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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密(2011/スティーヴン・スピルバーグ)

2011-12-06 20:42:13 | 映画 タ行

 

「スピルバーグ」という名前には、

親近感の向こうに後光が射すような「映画の原初的体験における御大」感が刻まれてるも、

「タンタン」という名前には、

「あの有名な!?・・・え・・・あ、う、ぅん・・・俺はよく知らないけどね」という戸惑い。

この妙なブレンド。

好きな洋物アーティストがカバーアルバム出したら、

知らない曲が結構入ってたときの一抹の寂しさみたいな(笑)

知らなくても、それはそれで「新曲」として純粋に楽しめて好いかも的自己暗示かけつつ・・・

そんな戸惑いは観る前までの杞憂に終わると信じて観賞したものの、

まさかの「実は知ってる曲ほぼ皆無」的アウェー感。

予告(シングル)でやってた「一曲」しか楽しめなかった本編(アルバム)、みたいな。

やっぱり「スピルバーグ」ってイコンの精緻な感得は、こんな自分にゃ不可能事。

 

オープニングから不穏。というより、無音(笑)

なんで、あんなにサイレント?やっぱりレトロ感演出のサイレント?

500席ほどの劇場に1割どころか5%すら入っていない場内にまず響き渡ったのは、

「おい、音出てねぇーぞ」というオッチャン(観客)の声・・・。

 

冒頭、胸が高鳴るはずのタイトル・デザイン。しかし・・・

私的パブリック・イメージ(矛盾表現)からは程遠いジョン・ウィリアムズの音楽。

いっそのこと、ラロ・シフリンやらジェリー・ゴールドスミスやらの「わかりやすい」高揚で

ベタだけどワクワク優先幕開け希望・・・したところで、そこはスピ御大。

如才ないのはわかるけど、ヤヌス(撮影)にしてもそうだけど、

気心知れた一流仲間と上質仕事も好いけれど、

たまには「冒険」してほしい・・・

ま、「3D」とか「CGアニメ」っていうのが冒険なんだろうけれど。

確かに既存のそれらと較べて新奇な一面見受けられるが、

西洋御自慢の弁証法的発展が全く遂げられていないようにも思えるわけで。

「だって、俺、スピルバーグだもん!」みたいな開き直りで終始押し通す。

でも、そうなればなるほど、

「そうだよね、俺、スピルバーグ御大ディスるほど映画知らないし、

そもそもスピルバーグの凄さ語れるほど映画観てないし」って卑屈になってイジける自分。

 

そんな阿呆な自虐を促進する、余りにも過剰に秀逸なカメラワークやライティング。

このあたりは、アニメの制作者がCGを手にした時とは明らかに異なる「駆使」だろう。

まさに、実写という呪縛から解放された歓びを存分に味わいつくすために、

世界の創造主気分に皆(主にスピ&ヤヌス)して狂喜乱舞の図。

しかし、そんな「遊び心」が余りにも「大人」で「上質」過ぎてポカーンな自分。

まだ早かったか・・・いや、遅かったのか?よくわからん。

 

同じCGアニメの「画づくり」としては、

『ヒックとドラゴン』のロジャー・ディーキンスは本当わかってたんだなぁ、なんてね。

本当、アカデミー賞なんてもらうもんじゃないのかも。

ま、ただの相性かもしれんけど、俺は(実写においても)断然ロジャー派さ。

 

ただ、本作のクオリティが半端ないってことは、こんな俺でもよくわかる。

CGアニメの新たな地平を示唆しようって気概にゃ感服します。

「実写みたい」な現実感や、「実写を超える」美しい風景だって、十二分に魅せられました。

何度も思った「実写で好いじゃん」って感想が《誤り》なのもわかります。

けど、タンタン無知な観客にとっては、「注力そこじゃない」感にはかなわない。

立派すぎる仕事ぶりは時に、凡庸な観客にとって大迷惑(ユニコーン号だけに)な好例だ。

 

ただ、スピ素人な俺でもわかる「タンタン前髪ジョーズ寸劇」やら、

クラシック映画未精通な俺にも堪能できる『アラビアのロレンス』オマージュといった

(他にもふんだんに仕込まれているだろう)シネマ絵巻感にはニヤっとさせられもしたものの

ドヤっとしてる顔もその向こうに見える気して・・・(どこまで歪んでるんだ、俺。)

 

終盤の追いかけっこのハチャメチャ感は本当鳥肌級だったけど、

予告で何度か目撃済だったからなぁ。

ってか、ああいうのを全篇に期待しちゃった自分も悪いのだろうが。

ってか、あんな楽しそうな予告観て皆観たくならないのか?

もはや映画を観る決め手って、「面白そう」より「知ってる」なのか?

知ってるものはとことん知りつくす。知らないものに興味はない。そんな風潮なんだろな。

スピルバーグは知ってても、可視的表面に「馴染」がこびりついてなきゃ。なんだろな。

三谷がウケるわけだ・・・

こうして「ガッカリ」というか「敗北感」みたいなものを味わうのも、

映画観賞の醍醐味なんだけど。ってことは、三谷を観なきゃじゃねぇーか(笑)

 

結論としては、俺にとっての「タンタン」は、「淡淡」でしかなかったと(笑)

 

 

◇本作とは関係ないけれど、

   今最も楽しみな映画のひとつ『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(原作積読中)の

   スティーブン・ダルドリー監督の前作『愛を読むひと』(邦題最悪)では、

   主人公のマイケル(原作ではミヒャエル)が読む本のなかに「タンタン」が出てきていた。

   原作には登場しないものの、監督が好きな本ということで登場させたとか。

   ホメロスやトルストイ、チェーホフなどと並んで読まれるということもあり、

   その人気や権威(?)が確認できた。

 

◇ハドック船長の声を演じたのは、あの!アンディ・サーキス。

   そう、先日公開された本年度ナンバー1娯楽(なのに深い)作品『猿の惑星/創世記』で

   シーザーを「演じた」俳優です。本作でも、声のみならず「演じて」いるのだろうか・・・

 

◇などと言いながら・・・またもや「3Dだから吹替」というチキン選択してる俺。

   タレント起用ではない吹替だけあって、その安定感は見事なものでした。

   こちらのハドック船長は、「チョー」なる人物が演じており、調べてみると・・・

   あの「チョーさん」なんだと!そう、『たんけんぼくのまち』の。一時期、死亡説流れた(笑)

   そういえば、そんな話(声優やってる)聞いた気もしたけど、初めてちゃんと認識したわ。

   しかも、アンディ・サーキスの吹替は基本的に担当してるみたいで、

   LOTRのゴラムのあの声って、「チョーさん」だったんだねぇ。

   映画本編について語れない分、余計な雑談で水増し記事でした。

 

吹替版の予告( ↓ )

 

 


テイカーズ(2010/ジョン・ラッセンホップ)

2011-11-21 06:43:12 | 映画 タ行

 

先週末公開の『コンテイジョン』のキャッチコピーは「全員アカデミー賞」。

本作は?

 

この微妙な豪華さは、確かにシネパト直行も納得だけど、

80年代への郷愁はどこか背伸びだが、90年代は道連れ感から小っ恥ずかしく、

ゼロ年代は余りに疾駆な年月に、余所余所しさが残ったまんまの奇妙な新鮮。

そんな感覚の世代には、丁度好い等身大感ただよう超ライト級なポップコーンムービー。

それゆえ、ポップコーン食べながら(あくまで感覚です)でないと不満は残る杜撰さも。

こうしたわかりやすい反応はそれを物語っていたりもするんだろう。

フィルメックスの箸休め的に活用するには賢明か?

 

個人的な印象では、「ヤング・エクスペンダブルズ」みたいな印象で観に行った本作。

作品の印象以上に内容こそが、全ての消耗が何にもつながらないステキな金搾り。

何せ行き当たりばったりな脚本は、1~3本しか執筆経験のない面々が4人も集結し、

ジャンケンで負けた人が次の展開考えてるかのようなパッチワーク・スリリング。

トニスコみたいな無茶は、助走のしなやかさや流麗な構築後の瓦解ぶりにこそ華がある。

だから、本作に華はない。けど・・・一生懸命に体力もばっちり消耗しながら撮影に臨む

次世代のエクスペンダブルスたちの溌剌ぶりにはどこか惹き付けられたりもする始末。

何より、自分の出番だけ頑張れば好い感によるリラックスがうみだすゆる~い活劇は、

どこかパロディ寸劇を立て続けに観てる気すらして来だす。それでも、何か大丈夫(笑)

『TAKERS』ってタイトルも、つい最近のヒット作『TAKEN』(『96時間』原題)とかぶらない?

向こうの人は気にならないのか、「あえて」なのか。そんなB級感きらいになれないけど。

 

タイトルになっている「takers」とは、「カネを取る(奪う)人」って意味なんだけど、

ちょっとばかし「ひねり」があって、これは単純に強盗集団だけを指してるわけじゃない。

まぁ、そこが面白いっちゃぁ面白い気もするけれど、興味が持続するほど物語全体との

有機的な作用はうまれない。脚本家Aの不意の明察、瞬間最大風速どまり。

 

とはいえ、適度なバディ感は「暇つぶし」としてはバッチリ適度なサラサラ仕上がりで、

カサビアンがラストで流れる頃には、湿度は一気に急下降。場内明るくなればカラッと。

にしても、カサビアンって本当よくエンドロールで流れなぁ。

つい一ヶ月前に観た『ブリッツ』のエンドロールで流れてたからね。

そういえば、『ドゥームズ・デイ』では「Club Foot」流れてたっけ。懐かしい。

 

好かったところとしては、

肉弾戦をしっかり重さやぶつかりを感じさせてくれるように撮ってたところかな。

インタビュー記事とか読んでも、そこは強調してるの多いから、力入れたんだろう。納得。

あと、全篇漂う香港ノワールの風味(パロディ的ではあるが)がちょっぴりツボ。

スローモーションの使い方とか抒情系スコアなんかは「確信犯」的。

などと思ってたら、当初は香港で撮影とかいう案もあったとか。

そこまでやっちゃってくれたら、強烈イロモノ臭でカルト的人気を獲得できた!?

 

(公式サイトのINTRODUCTIONによれば)

「アメリカではアクション映画にもかかわらず、女性観客が52%、

しかも観客の半分以上が25歳以下という若者の指示を受け」たという本作。

それなのに日本じゃ銀座シネパトス!

ある意味「正しい」選定とは思うけど、シネパトスな漢たちには物足りず、

銀座イケメンハンター・マダムたちには敷居が高い(まぁ、地下にあるけどね・・・)。

でもでも、フィルメックスの箸休めにはオススメです!(しつこい)

 

 


ツリー・オブ・ライフ(2011/テレンス・マリック)

2011-08-26 15:40:56 | 映画 タ行

 

私は本作を2回観た。それは、一度目の感動ゆえのワン・モアなどではなく、

最初に観たときに感じた自己内の相反する衝動を止揚してみたくなったからだが、

結果としては、いまだ不可解ながら、解いては絡まる思考が継続するのみである。

 

しかし、整理し得たと思った途端に渾沌と化すのも本作のもつ特徴かと諦め(開き直り)、

とにかく思いつくままにペンを走らせる(キーーボードを打つ)ことにしたいと思う。

 

「相反する衝動」とは、所謂「賛否」の感覚が自分のなかで葛藤し、

「好悪」の感情が入り乱れるといった具合の月並みのものでしかなかったが、

そうした決着はなかなかつきそうにない。

しかし、一度目の観賞で覚えた強烈な「嫌悪感」はいまや消え、

二度目には不思議と「違和感」の覆いが一枚ずつ剥がされるような感覚に溺れてしまった。

とはいえ、自分の素直な感覚において、いまだ賛否が葛藤し続けているところもあり、

それをそのまま吐露する記録も必要かと思い(自分にとってだけどね)記しておこうと思う。

そもそも、このような「偉大」な作品に関して、こんな片隅で俺如きが・・・などと

思わないでもないが(大いに思う)、ひとつの家族と地球や生命の物語を並置で語ろうとする

巨匠なら、私の拙論と巨匠の作品が格闘することも許してくれるだろう(笑)

全然まとまらないので、「賛」「否」「考察」に分け、箇条書きにでもしてみようと思う。

 

《賛》

◇ブラッド・ピット、ジェシカ・チャステイン及びショーン・ペン以外はほぼ俳優未経験の素人

   しかも、撮影場所である地元の人間を起用し、撮影もできる限りの自然体を追求できる

  環境で行われたという点は、本作における(良い意味で)「つかめない」多元的で多義的な

  極めて複雑な現実が収めらるというかたちで結実したと思う。

  しかも、脚本は当日の朝に渡され(しかも、そこには大まかな内容しか記載がないらしい)、

  少年役に関してはそれすらもあったかどうかわからないほどの「自然主義」だったらしい。

  しかし、ブラッド・ピットのインタビューを読んでいると、彼とジェシカの間ではできる限りの

  演技プランなどは打ち合わせをして臨んだし、そうした彼らの意見が撮影において

  取り入れられる余地はあったという。しかし、そうした彼らのプランは少年役の彼らには、

  事前に知らせもしなければ、悟られぬようにすらしたらしい。

   しかし、一方で叱責等の激しい場面があったりもする関係上、

   撮影のなかで彼らに遺恨やトラウマなどを残さぬような配慮は大人側に求められた。

   そうした非常に繊細で困難な「関係」を撮影の外でも築く必要があったようだ。

   しかし、それは、実際に撮影された映像(物語)に

   途轍もない「ドラマ」を生じさせ得るものだったようにも思う。

   そもそも、親と子との間には、「世界」を知ってしまったかのような大人と

   「世界」を知らない子供といった対照性がある。

   また、親は子供の「未来」に思いを馳せ、彼らが起こす、彼らに起こることを予測する。

   そうした関係性が、作品の「把握」具合の格差として、演技プランの管理として、

   親と子のリアルなコントラストを際立たせもしたのではないかと推測できる。

 

◇家族のドラマをとらえるカメラは非常にアクロバティックだ。

   終始手持ちカメラで撮影されたらしい。また、編集も極めて(見事とは思うが)不親切、

   つまり非説明的(というか論理的ではない)つなげ方をしているように思う。

   それは、ある意味不自然なようだが、実は私たちの意識とは、そもそも論理やメソッドに

   則りもしなければ、乗っ取られるべきではないものではあるまいか。

   そう考えるならば、あの「視線」は人間まさにそのものであり(人間の眼球は常に動いてる)

   「編集=意識の流れ」も又、自然なままの不可解な部分を内包したものとしてあるのだろう。

   従って、(撮影の現場やスタイルから自ずとうまれる)ドキュメンタリータッチの効果により、

   観客は観察し、静かに傍観する、静観による省察を促されるに至るのだろう。

 

 

《否》

◆最初の観賞時に(いまでも残るが)感じた最大の「違和感」はやはり、恐竜の登場だ。

   いや、私はあのナショナルジオグラフィックやディスカバリー・チャンネルのような

   ネイチャー・シークエンスの存在自体を否定的に捉えるつもりはないし、実際に観ながらも

   思いのほか自然に受け容れつつ作品に寄り添うことができたのだが・・・

   やはり、「恐竜」はない。いや、もっと正確に言うと、私が強烈に拒否反応を示したのは

   恐竜それ自体ではなく、「CGの恐竜」もっと言えば「CG」の起用(利用)だったように思う。

   私はCG利用に軒並懐疑的なわけでもなく、むしろ融合というか共存といった形こそが

   望ましいとさえ思ったりもしているが、それはあくまで作品にとって「幸福なかたち」での

   利用である。本作における、あの「あまりにもお粗末な」CGが用いられることは、

   作品にとって不幸としか思えない。現時点で「微妙・・・」と思えてしまうCGなのだから、

   あの作品を数年後、数十年後に観たとき、(特に初見の)観客はどう感じるだろうか。

   それこそ『2001年 宇宙の旅』を何十年も経って初見した観客が震える「色褪せなさ」を

   味わわせることができるだろうか。いや、恐竜CG以外(できればネイチャー・シークエンス

   すべて以外)なら、長きに渡って愛でられ語られ続ける価値をもった作品だと私すら思う。

   しかし、なぜ、わざわざ黒子を映り込ませるかの如き「興醒め」ポイントを仕込んだのか。

   老齢ゆえの視力低下が原因かとすら思えてくる。もしくは、監督は普段CG多用型の

   SFやアクションなどの作品を観る習慣がないために、CG美眼(?)が全く備わって

   いなかったのだろうか。あそこまで「巨匠」になれば、それを気づいた周辺も、さすがに

   そんなことは口に出せなかったのだろうか。いや、本当に不可解だ。

   恐竜を登場させるのに、他の方法がないわけでもないだろうから、余計にだ。

   それがもし、「安易」な選択であったなら、更に失望だ。

 

◆しかし、CGの利用という意味では、そうした見た目の「お粗末さ」だけに

   不満だったわけではない。むしろ、物語るうえでも、撮影においても「自然」に拘ってきた

   監督がなぜ、「不自然」(これは違和感があるとかではなく、人工的という意味)なCGを

   このように多用するという選択肢を選んだのかが不可解だったのだ。そして、それを

   私は(浅薄な捉え方かもしれないが)安易な選択のように思えてしかたがなかったのだ。

   だから、憤りすら覚えた。旧作において私の胸を鷲づかみ、全身を引きずり回し続けた

   あの映像のマジックの神聖さを汚す行為かのようにすら思えた。冒涜だ!許せん!!

   ・・・いや、待てよ。何を、誰を冒涜してるんだ?何が、誰が許せないのだ?

   ・・・そうか、それはあくまで「俺」自身の感覚がつくりあげた「テレンス・ワールド」に

   過ぎなくて、そこに異質なエッセンスをぶちこまれたからこそ、私は憤慨してるのか?

   そんな自らに巣食う傲慢さに少し自覚的になってみると、監督なりの思考をポジティヴに

   捉えてみたくもなったりしてきて・・・

 

◆CGで描くということは、「実在」せぬものを在らしめる作業である。

   本作におけるネイチャー・シークエンスは、それと対比するヒューマン・シークエンスとの

   関係においては、次のような対照性を持っていると私は解釈した。

 

             人間の歴史                  地球の歴史

             宗教・神話                     自然

    〈人間の内部で起こっていること〉      〈人間の外部で起こっていること〉

 

   従って、「自然」パートは極めて「客観」的「科学」的な思考で具体的なアプローチが採られ、

   対照的に「人間」パートは「主観」のぶつかり合いや視点の移動で抽象的な展開をみせる。

   そのような解し方を勝手にしていた私だから、自然パートにCGを用いることに違和感を

   おぼえてしまったのだと思う。つまり、「自然」パートにはとことん自然科学的な描写や

   内容で対比させて欲しいように思ったのだ。単なる個人的な願望に過ぎないが。

   しかし、待てよ・・・と思ったりもした。つまり、自然パートはあくまで「過去」それも本来は

   人智の及ばぬはずの、「科学」といった道具の正当性が認められる範囲内においてのみ

   通用する「自然」なのだ。それは、もしかしたら見方を変えれば(観点が移動すれば)

   「神話」に過ぎぬかもしれない。ということは、神話とはまさに内面世界において

   生起したもの。生起するもの。そうであるならば、実在せぬものを「実存」させる作業に

   おいて抽象からの具現を計るCG技術の起用は全うなのかもしれない。もしかしたら、

   本作は、人間の内部(宗教)と外部(自然)の対比や融合などではなく、徹頭徹尾、

   内面世界内における展開として捉えるべきなのかもしれない。そうすれば、ネイチャー・

   パートのお粗末さは、人間の脳内における思考の矮小さと呼応するかもしれない。

   さすれば、最初と最後の「あの光」は、人間の内面世界から見た「微かな外の光」

   なのかもしれない。産道から見える光とおそらく解されることが多そうな「あの光」とは、

   私たちがいまだ自己に囚われたままの存在であること(それは、科学がどんなに進歩

   しようとも、結局は「客観」など手に入れれぬ「主観の牢獄に入れられた囚人」である)と、

   それでもそのままでも見ることのできる「光」があることを示唆しているようにも捉えられる。

   そして、作中に登場する太古の映像は、人間の内面において培われ育まれた「記憶」

   であり、それは決して実在しておらずとも想像によって「在」り得る現実なのだ。

   科学とは客観的で即物的な探求であるように思われるが、例えば地球の誕生を解明

   しようとしても、それは「即物的」でなどありえない。化石や地層という「モノ」があるようでも、

   そこから算出されたり提示されるあらゆる「説」は、不在から焙り出した、いや創出した

   人間(の内部起因)の「事実」に過ぎない。そう考えるなら、あれは内部と外部の融合など

   ではなく、そもそも「もとからずっと内部で起こっていたこと」、そもそも歴史も事実もきっと

   人間の記憶に刻み込まれてきたものなのだ。そう考えると至極納得いく世界。

   映像の世界に魅せられながらも、「哲学」を捨てきれずにそちらに身を置き続けた

   テレンス・マリックからの挑戦状なのかもしれない。などと、私ごときが考えたところで・・・

   といった発想すらも、彼にとっては「何とも卑小な尺度に絡めとられているのだ?」と

   笑われそうだ。つまり、彼にとっての「深淵」は、外部などにではなく、人間の内部でこそ

   触れられるものなのだから。もし、そんなことを彼が考えていたとしたならば、私は大いに

   共感するし、たとえそうでなかったとしても、私は彼と(作品を通して間接的にではあるが)

   対話をしたことになるかもしれない。それが、彼の最も望む「作品のありかた」だと言う。

   (あれ?ここは「否」コーナーだった・・・)

 

 

《考察》

一度目の際には、地球の歴史と人間の歴史を重ね合わせるように進行するとばかり

   思っていたので、前者が恐竜どまりだったり、後者は限定的だったりする描き方に

   どこか不足を感じる自分がいた。しかし、そもそも本作の営みの中心に、個人的な物語から

   普遍的な物語を語ろうとする意図があるとしたならば、それは「全体を包括する」事の方が

   むしろ採るべきではないアプローチのようにすら思えてきた。人間は不完全な存在で、

   与えられた時間も限定的であれば、その枠内においても感覚や能力は地球にとっての

   微細を捉えうるのみ。そう考えるならば、人間にとっての世界とはいつでも「部分的」であり、

   しかし一方で捉えうる範囲の外を想像する力が与えられもしている。そして、それこそが

   「神」を生み出したともいえる。したがって、人間が登場するまえの時代の世界には

   「神の不在」が描かれ、人間が物語を展開する時代において「神の存在」が確認される。

   そうしたコントラストも浮き彫りに出来るかもしれない。そして、無機質な巨大ビルディングが

   有機的なわずかな自然(一本の木)をのみこまんとばかりに乱立する現代の光景は、

   人間が創造主(神)たらんとする時代の変遷を象徴しているのかもしれない。

   そこで、「信仰をとりもどせ」的単純回帰を示唆するのが監督の意図とは思えない。

   確かに創造主たろうとしても不可能であり、虚しいだけであろう感覚を喚起しようとしている

   気はする。しかし、一方で彼が人間に期待しているのは、「想像主」であることかもしれぬ。

   それは、(可視的には)存在しない「神」の存在を自らの内に秘め、過ぎ去った過去への

   悔恨を携え、しかしだからこそ想像力によって時空を飛び越え得る内面世界をもつ。

   そうして、ジャックは死者とも過去とも世界とも結ばれ、慈しみのときを手に入れる。

 

オブライエンの一家には、人間の歴史が凝縮されている(メタファーとして示されている)

   気がする。父親はあきらかに封建時代の「絶対君主」的存在として君臨しようとする。

   母親は人間の卑しさや愚かしさをも優しく包み込もうとする女神、いや聖母といったところ?

   3兄弟にしても、長男は父親の影響を最も受け、より「社会」的な存在へと突き進む。

   それは、自らに宿った(芽生えた)「けがれ」を受容せずとも身につけていく過程(近隣の

   夫人への思慕とその果ての「罪」)が物悲しく語りもしている気がする。

   次男は、父親からボクシングを仕込まれようとするときには、それを拒むかのような表情が

   垣間見られるが、一方で父親の弾くピアノにギターで応えたりする。芸術を愛で、争いを

   避けようとする存在なのかもしれない。ギリシャ神話なら、アポロンといったところか?

   しかし、音楽を愛するも弓術の神でもある「アポロン」ゆえ、後に戦死するのだろうか。

   三男は、よくつかみきれないが、劇中ではまだ自我の確立がなされていないように見える。

   父親〈(人間)社会〉的でも母親〈神〉的でもない。いや、父親的でも母親的でもある。

   彼だけがどちらとも友好であったりするのは、「未開」であるからか?

   人間社会と神の蜜月か?

 

さらに、子供たちへの教育や子供たちの成長過程には、人間社会の歴史が刻まれる。

   例えば、隣家との「境界線」を認識させる父親。国家の成立、国境の明確化。

   自己と他者の峻別。さまざまな「壁」が築かれ始める。

   その直後に映し出されるハロウィン風景で、子供は「仮面」を被っている。

   (ラストのシークエンスには、仮面が海を沈んでゆく様が映し出されもする。)

   「ペルソナ」化してゆく子供たちの自我。

   ボクシング(?)を教える父。戦争への萌芽。

   「3人の誰が好き?」と尋ねるジャック。相対的価値、競争原理、ポピュリズム。

   障害者へ向けられる奇異な眼と、犯罪者へ向けられる好奇の眼差し。監獄の誕生。

   (母は、連行される容疑者に「水」を飲ませるという慈悲をみせる・・・聖母的?ピエタ?)

   「ママも死ぬの?」と不意に尋ねる息子。透明な棺に寝かせられた母の遺体。

   人間にとっての「死」の変容。神聖なるものからタブーに、そして「ない」ことに。

   そうしたルールを解さぬ子供の、不意つく明察。

   ロケットを打ち上げる子供たち。宇宙をも手中におさめようとする人類。

   近隣宅への侵入、窃盗。性の目覚め、その暴走。

   そして、母に罪を告白できず。もはや、告解懺悔を失う人間。

   家族の食事に「友達呼んでもいい?」というジャック。国際化のはじまりか。

   「母さんは父さんに見下されてるくせに」と言いながら、

   「母さんが愛してるのは父さんではなく、自分だ」というジャック。

   神を否定しながらも、社会に背を向け始め、それでも神を欲する個人。

   傲慢不遜のはじまりはじまり。

 

いつもながら、独りよがりな「見立て」を展開してみると、

   何となく、「父=火/母=水」といった印象をうける展開が多かった気もする。

   それは、冒頭で(父親ナイズされた)社会的競争的自我の持ち主ジャック(大人)が

   「火」を灯すと、回想がはじまって・・・

   父親は息子にライターを持ってこさせ、教会でも火を灯す。

   母親は庭の芝(これも広義じゃ「tree」的?)に水をやり、自身の足も水と戯れる。

   母親は料理をしたり洗濯したり、「水」場で仕事をする。

   父親は工場で、おそらく火力にまつわる作業が展開されているのでは?

  (ちなみに、テレンス・マリックの父親は石油会社のエグゼクティヴだとか)

   そう考えると、「木」を育むための「水」と、「木」を滅ぼしかねぬ「火」といった関係も、

   浮かび上がる。作中には、火事という「火」による惨劇も挿入されている。

   しかし、ラスト近くで出てくる女性による「火」のリレー。これは人類の歴史上の一コマか?

   (ラトゥールの絵画を思い起こさせるような美しいシーンにみとれてしまう・・・)

   人間が歩くのは、水があふれた大地。それぞれの「生命力」が結ばれた世界において、

   幸福や希望は姿を現すとでもいうのだろうか。

   たしかに、かつての山火事は、木の再生や新たな木の誕生を促すものでもあったのだ。

 

空へ向かって伸びる木の映像(下から見上げる格好の画)は、

   過去ではその高さが強調されるも、現代では木が小さく(ビルに圧倒され)感じられる。

   「神」や「生命」の存在感がいかほどかを表現している気もがする。「神木」といった発想が

   根深くある日本人だからかもしれぬが、本作における木も神に近い(そのもの?)存在

   として描かれると見るならば、一方で自分の姿に似せてつくった人間とも木は重なる。

   ということは、現代においてはビルに圧倒され(威圧すらされ)ている木の在り方は、

   人間が自らの生みだしたテクノロジーに押しつぶされそうになっている姿にすら見える。

 

現代劇でクラシックが使用される場合、私たちはその音楽にその時代を覗くわけではなく、

   その音楽に刻まれた歴史(全体)を受け止めねばならぬかのような重みを感じる。

   一家族の一時代の卑近な物語は、そうした時空を自由にとびまわる音楽たちによって、

   大きな物語の内包している一つの物語として観客の眼前に提示されもするだろう。

   ギャップ激しい映像の「それ」よりも、自然に融合する音楽の「それ」がもたらす効果は、

   人間と芸術の理想の関係を示唆してくれてもいるかのよう。

   (改めて言うまでもないけれど。視覚と聴覚の相性の好さの証左でもあるだろう。

     近代以前は、人間にとって最上位の感覚とは聴覚だったらしいし。

     そうか・・・ネイチャー・シークエンスも、現代の光景を見せながら、太古の音を

     聞かせることで「感じ」させるって手もあったのではないだろうか。なんてね。)

 

(どうでもいい余談)

※編集は5人が携わっているのだが、最終的な責任者(?)はマーク・ヨシカワだったそう。

   名前から察するに日系人?些細なことに、ちょっと嬉しくなってみたりして(笑)

   ちなみに、テレンス・マリックの処女作には撮影にタク・フジモトも参加してたりする。

※本作のパンフの写真には、眼鏡をかけてしかめっ面をしたブラッド・ピットの写真が

   ほとんどない。写真の大半は眼鏡なしだし、その多くは「ブラピ」っぽいものばかり。

   まぁ、ある意味賢明かつ顧客想いな選択なれど、作品内容を反芻するには物足りない。

   しかし、松竹の洋画パンフはいつも充実した内容。今回も読み応えはあったのだけど、

   『もしドラ』作者のページは「恐竜」以上に要らない(笑) あんな内容に原稿料払ったのか?

   いつも寄稿者の人選もなかなかな松竹洋画パンフ故に、この人選は非常に残念。

   と同時に、こんな内容や文章しか書けない人間が「ベストセラー作家」なんだねぇ・・・。

   ってまぁ、ひがみかも(笑)

 

 

結局、まとまらないながらも整理して書き分けるつもりが、

全く混同混沌とした感想になってしまった。しかし、書くことで多少頭の中が整理できたかも。

しかし、一度目に観たときは(おそらく恐竜CGに対する個人的過剰憤慨もあって)

「なんでこんなんにパルムドールあげんだ!?」って半狂乱な感情が渦巻き続けもしたが、

二度目のときは驚くほどゆったりと身を任せるように観ることができ、

異様なまでの心地よさだった。そして急に慕いまくりたい作品に・・・

 

でも、頭でどんなに考えようが、

やっぱり地球や宇宙の一連映像をカットしたヴァージョンで観たかったのも正直なところ。

そこだけなら文句なしに(私のなかでは)年間ベストな一本だっただろう。

 

 


トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン(2011/マイケル・ベイ)

2011-08-23 03:39:08 | 映画 タ行

 

1作目。トランスフォーム速すぎて眠くなる事件。

2作目。前半すっかり眠りこけ、後半ばっちり楽しめちゃった事件。

3作目。2時間半覚醒完走大事件!

 

アンチ・ストイックで量とスピード命の映画を観てて、

睡魔が襲来する意味わからん・・・な、マイケル・ベイ。

『アルマゲドン』とか、本当長かったなぁ。『パール・ハーバー』も。

あ、でも、実はここだけの話、『アイランド』がちょっと好きだったりして。

で、そんな不覚にも(笑)心に残ってしまった映画ゆえ、ラストで流れる感動的なスコアが

『アヴァター』の予告に流れてきた時はたまげたよ。

ほら、このシーン。皆さん御馴染みの「アヴァターの音楽(予告のみの使用だけど)」でしょ。

でも、おかげで私は『アヴァター』世界没入に際して入り口からこけてしまったわけ。

だから、予告編で別の映画のサントラ使用するのはダメだって。

映画のスコアって、その映画の世界を最も「体現」しちまうものの一つなんだし。

というわけで、そんな償いのため(違います)、今度はジェームズ・キャメロンが、

「アイランドの曲つかわせてもらったから、俺の3Dカメラつかって好いよ」とベイに囁いた。

おかげで盛りに盛りまくり、ノリにノレないまでも、見どころ待機姿勢が2割増し。

散々「もう好いよ」発言するも、まだまだ3Dには「未体験ゾーン」を期待してしまう俺。

しかも、わざわざIMAXまで足運んだりして、何気に本気だったりする自分。

まぁ、そりゃ、このご時勢&この年で、無邪気にワクワクできること、

そんなにないじゃないですか。

 

「長いぞ、長いぞ、覚悟しろ」って自分に言い聞かせて臨むと、意外と体感時間は短め傾向。

先日観た『ツリー・オブ・ライフ』なんて余りの覚悟&緊張ゆえに、

「え?もう終わり?」って感じで瞬く間(それは言い過ぎ)。

という訳で、本作も前半は修行だと割り切っていた分、

後半に突入してからは気軽に身を任せ、

「あとはどうにでもしてっ!」状態。

委ねてしまえば、あとは楽。

 

こんな「素敵」なフィルモな脚本家は期待を裏切らず、

物語に興味のないヴィジュアリスト・ベイ君は、自由奔放やりホーダイ!

はっきりいって、パーツ毎の完成度はやっぱりなかなかのもの。

しかし、CMやミュージッククリップじゃないだんから、パーツで完結しちゃいかんでしょ。

「つなぎ」は脳内補完必至だし。

まぁ、そこでツッコミまくって疲れるか、そんなん無視して目を喜ばせるかで、

本作の「味わい」真っ二つ。前二作の教訓活かし、後者の路線を採用しました!

 

この手の映画を「語る」なんて野暮だし、

観てる間はウホウホ楽しんで終了できたから、めでたしめでたし。

だったけど、

いくつか興味深く感じた点を列挙します。

 

◆あのロボット(?)たちは、地球外生命体なのかもしれないけれど(違ってたらすまん)、

   「機械文明」の象徴ともとれるわけで、それが二つに分かれ、人間の敵にも味方にもなる

   って発想は、もしかしたらちょっとだけ新しいのかも、なんて思ってみたりもした。

   通常SF的物語展開においては、人間がテクノロジーの反乱や報復に遭うのが

   定石だったりするからさ。ただ、そう考えると、テクノロジーの反乱に対抗するにも

   テクノロジーしかないし、そのテクノロジーの助力だって実は根拠も契約も持たない・・・

   冷静に考えると、味方トラフォたちの「ボランティア精神」に全てかかっているようなもの。

   それは余りにも心許ないが、現実はそれで成り立っているというか、それこそが全て

   だったりする側面もあるのも事実だし、意図してないだろうけど、深読みの余地はある(笑)

 

◆ただ、その味方トラフォたちとて「家なき子」なわけで、

   そんなところがプロデューサーであるスピルバーグの友好的ユダヤ人像!?みたいな。

   でも、そう考えたら敵トラフォはシオニスト!? はいはい、考えすぎですね(笑)

 

◆勝手に政治的妄想はじめると、キリがなく、

   敵トラフォには、明らかにイスラム系を思わせる(ベールとはいかないまでも)スカーフ

   っぽいものを首や顔あたりに巻きつけていたりするトラフォがいたし、

   途中から敵トラフォに寝返るセンチネルなんかは、寝返った途端に(だよね?)

   「赤」くなってたりする。(おまけに、ジョン・マルコビッチの役も異様な「赤」嫌い。)

   というわけで、コテコテのパトリオット・ムービーかと思いきや・・・

 

◆アポロ計画の話とかを持ち出しているのは、明らかに「過去の栄光」への懐古趣味を

   感じさせもするが(宇宙飛行士本人まで登場させるし)、その一方でスペースシャトル爆破

   の映像は明らかに「チャレンジャー」のそれを想起させるわけで、思いっきり光と影。

   というか、日本人ですらあの衝撃の光景(及びその後の悲しみ)を一瞬で想起する位だから

   米国人なんかにとってはハンパない悲痛が喚起されんじゃね?それ、わかってて

   ニヤニヤしながらやってそうな、サディスティック・ベイ・バンド。

 

◆おまけに、リンカーンの像をぶっ壊して敵トラフォが座るシーンも、さすが。

   バートン版『猿の惑星』のラストだね。

   ってか、本作ってあらゆる映画のオマージュ(?)だらけだよね。

   こんな俺が思うくらいだから、本物の映画通の方々なんて休む暇ないだろうなぁって。

   家のなかで暗殺仕掛けるとこなんて、そのためだけに造形したかのような鳥トラフォ。

   そう、ヒッチコックの『鳥』を誰もが思い出す。(え?思い出さない?)

   ジョン・タトゥーロだって、自宅から出動するとき、何故か一瞬ターミネーター化してるし。

   これは、ジェームズ・キャメロンにスペシャル・サンクス!?

   ちなみに、 『トゥルー・ライズ』の超有名シーン(缶コーヒーのCMでも模倣した)まである。

   戦闘に向かうヘリは夕陽をバックに飛んでいて、どこか『地獄の黙示録』。

   おまけに、マジックアワーっぽいなか、一面広がる畑のなか二人で語り合うトラフォたちは、

   『天国の日々』とか思わせる(って、それはテレンス・マリック公開中だからなだけかも)。

   ま、そんなこと言い始めたらキリがないかもしれないけれど、「俺様カット」連続の合間に、

   そうした「映画的記憶」をくすぐるようなシーンを挿し込めるようになったベイ君は、

   ちょっと大人になったのかな?なんてね。僕もがんばります(笑)

 

◆ベイ君はたまに、あえて一番おいしいとこを捨てちまう癖があるらしい。

   さぁ、これからシカゴが戦場に!って場面で暗転して、いきなり戦禍を被った後の光景に。

   えぇーーーーー!襲来、襲撃のシーンが一番盛り上がるのにぃーーーー!!

   そんなアンチクライマックス手法に、疲れがどっと出た。のも、束の間!なんだけどね。

 

◆気のせいか、シャイア・ラブーフやパトリック・デンプシーなんかは、ぽっちゃりしてた。

   「人間(特に男)」に興味ないマイケル・ベイは、メカさえ格好良く映れば好かったのか!?

   いや、今回はメカ以上のロージー・ハンティントン=ホワイトリーの脚に賭けてたけどね。

   そんな若手のややヤッツケ仕事ぶりとは対照的に、フランシス・マクドーマンドなんかは

   さすがの存在感で、彼女の登場するシーンでは、珍しく画面が引き締まる気がしたり(笑)

 

◇109シネマズ川崎のIMAXにて観賞。原則字幕派な自分だが、3Dの時は専ら吹替派。

   (字幕で観たいときは3D回避:今年だと『グリーン・ホーネット』『マイティ・ソー』など)

   震災の影響で、長らく閉鎖されていた川崎のIMAX。実際に、どの程度の被害だったかは

   知らないが、不幸中の幸いか、前方の何列か分の座席が撤去されていた。

   あそこは人が座っていなくても椅子がスクリーンにかかってしうし、

   座っていたら頭1個分スクリーンに入り込む感じの劣悪設計だったので、

   そこが改善されたのは喜ばしい限り。

   ちなみに、3Dの出来は想像以上とはいかないまでも、期待に十分応えてくれるレベル。

   特に、メカの質感は3D仕様にしたことにより、グググッとアップしてる気がします。

   ゆえに、小さい頃にロボット玩具を両手に持って「対決ごっこ」とかして遊んだ頃の

   男児な自分を呼び覚ます。脳内に響き渡る「超合金」などという懐かしい言葉!

   『アバター』で散々全世界の映画館に出費を強制したものの、3Dにも飽き始めた観客を

   なんとか3Dにつなぎとめる大作戦の本作。それはそれで成功したように思われる。

   が!『アバター』の時と同様、質の高いものを一旦観ると、その後が続かない場合、

   反動で失望もでかくなる。『ピラニア3D』は観たいし、邦画『ラビット・ホラー3D』も

   クリストファー・ドイルが撮影担当してるから観ねばならん。しかし、年内に3Dもので

   作品内容も3Dの質も期待できそうな作品って、正直ありそうにない・・・。

   これは、3D対応スクリーンが限定されてるシネコンなんかは、箱割りに相当困るだろうな。

   でも意外なところで、コンタクト(レンズ)業界とかは、ちょっと売り上げアップしてたりして。

   俺も、3Dの時はコンタクト着用するし。あ、でも、そんなん年に数回か(笑)

 

◇ちなみに、その109シネマズ川崎のIMAXオープン時の作品が、

   前作である『トランスフォーマー/リベンジ』だったので、ちょっとだけ感慨深かった。

   あの頃(というより、『アバター』公開されるまで)は、IMAXはいつ行っても空きまくりで、

   高い料金設定ということもあってか、「好きもの」達が集う場所って感じだった(笑)

   おかげで、ハードのみならず、客層的にもかなりの良好度だった記憶あり。

   なかでも、あの大劇場にほんの数名(二桁はギリいたかも)で観たロバート・ゼメキスの

   『クリスマス・キャロル』はかなりの出来だった。さすが長年3Dに賭けてきた人だけはある。

   『ダーク・ナイト』のアイマックス版を観せてくれたのも嬉しかったなぁ。(※)

   しかし、『アバター』以降はミーハーのメッカと化したIMAX。今回の観賞でも凄まじいほどの

   サラウンド効果でしたよ。いやぁ、一時(ひととき)も静寂が訪れることがないかのごとき、

   ビニール音。ポップコーンじゃないところが、また厄介。更に定期的に蹴られる背もたれ。

   普段なら心底イラッと来る現象なれど、途中から覚醒効果に絶好か!?と考えを一新、

   彼(彼女?)のおかげで完走できたのかも(笑)

   それにしても、このままあそことかがIMAXのスタンダードとかになっちゃうのは寂しい。

   新宿にあったとき何度か観てたり、一度だけだけど米国でIMAX観たことあったりすると、

   巨大スクリーンに包み込まれるかのようなあの体験が焼きついて、

   いまだにそれに焦がれちまう。やっぱり「最初」って大事なんだあぁ。

   日本でEYE(s)にMAXなスクリーンが現れる日は来るのだろうか・・・

 

※「ユナイテッド・シネマとしまえん」では、9月に旧作のIMAX上映があるらしい。

  しかも、1,500円という料金設定はなかなか良心的(だと俺は思う)。

 

 

 


トライアングル(2009/クリストファー・スミス)

2011-08-11 00:47:15 | 映画 タ行

(本編未見の方は、予告編観ない方が本編観賞をより楽しめるはず。)

 

サスペンスやスリラーといったジャンルの醍醐味は、謎解き。

それはそうだが、謎を「解く」よりも「味わう」ことが出来たとしたら、

解けた後にも広がる余韻はきっと、底を知らない奈落の謎を、脳にお見舞いしてくれようぞ。

 

『トライアングル』(原題同じ)という響きから、人はさまざまな現象や状態を想起するだろう。

プライベートでは恋愛の三角関係もあろうし、パブリックにおいては三権分立が機能する。

エジプトのピラミッドなんかも浮かぶだろうし、現代にはヒエラルキーのピラミッド。

人間社会に限らず、自然界の法則(生態系)にだって見えてくる、ピラミッド。

三角形という形状は、時空を超越した一つの宿命となっている。

 

タイトルがタイトルなだけに、

「三角形」が何らかの象徴をもって描きこまれているのではと邪推していると、

冒頭からトミー(主人公の息子)の玩具のヨット(三角形の帆)が

庭の簡易プールで「転覆」している。(ループの始まり?[※])

戸外に出たジェスと隣人をとらえるショットには、三角形の屋根が映りこむ。

おぉっと、息子トミーのシャツには「トライアングル(三角形の絵柄)」が!

港に行けば、大きな三角形(帆)が並びに並び、乗り込むヨットはトライアングル号。

船上の男女には、三角関係の予感あり。

 

出帆すれば、そんな浅薄(船舶?)観察もほどほどに、いよいよストーリーにのめりこむ。

人間関係をいちいち回想やら言動やらで説明するような「野暮」はいたしません。

爽快なほど「あ、これ今、説明してんのね」的会話であっさり片付ける(褒めてます)。

そうです、そんなところで余計な時間も体力も浪費したくないですからっ!

しばらくはクルーズでしょ、なんて思って観客が最初の休憩に入ろうとするや否や・・・

なんだ、あの雲は!? えぇ、嵐!? て、て、転覆かい!? もう一人脱落!?

うぉーーーー、なんだこの(CGが)「チープ」な「豪華」客船は・・・。

ただ、このトホホ感の漂い方は、尋常じゃない不穏さだ。

いや、待てよ。この脱力って、ヤバイぞ・・・

うわっ、船内めっちゃ「普通」じゃん。しっかりバッチリ不可解客船内。

この数分間で、この映画の捉えどころを完全に見失う。まさに、アット・ア・ロス状態。

 

海洋上の無人客船内というシチュエーション萌えは、異様。

地面じゃなくて海の上ってだけで既に不安の真っ只中なのに、

そもそも「船」という素人には構造把握不能な設計空間。

おまけに、豪華客船という「住空間」でありつつ「移動手段」でもあり、

内は止まっていても、外は動いていたりするという、キメラ的存在の妙。

地上(現実)を離れ、水上を漂う泡沫(夢)で展開されるかのような世界。

スクリーンのなかが重層化するたびに、観るもの混迷、トランス状態。

客席にある肉体、スクリーンに映し出される物語、双方彷徨する精神。

ここにも新たなトライアングル。

 

緩急のつけかたが実に巧妙で、前述の通り一気に物語に没入させ牽引したかと思えば、

時折かかる急ブレーキ。シートベルトを締め忘れた観客は、車外へ放り出されてしまう。

しかし、気づくとフルスピードの車に乗っていて、シートベルト締めようとすると急ブレーキ・・・

そんな感覚に陥れるのは、単なる反復ではないから。「歴史は繰り返す」のループ感と、

タイムマシン的「歴史の書き換え」法則が見事に絡み合い、奇妙な螺旋構造動き出す。

そのズレがやたら理詰めじゃつまらない。かといって、理に適わなければ置いてけぼり。

もはや理屈じゃ説明できない世界の話なのに、必死で理屈で割り切ろうとする観客。

理屈抜きで楽しんでるくせに(笑)

 

本作が本来かかるべき映画館は、入替がない劇場。

映画館が入替制になったことを怨むこと必至。

シアターNではループ割引なるものを実施しているが、

レイトショーのみのそれって、或る意味拷問?(笑)

そりゃぁ、繰り返しみたいのは山山ですが。

できれば1日4回くらい上映して、当日に限り観るたび半額!

とかって割引あれば、かなりの人が利用すると思うけど。

3杯もとい3回まではいける人、結構いると思うけど。

それか(大盛、何分以内に完食なら無料!的展開で)、

1回目の観賞で「〇〇(かなりの難問)がわかった人は2回目無料」

みたいなキャンペーンとかあれば、1回は観る気満々になろうもんなら・・・

1回観ただけじゃ判らずに、口惜しくて2回目もいっちゃうかも。

(その場合は、2回目でわかったら3回目は無料とか・・・だったら、2回目確実に観るわな)

 

という訳で、クリストファー・スミスなんて在り来たりな名前の監督が、

驚くほど在り難い、いや有り難い映画を撮ってくれとります。

2年も経ってからの日本公開には、それなりの重みがあればこそ、

それなりの旨味も折り紙つき。(今秋公開の『ゴモラ』なんて3年以上かかってます・・・)

レッツ・トライ・アングル!(意味不明)

 

 

(これより先、ネタバレ上等による詳細感想)

 

※リピート合図の「錨を上げて」が、終盤でもリピートを示唆するかのように

   ブラスバンドの演奏で聞こえてくる、ベタながらも(一回でも楽しめるような)配慮は粋だね!

 

◆CGが安っぽいと書いたけど、その安っぽさは「現実味」をうやむやにする効果もあって、

   その辺も計算ずくなのではと思わせる巧妙さ。雷雲とかも同様に。

 

◆豪華客船の名前は「AEOLUS」。劇中でも簡単な説明があったけど、

   ギリシャ神話でアイオロスはシーシュポスの父親にあたる。

   (船名って女性の名前がよく用いられてる印象だったから、

    そこにも少し違和感というか不穏さを感じたりしたけれど・・・)

   シーシュポス(シシュフォス)は、その狡猾さゆえにゼウスの怒りに触れ、

   地獄におとされて尚、大石を山頂まで押し上げる罰を受けた。

   しかし、その大石はあと一息のところで必ず転げ落ちたという・・・って、

   これはまさに、ジェスのことでは? で、そのジェスが乗り込む船が、

   シーシュポスの父の名であるアイオロスという皮肉。

   と考えると、ラストに出てくる「罰を受ける(?)」前のジェスの息子に対する態度からしても、

   ジェスが無間地獄に陥るにはそれなりの因果があったのだろう。

   だからこそ、彼女は「悔やんでも悔やみきれない」表情を終始見せている。

   それは、何度繰り返しても何度も息子を失うから。(虐待し、そこから救えば事故死・・・)

   まさしく神からも見放され、地獄をさまようインファナル・アフェアだ。

   ジェスの夫(トミーの父親)は彼女に言わせれば「ろくでもない」奴だったらしいが、

   彼と同類だといって罵る息子の不幸を案ずれば、息子を救うための戒めだったのか!?

   だからこそ、船名は「シーシュポス」ではなく父親の「アイオロス」と名づけられていたとか?

 

◆したがって、ジェスが船を止めようとするというのも、「世界」を止めて「終らせる」

   といった意味合いと同時に、不幸の源泉を絶とうとするかの如き運動に思えてくる。

 

◆本作の裏(?)テーマは、確実に「アイデンティティ」なのではないだろうか。

   劇中何度も繰り返される「Who are you?」。それは「自分」自身に向けられることも度々で、

   「自分」に向かって叫ぶ「You're not me ! 」。

   自分が誰なのか。それは大昔より人類最大の謎のひとつ。

   それを理解も証明も容易にするアイデンティティ、自己同一性。

   自己とは統一できて、統御でき、常に一貫したものだという「物語」。

   しかし、それは何によって判断されるのか。何がそれを確実なものにし得るのか。

   たとえば、IDに記載された情報がすべて同じなら、それは同一人物か?

   姿形が全く同じなジェスと「ジェス」は同一人物か?あるいは、他の人物も。

   近代社会では、主客の明確な分離が求められ、それはときに自己内においても起こる。

   つまり、主体としての自己(自身の実感のみで確信できる自己)と

   客体としての自己(他者から承認される必要のある自己)の別。

   そして、それらの統合がスムーズにいって、あるいは「自然」に思えて初めて、

   安定した自己意識が可能となるのだろう。だから、いつ自己分裂してもおかしくないほど

   実は厄介な感覚を求められるようになったのが近代人(現代人)なのだとも思う。

  (三面鏡に「3人」のジェスが映るシーンとか、ベタ過ぎようがそれでもワクワクしちゃうから)

   そして、「You(客体) are Not Me(主体) ! 」とは一見当然な命題のようではあるが、

   常に「自己」を「他者」化する眼を持つようになった近代人にとって、

   「I(主体)」としての自己が自己を「Me(客体)」として捉えることもあるのではないか?

   ヘーゲルのいう「自己意識」的な解釈にまで到達し得るかのような

   複雑なテーマも潜在しているようにすら思える。

   とまぁ、そんだけ考えさせてくれる(考えてる気にさせてくれる?)充実作ってこと(笑)

 

◆アイデンティティがらみでいうならば、「眠り」による意識の断絶っていうのも、

   自己認識においては結構深いテーマな気がします。

   本作でも、序盤の船内で転寝することで、ジェスは「アイデンティティ」が断絶するし。

   そう考えると「夢現(ゆめうつつ)」なんて言葉がある通り、もしかしたら本作の構造も

   (決して「夢オチ」とかというのではなく)現実と夢の入れ子構造をもっているのかも。

   そんな仮説も味わってみたくなる気がする。序盤の船内転寝はもちろんのこと、

   漂流後のビーチでの失神(?)、クラッシュ後の昏睡(実はあそこで死んでいたとか)など。

   まぁ、大いに考えすぎなだけだとは思うけど、そんな発想まで許してくれる(許してない?)

   想像力を豊かに、そして逞しく鍛え上げてくれるかのような作品です。

 

◇ヴィクター役のリアム・ヘムズワースは、

   観てる間じゅう「あれぇ~、こいつ観たことあるよなぁ」って思ってて、後で調べてみたら、

   先日観た『マイティ・ソー』の主役クリス・ヘムズワースの弟かぁ!!というわけではなく、

   先日WOWOWで観た『ラスト・ソング』でマイリー・サイラスの相手役やってたのだ!

   ちなみに、その作品のモロ「ケータイ小説」的内容には驚愕しつつも、若年層の文化には

   結構「世界潮流」みたいなものがあるのかしらん、なんて思えてみたりもした次第。

   それより俺は、「マイリー・サイラスがハンナ・モンタナ役だった」って事実に唖然とした。

   なぜなら、俺はずっと「ハンナ・モンタナ」っていうタレントがいると思ってから・・・

   最近、サブカル情報に疎くなってる自分に危機感。って、余談過ぎ。

 

◇余談ついでに。多くの人も思っただろうが、劇中に出てくる鏡に血で書いた

   「 GO TO THEATER 」は、予告編ラストにもってくるべきだろっ!

 

◆いま、公式サイトの「PRODUCTION NOTES【美術】」読んでたら、

   船内の廊下は『シャイニング』を参考にし、オマージュ込めて船室番号は「237」号室に

   したんだと。それには気づかなかったけど・・・たしか、ジェスの家の住所「237」だったよ!

   やべぇ、どんだけネタ仕込みやがっているんだ、この野郎・・・ループ観賞したくなる・・・