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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

LOOPER/ルーパー(2012/ライアン・ジョンソン)

2013-01-17 23:48:24 | 映画 ラ・ワ行

 

◇それはもう楽しみ過ぎて、

   本作をループ観賞するためにフリーパスの取得時期を遅らせたほど!

   な割りに、実際に観たらループ観賞ってほど気持ちが盛り上がることもなく、

   正直観てる間は耐えがたい冗長さを感じもしたものの、

   見終わってアレコレ考えはじめると・・・

 

   そもそも私の場合、観賞中に必ず

   「テーマ探し」というか「テーマ設定」を脳に課しがちな性向あり。

   あくまでそれは「自分なり」に腑に落ちるものであれば好いのだけれど、

   そうした《ストンッ!》って瞬間が訪れないと全然映画に入っていけないし、

   まったく「読む」ことが始められなかったり。

   ま、すべては自己満足自己完結な次元の話ではありますが。

 

   本作の場合、それが観ながら全然起こってこなく、苛々苛々・・・

   でも、最後の最後でいろんなことが自分の中でようやく繋がり始め・・・

   というわけで、ネタバレ全開で(というほど筋に触れぬ=無視するかもしれないが)

   勝手な「読み」を敷衍しながら反芻してみます。

 

 

本作に従来のタイムトラベルものと異なる特長があるとすれば、

それは即物的なSFから逃れ、唯心論的世界観で展開しようとした点にあると思う。

低予算という現実的なハンデをアイディアで乗り越える、

模範的インディペンデント・スピリット。

つまり、この物語で重要なのは(もっと強調されても好いと思うんだけど)、

とにかく「記憶」。

未来を変えるため、過去にやってくる未来のジョー(ブルース・ウィリス)。

彼は過去の記憶を手がかりに動く。その記憶への依存は呪縛とも思える執拗さ。

そして、彼は「残したい記憶(たとえば、妻との出会い)」や

「存続させたい記憶(たとえば、妻との生活)」のために、

「消したい記憶(妻の殺人およびその因子)」の元を絶とうとする。

しかし、「消したい記憶」の元であるかどうかは、撃ってみないとわからない。

成就したところで成就を感知するための材料(記憶)も消える。

 

当然、彼と対照的な存在として配置されているのが

現在のジョー(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)なわけだけれども、

あまり顕著には描かれていない(気がする)。

「同一人物」でもあるので、むしろそれが自然かもしれないが。

現在のジョーもやはり過去の記憶が現在を呪縛している側面もある。

というより、過去が現在の彼を形成したことは「身の上話」から明らかだ。

しかし、彼がラストでとる行動は、未来のジョーとは極めて対照的に、

記憶の昇華が成し遂げられている。

過去が現在を押さえつけるのではなく、現在(の自己)が過去を未来に照射する。

そして、そこに見えた未来を変えるため、現在の自分が現在の自分に働きかける。

「過去に根づいたまま不動な記憶」(あの切り株はそうした〈過去〉のメタファー?)

という呪縛の側面から解放されて、根こそぎ抜いた記憶を未来に移植する。

そして、それを成し遂げられるのは、〈現在〉の自分しかいない。

と同時に、未来のジョーが過去にやってくる際の設定が

「〈現在〉の移動(転移)」のように映るのも、

もしかしたら「人間の意識にある(認識できる)のは〈現在〉だけ」という教訓か?

 

〈過去〉の記憶を宿しつつも、〈現在〉を起点として〈未来〉を選びとる。

真の「前向き」を提示しようとした肯定的な語り口に思える。(そこが後から好きになった)

 

記憶がテーマということは必然、物質世界と精神世界の対比が際立ってくる。

その点で「ラッパ銃」がラストで重要な役割を果たしているように思う。

ほんの僅かな射程距離の「ラッパ銃」は、外部へ働きかけられる範囲は狭い。

一人の人間が直接働きかけられる物理的射程距離の卑小さを象徴してる。

時間的にも、世界全体に比すればほんの一瞬の存在である一人の人間。

直接影響を与えられる範囲など、たかがしれている。

しかし、精神世界においてはどうであろうか。

現在のジョーの最後の一発が直接物理的に与えた衝撃は、

現象界での事実を遙かに凌ぐ波紋となって、シドの精神世界に広がり続けることだろう。

そして、シドの〈未来〉が書きかえられるということは・・・

 

また、そういった発想に全く及ばぬ未来のジョーが手にしている銃の破壊力は、

自らの非力さから来る内省の機会を奪い、精神世界での対峙へは導かない。

未来のレインメーカーを物理的に消去することしか頭になかったのもそのせいだろう。

現在のジョーがシドの精神に対して働きかけたように、闇の力を産み出す源(精神)を

絶つ(ということは、必ずしも物質的消去[身体の破壊=生命の打倒]ではない)

という選択肢だってあったはずなのだ。それを「思いつかない」のも反面教師なのだろう。

 

 

◇そんな「こじつけ」であれこれ思い返すと、急に面白くなって来たりもした。

   再挑戦してみたら、一瞬一瞬が活き活きと迫ってきたりする?

   とはいえ、やはりこうした設定というかジャンルにしてはモタつき過ぎな印象で、

   これは90分台にまとめてこそな題材というかジャンルだと私は思う。

   また、そうやって少々雑さというスピードでグイグイ引っ張るか、

   もしくはもっと教訓めいた伏線を丁寧に序盤からばらまくかして欲しかったかも。

   まぁ、私が同時進行的に把捉できなかっただけかもしれないけれど。

 

◇「looper」には「シャクトリムシ」の意味もあるらしい。

   「loop」が〈輪〉であるのに対し、「looper」が〈輪〉に(なりそうで)ならない虫を表す。

   どんなに接近しようとも、決してくっつかない時間。過去、現在、そして未来。

   あの頃の未来に僕らは立っているのかな。みたいな。

 


わが母の記(2011/原田眞人)

2012-05-15 23:51:28 | 映画 ラ・ワ行

 

デジタル上映への「挑戦」かと思えるほど、

さまざまな闇を映し出す。と同時に、光の存在感が際立ってもいる。

それは最大の「見どころ」であると同時に、年代記における有機的な語りを促しもする。

 

母(樹木希林)が失いゆく記憶。

それは、「無くなる」というよりも、在るのに「見えない」状態なのかもしれない。

劇中では何度か突如光が失われる。停電が起こる。

ロウソクが灯され、「必要なもの」だけが闇のなかから浮かび上がる。

 

また、記憶を喪い彷徨う母は、懐中電灯を手にしては徘徊する。

まるで闇に覆い隠され見えなくなった記憶を探しに行くかのように。

手にした懐中電灯は、いわば彼女の探照灯。消えゆく記憶を照らすサーチライト。

 

認知症では、近い記憶ほど遠ざかり、遠い記憶ほど近くに感じるという。

それは現在の空洞化であり、現在が必要ないからなのかもしれないが、

もしかしたら過去の存在感が増幅し過ぎたからなのかもしれない。

現在にそれだけ必要とされる過去は、過去として完結することを許さない。

それは、やり直したいからなのか、ただ「再生」を望むからなのか。

 

母も息子も、辿った記憶の終着(執着)に現われる、海。

「母」の字を宿した、「海」。

フランス語では「mere(母)」が「mer(海)」を宿している。

(三好達治の有名な詩の一節にも出てくる。)

仏語圏の都市モントリオールで開催される映画祭で賞賛されたという奇遇は、

本作が海を越えて祝福される証明かもしれない。

 

 

◇とても良い映画で、善い映画。

    しかし、「好い映画だ」と自然に呟けぬ精緻さが些か息苦しい。

   原田監督は極めて頭脳明晰な技巧派で、その隙のなさが堅くもり、硬くもある。

   頑なな姿勢は信条から真情を貫かせるも、身上の心情を自然に揺さぶれぬ弱さも。

 

◇最初から最後まで、徹頭徹尾抜け目無く、隙がない。 いちいち、巧い。

   だけれども、だからこそ、行間が埋め尽くされたような緊迫が遍在。

   読み手(観客)が共に語りを紡いでいこうとする「対話」の余白が残されない。

   勿論、人生経験の乏しさ故に呑まれてしまっているだけかもしれない。

   しかし、巧いものが必ずしも旨いとは限らないのもまた真かもしれない。

 

◇とはいえ、フィルムで観られたこともあり、

   明らかな格の違いを感じながら安心して観られる、鮮やかな人間模様。

   『KAMIKAZE TAXI』や『バウンス ko GALS』の頃の圧倒的存在感から

   『金融腐蝕列島 呪縛』や『突入せよ!あさま山荘事件』の手堅さ

   といった名匠路線を逸れてしまいつつあった近年の原田監督による

   見事な復活作とも言えるかもしれない。

   なんて偉そうなこと書いてると怒られそう(笑)

 

◇怒られついでにもうひとつ。

   原田監督の「可愛い子に旅させ無さ過ぎ」が気になるという余計なお世話。

   『突入せよ~』で息子の遊人(現:原田遊人)の事故レベル拙劣演技には仰天したが、

   以降も「囲い」続けているのが気になる。(近作では「編集」を担当している。)

   他者に対してはどんなに客観的かつ明晰な判断や批評を為し得ても、

   自ら(及びその一部)に対しては甘い感情に流される。

   そんな人間の真理が垣間見られると思えば、それもまた 一興かもしれない?

 

◇撮影を担当している芦澤明子は、

   黒沢清作品をはじめ昨今の日本映画界で絶大な信頼を得ている名手。

   (ここで充実のインタビューが読める。)

   日本映画および日本の風景の古典的な醍醐味を活かしつつ、

   ユニヴァーサルなダイナミズムを取り入れた画作りやその動きが、

   いちいち素晴らしい。

   ただ、時折感じる画作りの過剰な作為が、

   物語を必要以上にまくしたててしまっているようにも感じる。

   このあたりは原田監督の抜かりない管制の「賜物」だったりするのだろうが。

   というか、常に「外国人の眼から観た日本の(風景)の素晴らしさ」

   を活写しようという意気がみなぎりすぎて、

   無粋と無縁すぎるが故に「もののあはれ」からは遠ざかる。

   それは或る意味極めて「正しい」とは思いながらも、

   その「よそゆき」感には終始余所余所しさもつきまとう。

 

◇本作が審査員特別グランプリを授与された昨年(2011)のモントリオール世界映画祭。

   ここ最近では毎年のように日本映画が何らかの賞に絡んでおり

   有り難みが薄れつつある(?)ものの、

   コンペでは本作の他に『アントキノイノチ』が

   イノベーション・アワードとかいう存在意義が難解な素晴らしい賞を受け取っていた。

   (昨年のモントリオール世界映画祭については、この記事が詳しい。

     『善き人』の記事でも触れた『Dirty Hearts』の日本公開は未定のままか?)

   「モンドセレクション」受賞程度の宣伝効果しか見込めないこともあってか、

   満を持して連休中の動員を見込んだ公開時期も、

   結果的にはやや見当違いだったのかもしれない。

   『テルマエ・ロマエ』という意外な中高年層とりこみ邦画の存在があったり、

   中高年向けは平日動員の方が強い事実もあるので。

 

   ただ、イタリア映画祭が開催されていた有楽町朝日ホールの一つ下の階にある

   丸の内ピカデリー前は、そこそこ賑わった雰囲気があったりもした。

   イタリア映画祭で次の回までの僅かな休憩時間を

   同フロアにあるベンチで過ごしていたりすると、

   本作以上に滋味にあふれた光景を目の当たりにすることが出来た。

   連休中ということもあってか、親子で来ている人たちがちらほら。

   といっても、その「子供」は、既に成人した子供が(孫すら)いるような世代。

   だからその「母親」は杖をついていたり、脇を支えられつつ歩く姿が目につく。

   聞こえてくる彼女たちの会話が美しい。

   丁寧な言葉遣い(時に敬語を用いつつ)で母親に接する娘と、

   常に遠慮深い母親。

   私のすぐ傍に、杖にかなりの体重をかけながら立っている老年の女性がいた。

   傍とはいえ、私が座っている椅子を譲ることが自然に思えない程度の

   微妙な距離を保って。

   単なる遠慮深さではないさりげない思慮深さに、

   小津映画に映る美を体感させて頂くような昼下がり。

   そんな美に少しでも応えられたらと、

   次回の開映時刻にはまだまだ時間があったが、

   私はできるだけ自然に椅子を立ち、ゆっくりエスカレーターに向かった。

   その一週間後に本作を観賞した私は、

   あの母娘が映画を観終えて交わしたであろう穏やかな会話を想像しつつ、

   親愛につつまれる感覚が身内に広がった。

 


リアル・スティール(2011/ショーン・レヴィ)

2011-12-19 01:01:45 | 映画 ラ・ワ行

 

今次の3Dブーム黎明期のフロンティアであるロバート・ゼメキスと

満を持して3D作品を自ら手がけて華麗なる飛躍で魅了したスピルバーグという二人が、

3DではないジュヴナイルなSF的スポ根ものをプロデュース。至極のドリーミーお膳立て。

 

折角の非3Dだからとばかりに、全篇に漂う郷愁の香り。

物語の舞台は近未来なのに、世界観は確実に近過去な絶妙前後不覚(?)世界。

クレしん映画版の如き、親子大満足大作戦的アプローチはハリウッドでも大成功!?

 

◆オープニングからして渋すぎる。

   『お家をさがそう』(サム・メンデス)でもフィーチャーされていたアレクシー・マードックが

   静寂につつまれた荒野を走るトラックのバックに流れてくる。(「All My Days」)

   観ながら常に感じたことでもあるが、本作は明らかに「子供向け」を意識しているが故に、

   大人になったら堪能したくなるような渋味やカタルシスや満足感がちりばめられている。

   或る種の「教育」的配慮がつまっている、映画の機能の重要側面をフル活用。

   『紅の豚』じゃないけど、「カッコイイとは、こういうことさ。」みたいな・・・

   そういった志向が窺えちゃうから、詰めも脇も少々甘かろうが、自動的スルー。

   それは、こっちが少年回帰してるがゆえの児童的スルーかも。

 

◆そういった「飛び出す」以外の映画の醍醐味を教育する映画としては、

   カメラは寄るより引くわけで。無駄に頻繁挿入な過剰俯瞰ショットはきっと、

   大きいスクリーン(しかもシネスコ)は、普通じゃない視点で「広く」捉えてみたり、

   「距離」を感じてみたりすることができるんだよ!とでも言いたげな印象受ける。

   そして、3D映画ではやや印象に残りにくい色彩にしたって、

   たまにハッとする無駄な(笑)凝り方しちゃってたりするから愛おしい。

   父子が歩く夜の街角に現れる色鮮やかなガラスとか。

   こういう些細な醍醐味は、幼心にしっかり刻まれることだろう。

   そうした意味では、3Dに対抗意識剥き出し(勝手憶測)な過剰奥行演出が見事なカットも。

   2Dだろうが十二分に「魅せる」遠近感は投影できるのだ!的カットの数々。

   余計な親心(?)を暴走させて独りニヤニヤメンタルで見守り続けてしまったよ。

 

◆そんな撮影を担当しているのは、『アバター』でオスカー獲得のマウロ・フィオーレ。

   つまり、『アバター』での3D撮影で懲りたのか、普通に撮りてぇ~感爆発したのか、

   「帰国後すっかり愛国者」的鬱憤発散カメラワークに結実したか!?

   まぁ、だから全体として或る意味やりたい(撮りたい)放題な収まりの悪さはあるものの、

   奔放さが本作のジュヴナイル感と相乗効果。ワクワク感倍増。

 

◆そして、もう一人の功労者(最大の功労者!)が何と言ってもダニー・エルフマン!

   久々に抜群に映画音楽のマジック発揮。個人的には『ウォンテッド』以来の大ヒット。

   さすがに、『ウォンテッド』の時みたいに自分で唄いまではしなかったものの、

   女性ヴォーカルをフィーチャーした感動スコア(予告で流れるあれ)では確実に泣かせ、

   クライマックスでの最高潮な爽快感動どストライクミュージックは最高級の職人芸。

   ティム・バートンやガス・ヴァン・サントなんかの要望に応え続けながらも、

   メインストリームの「大味」を堂々とかましてくれる潔さ!大好きだ。

 

◆ちなみに、女性ヴォーカル(Poeって誰?)フィーチャーの泣きスコアが泣けるのは、

   本作における「母(性)の不在」を埋めるかのような充足感を覚えるからではないだろか。

   湿度を排すというより、面倒な前日譚など削ぎ落として今を活写することに専心する本作。

   だから、過去という背景の描き込み不足に感情移入を妨げられそうだったりするものの、

   このスコアがすべてを許してくれるのです。母はいつでも見守っている。心のなかにいる。

 

◆母の存在を感じたポイントがもう一つあって(俺のただの勘違いかも)、

   マックス(ダコタ・ゴヨ)がハンバーガー嫌いなところ。

   「普通、子供は喜ぶもんだ」なハンバーガーを嫌いっていうのは、

   A:母親が健全な食生活を心がけ、ジャンクフードを遠ざけていたから。

   B:「ジャンクフードなんて食べてはダメ!」な母の言いつけを守りたいから。

   とか勝手に考えてジーンと来ちゃったりしてたんだけど、後から考えたら、

   C:母親が全然料理しないでジャンクフードばっか食べてて飽き飽きしてたから。

   なんてことも考えられうるわけで、そんなとこでいちいち感傷的になるハマり具合が笑える。

 

◆基本的に頭カラッポ心カラカラにして、盛り上がっては咽び泣いちゃえな映画だが、

   それなりにテーマ性とかも感じさせてくれるようにつくってるのには感心しちゃう。

   誰もが受けとるメッセージ、「機械はあくまで人間が創った(支配すべき)もの」。

   ともすると、人間中心主義の懐古的復古を唱道するだけで終わってしまいそうなものの、

   アトムの表情や痛みを感じさせる見せ方によって、機械を単純悪にしたりもしない。

   しかし、そう「感じている」のは人間の方だから、結局人間中心主義に変わりはなくて、

   それはそれで爽快になれる隠しスパイスかもしれない。

   近代以降の科学(理性)信奉による人間中心世界観には懐疑的でありたい自分も、

   機械に対する優越は死守せねばならぬという昔気質(?)な信条はゆずれず、

   だから、最後には機械は人間の〈影(シャドウ)〉として活躍してこそ最高な存在に!

   って展開は、ちゃんと人間の営為に〈光〉を当ててくれてるようで素直に歓喜してしまう。

   単純すぎるけどね。

 

◆そういった意味では、ロボットも人間も最終的には「頭脳<身体」って結論は清々しい。

   頭脳優越観で世界統御を試みてきた人間は、身体性を日々喪失する生活を営んでいる。

   しかし、脳は身体の一部に過ぎない。確かに指令を下すのは脳かもしれない。

   ただ、すべての記憶は脳だけが所蔵しているものとは限らない。

   まさに「カラダに染み付いた」感覚こそが温存してくれているものも少なくない。

   原理的には間違いかもしれないが。しかし、

   「こころ」が心臓にあると勘違いして「心」とか「heart」とか呼んでしまった古代の感覚を、

   現代の私達も受けいれられてしまう以上、「思」も「考」もきっと「からだ」に宿るもの。

   そんな身体性への信頼は、アメリカ映画における数々のボクシング映画がもたらしてきた

   絶対的な感動の保証が何よりも示してる。

 

◆地方巡業(?)で訪れたカントリーサイドでは、牛の勝利に歓喜する民衆。

   しかし、都会では動物園で闘ロボによるギャンブル大会。

   その落差(格差?)は、都会優位な社会観を何気に批判?

   オープニングの美しさもそれを補強?

   動物の消えた動物園で、獣と化した人間(マッドマックス的)という皮肉。

   ロボットが人間の地位を奪おうとしているということは、人間が今度は「動物」の番。

   それを薄々気づいているからこそ、結局みんな最後には人間を応援するようになる。

   「機械(的な人間)にまかせとけねぇ~」ってなるほどにエキサイト。

   ロボを擬人化して感動を煽る可能性を大いに孕んでおきながら、

   そこを最小限に留めたこと(グッとこらえて我慢)こそが奏功の素。

   まぁ、突然ロボットが隷属することに異を唱え、「NO~~~!!!」とか絶叫し、

   ロボの群れが街を破壊し始めるっていうのも面白かったかもしれないが(ないない)。

 

 

◇何やら随分と手放しで好意的なことばかり書いてる気がするけど、

   中国インディペンデント映画とかを連日観ている最中にふらっと観に行ったこともあり、

   やたらと娯楽享受全開モードで「身」を委ねてみてたことも影響してそうだ。

   でもまぁ、そういう心身に大きく左右されるっていうのも、映画観賞の醍醐味な気もするし。

   そもそも映画観賞ってかなり身体性を伴う体験だよな。

   「からだ」を運んで、「からだ」の置く位置を選んで、「からだ」を椅子にあずけて・・・

   道中、土地、劇場、椅子、周囲・・・外部世界との絶え間ない交流のなかで内省を喚起する。

   ステキな引篭り!?(笑)

 


ラブ&ドラッグ(2010/エドワード・ズウィック)

2011-11-23 00:33:34 | 映画 ラ・ワ行

 

原題は『Love and Other Drugs』。

わかりやすく(憶えやすく?)カタカナに簡略化(?)した邦題の間抜けさよ・・・。

これじゃ、ただのセックス&ドラッグな痴話狂いドタバタコメディって感じだよ。

公式サイトの作品紹介も「ラブコメ」モードだし、監督も「コメディ」推しだけど、

いきなりヒロイン(アン・ハサウェイ)がパーキンソン病だって設定で不意打ちくらい、

「これは単なるネタだよな」とかって思ってると、どうやらリアル設定なんですよ。

これがシネマート系じゃなくヒューマントラスト系なら間違いなく「感動」推しだわな。

でも、そういった売り出し方が可能なのも、本作がコメディにしろドラマにしろ、

いまいち煮え切らないというか、覚悟の甘さ緩さが露見しまくりだからかも。

 

エドワード・ズウィックという監督は、

プロデューサーとしてのキャリアも十分な故か、

監督作においてもとにかく「まとまり」が好すぎてしまう印象だ。

しかし、それは散々ちらかしまくった後にまとめるといった爽快感ではなく、

初めからバラバラにならぬよう細心注意、歪になる覚悟はサラサラなく、

観客の方が振り切れる覚悟して待ってるうちに予定調和で収束終了。

プロデューサー的には「手堅い」との評価に値する手腕としても、

個人的には「落し所」ありきな語りに思えてしまい、苦手。

 

ただ、今回はキャストの魅力もあってか、最後まで飽きずに物語へ入り込めはした。

主演の二人(アン・ハサウェイ、ジェイク・ギレンホール)は、まさに今をときめく二人。

しかも、『ブロークバック・マウンテン』で夫婦役だった二人。そして、そこから名実共に

着実な上昇を遂げてきた二人の再会というだけで、否が応でも期待は高まる。

そして、その二人はしっかりと与えられた役に生命を吹き込んで、

愛すべきキャラクターを見せてくれている。

そうした魅力的な人物造形であるゆえに、

彼らの「関係」にも更に愛すべき、愛さずにはいられない何かを期待する。

ところが、そこにヒロインの病気の存在が中途半端に「利用」されてしまう。

しかも、それは極めて都合よく受容や拒絶や諦観や達観を行きつ戻りつ繰り返し、

それらを全て吸い込むでもないままに、自己実現的恋愛観で完結する。

とはいえ、彼らのライフ・ゴーズ・オンを想像すれば、確かにそこに「奥行」もあるだろう。

ただ、二人の表情や台詞(といより、脚本が展開させる物語の道筋)からは、

どうしてもペシミスティックに打克ったオプティミスティックというよりは、

オプティミスティックになった自分に酔う二人みたく見えてしまう。

 

マギー(アン・ハサウェイ)の傷(病気)に比べ、

ジェイミーの傷(医学部中退)はあまりにも「情報的」な域にとどまっているし、

恋愛に臆していた過去も台詞で全て片付けてる印象で、彼の人物像に奥行がうまれない。

ドラマを盛り上げるはずの小道具(バイアグラ、モノクロVTR、浮浪者など)もあくまで装飾品。

むしろ本筋への集中をそぐためのノイズとしてしか印象に残らない。

二人のセックス・シーンやアン・ハサウェイの模範的健康美な裸体などは、

それなりに印象に残るものの、後半が後半だけに、それはそれで罪悪感(笑)

 

まぁ、そもそもエドワード・ズウィックのフィルモを見ても、

本作のようなコメディ要素をもりこみつつもヒューマンドラマを目指すタイプは畑違い。

キャスティングは好かったし(主演二人もだが、オリヴァー・プラットやジョシュ・ガッド、

ハンク・アザリアといったお馴染み燻し銀も適度な彩りで)、

テーマだって新たな提案の可能性を込めうる内容だっただけに、

とにかく「惜しい」といった感想がまとわりついてしまう一作。

ただ、エンドロールで流れるレジーナ・スペクターの「Fidelity」がもたらす余韻はなかなか。

 

 

◆ラストの二人の会話はなかなか秀逸なんだけどな。

   (それまでの物語の細部が、「そこ」に向かっていないから、溢れ出る想いも僅少で・・・)

   マギー(アン・ハサウェイ)の、「It isn't fair」って台詞なんかがもっと効いて来る物語を

   しっかりと構築できてれば、もっと深みと味わい出てただろうに。

   中盤の「彼女のためは自分のため?」みたいなジェイミーの葛藤&マギーの不信が、

   テキトーにあしらわれずに、正面から対峙し克服していくドラマが欲しかった。

 

◆それにしても、そのラストの会話でジェイミー役のジェイク・ギレンホールの口から

   とんでもない発言が!『ミッション:8ミニッツ』を観賞済の方なら猛烈なツッコミ必至(笑)

   それにしても、『ラビット・ホール』でも用いられたりしてたけど、

   今のアメリカが自己肯定するために必要なのは、パラレル・ワールドなんだろか?

 

◇シネマート新宿にて展開中の「ラブ」シネマ対決。どうやら本作に軍配が上がったらしく、

   来週には『ラブ・アゲイン』がホームシアター級の小さい方のみでの上映に・・・無残。

   折角のシネスコ、折角のフィルム、折角の御都合主義全開爽快映画(大画面映え)なのに。

   劇場側も「泣く泣く」の決断ゆえか、今度の土日までは大きい方での上映をかろうじて確保。

   いっそのこと、突飛な邦題でもつけた方が注目されたかもなぁ、なんて思ったりして。

   って、こちらは『ラブ&ドラッグ』の方の記事でした。

 

 


ラブ・アゲイン(2011/グレン・フィカーラ&ジョン・レクア)

2011-11-22 01:12:07 | 映画 ラ・ワ行

 

この監督コンビって、『フィリップ、きみを愛してる!』の二人なんだね。

なるほど、ドタバタでハートウォーミングなんだけど、

どこか軽めのフックが効いてる感じが似ている気がするね。

 

ポスターなんかのデザインでは明らかに「ドタバタ」メインな大味コメディな印象だし、

邦題から想像すると甘ったるい人情もどきの愛情劇場っぽくもある。

しかし、いずれも本作の「つくり」とは微妙にズレる。

Crazy, Stupid, Love. 狂、愚、愛。心、技、体。

アンバランスこそがバランスな愛、映画。

 

結婚25年の夫婦(スティーブ・カレル&ジュリアン・ムーア)。

妻から離婚を切り出したかと思うと、浮気の告白。

これまで妻一筋だった夫は発狂し、愚行に走り、愛に飢えはじめ・・・

しかし、それは妻も同じだったのだ。

一途という迷いのなさが、迷いを喚起することもある。

全うであればあるほどに、軌道を辿れば辿るほど、

道を踏み外す「必要」などを無暗に感じ、不要な冒険に活路を見出す。

学生とスティーヴ・ジョブズしか許されぬ(笑)スニーカーを脱ぎ捨てて、

バリ財布(マジックテープの財布)も卒業し、タイトなスーツに身をまとう。

それは、キャル(スティーブ・カレル)という自分と等身大な存在への不安が

自己へとフィードバックされた時、漠たる退屈の気配を払拭するべく手を出す

お手軽オシャレアイテム、デイヴィッド(ケビン・ベーコン)。

同じ道を辿った夫は、未練を感じるだけじゃなく、妻の不安を追体験するかのよう。

そして、束の間の高揚を味わったときの充足を知り、その後の空しさも知った。

二人が愛を再確認する会話が、「家」を「あたためる」ためのものとは心憎い。

 

同じ構造を持つかのように、スタイルは違えど「相手まかせ」な駆引に身を任せた若い二人。

見栄えのする服よりも、着心地の好い服を選んだとき、通販トークは花盛り。

心の隙間を埋めるのじゃなく、心の隙間を確かめ合う。

「満たして!」じゃなく、「満たされねぇ~」って笑い合う。

そして、相手が自分を満たしてくれるのを待つんじゃなくて、

相手が埋める隙間を愛でてみる。隙間があるから、一緒が必要。

愛があるのに隙間があるのじゃ決してなくて、隙間があるから愛がある。

間隙がうむ感激が。

 

 

◆群像劇に必須なキャストの充実は、楽々クリアしている感じ。

   何しろ、今をときめく若手筆頭のライアン・ゴズリングとエマ・ストーンを擁しているのだから。

   『ブルー・バレンタイン』での全身不甲斐なさな男から一転、脱いでも超絶クールガイの

   ライアン・ゴズリングに、今年の賞レース注目作『ヘルプ~心をつなぐストーリー~』に

   主演しているエマ・ストーンというカップリング。ライアンは、『ドライヴ』でカンヌを沸かせ、

   『The Ides of March』でヴェネチアを沸かせ、今後も良作保証な待機作続々な感じ。

   ところでこの二人、『ゾンビランド』の監督ルーベン・フライシャーの次回作である

   『Gangster Squad』でも主演(共演)する模様。いやはや楽しみ過ぎるわな。

 

   そして何よりジュリアン・ムーアの「いい女」さ加減がハンパない。

   母親の顔、妻の顔をしっかり持ちつつ、女としての妖艶さも醸し出す。

   どんな映画に出ようとも、トンデモ映画でも文芸作品でも見事にジュリアン・ムーアな彼女。

   オスカー無冠も納得の、まとまりきらない活き活き演技という名誉。

   年々美しくなっているように思えてしまう。

 

   マリサ・トメイやジョン・キャロル・リンチといった芸達者も

   リラックスして溌剌とした脇役で適度に暴れ、子役達だってジャストサイズに健闘してる。

   とにかく、群像劇に必須なアンサンブルが丁度好い具合でまぶされてる感じ。

   まあ多少のバラバラ感は否めぬが、こういうタイプの映画には、

   そのくらいの「抜け」にくつろげたりするのも事実だし。

 

◆スティーヴ・ジョブズにしても、デミ&アシュトン(元)夫婦にしても、

   本国公開時よりも(期せずして)妙なタイムリーさを帯びたネタが飛び交い盛り上がる。

   日本人でもわかりやすい小ネタが多くて助かった。

   それにしても、『ハートブレイカー』といい、本作といい、

   本当みんな『ダーティ・ダンシング』好きだよなぁ。

   そういえば、なんかの映画でも父娘が『ダーティ・ダンシング』ごっこするとかあったよなぁ。

   (あのダンス・シーンの振付は、『ハイスクール・ミュージカル』や『THIS IS IT』の

   ケニー・オルテガなんだね。って、有名なのか!?)

   確かに印象的な名シーンだけど、あまりにもパロディ的な使われ方しすぎると、

   『ゴースト/ニューヨークの幻』の轆轤シーンみたいに「ネタ」的印象が強まりすぎる・・・

   って、どっちともパトリック・スウェイジという・・・

 

◆クリストフ・ベックと共に音楽担当としてクレジットされている Nick Urata って、日系人?

   それとも、「浦田」じゃない向こうの姓があるのかな?という、どうでもいいプチ疑問。

 

◆映画の予告編で最近やたらと使用されてるMUSEの楽曲。

   本作の予告で流れる「STARLIGHT」もお約束のように(?)全く流れません。

   本国のトレーラーも同じ仕様。アメリカでのMUSE人気の顕れか。

 

◆一方、本作のエンディングで流れてくるのは、The Middle East の「Blood」。

   そう、日本未公開佳作『It's Kind of a Funny Story』で、あの二人が院内を駆け上がり

   屋上へ出たときに流れていたあの曲です!(あそこでは、アウトロ的部分が中心でしたが)

   映画的な感動を喚起する、新たな映画使用楽曲のスタンダードになりそうです。