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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

RIVER(2011/廣木隆一)

2011-12-02 19:17:02 | 2011 TOKYO FILMeX

 

第12回東京フィルメックスにて観賞。なんでも(一応)ワールドプレミアらしい。

本作は、「秋葉原の殺傷事件をモチーフにした映画」という情報により、

少しばかり話題になったりしていたものの、結論から言えば、それはただの「釣り」。

 

映画祭では、日本映画や配給の決まった作品は余り観ないのが通例ながら、

今回のフィルメックスではスケジュール的にも興味関心的にも、

むしろそれ等を主に観るようなプランになってしまった自分。

ニコラス・レイ関連の2作と『人山人海』以外は今後公開予定のものばかりを観てしまった。

本作を観ることにしたのは、事件関連ということに対する世間並みの(?)関心もあるが、

前作『軽蔑』で訣別を心に誓いたくなった廣木監督ともう一度向き合いたかったということも。

とはいっても、廣木作品をすべて観ているわけでもない自分としては、

瀬々監督同様)作家論的には語れない。ただ、映画を観始めた頃に観た『東京ゴミ女』が

なぜか「引っかかる」作品で、他の作品にない魅力を味わってしまっただけに、

彼の作品には注目せざるを得ない体質(笑)になっているのでしょう。

 

個人的に本作をどう評価すべきかは戸惑ってしまう。

この作品は、作中の人物や物語よりも「場外」(秋葉原の殺傷事件や3.11の被災地)の

存在感ばかりが際立ってしまっているからだ。つまり、ドキュメンタリー的アプローチが

中途半端に入り込んで(意図的か否かは判然とせず)いることで、

本作の丁度好い受け皿が自分のなかに見つからない。

 

終った後、海外プレス(と思しき)女性が上機嫌で好意的に作品を語っていたりしたのを見て、

やっぱり本作を観る上で、作中に映り込んでいる世界とその元となる現実との距離により、

明らかに受け止め方は変わってくるんだろうと再確認。秋葉原しかり、被災地しかり。

 

そうした意味で言えば、秋葉原に大した思い入れも現実的なアクセスも稀薄だったり、

親戚が被災しているものの、実際には現地に未踏である自分にとって、

内にわいた違和感は云々するに値しないものかもしれない。

ただ、本作があのような「つくり」を採った時点で背負った宿命としての「語られ方」は、

きっと多様な抵抗や主観による受容(あるいは拒絶)をこそ必要としている気もする。

 

◆冒頭15分ほどの長回しがある。

   主人公ひかり(蓮佛美沙子)が秋葉原に降り立ち、街を静かにトボトボ歩いている。

   ゲリラ撮影だと丸わかりな映像は、カメラを意識して避ける人もいれば、

   ピースサインで映り込もうとする若者も割り込んでしまっている。

   この辺りを「楽しめるか否か」が、本作の全篇通して「ノレるか否か」と関係するのでは?

   終盤になればより明瞭となるが、本作におけるフィクション性(映画のなかの物語)は、

   あくまで舞台としてしか機能しない。その舞台に「現実」を立たせようとするための仮構。

   主演の蓮佛美沙子が、「監督はとにかく余計なものを削ぎ落とそうとしていた気がする」と

   語っていたが、それも蓮佛が「ひかり」になるよりも、「ひかり」が蓮佛であるように撮ることを

   念頭に置きながら組み立てていった作品のように思う。

   もう一人の主人公(小林ユウキチ)然り。

   だからこそ、演者としてのスキルで臨む田口トモロヲや根岸季衣、柄本時生などは

   極めて「場違い」な人物として映り込む。ピースサインの若者と同様なほど。

   それは、ひかりがリアルに感じられる世界の住人とは異なるからかもしれない。

 

◆冒頭で、主人公が秋葉原の街頭に佇むと聞こえてくる「あの日」の騒然。

   街角で知り合った路上ミュージシャンと橋上で語らうなかで主人公は、

   「録音の勉強をしている(そういう仕事をしたい)」と語る。

   記憶と音の関係を示唆するのは興味深いが、単発思いつき的な小ネタに過ぎず、

   物語自体と全く有機的に絡まずじまい。これもまた「釣り」かよと・・・。

 

◆中盤(後半かな?)に主人公がテーマを思いっきり言語化してしまう台詞がイタイ。

   ここにいるのはニセモノで、本当の自分はどこかにいるんじゃないかって思う・・・みたいな。

   『マトリックス』かい!?

   「皆、自分じゃない自分になりたくてここ(秋葉原)に来てるみたい」とまで語ってくれる。

   そういう心理自体には共感できるけど、直接的説明的な台詞を吐かれるとシラケてしまう。

   そのくせ、肝心な終盤は無言で通す。「映像の力」とでも言わんばかりに・・・逃げてるだけ。

 

◆鏡に向かって「どっちがリアル?」みたいな問いかけをする場面があったと思うし、

   水面に移った月やら夜景やらを意味ありげに眺めているシーンまであるんだから、

   もうちょっと巧く使って、(今、映画界で流行りの)パラレルワールド的発想でも

   持ち込みゃ好いのに・・・

 

(ラスト展開ふれます)

 

◆ヒロインの演説による説得で故郷を訪れる佑二(小林ユウキチ)は、

   瓦礫のなかを絶望にまみれ、歩いて回る。異様に「あたたかく」「美しい」陽光は印象的で、

   絶望を引き立てつつ、希望をも感じさせる映像は、最初のうちは感じるものが大きいが・・・

   如何せん長すぎる。あそこまでいくと「あざとさ」しか感じられない。

   途中、意味不明なカメラの疾走まである。酷い手ブレが始まったかと思うと、

   撮影者の足音が静寂を破ったりまでする始末。こういうの最近、多すぎる。

   物語のなかの誰かの眼でもなければ、俯瞰としての(観客)の視点でもなく、

   姿は見えぬが明確に存在を感じさせてしまう撮影者(観察者)の眼。

   意図はあるかしれないが、意義はほとんど感じない。今更ドグマ95病?

 

◆そもそも、ラストで震災の話とかが絡んで(どころかモロ入ってきて)しまった時点で、

   「秋葉原」という場所も、「殺傷事件」という社会的事象も、何だったんだ!?という・・・

   誰か(Q&Aで)訊いてくれるかと思っていたが、そもそもこの脚本って

   いつどうやって書いたんだ?クランクインする直前に震災が起こったってことは、

   最初は終盤の展開など当然違っていたわけだから、そこに無理矢理ねじ込むこと自体、

   きわめて不誠実(秋葉原の事件に対しても、被災地の状況に対しても)としか思えない。

   そして、当然の如く奇跡的な成功など起こりようもなく。

   この手の便乗ほど観ていてつらい(というより正直不快)なものはない。

   ドキュメンタリーやそれに準ずる形式や使命によって収めたり表現するならわかる。

   しかし、「物語」においてそれを粗雑に混入させ、結局は援用に堕してしまうのは、

   事象が事象だけに倫理的にも違和感をおぼえざるを得ない。

   あの衝撃や、あの時に感じた使命感などはわからないでもないが、

   それを端緒として、それを原動力として行われる創作や表現において、

   事象を直接的に引用するという安直さは、そうした活動において許されざる怠惰では。

   物語であったり、映像であったりというのは、間接的に描いたり提起したり感受できてこそ、

   その存在意義と共に、論理とは別次元で受け手の胸に迫れもするのではないだろうか。

   キアロスタミ『そして人生はつづく』のような作品を撮れるのでないのなら・・・

 

◆ただ、もしこの二つの事象を同時に取り上げるとしたなら、

   きちんと扱えば面白かったかもしれない。なぜなら、双方とも衝撃的な「禍」でありながら、

   人災と天災という大きな違いや、規模の違いもある。

   しかし、それらいずれも「想定外」による恐怖と悲劇に見舞われる。

   その一方で、何とかしようのある「社会」の問題と、

   何とかしよう(できる)としたのが間違いだった「自然」の問題という差異もある。

   このあたりを、物語と有機的に絡ませることができれば、

   非常に興味深いテーマを内包できたであろう。

 

◆本作のタイトル(「RIVER」)を聞いた時、真っ先に思い出した『東京ゴミ女』のラストシーン。

   確か、主人公が川か海を船に乗っている(航行を始める感じだったと思う)情景に、

   ワイヨリカの「さあいこう」が流れてくるという印象深いラストシーンだった。

   そのエンディングに何故それほどしみじみ感じ入ったかは判らぬが、

   本作のラストもそうした展開と何処か重なる(船に乗ってるという意味じゃ全く同じ)。

   但し、それまでとことん閉じられた世界で偏執的なヒロインが描かれていた『東京ゴミ女』

   と較べると、本作は最初から随分と「立ち直る気配」が漂い過ぎていたり、

   そもそも(精神的にでさえ)引きこもっているとは思えないオープンな空気を感じてしまう画。

   震災後の街の持つ空気の方が、主人公の傷などと比べものにならぬほど

   不穏で絶望に満ちていたということも大きい気がする。

   (被災地の映像に比べ)そうした様相をじっくり記録したものは少ないだろうから、

   それを再確認することで改めて体感できることもなくはないだろう。

   しかし、どうしても主人公の傷みが(相対的にとはいえ)矮小化された印象も拭えない。

 

◇その『東京ゴミ女』は、シネマ下北沢(懐かしい!)で連続上映された企画「ラブ・シネマ」の

   第一弾だった。6人の監督が、デジタルで作成した低予算映画を連続公開した企画。

   他にも、行定勲や篠原哲雄、塩田明彦に三池崇史(!)という強豪揃いの好企画。

   確か第二弾とかあった気がする。その後、その流れで(?)『刑事まつり』とかやってた。

   あぁ、シネマ下北沢懐かしい。基本的にスクリーンの小さい劇場って好きじゃないけど、

   あそこは建物自体も、その中に入ってからも、趣深くて結構好きだった。

   いつ行っても基本的に客は片手で足りるくらいしか入ってなかったけど。

   二人(勿論、向こうは赤の他人)で観た『差出人のない手紙』という

   極めて地味なメキシコ映画は、今でもたまにふと思い出したりする作品。

 

◇会場でもらった本作のチラシには、秋葉原の街をバックに佇む蓮佛美沙子。

   やはり宣伝では「秋葉原」「殺傷事件」あたりを鍵として売り出すのだろうか。

   だとしたら、事件の扱い方や(事件や秋葉原を無化するかのような)終盤の展開は、

   そうした宣伝で関心をもった観客にとっては、かなり戸惑いおぼえるだろうなぁ。

   同じ唐突さでも、『リメンバー・ミー』くらいの辛辣さ(真剣さ?)で挑めばよかったのに・・・

 


奪命金(2011/ジョニー・トー)

2011-11-30 23:49:22 | 2011 TOKYO FILMeX

第12回東京フィルメックスにて観賞。

 

本作は今年のヴェネチアのコンペに出品されたとのことだが、

ヴェネチアのコンペには2007年にも『MAD探偵』で参加しているし、

2008年にはベルリンのコンペに『スリ(文雀)』で参加、

2009年は『冷たい雨を撃て、約束の銃弾を』で『エレクション』(2005年)以来ぶりに

カンヌのコンペに参加するというように、三大映画祭の常連どころか毎年参加状態の

ジョニー・トー。しかし、多少の芸術性を垣間見せつつ、あくまで娯楽の精神を忘れない、

「ぼくらの」的形容も両立しうる貴重な安定信頼監督の一人。

(ちなみに、『エグザイル/絆』でも2006年にヴェネチアのコンペに参加しているから、

2005年から作品発表のなかった2010年以外は毎年三大映画祭コンペに出品してるのか。

多作&娯楽作の監督で、こうした実績も重ねているとは本当にすごいなぁ。)

 

最近作に顕著だった、魅惑の映像やら展開のダイナミズムのようなものはやや影を潜め、

暴力も銃弾もほとんど描かずに、表情や言葉のみでスリリングなドラマを活き活き語る。

上映前に監督本人からのビデオメッセージ(セルフ撮り)が流されたのですが、

そのなかで監督は「これまでと異なった作風に挑戦した」というような発言をしていました。

確かに、従来の作品に比べて随分とストイック(十八番的手法をかなり封印した印象)な

気配が全篇に充満していた印象です。「来たぁ~」じゃなくって、ずっと「来る来る」な感じ。

で、そうした気配の緊張感が100分超を優に持続させてしまう軽妙洒脱な外連の手練。

熟練工でありながら、茶目っ気を絶対に忘れない、つぶらな瞳の壮年少年活劇世界。

 

◆とにかく脱帽してしまうのは、3つの世界(刑事およびその家族、金融業界、チンピラ)を

   交錯させつつ収斂してゆく流れというよりも、それぞれの中心人物のみならず、

   脇役すべてのキャラ立ちにニヤニヤ頻りなところだったりする。

   タランティーノというよりアルトマンに近い感じ(なのか?)。

 

◆したがって、ラストの急転直下的展開に関しては、

   予想していたほどのカタルシスは感じられなかったりもするのだが、

   いつもなら醍醐味を集中させる「そこ」をあえて中心に据えないような本作のつくりは、

   結末に至る道程(言動ひとつひとつや人物たちを通して見える背景までも)こそを

   詳らかに丁寧に描くことで、結末はあくまでオマケに過ぎぬような見え方にしたかのよう。

   しかし、それはジョニー・トーなりの「カネ」に対する想いが背後にあるだろう。

   タイトルにもある通り、「カネ」が常に話の中心にあるものの、

   「カネ」それ自体が物語を生むのではなく、それに魅せられたり囚われたりした者どもが、

   勝手に物語を転がしていくだけのことだとでも言いたげなストーリーテリングなのだ。

   英題は「Life without Principle」。

   現実の世界においては、原理原則など十全に機能するはずがない。

   個人の信条など掲げていようとも、欲望に容易く負けることもある。それが人生。

   金は命を奪う。しかし、金が命を奪ったわけではない。カネが殴ったり撃ったりする訳ない。

   命を奪った金などない。奪うのはいつも人間だ。人間が人間から奪うのだ。

   だからこそ、話題の中心にカネを据えながら、どこまでも人間が中心に在り続け、

   カネそれ自体の「存在」感は至って希薄。

   モノとして存在し確かめ得るものではなくなりつつあるカネ。

   ヴァーチャルな存在と化しつつあるマネーの趨勢。

   形も重さも持たぬマネー。確かにマネーの価値は、形にも重さにも存しない。

   お金とは元来概念的な思考の上で成り立っているシステムなのだが、

   それだけでは耐えられない五感の欲求が、お金の価値をモノとして感じられるようにした。

   札束の山を目の当たりにしたときの強欲や充足とは極めて対照的な、

   コンピュータの画面に映し出される数字やグラフ。

   掴めた方が好いのかどうか。掴めずして「手にする」ことはできるのだろうか。

 

◇本作はフィルム上映だった。

   日劇で観たので、フィルムでシネスコ作品観賞できる望外の満足感、至福。

   くっきりはっきりなデジタル画質に慣れた(というより、それがスタンダードな)

   ヤング・ゼネレーションからすれば、フィルムの画なんて「くすんだ」ようにしか

   見えないのかもしれないが、フィルムの奥行感には没入するだけの世界の広がりがある。

   「選択肢」としては残っていって欲しいものだなぁ。

 

 


ニーチェの馬(2011/タル・ベーラ)

2011-11-28 21:30:52 | 2011 TOKYO FILMeX

第12回東京フィルメックス特別招待作品。有楽町朝日ホールにて観賞。

来年2月、シアター・イメージフォーラムほかで公開予定。(公式サイト

 

現代の映画作家のなかでも傑出した独創性を貫く孤高の人、タル・ベーラ。

『あの夏の子供たち』で、自殺する映画プロデューサーが抱えていた最大の問題に

撮影の泥沼難航ぶりが激しいスウェーデンの(?)映画作家の存在があった。

モデルとなった映画プロデューサーのアンベール・バルザンは実際、

タル・ベーラの『倫敦から来た男』を手がけ、その製作中に自殺している。

それはあくまで「事実」に過ぎないが、芸術と産業の狭間に位置するしかない映画の現在を

痛切に物語る象徴的出来事だ。そうした運命の為される業かどうかは窺い知らぬが、

「最後の作品」だとの表明をしているタル・ベーラの新作は、

あらゆる運命をも吸い尽くすほどの傑作だった。

 

観賞から数日経過した今でさえ、いまだ脳裏にこびりついて離れない映画の世界。

それは、作品それ自体がもつ威力であることに間違いないが、

あれほどまでに孤高なる芸術性がスクリーンから溢れ出ているにもかかわらず、

それは日常の卑近などの場面にも侵入し得る普遍性をたたえている。

だからこそ、眼前の現実の背後にある「人間の歴史」が透けて見える感覚を、

『ニーチェの馬』の証人となった者どもに植えつけて止まぬのだろう。

 

すぐにでも観返したいのに、

観返すのが怖いほどに唯一無二な感情を喚起し続けた二時間半。

公開されれば、当然足を運ぶであろうが、まずは最も美しく偉大なる「難関」との逢着を、

ありのままに記録しておくことも必要だ。そうせざるを得ない強烈な圧力を受け続けた以上。

 

スクリーンに映し出された最初の映像を観た途端、多くの者は言葉を失う。

そして、それこそが本作の「正しい」受容であることに気づく。

筆舌に尽くし難いものを映し出してこその映画だという作家の信条の結実。

映画である必然性。モノクロームである必然性。そして、フィルムである必然性。

そして、それらはすべて「必要」からは遠く離れて、「運命」に限りなく近づくかのようである。

だからこそ、目撃者となる証人(観客)は、その運命の只中に据えられる。

 

時に静謐すぎる佇まいで見守る眼であるかと思えば、

すべてを貫通して彷徨い出る眼に変わりもするカメラ。

しかし、それは最早フレームやコマの規格に則るカメラなどではなく、

時空のスケールを凌駕した、世界そのものを焼きつけようとする眼差しの旅。

 

世界の終わり〈絶望〉を描きながら、そこには世界の始まり〈希望〉が霞むも見える。

タル・ベーラが「最後」と表したこの作品は、壮大な胎動として響き続ける「はじまり」を、

芸術を愛する者すべてに齎すだろう。

 

 

◆Q&Aの終盤に、「日本の皆様へ」向け親切な解説を駆け足で付加してくれたタル・ベーラ。

   その途轍もない存在感やらオーラやらなど、記すことすら愚かしいほど凄まじい・・・

  のに、 「親切」という妙(笑)

   これは、創世記における天地創造の7日間を逆行する形で語られるということ。

   確かに、冒頭で「一日目」と出た瞬間に、(あ、これは7日目まで続くのだな)くらいは

   一応予想ついたのだが、中盤まで「順行」として頭のなかで準えてしまっていたよ・・・。

   確かに、途中から「???」と思い始めたが、確かに最初の状態こそが

   人類が最も「支配」的な態度をとっているわけだから(ニーチェと馬の挿話にしても)

   もっと早くにしっかりと気づいて見守るべきだったという反省・・・したところで、

   この作品のもつ強力は更なる増大で襲いかかってくる呪縛な後光。

 

◆水を失ったり、家畜を失ったり、火を失ったり(もっとさまざまなものが消えているのだろう)、

   終末を感じさせる展開が、創造譚の逆行であるにも関わらず、退化というよりは

   進化の代償としての荒廃として映ずる。そして、それは紛れも無く時間の進みの末である。

   「失う」ということは、「得る以前」に〈戻る〉ということではないという刻印が鮮やかだ。

   それは、ルソーが「自然に帰れ」と啓蒙を試みた時代とは明らかに異なる、

   世界が過剰な「改変」の只中にある現代において、もはや引き返せぬことを体感させる。

   しかし、それは自然が人間の都合で加工できたり、ましてや復元できるものではないという

   世界の根源的な理(唯一、絶対的な「法則」)を確かめるために表出される発展する喪失。

   タル・ベーラは、「風にこだわりがあるのですか?」的な質問に対し、

   多少の憮然たる表情を滲ませ、「風は自然の一部であり、人間も自然の一部である」

   との言葉を返していた。本作における「風向き」を読めぬ渦巻く風の姿と重なる。

   何処から来て何処に向かうのか。それが判然とせず、強いていえばその「何処」とは、

   「何処からともなく」か「何処でも」かのいずれか(も)なのだろう。

   そして、完璧にコントロールされたかのようなタル・ベーラの作品の強靭さとは、

   コントロールから生まれる整然ではなく、掬いきれずに零れ落ちる混沌にあるのかも。

   そうして提示された世界を視るとき、すべてのものに意味を受け取ろうとする人間になる。

   意味を付加したり、意味で解明することのない、自然の一部たる人間として。

 

◆タル・ベーラの作品では、「窓越しに世界を見る」図が実に多い気がする。

   『Damnation』の冒頭はまさにそれだし、前作の『倫敦から来た男』でも

   主人公の見る世界は制御室からの眺めであった。

   しかし、何れの作品においても、カメラは「外」から「内」へと向かっていたように思うが、

   本作では窓を通りぬけて「外」へと向かう。個人の意識に収斂されることなく。

   世界を捉える眼が、いよいよ世界と一体化してゆくのだろうか。

 

◆Ars longa, vita bravis. (英語だと、Art is long, Life is short.)

   というラテン語の言葉は、今でもしばしば多様な場面で用いられる言葉。

   元来はヒポクラテスの言葉(文脈的には現在の通用解釈とはズレる)なので、

   ギリシャ語だと思うが、まぁそんなことはどうでも好い。

   そして、最近私はこの言葉は「逆もまた真」であろうという想いがしてならない。

   いや、そもそも「ars」とは「art(芸術)」の語源ではあるのだが、

   「artificial」という語が「芸術的」ではないことからもわかるように、

   そもそもは「人の手による」「人の手の加わった」状態のものを指すらしい。

   つまり、そう考えるならば、神による創造たる「生命」の方が

   よっぽど悠久たり得るものではないか。個別の命は儚かろうが、

   その集合たる生命も生活も、途方も無い継承と離合集散を経ながらも、

   結局は総体たる生命体全体は不老不死の、不死身な存在であり続けるだろう。

   そして、人為的なるものこそ存在の有限性が宿命となる。

   しかし、だからこそ、そこには創意が求められ、鍛錬の場になり得るのだろう。

   そして、「ars〈芸術〉」は結局「vita〈自然〉」の一部であると解釈したい。

   映画が「自然を相手に格闘する芸術」である証左をフィルムに焼き付けたタル・ベーラ。

   彼の作品と言葉から浮かび上がる「芸術のあるべき姿」は濛々と消えず、

   いつまでも残り続けてゆくだろう。自然と人間による共作たる芸術として。

 


人山人海(2011/蔡尚君)

2011-11-20 14:39:30 | 2011 TOKYO FILMeX

 

第12回東京フィルメックスにて観賞。初日、日劇3での上映。

 

今年のヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞。

なんでも中国の検閲を受けずに出品したこともあって、

ヴェネチアでも上映日までタイトルも明かされぬサプライズ上映だったとか。

検閲が厳しかったり、表現の自由に数多の障壁がある国や地域で

作品をつくる表現者たちの強靭な志から溢れ出る「覚悟」は、作品に焼きつき、

そうした魂が漲り続けることで、観る者の心を鷲掴みにする凛然たる佇まいを感じます。

以前、ソクーロフが対談のなかで、「自由や安全のある程度保証された場では

逆に自由な表現は困難か?」といったニュアンスの逆説的な質問に対し、

奇異な印象を素直に吐露していた言葉を読んだ憶えがありますが、

質問者の意図にも共感できるところのあった私としては省察を促された気がしました。

表現主体である自己は当然周囲の環境から影響を受けながら創作するだろうけれど、

「そうした環境でつくられた」という文脈のなかに嵌め込むことで

短絡的な(公式的な)解釈に陥ってしまう受け手の情緒が「神話」や「伝説」を肥大化させて、

作品自体が語る内容を矮小化し、その生命力への嫉妬に弁明を加えたりするのでしょう。

そういえば、本作が銀獅子を獲た今年のヴェネチアの金獅子は、ソクーロフの『ファウスト』。

 

芸術が社会の文脈に伍することない現実は、

人間が外へ発する力が内を圧する力よりも強いことを確かめられる希望だろう。

本作の主人公が社会の産み出す負の連鎖の歯車に嵌り込みながら、

その歯車に果敢なくも立ち向かう絶望的な希望に観客は、

慄きながらもどこか滋味を感じてしまうだろう。

つきはなした優しさ、とでも言いたくなるような乾ききった潤いが、

全篇の底流にたゆたい続ける確かな佳作。

 

原題の『人山人海』とは、「黒山の人だかり」といった意味なのだそうだが、

日本語のその表現が本作のラストを見事に言い得てしまう恐るべき奇遇。

しかし、映画の冒頭は「白山」からスタートする。白から黒へと突き進む物語か。

冒頭の「白」では、潔白で純白な主人公の弟が、バイク強盗にあっけなく殺される。

画面は白一面なのに、そこに蠢く精神性は、ドス黒く、気味悪く、空恐ろしい。

しかし、ラストの「黒」に蔽われた画面のなかに、私は黒を払う白を見た気がする。

詮無き望みを絶つことで、一縷の望みを希(こいねが)う。

 

◆復讐を心に決め始めた主人公ラオ・ティエ(チェン・ジェンビン)が、

   刃物を研いでる向こうには、食材を包丁で刻んでいる母の姿が小さく見える。

   形は違えど、何かを刃で殺めることで生き残っている人間(生き物?)の宿命を匂わせる。

   それは、冒頭でバイク強盗をした犯人にもあてはまるかもしれない。

   それは炭鉱で見ることになる現実が更に如実に語ってくれる。

   中盤で鶏を「俎板の鯉」にしたまま極度の緊迫を迫る画面もまた然り。

   牛や山羊といった家畜が一瞬とはいえ印象的かつ象徴的に映りこむのも然りだろうか。

   唯一、飼い猫(?)の円らな瞳だけが生態系へと抗う衝動を呼び起こす。

   それは、重慶の息子や炭鉱の少年にもあてはまる。

 

◆犯人探しのために訪れる重慶のフォトジェニックぶりに改めて感嘆。

   いわゆる都会のきらめきも、活力みなぎる喧騒も、およそ都会の一級資格に程遠い、

   必要に迫られ無計画に都会化した「中継地点」としての都市、重慶。

   そんな印象を専ら感じさせる街は、旧き共同体を捨てながら、法治に至らぬ未完都市。

   『重慶ブルース』(個人的には結構佳作)でも印象的に度々映し出されたケーブルカー。

   床の下には何もない、載った時の覚束なさが街にも漂っているかのよう。

   ちなみに、その『重慶ブルース』の王小帥(ワン・シャオシュアイ)の新作である

   『僕は11歳』(今年の東京国際映画祭アジアの風で上映・・・見逃して激しく後悔中)で

   撮影を共同で担当しているカメラマンが本作を撮影している模様。

 

◆そんな重慶は、明らかに「出稼ぎ」的な街。つまり、「住む」ことに適した街ではないだろう。

   主人公の地元(中国南部の貴州)は昔ながらの農村であり、その姿だけでも対照的だが、

   双方で登場する警官がこれまた極めて対照的。賄賂を要求し罪を見逃す重慶の警官。

   組織の不甲斐なさを個人的に受け止め、労わりで慰安金を主人公に手渡す貴州の警官。

   権威や役職といったものの持つ本来の機能が、システムの肥大化と共に損われる現実。

   人間が、つながりを持つ一員同士から、主客の明確な分離によるコマへと変わる。

 

◆監督の蔡尚君(ツァイ・シャンジュン)は、『こころの湯』や『胡同のひまわり』といった

   張楊(チャン・ヤン)監督作に脚本で参加しているようなのだが、

   自身で監督した本作は、ウェッティなそれらの作品と比べて非常にドライな印象だ。

   しかし、それなのにカラカラになりきらぬのは、時折はさまれる軽妙な笑いであったり、

   さりげなく語られる慈しみだったりするからだろう。

   だからこそ、容赦のない現実の渇きもより際立って来るというものか。

 

◇場内はかなり空いていた。

   天候のせいなのか、本作がラインナップ発表後に追加された作品だったからか。

   確かに、私も上映自体は知っていたはずなのに、チケット発売当日にはすっかり忘れてて、

   後から買い足した。チラシのスケジュールに掲載されていないのはデカイと思う。

   また、オープニング作品である『アリラン』(キム・ギドク)のQ&Aとも重なってしまったようで、

   そのために本作の観賞を断念した観客もいたりしたようだし、とにかく残念だ。

   しかも、監督が来日してQ&Aまでしてくれるとは思っていなかったので

   (当初はそうした情報はなかったと思う)、この貴重な機会に観られた事を嬉しく思うと共に、

   残り1回の上映(27日10:30)で多くの人に観てもらえると好いのになぁ、とも思う。

   (この回はQ&Aの表記がないけど、ということは昨日の上映が唯一のQ&Aだったのか?

    だとしたら、このスケジューリング[及び発表の仕方]はやはりちょっと問題あるよな・・・)

 

◇日本の映画祭ではよくあることだが、質疑応答の序盤はなかなか手が挙がりにくい。

   特に本作のようなラストに衝撃があったりすると尚更なのだろうが、

   そんな手の挙がらない中、そうした事情を汲んで真っ先に手を挙げたのが

   今や東京国際映画祭の顔とも言うべき矢田部さん。観客が疑問に思いつつも訊き難い

   ナイスな質問内容でした(ラストの炭鉱はどういったところか?という簡潔な。

   「御尋ね者たちが社会から逃れて辿りついた、隠れ家的炭鉱」との回答でした。)

 

◇私はやや前方の座席だったこともあり、冒頭からデジタル上映であることは認識し、

   それがDCPでないこともわかってはいましたが(正直最初は落胆しましたが)、

   撮影は35mmだったらしく、デジタルヴィヴィッドなシャキシャキ感で疲弊した

   最近の映画眼にとっては、それだけで画の質感がどこか優しく安らぎを覚えもし、

   HDCAMの映像でもそんなに気にはなりませんでした。

   しかし、監督はやっぱりDCPで持ってきたかったようで、

  その辺は残念だと正直に答えていたりして、それはそれで好感もてました。

 

◇客層も東京国際映画祭とは比べものにならない秩序や誠実が期待できるフィルメックス。

   しかし、そんなフィルメックスでも急増中なスマフォ中毒非礼野郎。

   何故に前で人が喋っている間中、延々と手元を凝視し「つながって」なきゃならんのか。

   それも一人や二人が視界に入るレベルじゃないからね・・・。

   あれね、前で喋ってる人って、かなりわかるもんなんですよ。

   話聴いてるか「内職」してるかどうかくらい。そういう輩はせめて退散してくれないだろか。

 

◇今年はコンペ作品を全然観る予定がないフィルメックス。

   ただ単にスケジュールの都合でもあるのだが、『グッドバイ』くらいは観ておきたかった。

   (しかし、日曜レイトか平日真昼間という選択はなかなか苦渋すぎまっせ・・・)

   タル・ベーラを拝める(勿論、新作を観られることもだけど)歓びに今から緊張。

 

 

 


ベガス(2008/アミール・ナデリ)

2011-11-12 22:40:19 | 2011 TOKYO FILMeX

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来週末より開催される第12回東京フィルメックスにて最新作『CUT』が上映され

(同作は来月17日から劇場公開も)、そのフィルメックスでは今年の審査委員長を務める、

アミール・ナデリ。イラン出身で、現在はニューヨークを拠点に活躍。

 

今回の特集上映は「ビバ!ナデリ」とのタイトルが冠せられているのだが、

正直ちょっと残念な表題に思えていたものの、ナデリの近作傑作2本を観終わると、

まさに、そう言いたくなる気持・・・わかります!わかりすぎます!という結論!!

 

本作の原題は『Vegas: Based on a True Story』。

どの程度が事実か定かでないが、本作における「リアリティ」とは一種の皮肉でもある。

劇中の物語のもつ独特の語りはどこからくるのだろうか。

トゥルー・ストーリーも納得の写実性と寓話的なファンタジーの装いが拮抗しながら、

中和を許さず調和も拒み続ける喜劇と悲劇の狭間を彷徨し続ける慈愛たち。

カタルシスという安易な解決や解消とは無縁の、人間の真剣な滑稽さが眩いドラマ。

希望の背後に待ち受ける絶望、絶望の向こうで佇む希望。鍵をにぎる、欲望。

家族三人の表情や仕草の細部に寄り添いながら、彼らを包む世界の気配が溢れ出す。

 

本作では、ほんのささやかな驚きが襞のように折り重なりながら語られる。

説明的でなければないほど、映しだされる画が観ているものに語りかける言葉は厖大だ。

そうして促された思考の奥で、語られ始めるアナザー・ストーリーがパラレル進行。

それは、家族がトレーラーハウスで過ごした日々であったり、7年前の母の姿であったり、

ミッチ(息子)のかつての交友風景だったり、あるいはラスヴェガス狂騒曲の妄想だったり。

劇中で提示される「情報」は一切の説明をそぎ落としたまま、示唆の一滴が波紋を広げる。

目の前の人物が抱えた〈過去〉があり、そこから導き出された〈現在〉がある。

〈過去〉の代償として出現する〈現在〉は、代償への固執から免れきれぬノスタルジア。

かつての生活を懐かしむ、トレーラーハウスでのひとときに、安らぎおぼえる息子のミッチ。

かつての性癖を抑制し、「圧縮」したかたちでささやかなスリルに満足してきた母トレイシー。

摩れば摩るほど増大を続ける代償の奪還に、同じく「ギャンブル」で挑むしかない父エディ。

人間が喪失を受け容れることは困難で、そうしてできた空洞をそのままにしておけない。

そこを何とか埋めようとするなかで、〈すがるもの〉へと寄りかかる。

それが確かなものならば・・・トレーラーしかり、トマトしかり、花しかり。

それが「ありもしない」ものならば・・・。なきゃないなりに、無限に「ある」わけで・・・。

裏書された喪失のシナリオには目もくれず、獲得のシナリオひたすら記す。

ラスヴェガスとは渦巻く欲望の中心で、台風の目のごとく現実無風の夢想地帯。

しかし周縁風速尋常ならず、そこでは喪失が喪失でしかない。

獲得の希望が終焉すれば、もはや代償ですらない。

 

それ自体に価値があるわけでもなく、それだけでは何の感動すらもたらさぬ、カネ。

ただ在るだけで、ただ見るだけで、ただ咲いてるだけで、美しい花。胸いっぱいの愛。

 

形而下に生きる人間が、形而上の強欲に、ひきずりまわされる現代の皮肉。

即物的な欲求なのに、その価値は「みなし」によってあたえられた仮構のもので、

それはどこにもない幻のドラマに生きようとするダークサイドな想像力のフル稼働。

触れて嗅げて、食べられるトマト。育てて咲いた、色鮮やかな花。

ブライトサイドの想像力よ、負けじと五感を作動せよ。

どこにもないもの、それでも追うか?不適の謳歌。

 

 

◆私は、Theodore Roethke というアメリカの詩人が好きだが、

   彼の父が「薔薇つくり」だったこともあって、彼の詩では花をはじめ自然の描写にあふれ、

   父の想い出と共にある「温室」も度々登場する。そして、数多の鳥も詩をうめつくす。

   そうしたレトキの詩を思わせる象徴の数々が、本作においても丹念に描かれており、

   観ながらレトキの読む「アメリカ」と、本作が語る「アメリカ」が、私のなかで読み合った。

   風を享受するかのように謳う軒先のウインド・チャイム。中盤で響きを失うその音が、

   終盤で再び聞こえだす。それは、希望のまえぶれか。それとも、在りし希望の幻覚か。

   ミッチが愛でてた鳥達は、危機を察した彼の手で、ガールフレンドに譲られる。

   幸せの青い鳥。それらが家を去ったのは、幸せが消えるまえぶれか。

   しかし、鳥たちの避難はいつか幸せが舞い戻るための越冬か。

   崩壊し荒廃した庭に戻された、花。どんなに愚かに傷つけど、抱擁できる母なる愛か。

 

◇母親といえば、本作の前の回で観た『サウンド・バリア』(2005)にも、

   〈不在〉として登場する。そして、こちらもまた喪失との対峙が、

   107分の99%をつかって執拗なまでに展開される。

   しかし、主人公の聴覚障害に見舞われている少年は、

   そうした喪失の正体から目を逸らすことなく、どこまで正視を止めない一途な超克。

   一体どれほどの時間を費やしたかわからぬほど「冗長」な貸し倉庫でのテープ探しは、

   混沌とした茫洋未知なる記憶の海に、単身潜った少年の焦燥と閉塞を活写する。

   車が激しく行き交う橋上で、ひたすら「聞きたい」声に「触れ」ようとする。

   他力にむしゃぶりつくのに、どこか自力本願ぶりな豪快さ、一直線。

   カセットテープのケースの音や自動車の行き交う音が、観客を逆撫でする一方で、

   それらが遮られた沈黙の世界が繰り返し挿入されていく。二つの世界の往来続く。

   「聞えぬ」もどかしさと、「聞える」煩わしさが交錯してゆく。

   そんな二つの止揚と共に、絡まり合ったテープは空へと舞い上がる。

   沈黙が聞える。口笛が聴こえる。助走が跳躍へ。執拗が必要にかわるとき。