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Living Is Difficult with Eyes Opened

フランス映画どこへ行く ヌーヴェル・ヴァーグから遠く離れて(2011/林瑞絵)

2011-08-18 11:15:24 | 書籍

今回は、一冊の本を紹介したいと思います。それは、

林瑞絵・著『フランス映画どこへ行く ヌーヴェル・ヴァーグから遠く離れて』(2011・花伝社)

という本です。いくつかの映画関連ブログでも紹介されていて興味を持っており、

最近漸く読んだ本。作品批評ではなく、現在のフランス映画界が抱える問題を、

形式(主に制作・配給に関わるシステム及び、その背景となる政府や社会の動向)と

内容(監督やプロデューサー、批評家等の動向及び、彼らへの実際の声[インタビュー等])の

両面から多角的に考察しようと試みている力作です。

文章も軽妙洒脱で読み易く、客観的に論じながらも筆者の「映画愛」溢れる筆致には、

時にニンマリしたくもなる(これは読者によると思いますが)、極めて貴重な一冊。

何が貴重かって、こういった情報は本当に日本にいながらでは入手が非常に困難だから。

他国の映画ビジネスや観客動向なんて知ったところで何ら益さないだろうって?

いやいや、映画産業の抱える問題点やその背景なんかは日本と驚くほどそっくりな反面、

社会構造や政策なんかに関してはまるで異なっていたりするという事実は示唆に富み、

日本の映画文化を再検討したり、展望をもつうえでも非常に有効だと思うのです。

それに何より、堅苦しい「歴史」や「論考」ではないものだから、肩の力抜いて「へぇ~」とか

「いいなぁ~」とか「それはちょっとねぇ・・・」とか独り盛り上がりつつ、映画好きなら楽しめる

情報やネタが盛りだくさん。フランスという国やフランスの文化に関心があるなら尚更、

楽しみながら読めて、何かと「考えるヒント」がつまってる、実にユニークな映画本。

(ちなみに私は、この推薦記事で知りました。あれ、ここ読めば俺の説明不要じゃん・・・)

 

というのが、その本の大まかな内容なのですが、前半が主に事実積み上げ(情報の整理)

による現状把握であるのに対し、後半は読み応えのあるインタビューなども盛り込みながら、

「映画論」というか「映画観」といった思索が絡みつつ、ますます「自分にとっての映画(なぜ

映画をみるのか)」だとか、「映画を愛する者として何ができるか」などといった問題意識も

勝手に芽生えてきたりもし、受け取るだけでなく考えさせられる側面も強くなっていきました。

 

そうして触発されたことによって、自分なりに発展的に(だと好いんだけど)考えてみました。

 

 本書の(特に)後半では、幾人かの映画関係者へのインタビューから、ある共通する理念のようなものが抽出されていきます。それは、「パーソナルであるほどにユニバーサルになり得る視線の獲得」の中に映画の理想をみるということです。つまり、実際に描くのが個人的体験やその国の風土に根差したものでも、(いや、むしろその方が)ある種の普遍性でもって映画の感動は伝播し得るという考えです。監督では、セドリック・クラピッシュやブリュノ・デュモンなどのインタビューにそれは顕著で、一方でアルノー・デプレシャンなどは「大衆的なスペクタクル」である側面を重視します。

 両者は非常に似通った思想をもちつつも、根底では違ったアプローチを評価します。そこで、本書でも触れられていて面白かったのが、デプレシャンはフランス最難関の国立映画学校イデック[IDHEC](現在のフェミス[FEMIS]の前身、ちなみにデプレシャンが受験したときには1000人応募で20人合格という超高倍率)出身のいわゆる「エリート」で、前者2人はそのイデックを不合格になり独自のプロセスで映画を学び制作してきたタイプだという事実。私は3人共に好きな作品がありますし、特にデプレシャンとデュモンはQ&Aに立ち会ったこともあるほど好きです。

 ただ、そうした差異に接したとき、本書で何度か触れられる問題の一つである、『カイエ・デュ・シネマ』的作家主義と映画作家のナルシシズムといった、もはや旧弊的固定観念の根深さを垣間見もします。 

「パーソナルなのにユニバーサル」な普遍的価値をもったフランス映画が減少傾向にあるという現状を、筆者も本書に登場する映画関係者も危惧しています。それは、ここ日本においてもほぼ同じことが言えるのではないでしょうか。そして、そうした問題の根源にある一つの病原体がカイエ由来の作家主義であるということがここ日本にも非常にあてはまるように感じました。そして、それはフランスのそれとは微妙にスタンスや価値を変えながらも、日本に根付き、根深くなりつつあるように思います。

 つまり、丸山眞男の有名な「『である』ことと『する』こと」の論理を援用させてもらうならば、日本旧来の「である」思考の強さが、カイエ由来の作家主義(優れた作家の作品は全て優れているとみなす信条)と巧い具合に結びつき、そうした思考の心地よさに発展しているように思うのです。

 勿論、作家主義による擁護が文化の育成・熟成を促す側面があることは認めますし、そもそも(日本ではまだまだ定着していない)「作家」というとらえ方自体が文化にとって重要であることも否めません。しかし、そうした硬直化を招きかねない不自由さや、閉鎖性をうみだしかねない発想は、内向きな個性を奨励し、外向きな可能性を提示できないのではないかと思われます。 

 私も常々、「パーソナルなのにユニバーサル」な映画の無尽蔵な魅力に打ちのめされ、不思議に思いつつ、魅せられてやまない人間の一人です。しかし、なぜそんなことが起こり得るのでしょうか。

 私が考えるに、映画という表現手段は、音楽や絵画のように内面表現的な要素をもちつつも、そこで用いられるものは「目に見える」「質量をもった」ものだったりします。従って、音楽や絵画に比べ、自ずとより客観的だったり即物的だったりするわけです。そうすると、その中に作り手の〈主観〉を焼き付けるのも、またそれを読み取るのにも、それなりの困難や技術が伴わなければなりません。

 そこにある〈主観〉があまりにも客観的だったりする場合、それはニュース映像を観るときのような観察姿勢になるでしょうから、アトラクションにライドするような感覚で何も考えずに黙って座っていてもどこかへ連れていってくれるような映画の場合は、目の前で展開される物語を「追って」いくだけで十分なのでしょう。しかし、そこには何度も繰り返し味わうような豊饒さはなく、現実が内包する複雑さもない(単純化されているので)一過性の娯楽にとどまることが多いのではないでしょうか。(それはそれで価値あるものだし、私も好きです。)

 一方で、映画のなかにあらわれる〈主観〉が極めて個性的だったり個人的(パーソナル)だったりする場合は、どうでしょうか。勿論、その〈主観〉に強い共感や理解を示せるようならば、そこでシンクロしながら物語へと没入することが可能です。しかし、そうした〈主観〉ばかりが映画に現れているとは限りません。時には強い反感や、嫌悪感を覚えることすらあるでしょう。しかし、それが本当に強い個性をもつならば、そこには単なる好悪に留まらぬ「対話」が生まれ得ると私は考えます。つまり、その〈主観〉がどんなに特異なものであれ、そこに「対話」を求めるような開放的な真摯さがあるならば、同調しようが衝突しようが、作品内のなかで作家のエゴと観客のエゴが強烈な反応を起こし続けるのではないでしょうか。

 そのとき、作家のエゴが「わかるやつにわかればいい」的な発想に埋め尽くされていたり、ある特定の層しか向いていなかったとしたら、それはもう極めて閉鎖的であり、そうした〈主観〉に多様な観客が魅了されることなど、まずないでしょう。

  しかし、フランス映画のみならず、日本映画界においても、そうした独善的で閉鎖的なエゴがうごめいている現状があるように思われて仕方ありません。本書で何度も触れられていましたが、「作家主義を都合好く援用する」結果であったり、「ヌーヴェルヴァーグの誤った認識(幻想)」だったりが、そうした事態を生んでいるのは日本でも似ているように思います。

 ヌーヴェルヴァーグの作家たちは、とにかく映画を心より愛し、既存の価値や形態に揺さぶりをかけることで、自らの作品及び映画全体の発展に心血注いできた面々でした。したがって、(これは私の思い込みですが)「わかるやつにだけわかればいい」なんてことは到底思っていなかったのではないでしょうか。そうでなければ、トリュフォーが「自分の作品を褒めた人の名前は忘れても、貶した人の名前は忘れない」などと呟いたりするはずがないと思いますから。

 では、なぜ作家主義の根源的思潮をうんだ彼らには、(実は)閉鎖性は乏しく開放的であるようにすら(私が)感じるのかを考えると、それはやはり映画に対する愛情の深さと、そもそも映画というものから受けた衝撃への限りない「あこがれ」があったからだと考えたくもなるのです。つまり、自分がかつて映画から「受けとった何か」が忘れられず、あの感覚の、あの体験の中心にいってみたい。そうした強い衝動や憧憬といったものが、映画制作の原動力になり得ていたからではないでしょうか。そうしたモチベーションがある以上、「わかるやつにだけわかればいい」といった固定化した需給関係の奴隷のような発想に縛られることなど想像できません。

 それはおそらく制作側よりも批評界(そんなものが日本にあればの話ですが)により顕著だろうし、黒澤明が驚くほど辛辣に(喧嘩売る勢いで)批判した日本のジャーナリズム欠如や非建設的批評の横行と、大差ない状況が今も続いているように思えてなりません。

 ところで、本書ではフランス映画の良心の拠り所として、「中間映画」なる表現が何度か登場します。大作でも低予算でもなく、その中間の予算で制作されるような映画のことを指し、昔も今もそうしたタイプの映画に多くの名作が生まれていると述べられています。

 そこには当然、予算といった数字の面からだけではなく、大作ほどの大衆迎合はせずとも、低予算におけるナルシシズムの暴走は許されぬ、「中庸」な作家性による絶妙なバランスが果たし得る作品の普遍性があるのだとも考えられます。

 そして、そういった「中庸」の精神は、本書の著者にも垣間見ることができるし、本書の内容展開や構成にもそうした心がけが随所にみてとれます。確かに、本書を読み進めるうちに、筆者の「(映画的)嗜好」なども些か前面に出てきたりもすれば、情報から現実を組み立てていく前半に比べれば、後半は印象批評的な部分がないこともありません。しかし、対立する立場にある映画人の双方にインタビューを敢行し、どちらにも十分な思考展開を許容する収録内容には非常に好感が持てるばかりでなく、まさに「日本人だからこそ書ける」内容が散見できるようにも思われます。気のせいか、インタビューを受ける映画人たちは、聴き手が日本人である(もしかしたら、女性であるということも影響したでしょう)といったことで、(好い意味で)油断しているような、実直に答えられているような印象を受けました。

 そうして、本書はまさに「中間映画」ならぬ「中間」映画本的稀有な存在になりえたようにも思います。例えば筆者は、在仏の日本人ですから、「インサイダー」でもあり「アウトサイダー」でもあるわけです。また、とにかくデータや資料などから事実を紡ごうとする客観的アプローチと、あくまで自らの仮説を検証しようとする主観的なアプローチの両立も図られようとしているように感じます。

 そう考えるならば、そうした「中間」というか「中庸」を獲得するために必要な条件が二つほど浮かび上がってくるように思います。それは、「外に出る/いる」ことと「他者をもつ」ことです。

 「外に出る」といっても、必ずしも外国に行くだとか、内部への愛着を希薄化するとかそういうことではなく、「外から観る」ことの有効性を意識しつつ、自己に幽閉されることなき自由な視点の流動化を模索することだと思います。セドリック・クラピッシュはニューヨークで映画を学んだことで、より一層自らの「フランス人らしさ」に気づけも学びもできたと語っています。そう、つまり外に出て、「他者」と接することこそが、「自己」の理解にもつながれば、その〈主観〉を育み活かす最高の探求にたどりつけるのではないでしょうか。

 自分のことは自分が一番掴みにくいのだから、他者を鏡として自らを省みることも有益なのではないでしょうか。フランス映画に起こっていることを、日本映画で起こっていることに重ねてみる。それは何も映画に限ったことでもなければ、私などが改めて言うまでもない常識なのでしょうけれど。そして、映画制作においても「他者」の必要性は変わりません。あのゴダールでさえ、自らに意見してくれるプロデューサーの不在を嘆いているそうなのですから。

 何度も用いた「中庸」という言葉。そこには「中間」だとか「均衡」といったニュアンスを多分に含んでしまうように思いますが、人間が一つのスケールにおいて計れぬように、二つの極のどちらかに傾かぬバランス感覚を求めるのは無理だとも思えれば、またその必要もないと考えます。つまり、私の考える「中庸」とは二極の中間ではなく、二極の両立だったりするわけです。つまり、思いっきり内向きなのに、しっかり外向き。

 そう、それこそまさに、パーソナルなのにユニバーサル。

 矛盾を誤魔化したり、単純化するのではなく、矛盾をいかに鮮やかに描くか。言葉よりも色よりも、形よりも音よりも、複雑雑多な世界の「まんま」を表現できる芸術、それが映画だと私は思います。複雑だからこそ単純化した「世界」を見せてくれる娯楽の楽しみは享受しつつも、複雑な現実の深淵こそを「外から見られる」よう、「もう一つの世界(映画)」という他者に接するうちに、いつしか実際の現実を他者化する、相対化する観点を獲得できるような映画も、在り続けて欲しいと願います。