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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

消えたシモン・ヴェルネール(2010/ファブリス・ゴベール)

2011-06-28 23:13:55 | 2011 フランス映画祭(有楽町)

 

フランス映画祭2011にて観賞。

ファブリス・ゴベールはTV作品でのディレクター経験はあるものの、

映画初監督らしいのだが、音楽をソニック・ユースが(オリジナルで!)担当したり、

撮影がアニエス・ゴダール(クレール・ドゥニ作品で仕事してきた)だったりで、

随分と贅沢なデビュー作。

ちなみに、ヒロイン役のアナ・ジラルドはイポリット・ジラルドの娘だったりもする。

ちなみに、イポリットは役者のみならず(最近では)『ユキとニナ』を諏訪敦彦と共同監督。

アナ・ジラルドは(ゲストにも来ていた)ジュール・ペリシエと次回作(TV)で夫婦役らしい。

そのジェールは随分と日本に興味を示してくれている(ように勝手に)思ったので、

アナ・ジラルドも今度は是非、日本に来てください・・・と言いたくなるほど、

実に魅力的なアナ・ジラルドでした。

 

そう、本作の最大の見どころは、オープニング。

ジェールの家で開かれているパーティーに向かうため、

地味な住宅地の仄かな灯りのなかを颯爽と歩くアリス(アナ・ジラルド)。

Killing Joke の 「Love Like Blood」が80年代から90年代にかけての空気を

一気に呼び覚ます。舞台がパリ郊外だけあって、その「距離」が時間の距離にも

単純な「断絶」だけを感じさせることなく、離れることでうまれる普遍性を見事に演出。

 

4人の登場人物の視点から語られる数日間は、

彼らの物語を拠り合せることにより、徐々に真相が明らかになっていく形式で展開する。

しかし、こうした形式自体に新鮮さはなく、近年使い古された感のある手法でもあるゆえに、

そこには何らかの必然性を求める姿勢が観客には備わってしまうはず。

当然、ミステリーの謎解きのための手段であってはまろどっこいだけ。

語り手の主観がコントラスト鮮やかであったり、

中心の移動に発見があってほしい・・・

が、語りの形式に満足してる印象。

 

フランス版『エレファント』とも評された、といった紹介があるが、

あまりにも露骨に『エレファント』を意識しているような構成(前述の形式等)や

映像(カメラが一緒に歩きながら、前を行く俳優の背中越しに世界を眺めるさま等)なので、

『エレファント』ほどのストイシズムも感じられなければ、登場人物も饒舌ゆえに

じっくりと彼らの現実を観察するような見方が促されることはない。

 

映画を観ながら音楽制作したらしいソニック・ユースの音楽も、

(それを意図したのかもしれないが)非常に印象が薄く、

それこそ冒頭の(ならびに何度か劇中で流れる)Killing Joke の印象の方が

断然強い。しかし、ソニック・ユースのサントラのジャケットは見事な美しさで、

その場面(アリスがサッカー場で佇む)にはハッとさせられる色彩の妙があった。

木々のなか(森?)を歩き、サッカー場にやってきたアリスとシモンの目に飛び込む、

派手なユニフォームのサッカー・プレイヤー。街全体の停滞感と同様に、

服装にも鮮やかな色が見受けづらい分、そのユニフォームの色にどきりとする。

そして、手前のシルエット。向こうの「スポーツ」と不釣合いな短いスカート、長い脚。

もう少し、そのシーンをゆっくりみせるだけの「色気」があっても好かった気がするくらい。

そう、全体的に淡々としていて、抑揚に欠け、編集も極めて淡白で事務的に思えてしまう。

 

で、この高校生連続失踪事件の真相がラストで明らかになるのだが・・・

 

映画の最初のシークエンスにも登場したシーンにつながる。

ジェレミー(ジュール・ペリシエ)がそこですれ違った男、そいつこそがシモンを殺した男。

どうやら知人でも何でもなく、ジェレミーが通り過ぎた後にやってきたシモンに、

煙草を吸うために火を貸してくれるよう頼むのです。そして、着火後に・・・

いわゆる通り魔的な犯行なのでしょう。が、そこから私が勝手に解釈するに、

これはもしかしたら「反喫煙」的メッセージを込めた展開だったりするのでは!?

つまり、スポーツバッグを持ち、フード付トレーナーにジージャンのジェレミーには声をかけず

(吸いそうにないから)、革ジャンのシモンに声をかけ・・・案の定、喫煙者ゆえに火を貸し・・・

それが死への引き金に。つまり、喫煙は死を誘う、と。

なぜ、そんなことをふと思ったかと言うと、フランスは低年齢の喫煙者が多いようで

(喫煙は16歳から認められたと思う)、昨年には「反喫煙広告」が物議を醸していた。

 

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いやぁ、さすがに凄い広告だわ・・・。

でも、おぞましさや下品さがありながらも、どこか文芸の香りが・・・さすが御フランス(笑)

 

 

さてさて。会場にゲストとして登場したジェレミー役のジェール・ペリシエは、

驚くほど「好青年」で、まだ21歳だというのに非常に謙虚であり、

フランス人だというのに(失礼)たびたび日本に敬意を評したり

日本と親睦を深めたい旨のコメントを繰り返したりで、めちゃくちゃ好印象。

それは、「日本語を喋れたら好いのになぁ」といった発言をリップサービスではなく、

しみじみ語ってくれたりする(これもサービスの一環?)誠実さにも拠るし、

昨年のアンヌ・コンシニよろしく、質問者に自らマイクを渡しに行ったりもした。

本作がまだ出演2本目らしいのだが、1本目にあたる『バス・パラディウム』は

昨年のフランス映画祭で上映され、実は私も観賞済だった。

全然彼のことは憶えてないが・・・

ちなみに、エージェントはロマン・デュリスと同じらしいので、今後の仕事にも期待。

 

ただ、彼に申し訳ないというか不憫だったのが、会場の微妙な空気。

それは。おそらく作品に対する観客の素直な感想の表れかもしれないが、

上映終了後まったく拍手がなかったのだ。ゲスト登壇のない場合でも、

どんなに疎らであれ、映画祭において拍手は起こるものなのに、

(この時期に貴重な)ゲスト登壇があるにもかかわらず、

全くといって好いほど拍手の聞こえない会場の冷え込み具合が、

あれほど感じの好いジュールが登場してもなかなか払拭されずに、

質問もなかなか出ず(しかし、質問者はそんな中でも優しく丁度好い質問をしてくれていた)

そうした「もったいなさ」というか「気まずさ」を終始感じながら、「心配」が絶えなかった。

しかし、最後には皆の義理もプラスされたかのような強めの拍手を受けて、

名残惜しそうに舞台袖へ入っていくジュールを見て、些か安心。

 

ちなみに、本作の次に上映された『マムート』を観に戻った際、

サイン会も終った後だったろうに(予定ではかなり前に終っているっぽかった)、

ロビーでも快くサインに応じているジュールの姿を見かけた。

やっぱりこんな時期にもかかわらず来日を英断してくれるフランス人は好いひとばかりだ!

って、そういう短絡的な発想もバカだし、やや卑屈かもしれないけれど、

情けは人のためならず。きっと、彼らに恩返しできる機会も巡ってくるだろう。

 

 


ハートブレイカー(2010/パスカル・ショメイユ)

2011-06-27 21:08:12 | 2011 フランス映画祭(有楽町)

 

公開されても観に行くか微妙な本作を、なぜわざわざ映画祭観賞したかと云えば、

その日のレイトで『美しき棘』を観る予定だったから、それだけという・・・。

まぁ、観てる間は十分楽しめたから好いけど、今年のラインナップ(というか、

今後のフランス映画祭?)の迷走序曲を確かに感じさせる契機でもあった。

 

ここ数年のフランス映画祭でも、配給が決定している作品の上映が増える傾向があり、

TIFFの特別招待作品かのように、事実上「先行有料試写会」状態に近づきつつあった。

それでも、昨年ではブリュノ・デュモンや(関連企画ではあるが)アラン・レネの新作が観られ

(後者は劇場公開が決まったらしいが)、映画祭本来の「商業ベースにのりにくい作品」の

紹介が念頭におかれていただろうし、有楽町朝日ホールへの会場移動に伴って

その傾向がより強まるのかと思っていたら、実際のラインナップは・・・

 

今年のイタリア映画祭ではゲスト・ゼロであり、事情を鑑みれば仕方がないとも思うが、

ラインナップもやや大衆性重視の傾向にシフトした印象をもったので、些か寂しかった。

フランス映画祭では、ゲストの登壇やサイン会といった、横浜開催時からの目玉企画を

つぶすまいと、ゲストの来日を優先させた作品選定が行われたのではなどと邪推してしまう。

それ以外では、配給決定済作品のプロモーションと、ごく一部が劇場公開への試金石として。

勿論、イオセリアーニの素晴らしい作品と本人によるステージを観られたことは至福だが、

客寄せ話題づくりのリュック・ベッソンは別として、とにかく花も実もない印象が否めない

今年のフランス映画祭であったのは確か。(プログラムすら作ってなかったからね)

 

これは、震災時に「日本からの避難に最も積極的だった国」フランスといった事情も

影響しているのだろうか。だとすれば、そんな中、来日を果たしてくれたゲスト陣には

敬意を表したいものの、これを機に映画祭が尻すぼみになることを危惧してしまうのも事実。

 

と、そんな不安が一気に噴出したのも、本作を観賞したという事実が大きく影響。

作品自体にケチをつける気もないし、それなりに笑ってそれなりにホロっと来もしたし、

そこそこウェルメイドな(というか、一生懸命つくってる)印象は受け取ったものの、

なぜ「映画祭の一本」として選び、貴重な上映機会を1回占有せねばならぬのか・・・

劇場公開だって決まっているというし、ヴァネッサが(ロマンでも)来るわけじゃないのに。

とまあ、作品内容以外のところで不満とかが蠢いてしまったものだから、

ついつい愚痴っぽくなってしまったが、作品自体は「普通に」楽しめた。

 

それにしても、カルチャー・ネタが揃いも揃って英語圏ものっていうのも市場原理!?

ジョージ・マイケル好き(と言いながら流れるのはワム!だけど)で

『ダーティ・ダンシング』がフェヴァリット・ムービーのヒロイン(ヴァネッサ・パラディ)。

(ホテルで観たDVDがフランス語吹替で、ヨーロッパ吹替優勢説を再確認したりして)

1972年生まれのヴァネッサに、この役はちょっと・・・いくら童顔とはいえ・・・

と、思いつつも魅力的に撮れてたけどね。ちなみに、ロマン・デュリスは実際2歳年下。

やや設定が重なる『ジュリエットからの手紙』の新鮮な主演二人に比べると、随分と大人な

というか少しばかり年季入りすぎの感もあり、その辺を作中に活かす気がないから残念。

アレックス(ロマン・デュリス)は仕事が仕事(別れさせ屋)だから、本気の恋やましてや結婚は

縁遠いものというのは前提なのかもしれないけれど、時折感じる虚しさや葛藤なんかが

もう少し描かれていれば、「本気」の昂揚や「運命」の啓示を観客も共に体験できたのに。

 

それに、ジュリエットが抱えていた心の傷にしても、いまいち想像し難いというか、

「え?それだけ?」みたく拍子抜けする「お金持ちの趣味的お悩み内容」に思えてしまい・・・

おまけに、仕事人としてのアレックスの有能さや努力は具に描かれているのに、

個人としてのアレックスの背景やらヴィジョンなんかは見事にブラインドで、

観客の想像力に委ねすぎな分、感情移入できねばアウトな予感。

 

しかし、この監督は本作が長編映画初監督ながら、

リュック・ベッソン作品では助監経験を重ねてきたり、

テレビの仕事もそこそこやってきたみたいで、ツボは外さない。

しかし、そのあたりが「ヨーロッパ・コープ」の埋もれる系というか記憶残らぬ系みたいに、

娯楽以上でも以下でもない作品で終ってしまっており、主演二人の味わいを考えると残念。

 

それにやっぱり、男としてはアレックスを応援したい一方で、

ジュリエットのフィアンセが(何も悪いことしてないのに)余りにも悲惨な役回りに思え、

その辺も脚本にもう一工夫あってもよかったんじゃないのかな。

この際、「仕事人間」とかのエクスキューズでも好いからさ。

ちなみに、フィアンセ役のアンドリュー・リンカーンは『ラブ・アクチュアリー』で

キーラ・ナイトレイに叶わぬ恋心を抱くフィアンセの友人役を好演していた俳優だけに、

余計同情してしまったりしたのかもしれないけれど。

ちなみに、彼は昨年賞レースでちょっとばかし話題になった『Made in Dagenham』にも

出演しているようだが、基本的にはテレビへの出演が主のようだ。

 

それにしても、ここまでハリウッドメイドなラブコメをフランス映画で見せられて、

おまけにフランス映画祭で見せられると、何となく深刻にとらえてしまうんだよな。

イタリア映画祭での『最後のキス』『もう一度キスを』なんてまだイタリアっぽさが

とっつき難さを醸し出していたけれど、それはそれで健全だったのかなぁ、なんて今更痛感。

 

 

 


マムート(2009/ブノワ・ドゥレピーヌ、ギュスタヴ・ケルヴェン)

2011-06-26 22:24:54 | 2011 フランス映画祭(有楽町)

 

フランス映画祭2011にて観賞。

2010年のベルリン国際映画祭コンペに選ばれた本作。

観始めてしばらく、「なぜこれでドパルデューが男優賞じゃなかったんだ・・・」と思うほど

ドハマリなキャスティング&演技(?)だったが、後半やや失速の印象だったので、

それが一因だったりするのかも。ちなみに、その時の男優賞はロシア映画の

「HOW I ENDED THIS SUMMER」(『夏の終止符』との邦題で

8月開催の三大映画祭週間2011にて上映予定)。

女優賞は『キャタピラー』の寺島しのぶ、だった。

しかし、本作のヨランダ・モローも最高。

 

実は、そのベルリン2011コンペ作品には、今年公開のものが結構あって、

公開済では、『再会の食卓』(ワン・チュアンアン)、『光のほうへ』(トマス・ヴィンターベア)、

『キラー・インサイド・ミー』(マイケル・ウィンターボトム)といったあたりで、

これから公開予定のものでも『蜂蜜』(セミフ・カプランオール)や

『ゴースト・ライター』(ロマン・ポラスキー)がある。

他にも、チャン・イーモウ監督作やジェームズ・フランコがアレン・ギンズバーグを演じた

HOWL』なんかは日本公開あってもよさそうなものの、このまま未公開なのだろうか。

ちなみに、審査員賞を受賞した『If I Want To Whistle, I Whistle』は輸入DVDで観賞したが、

なかなかの佳作で、絶好調なルーマニア映画界を証明する一本だった。

 

本作のタイトルは「Mammuth」となっており、これはセルジュ(ジェラール・ドパルデュー)が

年金受給のために過去の就業記録を入手しに旅に出る際、引っ張り出したバイクの車種。

しかし、そのスペルは「Mammut」のようだから、なんで「h」がついてるのかと思ったら、

コンペ出品時の記事を見ていると「マンモス」ってタイトルが訳されており、それじゃ・・・

と思ったら、フランス語でマンモスは「mammouth」だった。って、ことはミックスか!?

ま、そんなタイトルにもこだわる監督らしく、とにかく独特な空気が漂う作品。

 

序盤からユニークな空気に包まれ、ドパルデュー&モローの夫婦のキャラが実に個性的。

といっても、奇抜というわけではなく、「彼」「彼女」でしかありえない味わいが滲み出て、

極上のドキュメンタリーを観るかのごとき痛快さ。序盤はとにかく滑稽で快調に飛ばしまくる。

ドパルデューの巨漢ぶりは遺憾なく発揮され、退職後初日に妻が働くスーパーに行くと

肉屋のバイトに「なかなか上質な肉を扱ってるじゃないか」と話しかけ、肉について語り出す。

(彼は精肉工場で働いていたから。) しかし店員は、「そんなん知らねぇーよ」と言い放ち、

「自分の仕事にプライドを持っていないのか!?」と問いかけるセルジュ。

もう、そこからは「うるせー、デブ」などと店員が喧嘩を売り、「妻がいなければ、俺もキレる」

とセルジュが言えば、「こんなブサイクに女房がいるのかよ、マジウケる」と言い返され・・・

カウンターの端から端まで口げんかの応酬が続き・・・(それも淡々とだから余計面白い)

ジェラールが『レスラー』のミッキー・ロークに見えてきて、「そういえば、あのミッキーも

肉屋でバイトしてたっけ・・・その時も客にキレてたなぁ」なんて色んな記憶がミキシング。

 

とにかく、ユーモアが静かに淡々とつまっており、どこかカウリスマキ的な感触も。

最初の30分くらいは本当に愛おしくてたまらない作品だったものの、

旅が後半にさしかかると、何となく迷走し始めた印象で、映画のリズムも停滞気味。

 

かつての恋人を事故で亡くしたセルジュだが、その恋人(イザベル・アジャーニ)が

時折(顔に傷を負った姿で)登場するのだが、そうした記憶や中途半端なファミリーの話

(セルジュの兄の家を訪れ、その娘や従兄弟などと交流したりする)が物語に有機的に

絡ませられていないような気がした。セルジュが寝ている間に盗みを働く女性にしても、

妻(ヨランダ・モロー)の見せ場づくりのために投入しただけのような印象になってしまったし。

(ただ、「色仕掛け」ではなく、「脚が不自由でいまだ手術を繰り返す女」として近づくあたり

セルジュのキャラクターを活かしつつ、夫婦の絆には亀裂を入れない粋な配慮ではあるが)

 

映画のラストで、セルジュはバカロレアを受験する。

その「哲学」の試験で、彼は自らの人生から得た教訓を答案に書き上げてゆく。

「いいこと」を書いてる(ナレーションで語られる)ものの、全て言語化してしまっては、

折角の映像表現が等閑にされてしまった気もしてしまい、

それまで寡黙ながらも画で語ろうとしてきた本作が

最後で急に「しゃべりすぎた」感じが否めない。

 

とはいえ、「愛すべき」要素に満ち溢れた本作。

うまくいけば「さりげなく劇場公開」とかも可能性ありそうな気がします。

 

余談だが、「字幕」がとにかく酷かった。

翻訳というよりも、凄まじく読めない(白バックに白文字の比率が高すぎる)苦痛のみならず、

誤字が多すぎる。俺が気づいただけでも3箇所はあった。

観賞後、それを指摘する声も聞こえたし。

ま、観ている間はそれも「ご愛嬌」って思える大らかさが映画には漂っていたけどね。

 

 


Chantrapas(2010/オタール・イオセリアーニ)

2011-06-25 23:03:20 | 2011 フランス映画祭(有楽町)

 

フランス映画祭2011にて観賞。

本作は来年2月に岩波ホールでの公開を予定している作品ではあるが、

イオセリアーニ監督が来日とあらば、行かないわけにはなるまい。

 

私がイオセリアーニ作品を初めて観たのは、

シネセゾン渋谷のレイトで観た『素敵な歌と舟はゆく』。

この手の映画もようやく楽しめるようになった頃で、そんなこともあってか

とにかく法外な面白さに興奮して帰宅後全く寝付けなかった記憶がある。

それから数年後に、「イオセリアーニに乾杯!」と題した特集上映が催されていて、

下高井戸シネマに巡回してきた際、何本かまとめて観たりもした。

ただ、全作観る予定で通い始め、数本目を観てイオセリアーニに完全酩酊し始めた矢先、

衝撃的な悲劇が身近で起こり、しばらく映画観賞どころでなくなってしまったのも、

今となれば懐かしく思えると同時に、だからこそ余計「オタール・イオセリアーニ」は

私の中で極めて〈運命的〉に思える作家であり続けもしてきたのです。

 

そして、今回のフランス映画祭で遂に初対面(といっても、遠くから眺めるだけですが)となり、

それはもう楽しみかつ神妙な気持ちで有楽町へと赴きました。

それしても有楽町朝日ホールでは、昨年からベロッキオ、キアロスタミ、そしてイオセリアーニ

といった巨匠(しかも、滅多にお目にかかれそうな)たちを直に観られるという極上の「ライブ」

を提供し続けており、「映画が観づらい」等の不満をもっていた以前から、今や「聖地」の如く

その位置づけが変わりつつある場所となりました。

 

本作は、監督自身の半自伝的映画ということで、

主人公の映画監督ニコラが、旧ソ連体制下(のグルジア)の思想統制や検閲から逃れ

フランスへ行くも、そこでもプロデューサーによる「検閲」に自由な創作は阻まれ・・・

といった内容。

 

今まで、昼間からイオセリアーニを観たことがなかったので

(恵比寿では夜の回、他は全部レイト)、真昼間からイオセリアーニを観るのが少し違和感。

というか、睡魔襲来最盛期の14時半上映開始とか勘弁・・・

しかも、仕事早退して駆けつけた身には少し辛く・・・

と思いつつも、場面場面のもつエネルギーが半端なく、

光の具合から構図から、ワンショットワンショットがとにかく精緻。

イオセリアーニは撮影に入る前に、ストーリーボードをばっちり用意して、

明確なビジョンの元に、あらゆるものを自らの世界観に適うように構築していくらしい。

(本人曰く「そうすれば、呑みながらでもつくれるから」らしい(笑))

なるほど。そうして考えぬかれた構想がちりばめられた作品を読み解くには、

一回観たくらいでは太刀打ちできません。あぁ、もう今すぐにでも、もう一度観たい。

 

そう思わせるのは、上映後のトークショーがあまりにも凄まじく、素晴らしかったから。

あまりの感動に、次の作品のチケットも持っていたのに、そのまま帰ってしまったくらい。

その佇まい、語り口、表情、言葉選び、間合い、そして語りかけるメッセージの内容が、

会場をみるみるうちに包み込み、初めて味わうほど神妙ながら優しい空気がホールを蔽う。

最初に監督の口から語られた「メッセージ」は、会場にいる観客一人残らず心の奥底にまで

響き渡ったのではないだろうか。いや、一人だけ響いていなかったっぽいけどね・・・

あんだけ恐ろしく張り詰めた静寂のなか、シャッターを押せる人間が一人いたからね(笑)

ま、いろんな人がいて「世界」ですからね。

でも、ああいう状況で毎回思うのだけれど、今目の前に実物がいて、

今この耳でその人の話が聴けるという又とない機会に恵まれながら、

デジカメやらケータイやらで写真撮ることにばかり執心してる人たちって

なんか寂しいと思ってしまうのは俺だけだろうか。自分のカメラで撮る意味って何なんだろう。

だって、そんなことに気をとられているうちに、一挙手一投足を自らの記憶に焼き付けられる

極めて貴重な体験を放棄しているようにしか思えないから。ま、人それぞれなんだろうけど。

ただ、人間が益々「自分」よりも「機械」を信用していくようになる過程のように思えて、

いつも寂しい気持ちになる光景なんだよな。

(折角のイオセリアーニの含蓄豊饒な数十分を語ろうとするまえに、

  余計な愚痴を書きなぐってしまった・・・。)

 

イオセリアーニは話の冒頭で、民族という「文化」に対して敬意を表しつつ、警鐘も唱えた。

つまり、それは日本のかつて侵略したという事実がありながらも、

一方で世界から美を見出されうる民族の徳を備えもしているということ。

そして、あらゆる革命を信じないと断言するとともに、

弾圧や迫害といった人類の歴史を記憶に留め続けることの必要性を説いた。

 

一方で、彼はグルジアの民族性の愛すべき美徳について具に語ってくれた。

グルジアの男は皆、「自分がプリンスであり、大バカ者であることを知っている」のだそうだ。

だから、平気で愚かな(人から笑われるような)ことをしてしまうのだ。

といって、彼はグルジア語の歌をうたいはじめ・・・陽気さが会場に広がった。

 

長い間抑圧され続けたことから生まれた、「守る」ための愛情かもしれぬが、

それは一方で、抑圧に対抗し、その結果として個体性が維持されるために必要な強さ

としての愛情なのかもしれない。しかし、それがエスカレートし、排斥の力へと向かう危険性も

抑圧され続けた立場なればこそ忘れはしない。

本作のなかでも、二つの国で映画制作の困難にぶつかる主人公ニコラ。

彼の眼を通して描かれるグルジアとフランスは、実にフラットに捉えられ、

個性に不寛容で、一様な規準が個人におしよせてくる社会の不文律は、

どちらにも「近代の悲劇」として共通する管理志向や生産主義を想起させる。

だからこそ、イオセリアーニは「不服従でいてください」と日本人にも訴える。

「島国だからこそ、さまざまな戦禍や不幸から切り離され、だからこそ見えるものもあるはず」

といった積極的な解釈まで講釈してくれた。確かに、だからこそ熟成された文化が

かつてはあったはずなのだ。島国根性だけは温存し、文化は無暗に開放状態。

あたりまえのようにある(あった)「民族」も、自覚せねば費えてしまうのが、国際化。

異物の排除によって維持しようとする癖はあるけれど、そもそも自分たち(民族)とは

どのような姿をしているものか、それを常に見つめなおす眼がもっと必要かもしれない。

 

本作のタイトルは、「やくたたず」のような意味を表して用いられる言葉らしい。

かつて、サンクトペテルブルクに(オペラ(?)を教えに)やってきたイタリア人たちが

知っていたたった二つのフランス語。

それが「彼は歌い手になるでしょう」と「彼は歌い手にならないでしょう」。

そして、その後者が「chantrapas」というわけ。

 

イオセリアーニはchantrapasなことが、chantrapasな人が、愛しいと語っていた。

ベルルスコーニもサルコジも、chantrapasとは言えない。

ドミニク・ストロスカーンはちょっとchantrapasで、ちょっと粋(?)だったかも。

といったユーモアも。

(ちなみに、邦題は「やくたたず」をあらわす日本語なら何でも好いよ!

 とイオセリアーニは言っておりました。ので!くれぐれも妙なタイトルは勘弁してください・・・

 まぁ、ビターズ・エンドだから信用してますが。[※])

 

そんな意味解説をいろいろと聴くと、それを踏まえて又本作が観たくなる。

 

本作の冒頭で、ニコラが撮った映画の一場面が流される。

さまざまな花々が押しつぶされ、アスファルトへと地面が変わりゆく映像。

それをプロデューサーは、検閲で引っかかるからカットしろという。

フランスでは、いくつもの(しかも様々な民族の)「はりつけにされたキリスト」を撮影しようとし、

「何を描きたいのか説明しなければ撮らせない」とプロデューサーに咎められる。

多様性の否定を批判することが許されぬ国を後にしたにも関わらず、

様々な犠牲者をうみだし続けている世界の現実に気づけぬ先進国、かつての芸術の都。

ニコラの胸にたびたび去来する、子供の頃の思い出。

貨物列車につかまって移動しては、撮りたいものを撮り続けていた、

信頼できる仲間との日々。そこにこそ感じられる、原風景、原体験。

 

「なぜ、ぼくの映画を他人がいじくるのだ」

(これは、「ぼくの映画=自分たち民族の物語」としてとらえるならば、

それを他の民族〈強者〉によって書き換えられてきた人類の歴史とも重なる。)

 

〔以下、物語の結末に触れます〕

 

ニコラは二度ほど、川で人魚を目撃する。

そして二度目(それは映画のラストシーン)、彼は人魚と共に水底へと泳いで行き、

桟橋には彼の靴だけが残され、それを祖父が見つめるシーンで映画は幕を閉じる。

さまざまな解釈が可能だろうが、私は人魚とは〈想像(の自由)〉の象徴であり、

人間中心主義からの脱却(人と魚の融合?)の示唆であり(ニコラは動物園で働いてた!?)、

現実逃避(しかし、イオセリアーニは現実を打倒する革命の悲劇性を認識した上でのことで、

決してただ嫌なことから目を背けるという意味ではなく、「非暴力的」解決手段としての逃避)

による創造性の固持を示しているのでは、などと考えてみたくなる。

 

ニコラは終始、言葉で多くを語ろうとしない。

それは「言葉」があくまで外部への働きかけや、外部との開通、外部の支配のために

用いられがちなことへの自覚があり、そうではない解決を望んでいるからかもしれない。

いや、そもそも「解決」を志向することの危うさに気づいているがゆえ、沈黙にとどまり、

言葉で説得したり議論したりするのとは別次元の世界を提示しようとすることこそが

「映画」であるという無言の表明なのかもしれない。

 

 

※(追記)邦題は『汽車はふたたび故郷へ』に決まったようです・・・