何がそんなに寂しかったのか(笑)、
昨年は15本も観賞していた(観賞記録で振り返るまで自覚なし・・・)ラテンビート映画祭。
今年は半減の7本のみを厳選(?)して観賞した5日間。
さすがに5日間も連続で新宿に出向き(新宿自体はさほど億劫ではないが)、
バルト9まで登頂を幾度も試みねばならぬのは、多少の精神的負担は強いられるも、
(いろいろと個人的に問題を感じるところがあるとはいえ)ラインナップの充実度は
かなり屈指と思える映画イベントゆえに、なんとか頑張った(笑)
まぁ、でも、東京国際映画祭の六本木通いに比べりゃ、可愛いもんだよなぁ。
六本木って場所柄だけでも(ただブラブラするだけなら好いんだけど、
あの地で「映画を観る」のはやはりあまり好きになれない)憂鬱なのに、
大江戸線が深すぎてブルーな日々よ。(そこかい・・・)
でもでも、昨年やっと代々木乗換が新宿乗換の数倍快適だということを発見したから、
ちょっとは気楽になれるかな。でも、昨年から開催時期が一週遅くなって、
仕事の関係上あまり好き放題に観られなくなったのが痛いんだけど。
おまけに、同時期にはシネマヴェーラでアサイヤスやオゾン、デプレシャンの特集あったり、
TIFFが終るかと思えば「フレデリック・ワイズマンのすべて」とか始まっちゃうし・・・
勿論、11月にはフィルメックスとかも控えているわけで、スケジューリングもチケット確保も
激闘繰り広げ、観賞だって「まったり」とは無縁な日々に突入するわけで、楽しいけど寂しい、
自己矛盾と闘う、映画の秋。
ちなみに、ワイズマンの最新作(『Crazy Horse』)はTIFFのWORLD CINEMAで上映決定。
こちらにもおそらく本人が登壇されるとは思われるが、
ユーロスペースの特集上映でも一作前の『ボクシング・ジム』上映時に舞台挨拶がある。
実はひそかに(でもない?)チケットが既に発売されていたりするという。
TIFFのスケジュール待たずにフライング・ゲットしてしまった私。
さてさて、そんな映画祭シーズンの口火を切るかのように始まるのがラテンビート映画祭。
ちなみに、日仏学院では「第15回カイエ・デュ・シネマ週間」が開催されており、
そちらも興味深いラインナップ。10月の初旬にも映画祭が複数同時開催されたりするし、
関係各位への「恨めしい」想いが交錯しまくる日々到来。今日は『サタンタンゴ』だったし。
勿論、行けなかったけどね。平日に設定するとか、「社会人お断り」みたいで悲しかったよ・・・
そうした多くの勤め人シネフィルの涙が結集し、東京にも嵐が見舞ったとか!?(笑)
今年のラテンビートで上映される作品は14本。
既に配給が決まっているのは2本のみ。(『BLACK BREAD』と『THE SKIN I LIVE IN』)
アサイヤスの『カルロス』は、日仏で今秋開催予定の「テロリスト特集」で上映されるみたい。
そして、そんな中で私が観たのは、既に感想を書き上げた
『雨さえも~ボリビアの熱い一日』、『THE SKIN I LIVE IN』、『プールサイド』の他に、
『THE LAST CIRCUS』、『カルロス』、『MISS BALA/銃弾』、『うるう年の秘め事』の7本。
さすがに厳選しただけあって、どれもが皆なかなかの充実作で、
それゆえ濃密な観賞体験を味わえた5日間となった。
できれば、全作の感想を記しておきたいが、記憶と体力がもつかどうか(笑)
今日は、最終日に観た一本。
MISS BALA/銃弾(2011/ヘラルド・ナランホ)
主演女優のステファニ・シグマンとプロデューサーのパブロ・クルスが来日。
18時半からの上映にかけつけた二人は、14時半に成田についたとか・・・
(おまけに5時間のみの滞在だとか・・・言っていた気がする)
そうした意気込みの所以も納得の力作だった。
ミスコン優勝を夢見る23歳の女性が麻薬密売組織との取引を強いられて、
助けを求めようにも隅から隅まで腐りきってるメキシコ社会の現状に、完全四面楚歌状態。
プロデューサーは何度も「これが現実」と強調していたが、
だからこそ「わかりきったことを糾弾する」ようなまどろっこしい手続きすっ飛ばし、
凄惨さが淡々と収められてゆくフィルム。
トレーラーから受ける印象とは異なり、スリルやサスペンスを「味わえる」ような演出回避。
あくまで「現実である」ことを見せるために無暗にエキサイトしたりしない作劇が続く。
しかし、それは時間を追うごとに、観る者を物語の内側に立たせることに成功する。
上映の前にも後にもプロデューサーの口から語られた、
「この映画で描かれることはあくまで現実だ」という表明と共に届けられた本作は、
ゲームやドラマとして機能するサバイバルとは別次元の、
全身にまとわりついてきては、まみれるしかない日常の苛烈さを「知ってほしい」
という切実かつ誠実な思いが感じられた。
「理解してほしい」となると、そこには脚色や演出が時に現実の核心を覆ってしまい、
それこそ凄惨な現実までが「ウェルメイド」されてしまいもする。
しかし、本作における剥き出しの物語は、喜怒哀楽が入り込む隙すら用意しない。
自らの運命の舵取りすら不能となった「委ねる」だけのヒロインは、
次第に言葉も表情も失って、もはや苦しみを感じる神経すら麻痺させられたかのよう。
冒頭の銃撃と、中盤のそれ。そしてクライマックスにおける銃撃。
そのどれもが微妙に異なり、それはヒロインにとっての「リアリティ」の違いなのかもしれない。
冒頭では、外部からの眼としてとらえたフィルター越しの向こうで展開する銃撃。
しかし、中盤でそうしたメカニズムに組み込まれ始めると、音も恐怖も「身」に迫る。
そうした彼女の体感が容赦なく銀幕から突き出てきては、観客を大いに震撼させる。
ところがもはや諦念するしかなくなったとき、恐怖にまみれながらも
淡々と受け容れるしかない銃撃がそこにはあった。
正義も悪もなく、欲望だけで動き続ける群集は、
欲望のマスゲームに従うだけ。
そして、そうした戯れから逸れても、
そこに「解放」や「自由」があるわけではない。
しかし、それはヒロインのみならず、すべての人間を巻き込んだ、
巨悪な機構と化している。すべてが腐っているとはきっと、全員共犯全員ギルティ。
ただ、そうした現実は程度の差こそあれ、機構に組み込まれた人間の宿命である気もする。
だからこそ、明らかに異世界に映る社会の物語の内側に、日本の観客も立てるのだろう。
そして、そうした「体験」を強いるだけの力が作品に漲っているのも事実だろう。
◇本作はなんと、フィルム上映だったのだ!私が観た7本では唯一のフィルム上映。
本映画祭観賞で初めて目の当たりにする、スクリーンがシネスコへと広がる光景。
おまけに、日本語字幕付きのプリントのように見えた(字幕投影ではなく)のは気のせい?
もしかして、日本公開が決まってるのかなぁ、とか思ってしまったが。
是非、『Animal Kingdom』とセットで(?)公開をお願いしたいところ。
◇『MISS BALA』というタイトルは、
「BALAは弾丸だが、MISS BAJA ( CALIFORNIA )との言葉遊びとなっている」。
というのは、柳原先生のブログからのパクりだが、その記事の締めくくりにある
「女優とプロデューサーとの質疑応答の時間には、質問というよりは感心した、
そのことを伝えたい、とのコメントが相次いだ。その気持ちはわかる。
それだけテーマの面でも作りの面でも優れた映画だったということだろう……
でもなあ、せっかく来ているのだから、ゲストたちの話を聞こうよ、と思ったのであった。」
という部分には本当同感で、ゲストたちの「伝えたい」という姿勢が痛いほど伝わる故に、
劇場での貴重な時間や長時間のフライトまでもが空費されたかのような寂しさは感じた。
更に、本当最近よく見かけるのだが、ゲストが登壇しているときに、時折(人によっては
終始)スマフォをいじり続けている連中は何なんだ!?憤怒というより、ゾッとする。
当然マナー違反のなにものでもないが、それ以前にそうした行為(日常に繋がれたい)が
映画を観るという行為の対極にあり、観照、思索、述懐、咀嚼を無にし妨げるだけなのに。
ケータイ文明の病魔は凄まじい勢いで、「拡散」し続けているのだろう・・・
(ある意味、痛みが感じられる銃弾よりも恐ろしい、「目に見えぬ恐怖」の一種だよ。)