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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

アバンチ・ポポロ(1986/ラフィ・ブカイー)

2012-12-07 23:52:56 | 2012 TOKYO FILMeX

 

※12月9日(日)15:00よりオーディトリウム渋谷にて上映あり。

 

今年のフィルメックスで組まれた小特集「イスラエル映画傑作選」。

『エルドラド』、『サラー・シャバティ氏』、『子どもとの3日間』、『アバンチ・ポポロ

といった4作品が上映された。(今年はイスラエルと日本の外交関係樹立60周年らしい)

 

どれも観たかったものの、

フィルメックスにしろオーディトリウム渋谷の追加上映にしろ、

観られるのが『アバンチ・ポポロ』のみだった。

(実は『子どもとの3日間』はフィルメックスの前売買ってたが、

  健やかに睡眠を選択・・・冬眠も暁を覚えず。)

 

この『アバンチ・ポポロ』は苦難の末の完成をみた後も、

作品にとっての処遇は不運なもので、ロカルノ映画祭で受賞を果たすも、

出品されたのがテレビ部門だったということもあり、正当な評価を得られずに来たという。

しかし、批評家の間での高い評価もあり、近年ではようやく観られるようになったとか。

第三次中東戦争の末期に敗走する2人のエジプト兵の眼を通して描かれる、

戦争の虚しさと愚かさ。時に滑稽さを漂わせながら、皮肉よりも痛み、

痛みよりも優しさ。優しさよりも逞しさ、逞しさよりも脆さ。儚さ。

被害者と加害者の歴史を体現するイスラエルの可能性。

 

1986年の映画ということもあり、

ウリ・オフィルによるスコアが見事にエイティーズ。

深夜テレビに映える真夜中シンセなエイティーズ。

浮き足だった倦怠感は、砂漠を彷徨う敗走兵士の虚脱感。

戦意が抜け落ちた空隙がもたらす虚しさは、生への渇望を喚び覚ます。

フラットにエモーショナルな電子音が、生気を呑み込む砂漠の光景と相まって、

幻想的な酩酊のなかで時折挿まれる現実の残酷を何処かファンタジックに映し出す。

 

しかし、そうした夢現(ゆめうつつ)の往来も次第に立ち往生。

現を抜かした戦争のイデオロギーによって夢から覚めねばならぬとき、

結局、戦争とは人間を破壊する暴力でしかないことを、それ以上でもそれ以下でもなく、

ただひたすら暴力であり続けることのみで機能するシステムなのだということを、

民族も立場も仕事も祈りも超えて、人間に知らしめる。

 

軽妙さと、不意に飛来する感傷の滋味。

そんなブレンドが岡本喜八の戦争ものを想わせる。

「アバンチ・ポポロ~」とエジプト兵とイスラエル兵が共に歌いつつ、

夕陽に染まる砂漠を想い想いに行進する場面の優しく朗らかな希望の光明。

戦争は悲劇にしか成り得ぬが、その下にあってすら喜劇を演じる姿こそ、

人間が「歯車」に抗うための意志が溌剌と忍耐する証左。

役者だったエジプト兵がかつて演じたのはユダヤ人。

『ベニスの商人』のシャイロック。

 

制作予算といった事情もあろうが、

戦争という厖大な機構を相手にしながらも、

個人が醸す機微に寄り添いながら語られる戦争映画は、

瞬発的な衝撃を投下しなくとも、波紋のように拡がる静かな一撃が降り積もる。

 

スタンダードサイズのフィルム上映。でも、音楽はエイティーズ。

そこに映し出される世界には、戦争が迷走し、涸渇を託つ。その悲劇は、闇の奥。

暗闇に包まれ、浮かび上がる荒涼たる砂漠と人間の叙事詩をひっそり見守る84分。

ふと気づくと頭にメロディが。しばらく微かに棲み続け、ふとまた会いたくなる佳作。

そんな自己顕示的な謙虚さという不思議な佇まい。それがイスラエル映画の魅力かも。

 


ギマランイス歴史地区(仮題)(2012)

2012-12-03 22:52:50 | 2012 TOKYO FILMeX

 

今年は「欧州文化首都」に指定されてるらしいポルトガル北西部の古都ギマランイス。

フィルメックスのリーフレットによる作品解説では、

「この魅力的な都市を現代ヨーロッパを代表する4人の巨匠が様々な側面からとらえた」

とあるのだが、都市の姿が現れるのは最初(カウリスマキ)と最後(オリヴェイラ)のみ。

2番目のペドロ・コスタと3番目のビクトル・エリセの短編には都市は姿を現さない。

原題は、"Historic Center(Centro Histórico)"。

現代の都市が現れた最初と最後の短編にはさまれた2篇には、

とりわけ「歴史」にまつわる記憶が個人の「物語」に託され呈される。

 

ペドロ・コスタの作品は、独りだけスタンダード・サイズというだけでニンマリ。

とはいえ、アキ・カウリスマキの寡黙に雄弁な飄然で幕を開けた後だけに、

雄弁が緘黙を襲撃する闇然に囲まれたコスタイズムになかなかシンクロできず。

それは裏返せば、彼の作家性が放つ特異性の健在と唯一無二の確認ともいえる。

4篇を通して自分なりに考察してみたいテーマ性が浮き彫りとなった今、

彼の作品に還るべきプレッシャーを改めて感じている。

まぁ一言でいうならば、「寝ちゃった」ってことなんですけどね(笑)

ちょっとウトってしただけなのに、結構経ったような気がしつつ、でも全然終わる気配なし。

そんな時間が30分。(前半は全然楽しかったのですよ。再会!って感じで。)

何が驚きって、(後から知ったんだけど)エリセの作品の方が長い(36分)のだ!

ペドロ・コスタの半分くらいの長さだとばっかり・・・。

(ちなみに、オリヴェイラは5分くらいだと思ったら10分もあったのか。)

別に体感時間が作品の質と比例するというのでは全然なく、

むしろそれぞれの体感時間が観るものに刻む独自性に津々たる興味。

 

前評判通り、ビクトル・エリセの短篇をつつむ優しさと美しさと厳しさと逞しさは、

それ単独で完全版を観たいと思わせる。(勿論、あのままでも完全版とも思えるが。)

人がいない光景に人の気配を宿し、人が現れた瞬間、その気配が引いてゆく不思議。

でも、それは、場所がもつ記憶であり、その記憶の連鎖や継承が織りなすテクスチャー。

廃墟となった紡績工場で語る人物たちの後景からこちらを見つめる大きな写真。

その写真のなか、困憊の表情ながらまっすぐにカメラを見つめる大勢の労働者。

彼らを撮った人物は今、どこで何をしているのだろう。

過去の撮影者と現在の撮影者に挟まれるようにして語り出す証人たち。

思い思いの想い出は、たったひとつの断片であるはずなのに、

彼や彼女にとってはかけがえのない全容たりうる記憶。

それは曖昧だろうが鮮明だろうが、彼らだけの経験。

しかし、その固有性こそが他者への浸透を促す奇怪な感慨。

気づくと彼らを観る我々は、立つ場所も、ましてや座る場所も見つけられず、

「その場」に立ち竦みながら聴いている。

 

そんな彼らが直接に《過去》(写真)と対話を試みる。

しかし、そこ(写真)には必ずしも彼ら自身の《過去》はない。

私たちが期待したであろうセンチメンタルな再会は起こりえない。

それは、記録としての写真と記憶に刻まれた心象とのすれ違い。

しかし、それらはどこかで交錯してもいる。

 

更に、演じる者と奏でる者による再現は、

虚構による現実の再発見や再構築を想わせる。

そして、その力こそ、当事者も非当事者をも一つのサークルに招き入れ、

物語の枠内での一瞬一瞬に、喜びを噛み締める。

その瞬間の確かさに、時間を覚え、忘れる。

 

そんなエリセに続くオリヴェイラの作品は趣を全く異としながら、

それら二篇が驚くほどに語らっている。

 

オリヴェイラの『征服者、征服さる』では、

観光客の大群(という表現に相応しい様相を呈している滑稽さが面白い)が、

ポルトガルを建国したアフォンソ・エンリケスの像を見上げている。

そこで交わされている《過去》の対話は、もはや交錯していない。

が、そこには紛れもない歴史の支配が存在する。

たった一つの像が表象している物語の下に。

ところが、そのような事実にはお構いなしに、

像を見上げる人々はせっせとデジカメを「彼」に向ける。

しかも、そうした大衆が求めるのは「彼」の記録ではなく、

彼ら自身の「決定的瞬間」の選択だ。自己決定的な選択による対象の支配(所有)。

それは、シャッターを切る毎にうまれる緊張感による対話とは無縁の、

圧倒的空費の堆積に思えてしまう。

 

そこでエリセの『割れたガラス』で厳かにこちらを見ていた写真の存在を想起する。

撮る側にも撮られる側にもまだ一回性があった時代。その一回性が蓄積され続けた時代。

そんな時代に刻まれた一言一言。そんな時代を思い描かされる一音一音。

変わらずに私たちをあたたかく包み込む太陽の光があふれるなか、

デジカメのショットで、征服者を撃っては征服する充足。

 

巨大な機構たる工場に填まり込むことを強いられた個人は今、

自ら進んでオンデマンドという自由の奴隷になろうとしてる?

そして、それは欲求という目に見えぬ無制限な観念に溺れては、

今此処にある現実を空洞化させてゆく。自分の眼で見ることはなく、

自分の言葉で刻みもしない。そして、すぐ横の者と語らうこともない。

 

オムニバス映画には、それを一つの作品として楽しみにくい側面が確かにあるが、

これほどまでに個を貫かれた場合においては、観る側に迷走と瞑想が許される。

そして、そこから拡がった思索の戯れを経た後の再見こそが今から楽しみだ。

 


庭師(2012/モフセン・マフマルバフ)

2012-11-26 15:30:55 | 2012 TOKYO FILMeX

 

先月の釜山国際映画祭でのワールド・プレミア上映を経て、

フィルメックスでも上映されることとなった本作。

マフマルバフ父子がハイファにあるバハイ教の本部を訪れ、

父モフセンと息子メイサン(映画プロデューサー)が互いにカメラを持ち、

互いに思い思いに〈世界〉を切り取っては語らってゆくという構成がとられている。

しかし、物語的ドキュメンタリーの主たる語りはそれら「二者」によるものではなく、

更にそれらを俯瞰するかのような第三の視点によって綴られてゆく。

 

それはそれは実に珍妙に映る前半。

中盤で息子メイサムが「これは人権に関する映画であるべきで、

宗教宣伝映画ではないはずだろう(そうなってしまっているのではないか?)」

と語るのだが、まさにそうした空気が充満しながら進むのだ。

流れる音楽は所謂イーリングミュージック的なものであり、

現前の人物が語っている場面がさりげなく「声」のみで映像に重なり始め、

その内容とも相まって神格化された抽象世界が背後に漂い始めてしまう。

ところが、それは余りにも胡散臭さを放っている為、

「洗脳」を相対化してみせているようにも思える。

 

とにかく、おかしなおかしな親子映画が始まった。しかも、宗教を題材にして。

そんなかなりの戸惑いと、わずかばかりのワクワクで前半を終えた頃、

親子は袂を分かち、移動と飛躍が遂げられて、映画に躍動が訪れる。

バハイ教へのシンパシーを禁じ得ない父親に呆れ、痺れをきらし、

息子はエルサレムへと足を伸ばす。

彼には、「宗教こそが戦争の根源」という強い想いが根底にある。

それを実証するかのような、三つの宗教が同じ地を「メッカ」とする現実を改めて確認。

キリストが昇天されたとされる場所から徒歩数分のところに、

ムハンマドが昇天されたとされる場所があり、そこから見渡せる場所にあるのが、

ユダヤ教で最も重要とされる建造物「嘆きの壁」。

(本当に「すぐ向こう」に見えるの図は、まさに一目瞭然な感慨。)

「嘆きの壁」に近づくため、ユダヤ教の帽子をかぶり、「壁」に近づくメイサム。

 

彼は「どんな宗教においても、教会には共通する建築的特徴がある」と語る。

たとえば、高い天井。これは、人間の卑小さを際立たせるためのものだと考察。

とにかく彼にとって宗教とは「怪物」で、人間はそれに平伏し時に利用するものなのだ。

高い教育水準の人々ほど虐殺を繰り返してきた「歴史」をその根拠(事実)としても語る。

また、聖地には必ずバザールがあり、ロザリオなどの「グッズ販売」などが充実している

として、そうしたところに宗教における商業との不可分性を言及したりもしている。

 

一方、父モフセンが懐疑するのは具体的な宗教よりも、宗教イデオロギーにあるようだ。

つまり、一神教における盲目的崇拝とそれがもたらす世界の均質化。

だから、彼にとって最も危惧すべき「宗教」はテクノロジーなのだと。

確かに、科学信奉に基づく「テクノロジー教」は、どんな宗教よりも多様性とは相容れない。

「スティーブ・ジョブズを預言者扱いする現代」への危惧を強い口調で吐露するモフセン。

 

終盤、庭師と共に大きな鏡を両手で抱え、そこに〈世界〉を切り取ってゆく場面がある。

そこに浮かび上がる世界の写しは虚像でありながらも、奇妙な実存をたたえている。

何ら質量ももたぬ単なる「映像」でしかないその方形の「世界」を見ているに過ぎない、

そんな現実を示唆しているのだろうか。映像の世紀が、戦争の世紀であったように。

だからこそ、彼はそうした方形に収まらぬことを確かめるため、海にまで足を運ぶ。

世界には広がりや動きが尽きることなくあるからこそ豊饒さがあるのだろう、と。

 

宗教は一つの枝に過ぎない。

そして、人間は同じ幹に宿ったそれぞれの枝。

そのような表現で本作は閉じられようとする。

色も形も異なる花々が平和に「共生」している姿に理想を見るバハイ教の信者。

そんな彼らと通じているようにも見えるモフセンの心。

ただ、信者たちをとらえる映像に刻まれている特殊性(違和感?不自然さ?)を、

彼ら自身に由来するものと捉えるか、モフセンの意図によるものと捉えるかでも、

彼の「真意」は違って見える。

 

「私はキリスト教徒でも、イスラム教徒でも、仏教徒でもない・・・・・・」と始まる本作は、

「私はキリスト教徒であり、イスラム教徒であり、仏教徒である・・・・・・」と終わる。

そして、最後には「無宗教でもある」という断りまである。

つまり、「何ら宗教に属さぬことなどできぬ人間」の現実を語る。

確かに、明らかな信仰対象や教義が絶対的普遍的に存在している宗教の方が、

それらが任意で恣意的に決められるようでいて人間の手を離れつつある「宗教」よりも、

自覚し意識しやすかっただろう。救いにおいてのみならず、懊悩や葛藤でさえも。

 


三姉妹~雲南の子(2012/ワン・ビン)

2012-11-24 23:59:19 | 2012 TOKYO FILMeX

 

王兵(ワン・ビン)の『鉄西区』を初めて観たときの衝撃は、

未踏の地である中国のスタンプがパスポートに押されていないことを懐疑し始めるほど。

フレデリック・ワイズマンのように全てを見透かすかのような眼差しとは別種の、

見透かすことを頑なに拒むかのような即物的な凝視に新たな地平を感じた。

その興奮を再び体現するために、彼の作品を追いかけて来た。

 

しかし、前作の『溝』(劇場公開タイトル『無言歌』)をフィルメックスで観たとき、

ワン・ビンのネクスト・ステージに私が立てる場所はなかったという失意。

『鉄西区』での出会いが余りにも自らの確たる核を刺戟しただけに、

同様同程度なものを期待しすぎる「呪縛」の弊害かもしれない。

 

『無言歌』に覚えた違和感は、

それが「劇映画であった」ことに起因している気もしたし、

だからこそ本作において展開されているであろう発展的原点回帰に胸高鳴った。

 

ところが、私の心はもう、彼にはときめかなくなっていた(笑)

 

おそらく本作も『無言歌』の時と同様に、もしくはそれ以上に、

熱烈な支持でもって迎え入れられるであろう予想は難くないものの、

私のように「かつては熱烈な支持でもって完全降伏だった」という者に

ひとたびの訣別を決意させてくれるような分岐点として映る作品でもある。

 

彼にしか撮れない、彼にしか綴れない「物語」が醸成され、

時間の蓄積と共にそれが鮮やかに迫り来る構造の妙には唯一無二の体現がある。

しかしながら、称賛で迎えられるかもしれない側面に悉く違和を感じたのも事実。

 

例えば、映像に終始つきまとう「決まってる」フレームや構図に削がれる熱量や、

被写体の自由を活写しているようでいてカメラのなかで踊らされているような気配。

いままで「結果」として浮き浴び上がってきていた世界に混在する美のすがた。

それが本作では見事なまでに「調整」され尽くして提示されているかのように感じてしまう。

フォトジェニックな光と影の饗宴が、狂演として心掻き乱すことはなく、立派に美しい。

そんな「収まり」は被写体たちを掌握し切っているかのような観察にも感じる凡庸。

特に、今回は相手が子供ということもあり、より自由なようでいて実は従順さが際立つ。

大人の方がカメラを自然と意識してしまうのだろうが、その意識がむしろ新たな抵抗をうむ。

そこで生じた〈衝突〉が、予期せぬ深部の露見あるいはその強固な拒絶を展開したりする。

ところが、カメラのまえで「自然」でいられるように思われる子供という存在は、

意識の上では無視してるからこそ、深層における「支配」は進行してる。

被写体に引きずり廻され掻き乱されてきた王兵の初期作における現実への肉迫が、

本作では感じられない。カメラの方が被写体を牽引してしまっているような印象だ。

 

もしかしたら、王兵の熟練と洗練によって混入しつつある慈愛の眼差しが、

峻烈な態度でのみ世界と対峙していた彼のスタイルをノスタルジックに求める自分には、

高尚という名の退屈として映っているだけなのかもしれない。

それは、極々私的な期待の反動に過ぎぬのだろう。

 

◇冒頭からある作品を想起し続けた。

   昨年の中国インディペンデント映画祭で上映された『ゴーストタウン』。

   私のなかでは紛れもない傑作として記憶されているその作品で観た光景の数々が、

   本作の様々な光景と結びつく。そして、それらは昨年の鮮烈な記憶と相対され、

   無限増幅を反復する記憶に比しては既視的虚脱に見舞われる。

   勿論、その2作は随分と似たアプローチを持ちながら、

   作品が立とうとしている場所は大いに異なる。

   とはいえ、だからこそ、今の私を見事に「突き刺してくれる」のは、

   『ゴーストタウン』の方だったという確認。しかし、それも去年のことなので。

 

◇デジタルの映像は、人工的な街並みをとらえると退屈に終始してしまうのに、

   自然のなかに分け入ると、その暴力性が奇妙な現実感を刻印してる。

   それゆえに映像の持つ求心性は途絶えることがなかったように思う。

   しかし、「光」溢れる場面における異様な明るさ(眩しさ)はまだまだ不自然だ。

 


3人のアンヌ(2012/ホン・サンス)

2012-11-23 23:20:12 | 2012 TOKYO FILMeX

 

今年で13回目となる東京フィルメックスのオープニング作品となる本作。

今年のカンヌのコンペにも出品され、日本でも来夏に劇場公開が予定されている

ここ数年は毎年新作を発表しているホン・サンス。作風は透徹していながらも、

その手法やアプローチは多様かつチャレンジングだったりする鮮やかさ。

本作も「らしさ」と「ならでは」に満ちながら、模索と探究の冒険に同伴させられる。

世界を把握しようとはせず、静的な解放が心地好い。抑圧しないのに在る解放。

監督も語っていたが、〈意味〉という「限定の道具」を用いないことで生じる自由の享受。

「選択」に必ず付随する「犠牲」や「消去」を強いないこと。残すこと、生かすこと。

ホン・サンス流のパラレル・ワールド的展開で魅せる世界のレイヤー、ア・ラ・カルト。

 

虚実のせめぎあいによって重層的に交錯する世界の豊満に翻弄される。

そんな幸せな眩暈にときめく感覚は、

同じくフィルメックスで初めて観た『トスカーナの贋作』に似てるかも。

ただ、あちらが1つの次元でいくつもの層を見せてくれたのに対し、

本作は次元がまさに複数あり、しかもその各々が相互乗り入れしていたり、

さらに一つの次元における複数の層が別の次元との共鳴を見せたりもして。

とにかく、あらゆる細部があらゆる細部にリンケージ。

それは必ずしもリンカネーションとしてだけ映らずに、

共時な同時が何時でも往時。そして、どこまでも今。

 

◆原題(朝鮮語)の意味は解さぬが、英題は"In Another Country"。

   この"Another"と"Country"という語たちが意味深長。

   数多あるレイヤーのなかの或る一つ(another)。

   同時に存在しながらも、異種別次元をもつ世界(country)。

   邦題を別に貶すつもりはないが、本編を見ればわかるけど、

   実際は「3人」ではないし、「三様」でもないからね。

   数字(「3」)は余計な気もするけれど、あえて限定することで「枷」ができ、

   それこそが本編を見ながらじわりと広がり続ける世界の解放とに違和感を生み、

   邦題と作品内容に生じた軋轢こそが鑑賞における大切な感傷を引き起こすかも。

   そう考えるならば、一つの「起点」としては或る種の示唆は担えてる。

   ただ、"In Another Country"の重層性を抱きしめたい。

 

◆アンヌ(イザベル・ユペール)はいつも灯台(「ライトハウス」)を探してる。

   「航行」における案内や誘導を求めているのだろうか。

   灯台の光はいつも廻ってる。あらゆる方角を照らしているが、

   或る方向を照らすとき、それ以外の方向は闇のなか。しかも、灯台元暗し。

   本作における語りの妙は、灯台のそれのように思えて来たりもして興味深い。

 

◆本作に登場するアンヌも彼女を取り巻く人間も皆、

   冒頭に出てくる(あるいは数度挿入される)脚本を書く女性の創作という体なのだが、

   更にその彼女が綴る物語の中にも更なる物語の混入(アンヌの妄想や夢想)がある。

   おまけに、創作した女性が「一人」であることから生ずる記憶のリンクやコラボの妙。

   そうした連鎖は、実態における有機性とも重なりあって、虚実の別を無化する愉快。

 

◆ラスト近く、アンヌがハングルを読める(?)場面がある。

   ライフガードの青年のTシャツの胸にある文字を指さし、

   「ライフガードって書いてある」と言うのだ。

   勿論、これらの展開もすべて〈創作〉であると捉えるならば、

   その他の珍妙エピソード同様にファニーな産物として捉えよう。

   しかし、言語の超越ともとれる〈越境〉の瞬間(世界の解放)かもしれないし、

   パラレル・ワールドの記憶が実存に集結する世界の帰結に映り出したりも。

   その後の「傘」や砂浜に捨てられた焼酎の小瓶はまさに〈越境〉の象徴で、

   縦横無尽なミッシング・ピース。ボーダーレスからレイヤーレス。

 

これほどまでに「間隙」と「齟齬」に〈無〉的な包含を不敵にかなえた映画は特別だ。

ただ外したり、ずらしたりするのとは明らかに違う、精緻に支えられた弛緩の巧み。

それは綿密な構築によってもたらされる鮮明な世界の把捉による充実を一瞬ちらつかせ、

それをひっそりほくそ笑みながら、無限の再生のため解体す。素晴らしき哉、瓦解。

むすんでひらいて、ひらいてむすぶ。