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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

ラウル・ルイス特集上映 フィクションの実験室(2)

2012-09-16 12:02:49 | 2012 特集上映

 

今回の特集上映の「フィクションの実験室」というタイトル。

一見、特殊な意味をまとっているようにも思えぬそのタイトル。

しかし、ラウル・ルイスの作品を見れば見るほど、得心がゆくばかり。

映画作家として彼は、フィクションであることの目的を徹底的に探求しているし、

フィクションであるための手段をあらゆる試行で実験し尽くそうとしているかのよう。

 

ラウル・ルイスの実験室では、彼が一人、自己探求と自己実現に没頭するのではない。

彼による実験(experiment)によって観客の体験(experience)もがそこにある。

それでこそ、簡潔を頑なに拒むラウルの思惑が一瞬、完結をみる。

 

作家主義的立場からの明瞭な擁護を勝ち取ることも困難にすら思える彼の想像と創造。

しかし、だからこそ、観客にはどこまでも開かれており、誰かだけに向けられてなどいない。

誰かが掴み掌ろうなどすれば、彼の想像力は溌剌と指の間へと流れ落ちるだろう。

だからこそ、ラウル・ルイス・ラボラトリーの被験者は、とにかく身を委ねれば好い。

頭も心も二の次だ。とにかくシートに身体を埋めれば好い。

何処かへ、何処へでも、連れてく準備があるリールたち。

手の鳴る方へ心を任せ、巻き込まれるだけで好い。

 

 

その日(2003/ラウル・ルイス) Ce jour-là

日本初上映となる本作。勿論(?)日本語字幕はないが、英語字幕はある。

しかし、以前にも実感したように、ラウル・ルイスの作品においては、

言語という「些細」な手がかりに依存していては、十分味わえない。

いや、もしかしたら言語こそ十全な享受の妨げになるのかもしれない。

当然、映画内で言葉が発せられる以上、その断片一つ一つに含意はあるはずだし、

そこには「予め込められたもの」と「各々に受け取るもの」という拮抗の膨張もある。

しかし、ラウル・ルイスの実験においては、言語を駆使した一貫性に依存するよりも、

眼前の一瞬一瞬を一つ一つの試練として、交流として、思い思いに抱かれれば好い。

などというのは、英語字幕に追いつかない己の言い訳に過ぎぬ気もするが

(それ以外の何物でもないのも事実だが)、

とにかく「見てるだけ」で驚くほど溢れ出る映像言語の奔放さを前にしては、

眼や脳は必至で字幕を追うことを止め、眼の前を流れる映像に「乗る」しかない。

そうすれば、「解る/解らない」などという世界の二分化から解放される。

だからこそ、矮小化から免れた世界の両面、世界の相反を直接感応できる。

 

言い訳がましい前口上が過ぎてしまったが、

本作は底抜けに面白い!不可笑はずなのに可笑しくて仕方がない!

ブラックなユーモアではなく、ユーモアあふるるブラック!

ユーモアをブラックでコーティングしたのではなく、ブラックがユーモアに包まれて、

それゆえに観賞中にはひたすら笑えるのに、観賞後に迫りくる深奥の闇。

夢に出てくるとすれば、ユーモアの部分ではなく、それによって匿われてる魅惑の毒だ。

 

『その日(英題:THAT DAY)』というタイトルや、

キー・ヴィジュアルなどからは到底思いもよらない、

突き抜けまくった摩訶不思議な一本。

映画芸術読者と映画秘宝読者、どちらもが必見と思える一本。

(というのは、余りにも低俗で乱暴な惹句かもしれませんが)

先週観た『無邪気さの喜劇』にしても本作にしても、一筋縄でいかないどころか、

幾筋の縄があっても編み上がらないほどの、無垢すぎるほどの作為。

「実験室」を冠した特集のラインナップに不可欠かつ恰好の一本。

こんなにも奇天烈で在り得ないほどの在り難さを感じる一本も珍しい。

日仏で(アンスティチュか)隣の客と笑いで感じる奇妙な連帯こそが奇妙。

場内がどっと笑ったりしないのも「らしい」気がするが、

あちこちで去来している「引きずる笑い」や「思い出し笑い」は充満し、

そのバラバラな一体感は終始こだまする。

 

『無邪気さの喜劇』も「家」が重要な登場人物であるかのように語られるが、

本作も見事なまでの存在感を放つ「家」。というより、ラウルは《空間》の魔術師。

それも、今までの経験を超えるアングルや距離や浮遊を味わわせるため、ニヤニヤ。

卑小な私見に過ぎぬかもしれぬが、彼がフレームのなかに構築する「世界」には、

人間が無意識に図っている序列化や優先順位を転倒させる試みが充ちている気がする。

明らかに「人間中心」的ではなく、人間も時に極めて物質的であるかと思えば、

物(例えば家、もしくは調度品の一つ一つ)が異様な生命力を放っていたりもする。

 

本作を観ながらようやく認識したラウルのお好み構図

(手前の「巨大」な物と、地(背景)かのように「遠く」にある人間たち)は、

自分の手ばかりみつめ、その「自分の手」越しに世界を眺める幼少期の眼差しを思わせる。

そうした無邪気の企みには、世界を白紙から描こうとする無垢と強固な主観が宿ってる。

だからこそ、そうして切り取られ繋がれた世界を前に、その主観に私たちは装填される。

 

前述の「解る/解らない」の二分化同様、「正常/異常」というナンセンス。

本作は、それこそが至極メイク・センス。

その二分化を曖昧にするのではなく、むしろ確実なボーダーを前面化することで、

それが余りにも近すぎていつの間にか見えなくなってしまうような遠近法瓦解の序曲。

「異常」が排斥される論理は、「異常」が「正常」に立ち向かう論理を正当化する。

異を唱えることは、正を認めてしまうことでもある。

だから、「同じ」ようにするだけさ。ただ、やり方は違うけど。

でも、どちらが残酷か。どちらが笑えない?

ラウル・ルイスの被験者(観客)は、常に宿題を渡される。

 

 

 

見出された時~「失われた時を求めて」より~(1999/ラウル・ルイス)

Le temps retrouvé, d'après l'oeuvre de Marcel Proust

 

プルーストの『失われた時を求めて』の世界を求めて・・・いや、借りて、

ラウル・ルイスは自らの世界を止揚しようとしたのだろうか。

プルーストをまともに読んだことのない教養不足の私に判断する資格はないが、

これは紛れもないラウル・ルイスの語りに満ちている。そして、それに充たされる。

 

作家として(作品群をまとめて)カテゴライズするのは困難なラウル・ルイスだが、

彼の作風をいくつかに(実際は、「いくつも」だけど)カテゴライズすることはできるかも。

とはいえ、そのどれもが越境しようと常にウズウズしてるのを軽く宥めながらになるけれど。

本作はまさに、来月公開となる『ミステリーズ 運命のリスボン』に通ずる(へ通じる)、

ポスト・クロニクル・ヒストリー。時空の飛躍が描き出す、謎という究極の美。

大河もロマンも時間に抱かれて、漂う空間のゆらぎに目を閉じる。

 

光と影、鏡と絵画。

ラウル・ルイスの作品にいつも現れる世界の実像と虚像の饗宴。

それらは在と不在の対立を超えて、魂の連綿に魅せられる。

少年と壮年は共存する。語り合う。時計の刻む時を超えて。

眼差しは浮遊する。しかしまた、対象も廻り出す。

世界を(x,y,z)だけで語り尽くさぬことに耽溺すれば、

時空もたまには味方する。不可解から付加解へ。

 

フィルムならではの光に溢れ続ける158分。

いま、まさに、眼のまえに射し込んでいるかのような陽光と、

いま、まさに、眼のまえで揺らめいているかのような灯火。

世界を媒介するフィルムの最も美しい「やり方」がそこにはある。

しかし、と同時に想起してしまうのは、『ミステリーズ 運命のリスボン』で見せられた、

世界を媒介するデジタルの美しい「やり方」だ。

そして、両者が描く「世界」の違いは、優劣などとは無関係に各々魅惑する。

最後の最後まで実験をやめなかったラウル・ルイスの先鋭に、改めて感服するしかない。

 

 

今回の特集もいよいよ残り僅かとなってきた。

遺作となった『向かいにある夜 La Nuit d'en face』も上映される。

本特集のチラシには赤坂太輔氏が「彼の大規模な回顧上映をいつか日本で実現」

させたいという思いが綴られている。まさに、それが叶えば最高だ。

そして、願わくば、「ラウル・ルイスの館」なるものが造設され、

望めばいつでも夢幻の世界を彷徨える、そんなオアシスが都会に出現して欲しい。

という夢想に耽っても、ラウル語りには許されそう。

 


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