第12回東京フィルメックスにて観賞。なんでも(一応)ワールドプレミアらしい。
本作は、「秋葉原の殺傷事件をモチーフにした映画」という情報により、
少しばかり話題になったりしていたものの、結論から言えば、それはただの「釣り」。
映画祭では、日本映画や配給の決まった作品は余り観ないのが通例ながら、
今回のフィルメックスではスケジュール的にも興味関心的にも、
むしろそれ等を主に観るようなプランになってしまった自分。
ニコラス・レイ関連の2作と『人山人海』以外は今後公開予定のものばかりを観てしまった。
本作を観ることにしたのは、事件関連ということに対する世間並みの(?)関心もあるが、
前作『軽蔑』で訣別を心に誓いたくなった廣木監督ともう一度向き合いたかったということも。
とはいっても、廣木作品をすべて観ているわけでもない自分としては、
(瀬々監督同様)作家論的には語れない。ただ、映画を観始めた頃に観た『東京ゴミ女』が
なぜか「引っかかる」作品で、他の作品にない魅力を味わってしまっただけに、
彼の作品には注目せざるを得ない体質(笑)になっているのでしょう。
個人的に本作をどう評価すべきかは戸惑ってしまう。
この作品は、作中の人物や物語よりも「場外」(秋葉原の殺傷事件や3.11の被災地)の
存在感ばかりが際立ってしまっているからだ。つまり、ドキュメンタリー的アプローチが
中途半端に入り込んで(意図的か否かは判然とせず)いることで、
本作の丁度好い受け皿が自分のなかに見つからない。
終った後、海外プレス(と思しき)女性が上機嫌で好意的に作品を語っていたりしたのを見て、
やっぱり本作を観る上で、作中に映り込んでいる世界とその元となる現実との距離により、
明らかに受け止め方は変わってくるんだろうと再確認。秋葉原しかり、被災地しかり。
そうした意味で言えば、秋葉原に大した思い入れも現実的なアクセスも稀薄だったり、
親戚が被災しているものの、実際には現地に未踏である自分にとって、
内にわいた違和感は云々するに値しないものかもしれない。
ただ、本作があのような「つくり」を採った時点で背負った宿命としての「語られ方」は、
きっと多様な抵抗や主観による受容(あるいは拒絶)をこそ必要としている気もする。
◆冒頭15分ほどの長回しがある。
主人公ひかり(蓮佛美沙子)が秋葉原に降り立ち、街を静かにトボトボ歩いている。
ゲリラ撮影だと丸わかりな映像は、カメラを意識して避ける人もいれば、
ピースサインで映り込もうとする若者も割り込んでしまっている。
この辺りを「楽しめるか否か」が、本作の全篇通して「ノレるか否か」と関係するのでは?
終盤になればより明瞭となるが、本作におけるフィクション性(映画のなかの物語)は、
あくまで舞台としてしか機能しない。その舞台に「現実」を立たせようとするための仮構。
主演の蓮佛美沙子が、「監督はとにかく余計なものを削ぎ落とそうとしていた気がする」と
語っていたが、それも蓮佛が「ひかり」になるよりも、「ひかり」が蓮佛であるように撮ることを
念頭に置きながら組み立てていった作品のように思う。
もう一人の主人公(小林ユウキチ)然り。
だからこそ、演者としてのスキルで臨む田口トモロヲや根岸季衣、柄本時生などは
極めて「場違い」な人物として映り込む。ピースサインの若者と同様なほど。
それは、ひかりがリアルに感じられる世界の住人とは異なるからかもしれない。
◆冒頭で、主人公が秋葉原の街頭に佇むと聞こえてくる「あの日」の騒然。
街角で知り合った路上ミュージシャンと橋上で語らうなかで主人公は、
「録音の勉強をしている(そういう仕事をしたい)」と語る。
記憶と音の関係を示唆するのは興味深いが、単発思いつき的な小ネタに過ぎず、
物語自体と全く有機的に絡まずじまい。これもまた「釣り」かよと・・・。
◆中盤(後半かな?)に主人公がテーマを思いっきり言語化してしまう台詞がイタイ。
ここにいるのはニセモノで、本当の自分はどこかにいるんじゃないかって思う・・・みたいな。
『マトリックス』かい!?
「皆、自分じゃない自分になりたくてここ(秋葉原)に来てるみたい」とまで語ってくれる。
そういう心理自体には共感できるけど、直接的説明的な台詞を吐かれるとシラケてしまう。
そのくせ、肝心な終盤は無言で通す。「映像の力」とでも言わんばかりに・・・逃げてるだけ。
◆鏡に向かって「どっちがリアル?」みたいな問いかけをする場面があったと思うし、
水面に移った月やら夜景やらを意味ありげに眺めているシーンまであるんだから、
もうちょっと巧く使って、(今、映画界で流行りの)パラレルワールド的発想でも
持ち込みゃ好いのに・・・
(ラスト展開ふれます)
◆ヒロインの演説による説得で故郷を訪れる佑二(小林ユウキチ)は、
瓦礫のなかを絶望にまみれ、歩いて回る。異様に「あたたかく」「美しい」陽光は印象的で、
絶望を引き立てつつ、希望をも感じさせる映像は、最初のうちは感じるものが大きいが・・・
如何せん長すぎる。あそこまでいくと「あざとさ」しか感じられない。
途中、意味不明なカメラの疾走まである。酷い手ブレが始まったかと思うと、
撮影者の足音が静寂を破ったりまでする始末。こういうの最近、多すぎる。
物語のなかの誰かの眼でもなければ、俯瞰としての(観客)の視点でもなく、
姿は見えぬが明確に存在を感じさせてしまう撮影者(観察者)の眼。
意図はあるかしれないが、意義はほとんど感じない。今更ドグマ95病?
◆そもそも、ラストで震災の話とかが絡んで(どころかモロ入ってきて)しまった時点で、
「秋葉原」という場所も、「殺傷事件」という社会的事象も、何だったんだ!?という・・・
誰か(Q&Aで)訊いてくれるかと思っていたが、そもそもこの脚本って
いつどうやって書いたんだ?クランクインする直前に震災が起こったってことは、
最初は終盤の展開など当然違っていたわけだから、そこに無理矢理ねじ込むこと自体、
きわめて不誠実(秋葉原の事件に対しても、被災地の状況に対しても)としか思えない。
そして、当然の如く奇跡的な成功など起こりようもなく。
この手の便乗ほど観ていてつらい(というより正直不快)なものはない。
ドキュメンタリーやそれに準ずる形式や使命によって収めたり表現するならわかる。
しかし、「物語」においてそれを粗雑に混入させ、結局は援用に堕してしまうのは、
事象が事象だけに倫理的にも違和感をおぼえざるを得ない。
あの衝撃や、あの時に感じた使命感などはわからないでもないが、
それを端緒として、それを原動力として行われる創作や表現において、
事象を直接的に引用するという安直さは、そうした活動において許されざる怠惰では。
物語であったり、映像であったりというのは、間接的に描いたり提起したり感受できてこそ、
その存在意義と共に、論理とは別次元で受け手の胸に迫れもするのではないだろうか。
キアロスタミ『そして人生はつづく』のような作品を撮れるのでないのなら・・・
◆ただ、もしこの二つの事象を同時に取り上げるとしたなら、
きちんと扱えば面白かったかもしれない。なぜなら、双方とも衝撃的な「禍」でありながら、
人災と天災という大きな違いや、規模の違いもある。
しかし、それらいずれも「想定外」による恐怖と悲劇に見舞われる。
その一方で、何とかしようのある「社会」の問題と、
何とかしよう(できる)としたのが間違いだった「自然」の問題という差異もある。
このあたりを、物語と有機的に絡ませることができれば、
非常に興味深いテーマを内包できたであろう。
◆本作のタイトル(「RIVER」)を聞いた時、真っ先に思い出した『東京ゴミ女』のラストシーン。
確か、主人公が川か海を船に乗っている(航行を始める感じだったと思う)情景に、
ワイヨリカの「さあいこう」が流れてくるという印象深いラストシーンだった。
そのエンディングに何故それほどしみじみ感じ入ったかは判らぬが、
本作のラストもそうした展開と何処か重なる(船に乗ってるという意味じゃ全く同じ)。
但し、それまでとことん閉じられた世界で偏執的なヒロインが描かれていた『東京ゴミ女』
と較べると、本作は最初から随分と「立ち直る気配」が漂い過ぎていたり、
そもそも(精神的にでさえ)引きこもっているとは思えないオープンな空気を感じてしまう画。
震災後の街の持つ空気の方が、主人公の傷などと比べものにならぬほど
不穏で絶望に満ちていたということも大きい気がする。
(被災地の映像に比べ)そうした様相をじっくり記録したものは少ないだろうから、
それを再確認することで改めて体感できることもなくはないだろう。
しかし、どうしても主人公の傷みが(相対的にとはいえ)矮小化された印象も拭えない。
◇その『東京ゴミ女』は、シネマ下北沢(懐かしい!)で連続上映された企画「ラブ・シネマ」の
第一弾だった。6人の監督が、デジタルで作成した低予算映画を連続公開した企画。
他にも、行定勲や篠原哲雄、塩田明彦に三池崇史(!)という強豪揃いの好企画。
確か第二弾とかあった気がする。その後、その流れで(?)『刑事まつり』とかやってた。
あぁ、シネマ下北沢懐かしい。基本的にスクリーンの小さい劇場って好きじゃないけど、
あそこは建物自体も、その中に入ってからも、趣深くて結構好きだった。
いつ行っても基本的に客は片手で足りるくらいしか入ってなかったけど。
二人(勿論、向こうは赤の他人)で観た『差出人のない手紙』という
極めて地味なメキシコ映画は、今でもたまにふと思い出したりする作品。
◇会場でもらった本作のチラシには、秋葉原の街をバックに佇む蓮佛美沙子。
やはり宣伝では「秋葉原」「殺傷事件」あたりを鍵として売り出すのだろうか。
だとしたら、事件の扱い方や(事件や秋葉原を無化するかのような)終盤の展開は、
そうした宣伝で関心をもった観客にとっては、かなり戸惑いおぼえるだろうなぁ。
同じ唐突さでも、『リメンバー・ミー』くらいの辛辣さ(真剣さ?)で挑めばよかったのに・・・