原作(小説)のオスカーが本作(映画)を観たらきっと、
「映画版のレゾンデートル(存在理由)って何?」って言われそう・・・
主人公の名がオスカーっていう「たまたま」が、
「いかにも」って印象ばかりを残す、本作に負わされた使命感。
原作の唯一無二の世界に魅了された読者は、
我田引水な脚本(間違っても脚色ではない)に失望を軽く凌ぐ怒りを覚えそう。
本作の予告(あれをつくった人はオスカーに値すると思う)は、
本篇を観る前に涙を搾りとる。
そして、本篇を観終えて再び観るそれは、
こんなに素晴らしい物語になり得たであろう可能性を踏みにじったものを憎ませる。
本作がアカデミーの作品賞候補になったことを、
本作の関係者が最もサプライズな歓びで聞いたというニュース。
動員いまいち、批評微妙、衝突はしない(盛り上がらない)「ねじれ」の賛否両論。
それは本国も日本でも同様で、涙を流すことが至上命令な観客は満足するも、
律儀な映画ファンをくたびれさせて、大多数の映画好きにはスルーを喰らう。
そんな本作にふさわしい言葉はやっぱり・・・
「映画版のレゾンデートルって?」
しかし、ここで私はちょっとばかし擁護したい。
けっして支持もしなければ、お薦めなんか絶対できない。
それでも何故か擁護したい。
それは単なる判官贔屓かもしれないが、
それがこれまでも毎回経てきた付き合い方だから。
本作の監督を務めたスティーブン・ダルドリーが撮った作品たちとの。
◆優等生の憂鬱
スティーブン・ダルドリーは極めて優等生気質の芸術屋タイプで、
個人的には「イケ好かない」タイプ筆頭の、
合理的で理性的な全天候型職人という印象。だった。はず。
『リトル・ダンサー』は「巧いなぁ~」と終始感心しながら、終始感情移入不可。
『めぐりあう時間たち』は「苦手だなぁ~」と思いながら観始めると不本意に魅了完了。
『愛を読むひと』は傑作原作を英語で映画化する冒涜に石を投げるべく向かえば、完敗。
そう、私にとってスティーブン・ダルドリーとは、咎める気持ちが咎める、精彩のひと。
一瞬にして虜にするような才気も放たねば、マニアのコアを鷲掴みにする奇才もない。
しかし、真摯に語ろうとする丁寧な仕事は、画面全面、本篇全篇を物語で埋め尽くす。
精緻な筆致が辿る軌跡には、いちいち雄弁な要素が所狭しと密集してる。
原作と映画が読み合う関係が極めてスリリングだった前二作の脚色を担当したのは、
自身も監督作で金熊賞を獲得した経験もあるデヴィッド・ヘアーだった。
彼のフィルモを見てもわかるように、非常に内省的で寡作な作家の印象だが、
それゆえに『めぐりあう時間たち』と『愛を読むひと』の脚色は、
文学と映画の架け橋というか、文学への映画からの回答としては傑出していた。
『朗読者』(『愛を読むひと』の原作)という傑作文学を、映像化するのではなく、
映画に翻案するために必要な解釈と再構築が緻密かつ静謐に施されていることを、
昨年その二者を比較してみる機会に浴して思い知ったのだ。
しかし、そうした「緻密と静謐」とは裏腹な、今回の「杜撰な喧騒」による語り。
行間が行間であることを止め、語りすぎてしまう行間たち。いや、埋め尽くされた行間。
脚本を担当したエリック・ロスは「語りたがり」な書き手であり、「雄弁が金」なタイプ。
だから、ロバート・ゼメキス(『フォレスト・ガンプ』で)やスピルバーグ(『ミュンヘン』で)、
マイケル・マン(『インサイダー』『アリ』で)なんかとは相性が好いのだろう。
一方で、デヴィッド・フィンチャー(『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』で)や
本作でのスティーブン・ダルドリーといった画でとにかく語りたい監督との仕事は、
居心地の悪い作品に仕上がってしまっている印象だ。
フィンチャーはそれでもまだ自分流を貫いた(エリック脚本をエゴで抑え込む)が故に、
行間の静寂を何とか固持することにつながった(それでもどこか歪だったが)。
一方、優等生気質なダルドリーは最大限エリック脚本を遵守しながら仕上げた印象だ。
ダルドリーは舞台演出出身の映画監督にありがちな芝居本位な作劇には陥らず、
あくまで舞台と映画のそれぞれ「だからできること」を追究しながら創作しているように
私には思える。とはいっても、彼の舞台を見たことないんだけど(苦笑)
だから、そういった二人が組むと、映像的饒舌さと雄弁脚本の合わさった、
ギミックだらけの、ものすごくうるさい映画になってしまった印象だ。
しかし、それでもあえてダルドリーの肩をもってみよう。
◆タイトルの意味
ダルドリー作品は優等生なりの抗いを随所に忍ばせる。
見方によっては、原作からの「改悪」としか映らないようなところもなくはない。
それでも、そうした《反応》は原作と呼応し読み合って、
原作における新たな理解を生むことにもつながったりする気がする。
たとえば本作では、タイトルの意味。原作には、象徴的な場面や表現があるものの、
タイトルの普通じゃない文字数は、詳細を語るよりも汎用な抽象を提示している故に、
各自の解釈を享受する《余白》が魅力的。(どんなに本作に退屈した人でも、
このタイトルをもじっておちょくる楽しみだけは残してくれるタイトルの魅力もある。)
原作を読んで私なりに到達した一つのメッセージは、
解決よりも解釈。解釈よりも解読。解読よりも精読。精読よりも熟読。熟読よりも熟考。
何かに《答え》を出すということは、その《対象》を支配し所有する欲望を駆り立てる。
《答え》とはもうそれ以上姿をかえない、そのまま変わらず君臨し続けるものだから。
その固定やその絶対が、この絶え間なく移ろいゆく世界の不安を駆逐する。
しかし、それは、ものすごく安易でありえないほど退屈。それでいて自己満足な自己完結。
だって、世界はそんな姿で在り続けるわけじゃない。
「いま」と言った瞬間に、その言葉が過去になる繰り返しの世界のなかで、
《答え》はその時々の発明に過ぎず、発明は必ず更新されてゆくものだ。
しかし、更新されて古くなった発明にレゾンデートルはないのだろうか。
古くなった発明を凌駕した新たな発明は絶対的なレゾンデートルを獲得したの?
結局、《答え》など存在せず、いや存在しても存続はせず、
それでも「応え」は必ず生じる訳で。
《答え》に拘泥しなければ、「応え」はいつでも無尽蔵。
無数の他者と、無限な自己。想像力。
・・・はたらかせれば広がる。ものすごくうるさい、想像の世界。
絶対《答え》には辿り着かないけれど、《答え》にありえないほど近い。
でも、そんな瞬間や、そんな感覚こそが、実は最も《答え》っぽいものなんだろう。
だから、《っぽいもの》に満足して、
真実とか真相とかを暴いたり承認させたりする欺瞞は止めにしよう。
だって、《っぽいもの》の方が永遠だ。
というのが私なりの原作におけるテーマの独善解釈で、
本作を観てそうした想いを更に募らせ膨らませたりした。
※象のエピソードは、そうしたメタファーとして機能していた気もする。
そこにいないのに、そこに近づいていくと、それは「在り得ないのに近い」のだ。
※《答え》を確定するとは、感覚をある型に押し込んで造り上げることなのかも。
だから、「make sense」に拘ったオスカーはやがて、
「sense」が「make」できないものだとも知る。
◆太陽が爆発してから八分間は、それを人間は知らない。
オスカーはその「八分間」を「永遠にしたい」と冒頭で語っている。
それは「永遠」に値する絶対的な《答え》を期待しての待望である反面、
結局は父の死を「知りたくない(=受け容れたくない)」と言ってるようにも聞える。
「知る」ことが必ずしも「受け容れる」ことに結びつくとは限らない。
知らなければ受け容れることは当然できないが、
知識欲(それはとりわけ科学的根拠に基づく絶対性を備えたものに向けられる)で
「知る」という《獲得》による《所有》の行為に腐心してきたオスカーは、
知ることが必ずしも享受できるとは限らないことを知ってゆく。
それは同時に、「知りたくない」という深層を自覚するプロセスでもあって、
それは最終的に「知らないでもいい」という受容にかわる。
勿論、これは知ることの拒絶や回避ではない。
科学的知識のような客観的な真実を「知る」ように、
《現実》の真相を「知る」ことができない覚悟のうえに成り立つ、
「現在のぼくが此処から知ることのできるもの」として満足すること。
そのうえで、過去や未来に此処ではない何処かで知り得た(る)ことを承認し、
ぼく以外が知り得ることにも寛容であり、そんな無限の視点で語られる世界の
《ありのまま》を享受する醍醐味をほんのちょっぴり摘み食い。
だから、ものすごく小さくて、ありえないほど大きい物語。
◆notstop looking
原作では「not stop looking」だが・・・その差異が意味するところは私には分からず。
しかし、「looking for」ではなく「looking」までしか囲ってないのが気になると思いきや、
「for」は前置詞だから次の名詞の方との結びつきが強いのか?と無知露呈覚悟の分析。
ただ、文法的慣習的認識が乏しかろうが、「look」を「stop」しないというメッセージに
変わりはないだろう。しかも、「see(k)」でも「search」でもなく、「look」。
そう、オスカーは「見える」ものをすべて「視よう」としない。
中盤で「視たくないぐるり」をボカした映像が何度か挿入されるが、
まさに「look」を拒絶する世界、自分に都合の悪い世界の存在。
そのことによって生じる、世界の欠落。
それを埋める(世界の拡充を図る)契機となるのは、
他者との交流であり、その象徴的な存在がバディ(というかパートナー)。
老いた間借り人の体力の《限界》が、移動手段を《限定》し、
オスカーの《制限》という規範を崩す。
《制限》の衝突が《無限》へとつながるような、
矛盾文法的な世界の展開。
Think About Nothing.
これは禅の境地でもあるが、
矛盾とは究極の真実、人間の現実の唯一の真実。
※補完関係的な自己と他者という意味では、
説明的過ぎる「鍵と錠前」なオスカーとブラックの邂逅は象徴的。
しかし、それを主軸に据えるかのような安直なテーマ説明は正直ゲンナリで、
それでは《解決》や《合意》を求める物語のようで、原作のテーマを矮小化。
正直、そういった独自見解(それがことごとく原作の語りを矮小化)ってパターンは
余りにも多くて、原作読者のみならずとも違和感を覚えただろう無粋な饒舌。
◆人間は数字じゃなくて、文字。
作中では「letter」だと語られる。
つまり、それは同語源に由来する「literature(文学)」、物語だということ。
それは、客観的な《量》や《序列》で解釈できるものではなく、
無数の主体が無数の中心から語る世界。
という認識への第一歩。
だから、間借り人は言う。
MY STORY IS MY STORY.
※終盤で、ウィリアム・ブラック(ジェフリー・ライト/衣笠に見える)が、
「妻には childish だって言われたよ」と言うと、
オスカーは「だって、おじさんはお父さんの child じゃん」ってフォロー。
何処から見るか、誰から見るか。客観的に死んでも、主観的には生き続ける。
そんな境地に踏み入れる。
◆言えずの I LOVE YOU
というか、「聞けずの I LOVE YOU」が一つの重要な葛藤の要素でもあった原作。
それをあっさりと《解決》してくれちゃう映画版は恐るべき傲慢改変で、
他はどんなに片目瞑ろうが(いや、正直両目瞑って心の眼で視た感じ(笑))、
こればっかりは許しがたい。というか、映画単体としても、一番空疎な場面じゃない?
父からの I LOVE YOU も、息子からの I LOVE YOU も、母からの I LOVE YOU も。
それは、人間が数字じゃなくて文字だって「言い訳」で贖罪可?
扉越しのあのシーンで正直、最後の一葉(当然セルフ模写による)も即消滅。
しかし、もう冒頭から(だって「BLACK」が黒文字なんだよ・・・
という原作既読者の必須な嘆き)「これは別物なんだ」という割り切りと、
予告で見た夢から覚めぬようにという切なる祈りで、
慎重に感動路線にセルフ補正で耐え凌いでいた故に、
むしろ「吹っ切れた」感に振り切れた、かも。
◆スウィングするブランコ
原作既読じゃなくとも激しい違和感、人によっては怒りか笑いに転化する、
ラストのブランコ。ここまで擁護したからには、何としても護ってみせるっ!(笑)
ということで、私が捻出したステキな読みは、
「スウィングしろよ!」という父からのメッセージ。
(ブランコ、漢字で書くと「鞦韆」・・・擬態語派生説やら、ポルトガル語由来説も。
で、英語では「swing」が使われるらしい。よって・・・)
楽譜どおりじゃつまらない!想像力を発揮して、想い想いにスウィングしろよ!
・・・って、さすがに無理がある。
ラストといえば、最後のブラック(の父?)から受けた薫陶として提示される
「手紙」の話。これって、原作を誤った形で意識しちゃってる象徴的事例だが、
それを重々承知、やっちまったなぁ~感全開だったのに、
門前払いのおばさんがボロボロ泣いてる姿には(ベタとはいえ)グッと来た。
こういう省略と飛躍による語りがもっとあれば好かったのになぁ。
◇本作における最大の功労者は撮影を担当したクリス・メンゲス。
でも、もしかしたら彼の「魅せる画」が
本作にノレない人々を余計逆撫でしちゃったかもしれない。
当ブログのURLから一目瞭然なように、私はクリス・メンゲスには絶対服従(笑)
技術的なことや美学的な解釈など出来ぬ私だが、
ダルドリーとの初コラボである『愛を読むひと』では、
ただ「いい画」を撮るのではなく、語りと有機的な画を撮ることに
心を砕いているように想われるショットをたびたび見かけた気がする。
本作では、時折挿入される空撮が、閉塞感からの束の間の解放として機能するが、
それもただ「ニューヨークの街」を堪能するのみならず、
本城直季のようにミニチュア・ジオラマな街として見せたりもして、
それも含め、「これはオスカーの父親が空から見守ってる」ってことなのか?
なんて妄想が途中から始まって、そんなこと想うとドヤ顔空撮挿入も愛おしく。
あと、強烈に印象的だったのが、間借り人とオスカーが赤い壁をバックに対話する場面。
やっぱり「血のつながり」を感じる分だけ、あの赤は鮮明だった。
対照的に、ウィリアム・ブラックとの対話はブルーな空間で。
まぁ、ブルーの花瓶からの青つながりかな。
それとも赤(止まれ)を着ているオスカーに、進め(青)っていう場面?
二人を結ぶ「鍵」の紐は黄色(その中間?)だったりするしね。
ローカル妄想暴走中。
ラストが緑(自然)を印象的にフィーチャーして終わっているというのも、
不自然な解決や着地を求めた脚本の「おとしどころ」にせめてもの抵抗か?
(だから、着地はしないオスカー・・・)
◇アレクサンドル・デスプラがついに過労でセルフ・パロディのループに没落?
一本調子の感傷悲哀なスコアは、ダルドリーの注文だったのか!?
無音の部分や街の音(特に屋内で聞くそれが好い)、
そしてしつこいタンバリンの音といった音空間が魅力的だった分、
蛇足にしか響かない「劇伴」は、「映画音楽」的な魅力にはいまいち欠けた。
いっそのこと、『英国王のスピーチ』的な(ピアノの鳴り方はそのまんまだったけど)
ほんわり明るい希望系スコアも入れて好かった気がするんだけど。
そうすれば、もっと嫌味のないベタに昇格した気もする。
◇ちなみに、撮影監督といえば、『愛を読むひと』ではクリス・メンゲスの他に
ロジャー・ディーキンスもクレジットされている。
で、その二人の最新作が奇遇にも日本では同時公開。
ロジャー最新作はそう、『TIME/タイム』。監督はアンドリュー・ニコル。
タイミングとえいば、私の好きな(しかも、かなり)監督の最新作が一気に公開された、
この二月。フィンチャーが一週早く、ラース・フォン・トリアーとアンドリュー・ニコル、
そしてスティーブン・ダルドリーがほぼ同時期に公開。贅沢すぎて眩暈がしそう・・・
だったはずが、連勝記録が更新されたのはフィンチャーだけという・・・
おそらく、変わり果てたアンドリュー・ニコルのショックがきっと
「スティーブンお前もか・・・」的幻滅に歯止めをかけるべく自主規制を促した?
あ、でも、おそらく、全般的に不評っぽいオスカー役のトーマス・ホーン君の顔が
全然好みだったし(アブナイ)、キャラ的にも全然ウザく映らなかったんだよね。
それが、最後まで味わいモードを何とか持続させてくれてた気がします。
そんな出ずっぱりのオスカーの服装も単純にお洒落なだけじゃなく、
妙な美学や変な均衡がミックスされてて、適度な違和感が好い。
でも、やっぱり本作において最良の産物は、予告篇!
手垢が何層にもついていそうなU2楽曲。それでも宿る躍動感。もはやクラシック。
更に、実はこの曲のタイトルにおける「streets」と「name」って、
本作の語りとも符号する気がしなくもない。
特に「name」なんてまさしく本作の中心にあったりするし(Black)、
名前が重要じゃないんじゃない?的帰結もどこか、読み合う感じ。