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Living Is Difficult with Eyes Opened

歓楽のポエム(2010/趙大勇)

2011-12-17 22:52:50 | 2011 中国インディペンデント映画祭

 

昨日終了した中国インディペンデント映画祭2011

当初は数本(最低限『占い師』だけでも)観られれば、というくらいの位置づけだったのに・・・

結局、上映作品10本のうち、7本も観てしまいました。

そもそも、「ロウ・イエが映画ファンに勧める10本」を映画祭のブログ記事で見かけ、

その第4位に(映画祭で最新作『占い師』が上映される)徐童の前作『収穫』がランクイン。

第1位(パナヒの『これは映画ではない』)と第2位(キム・ギドク『アリラン』)は奇しくも

今年のフィルメックスで上映されたばかり(両方観たかったのに観られなかったけど)。

第3位の『鉄西区』(ワン・ビン)は今秋にオーディトリウム渋谷のワン・ビン特集で上映。

(自分はかつてアテネで観て感銘打ちひしがれまくった記憶が未だ鮮明)

そして、なんと第4位の『収穫』(徐童)が武蔵野美術大学で開かれる映画祭関連企画で

上映されるとの朗報(しかも、監督の講演まである)を聞き、仕事も何とか調整つけて、

馳せ参じてしまったら・・・ロウ・イエの言う通り、唯一無二な魅力が醸成された快作ゆえに、

とりあえず中国インディペンデト映画祭2011通いが決定。

そして、東中野に足を運び始めると、あれよあれよといううちにコンプリート未遂(笑)

『花嫁』『恋曲』『書記』という漢字二字タイトルの3作(たまたま共通)が観られなかった。

『書記』は最終日に何としても観たかったのだが、仕事が終わらず間に合わず。

しかし、何とか本作『歓楽のポエム』には滑り込む。

何といっても、私的傑作『ゴーストタウン』のチャオ・ダーヨン監督初劇映画となれば、

これはこれは必見中の必見ですからね。これを逃したらいつ観られるかわからない。

 

〔あらすじ〕

 ニセの職業斡旋所を営むペテン師の男は、都会に出てきた田舎者を騙して金を稼ぐ毎日。

 恋人に街を出ようと誘われても相手にせず、床屋で働く若い女にうつつを抜かしている。

 男はやがて逮捕され、下品な詩を作る警察官と出会う。

 この警察官の趣味は、嫌がる容疑者たちに無理やり下品な詩を読ませることだった。

 ドキュメンタリー出身の監督が、欲望渦巻く街・広州を舞台に描いた劇映画第1作。

                                         (公式サイトより)

 

趙大勇という監督は画家出身だけあって、とにかく一瞬一瞬が絵画的に切り取られている。

しかし、それは、よくある綺麗な画でもなく、よくある精緻な構図でもない。

決して情景を支配しようとはしないし、対象化して加工しようともしない。

何で「埋めるか」よりも、何処を「埋めないか」が重要。

そのあたりの「間(余白)」のとり方(撮り方?)の妙は、日本人にも自然に感得できそう。

ただ単に言語化できない言い訳かもしれないが(笑)

 

「奥」的な表現にこだわりがありそうなのも、日本人の好みに通じるところかも。

ビルの屋上から「向こう」の方に見える一室での男女の喧嘩。

その更に「向こう」に見えるタワーのネオン。煌びやかに華やかに。

「向こう」に行けば行くほど活力に満ちてゆく。最も手前の男は枯渇。

そんな倒錯を画面は語る。都市という中心の活性化は、個人の空洞化の始まりでもある。

 

『ゴーストタウン』でも、教会に入りたいのに入れない男の「向こう」に教会を配し、

更にその奥には、その男を捨てた妻が住んでいる山まで見えるという構図。

二重三重に「奥」を重ねるのは画だけではなく、語りにおいても試みられる。

とはいえ、それは常套な入れ子構造とは趣を異とし、流麗さは拒絶される。

劇映画第一作目ということもあるのだろうが、その辺は必ずしも成功しているとは言い難い。

自然な不自然さにハッとさせられる時もあれば、作為がチラつく展開が停滞感を催す場面も。

前半の男女(市井)と、後半の男女(刑務所)。それらが「語り合う」ことが余りないのが残念。

しかし、そうした〈解決〉は周到に避けられているのかもしれず、

類似と対照で読み解こうとする私の安易な姿勢こそが、

記号的に堕した結果かもしぬ。

   

チャオ監督の二作を観て何より印象的なのは、「光」の存在感だ。

『ゴーストタウン』では、山間部に降り注ぐ慈悲深き陽光が画面に終始横溢してた。

夜の場面では、火の粉があまりにも神々しい炎の灯りに魅せられた。

本作における「火」の佇まいも印象的だ。袋小路で男が手にした煙草の火。

呼吸すら感じられるような火の息吹。観る者の眼も心も吸いつくす。

そして、夜景における灯りの空虚な美しさ。観る者の心には何ら灯さない、街の灯火。

光は必ずしも無垢な希望だけを表出するものではない。

光を知り尽くしたかのようなチャオ監督が撮る、光の闇。

彼は『ゴーストタウン』の舞台となった土地に惹かれる理由を、

「静けさと喧騒を同時に与えてくれるから」と語っている。

そして、「一切があるようで無いような、そんな感覚が私は好き」だと云う。

禅の「無」の境地に通ずる感覚だ。小津の墓碑に刻まれた「無」一文字。

やはり、趙大勇は映画の神様に寵愛される運命かもしれない。(大袈裟御免)

 

◆自作の詩を朗読させる看守は、

   卑猥な内容の詩を読ませることで支配欲を満たしていたのだろうが、

   相対的な「快楽」だけを求めたのではあるまい。そこには僅かばかりかもしれぬが、

   日常の仕事からは得られぬ創造性(あるいは芸術性)を欲求したからではあるまいか。

   前半のペテンな男が屋上で独り京劇の舞踏に興じるのも同様な気がする。

   生活から表情(expression)が失われゆくほどに、

   昂ずる表現(expression)の欲求。

 

◆二作を通じて垣間見た監督のお気に入りには、「横移動」。

   『ゴーストタウン』では、男が画面の端から端まで歩いていく場面が挿入されたり、

   ラストカット手前には、猫が端から端まで歩いていく様が一部始終収められていたりもする。

   本作においても、看守がやはり端から端まで歩く場面が挿入されるし、

   列車が画面を横切るところまで丁寧に収められている。

   手持ちカメラで撮影されているチャオ作品では、視点が常に揺らいでいるはずなのに、

  なぜかブレを感じない。むしろ、静謐に沈酔したかのような眼差しで凝視する。

   それは、対象の移動を「追う」のではなく、「見守る」からなのかもしれない。

  (そんなカメラが、マルチ商法現場に警官突入のシーンでグラっと来るのも印象的)

 

◆列車は横切るシーンのみではない。監獄では常に列車の音が聞えてくる。

   幽閉されたものと、移動をくりかえすもの。屈辱と閉塞を倍加させる響きが痛い。

   しかし、本作のラストシーンは駅前広場。そこに溢れ返った人々。混沌無尽な想いの交錯。

   「一切があるようで無いような」場所に立ち、希望と絶望でいっぱいだ。

 

◇本作の邦題は『歓楽のポエム』。

   物語は、「歓楽のポエム」→「陥落のポエム」→「監獄のポエム」

  →「諂曲のポエム」→「天国(?)のポエム」といった流れを辿ってる。(ポエムは不要?)

 

◇(本作の内容とは一切関係ないが)

  小耳に挟んではいたが、上映中にしばしば会話している観客に遭遇してしまった。

   私は少し離れていたし、途中からは耳を塞いだ(?)ので

   何とかシャットアウト気分にもなれたものの、近くの人とか迷惑じゃなかったのだろうか。

   ひそひそ声じゃなく、思いっきり地声で会話してた分、どうでも好くなれたとか!?

   ああいう人達も、映画祭の「仕様」として割り切るべきなのか?

   今回の映画祭では、概ね良質な客層が全体を占めている一方で、

   上映中終始(思いっきり)咳き込み続ける観客とかにも何度か遭遇した。

   騒音とか以前に、密閉空間に長時間いることに抵抗ないとは、どこまで己最優先?

   マスクすれば大丈夫って訳でもないでしょ。

   映画祭参加する前に『コンテイジョン』観て来いや(笑)

   

◇今から第4回の開催が待ち遠しいが、

   そのまえに第1~3回のベストセレクションでも特集上映してくれないかなぁ。

   今回の上映作品でも再見したいもの多いし(『ゴーストタウン』2回目観ちゃったし)、

   第1・2回に参加しなかったことを猛省する日々に救済を(笑)

   それから、『ゴーストタウン』のロング・ヴァージョン(4時間くらいという噂)も観てみたい。

   ドキュメンタリー関連やワン・ビン特集(今度いつあるかわからないけど)なんかに

   何とか紛れ込ませたりしてくれないかなぁ。

   それが無理でも、次回の映画祭時に(今回のように)DVDが制作販売されることを

   楽しみにしながら第4回を心待ちにするとします。

   アジア映画は「普通に」好きといった中途半端な映画好きだったけど、

   今更ながらTIFFでも「アジアの風」が最重要最高人気だという理由も根拠も痛感しました。

   フィルメックスでもコンペまでしっかり観なきゃならないな。(『独身男』も去年見逃してたし)

   たっぷり勉強させてもらったと同時に、得難い唯一無二な豊饒感動体験に満ちた映画祭。

   極めてインディペンデントな映画を極めてインディペンデントに届ける映画祭。

   こういう草の根こそが、文化の底力なんだと再確認。勇気も希望も頂きました。

 


天から落ちてきた!(2009/張賛波)

2011-12-14 14:40:55 | 2011 中国インディペンデント映画祭

 

  (あらすじ)公式サイトより

   人工衛星の打ち上げが盛んな中国。

   西昌衛星発射センターから上がるロケットは毎回残骸を地上に落とす必要があり、

   その落下地点に湖南省綏寧県を選んでいる。

   そのため、綏寧県の人々は打ち上げのたびに落下物の恐怖に晒されており、

   過去には犠牲者をだしたことも。

   発展のために犠牲はやむを得ないという役人、

   打ち上げのたびに避難する農民、

   そんな村人たちの様子をカメラは丁寧に写し撮る。

 

そんな「あらすじ」読んで観たくならないわけがない。

告発的だったり煽情的だったりする社会派が私は好みではないのだが、

こんな奇天烈な問題事象は、どうやったってクソ真面目な喧伝できっこない。

案の定、そんなアプローチをとらぬ自由な精神で記録と語りを紡いだチャン・ザンボー。

長篇ドキュメンタリーを初監督したということもあり、稚拙さ垣間見、緻密さ不足。

しかし、そうした事情は本作に収められてる事実を些かも揺るがせはしない。

カメラの揺れは観る者の揺れに重なるかのようである。

 

編集だってきわめて、いびつ。

しかし、それは歪な現実を少しも整理しないことでこそ伝えられる「ありのまま」を残存させる。

耽美や虚栄の欲求で削ぎ落とされかねない「それ」は、〈完成〉とは共存しえぬもの。

映画は芸術であり産業でもある一方、もう一つの確かな存在価値を宿しつつある。

それは、「わかる人だけに届く」もの(芸術)でもなく、「わかる事だけ伝える」(産業)でもなく、

わからないことをわからせようとせず、そのまま運んでくれる新たなメディア。

発信者が限定されていた時代には、それは可能であっても不可とされていた。

デジタル化の波はフィルムの美と才能への憧憬を飲込むだけではなかったのかもしれぬ。

文化や芸能の「民主化」は、必ずしも礼讃ばかりで済まない歴史を常に孕んで来たが、

その黎明期においては確かな画期的萌芽を育みもするだろう。

既存のロジックやドラマツルギー、批評や評判や政治性。

それらから解放されているというよりも、強大な呪縛を衝突という「戦争」ではなく

するりとかわして抜け出るかのような精神性がもたらす本来の自由を謳歌する作家たち。

私たちがバカにしたい(それは半ば嫉妬の裏返しでもあるのだろう)「中国」とは、

実は中国本来の文化とは無縁の表層的なカムフラージュに過ぎぬのかもしれない。

奇しくも、それと全く同じ情況は日本で随分前から(近代化以降ずっと?)起こっている。

 

英語で「個人」を意味する「individual」からしてみても、

西洋では「分ける(divide)」主体(それは〈神〉であったり〈国家〉であったり)が先にある。

したがって、全体(今でいえば社会かな)と対峙する上で成り立っている概念かもしれない。

それに比べて「we」にあたる「我々」や「私達」といった日本語は一体なんと前近代的表現か。

「一般意志」といった発想とは無縁な、自己の延長的世界観。自己を敷衍するしかない眺望。

その表現は中国語でも符号するし、そもそも日本語のそうした精神性は中国由来かも。

そして、そんな「自己中心」的なポスト個人主義(?)ともいえる自己起点個人主義は、

伝統的でありながらも、現代だからこそ求められる内なる誠実さを齎すだろう。

西洋概念の精緻な表現としては齟齬も指摘される「自由」という翻訳語も、

古来からの感覚が出した答えとしては、「正しい」表現だったのかもしれない。

 

ちなみに、「インディペンデント」とは、

「depend(依存/従属)」を否定するなかで出てきた概念ゆえに、

個人(主観)に先立つ存在として社会や国家を捉えてしまい、対抗や抵抗を試みるあまり、

それらに意識が傾きがちなパラドクスを抱えることも少なくないように思う。

しかし、本映画祭のパンフレットで中山氏は次のように語っている。

「今回選ばれた作品を見ていただいてもわかるように

インディペンデント映画は決して反政府映画ではありません。

単に国による映画管理体制から離れて、自由に表現したいだけです。」

まさに、そうした従来の「インディペント」とは異なる「独立」たろうとする精神を宿した作品群。

自立し、自律しながらも、それが即独善になろうはずもない。

なぜならアジアの公共性は、私(我)の延長(私たち/我?)なのだから。

 

本作自体の感想を語る前に、手に余る論点を分不相応な独善文章で語ってしまった・・・

まぁ、そんな倨傲も尊大も、インディペンデントなサイトの特権さ(笑)

 

映画祭パンフレットに寄稿された監督の言葉が興味深い。

    中国語のタイトル『天降』は、空から降る残骸のほか、運命をも示している。 

    この運命は、現地の人々のみではなく、 

  その他の人たちの身にも起こりうる普遍的な「天命」である。 

  「天」は物理上の空を表すだけではなく、国家意思も示している。

日本でも「天降(り)」によってソフィストケイテッドな国家意思投下は行われていたものの(笑)

そこは中国。スケールが違う。おまけに、隠し方や隠さなさ(?)も豪快だ。

ニュースなどの報道では「負」を語らず、「負」の現場では潔く「すべては国家の所有物」宣言。

しかし、そこで交わされる感情の応酬には、日本から消えつつある強い自我が姿を見せる。

あれほどまでに統制力が強烈に思われる中国において、

(それは辺境ゆえかもしれぬが)皆が皆、自分の感覚で世界を語る。

それは、国家側の人間でさえも、「言わされている」というよりも、「語る」のだ。

吾が言う「ことば」の峻烈さに、どんなに社会的暴力が押し寄せようと、

個人を埋め尽くすことなどできない人間讃歌が聞えて来だす。

 

そんな強い個性とは裏腹に、豊かな自然とは不釣合いの看板たち。

社会の発展のために必要な「教育」の白々しさ。村の平和は、社会とは別物か?

しかし、村人はそんな社会を相手にして敗北感による自己憐憫などに走ることもなければ、

まして人間性の優越を誇ったりなどしない。

社会とやり合うことが、自らの「奴隷化」を促すことを知っているかのようでもある。

それでは社会は変わらない?確かに、彼らのやり合う相手は眼の前の役人や軍人だ。

それでは社会に届かない?いや、大きな社会こそ「見えず」「触れられず」、

だから個人が殴ったところで痛くも痒くもない。しかし、役人や軍人は人間だ。

彼等は明らかに眼の前にいる具体的な人間に対して、自らの感情をぶつけている。

あなたじゃ話になりません的一人相撲で擬似満足を貪る「文明人」とはまるで違う。

言う方も言われる方も一見頑強でいて、実は識らぬ間に痛みを共有している気もする。

それは、どんなに社会が肥大化しようが、どんなに社会が強制してきても、

結局それは人間の「業」であるとの認識があるからなのかもしれないと、私は思う。

爆発寸前の爆弾を盥回ししては他人が爆破することで安堵する感覚が蔓延した近代社会。

国際社会になれば、それは更に顕著であって、そんな中で「野蛮」とされるヒール中国。

そうした見方とて、〈国家〉という実態度外視、人間軽蔑な認識が為せる「業」。

何も、そうした見解に異論を唱えたいとか打ち負かしたいとかいうわけじゃなく、

むしろそうした声高ながらも空虚な「異議あり!」ではない声が聞ける本作に、

肥大化した「社会」意識から遡って再考すべき、共同体や個人の在り方を見ることができた。

 

本作は2008年に撮影されているのだが、

この年は中国にとって「宇宙事業イヤー」であると同時に、

「オリンピックイヤー」でもあった。そう、北京五輪のあの年だ。

そして、舞台となった村でもオリンピックは注目されて、

初めてテレビを購入する家族の様子も記録されている。

テレビに見入る家族たちは、無言で壮大な国家事業に見惚れてしまう。

子供たちの純朴な眼差しに胸を打たれつつも、こうして始まった無言の団欒に、

コミュニケーションのメディア化(常に媒体を通じてしか交流できない人間)の萌芽を感じ、

と同時にマスメディアの魔の手が着実に辺境を掌握しようとしているかのようでもあり、

半ば複雑な心境で見守ることとなる。

美しい自然のなかで違和感を禁じ得ぬアンテナの無機質な佇まい。

発信は封じられ受信を強要され続ける歴史を促進させる道具にならぬことを祈るのみ。

 

本作の終盤に「天空」との小見出しが映し出された気がする。

王菲(フェイ・ウォン)の「天空」が流れてくるわけでは当然ないが、

そこにはまさに「我的天空(私の空)」の確認がなされているかのようでもある。

そして、監督の言葉を読んだ今、それは「天」を「空」として捉えようとする人間の決意とも。

そこから何が降って来るかはわからぬが、まだ在りもしないものばかりに固執せず、

むしろそこには誰も埋めつくすことなどできぬ「空」があるだけだと言いたげに。

そして、そうした感覚は、純朴な眼差しで世界を切り取るチャン・ザンボー監督と

そうやって映し出される世界に出会える観客にも共有され得る、既知との遭遇。

 

 


ピアシングⅠ(2009/劉健)

2011-12-13 23:57:27 | 2011 中国インディペンデント映画祭

 

中国インディペンデント映画祭2011にて観賞。

この映画祭、2008年・2009年と開催されており、

その存在を知りつつも何故か然程食指が動かぬまま足を運ぶことなく・・・

そんな自分を責めたくなるほど、見応えが十二分にある作品ばかりに出会える歓び。

今回の10作品も、フィクション4本、ドキュメンタリー5本、そしてアニメの本作である。

しかも、一作一作が見事に固有の魅力に満ちているのみならず、

明らかに規格の異なった別次元の映画体験が待っている。

 

それは、中国インディペンデント映画における特殊性も関連しているらしく、

検閲を通さぬゆえに一般公開ができないので、そもそも商業的企図は皆無。

更に、芸術家による表現の場というよりも、明らかに「撮りたいことがあるから撮る」

といった姿勢に貫かれた作品の存立背景がいずれの作品にも共通しており、

そんな作品群ゆえに、純粋で原初的映画体験を味わえるのかもしれない。

 

本作『ピアシングⅠ』は、中国初のインディペンデント長篇アニメらしく、

世界各地の映画祭でも話題となり、多くのアニメーション映画祭でコンペに出品され、

数々の受賞も重ねている。その賞金や各地の上映権料などで、ほぼリクープできてるとか。

そういった意味でも、中国のインディペンデント映画としては稀有な存在なのだが、

国際的評価が示すように、ユニバーサルな魅力をも内包した人間を描いている。

それはおそらく、アニメであることにより、実写における具体性が削がれることで、

ひときわ目を引きがちな「ザ・中国」的要素が好い具合に捨象され、

舞台としての環境としての中国の固有性は残しつつも、

あくまで「そこ」に生きる人間(中国人ではない)を描いている。

そこには極めて中国的とも思われる発想や状況がつまっていながらも、

それらを駆動する道理や論理や管理や心理は、どれも近代社会を生きる人間の宿命だ。

エンディングで流れてくる唄の歌詞がそれをストレートに語っていたりもして鮮烈だ。

「誰もが気づかぬまま政治の舞台に上がっている」(みたいな内容だった)

何度も連呼される「政治」という語。欲望を加減し調節し、統制しては誘導したり。

合理化効率化の宿命を負った都市において、政治的な思考は隈なく人を巻き込んでゆく。

だから、そうした「論理」に反する倫理など、到底信じられるはずがない。

論理のまえに在るべき倫理が、論理のからくりから排除され、

形式的な権利の主張と擁護が現実を嘲り追い越してゆく。

 

すべては起こるべくして起こる。

本作の冒頭でスクリーンに浮かぶ言葉である。

社会は人為によってうまれたもののようでいて、そもそも人間が自然の産物で、

自然性を完全に排除することはできない以上、社会も完全な管理も統御も不能なわけで。

だから、社会の構造は絶えず人間の欲望や摂理によって突き動かされながら、

正常だろうが異常だろうが、のっぴきならぬ運動を繰り返さざるを得ない。

その運動(循環)の「正体」を観たとき、個人の判断は分かれるだろう。

本作の主人公の決断に、観客は何を読みとるだろう。

 

私はそこに、社会に対するアンビバレトな誠実さを感じた。

信じたい。だから、信じない。美しく在りたい。だから、消えたい。

社会の歯車であることは、機械の一部であり続けることを強要されること。

もし、その機械が世界を闇で蔽う働きしかもっていないことを知ったとき、

闇を元手に機械で活躍するべきか。それとも、光(月)を見つめて・・・

 

絶望しない人間に、希望を語る資格はないのだろう。

本当に絶望したことのある人間だけが、本当の望みを希う自分に出会うだろう。

陶酔的な頽廃でもなく、気休め程度の反逆でもない、真摯な現実との対峙。

それを、いつまでも何処までも闇が続きそうな画のなかで、

激しい悲しみを可笑しみでとらえつつ、沈沈と語る。

 

タイトル通り、貫通して「痛みこそが空洞化」してしまうような掴み処のない艱苦のようであり、

身体に楔(それを裏切ることはできぬが、裏切られるのは不可避)を刺されるようでもある。

「ピアシング」の主体は誰なのか。社会?それとも自分?

社会が動けば自分は動く。自分が動けば社会は動く?

個人が社会を「ピアシング」できるだろうか。

本作はそれを否定するが、本作の存在はそれを肯定しているかのように思われる。

 

◇リウ・ジェン監督は、本映画祭のトークショーのなかで、

   現在同時進行しているいくつかのプロジェクトと、企画中(資金集めの段階)の話を

   ほんの少し語ってくれた。それによると、あるフランス映画におけるアニメパートを

   手がける予定があるのだとか。(自作へフランスからの出資が受けられる話もあったとか)

   ここ日本でも、本作の上映機会が(この映画祭以外で)ありそうな話も出ていた。

   アニメの越境力、おそるべし。いや、勿論リウ監督の抜群な才能ありきではあるけれど。

 

◇本作の「録音(というかアテレコ)」の安っぽさが恐ろしい(笑)

   制作上の都合なのだろうが、それすらもユニークな効果を醸しだしてしまう作風が凄い。

   ハンドマイクで素人が台詞を朴訥と読み続けるといった音世界は、

   とんでもない閉塞感と共に、どうしようもない現実への諦観寸前な虚無気分を演出。

   Q&Aで監督の話を聞いてみたかった。(『ゴーストタウン』でも同様の後悔・・・)

   来日できない一人以外は全員監督を招待しているという、この映画祭の本気には敬服。

   また、些細なことのようではあるが、チラシその他に「上映素材を明記」している点は

   「デジタル上映」との表記で玉石混交隠蔽体質にある数多の映画祭とは一線を画している。

   ちなみに、字幕はボランティア的な方々が制作されているとの話だが、

   その質への違和感は全くと言って好いほどない。

   ほとんどが、翻訳者と監修者で念入りに確認等を行っているからだと思われる。

   この二点に関しては、この映画祭よりも規模の大きい(資金もそれなりにありそうな)

   映画祭でも全く徹底されていないどころか、良識を疑うような事態も散見できる。

   そんなところまで含めても、「インディペンデント」の真の価値を再確認できるかも。

 

 

 


ゴーストタウン(2008/趙大勇)

2011-12-12 00:42:50 | 2011 中国インディペンデント映画祭

 

中国インディペンデント映画祭2011にて観賞。

これは、(あくまで極私的ではあるが)傑作として記憶したい鮮やかな個性を感じる一作。

雲南省北西部の山中にある、政府によってうち捨てられたゴーストタウンに

勝手に住み着いている少数民族の日常をとらえた本作は、何一つ「日常」的ではない。

しかし、それは彼等にとっては確実に日常で、その苛酷さが過剰に美しく切り取られてく。

「神の御言葉」「記憶」「少年」との見出しがつけられた三部構成。

英語では、「Voices」「Recollections」「Innocence」といったシンプルながら象徴的。

第一部の宣教師父子は、〈神〉の声に耳を傾けつつ、〈神〉の庇護下で世界と対峙。

第二部の妻に去られた夫は、〈歴史〉を失い、過去を無化された男の彷徨。

第三部の孤児となった少年は、〈神〉も〈歴史〉も持たず、火と身体で命を燃やす。

虚飾と無縁の、華燭なき裸火と戯れる少年は、「人間」から最も遠いようでいて、

最も人間の営みを続けてる。〈神〉にも〈歴史〉にも固執せず、ただただ生きるエネルギー。

終末すら感じさせる第一部。それは、もはや神が救えなくなった世界をも意味するかのよう。

しかし、そのラストで響く人間の声。祈りの古謡。

それは、理想を夢想するだけの神の世界に届けようとするよりも、

穢れや過ちをも享け止めた人間の歴史を引き受ける決意のようにも響いてる。

そんな場に訪れた少年。空に浮かび上がる十字の灯かり、空から降り注ぐ月明かり。

太陽(タウン)の活力をも凌駕するほど逞しい月(ゴーストタウン)の光。

国家〈近代〉が世界を則るまえの、人間に則っていた世界。

〈神〉は人間の精「神」にあったものだから。

 

◆第一部の終わりに響く、教会に集まった人々の歌声は震撼するほど神々しい。

   あの声とあの表情を浴びるだけでも、本作を観る価値はあったと思えるほど。

 

◆第二部には、見たこともないような動物たちの情景が興味深い。

   ナショナルジオグラフィックなどでは到底お目にかかれない、動物たちの穏やかな深層。

   管理や統御の消えたゴーストタウンでまったりながら活き活きとした動物たちが愛くるしい。

 

◆第三部では、白昼の陽光、闇夜の火焔といった光の存在が全篇に漲溢し続け、

   ゴーストタウンという暗部に隈なく光を届けるかのよう。

   あまりにも幻想的な映像は、剥き出しになることない現実の「正しい」収め方かもしれない。

 

◇秋は毎年、大小さまざまな映画祭が開催されるシーズンではあるが、

   10月の東京国際、11月のフィルメックスと大きな映画祭が終わった今も、

   東京の各所では映画ファン泣かせの(笑)特集上映濫立続き。

   日仏学院では「鉛の時代/映画のテロリズム」、

   吉祥寺バウスシアターでは「イタリア映画界の異端児アゴスティの世界」、

   シアターイメージフォーラムでも先週までポーランドアニメの特集をやっていたり、

   他にも多様な企画が師走になっても(なったから?)忙しない。

   ヴェーラで清順やら、キネカでトリコロールやら、

   ましてやフィルセンで工芸技術記録映画なんて観る余裕ない・・・。

   おまけに今日は外語大で『タレンタイム』の上映とシンポジウム(?)があったりしたし。

   シネフィル道を覚悟した者たちにとって、実人生とのバランスを図るだけでも

   選択の連続なのに、映画生活においても日々取捨選択が迫られるのは、ちと切ない。

   しかし、そんな濫立のなかで「なにを選択するか」ということで、

   現在の自らの興味関心を相対化できたり、一喜一憂のなかにドラマも生まれる(!?)。

   仕事でアサイヤスに会えぬ無念から、日仏へ足が向きづらくなったこともあり、

   運よく武蔵美のイベントに行けるスケジュールになって観られた『収穫』を契機に、

   いまや完全に魅せられ始めている中国インディペンデント映画。

   アゴスティ特集がバウス1だったら、ポレポレ行ってなかったかもしれないし、

   バウス3で好かったのかも。という、セルフ言い聞かせが重要な選択ライフ。

 

   ジャ・ジャンクーが完全に御用監督的地平に佇もうが、

   昨年末公開されたロウ・イエの傑作『スプリング・フィーバー』や

   今年のフィルメックスで上映された『人山人海』といった中国インディペンデント映画は、

   まだまだその活気と芸術性と文学魂を漲らせ続けている。

   そして、

   そうした世界的にも「一目置かれる」普遍性とは趣を異としたローカリズムを併せもつ故、

   作品ごとに独特な魅力を放つのが中国インディペンデント映画祭での上映作品たち。

   芸術を「つくりあげる」よりも、ひとつの真実を「伝える」ことの使命感。

   それはまさに、映画は「語る」よりも「味わう」よりもまず「見る」ものであることを想起さす。

   しかし、「見る」ことの後に込み上げる「味」は、容易く「語る」ことを許さぬ強烈さ。

 

   とりわけ、この『ゴーストタウン』は、レッドブル飲んで臨んだのに(笑)、

   全然ちゃんと語れない・・・。しかし、唯一無二の傑出性が私には確かに刻まれた。

   誰もが納得するような傑作ではないと思うが、誰もがそう観られる情景でないのも確か。

   抒情的にみえながら、どこまでも叙事的であろうとする作風は、

   画家出身だったり、本作を最後に劇映画へ転向したりしたチャオ・ダーヨンらしくもある。

   今年の二大賛否真っ二つ映画であるテレンス・マリックとブリュノ・デュモン。

   そのどちらもで賛に転んでしまった私のような無教養無節操感覚を可愛がれる者ならば、

   本作もきっと観て損はない(?)。

   一瞬の永遠、122分。もう一度観に行きたい。

   15日(木)15:40からの上映を残すのみ。

 

 


占い師(2009/徐童)

2011-12-11 00:00:18 | 2011 中国インディペンデント映画祭

 

中国インディペンデント映画祭2011にて観賞。

評判も上々、前日観た『収穫』との邂逅で期待は高まり、ときめきに時めく一本。

 

   体に障害を持つ厲百程は、体と脳に障害を持つ妻とともに、

   路上で占い師をして生計を立てている。彼の客は主に場末の娼婦たちである。

   厳しい現実の中でも、彼らは笑顔を絶やさず、そして常にしたたかだ。

   中国の底辺に生きる愛すべき人々を見つめる徐童監督が長期取材した、

   厚くて暖かいヒューマン・ドキュメンタリー。(公式サイトより)

 

前日に監督の話をじっくりと聴く好機を得たこともあり、

そんな彼の姿勢を(自分なりに)理解した上で観る2作目。

1作目の原石ラフカットな尖鋭風味は些か影を潜めたかわりに、

個性の奥行をじっくりと醸成させてゆくロードムービー的調べに満ちる。

前作では対象が年少者であったこともあってか、見守るようにカメラは回り、

本作では対象が年長者であることもあり、学ぼうとしているカメラの眼。

しかし、主人公の夫婦は決して教えようなどとせず、ひたすら生きる。

世界と交われば交わるほど孤独を内に秘めてた前作のヒロイン。

ハンデが世界との溝を産み出すなどという幻想を打ち砕く、

直向に世界へ出てゆく老夫婦。「生」そのものの姿。

 

シュー・トン監督は、作品を撮り始めるモチベーションについて、

「テーマから入ってゆくのではなく、常に出会いから始まる」と語ってくれた。

そうした姿勢は、作品のなかで(撮影のなかで)親交を深めてゆくという〈展開〉を生み、

それを観客も追体験する、というより寄り添うように同行する。

まさに、観ている者も「出会い」の現場に居合わせる感覚。

 

例えば、フレデリック・ワイズマンのように「社会」をとらえようとする巨匠は常に、

眼前の固有人物を介しながら、その背後に広がる大きな社会をも見据える意識を忘れない。

ワン・ビンは、大きな社会のなかにある小さな個人の姿に凝縮させた世界を見せる。

そして、シュー・トンは大きな社会が埋め尽くせぬ小さな個人の生命力を活写する。

そのいずれもが、社会と個人の関わりを浮き彫りにさせはするものの、

シュー・トンのそれは社会と個人の「ずれ」に果敢なくも清々しい美しさを滲ませる。

そうした意味では、社会はあくまで遠景でしかないようにすら思える。

 

その潔さはどこから来るのだろう。

悲観を楽観が凌駕してゆく個人の生は、

一日の半分は明るいのだという事実を確かめるかのように逞しい。

 

◆本作の序盤で、本作の主人公である男が妻の行動を諌める際、

   「シュー・トン、君からも説得してくれ」と不意に言う。

   前日に監督が語っていた「カメラはあくまで交流のためのもの」という言葉を想起した。

   撮影は「見られる」ことを助長せず、

   カメラはあくまでシュー監督の「眼」以上でも以下でもない。

 

◆序盤で占い師に相談しに来ていた女性は、改名後に逮捕拘留されてしまう。

   そして、「その後の行方知れず」といった形で作中から姿を消すも・・・

   前日の上映会同様、今日もその彼女は監督と一緒に登壇した。

   本作の次の作品(新作『老唐頭』)では、彼女の父が主人公。

 

◆夫婦のバスの移動中(だったと思う)、妙な(笑)ラップ(?)が流れる。

   「マザーファックは治安アップ マザーファックは成績アップ エディソン・チャンも真っ青さ」

   場内からは全く笑いがこぼれずに、客層の上品さ(?)にやや場違い感(笑)

   久々にあの事件(?)を想い出し、セシリア・チャンが恋しくなった。

 

◆自らの生活も困窮と背中合わせだというのに、

   売り物にされた小鳥や魚を買い取って、解放する場面はあたたかい。

   疎外された者が更なる疎外を生み出すのではなく、共に痛みを分かち合う。

   いや、痛むからこそ癒そうとする。相手のために。自分のために。

   人間中心主義以前の、輪廻転生的世界観の「現実」を垣間見る。

 

◆妻は身体にも精神にも障害をかかえているため、言語による明瞭な意思疎通はない。

   しかしながら、表情の豊かさや身体表現の充実は、観る者をひきつけて止まない。

   そして、彼女が世界との交流によって自らの生を明らかに謳歌している姿は、

   「豊かさ」や「希望」の定義を根底から見直すよう迫られているかのよう。

   監督は語る。「この作品を観て暗い気持にならないで欲しい。

   苦しみは悲しみではない。彼らの生命力を感じ取って欲しい。」

   そのような補足は野暮ですよ。もう十二分にみなぎっていますから、それ。

 

◆作中でシュー監督は、主人公である占い師の男に

   強烈な質問を唐突にストレートにぶつける。ほんの一瞬たじろぎながらも、

   男は半ば感心しながら、親交の深まりを確かめ安堵をにじませながら、

   ゆっくりと回顧の扉を開けにかかっていったのだ。

   感情の襞が、映像として記録された瞬間。

 

◇今回の映画祭で上映された本作は129分。

   夫婦が妻の実家に行く際に袋詰めにされた飼い猫がそれ以降登場しなかったことを

   心配した観客(代表)が監督に、猫の安否を尋ねた一幕で明らかになった157分版の存在。

   猫の姿を再見したいというわけでもないが、157分版も観てみたい。

   いや、おそらく更なる傑作に仕上がっているに違いない。

   出来れば、時折挿まれるテロップも無しで観たい。

   (あれは、日本公開用に追加されたものなのだろうか?

   やや説明過剰な気がしてしまう。余計な「整理」が働いてしまう気もする。)

   [追記]それらはオリジナルにあるもの(中国語)を日本語に置き換えたものだとのこと。

              早合点、反省。そう考えると、ラストでドラマティックな回想シークエンスが

              挿入されて終わる「絵巻」なつくりに納得いくな。蛇足の言い訳(笑)

 

◇それにしても、監督にしろ同行しているタン・シャオイエンさんにしろ、

   本当に善き人間といった空気に包まれている方々だ。

   タンさんなんてケバい見た目と大違い。(話し声も可愛らしく、そのギャップ好い。)

   今日なんて、監督は通訳の方のマイクの位置を何度か気遣って直してあげたり。

   その慎ましやかな佇まいには、かつての日本映画で見られた趣を垣間見るかのよう。

   そして、同じアジアであり、日本文化の「先生」でもあった中国との親近感を、

   大きな物語に搾取された親近感を、東中野や鷹の台で見つけた喜び。

   これこそまさに、「信じよう、映画の力」。

   こうした気骨ある映画の精神を体現できる場がもっと、

   バックアップされることを祈りたいし、信じたい。

   そして何より、目撃したいし、体験したい。

 

◇原題は『算命』(英題:Fortune Teller)。

   「算命」とはまさに「運命を算出する」の意味らしいが、

   「算」には「数の中に入れる/ある対象として加える」とか「~と認める」といった意味もある。

   そう考えると、彼らの「命」は社会にとっては「数のうち」から除外されたも同然ながら、

   シュー監督はじめタン・シャオイエン、そして彼らの生き様を目撃する全ての観客は、

   彼らの命をかけがえのないものとして記憶に刻む。見事に「算命」なのである。

   英題は「占い師」を表す英語であるが、「幸運」を意味する「fortune」は

   「富」「財産」といった意味も持つ。本作におけるリー夫妻はまさに確かに、

   真の豊かさの伝道師。