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Living Is Difficult with Eyes Opened

東京国際映画祭2012/Day8

2012-10-29 23:59:08 | 2012 東京国際映画祭

 

NO(2012/パブロ・ラライン)

 

 

メイジーの知ったこと(2012/スコット・マクギー、デヴィッド・シーゲル)

 

 

アクセッション-増殖(2012/マイケル・J・リックス)

 

今年のコンペ作品のなかでは断トツの問題児。

けどねぇ・・・魅惑の悪行って感じよりも、低俗な悪ノリで成立してる印象で。

こういった作品がコンペのラインナップに紛れ込んでることは十分面白いし、

そうした政治性も必要だとは思うので、

ラインナップのうちの1作としての存在意義は認めるけれど、

肝心の作品自体にそれ以上の威力が感じられないのもまた事実。

途中退場者とかゾロゾロ出るのかと思いきや、律儀に最後まで付き合う観客ばかり。

といいつつ、自分も最後まで観た訳だけど。

まぁ、六本木の7番スクリーンの中央寄りに座ってて

途中退出は困難(というか迷惑)だからね。にしても、後半長かった。

たった78分しかないのに、最後の20分くらいは1時間に思えるほど冗長の極み。

凄惨な展開が映し出されてるはずなのに、ここまで間延びするって相当・・・。

というか、このような題材であのような見せ方しかできないのなら、

せめて短編として仕上げれば好いものの(それならば、手法的にも至極納得)、

無理矢理長編に引き延ばした感は否めず、かといって長編たるべき根拠は見当たらず。

 

非業の数々は意外にも、周到に「見せない」手法が選択されており、

(何も見せて欲しい訳では無いけれど)そうしたところも題材に対しては随分安っぽい。

その「見せない」のやり方も、ただフレームの外に出すという安易さが鼻につき、

題材に対する誠実さに疑問を感じざるを得なかった。

 

でも、勿論、こういった作品を評価する声があっても好いと思うし、

自分に反応するような要素がなかっただけだとも思うわけだけど、

この手の作品を上映した後のQ&Aが褒め称すばかりの予定調和な空気なのには、

ちょっとガッカリ。(じゃぁ、自分が「殴り込み」かければいーじゃんって?

いやいや、そんな度胸ありません・・・。)

まぁ、そういうところも日本の観客の好いところなのかもしれませんが、

いつも長々と自らの評論もどきを展開しては序でに質問するような輩こそ、

こういう作品で思いっきり批判を展開してくれれば少しは許すのに・・・とか思ったり。

 

 

天と地の間のどこか(2012/イェシム・ウスタオール)

 

 

とにかく大きなスクリーンに拡がるシネマスコープ映えする画が次から次へと展開され、

荒涼たる寂寥をフィルムで収めた映像が見事に映画であり続ける2時間強。

(『NO』の粗さ、『メイジー~』のキラキラ、『アクセッション』の素人臭、の後だから余計に)

主演二人の絞り取られても滲んでくる瑞々しさの切なさが愛おしい。

広漠たる地を背景に、どこまでも閉塞で満たされゆく囚われの若者は、

居場所も行き場所もなく、一箇所に留まる彷徨に辟易するばかり。

執拗に顔をクローズアップするカメラと、広がりこそが幽閉の証のごとく映される遠景。

 

女性監督だけに、女性同士のシーンや女性の内面の掘り下げ方には熟練と信念が、

青年の暴走や青年同士の幼さを描く際には何処となく漂う他人行儀がむしろ淡泊で好い。

『動くな、死ね、甦れ!』なんかが好きな人(俺!)はいつまでも浸っていたい世界が続く。

 

終盤の展開(スキャンダラスな急転直下)に関しては賛否が大いに分かれそうだし、

正直「違う流れ」や「違う落とし前」を期待したくもあったけど、

あそこで逃げない覚悟こそ、女性の強さの象徴なのかも。

監督しかり、女優しかり。・・・ひよった『アクセッション』よ、見習いたまえ(笑)

映画祭最後の1本としては非常に満足な、映画の力に充ち満ちた作品でした。

 

◇撮影を担当しているMichael Hammonなる人物は、

   ドイツの名匠アンドレアス・ドレーゼン作品で撮影を担当しているベテランのよう。

   どうりで「確かな画」を着実にフレームに収めていく丹精が感じられるわけだ。

 

◇イェシム・ウスタオール監督は多作ではないようだが(むしろ寡作)、

   映画を撮り始めてからは長いようで、

   1999年の『Günese yolculuk(Journey to the sun)』という作品では

   ベルリン国際映画祭のコンペにも選ばれている実力派のようだ。

   他にも、国際映画祭での受賞歴が散見されるし、機会があれば観てみたい。

 


東京国際映画祭2012コンペ受賞予想&結果

2012-10-28 12:48:23 | 2012 東京国際映画祭

 

今年はコンペティション作品をそこそこ(12本)観たので、

勝手に受賞予想なんかをしてみようかと。

全作品観てる映画ファンも結構いるのだろうし、

堅実な映画鑑賞眼を有した方の予想に比すれば落書レベルですが、

賞味期限のある落書を公にぶちまける!というのもブログの醍醐味かな、

等と都合の好い拡大解釈に便乗する休日昼下がり。

 

 

コンペでは『風水』『黒い四角』『未熟な犯罪者』の3作品を観ていません。

別にアジア映画が苦手という訳ではないのですが(むしろ好きです)、

スケジュールの都合と、アジア映画なら観る機会ありそうという無根拠憶測で、

見逃してしまいました。なかでも、評判の高かった『風水』を観なかったことを後悔。

というわけで、以下の予測に上記3作品は(基本的に)含まれておりません。

 

予想するにあたって「台風の目」となるのはやはり『フラッシュバックメモリーズ3D』。

先ほど発表された観客賞は予想通り獲得しましたが、審査結果ではどうなるか!?

個人的には揺さぶられ度ぶっちぎりNo.1だったので、勿論グランプリ受賞!

なら嬉しいことは嬉しいですが、作品が作品なだけに、正直それは困難とも思え、

「コンペ作品に入っている」という事実自体がある意味「栄誉」であると考えるなら、

無冠であったとしても(積極的な)当然かとも思える部分もあります。

が、観客の熱狂ぶりを考えた場合、何らかの賞が与えられるだろうとは思います。

そう考えると、審査員特別賞・監督賞・芸術貢献賞あたりが有力かと。

作風からすれば芸術貢献賞あたりが妥当(というか無難)な気もしますが、

賞のランク(?)的に物足りなさも感じるので、監督賞として松江監督自身を賞賛!

と行きたいところですが、作品の性質上、監督だけにスポット当てるのはやや躊躇われ、

そうなると二等賞(なのかな?)にあたる審査員特別賞あたりが有力ではないかな、と。

あまりズバ抜けた作品がないように思われる今年のコンペラインナップからすれば、

グランプリもあり得なくはないと思うものの、『フラッシュ~』にグランプリ授与するのは

かなり冒険というか、東京国際映画祭コンペの新たな方向性を(結果的に)示す訳で、

『フラッシュ~』がグランプリを獲得するようなコンペの方向性は素晴らしいと思う反面、

昨年の『最強のふたり』からの流れを考えると、単なる無節操として一蹴される怖れも。

ということで、『フラッシュバックメモリーズ3D』は審査員特別賞で我慢します(笑)

 

※受賞結果を踏まえてのコメントを付け足しました。

 

そうなると芸術貢献賞は、

技術的な手法のアイディアが作風と見事な有機性を持ち得た『NO』か、

表現方法においてオリジナリティを模索し藻掻いた『イエロー』あたりに授与されそう。

『NO』は既にカンヌの監督週間でグランプリを獲得していたりもするので、

作品の未熟な側面にこそニックの今後への期待を託すことにして、『イエロー』。

(昨年同賞受賞の『デタッチメント』とも位置づけ的に似た枠に収まる印象だし)

 

受賞結果:『テセウスの船』

芸術性重視には傾かなかった今回の受賞結果において、

やはり芸術貢献賞というだけあって、ちょっとした前衛性を出したかったようですね。

確かに映画的な美はそれなりに漂っていましたが、個人的にはそこまで・・・。

まぁ、監督へのエール的意味合いが色濃いのではと理解します。

 

今年のコンペ作品は男優よりも女優の存在感が遙かに上回っていた。

主演した女優の強烈な個性を堪能できたのは、

『天と地の間のどこか』、『ハンナ・アーレント』、『イエロー』。

迷った挙げ句に異論回避策として『メイジーの知ったこと』の

メイジー役(オナタ・アプリール)に与えてしまうという手もなくはないだろうが、

さすがに自覚的な演技とは別のところで瑞々しさを湛えていただけに、それは違和感。

体当たりな側面を評価するなら『天と地の間のどこか』のネスリハン・アタギュル、

技巧と円熟の賜物への賞賛なら『ハンナ・アーレント』のバルバラ・スコヴァ。

他の賞とのバランスも考慮して決まりそうだから、その2作が他の賞にからむなら

W受賞を避けるか、もしくはグランプリに選ぶならまとめて授与してしまうか。

女優賞は興味深い。

 

受賞結果:ネスリハン・アタギュル(『天と地の間のどこか』)

これだけだよ、当たった(かすった?)の。やってることがやってることだけに、

敢闘賞的に授けたくなるが、それだけじゃなく彼女の表情は本当に焼きつくインパクト。

造形的にも実は意外と特徴的なつくりの気もするし、今後の活躍が楽しみ。

 

一方で、男優賞は混戦というか、存在感にやや欠けるというか。

それなりの「個性」を画面から放ったのは『アクセッション』や

『ティモール島アタンブア39℃』の主演男性なわけだが、男優賞という感じでもない。

いっそのこと『フラッシュ~』のGOMAさんにあげてしまう!という手もなくはないが、

おそらく他の賞で讃えるだろうから、ここは普通に俳優に授けておきそう。

となると、来日もしたソーレン・マリン(『シージャック』)か、

とにかく終始作品の顔であった『NO』のガエル・ガルシア・ベルナルあたりかな。

脚本賞があれば獲得してそうな『シージャック』に与える枠に不足していそうだし、

ソーレン・マリンに落ち着きそうかな。(勿論、演技も素晴らしかったと思います。)

 

受賞結果:ソ・ヨンジュ(『未熟な犯罪者』)

まさか未見の『未熟な犯罪者』が二冠とは・・・。

粗製濫造傾向が高まりつつあっても、秀逸な韓国映画は一定数生み出され、

だからわざわざ東京国際映画祭に出品しようっていう韓国作品は微妙なのでは?

等というテキトーな憶測で観賞を見送ったというのが正直なところでした。

観ていないので何とも言えない。が、女優賞にしても男優賞にしても、

ヤング・ゼネレーションに期待!な選択は嬉しくもある。

 

監督賞を予想するのが最も難しい。

功労賞的意味合いを含ませるなら『ハンナ・アーレント』のマルガレーテ・フォン・トロッタは

丁度好い(映画祭としても、それなりの権威を保てる印象だし)けれど、

ここは敢えて『ティモール島アタンブア39℃』のリリ・リザに与えて欲しいという個人的願望。

同作はワールドプレミアであったこともあるし、今後の彼の活躍を後押しする意味でも。

 

受賞結果:ロレーヌ・レヴィ(『もうひとりの息子』)

結局グランプリも獲得した『もうひとりの息子』が監督賞も持って行ったのか。

ちょうど今年のヴェネツィア国際映画祭では、

コンペ規定にグランプリ作品は複数受賞できないみたいな条項があったらしく、

『The Master』が金獅子から監督賞&男優賞に変更になったというエピソードが。

作品賞と監督賞が別に設けられてる以上、

監督への賞賛は既に作品賞に含まれているわけで、

作品賞として授与するには困難な、野心や挑戦を伴った作品の監督に授与を。

というのが個人的な意見だったりもするわけです。

他にも充実した内容の作品があっただけに、

2つの作品にW受賞させた結果は少し残念に思えてしまいます。

 

審査員特別賞は、前述の通り『フラッシュバックメモリーズ3D』ではないかと踏むが、

未見ながら高評価が聞こえてくる『風水』あたりに与えられても好さそうな枠ではある。

政治を文化に持ち込ませないためにも、あえて文化で政治的な決着をつけるというか。

いや、そう捉えられるかもしれないという困難が授けるにしろ授けぬにしろ難しい。

『風水』には女優賞あたりを授与するということもありえそう(未見で無責任な予想だが)。

 

受賞結果:『未熟な犯罪者』

今回の受賞結果からすると、『もうひとつの息子』と『未熟な犯罪者』の2作品が、

他のコンペ作品から図抜けていたという総評に行き当たるような結果なわけですが。

(本作は未見ながら、12本観た限りではそういった概観に私は至っておらず。)

審査委員長(ロジャー・コーマン)がよっぽどこの2作品を気に入ったのかな。

とりあえず『未熟な犯罪者』は公開されそうだから、是非観てみたい。

 

グランプリは、これまでの傾向(昨年の『最強のふたり』は除く)からすると、

芸術性を備え、新しい才能を感じさせる作品が選ばれるように思う。

そう考えると、質は高くも堅実すぎる『ハンナ・アーレント』や、

既にカンヌで評価済な『NO』(アカデミー外国語映画賞のチリ代表でもあるし)よりも、

『天と地の間のどこか』あたりを積極的に持ち上げてみる意義は大いにありそう。

ただ、審査員長的な好みや論理が介入してくると、全く読めそうもない。が、

『天と地の間のどこか』は、今をときめくトルコ映画への評価も兼ね、

女性への売り込みもしやすい(劇場公開の可能性あり)メリットも顧慮、

監督に壇上で直接賞を渡せるし(昨年は受賞者ほとんど不在)、

制作や配給にはヨーロッパの有力会社もついているようだし、

そうした妥当性としても絶好かと。

いや、勿論、個人的には作品としてもなかなか魅了されました。

(終盤の展開に関しては、まだ自分の中で消化不良というか保留中ではありますが)

一般的にはかなり高評価の『もうひとりの息子』や『メイジーの知ったこと』は、

個人的なツボを見事に外された(というか逆ツボにはまってしまった)為に、

予想の候補として除外前提っぽくなってしまっていますので、

そのあたりの2作が審査員団(の誰か)に見事に響いていたとすると、

随分と異なった選出になるだろうなぁ、とも思います。

というか、そもそも「予想」という客観性からの判断を心がけつつも、

やっぱり結局は主観で判別しちゃうものですね。

さて、あと1時間ちょっとで受賞結果も発表になります。

LIVE中継では観られそうにありませんが、後から「結果」に対する感想も付記します。

というか、それより書かずじまいの鑑賞記録(感想)を少しでも埋めたい…。

(参考:昨年のTIFFコンペ結果発表時の記事というか愚痴(笑)はこちら。)

2012/10/28 12:49

 

受賞結果:グランプリ『もうひとりの息子』

いやぁ、最も怖れていたことが(笑)

一般的には相当に好意的に受け止められていた本作。

(終映後の拍手は最も盛大だったように思う。)・・・にもかかわらず、

個人的には序盤から不穏な苦手因子を感じつつ、最終的には些か積極的にNO。

なぜ受け容れられないか、については改めて作品の感想としてまとめたいが、

役者は皆好かったし、描きたいと思っているテーマも素晴らしいとは思うが、

それを語るための材料が見事に「材料」視されてしまっているようで、

メッセージが醸造されてくるのを待てずに巧緻な逆算で物事が決まってゆく印象。

全く異なるタイプだが、前年度グランプリ『最強のふたり』と大いに通ずる苦手因子。

 

思えば、昨年も今年も審査委員長はプロデューサー業が主の人物。

今年なんて映画監督が二人入ってはいるが、一人は滝田洋二郎。

そう考えると、映画祭事務局が東京国際映画祭のコンペをどう見せていきたいかが

如実に見えてくる気もする。『最強のふたり』を「成功例」として倣っていく方向性!?

ウー・ニエンジェン、ニコラ・ピオヴァーニ(2007年)

フォ・ジェンチイ、セザール・シャローン(2008年)

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(委員長)、

イエジー・スコリモフスキ、カロリーヌ・シャンプティエ(2009年)、

ニール・ジョーダン(委員長)、ドメニコ・プロカッチ、ホ・ジノ、根岸吉太郎(2010年)

といった、非常に興味深い制作者たちが審査を担当していた近年だけに、

審査員の選定で微妙な大衆化を画策するというこの中途半端さは、

今後のTIFFコンペの方向性を変えていきそうに思えてならない。

 


東京国際映画祭2012/Day7

2012-10-27 09:58:13 | 2012 東京国際映画祭

 

フラッシュバックメモリーズ 3D (2012/松江哲明)

 

 

ハンナ・アーレント(2012/マルガレーテ・フォン・トロッタ)

 

 

もうひとりの息子(2012/ロレーヌ・レヴィ)

 

同日に観た2作が、観る前からの思い入れを更に上回る私的傑作だっただけに、

本作は観る前から分が悪かったのかもしれないが、それでも序盤は見入ることができた。

ただ、この物語が扱う(描きたい)テーマにとって、その前提の都合好さが気になり始め、

次第に物語に気持ちが入ってゆけなくなってしまったのが正直なところ。

 

イスラエル人とパレスチナ人の生後間もない赤ん坊が病院で取り違えられてしまう。

その真実を青年となった彼らや家族が知った時、そこに生じる葛藤の行方を描く物語。

しかし、その二者が正面衝突せずに済むような設定が予めインプットされている。

イスラエル人家庭は元来フランス人(系)の夫婦であり、パレスチナ側の青年はパリに留学。

フランス映画ゆえの設定なのかもしれないが、あまりにも都合が好すぎるフランス繋がり。

例えば、パレスチナ側の青年がフランスに何ら縁も無く、フランス語も喋れなかったら?

イスラエル側の青年にしても、両親がフランス系ユダヤ人であるだけに、

パレスチナに対しても随分と穏当で、自らが非ユダヤ人であることを知ったことによる

アイデンティティ・クライシスだっていつの間にかうやむやになってしまっていたりする。

他者(相手)との対話や理解にばかり興味が費やされ、自己における懐疑や不安が等閑。

しかも、キャスティングとしても違和感が残る。

二人の青年の顔が「取り違えられて当然」なほど、

「逆のままが自然」なヴィジュアルなのだ。その意図がわからない。

真実を知る前までの時間に説得力をもたせたかったのかもしれないが。

 

些末なことかもしれぬし、私の見間違いかもしれないが、

車に乗っている場面が妙にスクリーン・プロセス風な見え方をしていて、

「こういう風にしか撮れないんだったら、何も無理して・・・」などと思う小さな興醒めも。

ロケ撮影には魅力的な画もなくはなかったが、映し出される二つの共同体の落差が、

ステレオタイプというか見せしめ的だったりするのも気になった。

本人がフラットでいる自覚こそがジャッジ・メンタルに陥っているようで。

 

また、監督(脚本も)が女性ということもあってか、

「絶対的母性」とでも言わんばかりに無条件に迷いなく理解や受容する二人の母親。

そして、イデオロギーの囚人として社会的な関係性から敵対心を氷解できぬ父親二人。

その余りにもあからさまなコントラストのためのコントラストが、やたらと鼻につく。

それは、パレスチナ側の青年の兄の描き方にも典型的。色分けされたキャラクター。

それ以上でもそれ以下でもない機械仕掛けのロール・プレイング。

おまけに、その最も宿怨にまみれた彼が、あっさりと理解や受容に転化する。

とにかく、道程を静かに凝視する時間は全くなく、気持ちの「結果」が羅列されてゆく。

内面で起こっていることをじっと見守ることは耐えられず、行動ばかりで示してしまう。

示唆によって背景や行間から観客に各々の意味を読み取らせよう等とは一切しない。

かといって、そこに描かれている事象それ自体もちぐはぐにしか映らない。

ある意味、『最強のふたり』にも通ずる人物=記号なドラマ。

公式を連ねただけの計算式では、世界の複雑は描けない。

 

◇でも、『The Other Son』という原題はなかなか気に入っていたりする。

   「もうひとりの息子」って言うと「Another Son」(の意)っぽく聞こえてしまうけど、

   『The Other Son』という響きには、「もう一方の」という意味と同時に、

   「反対側の」といった意味合いが色濃く刻まれているわけで、

   そこに編み込まれた《敵対》が切実さをもって響く妙。

   できればそうしたニュアンスを活かした邦題が好いかもね。難しいけど。

   たとえば、『向こう(側)の息子』とか、『彼方からの息子』とか、『対岸の息子』とか、

   『息子の彼岸』とか・・・まぁ、『もうひとりの息子』も悪くないけどね。

 


東京国際映画祭2012/Day6

2012-10-26 23:58:55 | 2012 東京国際映画祭

 

レイモンド・ドゥパルドンのフランス日記

(2012/レイモン・ドゥパルドン、クローディーヌ・ヌーガレ)

 

ドゥパルドンの写真をろくに見たこともなく、

『モダン・ライフ』(ドゥパルドン監督作)も見逃したままの私が本作を語るのは、

おこがましいにも程がありそうではあるが、自由で豊かなクロニクル的映像の旅。

スケジュールがたまたま都合好かったこともあって観ることにした本作。

これが望外の幸福さに包まれる豊穣な時間を過ごさせてくれたのだ。

 

現在のレイモンがフランスをゆったりと旅しながら写真を撮ってゆく映像に、

彼がこれまで撮りためてきた未発表フッテージ映像が交錯する。

 

彼の信条は、「カメラで聞き、見つめる」こと。

《作家の視線》を標榜して起ち上げた写真家集団「ガンマ」。

客観的な唯一の「真実」に収斂されようとする世界を解放しようとする営み。

 

被写体に大きなレンズを向けるとき、その大きなレンズはまさしく撮る者の「顔」となる。

だから、撮られる者は撮る者と出会い、向き合い、語り合う。

 

「待ちすぎると実物以上になってしまう。

美しい光とは実に危険(英語字幕では、tricky)なものなのだ。」

虚構の世界における光のトリックに、私たちはいつも酔いしれる。

それは時に真実を倍加させつつも、矮小化や秘匿の帰結に落とし込む。

 

「もっと外国へ行っておくべきだった。

そうすれば、この国(フランス)を撮る動機もより豊かになっただろう。」

ドゥパルドンすらそうなのだ。いわんや・・・。内省のために必要な外向き。

外へ出て、旅をすればするほど内へと還りゆく眼差しの自然。宿命。

 

エリック・ロメール『緑の光線』撮影現場の様子が映る。

レイモンの妻となるクローディーヌ・ヌーガレが録音技師として参加している。

ラストの光線を撮ろうとして夕陽を見つめている場面に感応してしまう。

ゴダールやアラン・ドロンが姿を現す映像も入っていたりする。

 

クローディーヌがレイモンと初めて仕事をしたのは、

パリ市立病院での精神病患者への取材。

ちなみに、レイモンはイタリアの精神病院(バザリア法以前の)も撮影し、

その映像も本作に挿入されている。コンテクストもなく映し出される「患者」に、

私たちは「異常」の根拠を認めることが困難だ。規準があってこそ成立する「異常」。

 

1993年の映像では、ネルソン・マンデラが2分間沈黙している。

パリの裁判所の検事室でのやりとりは、ワイズマンを思わせる傍観観察。

 

レイモンの夢は、見知らぬ女性をみつめ(撮り)続け、ふり向かせること。

レイモンは砂漠と女というテーマがを愛す。

レイモンは世界の果てまで旅したかった。いや、旅してる。

大自然の映像から継続されるのは、アフリカ、中国、アメリカ・・・。

カメラが旅をしているように、時空は消え去り、画は続き、

時間と距離は無化してゆくのみ。世界は続くよ、何処までも。

 

 

檻の中の楽園(2012/ドゥニ・コテ)

 

今年2月に日仏学院で組まれたカプリッチ・フィルムズの特集上映で、

『カーリング』が上映されたドゥニ・コテによる異色のドキュメンタリー。

そちらは見逃してしまったものの(だからこそ?)、本作は何とか観賞成就。

natural TIFF部門には掘り出し物が意外(といっては失礼?)に多く、

私が初めてこの部門で観たのはホセ・ルイス・ゲリンの『イニスフリー』だったりして。

以前ブログでも書いた『牛は語らない/ボーダー』が個人的に本当気に入ったのに、

その後まったく観られる機会がなく、いまだに寂しい想いが時々去来する。

『牛は~』も本作と同様に、台詞(?)が一切無いので、無字幕でじっと見守る映画。

昨年公開された『四つのいのち』も前年にnatural TIFF部門で上映された作品だった。

どうやらこの手の作品にはそもそも目が無いのが自分の性向のようだが、

本作はそれらの作品と似ている部分を持ちながらも、最もドライな眼差しだ。

 

本作の冒頭に登場する「動物」は、剥製。

それをデッサンする美大生(らしき若者)たち。

魂をくり抜かれた動物たちに、鉛筆で生命を吹き込もうとする営みから、

魂が入った肉体を檻に閉じ込めようとする営みへと場面が変わる。

動物園の檻が、実は本当の檻ではなかったことを識る。

あれはただの舞台に過ぎなかったのだ。

楽屋はもっと牢獄だった。

 

観念的に、「檻に閉じ込めるなんて可哀想」と想ってみたところで、

それはあくまで人間がもたらす(=動物は認識し難い)想像力の所産という自負が派生。

しかし、そんなものは顧慮でも熟慮でも何でもなく、実際息苦しく抵抗してるでないか。

動物たちはとにかく檻に身体をぶつけ、その幽閉への抗議は続く。

響き渡る音の虚無なる訴え。そこに憐れみを覚えてもいい?

 

本作では飼育員等の会話が時折聞こえるが、

字幕は無いので私には明瞭な意味が生じない。

つまり、言葉をもつ人間と言葉をもたない動物との境界線は無と化してゆく。

そうした時、観る者は日頃の言語サイドから脱却し、動物の眼と交信し始める。

やがて自らの魂は檻の中の動物に乗り移る。息苦しさに諦観せざるを得ない。

人間への親近感は消えてゆく。

剥製に魂はないが、ないのはそれだけではない。

それらの中身は発泡スチロール。

「写実」を心がけ見つめる剥製の、中身は発泡スチロール。

 

檻に入れられるのは動物だけではない。

人間の社会においては、檻をつくっては誰かを(あるいは時には自らを)閉じ込める。

しかし、その絡繰りですら生きながらえることは困難だ。

枠組は常に移ろいゆくし、神はシステムに懐疑的。

何も言わぬからこそ、すべてを語る沈黙。

おしゃべりが過ぎる人間への提言。

 

 

眠れる美女(2012/マルコ・ベロッキオ)

 

 


東京国際映画祭2012/Day5

2012-10-25 10:50:04 | 2012 東京国際映画祭

 

5月の後(2012/オリヴェエ・アサイヤス)

※どうでも好いことかもしれないが、個人的には『五月の後』の方が好い(表記が)。

 

軽やかに深化し続ける、アサイヤス。

観る度に、受け止めようと用意した構えを華麗に無にしてくれる。

傑作という言葉が絶対に似合わない傑出した作品。

 

アサイヤスの著書『5月の後の青春』を読んでから2回目を観ようと思っていたのだが、

時間の都合がつかずに断念。

内容的な感想は読了+再見(叶ったら)を経てからまとめてみたいと思うが、

(というか、観賞してから日が経ってしまっていて記憶が・・・)

とにかくいくつもの「確認」が継起する作品だったように思う。

 

今回の物語はチャプタリングの妙といった点において、

先行するミア=ハンセン・ラヴの『グッバイ・マイ・ファーストラヴ』との類似性を感じたり。

常に前のめりで語りが転がってゆく様にも同様の感慨を覚える。

ちなみに先述の著書は「ミアに捧ぐ」旨のの序詞から始められており、

執筆の初期衝動も彼女に因るところが大きいことをオリヴィエ自身が語っている。

そして、そんな彼女の存在感は個人的な感情に当然とどまることなく、

こうして創作におけるインスピレーションという形にも見事な結実を見せてくれている。

何とも美しき豊穣の果てだろう。(勿論、主演女優ローラ・クレトンも継承)

 

エリック・ゴーティエの撮影は今回も実にさりげなく美しく、

なかでも色と動きにはしばしば息をのむ。

ひとつの物語が終焉を告げる際にカメラが空へと昇ってゆく「儀礼」。

それは「進む」のでも「退く」のでもない、弁証法からの脱却たる止揚の凌駕かそのものか。

そうした浮遊する「儀礼」は、判断や評価といった意味の固定を回避や逃避ではなく、

ありのまま受納する覚悟として鮮やかだ。

 

色の鮮やかさはアサイヤス作品における筆舌に尽くせぬ魅力の一つだが、

今回は物語の背景に「政治」が色濃くあるだけに、

随所にトリコロールを意識したと思しき展開も。

ブルー(自由)のシャツを着た青年がヒッチハイクを試みるも、

赤(友愛)の車は通り過ぎてしまう。(その各色の〈意味〉は俗説みたいだけど。)

主人公が黄色のシャツをやがて愛用するようになることにも、

何か意味が隠されているのだろうか。
 

中盤に出てくる教育現場(体育館やプール)における

余りにも作為的な鮮明トリコロール色彩設計には

清々しいほど悪戯に満ちたアイロニー。

 

オリヴィエのパートナーであるミアの影響と共に、

彼自身が手がけた『カルロス』(三部作)において「大きな物語」を

彼なりに語ってみたことの経験が、

そうしたコンテクストからテクスト自体を誠実にとりだす作業へと

駆り立てたのかもしれないとも思ってみたり。

巨視的物語(社会)と微視的物語(個人)が融け合い、

懐かしくも新しい鮮やかな感覚を呼び起こす純粋疾走な時間を

歴史に刻み込んでくれたのだろう。

 

 

闇の後の光(2012/カルロス・レイガダス)

 

2009年の東京国際映画祭で特集が組まれたカルロス・レイガダス。

本人も来日し、私も上映された3本すべてを観賞。

そのいずれの回にも登壇した彼の語り及び佇まいから受けた感銘も大きく、

心底心酔。海外からDVDを取り寄せてしまったほど。

(詳細な感想はまた後で)

 

 

ニーナ(2012/エリザ・フクサス)

 

本作が監督デビューとなる女性監督による作品。ワールドプレミア。

アサイヤス、レイガダスと途轍もない強度をもった作品(その方向性は全く異なるが)を

立て続けに観た後としては、観る側にとっては好い休憩となったものの、観られる側は…。

レイガダス最新作の直後に本作を観ることによって、

レイガダス作品が「微塵も眠くない」ことが証明されてしまった印象だ。

「眠くなるとはこういうことだ」的にね。

いや、実際には全然寝てないんですよ。

それなのにずっと眠っていたような錯覚で観賞が終わりを告げる。

レイガダスの作品は例え寝ていたかもしれなくとも、その間も「観させられていた」感覚が。

観賞がただ前後になっただけなので、比較対象とするのは変だとは思うが、

そうした節操のなさからの新発見もまた、映画祭の醍醐味かと。

 

映画祭の小冊子にある本作の紹介文には、

「彼女(主人公)の漠たる不安を象徴するかのような、

広い空間をスタイリッシュに切り取る独特の映像感覚に注目」とある。

その「スタイリッシュ」という表現にどのような含みを見出せば好いのか期待と不安。

結果としては、期待させておくけど不安の示唆として帰結しても好いという絶妙表現。

確かに、撮っている本人は明らかに「スタイリッシュ」と思っている画が次から次へと。

にもかかわらず、微動だにしない心の素直。

スクリーンの大きさは映像の魅力だけを増幅させるわけではない。

映像の空虚さまでをも拡げてしまう恐ろしさ。

 

どこの国にも、こういうアダルト・ガーリー・ヒーリングみたいな世界ってあるんだね。

勿論、舞台がローマにある粋な街の静謐な時間だったりするので、

その魅力には抗えない。しかし、そうした魅力自体が映画自体に抗ってるようにも見える。

「私のこと、そんな風に撮りやがって…」というように、決して微笑んでくれない。

 

「階段を対角線に昇っていくの図」を反復する羞恥プレイの華麗さを

澄まし顔でやり遂げる監督は、知性と妖艶が共存したクール・ビューティー。

共に登壇した編集を担当している女性もまた同種のビューティーをたたえており、

その華やかさは観ていて快くもあるのだが、一方で本作の空虚さを裏書きしてしまう。

勿論、これは多分に「趣味の問題」でもあるかもしれず、客観的批判を逸脱してるかも。

 

ただ、私としては、本作のような自主制作的耽美主義を見せつけられるより、

登壇した二人によるイタリア版『バウンド』でもみせて頂きたい気分。

 

国際映画祭のコンペとしては、

何とかして「ワールド・プレミア」作品を確保したいところだったのだろう。

日本映画2本の他にアジア映画で2本を確保できたものの、

アジア圏以外からのワールド・プレミアがなかったところを補うための一本。

そう考えれば、政治的には或る程度スタイリッシュな選択だったのかもしれない。

おまけに、作品紹介のヴィジュアルは見事に文芸調の画を選択している「賢明」さ。

実際は、小林聡美が和んだり原田知世が癒やされたりする系ですからね。

 

 

ティモール島アタンブア39℃(2012/リリ・リザ)

 

『ニーナ』での見事なまでのトホホを大スクリーンで浴びた直後とあって、

本来以上の熱量を過剰に摂取してしまいそうな予感で開巻。

(フィルムじゃなくなるともう、この表現もおかしいわけか。)

 

市販されているデジタル一眼のキヤノン5Dで撮影されたという本作。

確かに客観的スペックとしては多少劣る部分はあるかもしれないが、

映画にとって大切なのはテクノロジーではなくテクニックなのだとすぐ気づく。

そして、そのテクニックは常に魂に従属せしめねば、美は単なる微。

撮る側、語る側の意気はいつも、微に美を映し出し、微も細も壮大さを約めて現れる。

大きなスクリーンに映えるはずの巧緻なランドスケープが空疎に見えるのと正反対に、

小さな構えでそっと切り取っていった世界の姿が大写しになった時の感慨にしばし心酔。

そこに横たわる小さな祈りは、その向こうにある大きな問題への遙かなる労いでもあり、

政治として対抗するのではなく、大状況に振り回されながらも生きるしかない個人の物語。

 

クライマックスでさりげなくあっけなくなされる「越境」は、

この物語が決して大きな枠組との格闘とは別次元の葛藤に根を張っていることを確認。

人間の情動を展開の原動力として都合好く注入したりなどせず、まして支配せず、

変化も関係も「定義する」ために用意されたりなどしない。

真摯さに意図せぬ慈しみが垣間見える微かな豊穣。

本作のような作品をワールド・プレミアとして上映できることは誇れるだろうし、

意義深さを映画祭に与えていると思う。