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Living Is Difficult with Eyes Opened

MISS BALA/銃弾(2011/ヘラルド・ナランホ)

2011-09-21 21:47:58 | 2011 ラテンビート映画祭

 

何がそんなに寂しかったのか(笑)、

昨年は15本も観賞していた(観賞記録で振り返るまで自覚なし・・・)ラテンビート映画祭。

今年は半減の7本のみを厳選(?)して観賞した5日間。

さすがに5日間も連続で新宿に出向き(新宿自体はさほど億劫ではないが)、

バルト9まで登頂を幾度も試みねばならぬのは、多少の精神的負担は強いられるも、

(いろいろと個人的に問題を感じるところがあるとはいえ)ラインナップの充実度は

かなり屈指と思える映画イベントゆえに、なんとか頑張った(笑)

まぁ、でも、東京国際映画祭の六本木通いに比べりゃ、可愛いもんだよなぁ。

六本木って場所柄だけでも(ただブラブラするだけなら好いんだけど、

あの地で「映画を観る」のはやはりあまり好きになれない)憂鬱なのに、

大江戸線が深すぎてブルーな日々よ。(そこかい・・・)

でもでも、昨年やっと代々木乗換が新宿乗換の数倍快適だということを発見したから、

ちょっとは気楽になれるかな。でも、昨年から開催時期が一週遅くなって、

仕事の関係上あまり好き放題に観られなくなったのが痛いんだけど。

おまけに、同時期にはシネマヴェーラでアサイヤスやオゾン、デプレシャンの特集あったり、

TIFFが終るかと思えば「フレデリック・ワイズマンのすべて」とか始まっちゃうし・・・

勿論、11月にはフィルメックスとかも控えているわけで、スケジューリングもチケット確保も

激闘繰り広げ、観賞だって「まったり」とは無縁な日々に突入するわけで、楽しいけど寂しい、

自己矛盾と闘う、映画の秋。

 

ちなみに、ワイズマンの最新作(『Crazy Horse』)はTIFFのWORLD CINEMAで上映決定。

こちらにもおそらく本人が登壇されるとは思われるが、

ユーロスペースの特集上映でも一作前の『ボクシング・ジム』上映時に舞台挨拶がある。

実はひそかに(でもない?)チケットが既に発売されていたりするという。

TIFFのスケジュール待たずにフライング・ゲットしてしまった私。

 

さてさて、そんな映画祭シーズンの口火を切るかのように始まるのがラテンビート映画祭。

ちなみに、日仏学院では「第15回カイエ・デュ・シネマ週間」が開催されており、

そちらも興味深いラインナップ。10月の初旬にも映画祭が複数同時開催されたりするし、

関係各位への「恨めしい」想いが交錯しまくる日々到来。今日は『サタンタンゴ』だったし。

勿論、行けなかったけどね。平日に設定するとか、「社会人お断り」みたいで悲しかったよ・・・

そうした多くの勤め人シネフィルの涙が結集し、東京にも嵐が見舞ったとか!?(笑)

 

今年のラテンビートで上映される作品は14本。

既に配給が決まっているのは2本のみ。(『BLACK BREAD』と『THE SKIN I LIVE IN』)

アサイヤスの『カルロス』は、日仏で今秋開催予定の「テロリスト特集」で上映されるみたい。

そして、そんな中で私が観たのは、既に感想を書き上げた

雨さえも~ボリビアの熱い一日』、『THE SKIN I LIVE IN』、『プールサイド』の他に、

『THE LAST CIRCUS』、『カルロス』、『MISS BALA/銃弾』、『うるう年の秘め事』の7本。

さすがに厳選しただけあって、どれもが皆なかなかの充実作で、

それゆえ濃密な観賞体験を味わえた5日間となった。

 

できれば、全作の感想を記しておきたいが、記憶と体力がもつかどうか(笑)

今日は、最終日に観た一本。

 

 

MISS BALA/銃弾(2011/ヘラルド・ナランホ)

 

主演女優のステファニ・シグマンとプロデューサーのパブロ・クルスが来日。

18時半からの上映にかけつけた二人は、14時半に成田についたとか・・・

(おまけに5時間のみの滞在だとか・・・言っていた気がする)

そうした意気込みの所以も納得の力作だった。

 

ミスコン優勝を夢見る23歳の女性が麻薬密売組織との取引を強いられて、

助けを求めようにも隅から隅まで腐りきってるメキシコ社会の現状に、完全四面楚歌状態。

プロデューサーは何度も「これが現実」と強調していたが、

だからこそ「わかりきったことを糾弾する」ようなまどろっこしい手続きすっ飛ばし、

凄惨さが淡々と収められてゆくフィルム。

 

トレーラーから受ける印象とは異なり、スリルやサスペンスを「味わえる」ような演出回避。

あくまで「現実である」ことを見せるために無暗にエキサイトしたりしない作劇が続く。

しかし、それは時間を追うごとに、観る者を物語の内側に立たせることに成功する。

上映の前にも後にもプロデューサーの口から語られた、

「この映画で描かれることはあくまで現実だ」という表明と共に届けられた本作は、

ゲームやドラマとして機能するサバイバルとは別次元の、

全身にまとわりついてきては、まみれるしかない日常の苛烈さを「知ってほしい」

という切実かつ誠実な思いが感じられた。

「理解してほしい」となると、そこには脚色や演出が時に現実の核心を覆ってしまい、

それこそ凄惨な現実までが「ウェルメイド」されてしまいもする。

しかし、本作における剥き出しの物語は、喜怒哀楽が入り込む隙すら用意しない。

自らの運命の舵取りすら不能となった「委ねる」だけのヒロインは、

次第に言葉も表情も失って、もはや苦しみを感じる神経すら麻痺させられたかのよう。

 

冒頭の銃撃と、中盤のそれ。そしてクライマックスにおける銃撃。

そのどれもが微妙に異なり、それはヒロインにとっての「リアリティ」の違いなのかもしれない。

冒頭では、外部からの眼としてとらえたフィルター越しの向こうで展開する銃撃。

しかし、中盤でそうしたメカニズムに組み込まれ始めると、音も恐怖も「身」に迫る。

そうした彼女の体感が容赦なく銀幕から突き出てきては、観客を大いに震撼させる。

ところがもはや諦念するしかなくなったとき、恐怖にまみれながらも

淡々と受け容れるしかない銃撃がそこにはあった。

正義も悪もなく、欲望だけで動き続ける群集は、

欲望のマスゲームに従うだけ。

そして、そうした戯れから逸れても、

そこに「解放」や「自由」があるわけではない。

しかし、それはヒロインのみならず、すべての人間を巻き込んだ、

巨悪な機構と化している。すべてが腐っているとはきっと、全員共犯全員ギルティ。

ただ、そうした現実は程度の差こそあれ、機構に組み込まれた人間の宿命である気もする。

だからこそ、明らかに異世界に映る社会の物語の内側に、日本の観客も立てるのだろう。

そして、そうした「体験」を強いるだけの力が作品に漲っているのも事実だろう。

 

 

◇本作はなんと、フィルム上映だったのだ!私が観た7本では唯一のフィルム上映。

   本映画祭観賞で初めて目の当たりにする、スクリーンがシネスコへと広がる光景。

   おまけに、日本語字幕付きのプリントのように見えた(字幕投影ではなく)のは気のせい?

   もしかして、日本公開が決まってるのかなぁ、とか思ってしまったが。

   是非、『Animal Kingdom』とセットで(?)公開をお願いしたいところ。

 

◇『MISS BALA』というタイトルは、

    「BALAは弾丸だが、MISS BAJA ( CALIFORNIA )との言葉遊びとなっている」。

   というのは、柳原先生のブログからのパクりだが、その記事の締めくくりにある

   「女優とプロデューサーとの質疑応答の時間には、質問というよりは感心した、

    そのことを伝えたい、とのコメントが相次いだ。その気持ちはわかる。

    それだけテーマの面でも作りの面でも優れた映画だったということだろう……

    でもなあ、せっかく来ているのだから、ゲストたちの話を聞こうよ、と思ったのであった。」

   という部分には本当同感で、ゲストたちの「伝えたい」という姿勢が痛いほど伝わる故に、

   劇場での貴重な時間や長時間のフライトまでもが空費されたかのような寂しさは感じた。

   更に、本当最近よく見かけるのだが、ゲストが登壇しているときに、時折(人によっては

   終始)スマフォをいじり続けている連中は何なんだ!?憤怒というより、ゾッとする。

   当然マナー違反のなにものでもないが、それ以前にそうした行為(日常に繋がれたい)が

   映画を観るという行為の対極にあり、観照、思索、述懐、咀嚼を無にし妨げるだけなのに。

   ケータイ文明の病魔は凄まじい勢いで、「拡散」し続けているのだろう・・・

   (ある意味、痛みが感じられる銃弾よりも恐ろしい、「目に見えぬ恐怖」の一種だよ。)

 

 


プールサイド(2011/マルコ・ベルヘール)

2011-09-19 15:16:19 | 2011 ラテンビート映画祭

 

第8回ラテンビート映画祭にて観賞。

今年のLBFF上映作品で最も短い87分の上映時間。

いや、けっしてそんな理由で選んだわけではありませんからね・・・たぶん。

 

映画祭で観る作品の選択って、基本的には個人的趣味が最優先されるけど、

そこにはスケジュールの都合とか、前評判とか、いろいろな要素が入り乱れ、

観たい作品が観られなかったり、「ついで」で観た作品が望外にハマったり。

 

本作は「2011年ベルリン国際映画祭テディ賞」受賞らしく、

権威に弱い私としては、そうした多少なりとも「お墨付き」のある作品に食指が反応。

ただ、ずっと仄かに疑問だったんだけど、「テディ賞」ってベルリン出品作のなかで

同性愛がテーマの作品群から選出される賞らしいから、もし対象作品が1作とかでも

送られたりするのかなぁ・・・などという素朴な疑問。というか、毎年全体で何本くらいの

対象になる作品があるのかなぁ・・・とか。例えば、日本でそういった「賞」があったとして、

対象となる作品ってどのくらいあるのかなぁ、などと考えてみたりすると、

そもそも「土壌」が違うんだろうね。海外の映画賞とかみてると、同性愛関連は勿論、

黒人系の賞やらフェミニズム関連の賞なんかもあるし、私の知らないところでもきっと

さまざまなコミュニティが独自の基準、独自の感性で評価を試みたりしてるんだろうな。

そういうところに垣間見られる風俗や文化的背景っていうのは、なかなか興味深い。

島国で「他者」に疎い日本とは、随分と異なる風土なんだろうと改めて思ってみたり。

 

さて、公式サイトやチラシで見かける本作のキーヴィジュアルでは、

邦題(プールサイド)の通り、水も滴るボーイズ・ラブが展開されそうな気配が漂いながら、

そうした予想は冒頭から見事に裏切られる。耽美に微塵も執着しない、

現実の「どぎつさ」を静かに凝視する覚悟がみなぎる。

 

主演の二人は至って「どこにでもいる」生徒と教師。

冒頭で執拗にクローズアップされる生徒の身体部位には、

演出を排した生々しい体毛。一方教師の額は禿げ上がり始めてる。

愛嬌はあっても二枚目などではない二人のキャスティング。

だからこそ観客に生まれる加点方式な視線。 

 

映画は高校教師セバスティアンと男子生徒マルティンのあいだに流れる空気の「匂い」を

じっくりとサスペンスフルに観察してゆく。背後には過剰なまでの演出スコアが絶え間なく。

それを「あざとい」「下品」とみるか、「興味深い」とみるかでも、本作への反応は分かれそう。

私は、独特な不穏を堪能し、「答え合わせ」を期待する悪い癖に沈黙の笑みを浮かべられ、

感慨の行き場を失うも、こうして述懐してみると、どこか普遍を感じる物語に思えもしてくる。

 

というのも、そもそも「こころ」など不可解極まりないもので、

それを最も把握できない者こそ、その持ち主たる「自分」であったりする矛盾。

「所有」するとは、常に「対象化」できる安堵や余裕を伴う特権であるはずなのに、

自己に関してはむしろ逆。所有してるのに対象化できぬジレンマこそが、

焦りや不安を煽りに煽り、了解の捏造や理解の忌避すら起こしうる。

ラストに滲む悔恨は、誰もが日々味わい生きる類の感傷。

相手の気持はわかっても、自分の気持はわからない。

いや、わかろうとしない。わかりたくない。

わかると、こわい。

 

本作の原題は『AUSENTE』。

英題だと「absent」。つまり、「欠席」の意。

作中でも、教師であるセバスティアンが出欠をとる場面がある。

主客が相互に理解を図れば、当然相手の「在」が前提となり、

相手が自分をどう見るか、自分が相手をどう見るか、それが問題だ。

しかし、そうした相手の「在」こそが、

対象への逃避による自己の空洞化を促しはしないだろうか?

だからこそ、相手の「不在」が突如「自己への回帰」をもたらしもする。

「失って気づく」的な精神構造の噴出だろう。

目の前にいる間は、相手をどう見るかを自ら操作し管理する。

都合の悪い要素をみんな、相手におしつけ逃避もできる。

そうした対象を失えば、自らに巣食った想いを感じる自己は、

はけ口を失い、言い訳できず。

それでも、「在」の再来が頭をよぎれば、完全受容に至りはしない。

それでは、「不在」が決定的になったとしたら?

 

 

◆終始「不穏」な空気を漂わせ続けるも、何箇所か明らかに「笑える」場面もある。

   (客席からは全く笑いはこぼれなかったけど)

   そうした緊張しながら弛緩をけしかける意地悪さは、ちょっと好きかも。

   生真面目な人が放った不意のギャグ、みたいな。

   まだ長篇二作の新人監督ながら、今後の展開によっては化けそうなMarco Berger

 

◇ラテンビートで観るアルゼンチン映画には豊作が多く、昨年(『カランチョ』)、

   一昨年(『檻の中』)と力作が連続で上映されたパブロ・トラペロ(Pablo Trapero)は、

   個人的にかなりの注目監督。彼の次回作はなんと、有名監督競作によるオムニバス映画。

   ハバナを舞台に、曜日ごとの7篇が一週間の出来事を描くらしい。

   ローラン・カンテ(『パリ20区、僕たちのクラス』)やギャスパー・ノエといった

   フランス映画の中堅どころから、ベニチオ・デル・トロ初監督という話題性、

   エリア・スレイマンやフリオ・メデムといったマイ・フェイヴァリット作品のクリエイター。

   日本でも『苺とチョコレート』の共同監督として知られるファン・カルロス・タビオも参加。

   キャストにも、ダニエル・ブリュールやジョシュ・ハッチャーソンといった好青年のみならず、

   なんとエミール・クストリッツァの名前まである!これはこれは、楽しみです。

   それこそ、来年のラテンビートでのお披露目もあるかもね>『7 días en La Habana

 

◇本作のラストシーンでは、幻想的な感傷にひたらせてくれるユニークなスコアが流れ、

   暗転し、エンドロールがはじまると・・・驚愕の旋律が!

   『世にも奇妙な物語』のテーマそっくりな音楽が流れ始めるではありませんか!?

   これは日本人(しかもある世代限定?)を狙い打ちにした、悪戯演出かい!?

   そう思えてしまうほど、感傷後の処理(笑)に困る不意打ちサプライズな幕切れでした。

 

 


THE SKIN I LIVE IN (2011/ペドロ・アルモドバル)

2011-09-17 23:59:10 | 2011 ラテンビート映画祭

 

初期の苦くも乾いた笑いを含んだサスペンス&スリラー的怪作。

個人的には快作となるはずだったので、個人的にはハマりきれずに残念ながら、

漏れ聞こえてくる評判は頗る上々のようなので、一般公開も決まったようだし、

公開時には再度挑戦してみようかしらん・・・とは思うものの・・・

 

ここ十年、巨匠的傑作を次々と送り出してきたアルモドバルにとって、本作ではあえて(?)

芳醇よりも不順、感傷よりも敏捷。しかし、アルモドバル的色彩と倒錯は忘れずに。

アルモドバル作品における新旧入り乱れるキャスティングが醸す不均衡な緊迫感。

いくら個人的には前のめりになれないからといっても退屈などは当然無縁。

2時間弱をひたすら引きずりまわされ、ひと時もスクリーンから心を外させぬ手腕はさすが。

しかし、この手の物語をアルモドバル・タッチで観る必然性が私には見つけられぬまま

エンドロールの「悶える(よがる?)二重螺旋」を呆然と眺めるに至ってしまった。

 

本作に心酔された方には、大いに非難されそうだが、私は本作を観ながら時折

脳裏に『ムカデ人間』が浮かんでは消えしていたという・・・だって、変質ぶりとしては

あの医者とどっこいどっこいだかんね>アントニオ・バンデラス演じるロベルト。

しかし、今や大物となった彼に気を遣ってか、やたらと風格やらクールさが滲みすぎ、

パラノイア的な狂気がいまいちはち切れず。一方で、初タッグ(かな?)のエレナ・アナヤは

見事なまでに魅力を引き出されていたりもするのだけれど。

(『この愛のために撃て』の妊婦と同一人物とは思えぬ!)

 

ある意味「やりすぎ」がモチーフになってる映画の場合、

通常は映画のクオリティを高める緻密な設計が時として裏目に出てしまい、

「枷」として機能し始めてしまうような居心地の悪さを感じてしまう。

 

RottenでもIMDbでも、軒並超高評価だったりするわけだし、

これはきっと私の方こそが「枷」につながれているのかもしれない。

劇場公開されたら再見してみる必要があるかもしれない。

 

◆音楽は勿論、常連のアルベルト・イグレシアス。これがまた無茶苦茶好いのだわ。

   彼は、ここ2年連続でゴヤ賞を獲得しているのだが、これは3年連続になってしまうかも。

 

◆オープニングで全身タイツのエレナ・アナヤが室内でストレッチに勤しむ姿を見ながら、

   なぜかわからぬが、「この女性って実は〇〇〇なんじゃね?」とか無根拠に思った自分。

   真相が明らかになったとき、そうした第六感的予感に驚愕するも、

   これはおそらく(いや確実に)アルモドバルの類稀な演出力の神業に拠るものだろう。

   それは、エレナ・アナヤの演技力(身体表現力)も当然素晴らしいものがあるのだろうし、

   とにかく前半の「美しさだけでは説明しきれない」自己分裂気味な人工的表情は、

   本作における最大の「魅どころ」だと言える。したがって、(あくまで)私のなかでは

   完全にアントニオ・バンデラスは脇役でしかなかったようにすら思えてくる。

   まあ、確かに彼の出番は前半が中心で、後半ではエレナの方に主軸が移動するから、

   観賞後にそうした印象が勝ってしまうのも仕方がない。私は物足りなく思ってしまった

   アントニオ・バンデラスの演技も、暴走ぶりを見せつければ容易いところを敢えて

   抑制の効いた演技で大人の味わいを妨げぬように計算されたともとれる。

   また、本作における所有の関係(夫と妻、父と娘、自己が認識する自己と

   他者に認識される自己、等)が常に流動的に躍動し続ける面白さは特筆すべきなのかも。

   そして、物語の結末こそが所有と被所有の二項対立の新たな地平を示唆しているのかも。

   そう考えるなら、「SKIN(身体)」と「I(自我・精神)」の関係性への考察などとしても

   読み直すことが可能かも。他者から承認される外側(THE SKIN)のなか(IN)で

   生きる(LIVE)私(I)たち・・・などと、頭よさげなことを言って終ってみる(笑)

 

◇一般公開が決まっているというのに、なにゆえに素人字幕で上映せにゃならんのだ。

   いまどき素人だってもう少しマシな字幕を作成してくれようぞ。

   完全に「字幕翻訳」ではなく、単なる「翻訳(しかも極めて直訳気味な)」。いや、和訳(笑)

   当然、時間と文字数などの基本など完全無視なうえ、

   読点どころか句点まで登場するトンデモ字幕。

   言葉遣いだってところどころおかしい(訳者が明らかに物語[の展開]を

   理解していないと思えてしまうほどの)箇所が散見される。

   多少違和感があったとしても、プロの仕事にはそれなりの価値がやっぱりあるのだな。

   そんなことを思わせてくれたという点においては学習効果をもたらすも・・・

   やっぱり「ツッコミどころ」が随所に仕込まれる映画祭だな>LBFF。

 

 


雨さえも~ボリビアの熱い一日~(2010/イシアル・ボジャイン)

2011-09-16 23:39:21 | 2011 ラテンビート映画祭

 

昨日より新宿バルト9にて開催されている第8回ラテンビート映画祭

既に3本を観賞し、これから4本を観賞予定だが、

2日目にして早くも素晴らしい作品との邂逅に

熟考待たずに興奮レポート。

(東京では、17日(土)10:45 及び 19日(祝)13:15 の2回上映あり。

  京都でも横浜でも2回ずつ上映があるようです。)

 

本作(原題『También la lluvia(Even the Rain)』)は脚本を

あのポール・ラヴァーティが担当しているということもあり、

自力ででも何とか観なければと思っていた一作。

それでもガエル・ガルシア・ベルナル出演ゆえに何らかの形で日本に紹介されるのでは?

という予測が自力観賞を躊躇わせ、そうこうしているうちにラテンビートでの上映という吉報!

ポール・ラヴァティ以外では、音楽のアルベルト・イグレシアス(前日のアルモドバル新作に

続いて二日続けてアルベルトの音楽を劇場で堪能できる幸せ)以外はほとんど馴染みもなく、

一体どんな出来か些か不安もあったものの、それはそれは見事な力作!

ゲストなき上映においては拍手が起こりにくい日本の映画祭にも関わらず、

上映後に(盛大ではないが)拍手も響き(先導者に感謝!)、

私の求める映画の「語り」を堪能し尽くした。

 

私はケン・ローチを心より敬愛してやまぬ者だが、

『カルラの歌』以降、まさに二人三脚状態のポール・ラヴァティこそが、

ケン・ローチ作品を飛躍させた最大の功労者であることを今更ながら再確認。

ケン・ローチ監督作以外でポール・ラヴァティが脚本を担当しているのは、

今のところ、『Cargo』(2006)と本作のみのようで、私もそうした作品を観るのは初めて。

(ちなみに、前者では本作に主演しているルイス・トサルや、

  ケン作品にも出演したピーター・ミュランも出演している)

私がケン・ローチ作品から受ける感銘とは、「社会をみつめる眼差し」が重層的でありながら、

それらがどれも真摯であるという、矛盾も欺瞞も受け止める覚悟を辞さぬ姿勢にある。

そして、そうした語りが為し得ていたのは、ポール・ラヴァティのペンによってだったんだ・・・。

とっくに気づいておくべき事実に、遅ればせながら気づかされまくった、幸福なる降伏宣言。

 

(あらすじ)

 映画監督のセバスティアンとプロデューサーのコスタは、

 新大陸の発見者クリストバル・コロンを描く映画撮影のため、

 スタッフとともにボリビアのコチャバンバを訪れる。

 折しも現地では、欧米企業による横暴な水道事業の独占によって、

 多くの住民が水道料金の大幅値上げに苦しめられていた。

 大勢のエキストラ応募者の中から、スタッフの目にとまった先住民族のダニエルは、

 映画の撮影の合間に抗議運動に参加。

 映画の資金源である投資家の目を気にするコスタは、

 彼の行動に難色を示し、映画に専念するよう諭す。(LBFF公式サイトより)

 

物語の構造が実に興味深い。

映画のキャスト・スタッフがボリビアのコチャバンバにやって来るところから始まるのだが、

作中では何度か撮影シーンが登場する。

しかし、それは「撮影している」という体では提示されず、

あたかも(作中で撮影されている)映画の1シーンがそのまま混入してくる。

時には、劇中劇であるはずのドラマが本作のベースとなる物語のリアリティを軽く凌駕する。

それもそのはずで、劇中劇でエキストラとして参加する地元民たちこそ、

キリスト教徒たちの布教の犠牲となる先住民(彼らが演じている)の宿命と同様の闘いを

文明の侵略による近代化との衝突において続けているのだから。

そして、そうした衝突は、「行政vs住民」や「企業vs住民」などといった紋切り型のみならず、

撮影クルーたちとの対立やクルー内での対立などとも折り重なって展開される。

そして、同時にうまれる感情的な結びつきや理解も伴走し続ける。

映画が「商品」だったり「プロパガンダ」だったり「芸術」だったり「遺産」だったりする描き方に、

映画だけを神格化したりすることなく、どこまでも誠実な内省を垣間見ることができる。

 

同じ時空を共有しながら、「当事者」であるか「傍観者」であるかの違いは何に拠るのか?

単純な二項対立であるなら、その先には勝敗しか待たぬだろうが、

白と黒だけで出来上がる現実などどこにもない。

そして、人間を自由にするのは闘争ではなく、

葛藤にこそある。

 

高らかに謳いあげる讃歌はどこにも聞えない。

しかし、友を想う自らを確かめるために口ずさむ讃歌は聞えていてほしい。

 

あらゆるものを先住民から略奪してきた列強は、

いまやその土地に流れる水までをも「我田引水」よろしく略奪しては売りつけようとする。

大地を奪い、水まで奪った「文明」は、もはや「雨さえも」自分のものにしようとしている。

地元民が利用していた井戸に施錠する異状な光景。

暴走した市民の抗議デモ鎮圧の為、傷ついた子供を病院に搬送する車を停める警察。

文明と野蛮の差とは?文明とは常に野蛮ではないことなのか?

 

冒頭で本作のタイトルが提示されるバックには、巨大な十字架を運ぶヘリコプター。

「未開」に降り立つ啓蒙主義的文明の容赦なき足音。

作中何度か響く「カット」の掛け声。

都合よくカットできる側の人生は、「物語」を俯瞰で語ろうとする。

常にカットされる側の人間は、カットの掛け声かかろうと、

「先住民的宿命」は絶えることなく続く。しかし、それゆえに当事者であることは止められず、

あくまで自らの物語は自らで語るしかない。自らで書き変えるしかない。

 

ダニエルが最後に語る「いつも代償が伴う」という嘆きと、

「それでもこれしか方法がない」といった葛藤は、

極めて普遍的な人間の現実なのではないだろうか。

 

しかし、利害や暴力で対立衝突する社会的関係とは異なり、

感情と感情のぶつかり合いからは、感情と感情が触れ合う経験が蓄積されて、

思考も理性も超越した直接的な結びつきの実感がおさえきれなくなりもする。

惜別の抱擁は、訣別の代償などではなく、希望の証になりえただろう。

 

 

◇撮影が素晴らしい。担当しているAlex Catalánは、本作の前に(同時期かも)に、

   フリオ・メデムとも仕事をしている。ちなみに、本作の監督であるIcíar Bollaínは、

   長篇監督デビュー作でフリオ・メデムと共に脚本を書いていたりしたようだ。

   極めてマイ・フェイヴァリットな映画『ANA + OTTO(Los amantes del Círculo Polar )』の

   監督がフリオ・メデムなので、本作が極私的琴線に触れる要素は本当ふんだん。

 

◇昨年は、最高に上質なコッポラの新作『テトロ』を最低な粗悪素材(DVD並と思しき)で

   上映敢行するなど(他にも劣悪上映が散見された)、非常に遺憾三昧だったLBFF。

   これまで観た3本はいずれも(おそらくDCPで)画質に問題感じることなく一安心。

   ただ、本作はシネスコゆえに、ちゃんとしたスクリーンでフィルム観賞できれば文句なし

   だったのだけれど・・・まぁ、劇場で観られただけでも感謝しなきゃかな。

   (シネスコ作品なので、上下に黒い帯ができちまいます・・・)

   緑の深さ(暗さ)なんかは、結構見事に堪能できるスペックはあったと思うので、

   そこまで気にならないデジタル上映でもありました。

   昨年は十数本観て、フィルムは2本しかなかったけど、今年は1本もないのかなぁ・・・

   「フィルム」フェスティバルって呼称をそろそろ再考する時機が来てるかも。

   (ちなみに、これまでのようなDLP上映であれば、まぁ満足なんですけどね。)

 

◇ちなみに、『The Skin I Live In』の素人字幕には参ったけど(何なんだ、あれは)、

   本作の字幕は割とちゃんとしていた。というわけで、勢いで一般公開へ!(無理か・・・)