庸で退屈な日常への回帰でもある。仕事とは、そういった現実との往来。

そして、観客もまた、好奇心で彩られた時間から現実の時間に舞い戻る。

 

◆セックスにおける「演技」の問題は、「おもいやり」の問題かもしれないが、

   本作におけるそれは確実にプロとしての仕事の奥義。

   入ってないのに入ってる、叩いてないのに叩いてる、出してないのに出されてる。

   しかし、それは「映っているもの」で勝負する世界だからこその、

   「映っていないところ」における真剣勝負。

   何を映すか。映っているものは何であるべきか。

   完璧プリテンドな世界における、虚実の性なる闘い。

   「映っていないところ」の完全隠蔽によって活きる「映っているもの」。

   それを反転すると、「映っていないところ」こそがメイキング・センスな現実の強度。

   ポルノとは、極めて《夢》を純粋培養した世界であると同時に、

   どこまでも現実からしか生まれない(それは徹頭徹尾、本能という土台に基づくから)

   極めてドラマチックなドキュメンタリーなのだろう。

   フィクショナルなノンフィクション。ノンフィクションのフィクション化。

   作りこもうとする完璧主義なアーティストであると同時に、

   起こったことをリアルに収めようと心を砕くドキュメンタリストでもあるHPG。

 

◆撮影現場における素っ裸な人々が、やがてユニフォーム姿として映る不思議。

   或る意味、裸体という衣裳なのかもしれない。究極に個性的な制服。

   そのように見える(観てしまう)のも、そこが紛れもなく労働の現場だからなのだろう。

 


ものすごくうるさくて、ありえないほど近い(2011/スティーブン・ダルドリー)

2012-02-25 01:31:51 | 映画 マ・ヤ行

 

原作(小説)のオスカーが本作(映画)を観たらきっと、

「映画版のレゾンデートル(存在理由)って何?」って言われそう・・・

 

主人公の名がオスカーっていう「たまたま」が、

「いかにも」って印象ばかりを残す、本作に負わされた使命感。

 

原作の唯一無二の世界に魅了された読者は、

我田引水な脚本(間違っても脚色ではない)に失望を軽く凌ぐ怒りを覚えそう。

 

本作の予告(あれをつくった人はオスカーに値すると思う)は、

本篇を観る前に涙を搾りとる。

そして、本篇を観終えて再び観るそれは、

こんなに素晴らしい物語になり得たであろう可能性を踏みにじったものを憎ませる。

 

本作がアカデミーの作品賞候補になったことを、

本作の関係者が最もサプライズな歓びで聞いたというニュース。

動員いまいち、批評微妙、衝突はしない(盛り上がらない)「ねじれ」の賛否両論。

それは本国も日本でも同様で、涙を流すことが至上命令な観客は満足するも、

律儀な映画ファンをくたびれさせて、大多数の映画好きにはスルーを喰らう。

そんな本作にふさわしい言葉はやっぱり・・・

 

  「映画版のレゾンデートルって?」

 

しかし、ここで私はちょっとばかし擁護したい。

けっして支持もしなければ、お薦めなんか絶対できない。

それでも何故か擁護したい。

 

それは単なる判官贔屓かもしれないが、

それがこれまでも毎回経てきた付き合い方だから。

本作の監督を務めたスティーブン・ダルドリーが撮った作品たちとの。

 

 

◆優等生の憂鬱

スティーブン・ダルドリーは極めて優等生気質の芸術屋タイプで、

個人的には「イケ好かない」タイプ筆頭の、

合理的で理性的な全天候型職人という印象。だった。はず。

『リトル・ダンサー』は「巧いなぁ~」と終始感心しながら、終始感情移入不可。

『めぐりあう時間たち』は「苦手だなぁ~」と思いながら観始めると不本意に魅了完了。

『愛を読むひと』は傑作原作を英語で映画化する冒涜に石を投げるべく向かえば、完敗。

そう、私にとってスティーブン・ダルドリーとは、咎める気持ちが咎める、精彩のひと。

一瞬にして虜にするような才気も放たねば、マニアのコアを鷲掴みにする奇才もない。

しかし、真摯に語ろうとする丁寧な仕事は、画面全面、本篇全篇を物語で埋め尽くす。

精緻な筆致が辿る軌跡には、いちいち雄弁な要素が所狭しと密集してる。

原作と映画が読み合う関係が極めてスリリングだった前二作の脚色を担当したのは、

自身も監督作で金熊賞を獲得した経験もあるデヴィッド・ヘアーだった。

彼のフィルモを見てもわかるように、非常に内省的で寡作な作家の印象だが、

それゆえに『めぐりあう時間たち』と『愛を読むひと』の脚色は、

文学と映画の架け橋というか、文学への映画からの回答としては傑出していた。

『朗読者』(『愛を読むひと』の原作)という傑作文学を、映像化するのではなく、

映画に翻案するために必要な解釈と再構築が緻密かつ静謐に施されていることを、

昨年その二者を比較してみる機会に浴して思い知ったのだ。

しかし、そうした「緻密と静謐」とは裏腹な、今回の「杜撰な喧騒」による語り。

行間が行間であることを止め、語りすぎてしまう行間たち。いや、埋め尽くされた行間。

脚本を担当したエリック・ロスは「語りたがり」な書き手であり、「雄弁が金」なタイプ。

だから、ロバート・ゼメキス(『フォレスト・ガンプ』で)やスピルバーグ(『ミュンヘン』で)、

マイケル・マン(『インサイダー』『アリ』で)なんかとは相性が好いのだろう。

一方で、デヴィッド・フィンチャー(『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』で)や

本作でのスティーブン・ダルドリーといった画でとにかく語りたい監督との仕事は、

居心地の悪い作品に仕上がってしまっている印象だ。

フィンチャーはそれでもまだ自分流を貫いた(エリック脚本をエゴで抑え込む)が故に、

行間の静寂を何とか固持することにつながった(それでもどこか歪だったが)。

一方、優等生気質なダルドリーは最大限エリック脚本を遵守しながら仕上げた印象だ。

ダルドリーは舞台演出出身の映画監督にありがちな芝居本位な作劇には陥らず、

あくまで舞台と映画のそれぞれ「だからできること」を追究しながら創作しているように

私には思える。とはいっても、彼の舞台を見たことないんだけど(苦笑)

だから、そういった二人が組むと、映像的饒舌さと雄弁脚本の合わさった、

ギミックだらけの、ものすごくうるさい映画になってしまった印象だ。

 

しかし、それでもあえてダルドリーの肩をもってみよう。

 

◆タイトルの意味

ダルドリー作品は優等生なりの抗いを随所に忍ばせる。

見方によっては、原作からの「改悪」としか映らないようなところもなくはない。

それでも、そうした《反応》は原作と呼応し読み合って、

原作における新たな理解を生むことにもつながったりする気がする。

たとえば本作では、タイトルの意味。原作には、象徴的な場面や表現があるものの、

タイトルの普通じゃない文字数は、詳細を語るよりも汎用な抽象を提示している故に、

各自の解釈を享受する《余白》が魅力的。(どんなに本作に退屈した人でも、

このタイトルをもじっておちょくる楽しみだけは残してくれるタイトルの魅力もある。)

 

原作を読んで私なりに到達した一つのメッセージは、

 

解決よりも解釈。解釈よりも解読。解読よりも精読。精読よりも熟読。熟読よりも熟考。

 

何かに《答え》を出すということは、その《対象》を支配し所有する欲望を駆り立てる。

《答え》とはもうそれ以上姿をかえない、そのまま変わらず君臨し続けるものだから。

その固定やその絶対が、この絶え間なく移ろいゆく世界の不安を駆逐する。

しかし、それは、ものすごく安易でありえないほど退屈。それでいて自己満足な自己完結。

だって、世界はそんな姿で在り続けるわけじゃない。

「いま」と言った瞬間に、その言葉が過去になる繰り返しの世界のなかで、

《答え》はその時々の発明に過ぎず、発明は必ず更新されてゆくものだ。

しかし、更新されて古くなった発明にレゾンデートルはないのだろうか。

古くなった発明を凌駕した新たな発明は絶対的なレゾンデートルを獲得したの?

 

結局、《答え》など存在せず、いや存在しても存続はせず、

それでも「応え」は必ず生じる訳で。

《答え》に拘泥しなければ、「応え」はいつでも無尽蔵。

無数の他者と、無限な自己。想像力。

・・・はたらかせれば広がる。ものすごくうるさい、想像の世界。

絶対《答え》には辿り着かないけれど、《答え》にありえないほど近い。

でも、そんな瞬間や、そんな感覚こそが、実は最も《答え》っぽいものなんだろう。

だから、《っぽいもの》に満足して、

真実とか真相とかを暴いたり承認させたりする欺瞞は止めにしよう。

だって、《っぽいもの》の方が永遠だ。

 

というのが私なりの原作におけるテーマの独善解釈で、

本作を観てそうした想いを更に募らせ膨らませたりした。

 

※象のエピソードは、そうしたメタファーとして機能していた気もする。

   そこにいないのに、そこに近づいていくと、それは「在り得ないのに近い」のだ。

 

※《答え》を確定するとは、感覚をある型に押し込んで造り上げることなのかも。

   だから、「make sense」に拘ったオスカーはやがて、

   「sense」が「make」できないものだとも知る。

 

 

◆太陽が爆発してから八分間は、それを人間は知らない。

オスカーはその「八分間」を「永遠にしたい」と冒頭で語っている。

それは「永遠」に値する絶対的な《答え》を期待しての待望である反面、

結局は父の死を「知りたくない(=受け容れたくない)」と言ってるようにも聞える。

「知る」ことが必ずしも「受け容れる」ことに結びつくとは限らない。

知らなければ受け容れることは当然できないが、

知識欲(それはとりわけ科学的根拠に基づく絶対性を備えたものに向けられる)で

「知る」という《獲得》による《所有》の行為に腐心してきたオスカーは、

知ることが必ずしも享受できるとは限らないことを知ってゆく。

それは同時に、「知りたくない」という深層を自覚するプロセスでもあって、

それは最終的に「知らないでもいい」という受容にかわる。

勿論、これは知ることの拒絶や回避ではない。

科学的知識のような客観的な真実を「知る」ように、

《現実》の真相を「知る」ことができない覚悟のうえに成り立つ、

「現在のぼくが此処から知ることのできるもの」として満足すること。

そのうえで、過去や未来に此処ではない何処かで知り得た(る)ことを承認し、

ぼく以外が知り得ることにも寛容であり、そんな無限の視点で語られる世界の

《ありのまま》を享受する醍醐味をほんのちょっぴり摘み食い。

だから、ものすごく小さくて、ありえないほど大きい物語。

 

 

◆notstop looking

原作では「not stop looking」だが・・・その差異が意味するところは私には分からず。

しかし、「looking for」ではなく「looking」までしか囲ってないのが気になると思いきや、

「for」は前置詞だから次の名詞の方との結びつきが強いのか?と無知露呈覚悟の分析。

ただ、文法的慣習的認識が乏しかろうが、「look」を「stop」しないというメッセージに

変わりはないだろう。しかも、「see(k)」でも「search」でもなく、「look」。

そう、オスカーは「見える」ものをすべて「視よう」としない。

中盤で「視たくないぐるり」をボカした映像が何度か挿入されるが、

まさに「look」を拒絶する世界、自分に都合の悪い世界の存在。

そのことによって生じる、世界の欠落。

それを埋める(世界の拡充を図る)契機となるのは、

他者との交流であり、その象徴的な存在がバディ(というかパートナー)。

老いた間借り人の体力の《限界》が、移動手段を《限定》し、

オスカーの《制限》という規範を崩す。

《制限》の衝突が《無限》へとつながるような、

矛盾文法的な世界の展開。

Think About Nothing.

これは禅の境地でもあるが、

矛盾とは究極の真実、人間の現実の唯一の真実。

 

※補完関係的な自己と他者という意味では、

   説明的過ぎる「鍵と錠前」なオスカーとブラックの邂逅は象徴的。

   しかし、それを主軸に据えるかのような安直なテーマ説明は正直ゲンナリで、

   それでは《解決》や《合意》を求める物語のようで、原作のテーマを矮小化。

   正直、そういった独自見解(それがことごとく原作の語りを矮小化)ってパターンは

   余りにも多くて、原作読者のみならずとも違和感を覚えただろう無粋な饒舌。

 

 

◆人間は数字じゃなくて、文字。

作中では「letter」だと語られる。

つまり、それは同語源に由来する「literature(文学)」、物語だということ。

それは、客観的な《量》や《序列》で解釈できるものではなく、

無数の主体が無数の中心から語る世界。

という認識への第一歩。

だから、間借り人は言う。

MY STORY IS MY STORY.

 

※終盤で、ウィリアム・ブラック(ジェフリー・ライト/衣笠に見える)が、

   「妻には childish だって言われたよ」と言うと、

   オスカーは「だって、おじさんはお父さんの child じゃん」ってフォロー。

   何処から見るか、誰から見るか。客観的に死んでも、主観的には生き続ける。

   そんな境地に踏み入れる。

 

 

◆言えずの I LOVE YOU

というか、「聞けずの I LOVE YOU」が一つの重要な葛藤の要素でもあった原作。

それをあっさりと《解決》してくれちゃう映画版は恐るべき傲慢改変で、

他はどんなに片目瞑ろうが(いや、正直両目瞑って心の眼で視た感じ(笑))、

こればっかりは許しがたい。というか、映画単体としても、一番空疎な場面じゃない?

父からの I LOVE YOU も、息子からの I LOVE YOU も、母からの I LOVE YOU も。

それは、人間が数字じゃなくて文字だって「言い訳」で贖罪可?

扉越しのあのシーンで正直、最後の一葉(当然セルフ模写による)も即消滅。

しかし、もう冒頭から(だって「BLACK」が黒文字なんだよ・・・

という原作既読者の必須な嘆き)「これは別物なんだ」という割り切りと、

予告で見た夢から覚めぬようにという切なる祈りで、

慎重に感動路線にセルフ補正で耐え凌いでいた故に、

むしろ「吹っ切れた」感に振り切れた、かも。

 

 

◆スウィングするブランコ

原作既読じゃなくとも激しい違和感、人によっては怒りか笑いに転化する、

ラストのブランコ。ここまで擁護したからには、何としても護ってみせるっ!(笑)

ということで、私が捻出したステキな読みは、

「スウィングしろよ!」という父からのメッセージ。

(ブランコ、漢字で書くと「鞦韆」・・・擬態語派生説やら、ポルトガル語由来説も。

で、英語では「swing」が使われるらしい。よって・・・)

楽譜どおりじゃつまらない!想像力を発揮して、想い想いにスウィングしろよ!

・・・って、さすがに無理がある。

ラストといえば、最後のブラック(の父?)から受けた薫陶として提示される

「手紙」の話。これって、原作を誤った形で意識しちゃってる象徴的事例だが、

それを重々承知、やっちまったなぁ~感全開だったのに、

門前払いのおばさんがボロボロ泣いてる姿には(ベタとはいえ)グッと来た。

こういう省略と飛躍による語りがもっとあれば好かったのになぁ。

 

 

◇本作における最大の功労者は撮影を担当したクリス・メンゲス。

   でも、もしかしたら彼の「魅せる画」が

   本作にノレない人々を余計逆撫でしちゃったかもしれない。

   当ブログのURLから一目瞭然なように、私はクリス・メンゲスには絶対服従(笑)

   技術的なことや美学的な解釈など出来ぬ私だが、

   ダルドリーとの初コラボである『愛を読むひと』では、

   ただ「いい画」を撮るのではなく、語りと有機的な画を撮ることに

   心を砕いているように想われるショットをたびたび見かけた気がする。

   本作では、時折挿入される空撮が、閉塞感からの束の間の解放として機能するが、

   それもただ「ニューヨークの街」を堪能するのみならず、

   本城直季のようにミニチュア・ジオラマな街として見せたりもして、

   それも含め、「これはオスカーの父親が空から見守ってる」ってことなのか?

   なんて妄想が途中から始まって、そんなこと想うとドヤ顔空撮挿入も愛おしく。

   あと、強烈に印象的だったのが、間借り人とオスカーが赤い壁をバックに対話する場面。

   やっぱり「血のつながり」を感じる分だけ、あの赤は鮮明だった。

   対照的に、ウィリアム・ブラックとの対話はブルーな空間で。

   まぁ、ブルーの花瓶からの青つながりかな。

   それとも赤(止まれ)を着ているオスカーに、進め(青)っていう場面?

   二人を結ぶ「鍵」の紐は黄色(その中間?)だったりするしね。

   ローカル妄想暴走中。

   ラストが緑(自然)を印象的にフィーチャーして終わっているというのも、

   不自然な解決や着地を求めた脚本の「おとしどころ」にせめてもの抵抗か?

   (だから、着地はしないオスカー・・・)

 

◇アレクサンドル・デスプラがついに過労でセルフ・パロディのループに没落?

   一本調子の感傷悲哀なスコアは、ダルドリーの注文だったのか!?

   無音の部分や街の音(特に屋内で聞くそれが好い)、

   そしてしつこいタンバリンの音といった音空間が魅力的だった分、

   蛇足にしか響かない「劇伴」は、「映画音楽」的な魅力にはいまいち欠けた。

   いっそのこと、『英国王のスピーチ』的な(ピアノの鳴り方はそのまんまだったけど)

   ほんわり明るい希望系スコアも入れて好かった気がするんだけど。

   そうすれば、もっと嫌味のないベタに昇格した気もする。

 

◇ちなみに、撮影監督といえば、『愛を読むひと』ではクリス・メンゲスの他に

   ロジャー・ディーキンスもクレジットされている。

   で、その二人の最新作が奇遇にも日本では同時公開。

   ロジャー最新作はそう、『TIME/タイム』。監督はアンドリュー・ニコル。

   タイミングとえいば、私の好きな(しかも、かなり)監督の最新作が一気に公開された、

   この二月。フィンチャーが一週早く、ラース・フォン・トリアーとアンドリュー・ニコル、

   そしてスティーブン・ダルドリーがほぼ同時期に公開。贅沢すぎて眩暈がしそう・・・

   だったはずが、連勝記録が更新されたのはフィンチャーだけという・・・

   おそらく、変わり果てたアンドリュー・ニコルのショックがきっと

   「スティーブンお前もか・・・」的幻滅に歯止めをかけるべく自主規制を促した?

   あ、でも、おそらく、全般的に不評っぽいオスカー役のトーマス・ホーン君の顔が

   全然好みだったし(アブナイ)、キャラ的にも全然ウザく映らなかったんだよね。

   それが、最後まで味わいモードを何とか持続させてくれてた気がします。

   そんな出ずっぱりのオスカーの服装も単純にお洒落なだけじゃなく、

   妙な美学や変な均衡がミックスされてて、適度な違和感が好い。

 

   でも、やっぱり本作において最良の産物は、予告篇!

   手垢が何層にもついていそうなU2楽曲。それでも宿る躍動感。もはやクラシック。

   更に、実はこの曲のタイトルにおける「streets」と「name」って、

   本作の語りとも符号する気がしなくもない。

   特に「name」なんてまさしく本作の中心にあったりするし(Black)、

   名前が重要じゃないんじゃない?的帰結もどこか、読み合う感じ。