フランス映画祭での『ミステリーズ・オブ・リスボン』のままが好かった・・・。
日本版の予告編は本作のトーンと全く趣が異。あれで安っぽい大河ドラマと早計しないでください・・・。
歴史は書き手の数だけ存在する。
歴史の証人は書き手の数を凌駕する。
語った数だけ謎は増殖し、連続と断絶こそが真実で、接続接合は神話の一部。
解ける謎を楽しむミステリー。
解けぬ神秘がうごめく、ミステリーズ・オブ・リスボン。
現象におけるあらゆる因果、あらゆる連関は、
たったひとつの時間やたったひとりの受容によって整理されたりなどしない。
「いま、ここ」で起きている出来事の背後には無数の「いま、いずこ」が同時に存在し、
「いま、ここ」には「かつて、ここ」と「かつて、いずこ」がこびりつき、
「いま、ここ」が「いつか、ここ」と「いつか、いずこ」を産み落とす。
記憶による時間の連帯を、言語によって空間にまで拡張した人類は、
映像によって「世界」を整理し構築する快感に百年余り酩酊し続けてきた。
整理も管理も放棄して語る映像には「はずし」や「くずし」を感じて心酔するも、
それもまた整理や管理からの解放という自作自演に過ぎぬ自己完結。
ところが最近では、
そのどちらでもない時間や空間の構築を追究し始める作家が増えている気がする。
ラウル・ルイスもそうした一人なのかもしれない。
デジタル撮影によると思われる映像はもはやフィルムの美とは競わない。
フィルムの豊潤さと張り合う気などないかわりに、そこには極めて淡泊な物質美が宿る。
ところが、そうしたフラットさ(フィルムは必ず奥行をうみだしてしまう)はきっと、
観る者が物語に入っていこうとすることを拒むかのように(いや、無視といった方が好いか)
途切れることなく《世界》を羅列する。時間を空間を、いつでもゆるやかに移動して。
「ついてきて」などと言われることはなく、「そこで待っていて」と無表情の笑みで諭される。
4時間半、呆然と立ち尽くしていると《世界》は「白紙」に戻って終わる。
語り始める処、で終わる。
彼は何を「待っていて」と言ったのだろうか。
私は何を見ていたのだろうか。何も見ていなかったのではないだろうか。
いや、すべてを見たはずだ。いや、すべてなど見ていない。
語られたのは一部の集まり。記憶の欠片。
記憶に欠片が足されれば、記憶は十全になるのだろうか。
欠片を整理し繋ぎ合わせるとき、そこには新たな《世界》が姿を現す。
それはもう過去などではなく、かといって現在でもない《世界》が。
永遠の半過去。
いまもまだ、物語のなかを彷徨い続けているような感覚は、
そんなラウルの仕業によるものか。
◆本作における「語り手」はめまぐるしく移動する。時には入れ子を重ねつつ。
たとえば、手紙の書き手が語っていると思えば読み手が語り始める。
それは映像作品においては常套表現のようだが、本作のそれは少し異なる。
書き手と読み手が同じボールを投げたり受けたりしない。誰もが皆、マイボール。
◆そうした語り手たちを統合する役目が脚本家であったり監督だったりするのだろうが、
本作において重要なのは「交通整理」ではなく「交通」そのものなのだと思う。
つまり、往来の管理や予測を目的とせず、ひたすら往来の瞬間を捉えた視点の展開。
ただ、「交通」そのものは流動かつ無限な運動であるから、到底捉えきれるわけがない。
しかし、一人一人は自分の眼で感覚で理性でそれを解明しようとし、解釈を重ねる。
ところが、そうした講釈が重なれば重なるほど、現実の重層性が深層から遠ざける。
掘り下げるほどに浮き上がるかのような不思議な感覚。
◆冒頭で、(一応)主人公の孤児は自らに姓のないことを嘆き、
「ただのジョアン」である悲しみを語る。
そして、本作においては名前が飛び交うばかりでなく、しばしば移ろいゆく。
自分自身を承認するために、他者向けの(の為にある)名前が用いられるという現実。
それは《自己》がいくらでも更新可能である事実と共に、把捉不能であることの証左。
そして、それはまさに苦悩そのもの。そして、本作は「苦悩の日記」との断りから始まる。
◆常に精緻な構図を崩すまいとして移動するカメラ。
それは、モーション・ピクチャーというよりも、ピクチャーズ。
一秒一秒の静止画が、丹念につながれては浮かび上がる《世界》。
それはまさに「フィルムの営み」だったわけだが、デジタルで新奇なそれを追究する。
一方で、フィルムによる《世界》のコーティングがない分、
デジタル画質の「剥き出し」感が、時空の隔てを強制撤去。
現代性をも匂わせる空気が映り込む。
◆興味深いのは、本作における画はどれも(ほとんど)、
「そこにいた人」すべてを収めようとしている点にある。
つまり、使用人であったり当事者ではない者たちだからといって、
フレームの外に出さない。
時にはいずれもが等価であるかのごとく存在させる。
どんな事象にも当事者か否かの境目などないとでも言っているかのようだ。
そして、行為や現象は、主体と客体だけで完結せずに、
無数の証人が存在する。それは同時に無数の主体と客体が取り囲んでいることであり、
無限の展開を内包しているということ。そんな「真実」を包含しつづける本作の画。
◆「本流」から始まり、それはめくるめく「支流」へと分かれてゆくが、
それはまた「本流」に還ってきたかのように思われたとき、
結局すべては「海」に注ぐだけ。「母」なる海へ。
何処の水がどれだけ何処に注いできたか。
そんな問題が無化される「海」へ。
そんな事を問題にしない「海」へ。
これだけ血縁や関係性を物語の原動力にしておきながら、
なぜか《父》という存在に対する淡泊さは異様にも思われる。
序盤で語られる主人公(?)ジョアンの父にしても驚愕の瞬殺。
そして中盤で唐突に出てくる「実は私はお前の父親なのだよ」という某人物の告白。
しかも、その関係性は《世界》と没交渉。自分の命と引き替えに出産する母とは対照的。
かといって、《母》なる存在を執拗な重厚さで描こうともしていないが。
気づけばどの関係も、あくまで「位置」や「行為」で生じるだけかのような対物活写。
上映後にメルヴィル・プポーが、「ラウル・ルイスは心理に立ち入った演出はしないし、
そうした発想に役者が耽溺しそうになれば意図的に攪乱しようとする」と語っていたが、
それは唯物論的世界観から来るものなのかもしれない。
というか、本作における《世界》は明らかにそうした感興に溢れかえっている。
◇観る人によって異なるだろうが、私は後半(第二部)の方が圧倒的にあっという間だった。
前半は個々の物語が矢継ぎ早に入れ替わり立ち替わりで、頭での再構築に四苦八苦。
ところが、後半は個々の物語がゆるやかにたおやかに流れだし、身をゆだねるのみ。
まさに、前半が川の上流なら、後半は下流の様相だ。そして、最後は記憶の海へ。
◇とはいえ、やはり有楽町朝日ホールでの4時間半観賞(途中20分休憩あり)は、
さすがに体力消耗度はハンパなく、しかしそれが「ランナーズハイ」的効果ももたらし・・・
途中何度か「眠気ざまし」に救われた(笑)
前半の途中でビニール袋を何度かいじってた観客に注意した男性の声(結構怖かった)や
後半にようやく登場するメルヴィル・プポー・・・ではなく、
カメオ出演ばりにあっさり引っ込むレア・セドゥ!!
「また出てくるはず」という淡い期待が、知らず知らずのうちに覚醒を(笑)
あと、フランス映画祭では他の映画祭に比べて女性の比率が極めて高い印象だが、
本作の観賞においては前後左右すべて中年男性・・・
しかも両隣とも(こちら側の)肘掛けつかって時折頬杖。近い近い・・・
という適度な不快指数(笑)も奏功したのではってことで結果オーライ。
◇チラシ等に「ミステリーズ・オブ・リスボン(仮)」となっているということは、
別の邦題がつく可能性が高いのか?同じくアルシネテラン配給の「Chantrapas」みたいに。
まぁ、確かに4時間半の映画にシネスイッチ銀座御用達マダム連を呼び込むには、
彼女等のハートを掴むにふさわしい芳しき麗題が必要になりましょう・・・
◇本作は全6話のテレビドラマとしても放映されたようなのだが、
そちらも是非是非観てみたい・・・が、やはり叶わぬ願い!?
それにしても、今年の後半は超長尺映画の公開が目白押しだな。
『ジョルダーニ家の人々』(岩波ホールで6時間39分!)や
『カルロス』(全三部合計5時間30分)、そして本作(4時間27分は可愛い方か)。
ちなみに、私は爆音映画祭で『精神の声』(合計5時間28分)を観賞予定。
前回観たときは、休憩が3回くらいあったり、各部のトーンや内容に差異があったりで、
バッチリ覚醒なまま完走できたが、果たして今回は!?
滅多に劇場観賞できる機会もないし、興味ある方は是非!
(といっても、平日の昼間だから実際は多くの人が困難・不可能だろうけど)
◇現在ユーロスペースにて、29日からは東京日仏学院にて、
「メルヴィル・プポー特集|誘惑者の日記」と題されたフランス映画祭の連動企画開催中。
そのなかにはラウル・ルイス監督作が6本あり、いずれも稀少で貴重な上映機会。
9歳のメルヴィル・プポーが出演している(デビュー作)という『海賊の町』は
30日17:00(メルヴィル・プポー登壇)と7月6日14:00の2回上映があるものの、
「世界で1本しかない」という(本日メルヴィル談)フィルムでの上映は30日のみ。
私はおそらく駆けつけられないので、皆さん代わりに堪能しまくって来て下さい・・・。
※参考記事
9月にアンスティチュ・フランセ東京で組まれたラウル・ルイス特集の感想。