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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2012(2)

2012-07-20 23:58:05 | 2012 SKIPシティ国際Dシネマ映画祭

 

昨年はオープニングのヌリ・ビルゲ・ジェイラン最新作『昔々、アナトリアで』目当てで赴き、

ついでに(失礼)コンペ作品も3つほど観た。『シンプル・シモン』はその一本だった。

上映後のQ&Aの独特な雰囲気(本当の意味での「アット・ホーム」な空気)は稀少(?)で、

他の映画祭には決して味わえない「地域密着の可能性」を感じられるのも一つの特徴。

ただ、東京から近距離の埼玉県川口市というのが地域性と都下性(?)の狭間で

必ずしも巧いこと集客や話題性に結びつかないという困難も抱えてそうな気もする。

とはいえ、やはり手作り感と形式的に決して堕さぬ「おもてなし」の心がそこはかとなく漂い、

都心開催の映画祭とは一味も二味も違った体験は得がたく、今年はついにフリーパス購入。

といっても、全作は当然観られぬものの、長編コンペ全12作の半数でも観られれば

十分に元がとれる良心価格(3,000円)ということもあり、利用させてもらうことにした。

 

そして、私にとっての2日目となった18日には、コンペ2作品を観賞。

フリーパスを買ったので観ることにした『死と乙女という名のダンス』と、

地味に期待を膨らませて臨んだ『レストレーション~修復~』。

 

 

死と乙女という名のダンス(2011/アンドレ・ヒューレス) The Maiden Danced to Death

 

監督を務めるアンドレ・ヒューレス(Endre Hules)、

役者としても知られているが、長編劇映画の監督は本作が初めてとなるらしい。

彼自身、ハンガリーで生まれ育ち、舞台の演出や大学での教鞭を世界各地で行いながら、

現在はロサンゼルスに在住し、テレビや映画への出演もコンスタントにこなしつつ、

さまざまな創作活動に意欲的に取り組んでいるようだ。

IMDbのトリヴィアによると、相当数の言語に長けているようで、

確かにQ&Aで彼が発した感謝の言葉は、「アリガトゴザイマス」じゃなかった。

 

さて、私が本作を観賞しようと思ったポイントは二つあり、

一つは撮影監督が大ベテランのヴィルモス・スィグモンドだということ。

今年に入ってすぐに浮かぶだけでも、彼が撮影した作品を既に2本も劇場で観ている。

午前十時の映画祭で観た『ディア・ハンター』、爆音映画祭で観た『未知との遭遇』。

いずれも映画史に残る名作。

そして更に、個人的にも好きすぎる『さすらいのカウボーイ』(ピーター・フォンダ監督作)

までが彼の撮影によるもの。絵画に精通している彼らしく、ため息まじりの画が連続。

そんなヴィルモス・スィグモンドもアンドレ・ヒューレス同様、ハンガリー出身。

ハンガリー動乱の後にアメリカへと亡命し、その後にアメリカ映画界に多大なる功績を残す。

(そのあたりのことはこのサイトが詳しい。)

アンドレ・ヒューレスが監督を務めたハンガリー動乱に関するドキュメンタリーでも

ヴィルモス・スィグモンドは撮影を担当していた。

今回は、ダンスシーンの撮影に随分と工夫を凝らしたそうで、

スタジオ内の鏡に映り込まぬために細心の注意を払いつつ、

同様に「照明」が画面に映り込むのを避けるために、屋外に設置して撮影したとか。

さすがの名カメラマンにとっては、当然すぎる逸話にニヤリ。

 

本作観賞の二つ目の決め手は、ハンガリーの映画だということ。

当サイトでは取り上げられずじまいだし、シネフィル的巷でも話題にのぼらずじまいだったが、

今年のEUフィルムデーズで観た『メイド・イン・ハンガリー』(2009/フォニョーゲルゲイ)が

個人的にはかなりのヒットを記録し(本国でもヒットしたらしいが)、ハンガリー熱急上昇。

最近のハンガリー映画というとすぐに想い出すのはタル・ベーラといった名前。

(勿論、彼の作品には魅了され続けているが)

一味違ったハンガリー(これが従来かも)に触れられた『メイド・イン・ハンガリー』

に描かれる感情の機微が私の心の襞にグイグイ入り込み、実は大変感動しちまった。

爾来、ハンガリーに対する奇妙な親近感を覚えだし、その深層に興味津々。

そもそも、ハンガリーは名前の表記が日本と同じく「姓」から「名」の順序。

(本作も冒頭のクレジット表記の際には、「名姓」表記から入れ替わって「姓名」表記となり、

  祖国への《帰還》で始まるオープニングを演出。監督の故国愛も感じて、じんわり。)

些末なことかもしれないが、「ファミリーネーム」優先という名前の序列は、

思想の根底にも影響を与えてそうだし、

日常生活のコミュニケーションにおける「呼び方」は人間関係のあり方に

少なからず関係するだろうから、そうした共通点から生じる類似性もあったりしそう。

 

そうした個人的興味に対しては、それほど「応え」てくれはしなかったが、

それなりにウェルメイドな作品だったとは思う。

ただ、私は不覚にも中盤で随分とウトウトしてしまったが為に、

物語の根幹に迫る肝心なシークエンスを捉え損なっている可能性がある・・・

ということを告白し、断った上で言わせてもらうなら、

「構想10年」というだけあって、少し丁寧(慎重)過ぎた印象で、

1ミリも逸脱を許さぬような感情の完全補正が施されている気がしないでもなかった。

だからこそ、安心して観られるし、主要キャストは確かな魅力を兼ね備えてるけど、

それが個人的には凡庸に思えてしまったみたいだ。

肝心のダンスシーンも「遊び」がない分、随分と堅いままだった気がした。

が、それは「何を求めるか」という個人的欲求によって好みが分かれるところだろう。

 

コインの裏と表の喩え話が、ただ単に「二者択一」という分岐点的発想に陥らず、

「反対側は決して見えない」といった着地にもっていったところは感心もしたし(偉そう)、

実際にそうした対立軸は冷戦時代の構造をも念頭にあったりするのだお思うと、

その意味するところは計り知れない。ただ、そこに敢えて説教的な解答を出さず、

「見えない」という事実の確認に留まっているところが好くもあるが、やや物足りず。

監督が語っていたテーマの一つであるところの、妥協がどこまで許されるのかという点も、

「人間はひとつの妥協で死ぬまで踊らされる」という演目との相関関係や相乗効果を

もう少し手際よく相互乗り入れさせられていたら、ダイナミックな飛躍が期待できたかも。

 

でも、そもそもそうした方向性は監督が望むものでもないだろうし、

女性や年配の方々には概ね好評そうな空気も漂っていたので、

ちゃんとした佳作なのだろうと思います。

 

ただ、邦題にはちょっと難ありだよね。(意味違ってるし)

 

 

レストレーション~修復~(2011/ヨッシ・マドオニー) Boker tov adon Fidelman

 

こちらは、昨年のサンダンス映画祭で脚本賞を獲得している。

確かに、全体が「機微」で優しくコーティングされ、

言葉は勿論のこと、動きや表情でも語ることにゆるやかな抑制が張り巡らされ、

しかし、その伏し目がちな眼差しこそが本作の魅力とも言えるだろう。

 

デジタル撮影による映像も、フィルムの質感にやや近い印象を受け、

その淡さというか柔らかさが心地よい。

監督曰く、ノスタルジックな映像にしたかったとのこと。

レンズを2枚重ね、ソフトフォーカスで撮ったとのこと。

最後の数分間は極めて原色的なデジタル・クリアな映像に変貌するが、

その対比が実に鮮やかで、確かに「硝子の向こう」を眺める郷愁の時間が流れる。

(言ってみれば、セピアなイメージが映像全体に漂っている感じ。)

 

物語は、アンティーク家具の修復屋を共に営んでいた親友に他界され、

残された相棒である主人公とその実子、更にその直前に雇われ始めた若者という三人が、

微妙な関係を微妙に震わせながら物語は進む。実子には妊娠中の妻がいて、

バイト君には大変富裕な兄がいて、どちらも互いになかなか向き合えない。

おまけに、主人公と息子も全然向き合えない。主人公とバイト君は次第に打ち解ける。

主人公の息子は他界した主人公の親友を実父のように慕っていた。

そうした人間関係の複雑さを、スキャンダラスに描こうなどと一切しない。

彼らが常に間に挿し挟んでしまう「硝子1枚」の見えるのに届かないような距離感、

それが終始淡々と静かに映し出されてゆく。しかし、変化はいつも潜在的に起こってる。

 

工房の古めかしさ、暗さに射し込む柔らかな陽光が、

その場に「アンティーク」のぬくもりを充満させる。

しかし、そうした空気に一抹の懐疑が常につきまとい、

だからこそ登場人物たちは思い思いの決断を静かに迫られる。

その道程がゆるやかだったり、唐突だったりで、アンバランスさのリアリティ。

 

この物語で鍵を握るアイテムが、スタインウェイのアンティークピアノ。

その「お宝」を見つけ、かつて音楽家を志したバイト君アントンがいきなり弾き始めるのが、

ベートーベンのピアノソナタ「月光」第三楽章。

あの指の動きや上昇した後の連打は、確かに運動的な気持ちよさがある。

そして、物語のクライマックスで流れてくるのもベートーベン。

こちらもピアノソナタ。「悲愴」第2楽章のもの悲しくも希望の決意をみなぎらせ。

ヴァイオリン・アレンジによる伸びやかな調べが、懐かしくも新鮮。

 

上映後のQ&Aで、「月光」の方の曲名を観客から尋ねられたときに、

「Spring」という答えをしていた(だから、通訳は「春のソナタ」と翻訳してました)のだけど、

あれは何処から出た(何に由来する)答えだったのだろう・・・そういう別名でもあるのかな。

 

アントン(バイト君)が街にやって来るところから始まり、

再び彼が街を歩いている場面(しかし《世界》が異なって見える)で幕を閉じる物語。

彼の名(「アントン」)は、主人公親子の「ヤコブ」や「ノア」という明白なユダヤの名とは異なり、

明らかに《外部》の名であることを示唆しているとのこと。

ちょっと意地悪な見方すると、やっぱり外部の者には入り込めない「ユダヤの地(血)」?

などという穿った理屈を吐きたくなったりもしなくはないが、それはそれで安易な融和で

予定調和で収束させるより、ある種の厳粛さが感じられて私は好きだった。

 

 

映画祭7日目にはコンペ1作品を観に行く予定だったので、

ついでに「SKIPシティ・セレクション」とやらの1作品を観てみることに。

 

春、一番最初に降る雨(2011/佐野伸寿、エルラン・ヌルムハンベトフ)

 

この作品は、昨年の東京国際映画祭(日本映画・ある視点)でも上映された。

昨年のユーラシア国際映画祭でグランプリを獲っていたりもするらしい。

監督の佐野伸寿は元々、カザフスタン大使館に勤務していたらしい。(出典

『ウルグイからきた少年』の監督だったりもしたのか・・・失念してた。

エルラン・ヌルムハンベトフは、『トルパン』の第2監督も務めていたらしい。

 

チラシの物語解説には、

「中央アジアのカザフスタン、広大な大自然の中、

ある一家がこの地に流れ着いたシャーマンと暮らしていた。

ある日、年老いたシャーマンは、生まれ変わって長男のアスハットの花嫁になる

と予言して亡くなるが・・・。」

とあるので、てっきりかなり幻想的な展開に向かうのかと思ったら、

意外にもドキュメンタリータッチで(というか、そもそもそういう作風か)、

出演者もほとんどが素人(というか現地の人々)なもので、

その土地で生活する人々の有様を収めた感じの85分。

それもそのはずで、警察官や役所の職員なども登場するのだが、

彼らは実際にそういった仕事をしている(していた)人々で、

小道具含め自前で素に近い形で立ち居振る舞っていたそうだ。

 

また、監督の話で面白かったのは、

撮影の際にスタッフを現地調達しようとしても全然人が集まらないのだとか。

「別にちょっとくらいお金もらうより、いつもの生活を続けてた方が好いや」というノリらしい。

観客から「ああした僻地で生活するのは困難なのでは?」という問いに、

「彼らはむしろ自分たちの土地や自分たちの生活から離れたがらない、

というより、むしろ積極的に幸福を感じているようだ」と答えていた監督。

確かに、本編でも徹頭徹尾、むやみな批判や断定の精神は微塵も感じられなかった。

 


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