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Living Is Difficult with Eyes Opened

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2012(3)

2012-07-22 23:59:14 | 2012 SKIPシティ国際Dシネマ映画祭

 

我が子、ジャン(2011/ラシト・チェリケゼル) Can

 

トルコ映画は昨年のコンペにも選出されていたが(『クロッシング』セリム・デミルデレン)、

その作品同様、本作も現代的なトルコを映し出しており、新鮮に映る。

日本に紹介されるトルコ映画はヌリ・ビルゲ・ジェイランやセミフ・カプランオールといった

郊外のやや伝統的な空気のなかの牧歌的雰囲気を醸した作品が多いように思うので。

昨年のコンペではその『クロッシング』も観ており、本作と併せてやや共通の印象を受けた。

 

カンヌやベルリンで高評価を受ける美麗エキゾチシズムあふれる作品群とは対照的に、

極めて仄暗い不信と不安がそこはかとなく漂う作風は、

東洋と西洋の狭間で引き裂かれゆく現代トルコのアイデンティティを象徴するかのよう。

そういった側面は、日本のそれと重なり合うところも多く、

後述の『二番目の妻』(トルコ系家族を描く)ともやや共通するように思う。

したがって、現代的な問題の大状況に重なりを実感できた場合、

そこで描かれる人間関係や慣習的事情に多少の違和を覚えても、

抽象的な次元でのシンクロが可能となるだろう。

その方向で入り込めたのが『二番目の妻』ならば、

本作は最後まで些か引き気味な俯瞰を強いられた気がする。

 

無精子症の夫が自らの「不備」を恥じる余り(勿論、子供が欲しいというのもあるが)、

不法な手段で子供を買う。(その息子の名が「ジャン(原題:Can)」)

そして、本作はその前後を映し出す時制と、それから数年後の彼らを交互に行き来する。

夫妻は別れ(というか夫が蒸発し)、残された妻とジャンの距離とすら称しがたい隔絶は、

関係を定義できぬまま刻まれてきた時間の重みを観客にも如実に語り、息詰まる。

106分間を終始「静かに駆け抜ける」奇妙なスピード感溢れる本作は、

説明的な台詞も描写も極力抑えながら、しかし卓抜なストーリーテリングの力を擁す。

しかし、扱っている問題が問題だけに、観客個々人の倫理観や経験に左右されるリスクも。

実際、私には最後まで彼らにとっての「モラル」(社会的なそれではなく)がのみ込めず

(承認や受容といった理解ではなく)、彼らの心象に寄り添えずまま終局を迎えてしまった。

とはいえ、サスペンスフルな語りと緊迫を途切れさせぬリズムは心地よく、

それでいて葛藤は常に内側で起こっているという非映像的ゆえの映像の喚起作用は見事。

 

私のなかの拭えぬ違和は、妻の方に母性がなかなか萌芽せず、

夫の方には不自然なまでの父性が無条件に宿っているかのような印象によるもの。

余りにも一般論(女性の母性は先天的で、男性は子供が生まれても不正獲得が困難)に

支配されすぎ発想が過ぎるようにも思うが、彼らを「女」や「男」として観る視点が

私には不足していたのかもしれない・・・などと後から反省。

ただ、そうした戸惑いのなかで見続けられる作品というのは、

得てして複雑かつユニークな問題提起が内包されているからであって、

そうした意味で本作の存在意義は高いのだろうと思う。是非、再挑戦したいもの。

 

◇原題の『Can』とは、夫婦が「手に入れた」息子の名だが、

   中盤で夫の働く自動車販売店の看板に「CAN」と見えてニヤリ。

   ロビーで監督に訊いてみたところ、あれは支店の名前で、

   同じ名前の支店だからということで選び、ロケを懇願したという。

   勿論小ネタ的な面白さもあるが、夫の意識におけるジャンの存在の象徴とも受け取れる。

   逃れられない「命」(たしか、CAN(ジャン)の意味として「命」って出てた気が)の重み。

 

◇本作上映後には、監督と共同プロデューサー(監督もプロデューサーなので)が登壇。

   監督は随分と日本に対する敬意を口にして下さるなど親日アピール。

   やっぱりトルコ人は親日家が多いのかなぁ~などという目出度い思考で嬉しくなる。

   (一方で、日本人は親〇家だったりするのか!?と思うと、実はかなり閉鎖的な気も)

   おまけに、来場者全員プレゼントとして、本作のポストカードが1枚ずつ配られた。

   そのポストカードがまた手作り感あふれるもので、余計あったかい気持ちで会場を出た。

 

◇コンペ作品を事前チェックした記事でも書いたけど、

   IDCFにはサンダンス映画祭に縁のある監督や作品が多い。

   (まぁ、映画祭の趣旨からすればそれは必然の結果なのかもしれないけれど)

   例えば、2011年のワールドシネマ部門(コンペはアメリカ部門と分かれている)。

   グランプリの『Happy Happy (Sykt lykkelig)』は『真実の恋』の監督による作品。

   脚本賞は『レストレーション~修復~』が受賞している。

   観客賞は、昨年のIDCFグランプリの『キニアルワンダ』。

   ちなみに、昨年TIFFワールドシネマ部門で上映された『ティラノサウルス』が

   監督賞を受賞している。(『思秋期』として今秋公開予定)

   今年のサンダンス映画祭ワールドシネマ部門では、

   『我が子、ジャン』が審査員特別賞を受賞していたりもする。

   グランプリの『Violeta se fue a los cielos』はチリ・アルゼンチン・ブラジル共同制作、

   今年のラテンビートあたりでかかるのを期待したい。

   脚本賞の『Joven y alocada』もチリ映画だし、まとめてお願いしたいところ。

   チリ映画といえば、昨年のTIFFワールドシネマ部門で上映された『Bonsai~盆栽~』が

   個人的にはかなり好きな作風で、クリスチャン・ヒメネス監督は今後要注目と思われる。

   私が見逃してただけかもしれないけれど、今チリ映画が熱い!のかもしれない。

 

◇どうでもいいことかもしれないけれど、『我が子、ジャン』主人公の女性と、

   『二番目の妻』主人公(?)の女性の名前がいずれも「アイシェ」だったという偶然(?)。

   トルコ女性の一般的な名前ってだけなのか、その名が持つ意味が作品と関係あるのか?

   ちょっとばかし気になった。

   けど、さすがにQ&Aとかで訊けるネタでもなけりゃ、勇気もない(笑)

 

 

二番目の妻(2012/ウムト・ダー) Kuma

 

コンペ作品観賞のラストを飾った作品。

ウィーン・フィルムアカデミーでミヒャエル・ハネケにも師事したという新人監督の一作目。

そういった情報だけで既に興味津々。

ハネケ作品のキャスティング・ディレクターによる初監督作『ミヒャエル』や

本作の監督同様にアカデミーでハネケの指導を受けたジェシカ・ハウスナーの

『ルルドの泉で』がいずれも個人的にかなりの充実作だっただけに期待も大きかったが、

序盤こそ作品の描こうとしている物語性にゆるやかな拒絶を感じてしまったものの、

中盤から終盤にかけては作品のもつ魔力に魅入られっぱなしとなった。

 

物語は、

ウィーンでイスラムの伝統を守りながら暮らしていたトルコ系家族に、

トルコの村から若い娘アイシェが嫁いでくるが、この結婚には秘密が隠されていた・・・

というもの。

で、その秘密の内容が少しずつ間接的に露わになっていく。

但し、群像劇に描かれる家族のメンバーたちの「本当の気持ち」は、はぐらかされる。

それは演出としてもだが、そもそも伝統を重んじて生きようとする人々の宿命でもある。

忍耐と寛容を美徳と信ずる家族の中心的存在である母ファトマと、

トルコの片田舎で育ったものの、伝統への懐疑も生まれつつある若者たるアイシェ。

その二人はいずれも自らの感情を抑圧することに世界の均衡を見出し、

だからこそ最初は寄り添え合えるのだが、次第に彼女たちの指針はすれ違う。

そうした構図は家族や親戚全体にも流れており、

母ファトマ世代の中高年の女性たちは「伝統の継続」を信じて疑わない。

そして、それを永遠なる日常として謳歌すらしているかもしれない。

しかし、ファトマは、「ある決断」が伝統の死守を果たしながらも

崩壊への序章であることを識っている。だからこそ、彼女は「表情」を殺さねばならない。

嫁のアイシェは、見知らぬ土地の見知らぬ共同体に独り生きねばならぬ状況で、

心は容易く許せる環境でないだけでなく、心の向かった先にも「交通規制」が付きまとう。

納得はできるが、耐えがたいそうした拒絶に、行き場をなくした心は彷徨う。

しかし、アイシェはファトマとは違い(これがやはり世代間の差異を象徴しているようにも)、

そうした心を幽閉するのではなく、解放する選択に出る。

当然、そこに「ペナルティ」は生ずるものの、受容の兆しが見えたとき、

心を幽閉し続けてきた《伝統》の砦たるファトマは、呆然と震えるしかない。

さまざまな抑圧や虐待を受けながらも、解放を選択する「次世代」の談笑。

そこに入っていこうとすることは、自らの人生の現実を否定することになるファトマ。

扉を開けられない。自らを苦しめ続け、これからも苦しめることがわかっている「美徳」。

それを持ち続ければ苦しみ続けるばかりだが、それを捨てることも耐えがたい。

そうした「美徳」(例えば《伝統》)がもたらした豊穣はあったはずだし、

それが失われることによって消えゆく蓄積もあるはずだ。

 

世間体というものに意識が支配され、

無意識に因襲的な慣習の奴隷と化しがちな日本人にとって、

《自由》や《解放》との対峙から生まれる葛藤や矛盾の物語は、

自らをも取り巻く切実な問題として認識することも難くないように思う。

《個人》の確立を目指した近代が、《個人》をシステムへの従属に駆り立てたという実質。

だからこそ、本作における人物(感情)描写は《個人》を起点とすることなく、

メカニズムからの作用反作用に因って起こってきているようにも見える。

ファトマの(執心の反動としての)激昂、

アイシェの(抑圧からの解放としての)恋慕などを例外として。

それらは時折直線的に発露する。余りに巨大な強制力に屈する不自然に耐えられず。

実は同様に、長男の海外生活、次男の性質、長女の最後の決断、次女の批判なども、

そうした「機械」を止めたり変化させる動力にはなっているが。

ただ、本作が興味深いのは、そうした「機械」への批判を明言せず、

個人の勝利(信頼)に対しても楽観視しているわけではないと思われるところ。

 

上映後のQ&Aにおいても、

しばしば「観客の想像に委ねたい」という旨の返答をしていたウムト・ダー監督。

それは空虚な行間に対するエクスキューズなどでは決してなく、

綿密緻密に構築された行と行の間に自ずと滲み出る「解釈」への自信と私は理解した。

構造主義的側面とメロドラマ的好奇心のバランスが幾許か歪(いびつ)な感は否めぬが、

そうした端正さに執着しないところも新人らしい新鮮さに思えて好感だ。

 

本作は今年の映画祭で最優秀作品賞が与えられた。

コンペ12作品のうち、7作品を観賞したにも関わらず、

審査員特別賞・脚本賞・監督賞を獲った3作品は未見という残念さのなか、

本作にグランプリを与えるという最後の結末だけは審査員団と一致したというわけか。

 

好みで選ぶなら『レストレーション~修復~』、

ポピュラリティで選ぶなら『真実の恋』、

文学性で選ぶなら『二番目の妻』というのが極私的審査結果。

 

最終日に観たもう一本『真実の恋』は、

当初観るつもりは無かったものの、観賞された方の評判を聞き、急遽観賞することに。

結果、極めて大満足な濃縮83分の見事な愛らしさ。

いろいろ語りたい作品でもあるので、改めて振り返ってみたい。

(とかいって、時間と余力があるかどうか・・・)

薦めて下さった方が予想されていた通り、

『真実の恋』は昨年の『シンプル・シモン』のように

ノーザンライツ・フェスティバルあたりで大ウケするに至りそうな気がする。

字幕が寺尾次郎ってのも、確かに明らかに2次利用想定な感じもするし。

 

今年は、のべ4日も通った(しかも6日間のうちに)ということもあり、

ちょっとした「習慣」に化したりもした映画祭通い。(というか、川口への通い。)

なんか終わるとちょっと寂しいね(笑)

東京国際映画祭の六本木通いなんて心底清々するから大違い。

SKIPシティは確かに駅から遠いし、時間つぶす選択肢少なすぎたりもするものの、

実はあの長閑な雰囲気は「時間をつぶす」のに躍起にならなくても好い気がしてくるし、

映像ミュージアムでは山村浩二のミニ個展やってて色々と作品を観られたし、

プラネタリウムまで堪能することが出来た。

川口駅からのバスだって無料だし、1時間に3本も出てるし(すべての時間帯が

00分・20分・40分[一部例外あるも]と憶えやすいのも好い)、直通でスイスイ。

バスだって基本混まないから、座って車窓でも眺めてれば心地好い。

観客は、他の映画祭では考えられない地元のお祭りにフラッとやって来た住人たち。

聞こえてくる会話もほのぼの微笑ましい。

「あたし、どの作品でも寝ちゃうのよねぇ~」とか、

「(映像が出た瞬間)あら、綺麗ねぇ~」とか、

ル・シネマのマダムたちとは全く別種の生態系がそこには出現。

一見蘊蓄たれそうに見える中高年男性たちだって、

「古き良き映画世代」といった感じで、実にオープンに楽しもうとしてる印象だった。

素直に感動したり、素直に不可解吐露したり、素直に笑ったり。

でも、礼儀正しく律儀な拍手や、アテネフランセ文化センターの数倍も静かな場内。

同じ客層(年齢的に)でも、フィルムセンターの乞食臭は漂わず、

決して病院の待合室や軍隊の整列みたいな状況にもなり得ない。

ただ、若年層の観客が圧倒的に少なすぎるのはやっぱり気になる。

夏休みに入る頃に開催されている訳だし(大学生は試験の時期だけど)、

もう少し工夫して中高生や大学生が足を運ぶような努力を

映画祭側が試みても好いのでは?

(開催中、SKIPシティで見かける若者の大半は映画祭参加作品のスタッフかキャスト

  ・・・という現実。ただ、SKIPシティ内には「早稲田大学川口芸術学校」なるものが

  在るらしいのだが、そこの生徒さんたちは足繁く観に来たりしないのだろうか・・・)

 

来年は記念すべき10回目(開催されればだけど)。

その節目を期に・・・とかならずに、発展してゆく映画祭になって欲しいものです。

 

[追記]あと、この映画祭の最大の魅力は、監督来日率の高さ(ほぼ全作品)。

           そして、2回ある上映の両方で登壇するゲストも少なくない。

           質疑応答も実にアットホームな雰囲気だし、

           質問者による虚栄心発表会にもならない。

           ロビーやSKIPシティ内で気軽に監督に声をかけたり立ち話できる・・・感じ。

           (実際に自分が出来るわけではないので。あ、でも一度だけ質問してみたけどね。)

 


SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2012(2)

2012-07-20 23:58:05 | 2012 SKIPシティ国際Dシネマ映画祭

 

昨年はオープニングのヌリ・ビルゲ・ジェイラン最新作『昔々、アナトリアで』目当てで赴き、

ついでに(失礼)コンペ作品も3つほど観た。『シンプル・シモン』はその一本だった。

上映後のQ&Aの独特な雰囲気(本当の意味での「アット・ホーム」な空気)は稀少(?)で、

他の映画祭には決して味わえない「地域密着の可能性」を感じられるのも一つの特徴。

ただ、東京から近距離の埼玉県川口市というのが地域性と都下性(?)の狭間で

必ずしも巧いこと集客や話題性に結びつかないという困難も抱えてそうな気もする。

とはいえ、やはり手作り感と形式的に決して堕さぬ「おもてなし」の心がそこはかとなく漂い、

都心開催の映画祭とは一味も二味も違った体験は得がたく、今年はついにフリーパス購入。

といっても、全作は当然観られぬものの、長編コンペ全12作の半数でも観られれば

十分に元がとれる良心価格(3,000円)ということもあり、利用させてもらうことにした。

 

そして、私にとっての2日目となった18日には、コンペ2作品を観賞。

フリーパスを買ったので観ることにした『死と乙女という名のダンス』と、

地味に期待を膨らませて臨んだ『レストレーション~修復~』。

 

 

死と乙女という名のダンス(2011/アンドレ・ヒューレス) The Maiden Danced to Death

 

監督を務めるアンドレ・ヒューレス(Endre Hules)、

役者としても知られているが、長編劇映画の監督は本作が初めてとなるらしい。

彼自身、ハンガリーで生まれ育ち、舞台の演出や大学での教鞭を世界各地で行いながら、

現在はロサンゼルスに在住し、テレビや映画への出演もコンスタントにこなしつつ、

さまざまな創作活動に意欲的に取り組んでいるようだ。

IMDbのトリヴィアによると、相当数の言語に長けているようで、

確かにQ&Aで彼が発した感謝の言葉は、「アリガトゴザイマス」じゃなかった。

 

さて、私が本作を観賞しようと思ったポイントは二つあり、

一つは撮影監督が大ベテランのヴィルモス・スィグモンドだということ。

今年に入ってすぐに浮かぶだけでも、彼が撮影した作品を既に2本も劇場で観ている。

午前十時の映画祭で観た『ディア・ハンター』、爆音映画祭で観た『未知との遭遇』。

いずれも映画史に残る名作。

そして更に、個人的にも好きすぎる『さすらいのカウボーイ』(ピーター・フォンダ監督作)

までが彼の撮影によるもの。絵画に精通している彼らしく、ため息まじりの画が連続。

そんなヴィルモス・スィグモンドもアンドレ・ヒューレス同様、ハンガリー出身。

ハンガリー動乱の後にアメリカへと亡命し、その後にアメリカ映画界に多大なる功績を残す。

(そのあたりのことはこのサイトが詳しい。)

アンドレ・ヒューレスが監督を務めたハンガリー動乱に関するドキュメンタリーでも

ヴィルモス・スィグモンドは撮影を担当していた。

今回は、ダンスシーンの撮影に随分と工夫を凝らしたそうで、

スタジオ内の鏡に映り込まぬために細心の注意を払いつつ、

同様に「照明」が画面に映り込むのを避けるために、屋外に設置して撮影したとか。

さすがの名カメラマンにとっては、当然すぎる逸話にニヤリ。

 

本作観賞の二つ目の決め手は、ハンガリーの映画だということ。

当サイトでは取り上げられずじまいだし、シネフィル的巷でも話題にのぼらずじまいだったが、

今年のEUフィルムデーズで観た『メイド・イン・ハンガリー』(2009/フォニョーゲルゲイ)が

個人的にはかなりのヒットを記録し(本国でもヒットしたらしいが)、ハンガリー熱急上昇。

最近のハンガリー映画というとすぐに想い出すのはタル・ベーラといった名前。

(勿論、彼の作品には魅了され続けているが)

一味違ったハンガリー(これが従来かも)に触れられた『メイド・イン・ハンガリー』

に描かれる感情の機微が私の心の襞にグイグイ入り込み、実は大変感動しちまった。

爾来、ハンガリーに対する奇妙な親近感を覚えだし、その深層に興味津々。

そもそも、ハンガリーは名前の表記が日本と同じく「姓」から「名」の順序。

(本作も冒頭のクレジット表記の際には、「名姓」表記から入れ替わって「姓名」表記となり、

  祖国への《帰還》で始まるオープニングを演出。監督の故国愛も感じて、じんわり。)

些末なことかもしれないが、「ファミリーネーム」優先という名前の序列は、

思想の根底にも影響を与えてそうだし、

日常生活のコミュニケーションにおける「呼び方」は人間関係のあり方に

少なからず関係するだろうから、そうした共通点から生じる類似性もあったりしそう。

 

そうした個人的興味に対しては、それほど「応え」てくれはしなかったが、

それなりにウェルメイドな作品だったとは思う。

ただ、私は不覚にも中盤で随分とウトウトしてしまったが為に、

物語の根幹に迫る肝心なシークエンスを捉え損なっている可能性がある・・・

ということを告白し、断った上で言わせてもらうなら、

「構想10年」というだけあって、少し丁寧(慎重)過ぎた印象で、

1ミリも逸脱を許さぬような感情の完全補正が施されている気がしないでもなかった。

だからこそ、安心して観られるし、主要キャストは確かな魅力を兼ね備えてるけど、

それが個人的には凡庸に思えてしまったみたいだ。

肝心のダンスシーンも「遊び」がない分、随分と堅いままだった気がした。

が、それは「何を求めるか」という個人的欲求によって好みが分かれるところだろう。

 

コインの裏と表の喩え話が、ただ単に「二者択一」という分岐点的発想に陥らず、

「反対側は決して見えない」といった着地にもっていったところは感心もしたし(偉そう)、

実際にそうした対立軸は冷戦時代の構造をも念頭にあったりするのだお思うと、

その意味するところは計り知れない。ただ、そこに敢えて説教的な解答を出さず、

「見えない」という事実の確認に留まっているところが好くもあるが、やや物足りず。

監督が語っていたテーマの一つであるところの、妥協がどこまで許されるのかという点も、

「人間はひとつの妥協で死ぬまで踊らされる」という演目との相関関係や相乗効果を

もう少し手際よく相互乗り入れさせられていたら、ダイナミックな飛躍が期待できたかも。

 

でも、そもそもそうした方向性は監督が望むものでもないだろうし、

女性や年配の方々には概ね好評そうな空気も漂っていたので、

ちゃんとした佳作なのだろうと思います。

 

ただ、邦題にはちょっと難ありだよね。(意味違ってるし)

 

 

レストレーション~修復~(2011/ヨッシ・マドオニー) Boker tov adon Fidelman

 

こちらは、昨年のサンダンス映画祭で脚本賞を獲得している。

確かに、全体が「機微」で優しくコーティングされ、

言葉は勿論のこと、動きや表情でも語ることにゆるやかな抑制が張り巡らされ、

しかし、その伏し目がちな眼差しこそが本作の魅力とも言えるだろう。

 

デジタル撮影による映像も、フィルムの質感にやや近い印象を受け、

その淡さというか柔らかさが心地よい。

監督曰く、ノスタルジックな映像にしたかったとのこと。

レンズを2枚重ね、ソフトフォーカスで撮ったとのこと。

最後の数分間は極めて原色的なデジタル・クリアな映像に変貌するが、

その対比が実に鮮やかで、確かに「硝子の向こう」を眺める郷愁の時間が流れる。

(言ってみれば、セピアなイメージが映像全体に漂っている感じ。)

 

物語は、アンティーク家具の修復屋を共に営んでいた親友に他界され、

残された相棒である主人公とその実子、更にその直前に雇われ始めた若者という三人が、

微妙な関係を微妙に震わせながら物語は進む。実子には妊娠中の妻がいて、

バイト君には大変富裕な兄がいて、どちらも互いになかなか向き合えない。

おまけに、主人公と息子も全然向き合えない。主人公とバイト君は次第に打ち解ける。

主人公の息子は他界した主人公の親友を実父のように慕っていた。

そうした人間関係の複雑さを、スキャンダラスに描こうなどと一切しない。

彼らが常に間に挿し挟んでしまう「硝子1枚」の見えるのに届かないような距離感、

それが終始淡々と静かに映し出されてゆく。しかし、変化はいつも潜在的に起こってる。

 

工房の古めかしさ、暗さに射し込む柔らかな陽光が、

その場に「アンティーク」のぬくもりを充満させる。

しかし、そうした空気に一抹の懐疑が常につきまとい、

だからこそ登場人物たちは思い思いの決断を静かに迫られる。

その道程がゆるやかだったり、唐突だったりで、アンバランスさのリアリティ。

 

この物語で鍵を握るアイテムが、スタインウェイのアンティークピアノ。

その「お宝」を見つけ、かつて音楽家を志したバイト君アントンがいきなり弾き始めるのが、

ベートーベンのピアノソナタ「月光」第三楽章。

あの指の動きや上昇した後の連打は、確かに運動的な気持ちよさがある。

そして、物語のクライマックスで流れてくるのもベートーベン。

こちらもピアノソナタ。「悲愴」第2楽章のもの悲しくも希望の決意をみなぎらせ。

ヴァイオリン・アレンジによる伸びやかな調べが、懐かしくも新鮮。

 

上映後のQ&Aで、「月光」の方の曲名を観客から尋ねられたときに、

「Spring」という答えをしていた(だから、通訳は「春のソナタ」と翻訳してました)のだけど、

あれは何処から出た(何に由来する)答えだったのだろう・・・そういう別名でもあるのかな。

 

アントン(バイト君)が街にやって来るところから始まり、

再び彼が街を歩いている場面(しかし《世界》が異なって見える)で幕を閉じる物語。

彼の名(「アントン」)は、主人公親子の「ヤコブ」や「ノア」という明白なユダヤの名とは異なり、

明らかに《外部》の名であることを示唆しているとのこと。

ちょっと意地悪な見方すると、やっぱり外部の者には入り込めない「ユダヤの地(血)」?

などという穿った理屈を吐きたくなったりもしなくはないが、それはそれで安易な融和で

予定調和で収束させるより、ある種の厳粛さが感じられて私は好きだった。

 

 

映画祭7日目にはコンペ1作品を観に行く予定だったので、

ついでに「SKIPシティ・セレクション」とやらの1作品を観てみることに。

 

春、一番最初に降る雨(2011/佐野伸寿、エルラン・ヌルムハンベトフ)

 

この作品は、昨年の東京国際映画祭(日本映画・ある視点)でも上映された。

昨年のユーラシア国際映画祭でグランプリを獲っていたりもするらしい。

監督の佐野伸寿は元々、カザフスタン大使館に勤務していたらしい。(出典

『ウルグイからきた少年』の監督だったりもしたのか・・・失念してた。

エルラン・ヌルムハンベトフは、『トルパン』の第2監督も務めていたらしい。

 

チラシの物語解説には、

「中央アジアのカザフスタン、広大な大自然の中、

ある一家がこの地に流れ着いたシャーマンと暮らしていた。

ある日、年老いたシャーマンは、生まれ変わって長男のアスハットの花嫁になる

と予言して亡くなるが・・・。」

とあるので、てっきりかなり幻想的な展開に向かうのかと思ったら、

意外にもドキュメンタリータッチで(というか、そもそもそういう作風か)、

出演者もほとんどが素人(というか現地の人々)なもので、

その土地で生活する人々の有様を収めた感じの85分。

それもそのはずで、警察官や役所の職員なども登場するのだが、

彼らは実際にそういった仕事をしている(していた)人々で、

小道具含め自前で素に近い形で立ち居振る舞っていたそうだ。

 

また、監督の話で面白かったのは、

撮影の際にスタッフを現地調達しようとしても全然人が集まらないのだとか。

「別にちょっとくらいお金もらうより、いつもの生活を続けてた方が好いや」というノリらしい。

観客から「ああした僻地で生活するのは困難なのでは?」という問いに、

「彼らはむしろ自分たちの土地や自分たちの生活から離れたがらない、

というより、むしろ積極的に幸福を感じているようだ」と答えていた監督。

確かに、本編でも徹頭徹尾、むやみな批判や断定の精神は微塵も感じられなかった。

 


SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2012(1)

2012-07-16 23:54:03 | 2012 SKIPシティ国際Dシネマ映画祭

 

今日で映画祭は3日目に入りましたが、私は今日から参戦。いや、参加か。

でも、こう暑いと参戦でも好い気がする。が、今日はかなり風が吹いていたので、

気持ちスイッチ切り替えると(やや強がり気味に)「それほど暑くない」と呟けるくらい。

祝日でもまったりのんびり、のどかなSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。

まずは長編コンペの外国映画を2本、観てきました。

 

 

沈黙の歌(2012/チェン・ジュオ) Song of Silence

 

昨年末にポレポレ東中野で開催された中国インディペンデント映画祭で

現代中国のインディペンデント映画にすっかり魅了されてしまって以来、

ヨーロッパ映画にも他のアジア映画にもない滋味を渇望し続け早半年強。

ついに久々に中国インディペンデント映画の新作を観る機会がやってきた。

そんな風に期待のハードルがかなり上がっていた為か、反動的失望が余りに大きく・・・

 

語り口も、映像も、観念的な側面が強い作品でもあったので、

個人的な相性というか趣味に左右されると思われる。

だから、私も明らかに観念的で理性的思考皆無な勢いで書き殴るとする。

全くもって感情が揺さぶられなかった。

それは、登場人物の誰にも感情移入もできなければ、

登場人物の誰一人として魅力的に映る者がいなかったから。

作品の冒頭から、作り手が「語る」ことに重きを置いてないと感じたので、

私も「読む」よりも「感じる」姿勢で向かうことにしたのが不味かったのかもしれないが、

とにかく誰一人として(極私的美的感覚において)美しくないのだ。

言動においてもそうなのだが、やっぱり大切でしょ、見た目(笑)

主要人物である三人(女性二人と中年男性)が、全く「そそられぬ」ヴィジュアル。

だって、二人とも全然可愛くも綺麗でもない。

いや、一般的な美がなくとも何かしら感じられれば好いのだろうけれど、

見事に素人臭しか漂わず、ドキュメンタリータッチなら味わいにもなったかしらんが、

必要以上に「つくられた世界観」で展開したがるもんだから、ひたすらメルヘンチック。

微妙なヴィジュアルで、ひねくれたマイワールドのぶつけ合いをされたところで、

観ている方は白けるばかり。いや、もう理屈とか理性とかで言い訳しません。

私はやっぱり、きっと、「きれいなもの」が観たくて映画に足を運ぶ人間なんだな、と。

勿論、本作にだって《美》はあふれ、流れ続けていたのかもしれません。

ただ、私の求める《美》とは違ったタイプのそればかりが在っただけなのかも。

 

ハッとするような美しい光景が、最近の中国映画には確かにある気がする。

現代中国の風景のカオス性に、他では垣間見ることのない刹那の到達をみる。

しかし、本作においてはそうした混沌の瞬間があまり発揮されずに終わってる気がする。

つまり「開発」と「頽廃」と「逗留」が整然と描き分けられてしまっているような。

その分、一つの画面に流れるトーンは一つで終始し、重層性は生まれずに、

薄っぺらな一層一層がふわっふわっと降り積もっていくばかり。

 

ただ、上映後の監督の話を聞くと、「それもそのはず」的納得も。

つまり、本作はインディペント映画ではありながら、中国の検閲を通っている。

ごく一部ではあるが(北京にあるミニシアターで週に一度程度)劇場公開もされている。

(ただ、映画祭等でかかる完全版よりは10分程度短いヴァージョンになってるらしい。)

検閲通過を念頭においたのかどうかは定かではないが、それゆえの浅薄さに思える。

人間描写に重層性や複雑性が乏しいのも、結局は《裏》というか《闇》が描き切れず、

だからこそ実は《光》だって曖昧。いや、《闇》が描けぬなら《光》に徹すれば好いのに、

それらが葛藤するわけではない妙な調和によるグラデーションみたいなシークエンスが

延々と続く。で、そのシークエンスは各々が「クリップ」的に羅列されていくだけなので、

終盤の「たたみかけ」がもうただのハードルなぎ倒し走法にしか見えず、観るに耐えず。

・・・というのは、まぁあくまで個人的な感想です。思いっきり主観的な。

ちなみに、登壇した監督が育ちの好さそうな爽やかな好青年で、優等生タイプに見えた。

チャン・イーモウやフォ・ジェンチーの純愛物に似合いそうな。これまた主観過ぎ(笑)

 

ただ、びっくりしたのは、

およそ「シネフィル」とは程遠い年配連が駆けつけている場内が水を打った静けさを保ち、

途中退席する観客もほとんどおらず、皆が辛抱強く最後まで(そこそこの緊張感を持続させ)

完走していたことだ。おまけにちゃんと拍手もそれなりにわいたし、質問も礼儀正しく丁寧。

こういう好い意味での「アットホーム」にこの映画祭は本当に救われているのだろう。

(これが余り「ぬるま湯」に作用しなければ好いのだが・・・。)

いや、本当にのどかな雰囲気は素直に好きですよ。

ただ、参加も2回目になると考えることも少しは出てきます。

 

ところで、本作は今年の香港国際映画祭のコンペでグランプリを獲ったとか。

その長編コンペは若手中心の部門のようだが、

コンペのラインナップを眺めておけば、ハードル上げすぎずに済んだかも。

今となっては、次点と思しき審査員賞を受賞した『恋に至る病』(木村承子)とか

ますます観るの怖い。(というか、もともと観る気が・・・)

日本からは昨年のTIFFに出品されていた『ももいろそらを』(小林啓一)も同コンペに参加。

同様に昨年のTIFFアジアの風(特集:フィリピン最前線)で上映された『浄化槽の貴婦人』も

同コンペには参加してたり、基本的にアジアの数カ国からの非プレミア上映作が中心か?

ところで、同じく今年の香港国際映画祭の短編部門でグランプリを受賞したのが

山村浩二の『マイブリッジの糸』なのだが、なんと丁度いまSKIPシティ内にある

「彩の国ビジュアルプラザ映像ミュージアム」では彼の特集が組まれている。

映像作品(アニメーション)が6作品(計60分)ループ上映されていたり、

イメージ画や原画の展示、『マイブリッジの糸』のメイキング上映、

『マイブリッジの糸』を共同制作したNFB(カナダ国立映画制作庁)が手がけた作品から

山村浩二セレクトの5作品(計41分)のループ上映までもあるそうだ。

こちらのミュージアムは映画祭期間中、映画祭のチケット(半券)で入場無料。

映画祭上映作品を観る合間に、立ち寄って観てみたいと思う。

 

 

 

ワイルド・ビル(2011/デクスター・フレッチャー) Wild Bill

 

コンペのラインナップで最もポピュラリティのある作品ではないかと予想していたが、

その期待は裏切られぬのみならず、むしろ思ったよりも地味なのがこれまた好かった。

上映時間96分。同じ街のなかだけで物語は完結。基本、親子プラス・アルファで展開。

そう、僕らの好きな「あれ」な感じ。ただ、意外と「っぽい!」と言い切れる作風もないかも。

最近のデクスター・フレッチャーが『ロック、ストック~』とか『キック・アス』の印象強い故、

リズミカルだったりアクロバティックだったりする些かカラフルポップな作風を予想するも、

むしろ「深刻すぎないケン・ローチ」的な地に足のついた英国製ワーキングクラス映画。

 

上映後の質疑応答でも話題に出ていたが、

「どの監督の影響を特に受けているか」があまり明瞭ではなかった気がしたが、

そこが好くもあり悪くもある印象。

いろんなエッセンスから自分に合うものを賢明にチョイスしたものの、

それらを一定のヴィジョンで染め上げるほどの作家的アイデンティティは未完。

だから、観始めてしばらく、本作を「どこで受け止めるべきか」が余り定まらなかった。

 

でも、状況説明的な30分(推測)を過ぎると心を直接掴み始める展開が動き出す。

「紙ヒコーキ」の緩やかな時間。屋上という解放感と、遠くを眺める悠久さ。

「バースデープレゼント」のキッチュでファニーな笑い。常套上等な手練で魅せる。

「靴屋の看板」という慎ましやかな精一杯。奇跡や幸運に頼らぬリアリスティック。

もちろん、見た目も性格も対照的な二人の息子はバッチリ御伽噺感を増幅させるけど、

さほど巨悪じゃない敵陣営の現実的な質(たち)の悪さに観客が一緒に頭抱えられたり、

やや都合好く転がり込む女神が出来すぎず出過ぎずな配慮が物語の本筋をブレさせない。

 

本作のラストは主人公ビル(チャーリー・クリード=マイルズ)の顔のアップで終わる。

そして暗転後に映し出される「父、スティーヴ・フレッチャーに捧ぐ」。

本作最大の嗚咽ポイント。反則。でも、正しい。

デクスターの父スティーヴは、本作の制作年である2011年に亡くなっている。

その数字が更に心を打つ。

 

最初から最後まで、殊更に「父親万歳!」も叫ばず、

しっかりヒーローになりきれたわけでもない父親像を慎重に擁護し続けたからこそ、

観客はビルが父親として「合格!」とは言い切れないまでも、

決して「失格」とは口にしない。その真実味が愛おしい。

 

勿論、熟れてない演出や展開も見受けられるし、

ラストに向けての疾走や収束感もややこぢんまりとした印象。

しかし、建設中の五輪スタジアムがしばしば見える風景のもつ特殊性と

それはあくまで遠景でしかなく物語は人間が紡いでいるという普遍性の対照が、

「いつの時代も変わらないもの」を映し出そうとする誠実な営みに説得力を持たせ、

実はたいしたことが起こらずじまいの小品に、たいしたものをそっと手渡されるあったか後味。

手堅くいこうとして綻んだ「未熟」感が心地よい。役者一人一人が活かされてる感も好い。

 

デクスター・フレッチャーは監督として既に二つの新プロジェクトに関わっているとのこと。

1つはミュージカル。もう1つは、イギリスからアメリカに移住したファミリーによる西部劇。

どういう作家性に育っていくのか、少し楽しみに待ちたくなっている。

 

◇作品の内容とは関係ないのだが、上映画質の粗さにがっかり。

   本映画祭は、「デジタルシネマの可能性」に焦点を当て、その未来を拓く目的もある。

   それにも関わらず、何らかの事情があるのかもしれないが、

   DVD程度の画質で作品を上映するのは、

   映画祭の意義を揺るがしかねぬ由々しき事態だと私は思うのだが。

   本映画祭への参加は2年目だし、総観賞数も大してないので不明だが、

   これがあくまで「異例」のアクシデントであってもらいたい。

   (ただ、それは現実的困難を伴うのは承知だが、何らかの説明はあっても好いと思う。

    なぜなら、映画祭では何かにつけ「高画質上映システム」による「高画質デジタル映像」

    を謳っているわけだから、それに大いに反する現実にはエクスキューズが必要でしょう。)

   デジタル素材を扱うとなると、きわめてユニバーサルなフィルムという素材とは違って、

   「想定外」や「規格外」が生じる可能性が極めて(現在はまだ)高いという現状の表れか?

   でも、当然のような不思議なような・・・アナログが確かでデジタルが不確か、という現実。

   あ、でも、ちゃんとした素材で普通に上映される本映画祭の映像はバッチリ美しいですよ。

   (デジタル撮影に合う光景と合わない光景が段々わかってくる気がします。

    ちゃんとしたデジタル撮影+デジタル上映を見続けると。そういう副産物。)

 

ちなみに、デクスター・フレッチャーが観客への挨拶のなかで、

「月曜の昼間にもかかわらず、大勢かけつけて下さってありがとう」的コメントを・・・

誰も彼に「今日は月曜だけどホリデーよ」って教えてないのだろうか・・・

そりゃぁ、確かにデクスター・フレッチャー本人が来場してのプレミア上映となれば、

普通なら(平日でも)満員の会場になっててもおかしくないもんね。

というわけで、20日(金)の2回目の上映にはもっと観客が入ってくれることを祈ります。

(というか、確かに川口は都心からはやや離れてるし、駅からもバス[無料!]乗るけど、

それにしても、自力で発見する喜びに貪欲なシネフィルってまだまだ少ないのだろうか・・・

権威のある誰かに発見されたものに追随する喜びに必死なシネフィルは多いけれど。

とか言いつつ、俺だって去年から、しかもヌリ・ビルゲ・ジェイラン最新作目当てで

初めて足を運んだ訳だから、全然偉そうなこといえないし、むしろ後者タイプなんだけど。

いや、だからこそ、こういう場に身を置くと、改めて自戒も込めて書きたくなるのです。

自由に映画を愛する(或る意味、「博愛」的ですらある)精神こそが、

「映画のある世界」を盛り上げる。と思う。

まぁ、Twitterなんか眺めてると、そういうフリースピリット溢るる猛者は結構いるもので、

勇気づけられる、というよりむしろ身の引き締まる思い(?)もしばしば。

また、この映画祭に足を運ぶ非シネフィルの「普通の映画が好きな市民」たちの

飾らず真っ直ぐで実はかなり核心ついたりもする質問や感想を聞いてると、

数や種類をこなして語りすぎな自分の曇ったレンズが時折浄化される想い。

というわけで、そんな謙虚と新鮮を求め、今週は何度か川口へ足を運びたい。)

 


SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2012(0)

2012-07-10 23:59:05 | 2012 SKIPシティ国際Dシネマ映画祭

 

久しぶりの更新。約2週間ぶり、ということは半月ぶりということか。

4月以降、思うように映画の感想を書ける時間がとれぬまま、

既に夏も本番を迎えようとしつつある。

例年、この時期は仕事も生活もペースがつかめず、

映画を観ることもままならない。ましてや・・・な状態だったのだが、

今年は、映画はそこそこバッチリ観てる(笑)

そのかわり、それをじっくり消化する時間はとれていない。

7月になったことだし、上半期ベストと称して総括がてらダラダラ書こうと思ったが、

まぁそう後ろ向きでいるよりも、いっそ前向きにいきましょー!ってことで(ウソ)、

今週末から開催されるSKIPシティDシネマ映画祭2012のラインナップでも見てみるか、

って趣向です。というか、自分が観る作品を選ぶに際していろいろ調べてたところ、

ついでだから記事にしちゃえってだけのことなのですが。実際のところは。

 

昨年はオープニングで

ヌリ・ビルゲ・ジェイランの『昔々、アナトリアで』が上映されるという贅沢な幕開けだったが、

今年はコンペ以外に目立った目玉はなく(あくまで個人的な印象では、だが)、

その分コンペで面白そうな作品をできるだけ観てみようかと。

コンペは、デジタル撮影された作品を対象に世界から集まった長編を審査する部門と、

国内の若手映像作家による短編を審査する部門がある。

前者を中心に(限定して?)観賞作品を選定しようと思い、

長編コンペディション部門のラインナップを眺めつつ諸々調べてみたりした。

 

まず、「情報」的に注目というか、作品の質が高そうな作品を3本。

 

沈黙の歌(2012年/チェン・ジュオ) Song of Silence

今年の香港国際映画祭で、ヤングコンペティション部門のグランプリを受賞した作品。

同映画祭の同部門がどのような質・傾向だかはよくわからないが、

今年は『恋に至る病』(木村承子)が審査員賞を獲っていたりもするらしい。

監督は初長編とのことだが、建築を学んだりアートの世界を広く渡り歩いたみたいだし、

予告編を観る限りなかなか好みそうなので、是非観てみたいと思う。

中国のインディペンデント映画は今、本当に面白いからね。

 

二番目の妻(2012/ウムト・ダグ) Kuma

今年のベルリン国際映画祭パノラマ部門で上映されている。

この監督も長編一作目だが、実力派ベテランのプロデューサーがバックアップしている。

ミヒャエル・ハネケの作品を手がけてきた(最新作『LOVE』も)ファイト・ハイドゥシュカと、

『4分間のピアニスト』などでクリス・クラウスと組んだりしているHeinrich Mis。

本作は、いくつかの映画祭で既に賞を与えられている模様。

ウムト監督はウィーン・フィルムアカデミー出身で、ハネケの指導を受けてようだ。

(『ルルドの泉で』のジェシカ・ハウスナーも同アカデミーでハネケに師事。)

プロデューサー&師匠の影響によるハネケ・テイストと、

クルド人移民の家族に産まれたという出自、本作で描かれるトルコ系家族のイスラム世界、

どんなケミストリーが起こっているか、非常に楽しみ。

 

 

レストレーション~修復~(2011/ヨッシ・マドモニー) Restoration

私の最も嫌いなタイプの邦題だが(笑)、まぁそれはどうでもいい。

本作も既に数々の受賞歴があるようで、サンダンス映画祭でも脚本賞を受賞している。

地元イスラエルのアカデミー賞では10部門以上でノミネート。(受賞は音楽のみ)

エルサレム映画祭でもグランプリ(たぶん)を受賞しているようで、

数年前の同映画祭でグランプリを獲ったのが、

TIFFでもグランプリを獲得した『僕の心の奥の文法』だったりすることもあり、期待。

『僕の心の~』はTIFFグランプリなのに劇場公開も何もないまま2年近くが経とうとしてる。

個人的にも「グランプリ」だった(コンペ半分くらいしか観てなかったけど)一作だっただけに、

何かしらの形で紹介される日を心待ちにしているのだが・・・。

ちなみに、本作は昨年のカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭のコンペにも出品されており、

そちらでもグランプリを獲得。ちなみに、今年の同映画祭コンペには日本映画も参加。

高橋恵子主演の『カミハテ商店』(今秋ユーロスペース公開予定)という作品。

 

といった既に一定の評価を得ている作品はいずれも地味であるからか、

他の作品には明るめだったりポピュラリティのあるものが選ばれている気もする。

 

コンペのなかで最もポップだと思われるのが、

ワイルド・ビル(2011/デクスター・フレッチャー) Wild Bill

監督名を見て「!」となる貴方はなかなかのUKフィルム通。

(私は顔見るまで気づけませんでした。)

そう、『ロック・ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』のあのメンバーであり、

最近では『キック・アス』にも出演。『三銃士』ではダルタニアンの父親役でした。

本作が初監督作のようですが、早くも次作が決まっているようで、

そちらはマーク・ストロング主演の模様。

本作には、ジェイソン・フレミングも(チラッと?)出演したりしているみたい。

主要キャストの一人でもあるサミー・ウィリアムスは『アタック・ザ・ブロック』にも出てるみたい。

あと、英国TVドラマ『Misfits』でオタクキャラ演じるイワン・リオンも正反対キャラで出演。

昨年コンペの『タッカーとデイル~』枠的扱いの一作かな。好評なら劇場公開ありそう。

 

昨年のコンペにも参加していたトルコ映画。今年も参加。

我が子、ジャン(2011/ラシト・チェリケゼル) Can

こちらもサンダンス映画祭で今年、ワールドシネマ部門の審査員特別賞を受賞している。

(今年のIDCF[SKIP~映画祭の略称]コンペはサンダンス絡みが結構多いみたい)

トルコ映画界が新鋭セイフィ・テオマン監督を今年5月に交通事故で喪った悲しみは

かなりのものだったに違いないが、後に続く新たな才能への期待も大きいだろう。

実は、テオマン監督作は観たことがないので、何処かで観られる機会をつくって欲しい。

何しろ、台湾ニューウェイヴに最も影響を受けたというのだから。

 

他はいまのところ個人的注目は低いのだが、『死と乙女という名のダンス』には、

『星の旅人たち』(好き!)でタバコやめられないサラ役のデボラ・カーラ・アンガーが出演。

『真実の恋』は予告観ると、邦題やチラシの写真とかなり印象違うけど、実際は!?

『旅の始まり』はもともとオランダで放映されたテレビ映画のようだ。

『ノノ』は予告を観る限り、ファミリー層へのサービス的チョイスなのかなぁ~なんて。

なにしろ、この映画祭は超絶アットホームな雰囲気ですからね。

郷土愛あふれる(みなぎる!?)川口市民に支えられてる感は其処此処に。

独特の居心地の好さが感じられもする映画祭。

 

ちなみに、日本映画も3作ほどエントリーされているのだが、

予告を観る限りでは・・・

 

あと、いよいよ存続に対する危惧も感じてしまうのも正直なところ。

というのは、過去受賞作を見てみると・・・

ロネ・シェルフィグ、ミランダ・ジュライ、スサンネ・ビア、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン

といった錚々たる顔ぶれから、

レオン・ダイが監督作で参加したり、

『ジョニー・マッド・ドッグ』や『やがて来る者』といった国際的評価も高い作品も参加。

昨年も、『シンプル・シモン』や『キニアルワンダ』といった国際的にも評価される作品が

散見できもしたけれど、やはり少しずつ小粒化してきている気がしないでもない。

ただ、それはむしろより「発見」や「発掘」が潜在する面白さにつながるかもしれない。

 

でも、運営資金が集まっているのかという心配も。

というのも、最優秀作品賞に贈られる賞金が、

第5回まで1,000万円だったのに対して(それはそれで随分高額だけど)、

第6回が600万円、第7回が300万円、そして第8回(昨年)はついに150万円に。

 

そして当然、審査委員の面子もわかりやすく・・・

監督や役者だけの審査員団も微妙だけど、そうした者が一人もいないっていうのも・・・

過去の審査員がなかなか豪華だっただけに、余計・・・

(過去にはメイベル・チャンやホン・サンスなんかも審査員やってたり)

 

とはいえ、このイベントは市民ボランティアなどによってかなり支えられているようだし、

そうして作り上げられている映画祭の雰囲気は前述の通り、他では得がたいもの。

いち早く「デジタルシネマ」という括りで発掘を試みた先進性を忘れずに、

新たな映画祭づくりに向けて飛躍していって欲しいと思う。

 

というわけで、来週は川口にぶらりと気ままに足を運べたらいいな。

川口で会いましょう(笑)