トルコ映画は昨年のコンペにも選出されていたが(『クロッシング』セリム・デミルデレン)、
その作品同様、本作も現代的なトルコを映し出しており、新鮮に映る。
日本に紹介されるトルコ映画はヌリ・ビルゲ・ジェイランやセミフ・カプランオールといった
郊外のやや伝統的な空気のなかの牧歌的雰囲気を醸した作品が多いように思うので。
昨年のコンペではその『クロッシング』も観ており、本作と併せてやや共通の印象を受けた。
カンヌやベルリンで高評価を受ける美麗エキゾチシズムあふれる作品群とは対照的に、
極めて仄暗い不信と不安がそこはかとなく漂う作風は、
東洋と西洋の狭間で引き裂かれゆく現代トルコのアイデンティティを象徴するかのよう。
そういった側面は、日本のそれと重なり合うところも多く、
後述の『二番目の妻』(トルコ系家族を描く)ともやや共通するように思う。
したがって、現代的な問題の大状況に重なりを実感できた場合、
そこで描かれる人間関係や慣習的事情に多少の違和を覚えても、
抽象的な次元でのシンクロが可能となるだろう。
その方向で入り込めたのが『二番目の妻』ならば、
本作は最後まで些か引き気味な俯瞰を強いられた気がする。
無精子症の夫が自らの「不備」を恥じる余り(勿論、子供が欲しいというのもあるが)、
不法な手段で子供を買う。(その息子の名が「ジャン(原題:Can)」)
そして、本作はその前後を映し出す時制と、それから数年後の彼らを交互に行き来する。
夫妻は別れ(というか夫が蒸発し)、残された妻とジャンの距離とすら称しがたい隔絶は、
関係を定義できぬまま刻まれてきた時間の重みを観客にも如実に語り、息詰まる。
106分間を終始「静かに駆け抜ける」奇妙なスピード感溢れる本作は、
説明的な台詞も描写も極力抑えながら、しかし卓抜なストーリーテリングの力を擁す。
しかし、扱っている問題が問題だけに、観客個々人の倫理観や経験に左右されるリスクも。
実際、私には最後まで彼らにとっての「モラル」(社会的なそれではなく)がのみ込めず
(承認や受容といった理解ではなく)、彼らの心象に寄り添えずまま終局を迎えてしまった。
とはいえ、サスペンスフルな語りと緊迫を途切れさせぬリズムは心地よく、
それでいて葛藤は常に内側で起こっているという非映像的ゆえの映像の喚起作用は見事。
私のなかの拭えぬ違和は、妻の方に母性がなかなか萌芽せず、
夫の方には不自然なまでの父性が無条件に宿っているかのような印象によるもの。
余りにも一般論(女性の母性は先天的で、男性は子供が生まれても不正獲得が困難)に
支配されすぎ発想が過ぎるようにも思うが、彼らを「女」や「男」として観る視点が
私には不足していたのかもしれない・・・などと後から反省。
ただ、そうした戸惑いのなかで見続けられる作品というのは、
得てして複雑かつユニークな問題提起が内包されているからであって、
そうした意味で本作の存在意義は高いのだろうと思う。是非、再挑戦したいもの。
◇原題の『Can』とは、夫婦が「手に入れた」息子の名だが、
中盤で夫の働く自動車販売店の看板に「CAN」と見えてニヤリ。
ロビーで監督に訊いてみたところ、あれは支店の名前で、
同じ名前の支店だからということで選び、ロケを懇願したという。
勿論小ネタ的な面白さもあるが、夫の意識におけるジャンの存在の象徴とも受け取れる。
逃れられない「命」(たしか、CAN(ジャン)の意味として「命」って出てた気が)の重み。
◇本作上映後には、監督と共同プロデューサー(監督もプロデューサーなので)が登壇。
監督は随分と日本に対する敬意を口にして下さるなど親日アピール。
やっぱりトルコ人は親日家が多いのかなぁ~などという目出度い思考で嬉しくなる。
(一方で、日本人は親〇家だったりするのか!?と思うと、実はかなり閉鎖的な気も)
おまけに、来場者全員プレゼントとして、本作のポストカードが1枚ずつ配られた。
そのポストカードがまた手作り感あふれるもので、余計あったかい気持ちで会場を出た。
◇コンペ作品を事前チェックした記事でも書いたけど、
IDCFにはサンダンス映画祭に縁のある監督や作品が多い。
(まぁ、映画祭の趣旨からすればそれは必然の結果なのかもしれないけれど)
例えば、2011年のワールドシネマ部門(コンペはアメリカ部門と分かれている)。
グランプリの『Happy Happy (Sykt lykkelig)』は『真実の恋』の監督による作品。
脚本賞は『レストレーション~修復~』が受賞している。
観客賞は、昨年のIDCFグランプリの『キニアルワンダ』。
ちなみに、昨年TIFFワールドシネマ部門で上映された『ティラノサウルス』が
監督賞を受賞している。(『思秋期』として今秋公開予定)
今年のサンダンス映画祭ワールドシネマ部門では、
『我が子、ジャン』が審査員特別賞を受賞していたりもする。
グランプリの『Violeta se fue a los cielos』はチリ・アルゼンチン・ブラジル共同制作、
今年のラテンビートあたりでかかるのを期待したい。
脚本賞の『Joven y alocada』もチリ映画だし、まとめてお願いしたいところ。
チリ映画といえば、昨年のTIFFワールドシネマ部門で上映された『Bonsai~盆栽~』が
個人的にはかなり好きな作風で、クリスチャン・ヒメネス監督は今後要注目と思われる。
私が見逃してただけかもしれないけれど、今チリ映画が熱い!のかもしれない。
◇どうでもいいことかもしれないけれど、『我が子、ジャン』主人公の女性と、
『二番目の妻』主人公(?)の女性の名前がいずれも「アイシェ」だったという偶然(?)。
トルコ女性の一般的な名前ってだけなのか、その名が持つ意味が作品と関係あるのか?
ちょっとばかし気になった。
けど、さすがにQ&Aとかで訊けるネタでもなけりゃ、勇気もない(笑)
二番目の妻(2012/ウムト・ダー) Kuma
コンペ作品観賞のラストを飾った作品。
ウィーン・フィルムアカデミーでミヒャエル・ハネケにも師事したという新人監督の一作目。
そういった情報だけで既に興味津々。
ハネケ作品のキャスティング・ディレクターによる初監督作『ミヒャエル』や
本作の監督同様にアカデミーでハネケの指導を受けたジェシカ・ハウスナーの
『ルルドの泉で』がいずれも個人的にかなりの充実作だっただけに期待も大きかったが、
序盤こそ作品の描こうとしている物語性にゆるやかな拒絶を感じてしまったものの、
中盤から終盤にかけては作品のもつ魔力に魅入られっぱなしとなった。
物語は、
ウィーンでイスラムの伝統を守りながら暮らしていたトルコ系家族に、
トルコの村から若い娘アイシェが嫁いでくるが、この結婚には秘密が隠されていた・・・
というもの。
で、その秘密の内容が少しずつ間接的に露わになっていく。
但し、群像劇に描かれる家族のメンバーたちの「本当の気持ち」は、はぐらかされる。
それは演出としてもだが、そもそも伝統を重んじて生きようとする人々の宿命でもある。
忍耐と寛容を美徳と信ずる家族の中心的存在である母ファトマと、
トルコの片田舎で育ったものの、伝統への懐疑も生まれつつある若者たるアイシェ。
その二人はいずれも自らの感情を抑圧することに世界の均衡を見出し、
だからこそ最初は寄り添え合えるのだが、次第に彼女たちの指針はすれ違う。
そうした構図は家族や親戚全体にも流れており、
母ファトマ世代の中高年の女性たちは「伝統の継続」を信じて疑わない。
そして、それを永遠なる日常として謳歌すらしているかもしれない。
しかし、ファトマは、「ある決断」が伝統の死守を果たしながらも
崩壊への序章であることを識っている。だからこそ、彼女は「表情」を殺さねばならない。
嫁のアイシェは、見知らぬ土地の見知らぬ共同体に独り生きねばならぬ状況で、
心は容易く許せる環境でないだけでなく、心の向かった先にも「交通規制」が付きまとう。
納得はできるが、耐えがたいそうした拒絶に、行き場をなくした心は彷徨う。
しかし、アイシェはファトマとは違い(これがやはり世代間の差異を象徴しているようにも)、
そうした心を幽閉するのではなく、解放する選択に出る。
当然、そこに「ペナルティ」は生ずるものの、受容の兆しが見えたとき、
心を幽閉し続けてきた《伝統》の砦たるファトマは、呆然と震えるしかない。
さまざまな抑圧や虐待を受けながらも、解放を選択する「次世代」の談笑。
そこに入っていこうとすることは、自らの人生の現実を否定することになるファトマ。
扉を開けられない。自らを苦しめ続け、これからも苦しめることがわかっている「美徳」。
それを持ち続ければ苦しみ続けるばかりだが、それを捨てることも耐えがたい。
そうした「美徳」(例えば《伝統》)がもたらした豊穣はあったはずだし、
それが失われることによって消えゆく蓄積もあるはずだ。
世間体というものに意識が支配され、
無意識に因襲的な慣習の奴隷と化しがちな日本人にとって、
《自由》や《解放》との対峙から生まれる葛藤や矛盾の物語は、
自らをも取り巻く切実な問題として認識することも難くないように思う。
《個人》の確立を目指した近代が、《個人》をシステムへの従属に駆り立てたという実質。
だからこそ、本作における人物(感情)描写は《個人》を起点とすることなく、
メカニズムからの作用反作用に因って起こってきているようにも見える。
ファトマの(執心の反動としての)激昂、
アイシェの(抑圧からの解放としての)恋慕などを例外として。
それらは時折直線的に発露する。余りに巨大な強制力に屈する不自然に耐えられず。
実は同様に、長男の海外生活、次男の性質、長女の最後の決断、次女の批判なども、
そうした「機械」を止めたり変化させる動力にはなっているが。
ただ、本作が興味深いのは、そうした「機械」への批判を明言せず、
個人の勝利(信頼)に対しても楽観視しているわけではないと思われるところ。
上映後のQ&Aにおいても、
しばしば「観客の想像に委ねたい」という旨の返答をしていたウムト・ダー監督。
それは空虚な行間に対するエクスキューズなどでは決してなく、
綿密緻密に構築された行と行の間に自ずと滲み出る「解釈」への自信と私は理解した。
構造主義的側面とメロドラマ的好奇心のバランスが幾許か歪(いびつ)な感は否めぬが、
そうした端正さに執着しないところも新人らしい新鮮さに思えて好感だ。
本作は今年の映画祭で最優秀作品賞が与えられた。
コンペ12作品のうち、7作品を観賞したにも関わらず、
審査員特別賞・脚本賞・監督賞を獲った3作品は未見という残念さのなか、
本作にグランプリを与えるという最後の結末だけは審査員団と一致したというわけか。
好みで選ぶなら『レストレーション~修復~』、
ポピュラリティで選ぶなら『真実の恋』、
文学性で選ぶなら『二番目の妻』というのが極私的審査結果。
最終日に観たもう一本『真実の恋』は、
当初観るつもりは無かったものの、観賞された方の評判を聞き、急遽観賞することに。
結果、極めて大満足な濃縮83分の見事な愛らしさ。
いろいろ語りたい作品でもあるので、改めて振り返ってみたい。
(とかいって、時間と余力があるかどうか・・・)
薦めて下さった方が予想されていた通り、
『真実の恋』は昨年の『シンプル・シモン』のように
ノーザンライツ・フェスティバルあたりで大ウケするに至りそうな気がする。
字幕が寺尾次郎ってのも、確かに明らかに2次利用想定な感じもするし。
今年は、のべ4日も通った(しかも6日間のうちに)ということもあり、
ちょっとした「習慣」に化したりもした映画祭通い。(というか、川口への通い。)
なんか終わるとちょっと寂しいね(笑)
東京国際映画祭の六本木通いなんて心底清々するから大違い。
SKIPシティは確かに駅から遠いし、時間つぶす選択肢少なすぎたりもするものの、
実はあの長閑な雰囲気は「時間をつぶす」のに躍起にならなくても好い気がしてくるし、
映像ミュージアムでは山村浩二のミニ個展やってて色々と作品を観られたし、
プラネタリウムまで堪能することが出来た。
川口駅からのバスだって無料だし、1時間に3本も出てるし(すべての時間帯が
00分・20分・40分[一部例外あるも]と憶えやすいのも好い)、直通でスイスイ。
バスだって基本混まないから、座って車窓でも眺めてれば心地好い。
観客は、他の映画祭では考えられない地元のお祭りにフラッとやって来た住人たち。
聞こえてくる会話もほのぼの微笑ましい。
「あたし、どの作品でも寝ちゃうのよねぇ~」とか、
「(映像が出た瞬間)あら、綺麗ねぇ~」とか、
ル・シネマのマダムたちとは全く別種の生態系がそこには出現。
一見蘊蓄たれそうに見える中高年男性たちだって、
「古き良き映画世代」といった感じで、実にオープンに楽しもうとしてる印象だった。
素直に感動したり、素直に不可解吐露したり、素直に笑ったり。
でも、礼儀正しく律儀な拍手や、アテネフランセ文化センターの数倍も静かな場内。
同じ客層(年齢的に)でも、フィルムセンターの乞食臭は漂わず、
決して病院の待合室や軍隊の整列みたいな状況にもなり得ない。
ただ、若年層の観客が圧倒的に少なすぎるのはやっぱり気になる。
夏休みに入る頃に開催されている訳だし(大学生は試験の時期だけど)、
もう少し工夫して中高生や大学生が足を運ぶような努力を
映画祭側が試みても好いのでは?
(開催中、SKIPシティで見かける若者の大半は映画祭参加作品のスタッフかキャスト
・・・という現実。ただ、SKIPシティ内には「早稲田大学川口芸術学校」なるものが
在るらしいのだが、そこの生徒さんたちは足繁く観に来たりしないのだろうか・・・)
来年は記念すべき10回目(開催されればだけど)。
その節目を期に・・・とかならずに、発展してゆく映画祭になって欲しいものです。
[追記]あと、この映画祭の最大の魅力は、監督来日率の高さ(ほぼ全作品)。
そして、2回ある上映の両方で登壇するゲストも少なくない。
質疑応答も実にアットホームな雰囲気だし、
質問者による虚栄心発表会にもならない。
ロビーやSKIPシティ内で気軽に監督に声をかけたり立ち話できる・・・感じ。
(実際に自分が出来るわけではないので。あ、でも一度だけ質問してみたけどね。)