4本観ました。(感想は後日書きたいと思います。)
エリス・レジーナ~ブラジル史上最高の歌手~(1973/フェルナンド・ファーロ)
バイアォンに愛を込めて(2008/リリオ・フェヘイラ)
サッカーに裏切られた天才、エレーノ(2011/ジョゼ・エンヒケ・フォンセカ)
トゥー・ラビッツ(2011/アフォンソ・ポイアルチ)
4本観ました。(感想は後日書きたいと思います。)
エリス・レジーナ~ブラジル史上最高の歌手~(1973/フェルナンド・ファーロ)
バイアォンに愛を込めて(2008/リリオ・フェヘイラ)
サッカーに裏切られた天才、エレーノ(2011/ジョゼ・エンヒケ・フォンセカ)
トゥー・ラビッツ(2011/アフォンソ・ポイアルチ)
現在、シアターイメージフォーラムにて開催中のホセ・ルイス・ゲリン映画祭。
今回の特集、なんと3本はニュープリントでの上映というこだわり。
その3本はいずれも今回が日本初公開となる『ベルタのモチーフ』(ゲリンの処女作)、
『影の列車』、『工事中』。(『シルビアのいる街で』と『ゲスト』も35mm上映)
そんな垂涎成就の待望企画でかかる8本はいずれも見逃し厳禁の超充実だが、
なかでも特別中の特別な《存在》に震えがとまらぬ傑出作品が『影の列車』。
『ベルタのモチーフ』も処女作ながら現在のゲリン成分が隈無く行き渡っているし、
『シルビアのいる街で』は相変わらず完全に心も体も浮遊するしかない恍惚。
『工事中』はペドロ・コスタと思いっきり「似て非なる」ことの面白さに大興奮!
勿論、その他のドキュメンタリー的作品だってどれも彼ならではの魅力が濃縮されている。
しかし、この『影の列車』は絶対に「映画館で暗闇に身を埋めて観る」べき絶品フィルム。
ゲリンの作品を観るときには必ず、「映画とは何か」という自問自答が絶えず反復される。
それはスクリーンのなかで完結する問答などでは決してなく、むしろ観ている者が自然に
内発的に思いを巡らし始める起爆装置として作用する。だから、読まれる側も読む側も自由。
時にその《自由》は出口なき袋小路へと誘ってしまい、気難しさを覚えることもなくはないが、
ホセ・ルイス・ゲリンのしなやかさは、必ずしも「シネフィル」専有特権に幽閉されたりしない。
むしろ、芸術というか表現としての「映画」を追究しているが故に、
「一形態」としての謙虚さから映画の新たな息吹があふれでる。
その一つの到達点というか、極北的作品に思えて仕方がないのが、この『影の列車』。
いわゆる従来の「物語」が貫いているわけでもなければ、
「登場人物」という概念からも解放された本作に台詞は皆無。
そして、時制や空間といった序列されるべき《秩序》の基盤も揺蕩う混交。
でも、それこそが実は「映画ができること」、「映画にしかできぬこと」なのではあるまいか。
これほど美しく、厳かな作品でありながら、実はどんな挑発よりも野心の結晶。
ただ、枠を壊そうという野性ではなく、自然に寄り添おうとする理性でもある。
人間が眼を駆使して《世界》を掌握し、制圧し、解明してきたという錯覚を、
カメラという眼を駆使して優しくバック・トゥ・ザ・ベイシック。
機械文明が暗ました真実を、機械で取り戻そうとする文化の営み。
そして、「フィルム」というメディアが人間に見せてくれた《世界》とは?
リュミエール兄弟のシネマトグラフ公開上映から100年目の1996年に撮影された本作は、
この100年間が「見せてきた」ものを脱構築、再構築することで、
「見るべきだった」ものたちの亡霊を喚び覚ます。
しかも、美と畏怖が綯い交ぜに。
◆冒頭で、「1930年に行方不明になった映画撮影愛好家の弁護士が残したフィルム」
との説明と共に、16ミリの「家族映画」がスクリーンに映し出されて本作は幕を開ける。
これらはゲリンによる「捏造」であるのだが、その「創造」が見事な技術で見事に芸術。
フィルムには1コマ1コマ異なるキズや汚れが刻まれ、それは《時間》を美しく映し出す。
デジタルには在り得ない《時間》の刻印に、
単なる劣化や破損とは異なる「価値の蓄積」を見る。
と同時に、「1コマ=一瞬」の固有性が自ずと認識される。
《瞬間》の連なりによって生じる《動き》。
固有な点の集まりとして生み出される一つのまとまり。
それは無限の可能性が無限に組み合わされてゆく、選ばれた《世界》。
カメラの眼が固定されると、《世界》に氾濫し続ける流動性がたちまち雄弁に。
光も影もつねに揺れ動く。移ろいゆく。震えを起こす。響き合う。語り合う。
◆《瞬間》の固有性を起点とした《世界》の無限なる流動性。
ゲリン監督は、『シルビアのいる街の写真』上映後のトークにおいて、
「13歳頃から写真を撮り始めた」と語っていた。
そして、その後「動き(連続性)」を求めるようになったのだと。
しかし、だからといって彼が写真に単なる静止や《固定》しか見出さぬ訳でなく、
むしろ瞬間の持つ固有性を起点とした「無限の可能性」を感じると語っていた。
つまり、そこから何につながるかによって、その瞬間(写真)のもつ意味は変容すると。
「《固有》=《固定》」ではないという発想をその背後に私は感じもした。
《固有》と《固有》が連結されるところをを目撃し、
それを読む主体に更なる《固有》が生まれる。
ゲリン監督は、「映画とは映し出されたものではなく、観客が見たものだ」とも語った。
つまり、映画とは《記憶》の源泉であり、そこから放たれた《記憶》は回収されず、
観客各々の《記憶》の海へと注いでは、多様な航海を展開するのだろう。
◆『シルビアのいる街で』でも印象的(象徴的)であった《映像》の連鎖。
まさに何かに「映っている像」。ガラスや鏡に映る像たちのスリリングな饗宴。
それは《記憶》の残響が共鳴し、実体よりも力をもった反響に飛躍する瞬間を捉える。
カメラが動くと、鏡に映し出される世界も動く。変わる。当然のことが何だか恐ろしい。
「映し」のもつ実在感は、《記憶》というものの無辺なる生命力を象徴しているかのよう。
人間の実際の体験は《記憶》にその都度閉じ込められ、経験として蓄積される。
それは、眼前の出来事をフィルムに定着させて記録する営みに何処か似ている。
フィルムには「変わらぬ」映像が刻まれているようだが、フィルムもまた変貌する。
そして何より客体たる映像がほとんど変わらずとも、それを認識する主体は常に移ろう。
《記憶》も掌握しているようでいて、それを認識する為にはその都度把握が必要になる。
そうするとそこには無限なる《記憶》の動静が、いつも「はじまり」としてある。
◆カメラは、瞬間の固有性をあぶり出すと同時に、
人間が見たことのなかった「途中」を提示する。動きを滅することにより。
人間が認識し、意識する世界の実相など、無数の「途中」に比すれば微々たるもの。
しかし、そうした無数の「途中」の一つ一つがもつ価値の蓄積によって初めて、
私たちが認識するに足ると思っている「終わり」がうまれ、「始まり」をうむ。
作中の終盤に現れる「途中」の奇妙な美しさ。いや、恐ろしさ。
しかも、それが「止められたフィルム」によって映し出されるのではなく、
静止した人物たちによって提示されるという奇天烈。そこに浮かび上がる、不自然。
常に流動し、移ろいゆくのが《世界》の自然。
何十年も前から変わらぬ輝きに見える月も、同じようでいて移ろっている。
羊が歩くのも、川を船がゆくのも、自動車が道路を走るのも、
物に力を加えることで起こる自然のはたらき。
《世界》を決して支配しようとはしないが、
決して流されるままではないホセ・ルイス・ゲリンの語り。
彼が良寛や小津に魅了されたという事実を一層理会。
とにかくこれは壮大な《世界》(それは我々の外部に広がるそれでありながら、
我々の内部で広げるそれでもある)についての映像叙事詩。
或る意味、映画館という空間と観客が語らい合うことによって成立する
インスタレーション的作品とも言えそうだ。
時間と空間を自由に移動できる《記憶》の跳躍力と儚さが、戯れながら「現在」をうむ。
物や事の一つ一つに意味を見出そうとするのではなく、一つ一つに眼を凝らし耳を澄ます。
夜という闇は映画館のそれとなり、《記憶》は常に闇へと流れ闇から浮上する。
映画館の暗闇に身を埋める理由のすべてが、そこにある。
原題:THE GUARD (IMDb) DVD邦題『ザ・ガード/西部の相棒』
「EUフィルムデーズ2012」か・・・。やっぱり「デーズ」はないよな(笑)
でも、さすが「国立(national)」らしいっちゃぁらしい。「らしい」といえば・・・
500円という観賞料金やキャンパスメンバーズという制度といった好い「ならでは」と、
定員入替なのに整理番号付で発券せずに軍隊的整列強いられる厭な「ならでは」があり、
その両極がせめぎう(私の中では後者を忌避する気持がいつもは勝り気味な)
「億劫な劇場」という位置づけの、東京国立近代美術館フィルムセンター。
この特集上映も(企画としては)今回で10回目、
フィルムセンターでの開催としては6回目を数えるのだとか。
毎年4~5月は何かと日々の生活のペースを掴むことで精一杯だったり、
我が花粉症のピークが5月末~6月初旬だったりということもあり、
極私的事情として通い難い特集の筆頭だったりもする。
だから、毎年数本程度しか観られないのが実際。
ところが、今年は出だしから頑張っちゃいました。
「デーズ」の2日目に2本も観てきちゃいました。
昨年末からの映画賞なんかでしばしば目にしていた『アイルランドの事件簿』が上映される
とあっては、万難排して駆けつけねばと。というか、万難排さずとも運よく完全オフだったし。
タイトルからも判るように(?)、本作はコッテコテのビバ!アイルランド体質な映画。
じゃぁ、なんでビバ![イタリア語]なんだよ・・・
まぁ、そう堅いことは言わないで。まぁ、とにかく愛流ランドな映画なわけです。
俺たちの国サイコーな空気が充満している感じは、その所以をろくに解すことのできぬ
由縁なき私にも伝わってくるほどのご当地感あふるるローカリズム。
アイルランド版アカデミー賞で作品賞はじめ監督賞・脚本賞・助演女優賞を獲得。
本作を観た人なら「え?主演男優賞は獲ってないの!?」とお思いだろうが、
その主演男優賞はマイケル・ファスベンダー@SHAME!イイネ!(※)
本作で強烈な個性を発揮している地元警官を演じるブレンダン・グリーソンは、
フィルモを見る限りこれまで何度もスクリーンで会ってるはずなのだが、
ばっちり認識したのは今回が初めてかも。しかし、その存在感はサイコーですよ。
ちなみに、彼は前述のアイルランド版アカデミー賞で受賞は逃しているものの、
本作同様に同賞で最多ノミネートとなり4部門を受賞した『アルバート・ノッブス』にも出演。
(そちらはイギリスとアイルランドの共同制作。監督はロドリゴ・ガルシア。)
ブレンダンが昨年のアイルランド映画界における「顔」であったことは間違いなさそう。
そのブレンダン・グリーソンとのナイスな凸凹コンビのお相手はドン・チードルで、
彼は本作のエグゼクティヴ・プロデューサーまで務めている。
他にも、リアム・カニングハムやマーク・ストロング(ジム・プリドー!)
といった馴染の顔が度々チラつくのも安心二重丸。
さすがアイルランドだけあって、
ドロップキック・マーフィーズっぽい音楽(正しくは逆ですが)が冒頭から流れ、
気分はすっかりアイリッシュ。
とはいえ、ネタの半分もわかっちゃいないんじゃなかろーかレベルの地域密着型は、
ともすると「ひたすら置いてけ堀」状態に陥りそうなものなのだけど、
場内にいたネイティヴ(?)観客の爆笑効果もあったからか、
意味がわからなくとも《愉快》な気分はなぜか味わえる。
おそらく登場人物一人ひとりの「力技」的オーラが物を言っているのだろう。
それらを手際よく整理してバディ感やらウエスタン風味やらで巧く塗し、
90分強で一気にまとめた手腕は、長篇一作目の新人監督にしては出来すぎ職人技。
ただ、その巧緻さはダイナミックさにやや欠けて、前半の奔放さが随分と
収まりのいい着地点を見つけちまいそうな終盤に一抹の寂しさも。
ラストの「含み」もすこし取ってつけた感が否めない気もしたし。
とはいえ、B級臭を漂わせたバッチリA級づくりな映画が好きな者どもには大好物!だろうし、
ディスり愛たまんない!というアンビバレント野郎にはもってこいの逸品。
◆アイルランドの田舎町にやってきたFBIの麻薬捜査官(ドン・チードル)が
FBIの人間だと名乗ると必ず町の人から「行動分析課?(BAU)」か尋ねられ、
「違う」と返答すると皆がことごとくガッカリ・・・。
『クリミナル・マインド』が向こうでも大人気だったりするのだろうか。
◆ボイル(ブレンダン・グリーソン)は、FBI麻薬捜査官(ドン・チードルから
「子供の写真見る?」と訊かれて(といっても、どう考えても見せる必至なつもり)
「見たくない」とキッパリ。「どうせ、みんな同じ顔。じゃなけけりゃ、よっぽどのブサイク」
いやぁ、なるほど(といっては不味い?)な明察です。少なくとも単身者にとっては(笑)
◆本作に出てくるパトカーには「GARDA」の文字があり、
ずっと「何なんだろう・・・」と思っていたのだが、
どうやらゲール語で「POLICE(警察)」の意味らしい。
「警官」を表すときも「GARDA」か「GUARD」が用いられるらしく、
つまり原題の「THE GUARD」とはまさに「警官」そのものを表しているのだ。
ちなみに、イタリアのタイトルが可愛い(笑)>『Un poliziotto da happy hour』
※アイルランド版アカデミー賞の余談。
シアーシャ・ローナンが凄いことになっている。
『つぐない』で2008年に受賞して以来、5年連続で受賞をしているのだよ。
だって、『ラブリー・ボーン』ですら主演女優賞を獲得しちゃってるって、
どんだけ国民的女優なんだよ。
彼女の父親がアイルランド人(で俳優)らしく、
生まれはニューヨークながら、3歳でアイルランドに移住して田舎町で育ったようだ。
テレビの端役からキャリアをスタートし、映画デビューはエイミー・ヘッカリング(!)の
『I Could Never Be Your Woman』だったとか。(日本未公開のようだが観たい!)
ちなみに、エイミーの新作は今年公開予定の『Vamps』。
タイトルからも察しがつくように、ヴァンパイア物のようだ(ますます日本公開無理そう)。
で、主演がなんとアリシア・シルヴァーストーンで、『クルーレス』コンビ復活!
Sintokシンガポール映画祭2012にて観賞。
2009年の第1回から3年弱ぶりの開催となったシンガポール映画祭。
実は前回も今回も思うところがあり(後述)、結局ほとんど観られなかったりもしたものの、
日本へ紹介される機会が稀な国の映画、しかも同じアジアの国の映画を
こうしてまとまって紹介してくれる映画祭は本当に貴重だと思う。
が、だからこそ、ちょっと思うところもある・・・後述(思わせぶり過ぎだろ)
まずは、今回の映画祭で観た作品について。
目玉として組まれていたロイストン・タン監督特集のなかでも一際異色な本作。
ロイストン・タンの初長篇であり、彼が前年に発表した短篇『15』を観たエリック・クーが
長篇化の話を持ちかけ自身もプロデュースを務めたという、
新加坡ニューウェイヴを感じさせる1本。
シンガポールの映画は、何とも形容し難い「独特な空気」がある。
かっこいいのかどうかが判別不能な完全《別》スケールでしか計れない世界観。
本作はたびたび本当に「痛い」場面があって眼を背けたい箇所もあるものの、
そちらよりも気恥ずかしさを伴うシークエンスの連続こそ痛々しい・・・
はずなのだが、それらは単純な欧米模倣の失敗ではなかったりするために、
かっこよくないのにかっこわるくはない、といった奇妙な感覚に見舞われる。
英語(というよりシングリッシュ?)で展開される劇なのに、
明らかにカルチャーはアジア、しかも西洋が日本経由で入ってきたような、via加工貿易。
その雰囲気は或る意味、THE シンガポール?
とにかく映画に取り入れたいカルチャー要素を総動員したおもちゃ箱状態。
ゲーム、アニメ、J-POP、パラパラ(?)等々。
それでいて、アジア映画のインディペンデント作品に見受けられる《錆び》もある。
フィルムに漂う空気として想起したのは『メイド・イン・ホンコン』だったりしたし、
最近では『スプリング・フィーバー』が持つ頽廃を瞬間的に感じた場面も。
今回の上映はフィルムによるものだったので、そうした好条件もあってか、
落ち着きとは無縁の散漫展開にもかかわらず、
心地よい憂いのなかで本作と戯れることが許された。
とまぁ、作品に関しては対して語れるほど感じ入る観賞ではなかったものの、
なかなか贅沢で稀少な上映機会だったと思う。
※劇中で、少年たちが互いに「娼婦の息子!」「ホストの息子!」と罵り合う場面がある。
相手の親を軽蔑する罵倒合戦って、「おまえの母ちゃんでべそ」みたいで親近感。
儒教ルーツなアジア圏(共通の?)独特の文化なのだろうか。
ところで、私は今回の映画祭をそれなりに楽しみにはしていたのだが、
実は些か気がかりというか、純粋に楽しみにできない不安もあった。
それは、前回(2009年)の映画祭で観賞した時に激しく失望したからだ。
前回も貴重な作品ばかりが集められ、当時はアジア映画への興味が今よりも強く、
可能なら全作品観たいものだなぁ~くらいの勢いで楽しみにしていたのだが、
最初に観たエリック・クーの作品(だったと思う)が超絶劣悪画質でグッタリガックリ。
あんなに最低な画質を映画館で観たのは、後にも先にもないくらい。
デジタル上映黎明期の玉石混交素材だった1・2年前よりもずっと前、
まだデジタル上映をDVDやBDなどでやろうなどという愚劣な発想が蔓延る以前。
私は初めて「DVD上映(もしくはそれに準ずるような規格での上映)」を経験したのだ。
いや、それが事前に告知されていたならまだわかる。
しかし、チラシには数作品にのみ「デジタル上映」の表記が付されており、
他にはそうした表記がないので、てっきり「通常上映(つまり、当時ではフィルム上映)」
だと理解して、安心して観に行ったらそれだ。失望のみならず極めて遺憾、いや憤慨。
ギザギザ映像を観続けて失望どころか疲れ果て、帰り際にシネマートの人に訊いてみた。
「今回の映画祭でフィルム上映される作品を教えていただけますか?」と。
最初は、「え?デジタル上映って書いてないのはフィルムじゃないの?」的曖昧返答。
「でも、今観た作品はデジタル表記ないけどフィルムじゃなかったんですよ」的抵抗(笑)
それで奥に行って調べて来てくれたスタッフの返答に驚愕。
(確か)ほんの数本(1~3本の間だったと思う)しかフィルム上映はなかったのだ。
あの数本にだけ付された「デジタル上映」という表記は何だったのだ?
呆れ果て、その日も続けて映画祭上映作品を観ようと思っていたが、
当然続けて観ようなんて気にはなれず、シネマート六本木をあとにした。
で、今回の映画祭では全作品に明確な上映素材の表記がある!
おそらく前回、誰かがきちんと抗議というか意見を届けてくれたのだろう。
しかも、今回はフィルムをわざわざ取り寄せたりまでして
極力好条件での上映を試みてる模様。これは期待できるぞ!
おまけに、中間マージン万歳な「チケットぴあ」に対する批判を明言した上での、
発券手数料NO!!なチケット販売などは、「有志による非営利の映画祭」と謳うだけある!
というわけで、事前に汚名返上完了な気分で楽しみに臨んだ今回の映画祭。
ただ、一つ不安だったのは、前回は平日も大きめ4番スクリーン(160席位)だったのが、
今回平日はずっと2番スクリーン(87席)での上映だということ。
何度かシネマート六本木の2番スクリーンで観賞したことがあるが、
箱の小ささは勿論のこと、とにかく小さめ段差&スクリーン位置の低さゆえに
前の席に座った人の頭がスクリーンにかかる可能性が極めて高いのだ。
動員見込めぬマニアック作品やムーブオーバーでの上映なんかでのガラガラ状態なら
何とかそうした「カブり」を回避することもしやすいが、満員近くになり得る映画祭では・・・。
しかも、全席指定だから・・・。
案の定、『15:The Moive』を観たときにもそうした惨劇に見舞われた。
前の座席に、とてつもない座高(身長かな?)のオヤジが背筋ピン!
おまけに背もたれ使わず直立な姿勢で観てる・・・
頭がまるごと目の前のスクリーンにすっぽりカブってる・・・
前方に座ってしまったが故に、その「大きさ」の体感はなかなかのもの。
賃借料ケチらずに平日も4番スクリーンでやるか(それは難しいよな)、
2番スクリーンでなら自由席(整理番号順入場とかにして)にして欲しかった。
とはいえ、やっぱり小さい箱でもフィルムで観られるのは幸せだなぁ~
などと思って気を取り直し、同日にもう一本観ることにしていた『青い館』では
一番後ろの方で観ることにしたら・・・
やたらと咳込む女性がおり、「こんな小箱ではちょっとカンベンだよなぁ」と思ってると、
咳対策らしく飴を取り出し舐め始めたようで、そうすると咳はおさまり再び静寂。
ただね・・・飴一個を口に入れるのに何分かかってんだよってくらいのガサゴソぶり。
まぁ、でも他は概ね静かだし、そんな小さいこと気にする小さい男は卒業せね・・・ば・・・
と思っていると、その女性が携帯を見始める。しばらくすると、
(映画に飽きたのか)手帳か何かを取り出して眺めたり書き入れたり・・・。
途中から薄々気づいてもいたのだが、上映終了して「やっぱり」。
その女性は映画祭の関係者(おそらく運営メンバー)だったのです。
どういう理由で観賞してたのかはわかりませんが(売れ残ったのか、リザーブ済か)、
他の一般客が観賞するなかで、そういう態度で観ているスタッフがいることが非常に残念。
いや、一般客だとかスタッフだとか関係なく、「映画を観る」という姿勢には
一家言というか美学みたいなものを持ってる人が映画祭を運営していて欲しい・・・
などというのは、おそらくしみったれたロマンチシズムなんだろうけれど、
前回の大暴落から急浮上した後だけに、二度目の転落はかなり来た。
とは言っても、全体的には好感もてる「つくり」な気もしたし、
何より貴重な作品群を劇場で日本語字幕付で観賞できる場を提供してくれる尽力には
敬服。前回から確実に改善されてる点もあったと思うし、
第3回があるのなら何だかんだで行ってしまうかもしれない・・・が、
映画祭が元気な昨今、その醍醐味をより味わえる場が増えつつある反面、
安易さや甘えが見受けられるようなイベントも少なくない(大小かかわらず)。
映画興行不振(とりわけ外国映画は)が続くなか、映画祭の役割は今後も増すと思う。
すべての映画祭が「正しく」盛り上がり、映画の(再)発見の場が増えることを願う。
今年で4年目を迎える恵比寿映像祭が、東京都写真美術館で先日まで開催されていた。
展示は無料で全フロア(?)を使って展開されるが、
並行して1階ホールでは会期中1日2~3回の上映会(有料)も行われる。
貴重で稀少な上映の機会が与えられる最新・注目の作品も少なくない(らしい)。
しかし、私の個人的感触としては、4年目にもなるのに認知度や影響力は確実に低調で、
いまだにその意図や目的が余り見えてこない印象もある。
とはいえ、ジョナス・メカスの最新作(彼曰く、実際の最新作は日々更新とのことだが)が
日本語字幕も付けられ、立派なホールで観られるのは正しい贅沢。
他にも興味深い作品やプログラムはあったものの、結局観たのは本作のみ。
今年の2月は上映会目白押し過ぎて、死ねフィル週間かい!?ってな具合の日々だった。
まぁ、網羅観賞出来ちゃうスケジュールの方が結局満身創痍で
堪能度外視ノルマ観賞に陥ってしまいそうだから、
諦めざるを得ない状況での吟味選択観賞の方が一本入魂で味わいが深まる気もするし。
◆ 冒頭、メカスが「眠れない…」とボヤき、
「机の上も散らかったまんまだだし…」と嘆く。
スリープレスという宣言から始まって、次から次へとアルコール。
悪酔いも悪ノリもなく、ほろ酔いでホロッと来る語り口。
メカスの視点(主観)はバッチリながら、
「愉快な仲間たち」のライブが活写されてゆく。
インタビュアーとしてカメラを回すのではなく、
話を聞く語り手(聞いてる物語をどう提示するか:受信と共に発信する)
という実践の人。
「映像で」語るというよりも、「映像を」語るといった趣すら感じられる、
積極的映像家。
言葉で綴る日記にはない必然性を模索し続けてきた人ならではなのだろう。
そう自然に思えてしまう、「何処から映すか/何処まで映すか」
「いつから映すか/いつまで映すか」。
映像とは時間を「切り取る」ものであることを再考させられる。
適度で切り上げ、適当なリズムを刻む前半から、
どこまでも続く緩慢さに溺れる後半へ。
眠れぬ夜の時間の流れ、その感覚。
寝付けぬ苛立ちによる試行錯誤から、諦念で極めてゆるやかに微睡み始める夜更け、
そして夜明け前。眠れぬ夜の物語。
◆ 最初に出てくる女性(マリーナ・アブラモヴィッチ)は、
恋人と別れて帰宅すると『タイタニック』が放映されてて最悪だったと飲み屋で語る。
「私はハッピーエンドが好きなのよ」と言い出したかと思うと、
唐突に「私の理想の恋模様」を夢見で語る。
と、同時に観客は彼女の夢を各自で脳内上映し始める。
しかし、眼前にはスクリーンに映しだされた彼女の顔。
言葉でなら片方に収束されてしまう二つの世界がダブルのままで進行する、映像の語り。
フィクションなら回想や空想の場面へ変わる映像も、映像日記では然にあらず。
しかし、それ故に虚実の境界が現存しつつも二者併存。
◆ 理想の恋愛話とつながるかのように(関係ないか)、
白馬に乗った女性が出てくる次の章。
そして、その女性を突然ふり落とす馬。
「ぼくはキャロリーに乗って欲しかったんだ…」という馬のつぶやき(メカスの声)。
このような《声》が時折挿入されている。
これは、馬自体の声なのではなく、馬の存在を自分なりに解釈した内容なのであり、
それは私たちが世界を眺めながら常に伴う思考の形式でもある。
人間同士なら言語を用いた交流が可能だが(それは常に断片的ではありながら)、
動物や植物など声なきものたちとの交流は主観によって《読む》しかない。
だから、客観的であるはずの映像も、受け手によって異なる意味をもつ
という当然(ある木を眺めつつ「象みたいだ」「馬みたいだ」と呟く男性も又然り)は、
こういったメカスの主観の発露によって再認識させられると同時に、
それがいかに無辺の深奥を宿したものであるかを教えてくれる。
手ブレやズームといった眼の営みの外化によって表出されたメカスの主観を
基軸としながらも、受け手が更にそれを《読む》ことで生まれる無限の対話は、
彼の作品(映像表現)の魅力が説明[=言語化]不能であることのあらわれか。
◆ 涙が今にもにじみそうな老女の表情。
何も語らぬ彼女、しかしすべてを語っているかのような貌として記録された映像に
向き合う私たち。沈黙の画の下にある、無尽蔵な言葉。能動性の喚起。
続く、饒舌な沈黙。
◆ トカゲを映すカメラ。そこで交わされる会話と並置されたナレーション。
外部の現実と内部の現実が並走している人間の意識世界。
整理されないマッシュアップ。
カメラを置く(操作から外れる)と、カメラの前に現れるトカゲ。
必然的な偶然。
後半に登場する「偶然なんてない」と語る男性の言葉を証明するかのよう。
◆ 本作では、正岡子規に始まり、小林一茶や松尾芭蕉、
更には紫式部の言葉までが引用されている。
(ドナルド・リッチーから届いた北海道の絵葉書も登場する。)
古典に冥い私には、その意図などを解す能力に欠けるものの、
西洋的世界観に翻弄されたメカスの人生を定義せずに包容する力が
彼らの言葉にはあるのかもしれない。
◆ フィルムのなかではいつも優美なルイ・ガレル。
17歳の頃付き合っていた恋人(現女優?)に不意に声をかけられ始まる思い出話。
一人の青年としての相が、虚実の横断を敢行してる。
◆ メカスは、マリー・メンケン(1909~1970)を讃える。
大きな作品が割拠し始めた映画界において、
あくまで小さい作品にこだわった映画作家として。
彼女の映画は「何でも小さい」という。
その精神は、小さな個人の小さな物語で綴られた本作とも通ずるもを感じさせる。
メカスは本作について、
「個人的な小さな物語を大きいスクリーンで上映することは不自然かもしれない」
としながら、「しかし、その物語は個人にとっては壮大なのだ」と語っている。
《世界》とは、何を指すのか。何処から何処までか。
人間にとっての世界とは、所詮《自己》がとらえうる範囲の話かもしれない。
しかし、そうした自己の境内には、客観指標の時空を超越した奥がある。
その深遠なる内奥を求める営みこそが、メカスの映画日記なのかもしれない。
そして、それは前述のような歌人と通ずる語りでもあるのだろう。
◆ 突然歌い出すメカスの愛らしさ。
イオセリアーニもよく歌うが、ソ連の脅威に抑圧された故国を持つ同士、
国家の謳歌をするりと抜けて、自分の声で歌うことこそが
生命力の維持(意地)だったのかもしれない。
◆ 7月4日に、川へ行くメカス。
歴史的な記念日に個人的な物語を綴る。
人間が自身の築き上げた文明を祝福するなかで、自然へ帰ろうとする営み。
来年も来ようと誓うメカス。
◆ 芸術の女神ミューズを招き入れるため、
ネットやレーダーシステムを取り除け、と言い放つメカス。
「ネット」は字幕で「防囲網(のような語)」となっていたが、
インターネットのそれとも関連していそう。
新たなメディアを駆使しながらも、
その呪縛には自覚的であろうとするメカスの姿勢であると、
私は勝手に解釈してみたが。
◆ 「カメラを向ける」という行為について思考を促す場面がいくつかある。
カメラを「武器」と表する人には、「友」であり「道具」であるとメカスは語る。
カメラを持った人々に囲まれたときには、
「リヴェンジだぁ~」と戯けてカメラを向け返す。
“shoot”の道具であることのカメラの宿命。
それは、《とらえる》ことの暴力性を内包しつつも、
そうした行為を伴う人間に宿ったカメラ(眼)の所業を指摘してくれる「友」であり、
自覚を促す「道具」でもあるのだろう。
◆ ヴァイオリンを持った男が、
動きが不可視なほどの悠長さで持って頭上に掲げるまでの一部始終。
誰もが予想していた最後の一撃。振り下ろすことでの破壊。
私はラヴェルの「ボレロ」が大好きだが、
それは人生そのものかのような構成(同じ調べが異なる演奏で反復され、
最高潮の最後に一気に下降する)をもった不思議に魅せられるから。
まさにそれと符合するかのようなパフォーマンス。私なりのサントラ。
◆ 子供たちが自然の中で戯れる映像にかぶせられる、
「緑の日々にかえりたい」というナレーション。
「あの頃は、Part of it(木々や大地といった自然)だった」と述懐するメカス。
「どうすれば、あの(greatestでbeautifulな)あの頃に戻れるのか」という、感傷。
眼前の子供たち、あの頃子供だった自分、いま老いを重ねる自分。
幾重にも重なりゆく《追憶》の情景。
◆ そんな感慨に浸った後にあらわれる、
最後の一句が「かたつぶり そろそろ登れ 富士の山」(小林一茶)というポジティヴ。
人生は苦難に満ちていると言いながら、しかし希望や喜びでもいっぱいだという念願。
LIKE IN A DREAM な人生。たとえスリープレスでも見続ける夢。
現実を記録したはずの映像にみえる白昼夢。どちらが勝るか、実在感。
そんな問いの不思議を味わい尽くすためにあるかのような、メカスの映像言語と戯れる。
だから、通例の時間とは異なった、本来の時間の流れに身を任せた観客は、
現実しか見ていなかったことに違和を感じる夢見な目覚め。