瀬々監督のピンク映画は観ておらず、彼の真骨頂未踏な自分にとって、
彼の世間的な(限定的な世間ではあるが)評価には正直ピンと来ないまま今日に至る。
フィルモ的最重要作となった『ヘヴンズ・ストーリー』は観ているものの、
もう一方の重要(?)作『感染列島』は未見だったりするので、
そうした意味でも(もどきレベルだとしても)作家論的な物言いは避けるべきだろうとは思う。
が・・・
『ヘヴンズ~』の異様な持ち上げられ方が正直腑に落ちず、
それは期せずして遭遇した監督のトークショーにおいて体感してしまった
日本映画全体に蔓延る閉塞感(後述)のコンテイジョンに慄えた今、
これはしっかりディスリスペクトせねばならんと思い・・・
というか、驚異的愚作のモニュメント作成の一助となれば(ならんわい)と思って、
ひたすら観賞中に味わわせていただいた極上極寒をフィードバックしてやるか!みたいな。
◆タイトル
タイトルがふざけてるとか、もう今更どうでもいい。タイトルは重要だと思うけど、
どんなイマイチなタイトルでも作品内容によって正当化され得るのも事実だし。
ただ、いまどきオール片仮名というスガシカオですら卒業したオールドファッションど真ん中に
抛って来るセンスには黄信号。でもって、「いのち」すら片仮名にする感覚は青信点滅。
でも、これは「さだまさし」由来な訳だから、映画そのものの責任とは無関係?
かと思えば、物語の設定も展開も随分と変更されているらしいので、
だったらタイトルだって変えられたわけではないかと・・・(ベストセラー原作じゃないのだから)
ま、しかし、観賞した後ではもう、タイトルの違和感なんてめちゃくちゃ可愛い小ネタに過ぎず。
◆遺品整理という仕事
映画の宣伝では、主人公が従事する「遺品整理の仕事」が物語の主軸となる印象を受けた。
しかし、それは(同じTBSの)『おくりびと』想起作戦に過ぎなかった。
(同様の「手口」は、『余命何チャラの花嫁』でライト層を、『ヘヴンズ~』想起[これは前面に
出しちゃいないけどクレジット見れば釣れる]でシネフィル(?)層を、
そして撮影秘話的震災ネタで社会派層を取り込もうという、超ワイド風呂敷戦略)
結局、本作における「遺品整理」という仕事は、客寄せパンダ的なネタに過ぎない。
死者の生きた証(痕跡)に触れ、それを整理するという作業のなかで感得したものが、
自らの過去と語り合う・・・などということは全くない。ただ、「死に近い」という共通点だけで、
ひたすら踏み台にされて終ってゆく現場たち。大体、ワイドショーじゃあるまいし、
テロップで死者の背景を説明して片付けるとか、凄まじく興ざめ。
働く姿を映画が捉えるとき、そこに制作者たちの仕事観が透けて見える気がしてならない。
「労働」的に片付けてしまう場合もあれば、「仕事」を丹念に語ることもある。
「活動」として世界との関わり合いにまで言及してる場合は、単なる職業の域を出る。
本作における働く姿は、そのどれにも当てはまらない。
金もらってセラピー受けてるみたいなもんだから。
プロ意識なんて当然ない。求められもしない。〈公〉と〈私〉がせめぎあうなど全く無い。
何の葛藤もなしに暴走しては、全てが好転して終わる。それはもはや仕事じゃない。
趣味ならそれで好いかもしれない。しかし、社会的責任も意識せねばならない仕事で、
その感覚は不誠実きわまりない。ご都合主義万歳の娯楽映画ならいざ知らず、
片仮名とはいえ「イノチ」とか冠しちゃってる映画でそれは人間を馬鹿にし過ぎてる。
『ヘヴンズ~』にも垣間見られた〈人間〉や〈生命〉の道具的記号的処理と通ずる感覚。
結局、監督にしても脚本家にしてもカメラマンにしても(二作に共通して私的に最も
納得いかない姿勢の三者)、人間の現実を真摯にとらえようなんて気は更々ないのでは?
眼前の人間そのものなど見ておらず、その背後にある幻影を何とか「巧く」捕えたい
って思ってるだけなのではないかと思えてしまう。いや、背後も幻影も大事だとは思うけど、
目の前の人間を凝視しなきゃ、何も見えてこないでしょ。空々しい台詞を吐かせ続け、
落ち着きの無い眼差しであたかも葛藤しながら見つめるふりしても、そこに生命はない。
あるのはせいぜいイノチだよ。(なら、丁度好い>タイトル)
◆映画のリアリティ
『ヘヴンズ~』でも感じたが(そここそがノレなかった主因でもあるように思うが)、
とにかくリアリティが欠如。というよりアクチュアリティを浮かび上がらせようという誠実さが
微塵も感じられない。個人的な物語をあくまで「社会」のフレームに嵌めこんで語ろうとした
『ヘヴンズ~』なのに、画面を包み込む背景はどこまでもテレビドラマ未満で書割的。
個人を語る場合でも勿論だが、社会を語ろうとすればするほど、細部まで真実味を追求し、
(どんなに追求しても現実そのものに敵わないまでも)その姿勢こそが「現実」として迫る。
しかし、日本のインディペンデント映画にありがちな、メインな「やりたいこと」さえ出来れば、
それ以外は後回し的ノリが垣間見られ、観ている間中興醒めの連続だった気がする。
そうした意味では、海外ではウケるというのは納得。リアル日本社会、知らないんだからね。
でも、まさにその社会の中で生活している者からすれば、
批判する自己に陶酔した戯画としてしか映らない。
その程度の学芸会的お手頃書割感。
日本の映画界というより映画批評界(そんなものがあるのかわからんが)が、
いかに現実社会から遠く離れたところで浮かんでいるかが、よく判った気がした。
そして、本作においても現実を活写する気などサラサラない
(或る意味潔く一貫した)姿勢が見事なまでに息づいていることに、半ば感心してしまった。
だから、本作はまさに『ヘヴンズ~』の瀬々監督が撮った紛れもない瀬々作品だと思う。
以下、気になった点を具体的に列挙してみる(物語の結末含めオールネタバレ)。
*二度描かれる、高校での刃物登場騒然シーン。
何故に、あれほどまでに教師たちが来るのに時間がかかるのか。
それも、二度ともに見事なほど同じようなタイミングや同じような形式で登場する。
舞台裏でスタンバってる教師役たちに「よし今だ!」って横で囁く声まで聞こえて来そう。
とにかく、ご都合主義が嫌いというわけじゃなく、「巧く騙して」「巧く没入させて」くれ。
*教師ネタで言えば、「あんなとこ」を生徒だけで行かせるなんてありえないだろ。
まぁ、全く頼りにならない教師だから「しそう」って思ったのかもしれんが、
あいつが「見て見ぬふり」なのは、力量不足や感知不能だからでは決してなく、
基本的に「保身」と「打算」で満たされた功利主義的人間だからなわけで、
そういう人間はああいう状況で、「後で自分が責められる可能性」を絶対つくらない。
要は、自分が描きたい展開ばかりが優先されて、「人間」やら「精神」など後回し。
*誰もが観ながら不思議に思ったであろう、止まったままの観覧車。
*ゆき(榮倉奈々)の屈折がアクセサリー程度で、都合よく立ち直ってくれる人物像。
過去もほとんどが喋って終わりだし、現在に棲みついたままの影が余り見受けられない。
それ以前に、主人公二人とも結局高潔すぎて・・・日本映画にありがちな性善説前提。
そういう立場を執る以上、社会(環境)と個人の関係を描くことは困難だと思います。
(別に「性悪説」に立てとは言わないが、人間が後天的な要素により善にも悪にもなり得る
という前提を無視しているかのようだから。広い意味での「教育」的観点無視。)
*染谷将太や松坂桃李が演じる主人公の同級生が、あまりにも記号的過ぎる。
何も脇役まで深層に迫れとは言わないが、描き方・配置・展開がとにかくコマ扱い。
*出さなかった手紙を届けたり、勝手におしかけた老人ホームで遺品整理ごっこ始めたり、
どう考えても仕事をナメている・・・個人的な矜持と組織的責務とのせめぎ合いによる葛藤に
常に苛まれつつも歯を食いしばりながら理想を志しては現実に打ちのめされている
真摯な社会人に謝れ(笑) いや、待てよ。「元気があれば何でもできる!」って裏テーマ?
*ラストの展開は、映画独自らしいのだが(原作と色々異なる中で、ここが最も違うらしい)、
展開自体に閉口するのは必然だろうが、それ以前に、あの見晴らしの好い道路で
突進してくる暴走トラックって・・・飲酒運転?居眠り運転?それとも画的わかり易さ重視?
いずれにしても、運転手が「悪人」になるわけで、結局この映画は自分の正当性を
誰か醜いものを持ってきては証明しようとしている構えで成り立ってる気がしてしまう。
穿ちすぎなのは百も承知だが、全篇漂う「純粋被害者意識」が私的に受け入れ難かった。
*「ネタ映画」を目指しているのなら、最後の最後のシークエンスはかなりのもの。
「元気ですかぁーーー?」のバックで凄まじいフォルティッシモで高鳴る感涙演出スコア。
そういう映画なのか?『二十歳の約束』の牧瀬里穂を想起してしまったよ(例え古過ぎ)。
◇私がユーロスペースで『ヘヴンズ~』を観た回はたまたまトークショーがついていた。
そんなことは知らずに劇場に入ったので、予想外の観客の多さに戸惑ったほど。
折角だから上映後のトークショーにも残ったのだが・・・
瀬々監督、鈴木卓爾(男優もする監督)、そして熊切和嘉。
結論から言うと、「楽屋オチ」な話ばかりで展開させようとしていた瀬々&鈴木と、
何とか話題を一般化させて身内的観客以外にも開かれようと尽力した熊切監督。
なぜ映画を観賞した後のトークショーなのに、作品の内容について何も語らぬのか?
裏話にすらなってないお喋りというか雑談をわざわざ観客の前で展開するのは何故?
しかし、その疑問はすぐさま「誤り」であることに気づかされる。
上映中の大半を睡眠に費やしていた隣の男性客が、大ウケしてたりするのだから。
彼は友人と二人で来ていたが、どうやらその二人は映画学校つながりのようだった。
何なんだ、この需給関係!?日本のインディペンデント映画っていうのは、
こういう「温室」のなかで培養されて久しいのだろうか?
薄々感じていたことが、紛れもない真実として眼前に提示された気分だった。
◇瀬々監督作品は6本くらいしか観てない自分だが、
そんな私がそのなかで最も楽しめたのは・・・『フライング☆ラビッツ』。
今まで書いてきたことが一気に信憑性ゼロになりそうな、
トンデモチョイスなのは判ってますが、要は瀬々監督って世界のリアルを撮ろうとするより、
ファンタジックに撮る方が向いてるんじゃないかなぁ~って勝手な推測してみたわけです。
ピンク映画という出自(及びそこでの成功)から考えてみても、
それほど外れてもいない見当な気もします。
もういい加減リアル路線に見切りをつけて、
清々しいほど突き抜けた快作撮って欲しいな。