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Living Is Difficult with Eyes Opened

奪命金(2011/ジョニー・トー)

2011-11-30 23:49:22 | 2011 TOKYO FILMeX

第12回東京フィルメックスにて観賞。

 

本作は今年のヴェネチアのコンペに出品されたとのことだが、

ヴェネチアのコンペには2007年にも『MAD探偵』で参加しているし、

2008年にはベルリンのコンペに『スリ(文雀)』で参加、

2009年は『冷たい雨を撃て、約束の銃弾を』で『エレクション』(2005年)以来ぶりに

カンヌのコンペに参加するというように、三大映画祭の常連どころか毎年参加状態の

ジョニー・トー。しかし、多少の芸術性を垣間見せつつ、あくまで娯楽の精神を忘れない、

「ぼくらの」的形容も両立しうる貴重な安定信頼監督の一人。

(ちなみに、『エグザイル/絆』でも2006年にヴェネチアのコンペに参加しているから、

2005年から作品発表のなかった2010年以外は毎年三大映画祭コンペに出品してるのか。

多作&娯楽作の監督で、こうした実績も重ねているとは本当にすごいなぁ。)

 

最近作に顕著だった、魅惑の映像やら展開のダイナミズムのようなものはやや影を潜め、

暴力も銃弾もほとんど描かずに、表情や言葉のみでスリリングなドラマを活き活き語る。

上映前に監督本人からのビデオメッセージ(セルフ撮り)が流されたのですが、

そのなかで監督は「これまでと異なった作風に挑戦した」というような発言をしていました。

確かに、従来の作品に比べて随分とストイック(十八番的手法をかなり封印した印象)な

気配が全篇に充満していた印象です。「来たぁ~」じゃなくって、ずっと「来る来る」な感じ。

で、そうした気配の緊張感が100分超を優に持続させてしまう軽妙洒脱な外連の手練。

熟練工でありながら、茶目っ気を絶対に忘れない、つぶらな瞳の壮年少年活劇世界。

 

◆とにかく脱帽してしまうのは、3つの世界(刑事およびその家族、金融業界、チンピラ)を

   交錯させつつ収斂してゆく流れというよりも、それぞれの中心人物のみならず、

   脇役すべてのキャラ立ちにニヤニヤ頻りなところだったりする。

   タランティーノというよりアルトマンに近い感じ(なのか?)。

 

◆したがって、ラストの急転直下的展開に関しては、

   予想していたほどのカタルシスは感じられなかったりもするのだが、

   いつもなら醍醐味を集中させる「そこ」をあえて中心に据えないような本作のつくりは、

   結末に至る道程(言動ひとつひとつや人物たちを通して見える背景までも)こそを

   詳らかに丁寧に描くことで、結末はあくまでオマケに過ぎぬような見え方にしたかのよう。

   しかし、それはジョニー・トーなりの「カネ」に対する想いが背後にあるだろう。

   タイトルにもある通り、「カネ」が常に話の中心にあるものの、

   「カネ」それ自体が物語を生むのではなく、それに魅せられたり囚われたりした者どもが、

   勝手に物語を転がしていくだけのことだとでも言いたげなストーリーテリングなのだ。

   英題は「Life without Principle」。

   現実の世界においては、原理原則など十全に機能するはずがない。

   個人の信条など掲げていようとも、欲望に容易く負けることもある。それが人生。

   金は命を奪う。しかし、金が命を奪ったわけではない。カネが殴ったり撃ったりする訳ない。

   命を奪った金などない。奪うのはいつも人間だ。人間が人間から奪うのだ。

   だからこそ、話題の中心にカネを据えながら、どこまでも人間が中心に在り続け、

   カネそれ自体の「存在」感は至って希薄。

   モノとして存在し確かめ得るものではなくなりつつあるカネ。

   ヴァーチャルな存在と化しつつあるマネーの趨勢。

   形も重さも持たぬマネー。確かにマネーの価値は、形にも重さにも存しない。

   お金とは元来概念的な思考の上で成り立っているシステムなのだが、

   それだけでは耐えられない五感の欲求が、お金の価値をモノとして感じられるようにした。

   札束の山を目の当たりにしたときの強欲や充足とは極めて対照的な、

   コンピュータの画面に映し出される数字やグラフ。

   掴めた方が好いのかどうか。掴めずして「手にする」ことはできるのだろうか。

 

◇本作はフィルム上映だった。

   日劇で観たので、フィルムでシネスコ作品観賞できる望外の満足感、至福。

   くっきりはっきりなデジタル画質に慣れた(というより、それがスタンダードな)

   ヤング・ゼネレーションからすれば、フィルムの画なんて「くすんだ」ようにしか

   見えないのかもしれないが、フィルムの奥行感には没入するだけの世界の広がりがある。

   「選択肢」としては残っていって欲しいものだなぁ。

 

 


アントキノイノチ(2011/瀬々敬久)

2011-11-29 21:41:27 | 映画 ア行

 

瀬々監督のピンク映画は観ておらず、彼の真骨頂未踏な自分にとって、

彼の世間的な(限定的な世間ではあるが)評価には正直ピンと来ないまま今日に至る。

フィルモ的最重要作となった『ヘヴンズ・ストーリー』は観ているものの、

もう一方の重要(?)作『感染列島』は未見だったりするので、

そうした意味でも(もどきレベルだとしても)作家論的な物言いは避けるべきだろうとは思う。

が・・・

『ヘヴンズ~』の異様な持ち上げられ方が正直腑に落ちず、

それは期せずして遭遇した監督のトークショーにおいて体感してしまった

日本映画全体に蔓延る閉塞感(後述)のコンテイジョンに慄えた今、

これはしっかりディスリスペクトせねばならんと思い・・・

というか、驚異的愚作のモニュメント作成の一助となれば(ならんわい)と思って、

ひたすら観賞中に味わわせていただいた極上極寒をフィードバックしてやるか!みたいな。

 

◆タイトル

タイトルがふざけてるとか、もう今更どうでもいい。タイトルは重要だと思うけど、

どんなイマイチなタイトルでも作品内容によって正当化され得るのも事実だし。

ただ、いまどきオール片仮名というスガシカオですら卒業したオールドファッションど真ん中に

抛って来るセンスには黄信号。でもって、「いのち」すら片仮名にする感覚は青信点滅。

でも、これは「さだまさし」由来な訳だから、映画そのものの責任とは無関係?

かと思えば、物語の設定も展開も随分と変更されているらしいので、

だったらタイトルだって変えられたわけではないかと・・・(ベストセラー原作じゃないのだから)

ま、しかし、観賞した後ではもう、タイトルの違和感なんてめちゃくちゃ可愛い小ネタに過ぎず。

 

◆遺品整理という仕事

映画の宣伝では、主人公が従事する「遺品整理の仕事」が物語の主軸となる印象を受けた。

しかし、それは(同じTBSの)『おくりびと』想起作戦に過ぎなかった。

(同様の「手口」は、『余命何チャラの花嫁』でライト層を、『ヘヴンズ~』想起[これは前面に

出しちゃいないけどクレジット見れば釣れる]でシネフィル(?)層を、

そして撮影秘話的震災ネタで社会派層を取り込もうという、超ワイド風呂敷戦略)

結局、本作における「遺品整理」という仕事は、客寄せパンダ的なネタに過ぎない。

死者の生きた証(痕跡)に触れ、それを整理するという作業のなかで感得したものが、

自らの過去と語り合う・・・などということは全くない。ただ、「死に近い」という共通点だけで、

ひたすら踏み台にされて終ってゆく現場たち。大体、ワイドショーじゃあるまいし、

テロップで死者の背景を説明して片付けるとか、凄まじく興ざめ。

働く姿を映画が捉えるとき、そこに制作者たちの仕事観が透けて見える気がしてならない。

「労働」的に片付けてしまう場合もあれば、「仕事」を丹念に語ることもある。

「活動」として世界との関わり合いにまで言及してる場合は、単なる職業の域を出る。

本作における働く姿は、そのどれにも当てはまらない。

金もらってセラピー受けてるみたいなもんだから。

プロ意識なんて当然ない。求められもしない。〈公〉と〈私〉がせめぎあうなど全く無い。

何の葛藤もなしに暴走しては、全てが好転して終わる。それはもはや仕事じゃない。

趣味ならそれで好いかもしれない。しかし、社会的責任も意識せねばならない仕事で、

その感覚は不誠実きわまりない。ご都合主義万歳の娯楽映画ならいざ知らず、

片仮名とはいえ「イノチ」とか冠しちゃってる映画でそれは人間を馬鹿にし過ぎてる。

『ヘヴンズ~』にも垣間見られた〈人間〉や〈生命〉の道具的記号的処理と通ずる感覚。

結局、監督にしても脚本家にしてもカメラマンにしても(二作に共通して私的に最も

納得いかない姿勢の三者)、人間の現実を真摯にとらえようなんて気は更々ないのでは?

眼前の人間そのものなど見ておらず、その背後にある幻影を何とか「巧く」捕えたい

って思ってるだけなのではないかと思えてしまう。いや、背後も幻影も大事だとは思うけど、

目の前の人間を凝視しなきゃ、何も見えてこないでしょ。空々しい台詞を吐かせ続け、

落ち着きの無い眼差しであたかも葛藤しながら見つめるふりしても、そこに生命はない。

あるのはせいぜいイノチだよ。(なら、丁度好い>タイトル)

 

◆映画のリアリティ

『ヘヴンズ~』でも感じたが(そここそがノレなかった主因でもあるように思うが)、

とにかくリアリティが欠如。というよりアクチュアリティを浮かび上がらせようという誠実さが

微塵も感じられない。個人的な物語をあくまで「社会」のフレームに嵌めこんで語ろうとした

『ヘヴンズ~』なのに、画面を包み込む背景はどこまでもテレビドラマ未満で書割的。

個人を語る場合でも勿論だが、社会を語ろうとすればするほど、細部まで真実味を追求し、

(どんなに追求しても現実そのものに敵わないまでも)その姿勢こそが「現実」として迫る。

しかし、日本のインディペンデント映画にありがちな、メインな「やりたいこと」さえ出来れば、

それ以外は後回し的ノリが垣間見られ、観ている間中興醒めの連続だった気がする。

そうした意味では、海外ではウケるというのは納得。リアル日本社会、知らないんだからね。

でも、まさにその社会の中で生活している者からすれば、

批判する自己に陶酔した戯画としてしか映らない。

その程度の学芸会的お手頃書割感。

日本の映画界というより映画批評界(そんなものがあるのかわからんが)が、

いかに現実社会から遠く離れたところで浮かんでいるかが、よく判った気がした。

 

そして、本作においても現実を活写する気などサラサラない

(或る意味潔く一貫した)姿勢が見事なまでに息づいていることに、半ば感心してしまった。

だから、本作はまさに『ヘヴンズ~』の瀬々監督が撮った紛れもない瀬々作品だと思う。

 

以下、気になった点を具体的に列挙してみる(物語の結末含めオールネタバレ)。

 

*二度描かれる、高校での刃物登場騒然シーン。

   何故に、あれほどまでに教師たちが来るのに時間がかかるのか。

   それも、二度ともに見事なほど同じようなタイミングや同じような形式で登場する。

   舞台裏でスタンバってる教師役たちに「よし今だ!」って横で囁く声まで聞こえて来そう。

   とにかく、ご都合主義が嫌いというわけじゃなく、「巧く騙して」「巧く没入させて」くれ。

 

*教師ネタで言えば、「あんなとこ」を生徒だけで行かせるなんてありえないだろ。

   まぁ、全く頼りにならない教師だから「しそう」って思ったのかもしれんが、

   あいつが「見て見ぬふり」なのは、力量不足や感知不能だからでは決してなく、

   基本的に「保身」と「打算」で満たされた功利主義的人間だからなわけで、

   そういう人間はああいう状況で、「後で自分が責められる可能性」を絶対つくらない。

   要は、自分が描きたい展開ばかりが優先されて、「人間」やら「精神」など後回し。

 

*誰もが観ながら不思議に思ったであろう、止まったままの観覧車。

 

*ゆき(榮倉奈々)の屈折がアクセサリー程度で、都合よく立ち直ってくれる人物像。

   過去もほとんどが喋って終わりだし、現在に棲みついたままの影が余り見受けられない。

   それ以前に、主人公二人とも結局高潔すぎて・・・日本映画にありがちな性善説前提。

   そういう立場を執る以上、社会(環境)と個人の関係を描くことは困難だと思います。

   (別に「性悪説」に立てとは言わないが、人間が後天的な要素により善にも悪にもなり得る

     という前提を無視しているかのようだから。広い意味での「教育」的観点無視。)

 

*染谷将太や松坂桃李が演じる主人公の同級生が、あまりにも記号的過ぎる。

   何も脇役まで深層に迫れとは言わないが、描き方・配置・展開がとにかくコマ扱い。

 

*出さなかった手紙を届けたり、勝手におしかけた老人ホームで遺品整理ごっこ始めたり、

   どう考えても仕事をナメている・・・個人的な矜持と組織的責務とのせめぎ合いによる葛藤に

   常に苛まれつつも歯を食いしばりながら理想を志しては現実に打ちのめされている

   真摯な社会人に謝れ(笑) いや、待てよ。「元気があれば何でもできる!」って裏テーマ?

 

*ラストの展開は、映画独自らしいのだが(原作と色々異なる中で、ここが最も違うらしい)、

   展開自体に閉口するのは必然だろうが、それ以前に、あの見晴らしの好い道路で

   突進してくる暴走トラックって・・・飲酒運転?居眠り運転?それとも画的わかり易さ重視?

   いずれにしても、運転手が「悪人」になるわけで、結局この映画は自分の正当性を

   誰か醜いものを持ってきては証明しようとしている構えで成り立ってる気がしてしまう。

   穿ちすぎなのは百も承知だが、全篇漂う「純粋被害者意識」が私的に受け入れ難かった。

 

*「ネタ映画」を目指しているのなら、最後の最後のシークエンスはかなりのもの。

   「元気ですかぁーーー?」のバックで凄まじいフォルティッシモで高鳴る感涙演出スコア。

   そういう映画なのか?『二十歳の約束』の牧瀬里穂を想起してしまったよ(例え古過ぎ)。

 

◇私がユーロスペースで『ヘヴンズ~』を観た回はたまたまトークショーがついていた。

   そんなことは知らずに劇場に入ったので、予想外の観客の多さに戸惑ったほど。

   折角だから上映後のトークショーにも残ったのだが・・・

   瀬々監督、鈴木卓爾(男優もする監督)、そして熊切和嘉。

   結論から言うと、「楽屋オチ」な話ばかりで展開させようとしていた瀬々&鈴木と、

   何とか話題を一般化させて身内的観客以外にも開かれようと尽力した熊切監督。

   なぜ映画を観賞した後のトークショーなのに、作品の内容について何も語らぬのか?

   裏話にすらなってないお喋りというか雑談をわざわざ観客の前で展開するのは何故?

   しかし、その疑問はすぐさま「誤り」であることに気づかされる。

   上映中の大半を睡眠に費やしていた隣の男性客が、大ウケしてたりするのだから。

   彼は友人と二人で来ていたが、どうやらその二人は映画学校つながりのようだった。

   何なんだ、この需給関係!?日本のインディペンデント映画っていうのは、

   こういう「温室」のなかで培養されて久しいのだろうか?

   薄々感じていたことが、紛れもない真実として眼前に提示された気分だった。

 

◇瀬々監督作品は6本くらいしか観てない自分だが、

   そんな私がそのなかで最も楽しめたのは・・・『フライング☆ラビッツ』。

   今まで書いてきたことが一気に信憑性ゼロになりそうな、

   トンデモチョイスなのは判ってますが、要は瀬々監督って世界のリアルを撮ろうとするより、

   ファンタジックに撮る方が向いてるんじゃないかなぁ~って勝手な推測してみたわけです。

   ピンク映画という出自(及びそこでの成功)から考えてみても、

   それほど外れてもいない見当な気もします。

   もういい加減リアル路線に見切りをつけて、

   清々しいほど突き抜けた快作撮って欲しいな。

 

 


ニーチェの馬(2011/タル・ベーラ)

2011-11-28 21:30:52 | 2011 TOKYO FILMeX

第12回東京フィルメックス特別招待作品。有楽町朝日ホールにて観賞。

来年2月、シアター・イメージフォーラムほかで公開予定。(公式サイト

 

現代の映画作家のなかでも傑出した独創性を貫く孤高の人、タル・ベーラ。

『あの夏の子供たち』で、自殺する映画プロデューサーが抱えていた最大の問題に

撮影の泥沼難航ぶりが激しいスウェーデンの(?)映画作家の存在があった。

モデルとなった映画プロデューサーのアンベール・バルザンは実際、

タル・ベーラの『倫敦から来た男』を手がけ、その製作中に自殺している。

それはあくまで「事実」に過ぎないが、芸術と産業の狭間に位置するしかない映画の現在を

痛切に物語る象徴的出来事だ。そうした運命の為される業かどうかは窺い知らぬが、

「最後の作品」だとの表明をしているタル・ベーラの新作は、

あらゆる運命をも吸い尽くすほどの傑作だった。

 

観賞から数日経過した今でさえ、いまだ脳裏にこびりついて離れない映画の世界。

それは、作品それ自体がもつ威力であることに間違いないが、

あれほどまでに孤高なる芸術性がスクリーンから溢れ出ているにもかかわらず、

それは日常の卑近などの場面にも侵入し得る普遍性をたたえている。

だからこそ、眼前の現実の背後にある「人間の歴史」が透けて見える感覚を、

『ニーチェの馬』の証人となった者どもに植えつけて止まぬのだろう。

 

すぐにでも観返したいのに、

観返すのが怖いほどに唯一無二な感情を喚起し続けた二時間半。

公開されれば、当然足を運ぶであろうが、まずは最も美しく偉大なる「難関」との逢着を、

ありのままに記録しておくことも必要だ。そうせざるを得ない強烈な圧力を受け続けた以上。

 

スクリーンに映し出された最初の映像を観た途端、多くの者は言葉を失う。

そして、それこそが本作の「正しい」受容であることに気づく。

筆舌に尽くし難いものを映し出してこその映画だという作家の信条の結実。

映画である必然性。モノクロームである必然性。そして、フィルムである必然性。

そして、それらはすべて「必要」からは遠く離れて、「運命」に限りなく近づくかのようである。

だからこそ、目撃者となる証人(観客)は、その運命の只中に据えられる。

 

時に静謐すぎる佇まいで見守る眼であるかと思えば、

すべてを貫通して彷徨い出る眼に変わりもするカメラ。

しかし、それは最早フレームやコマの規格に則るカメラなどではなく、

時空のスケールを凌駕した、世界そのものを焼きつけようとする眼差しの旅。

 

世界の終わり〈絶望〉を描きながら、そこには世界の始まり〈希望〉が霞むも見える。

タル・ベーラが「最後」と表したこの作品は、壮大な胎動として響き続ける「はじまり」を、

芸術を愛する者すべてに齎すだろう。

 

 

◆Q&Aの終盤に、「日本の皆様へ」向け親切な解説を駆け足で付加してくれたタル・ベーラ。

   その途轍もない存在感やらオーラやらなど、記すことすら愚かしいほど凄まじい・・・

  のに、 「親切」という妙(笑)

   これは、創世記における天地創造の7日間を逆行する形で語られるということ。

   確かに、冒頭で「一日目」と出た瞬間に、(あ、これは7日目まで続くのだな)くらいは

   一応予想ついたのだが、中盤まで「順行」として頭のなかで準えてしまっていたよ・・・。

   確かに、途中から「???」と思い始めたが、確かに最初の状態こそが

   人類が最も「支配」的な態度をとっているわけだから(ニーチェと馬の挿話にしても)

   もっと早くにしっかりと気づいて見守るべきだったという反省・・・したところで、

   この作品のもつ強力は更なる増大で襲いかかってくる呪縛な後光。

 

◆水を失ったり、家畜を失ったり、火を失ったり(もっとさまざまなものが消えているのだろう)、

   終末を感じさせる展開が、創造譚の逆行であるにも関わらず、退化というよりは

   進化の代償としての荒廃として映ずる。そして、それは紛れも無く時間の進みの末である。

   「失う」ということは、「得る以前」に〈戻る〉ということではないという刻印が鮮やかだ。

   それは、ルソーが「自然に帰れ」と啓蒙を試みた時代とは明らかに異なる、

   世界が過剰な「改変」の只中にある現代において、もはや引き返せぬことを体感させる。

   しかし、それは自然が人間の都合で加工できたり、ましてや復元できるものではないという

   世界の根源的な理(唯一、絶対的な「法則」)を確かめるために表出される発展する喪失。

   タル・ベーラは、「風にこだわりがあるのですか?」的な質問に対し、

   多少の憮然たる表情を滲ませ、「風は自然の一部であり、人間も自然の一部である」

   との言葉を返していた。本作における「風向き」を読めぬ渦巻く風の姿と重なる。

   何処から来て何処に向かうのか。それが判然とせず、強いていえばその「何処」とは、

   「何処からともなく」か「何処でも」かのいずれか(も)なのだろう。

   そして、完璧にコントロールされたかのようなタル・ベーラの作品の強靭さとは、

   コントロールから生まれる整然ではなく、掬いきれずに零れ落ちる混沌にあるのかも。

   そうして提示された世界を視るとき、すべてのものに意味を受け取ろうとする人間になる。

   意味を付加したり、意味で解明することのない、自然の一部たる人間として。

 

◆タル・ベーラの作品では、「窓越しに世界を見る」図が実に多い気がする。

   『Damnation』の冒頭はまさにそれだし、前作の『倫敦から来た男』でも

   主人公の見る世界は制御室からの眺めであった。

   しかし、何れの作品においても、カメラは「外」から「内」へと向かっていたように思うが、

   本作では窓を通りぬけて「外」へと向かう。個人の意識に収斂されることなく。

   世界を捉える眼が、いよいよ世界と一体化してゆくのだろうか。

 

◆Ars longa, vita bravis. (英語だと、Art is long, Life is short.)

   というラテン語の言葉は、今でもしばしば多様な場面で用いられる言葉。

   元来はヒポクラテスの言葉(文脈的には現在の通用解釈とはズレる)なので、

   ギリシャ語だと思うが、まぁそんなことはどうでも好い。

   そして、最近私はこの言葉は「逆もまた真」であろうという想いがしてならない。

   いや、そもそも「ars」とは「art(芸術)」の語源ではあるのだが、

   「artificial」という語が「芸術的」ではないことからもわかるように、

   そもそもは「人の手による」「人の手の加わった」状態のものを指すらしい。

   つまり、そう考えるならば、神による創造たる「生命」の方が

   よっぽど悠久たり得るものではないか。個別の命は儚かろうが、

   その集合たる生命も生活も、途方も無い継承と離合集散を経ながらも、

   結局は総体たる生命体全体は不老不死の、不死身な存在であり続けるだろう。

   そして、人為的なるものこそ存在の有限性が宿命となる。

   しかし、だからこそ、そこには創意が求められ、鍛錬の場になり得るのだろう。

   そして、「ars〈芸術〉」は結局「vita〈自然〉」の一部であると解釈したい。

   映画が「自然を相手に格闘する芸術」である証左をフィルムに焼き付けたタル・ベーラ。

   彼の作品と言葉から浮かび上がる「芸術のあるべき姿」は濛々と消えず、

   いつまでも残り続けてゆくだろう。自然と人間による共作たる芸術として。

 


ラブ&ドラッグ(2010/エドワード・ズウィック)

2011-11-23 00:33:34 | 映画 ラ・ワ行

 

原題は『Love and Other Drugs』。

わかりやすく(憶えやすく?)カタカナに簡略化(?)した邦題の間抜けさよ・・・。

これじゃ、ただのセックス&ドラッグな痴話狂いドタバタコメディって感じだよ。

公式サイトの作品紹介も「ラブコメ」モードだし、監督も「コメディ」推しだけど、

いきなりヒロイン(アン・ハサウェイ)がパーキンソン病だって設定で不意打ちくらい、

「これは単なるネタだよな」とかって思ってると、どうやらリアル設定なんですよ。

これがシネマート系じゃなくヒューマントラスト系なら間違いなく「感動」推しだわな。

でも、そういった売り出し方が可能なのも、本作がコメディにしろドラマにしろ、

いまいち煮え切らないというか、覚悟の甘さ緩さが露見しまくりだからかも。

 

エドワード・ズウィックという監督は、

プロデューサーとしてのキャリアも十分な故か、

監督作においてもとにかく「まとまり」が好すぎてしまう印象だ。

しかし、それは散々ちらかしまくった後にまとめるといった爽快感ではなく、

初めからバラバラにならぬよう細心注意、歪になる覚悟はサラサラなく、

観客の方が振り切れる覚悟して待ってるうちに予定調和で収束終了。

プロデューサー的には「手堅い」との評価に値する手腕としても、

個人的には「落し所」ありきな語りに思えてしまい、苦手。

 

ただ、今回はキャストの魅力もあってか、最後まで飽きずに物語へ入り込めはした。

主演の二人(アン・ハサウェイ、ジェイク・ギレンホール)は、まさに今をときめく二人。

しかも、『ブロークバック・マウンテン』で夫婦役だった二人。そして、そこから名実共に

着実な上昇を遂げてきた二人の再会というだけで、否が応でも期待は高まる。

そして、その二人はしっかりと与えられた役に生命を吹き込んで、

愛すべきキャラクターを見せてくれている。

そうした魅力的な人物造形であるゆえに、

彼らの「関係」にも更に愛すべき、愛さずにはいられない何かを期待する。

ところが、そこにヒロインの病気の存在が中途半端に「利用」されてしまう。

しかも、それは極めて都合よく受容や拒絶や諦観や達観を行きつ戻りつ繰り返し、

それらを全て吸い込むでもないままに、自己実現的恋愛観で完結する。

とはいえ、彼らのライフ・ゴーズ・オンを想像すれば、確かにそこに「奥行」もあるだろう。

ただ、二人の表情や台詞(といより、脚本が展開させる物語の道筋)からは、

どうしてもペシミスティックに打克ったオプティミスティックというよりは、

オプティミスティックになった自分に酔う二人みたく見えてしまう。

 

マギー(アン・ハサウェイ)の傷(病気)に比べ、

ジェイミーの傷(医学部中退)はあまりにも「情報的」な域にとどまっているし、

恋愛に臆していた過去も台詞で全て片付けてる印象で、彼の人物像に奥行がうまれない。

ドラマを盛り上げるはずの小道具(バイアグラ、モノクロVTR、浮浪者など)もあくまで装飾品。

むしろ本筋への集中をそぐためのノイズとしてしか印象に残らない。

二人のセックス・シーンやアン・ハサウェイの模範的健康美な裸体などは、

それなりに印象に残るものの、後半が後半だけに、それはそれで罪悪感(笑)

 

まぁ、そもそもエドワード・ズウィックのフィルモを見ても、

本作のようなコメディ要素をもりこみつつもヒューマンドラマを目指すタイプは畑違い。

キャスティングは好かったし(主演二人もだが、オリヴァー・プラットやジョシュ・ガッド、

ハンク・アザリアといったお馴染み燻し銀も適度な彩りで)、

テーマだって新たな提案の可能性を込めうる内容だっただけに、

とにかく「惜しい」といった感想がまとわりついてしまう一作。

ただ、エンドロールで流れるレジーナ・スペクターの「Fidelity」がもたらす余韻はなかなか。

 

 

◆ラストの二人の会話はなかなか秀逸なんだけどな。

   (それまでの物語の細部が、「そこ」に向かっていないから、溢れ出る想いも僅少で・・・)

   マギー(アン・ハサウェイ)の、「It isn't fair」って台詞なんかがもっと効いて来る物語を

   しっかりと構築できてれば、もっと深みと味わい出てただろうに。

   中盤の「彼女のためは自分のため?」みたいなジェイミーの葛藤&マギーの不信が、

   テキトーにあしらわれずに、正面から対峙し克服していくドラマが欲しかった。

 

◆それにしても、そのラストの会話でジェイミー役のジェイク・ギレンホールの口から

   とんでもない発言が!『ミッション:8ミニッツ』を観賞済の方なら猛烈なツッコミ必至(笑)

   それにしても、『ラビット・ホール』でも用いられたりしてたけど、

   今のアメリカが自己肯定するために必要なのは、パラレル・ワールドなんだろか?

 

◇シネマート新宿にて展開中の「ラブ」シネマ対決。どうやら本作に軍配が上がったらしく、

   来週には『ラブ・アゲイン』がホームシアター級の小さい方のみでの上映に・・・無残。

   折角のシネスコ、折角のフィルム、折角の御都合主義全開爽快映画(大画面映え)なのに。

   劇場側も「泣く泣く」の決断ゆえか、今度の土日までは大きい方での上映をかろうじて確保。

   いっそのこと、突飛な邦題でもつけた方が注目されたかもなぁ、なんて思ったりして。

   って、こちらは『ラブ&ドラッグ』の方の記事でした。

 

 


ラブ・アゲイン(2011/グレン・フィカーラ&ジョン・レクア)

2011-11-22 01:12:07 | 映画 ラ・ワ行

 

この監督コンビって、『フィリップ、きみを愛してる!』の二人なんだね。

なるほど、ドタバタでハートウォーミングなんだけど、

どこか軽めのフックが効いてる感じが似ている気がするね。

 

ポスターなんかのデザインでは明らかに「ドタバタ」メインな大味コメディな印象だし、

邦題から想像すると甘ったるい人情もどきの愛情劇場っぽくもある。

しかし、いずれも本作の「つくり」とは微妙にズレる。

Crazy, Stupid, Love. 狂、愚、愛。心、技、体。

アンバランスこそがバランスな愛、映画。

 

結婚25年の夫婦(スティーブ・カレル&ジュリアン・ムーア)。

妻から離婚を切り出したかと思うと、浮気の告白。

これまで妻一筋だった夫は発狂し、愚行に走り、愛に飢えはじめ・・・

しかし、それは妻も同じだったのだ。

一途という迷いのなさが、迷いを喚起することもある。

全うであればあるほどに、軌道を辿れば辿るほど、

道を踏み外す「必要」などを無暗に感じ、不要な冒険に活路を見出す。

学生とスティーヴ・ジョブズしか許されぬ(笑)スニーカーを脱ぎ捨てて、

バリ財布(マジックテープの財布)も卒業し、タイトなスーツに身をまとう。

それは、キャル(スティーブ・カレル)という自分と等身大な存在への不安が

自己へとフィードバックされた時、漠たる退屈の気配を払拭するべく手を出す

お手軽オシャレアイテム、デイヴィッド(ケビン・ベーコン)。

同じ道を辿った夫は、未練を感じるだけじゃなく、妻の不安を追体験するかのよう。

そして、束の間の高揚を味わったときの充足を知り、その後の空しさも知った。

二人が愛を再確認する会話が、「家」を「あたためる」ためのものとは心憎い。

 

同じ構造を持つかのように、スタイルは違えど「相手まかせ」な駆引に身を任せた若い二人。

見栄えのする服よりも、着心地の好い服を選んだとき、通販トークは花盛り。

心の隙間を埋めるのじゃなく、心の隙間を確かめ合う。

「満たして!」じゃなく、「満たされねぇ~」って笑い合う。

そして、相手が自分を満たしてくれるのを待つんじゃなくて、

相手が埋める隙間を愛でてみる。隙間があるから、一緒が必要。

愛があるのに隙間があるのじゃ決してなくて、隙間があるから愛がある。

間隙がうむ感激が。

 

 

◆群像劇に必須なキャストの充実は、楽々クリアしている感じ。

   何しろ、今をときめく若手筆頭のライアン・ゴズリングとエマ・ストーンを擁しているのだから。

   『ブルー・バレンタイン』での全身不甲斐なさな男から一転、脱いでも超絶クールガイの

   ライアン・ゴズリングに、今年の賞レース注目作『ヘルプ~心をつなぐストーリー~』に

   主演しているエマ・ストーンというカップリング。ライアンは、『ドライヴ』でカンヌを沸かせ、

   『The Ides of March』でヴェネチアを沸かせ、今後も良作保証な待機作続々な感じ。

   ところでこの二人、『ゾンビランド』の監督ルーベン・フライシャーの次回作である

   『Gangster Squad』でも主演(共演)する模様。いやはや楽しみ過ぎるわな。

 

   そして何よりジュリアン・ムーアの「いい女」さ加減がハンパない。

   母親の顔、妻の顔をしっかり持ちつつ、女としての妖艶さも醸し出す。

   どんな映画に出ようとも、トンデモ映画でも文芸作品でも見事にジュリアン・ムーアな彼女。

   オスカー無冠も納得の、まとまりきらない活き活き演技という名誉。

   年々美しくなっているように思えてしまう。

 

   マリサ・トメイやジョン・キャロル・リンチといった芸達者も

   リラックスして溌剌とした脇役で適度に暴れ、子役達だってジャストサイズに健闘してる。

   とにかく、群像劇に必須なアンサンブルが丁度好い具合でまぶされてる感じ。

   まあ多少のバラバラ感は否めぬが、こういうタイプの映画には、

   そのくらいの「抜け」にくつろげたりするのも事実だし。

 

◆スティーヴ・ジョブズにしても、デミ&アシュトン(元)夫婦にしても、

   本国公開時よりも(期せずして)妙なタイムリーさを帯びたネタが飛び交い盛り上がる。

   日本人でもわかりやすい小ネタが多くて助かった。

   それにしても、『ハートブレイカー』といい、本作といい、

   本当みんな『ダーティ・ダンシング』好きだよなぁ。

   そういえば、なんかの映画でも父娘が『ダーティ・ダンシング』ごっこするとかあったよなぁ。

   (あのダンス・シーンの振付は、『ハイスクール・ミュージカル』や『THIS IS IT』の

   ケニー・オルテガなんだね。って、有名なのか!?)

   確かに印象的な名シーンだけど、あまりにもパロディ的な使われ方しすぎると、

   『ゴースト/ニューヨークの幻』の轆轤シーンみたいに「ネタ」的印象が強まりすぎる・・・

   って、どっちともパトリック・スウェイジという・・・

 

◆クリストフ・ベックと共に音楽担当としてクレジットされている Nick Urata って、日系人?

   それとも、「浦田」じゃない向こうの姓があるのかな?という、どうでもいいプチ疑問。

 

◆映画の予告編で最近やたらと使用されてるMUSEの楽曲。

   本作の予告で流れる「STARLIGHT」もお約束のように(?)全く流れません。

   本国のトレーラーも同じ仕様。アメリカでのMUSE人気の顕れか。

 

◆一方、本作のエンディングで流れてくるのは、The Middle East の「Blood」。

   そう、日本未公開佳作『It's Kind of a Funny Story』で、あの二人が院内を駆け上がり

   屋上へ出たときに流れていたあの曲です!(あそこでは、アウトロ的部分が中心でしたが)

   映画的な感動を喚起する、新たな映画使用楽曲のスタンダードになりそうです。