昨日終了した中国インディペンデント映画祭2011。
当初は数本(最低限『占い師』だけでも)観られれば、というくらいの位置づけだったのに・・・
結局、上映作品10本のうち、7本も観てしまいました。
そもそも、「ロウ・イエが映画ファンに勧める10本」を映画祭のブログ記事で見かけ、
その第4位に(映画祭で最新作『占い師』が上映される)徐童の前作『収穫』がランクイン。
第1位(パナヒの『これは映画ではない』)と第2位(キム・ギドク『アリラン』)は奇しくも
今年のフィルメックスで上映されたばかり(両方観たかったのに観られなかったけど)。
第3位の『鉄西区』(ワン・ビン)は今秋にオーディトリウム渋谷のワン・ビン特集で上映。
(自分はかつてアテネで観て感銘打ちひしがれまくった記憶が未だ鮮明)
そして、なんと第4位の『収穫』(徐童)が武蔵野美術大学で開かれる映画祭関連企画で
上映されるとの朗報(しかも、監督の講演まである)を聞き、仕事も何とか調整つけて、
馳せ参じてしまったら・・・ロウ・イエの言う通り、唯一無二な魅力が醸成された快作ゆえに、
とりあえず中国インディペンデト映画祭2011通いが決定。
そして、東中野に足を運び始めると、あれよあれよといううちにコンプリート未遂(笑)
『花嫁』『恋曲』『書記』という漢字二字タイトルの3作(たまたま共通)が観られなかった。
『書記』は最終日に何としても観たかったのだが、仕事が終わらず間に合わず。
しかし、何とか本作『歓楽のポエム』には滑り込む。
何といっても、私的傑作『ゴーストタウン』のチャオ・ダーヨン監督初劇映画となれば、
これはこれは必見中の必見ですからね。これを逃したらいつ観られるかわからない。
〔あらすじ〕
ニセの職業斡旋所を営むペテン師の男は、都会に出てきた田舎者を騙して金を稼ぐ毎日。
恋人に街を出ようと誘われても相手にせず、床屋で働く若い女にうつつを抜かしている。
男はやがて逮捕され、下品な詩を作る警察官と出会う。
この警察官の趣味は、嫌がる容疑者たちに無理やり下品な詩を読ませることだった。
ドキュメンタリー出身の監督が、欲望渦巻く街・広州を舞台に描いた劇映画第1作。
(公式サイトより)
趙大勇という監督は画家出身だけあって、とにかく一瞬一瞬が絵画的に切り取られている。
しかし、それは、よくある綺麗な画でもなく、よくある精緻な構図でもない。
決して情景を支配しようとはしないし、対象化して加工しようともしない。
何で「埋めるか」よりも、何処を「埋めないか」が重要。
そのあたりの「間(余白)」のとり方(撮り方?)の妙は、日本人にも自然に感得できそう。
ただ単に言語化できない言い訳かもしれないが(笑)
「奥」的な表現にこだわりがありそうなのも、日本人の好みに通じるところかも。
ビルの屋上から「向こう」の方に見える一室での男女の喧嘩。
その更に「向こう」に見えるタワーのネオン。煌びやかに華やかに。
「向こう」に行けば行くほど活力に満ちてゆく。最も手前の男は枯渇。
そんな倒錯を画面は語る。都市という中心の活性化は、個人の空洞化の始まりでもある。
『ゴーストタウン』でも、教会に入りたいのに入れない男の「向こう」に教会を配し、
更にその奥には、その男を捨てた妻が住んでいる山まで見えるという構図。
二重三重に「奥」を重ねるのは画だけではなく、語りにおいても試みられる。
とはいえ、それは常套な入れ子構造とは趣を異とし、流麗さは拒絶される。
劇映画第一作目ということもあるのだろうが、その辺は必ずしも成功しているとは言い難い。
自然な不自然さにハッとさせられる時もあれば、作為がチラつく展開が停滞感を催す場面も。
前半の男女(市井)と、後半の男女(刑務所)。それらが「語り合う」ことが余りないのが残念。
しかし、そうした〈解決〉は周到に避けられているのかもしれず、
類似と対照で読み解こうとする私の安易な姿勢こそが、
記号的に堕した結果かもしぬ。
チャオ監督の二作を観て何より印象的なのは、「光」の存在感だ。
『ゴーストタウン』では、山間部に降り注ぐ慈悲深き陽光が画面に終始横溢してた。
夜の場面では、火の粉があまりにも神々しい炎の灯りに魅せられた。
本作における「火」の佇まいも印象的だ。袋小路で男が手にした煙草の火。
呼吸すら感じられるような火の息吹。観る者の眼も心も吸いつくす。
そして、夜景における灯りの空虚な美しさ。観る者の心には何ら灯さない、街の灯火。
光は必ずしも無垢な希望だけを表出するものではない。
光を知り尽くしたかのようなチャオ監督が撮る、光の闇。
彼は『ゴーストタウン』の舞台となった土地に惹かれる理由を、
「静けさと喧騒を同時に与えてくれるから」と語っている。
そして、「一切があるようで無いような、そんな感覚が私は好き」だと云う。
禅の「無」の境地に通ずる感覚だ。小津の墓碑に刻まれた「無」一文字。
やはり、趙大勇は映画の神様に寵愛される運命かもしれない。(大袈裟御免)
◆自作の詩を朗読させる看守は、
卑猥な内容の詩を読ませることで支配欲を満たしていたのだろうが、
相対的な「快楽」だけを求めたのではあるまい。そこには僅かばかりかもしれぬが、
日常の仕事からは得られぬ創造性(あるいは芸術性)を欲求したからではあるまいか。
前半のペテンな男が屋上で独り京劇の舞踏に興じるのも同様な気がする。
生活から表情(expression)が失われゆくほどに、
昂ずる表現(expression)の欲求。
◆二作を通じて垣間見た監督のお気に入りには、「横移動」。
『ゴーストタウン』では、男が画面の端から端まで歩いていく場面が挿入されたり、
ラストカット手前には、猫が端から端まで歩いていく様が一部始終収められていたりもする。
本作においても、看守がやはり端から端まで歩く場面が挿入されるし、
列車が画面を横切るところまで丁寧に収められている。
手持ちカメラで撮影されているチャオ作品では、視点が常に揺らいでいるはずなのに、
なぜかブレを感じない。むしろ、静謐に沈酔したかのような眼差しで凝視する。
それは、対象の移動を「追う」のではなく、「見守る」からなのかもしれない。
(そんなカメラが、マルチ商法現場に警官突入のシーンでグラっと来るのも印象的)
◆列車は横切るシーンのみではない。監獄では常に列車の音が聞えてくる。
幽閉されたものと、移動をくりかえすもの。屈辱と閉塞を倍加させる響きが痛い。
しかし、本作のラストシーンは駅前広場。そこに溢れ返った人々。混沌無尽な想いの交錯。
「一切があるようで無いような」場所に立ち、希望と絶望でいっぱいだ。
◇本作の邦題は『歓楽のポエム』。
物語は、「歓楽のポエム」→「陥落のポエム」→「監獄のポエム」
→「諂曲のポエム」→「天国(?)のポエム」といった流れを辿ってる。(ポエムは不要?)
◇(本作の内容とは一切関係ないが)
小耳に挟んではいたが、上映中にしばしば会話している観客に遭遇してしまった。
私は少し離れていたし、途中からは耳を塞いだ(?)ので
何とかシャットアウト気分にもなれたものの、近くの人とか迷惑じゃなかったのだろうか。
ひそひそ声じゃなく、思いっきり地声で会話してた分、どうでも好くなれたとか!?
ああいう人達も、映画祭の「仕様」として割り切るべきなのか?
今回の映画祭では、概ね良質な客層が全体を占めている一方で、
上映中終始(思いっきり)咳き込み続ける観客とかにも何度か遭遇した。
騒音とか以前に、密閉空間に長時間いることに抵抗ないとは、どこまで己最優先?
マスクすれば大丈夫って訳でもないでしょ。
映画祭参加する前に『コンテイジョン』観て来いや(笑)
◇今から第4回の開催が待ち遠しいが、
そのまえに第1~3回のベストセレクションでも特集上映してくれないかなぁ。
今回の上映作品でも再見したいもの多いし(『ゴーストタウン』2回目観ちゃったし)、
第1・2回に参加しなかったことを猛省する日々に救済を(笑)
それから、『ゴーストタウン』のロング・ヴァージョン(4時間くらいという噂)も観てみたい。
ドキュメンタリー関連やワン・ビン特集(今度いつあるかわからないけど)なんかに
何とか紛れ込ませたりしてくれないかなぁ。
それが無理でも、次回の映画祭時に(今回のように)DVDが制作販売されることを
楽しみにしながら第4回を心待ちにするとします。
アジア映画は「普通に」好きといった中途半端な映画好きだったけど、
今更ながらTIFFでも「アジアの風」が最重要最高人気だという理由も根拠も痛感しました。
フィルメックスでもコンペまでしっかり観なきゃならないな。(『独身男』も去年見逃してたし)
たっぷり勉強させてもらったと同時に、得難い唯一無二な豊饒感動体験に満ちた映画祭。
極めてインディペンデントな映画を極めてインディペンデントに届ける映画祭。
こういう草の根こそが、文化の底力なんだと再確認。勇気も希望も頂きました。