私は本作を2回観た。それは、一度目の感動ゆえのワン・モアなどではなく、
最初に観たときに感じた自己内の相反する衝動を止揚してみたくなったからだが、
結果としては、いまだ不可解ながら、解いては絡まる思考が継続するのみである。
しかし、整理し得たと思った途端に渾沌と化すのも本作のもつ特徴かと諦め(開き直り)、
とにかく思いつくままにペンを走らせる(キーーボードを打つ)ことにしたいと思う。
「相反する衝動」とは、所謂「賛否」の感覚が自分のなかで葛藤し、
「好悪」の感情が入り乱れるといった具合の月並みのものでしかなかったが、
そうした決着はなかなかつきそうにない。
しかし、一度目の観賞で覚えた強烈な「嫌悪感」はいまや消え、
二度目には不思議と「違和感」の覆いが一枚ずつ剥がされるような感覚に溺れてしまった。
とはいえ、自分の素直な感覚において、いまだ賛否が葛藤し続けているところもあり、
それをそのまま吐露する記録も必要かと思い(自分にとってだけどね)記しておこうと思う。
そもそも、このような「偉大」な作品に関して、こんな片隅で俺如きが・・・などと
思わないでもないが(大いに思う)、ひとつの家族と地球や生命の物語を並置で語ろうとする
巨匠なら、私の拙論と巨匠の作品が格闘することも許してくれるだろう(笑)
全然まとまらないので、「賛」「否」「考察」に分け、箇条書きにでもしてみようと思う。
《賛》
◇ブラッド・ピット、ジェシカ・チャステイン及びショーン・ペン以外はほぼ俳優未経験の素人
しかも、撮影場所である地元の人間を起用し、撮影もできる限りの自然体を追求できる
環境で行われたという点は、本作における(良い意味で)「つかめない」多元的で多義的な
極めて複雑な現実が収めらるというかたちで結実したと思う。
しかも、脚本は当日の朝に渡され(しかも、そこには大まかな内容しか記載がないらしい)、
少年役に関してはそれすらもあったかどうかわからないほどの「自然主義」だったらしい。
しかし、ブラッド・ピットのインタビューを読んでいると、彼とジェシカの間ではできる限りの
演技プランなどは打ち合わせをして臨んだし、そうした彼らの意見が撮影において
取り入れられる余地はあったという。しかし、そうした彼らのプランは少年役の彼らには、
事前に知らせもしなければ、悟られぬようにすらしたらしい。
しかし、一方で叱責等の激しい場面があったりもする関係上、
撮影のなかで彼らに遺恨やトラウマなどを残さぬような配慮は大人側に求められた。
そうした非常に繊細で困難な「関係」を撮影の外でも築く必要があったようだ。
しかし、それは、実際に撮影された映像(物語)に
途轍もない「ドラマ」を生じさせ得るものだったようにも思う。
そもそも、親と子との間には、「世界」を知ってしまったかのような大人と
「世界」を知らない子供といった対照性がある。
また、親は子供の「未来」に思いを馳せ、彼らが起こす、彼らに起こることを予測する。
そうした関係性が、作品の「把握」具合の格差として、演技プランの管理として、
親と子のリアルなコントラストを際立たせもしたのではないかと推測できる。
◇家族のドラマをとらえるカメラは非常にアクロバティックだ。
終始手持ちカメラで撮影されたらしい。また、編集も極めて(見事とは思うが)不親切、
つまり非説明的(というか論理的ではない)つなげ方をしているように思う。
それは、ある意味不自然なようだが、実は私たちの意識とは、そもそも論理やメソッドに
則りもしなければ、乗っ取られるべきではないものではあるまいか。
そう考えるならば、あの「視線」は人間まさにそのものであり(人間の眼球は常に動いてる)
「編集=意識の流れ」も又、自然なままの不可解な部分を内包したものとしてあるのだろう。
従って、(撮影の現場やスタイルから自ずとうまれる)ドキュメンタリータッチの効果により、
観客は観察し、静かに傍観する、静観による省察を促されるに至るのだろう。
《否》
◆最初の観賞時に(いまでも残るが)感じた最大の「違和感」はやはり、恐竜の登場だ。
いや、私はあのナショナルジオグラフィックやディスカバリー・チャンネルのような
ネイチャー・シークエンスの存在自体を否定的に捉えるつもりはないし、実際に観ながらも
思いのほか自然に受け容れつつ作品に寄り添うことができたのだが・・・
やはり、「恐竜」はない。いや、もっと正確に言うと、私が強烈に拒否反応を示したのは
恐竜それ自体ではなく、「CGの恐竜」もっと言えば「CG」の起用(利用)だったように思う。
私はCG利用に軒並懐疑的なわけでもなく、むしろ融合というか共存といった形こそが
望ましいとさえ思ったりもしているが、それはあくまで作品にとって「幸福なかたち」での
利用である。本作における、あの「あまりにもお粗末な」CGが用いられることは、
作品にとって不幸としか思えない。現時点で「微妙・・・」と思えてしまうCGなのだから、
あの作品を数年後、数十年後に観たとき、(特に初見の)観客はどう感じるだろうか。
それこそ『2001年 宇宙の旅』を何十年も経って初見した観客が震える「色褪せなさ」を
味わわせることができるだろうか。いや、恐竜CG以外(できればネイチャー・シークエンス
すべて以外)なら、長きに渡って愛でられ語られ続ける価値をもった作品だと私すら思う。
しかし、なぜ、わざわざ黒子を映り込ませるかの如き「興醒め」ポイントを仕込んだのか。
老齢ゆえの視力低下が原因かとすら思えてくる。もしくは、監督は普段CG多用型の
SFやアクションなどの作品を観る習慣がないために、CG美眼(?)が全く備わって
いなかったのだろうか。あそこまで「巨匠」になれば、それを気づいた周辺も、さすがに
そんなことは口に出せなかったのだろうか。いや、本当に不可解だ。
恐竜を登場させるのに、他の方法がないわけでもないだろうから、余計にだ。
それがもし、「安易」な選択であったなら、更に失望だ。
◆しかし、CGの利用という意味では、そうした見た目の「お粗末さ」だけに
不満だったわけではない。むしろ、物語るうえでも、撮影においても「自然」に拘ってきた
監督がなぜ、「不自然」(これは違和感があるとかではなく、人工的という意味)なCGを
このように多用するという選択肢を選んだのかが不可解だったのだ。そして、それを
私は(浅薄な捉え方かもしれないが)安易な選択のように思えてしかたがなかったのだ。
だから、憤りすら覚えた。旧作において私の胸を鷲づかみ、全身を引きずり回し続けた
あの映像のマジックの神聖さを汚す行為かのようにすら思えた。冒涜だ!許せん!!
・・・いや、待てよ。何を、誰を冒涜してるんだ?何が、誰が許せないのだ?
・・・そうか、それはあくまで「俺」自身の感覚がつくりあげた「テレンス・ワールド」に
過ぎなくて、そこに異質なエッセンスをぶちこまれたからこそ、私は憤慨してるのか?
そんな自らに巣食う傲慢さに少し自覚的になってみると、監督なりの思考をポジティヴに
捉えてみたくもなったりしてきて・・・
◆CGで描くということは、「実在」せぬものを在らしめる作業である。
本作におけるネイチャー・シークエンスは、それと対比するヒューマン・シークエンスとの
関係においては、次のような対照性を持っていると私は解釈した。
人間の歴史 地球の歴史
宗教・神話 自然
〈人間の内部で起こっていること〉 〈人間の外部で起こっていること〉
従って、「自然」パートは極めて「客観」的「科学」的な思考で具体的なアプローチが採られ、
対照的に「人間」パートは「主観」のぶつかり合いや視点の移動で抽象的な展開をみせる。
そのような解し方を勝手にしていた私だから、自然パートにCGを用いることに違和感を
おぼえてしまったのだと思う。つまり、「自然」パートにはとことん自然科学的な描写や
内容で対比させて欲しいように思ったのだ。単なる個人的な願望に過ぎないが。
しかし、待てよ・・・と思ったりもした。つまり、自然パートはあくまで「過去」それも本来は
人智の及ばぬはずの、「科学」といった道具の正当性が認められる範囲内においてのみ
通用する「自然」なのだ。それは、もしかしたら見方を変えれば(観点が移動すれば)
「神話」に過ぎぬかもしれない。ということは、神話とはまさに内面世界において
生起したもの。生起するもの。そうであるならば、実在せぬものを「実存」させる作業に
おいて抽象からの具現を計るCG技術の起用は全うなのかもしれない。もしかしたら、
本作は、人間の内部(宗教)と外部(自然)の対比や融合などではなく、徹頭徹尾、
内面世界内における展開として捉えるべきなのかもしれない。そうすれば、ネイチャー・
パートのお粗末さは、人間の脳内における思考の矮小さと呼応するかもしれない。
さすれば、最初と最後の「あの光」は、人間の内面世界から見た「微かな外の光」
なのかもしれない。産道から見える光とおそらく解されることが多そうな「あの光」とは、
私たちがいまだ自己に囚われたままの存在であること(それは、科学がどんなに進歩
しようとも、結局は「客観」など手に入れれぬ「主観の牢獄に入れられた囚人」である)と、
それでもそのままでも見ることのできる「光」があることを示唆しているようにも捉えられる。
そして、作中に登場する太古の映像は、人間の内面において培われ育まれた「記憶」
であり、それは決して実在しておらずとも想像によって「在」り得る現実なのだ。
科学とは客観的で即物的な探求であるように思われるが、例えば地球の誕生を解明
しようとしても、それは「即物的」でなどありえない。化石や地層という「モノ」があるようでも、
そこから算出されたり提示されるあらゆる「説」は、不在から焙り出した、いや創出した
人間(の内部起因)の「事実」に過ぎない。そう考えるなら、あれは内部と外部の融合など
ではなく、そもそも「もとからずっと内部で起こっていたこと」、そもそも歴史も事実もきっと
人間の記憶に刻み込まれてきたものなのだ。そう考えると至極納得いく世界。
映像の世界に魅せられながらも、「哲学」を捨てきれずにそちらに身を置き続けた
テレンス・マリックからの挑戦状なのかもしれない。などと、私ごときが考えたところで・・・
といった発想すらも、彼にとっては「何とも卑小な尺度に絡めとられているのだ?」と
笑われそうだ。つまり、彼にとっての「深淵」は、外部などにではなく、人間の内部でこそ
触れられるものなのだから。もし、そんなことを彼が考えていたとしたならば、私は大いに
共感するし、たとえそうでなかったとしても、私は彼と(作品を通して間接的にではあるが)
対話をしたことになるかもしれない。それが、彼の最も望む「作品のありかた」だと言う。
(あれ?ここは「否」コーナーだった・・・)
《考察》
*一度目の際には、地球の歴史と人間の歴史を重ね合わせるように進行するとばかり
思っていたので、前者が恐竜どまりだったり、後者は限定的だったりする描き方に
どこか不足を感じる自分がいた。しかし、そもそも本作の営みの中心に、個人的な物語から
普遍的な物語を語ろうとする意図があるとしたならば、それは「全体を包括する」事の方が
むしろ採るべきではないアプローチのようにすら思えてきた。人間は不完全な存在で、
与えられた時間も限定的であれば、その枠内においても感覚や能力は地球にとっての
微細を捉えうるのみ。そう考えるならば、人間にとっての世界とはいつでも「部分的」であり、
しかし一方で捉えうる範囲の外を想像する力が与えられもしている。そして、それこそが
「神」を生み出したともいえる。したがって、人間が登場するまえの時代の世界には
「神の不在」が描かれ、人間が物語を展開する時代において「神の存在」が確認される。
そうしたコントラストも浮き彫りに出来るかもしれない。そして、無機質な巨大ビルディングが
有機的なわずかな自然(一本の木)をのみこまんとばかりに乱立する現代の光景は、
人間が創造主(神)たらんとする時代の変遷を象徴しているのかもしれない。
そこで、「信仰をとりもどせ」的単純回帰を示唆するのが監督の意図とは思えない。
確かに創造主たろうとしても不可能であり、虚しいだけであろう感覚を喚起しようとしている
気はする。しかし、一方で彼が人間に期待しているのは、「想像主」であることかもしれぬ。
それは、(可視的には)存在しない「神」の存在を自らの内に秘め、過ぎ去った過去への
悔恨を携え、しかしだからこそ想像力によって時空を飛び越え得る内面世界をもつ。
そうして、ジャックは死者とも過去とも世界とも結ばれ、慈しみのときを手に入れる。
*オブライエンの一家には、人間の歴史が凝縮されている(メタファーとして示されている)
気がする。父親はあきらかに封建時代の「絶対君主」的存在として君臨しようとする。
母親は人間の卑しさや愚かしさをも優しく包み込もうとする女神、いや聖母といったところ?
3兄弟にしても、長男は父親の影響を最も受け、より「社会」的な存在へと突き進む。
それは、自らに宿った(芽生えた)「けがれ」を受容せずとも身につけていく過程(近隣の
夫人への思慕とその果ての「罪」)が物悲しく語りもしている気がする。
次男は、父親からボクシングを仕込まれようとするときには、それを拒むかのような表情が
垣間見られるが、一方で父親の弾くピアノにギターで応えたりする。芸術を愛で、争いを
避けようとする存在なのかもしれない。ギリシャ神話なら、アポロンといったところか?
しかし、音楽を愛するも弓術の神でもある「アポロン」ゆえ、後に戦死するのだろうか。
三男は、よくつかみきれないが、劇中ではまだ自我の確立がなされていないように見える。
父親〈(人間)社会〉的でも母親〈神〉的でもない。いや、父親的でも母親的でもある。
彼だけがどちらとも友好であったりするのは、「未開」であるからか?
人間社会と神の蜜月か?
*さらに、子供たちへの教育や子供たちの成長過程には、人間社会の歴史が刻まれる。
例えば、隣家との「境界線」を認識させる父親。国家の成立、国境の明確化。
自己と他者の峻別。さまざまな「壁」が築かれ始める。
その直後に映し出されるハロウィン風景で、子供は「仮面」を被っている。
(ラストのシークエンスには、仮面が海を沈んでゆく様が映し出されもする。)
「ペルソナ」化してゆく子供たちの自我。
ボクシング(?)を教える父。戦争への萌芽。
「3人の誰が好き?」と尋ねるジャック。相対的価値、競争原理、ポピュリズム。
障害者へ向けられる奇異な眼と、犯罪者へ向けられる好奇の眼差し。監獄の誕生。
(母は、連行される容疑者に「水」を飲ませるという慈悲をみせる・・・聖母的?ピエタ?)
「ママも死ぬの?」と不意に尋ねる息子。透明な棺に寝かせられた母の遺体。
人間にとっての「死」の変容。神聖なるものからタブーに、そして「ない」ことに。
そうしたルールを解さぬ子供の、不意つく明察。
ロケットを打ち上げる子供たち。宇宙をも手中におさめようとする人類。
近隣宅への侵入、窃盗。性の目覚め、その暴走。
そして、母に罪を告白できず。もはや、告解懺悔を失う人間。
家族の食事に「友達呼んでもいい?」というジャック。国際化のはじまりか。
「母さんは父さんに見下されてるくせに」と言いながら、
「母さんが愛してるのは父さんではなく、自分だ」というジャック。
神を否定しながらも、社会に背を向け始め、それでも神を欲する個人。
傲慢不遜のはじまりはじまり。
*いつもながら、独りよがりな「見立て」を展開してみると、
何となく、「父=火/母=水」といった印象をうける展開が多かった気もする。
それは、冒頭で(父親ナイズされた)社会的競争的自我の持ち主ジャック(大人)が
「火」を灯すと、回想がはじまって・・・
父親は息子にライターを持ってこさせ、教会でも火を灯す。
母親は庭の芝(これも広義じゃ「tree」的?)に水をやり、自身の足も水と戯れる。
母親は料理をしたり洗濯したり、「水」場で仕事をする。
父親は工場で、おそらく火力にまつわる作業が展開されているのでは?
(ちなみに、テレンス・マリックの父親は石油会社のエグゼクティヴだとか)
そう考えると、「木」を育むための「水」と、「木」を滅ぼしかねぬ「火」といった関係も、
浮かび上がる。作中には、火事という「火」による惨劇も挿入されている。
しかし、ラスト近くで出てくる女性による「火」のリレー。これは人類の歴史上の一コマか?
(ラトゥールの絵画を思い起こさせるような美しいシーンにみとれてしまう・・・)
人間が歩くのは、水があふれた大地。それぞれの「生命力」が結ばれた世界において、
幸福や希望は姿を現すとでもいうのだろうか。
たしかに、かつての山火事は、木の再生や新たな木の誕生を促すものでもあったのだ。
*空へ向かって伸びる木の映像(下から見上げる格好の画)は、
過去ではその高さが強調されるも、現代では木が小さく(ビルに圧倒され)感じられる。
「神」や「生命」の存在感がいかほどかを表現している気もがする。「神木」といった発想が
根深くある日本人だからかもしれぬが、本作における木も神に近い(そのもの?)存在
として描かれると見るならば、一方で自分の姿に似せてつくった人間とも木は重なる。
ということは、現代においてはビルに圧倒され(威圧すらされ)ている木の在り方は、
人間が自らの生みだしたテクノロジーに押しつぶされそうになっている姿にすら見える。
*現代劇でクラシックが使用される場合、私たちはその音楽にその時代を覗くわけではなく、
その音楽に刻まれた歴史(全体)を受け止めねばならぬかのような重みを感じる。
一家族の一時代の卑近な物語は、そうした時空を自由にとびまわる音楽たちによって、
大きな物語の内包している一つの物語として観客の眼前に提示されもするだろう。
ギャップ激しい映像の「それ」よりも、自然に融合する音楽の「それ」がもたらす効果は、
人間と芸術の理想の関係を示唆してくれてもいるかのよう。
(改めて言うまでもないけれど。視覚と聴覚の相性の好さの証左でもあるだろう。
近代以前は、人間にとって最上位の感覚とは聴覚だったらしいし。
そうか・・・ネイチャー・シークエンスも、現代の光景を見せながら、太古の音を
聞かせることで「感じ」させるって手もあったのではないだろうか。なんてね。)
(どうでもいい余談)
※編集は5人が携わっているのだが、最終的な責任者(?)はマーク・ヨシカワだったそう。
名前から察するに日系人?些細なことに、ちょっと嬉しくなってみたりして(笑)
ちなみに、テレンス・マリックの処女作には撮影にタク・フジモトも参加してたりする。
※本作のパンフの写真には、眼鏡をかけてしかめっ面をしたブラッド・ピットの写真が
ほとんどない。写真の大半は眼鏡なしだし、その多くは「ブラピ」っぽいものばかり。
まぁ、ある意味賢明かつ顧客想いな選択なれど、作品内容を反芻するには物足りない。
しかし、松竹の洋画パンフはいつも充実した内容。今回も読み応えはあったのだけど、
『もしドラ』作者のページは「恐竜」以上に要らない(笑) あんな内容に原稿料払ったのか?
いつも寄稿者の人選もなかなかな松竹洋画パンフ故に、この人選は非常に残念。
と同時に、こんな内容や文章しか書けない人間が「ベストセラー作家」なんだねぇ・・・。
ってまぁ、ひがみかも(笑)
結局、まとまらないながらも整理して書き分けるつもりが、
全く混同混沌とした感想になってしまった。しかし、書くことで多少頭の中が整理できたかも。
しかし、一度目に観たときは(おそらく恐竜CGに対する個人的過剰憤慨もあって)
「なんでこんなんにパルムドールあげんだ!?」って半狂乱な感情が渦巻き続けもしたが、
二度目のときは驚くほどゆったりと身を任せるように観ることができ、
異様なまでの心地よさだった。そして急に慕いまくりたい作品に・・・
でも、頭でどんなに考えようが、
やっぱり地球や宇宙の一連映像をカットしたヴァージョンで観たかったのも正直なところ。
そこだけなら文句なしに(私のなかでは)年間ベストな一本だっただろう。