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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

デビルクエスト(2011/ドミニク・セナ)

2011-07-31 22:56:42 | 映画 タ行

 

来るもの拒まず的(一時期の三池崇史に通ずる)職業俳優、ニコラス・ケイジ。

日本でも人気があるんだかないんだかイマイチつかめぬ、ニコラス・ケイジ。

大作であっても気づかぬうちに公開終了ってほどの空気っぷり扱いかと思えば、

『バッド・ルーテナント』とか『キック・アス』とか、一部から熱狂的支持を得ちゃったり。

まぁ、本作は明らかに前者に属するわけだけど(決定!?)、あの暑苦しさは或る意味、

「映画観た」感を与えてくれるしなぁ~と、好みでない顔(失礼)がアップになるたび

自己暗示かけながら観ておりました。

物語も演出も、「午後のテレ東」以上「木曜洋画劇場」未満な雰囲気で、

頭空っぽにしてハシゴ観賞の中休みには絶好の逸品(一応、限定的に褒めてます)。

ただ、観る順序とか期待値とかに誤算があると、とんでもない脱力感が待ち受けますので、

要注意。

 

本作は、ストーリーとか映像美とか感動とか、

そういうスタンダードな娯楽映画の醍醐味を期待して観ると赤点確実なので、

ひたすら脇役の頑張りっぷりに目を見張るよう心がけましょう。

なんせ、なかなか粋なキャスティングではありますから。

 

脇役というにはニコラス共に前面に出ておりますが、

ロン・パールマンの安定っぷりはいつみても頼もしい。「ついていく」気にさせてくれる。

おまけに、何、この仕事量・・・どんだけ信頼されてるんだ!?

とりあえず、今年のカンヌで監督賞受賞の『Drive』はむちゃくちゃ楽しみ。

一部で話題になってたGackt出演の『BUNRAKU』(ジョシュ・ハートネット主演)にも

出ているようなんだが、そういえばこの作品って日本公開未定のままなのだろうか。

 

スティーヴン・キャンベル・ムーアはなぜか観てる間ずっと

「なんかエドワード・ファーロングに似てる」とか思ってしまい、

一度そう思い出すとそうとしか思えず、しかもそう思ったのもおそらく

WOWOWで観た「CSI:NY」にエドワード・ファーロングが最近二度も出てたからで、

その役がまた憎らしかったりするものだから、スティーヴンの役どころも当然好きになれず。

(って、本作とまったく関係ないし・・・)

 

スティーヴン・グレアムなんて、『THIS IS ENGLAND』や

『くたばれ!ユナイテッド~サッカー万歳!~』(トム・フーパー、『英国王~』の前作)に出演。

大作系への出演も経験しながら(本年度マイ食指不動度No.1の『パイカリ』にも出演)、

TVシリーズにも出演したり、マドンナの『ワンダーラスト』なんかにまで顔を出していたり。

いま、最注目のイギリス人俳優といっても好い存在かもしれない。

 

おまけに、そんなイギリスからは若手注目株ロバート・シーハン(アイルランド出身)も出演。

ハリウッドデビューは本作になるが、子役時代からキャリアをスタートさせているようで、

イギリスでは人気ドラマにも出演し・・・って、ニコラス・ホルトと似た推移。

ニコラスは、「Skins」というテレビドラマでブレイクしたようで、それがハリウッドでの活躍に

つながっている模様。(『アバウト・ア・ボーイ』の少年が『シングル・マン』に出てるらしい、

と聞いて実際に再会したときの、驚きといったら・・・) 今や大作にもひっぱりだこだし。

で、ニコラス・ホルトのフィルモ眺めてて更に吃驚!なんと、彼は『The Weather Man』で

ニコラス・ケイジと共演しているではありませんか!?劇場公開はなかったものの、

スタチャンとかでよく放映していた、あの『ニコラス・ケイジのウェザーマン』ですよ。

とか書きながら、未見が悔やまれる。監督は、パイカリ・シリーズのゴア・ヴァービンスキー。

ますます、ロバート・シーハン、「ニコラス・ホルトに続け!」って感じだな。

ちなみに、ロバートに関しては、今年のスターチャンネルで放映していた英国テレビドラマ

『レッド・ライディング』三部作に、いずれも(確か)出演している(出番僅少ながら)重要な

役どころを見事に演じ切っており、独特な顔立ちと共に非常に印象深かったもので、

『Cherrybomb』や「Misfits」なんかも観てみたりしたが、今後要注目の俳優だと確信。

今年は、『Killing Bono』にもメインどころで出演していて、そちらも是非観てみたい。

ボノと同級生の高校生バンドがU2と音楽性かぶりまくってんのに、明暗分かれまくり・・・

で、「ボノなんて殺っちまえ!」って感じの映画らしいから(実話がベース)、観たいでしょ?

 

デンマークのウルリク・トムセンは、『セレブレーション』(トマス・ヴィンターベア)で注目され、

スサンネ・ビア(スザンネ・ベアで記憶しちまってるんですけど・・・)の『ある愛の風景』や

もうすぐ公開の『未来を生きる君たちへ』にも出演し、いまやデンマークを代表する男優。

おまけに、ハリウッド仕事では、『キングダム・オブ・ヘブン』でリドリー・スコットと、

『ザ・バンク 墜ちた巨像』でトムティクヴァと、『デュプリシティ』でトニー・ギルロイと、

といった具合に、俺がとりわけ好きな監督たちと仕事してる。

ま、いまいちノレなかったショーン・エリスの『ブロークン』や、『キリングミー・ソフトリー』や

本作のような「オシゴト」仕事もあるだろうが、今後もデンマーク仕込の渋さとスマートさを

スクリーンで堪能させて頂きたいもの。

 

とまぁ、圧倒的に男優陣に関する情報確認でこの記事は終ろうとしているわけだが、

本作の中心であるはずの魔女(原題は『Season of the Witch』)役のクレア・フォイが

何とも残念な扱いだから仕方がない。いや、彼女はかなりイイ!のだが、

ドミニク・セナ(監督)には、彼女を堪能してもらおうという志向がほとんどない。

彼女がレイプされたと思しき事実も、「語られる」のみ。(見せろよ・・・いや、見せるべき)

ラストで折角、愛しい表情で裸体(といっても、こちらも見せません)をさらすも、え?終わり!?

というわけで、紅一点の貴重な資源を明らかに有効活用するつもりなく、

クレア・フォイのブレイクは又の機会といった結果に。

テレビの仕事が中心のような彼女だけれど、今後は舞台の仕事も控えているようだし、

本作の繊細な表情なんか観てると今後は映画でも好い仕事してくれそう。

 

そんな、「魔女の季節」(?)といった原題とは裏腹な男ばかりの悪魔祓い映画な訳ですが、

かといって漢エキスたっぷりな興奮と感動が盛り沢山かといえば、全くそんなことはなく、

結局何がやりたいんだかよくわからずに、テキトーに撮って、「はい、あとお願い(>CG班)」

って光景が目に浮かぶような内容でした。しかし、そんな作品であっても、真摯に演じる

キャストの皆さんの涙ぐましい役者魂を感じながら、本当の自己犠牲は彼らのなかに!?

 

脚本的に、ちょこちょこ面白いところはあったんだけど。

例えば、魔女の護送をしながら、「女は結局、(誰でも)魔女だ[魔性を持ってる]よな」

「ってか、おまえの心が弱いだけだろ」みたいな会話をニコラス&ロンがしてて、

自分が理性的存在であることを信じたい男のために、

女が虐げられてきたかのような現実社会とリンク。

 

『監獄の誕生』(フーコー)じゃないけれど、

邪悪ゆえに牢に閉じ込めるのか、牢に閉じ込めたから邪悪なのか。

彼女(クレア・フォイ)が何者なのか、それを護送する男たちは常に自問自答し、

それを観客にも体現させるために有効な装置として、「牢屋」の存在が時折機能する。

牢屋から出た彼女が我々にどのように「映る」のか、牢から出た手は何をするのか、

牢の外にいる限りにおいて(彼女が牢にいる限りにおいて)保障される安堵とは?

ま、そんな思考も結局何も最後には結びつかないんですけどね。

 

ラストで、ベイメン(ニコラス・ケイジ)が「敵」をはりつけにするかのように抑えつけながらも、

自らがズタズタにされる描写は、「磔」を無償の犠牲として完結させたキリストへの敬意!?

つまり、磔にする者に攻撃を加える存在=敵、ゆえに打倒すべき。及び、その裏返し!?

そして、ペンは剣より強し的決着!?でも、それって結局また・・・

 

そんな余計な思考に逃げなきゃならなかった(笑)のも、ラストで出てくるCGが、

ゼロ年代の日本映画屈指の悪夢を呼び覚ますかのようなヴィジュアルで、

「だから、この邦題なのか!?」なんて妙な合点がクライマックスどころじゃなく、

「このデビルなんちゃらも、あそこまで壊滅的ならネタにもなったのになぁ・・・」

といった感慨を引きずりつつ、「せめてここが新宿なら」などと慰め求め、

開館早々迷走気味の角川シネマ有楽町のラインナップに先行き不安。

劇場自体は好きなんだけどなぁ・・・

 

 


デビル(2010/ジョン・エリック・ドゥードル)

2011-07-18 00:53:45 | 映画 タ行

 

M.ナイト・シャマラン。その名のもつ魔力(笑)

がっかり感が広がる人と、異様な胸の高鳴りを覚える人。

必ずそのどちからに分かれる、M.ナイト・シャマラン。

勿論、わたくし、後者でございます。

 

しかし、観た後は大抵「がっかり」ならぬ「ぐったり」なわけですが、

それでも吸い寄せられるように劇場へ足を向けさせられてしまう悪魔の名前、

M.ナイト・シャマラン(しつこい)。

 

「ナイト」だけあって(違います)、有楽町じゃレイトショーのみでの公開。

しかし、20時開始の本編80分なので、実際はイブニングショーみたいで気軽に行ける。

そして、そうした気軽さが、「ぐったり」しようが「がっかり」しようが、

「どっぷり」落ち込む自分を救う。と、観る前から予防線。

 

本作は、シャマラン自身は原案を提供し、プロデューサーとしての参加。

彼が起ち上げた企画「ザ・ナイト・クロニクルズ」の第一作とのこと。

で、その企画の誕生秘話(?)を彼のインタビュー記事から引いてみると・・・

 

  「(自分が映画化したいストーリーのアイディアを長年にわたって何冊ものノートに

   書きためてきていたが・・・)どの原案にも、持てる愛情の全てを注ぎこめるが、

  さすがに全部を自分で監督できない。だから、そのうちの何本かを選んで、

   将来有望な映画作家や俳優たちに映画シリーズとして作品化してもらおうと思ったんだ。」

   (『デビル』公式サイト Production Notes より)

 

なんて、素敵な、ブラックジョーク。

参加する「将来有望」な者たちが約束されたのは・・・

 

しかし、実際は無難なスリラーとして集中を途切れさせること無く、

最後まで一気に楽しませてくれる至極まっとうな一本でした。

って、それでガッカリしてる変な気分。確かに、観終わって感慨は大してなくも、

どこかで期待していた「あちゃ~」成分がほとんど配合されておらず、

この分だと、この若手監督は手堅くお仕事こなしてくれる好い監督になるかも、けど・・・。

みたいな、「期待」が少しでも灯ると失望するという、きわめて不健全な帰り道。

 

冒頭、フィラデルフィアの街が、天地の倒錯した画で映し出される。

ロザリオを握りしめた男が、高層のオフィスビルから墜落する。

そして、突如原因不明で停止したエレベーターには5人の男女が・・・。

最初の数分は、傑作の予感さえする静謐ながらも「何か」を漂わせる絶妙空気。

シネスコを活かしたタク・フジモトの撮影だけで既に魅了され、

フェルナンド・ベラスケスの管・弦・打の掛け合いが華々しく不穏を演出。

 

「悪魔」や「呪い」は、カトリック的世界とアジアまたは日本のそれとで

定義も捉え方も異なりはするものの、本作においてはわかりやすい因果応報譚的展開を

含んでおり、そうした点では日本の観客も感情移入しやすいかもしれない。

ただ、ラストがどっちに転ぶかで観る者の評価が多少分かれる気もするが。

(きっと、2ヴァージョン用意されていて、試写とかで決められたりしたパターンかな?)

 

エレベーターに閉じ込められる5人で唯一華のある(?)女性を演じる

ボヤナ・ノヴァコヴィッチはセルビア生まれの30歳。名前も生まれも、惹かれます。

7歳でオーストラリアに家族で移住したらしく、オーストラリアでキャリアをスタートさせ、

『スペル』(傑作!)でハリウッドデビューしたっぽいフィルモ。

なんと今月は彼女の出演作がもう一本日本公開される。

それが、メルギブ久々主演の『復讐捜査線』(原題「Edge of Darkness」)。

監督がマーティン・キャンベルながら、食指動かずじまいだったのに、俄然観たくなった。

バウスでやるみたいなので、「BAUS1」だったら、暑気払い的にまったり観に行こうっと。

 

 


テザ 慟哭の大地 (2008/ハイレ・ゲリマ)

2011-07-04 23:58:09 | 映画 タ行

 

この映画に興味をもちながら未だ観ていない、

あるいは観ることを躊躇っている方には、是非観ていただきたい。

ただし、あなたがエチオピアの現代史についてそこそこ知っているならば、

そのまま観賞されても好いでしょうが、そうでないならば必ず予習をしてから観てください。

それはそんなに困難なことではなく、公式サイトの記事に一通り目を通すだけで十分。

おそらくそれを見越して充実したサイトにしてくださっていることでしょう。

「物語」ですら通読してから観賞しても好いくらいだと思います。

 

私がそんな助言を老婆心ながら書き加えてしまうのは、

エチオピア(に限らないのでしょうが)の現代史が実に複雑でありながら、

本作ではそうした大状況を遠景としながら個人の生に焦点があてられ描かれている為、

彼らの煩悶や葛藤を理解する上でも、そうした前提に対する知識は不可欠だと思うから。

その一方で、そうした前提さえ踏まえれば、そこに描かれる物語には極めて普遍的な

人間の現実が具に描かれ、それは日本に住む私たちにも自らの問題として考え得る

いや考えるべき人間の宿命が随所に刻み込まれている力作だから。

 

◆本作は2008年のヴェネチア国際映画祭で金のオゼッラ賞(脚本賞)・審査員特別賞などを

 受賞している。コンペのラインナップを観てみると、やや不作な年のようでもあったが、

 金獅子は『レスラー』が獲得し、審査委員長をヴィム・ヴェンダースが務めた年。

 脚本賞のみならず、審査員特別賞が授与されたところに、本作の存在意義を感じる。

 映画という表現手段においては、芸術性や個性が評価の対象になることが多い。

 しかし、一方で、かつて映画が利用された事実が証明するように、「現実」の伝達

 および学習の手段としては、非常な効果を発揮する。そこには捏造の危機が常に

 つきまとうため、そうした方向性に映画が傾くことは時として煙たがれたりもする。

 啓蒙主義的ドキュメンタリーの類などは、そうしたものの代表格であろうし、近年では

 ドキュメンタリーからフィクションまで、扇情的な作風を観客が面白がる傾向もある。

 しかし、本作はそうした作風のいずれにも嵌りきらず、それでいて詩情にも溢れている。

 現実をはぐらかしながら、個人の視点に収斂して落しどころを探るような作品が多いなか、

 本作では現実を直視しながらも、決して現実を糾弾したり暴露することに専心したりしない。

 個人の生から歴史を照射するというよりは、個人の生に浸み込んでくる歴史を語る。

 個人と社会の物語が交錯してうまれる歴史の「正しい」語りがそこにはある。

 

◆「テザ」とは、エチオピアの言語アムハラ語で

 「朝露」と「幼少期」のふたつの意味をもつらしい。

 本作の冒頭で、子供たちが「なぞなぞ」を出し合っている場面で、その言葉が登場する。

 「朝、出かけるときに見たのに、帰ってきた時にはなくなっているもの、なんだ?」

 まさに、この物語の主人公アンベルブルの人生を象徴するかのような問いかけ。

 彼は、故国に貢献したいという想いを胸に、ドイツに留学して医師を志した。

 しかし、彼が帰還した祖国には、そして故郷にも、

 あの頃の希望を証明してくれるような存在はもはや姿を見せぬ。

 したがって、幼少期を過ごしたはずの地であったのに、

 自らの記憶に刻まれた「それ」はどこにも見当たらない。

 本作の冒頭で、アンベルブルの眼に映る「幻覚」は、

 そうした記憶の消失を語り、それはアイデンティティの崩壊をも促す。

 しかし、そうした茫然自失な状況は、実は希望にあふれた雄飛を経験した彼特有のもの

 でもなかった。祖国の人々、そして故郷の人々、その誰もが時代に翻弄され、

 社会の犠牲者として、傷を負うか負わせるかの二者択一の世界に生きていた。

 「私は革命を信じない」という先日のイオセリアーニの言葉を思い出さざるを得ない。

 美しい朝露のような輝きを放って始まった革命の胎動は、陽が昇るにつれて、

 いつの間にか蒸発してしまうだろう。理想が理想であるのは革命前夜まで。

 現実を知った青年が、理想にふるえた少年に、別れをつげる朝が来る。

 一旦理想と訣別した革命は、昨日までの理想など露知らず、乾いた笑いで夜を待つ。

 

◆タイトルである「テザ」は、最初「TEZA」とアルファベットの表記が提示され、

 それがアムハラ語と思しき表記に変化する。

 故郷への帰還を表しているのだろうし、ディアスポラとして生きる流浪性にも思いは及ぶ。

 その変換が流れるように自然に変化してゆくさまは、言葉を通じなくさせられた人間が、

 「映像」という言語で再びつながることを獲得したかのように感じさせてくれもする。

 

◆本作において、何度も強調されるように発せられる言葉に「政治」がある。

 また、「社会主義」という言葉も随所でさまざまな用いられ方をしている。

 「国よりも、愛よりも、良心よりも、政治が大事だった」というような回想もある。

 しかし、そうした「信条」の結果が常に悲劇的であり、

 イデオロギーが常に暴力に転化するさまは、

 一貫してわが子を慈しむ母たちの姿とは極めて対照的だ。

 それは、エチオピアの母たちのみならず、白人のギャビですら黒人テスファエとの間に

 生まれた子(しかも、やがて白人の母に距離を感じ始める息子であるにも関わらず)へ

 無償の愛を無条件に注ぎ続けようとする。政治やイデオロギーに縛られたりもせず。

 政治の為に妻子から離れたテスファエも、村社会の掟にのっとられたアンベルブルの兄も、

 心情のおもむくままには生きられず、信条にしばられながら生きている。

 アンベルブルが持参した「わが子」の成長した写真を手にしたテスファエは、

 感情の昂ぶりをおさえようとしてか、ベランダに出る。

 そのベランダから向かいに見えるのは、社会主義革命の英雄たちが描かれた看板。

 そう、彼は手元にある写真の息子より、あの看板の英雄たちに心血注いで生きてきた。

 絶え間のない流血の連鎖が、つねに自分たちの周りを包囲しているにも関わらず。

 そうした暴威から息子を守るでもなく、むしろ暴威に荷担していることも知らず。

 

◆イデオロギーとは、目的なのだろうか。それとも、手段なのだろうか。

 大義に対する検討もないままに、立場によってのみ導かれてゆく行動原理。

 理想を実現するための主義主張がいつしか、絶対的な教条へと化してゆく「社会」。

 エチオピアに帰国したアンベルブルに、親友のテスファエは忠告する。

 「味方でなければ敵、それが今のエチオピア。

  どの派閥にも属さないということは、どちらからも狙われるということだ。」

 つまり、自由がないということなのではないだろうか。

 しかし、こうした状況ははたして特殊なものなのだろうか。

 自由が保障されている社会においては、起こらぬ事態なのだろうか。

 学校や会社、地域社会などあらゆる「組織」において、

 日本でも常に垣間見られる現象なのではあるまいか。

 前述のようなエチオピアにおいて、真の個人主義を貫くことは死を意味した。

 しかし、そこまでの脅威がない状況においてさえも、党派主義に拠らねば生きていけぬ

 人間があまりにも多すぎる状況に、もう一度〈自由〉の意味を問い直す必要を感じる。

 自由とは保障されていればいつまでも「ある」ものではなく、

 自由であろうと「する」ことでしか近づけない。

 (丸山眞男を模倣してしまった)

 

◆アンベルブルがドイツを訪れ、テスファエの妻子に会いに行くと、

 妻のギャザは息子テオドロスとの信頼関係が破綻しかけていることに悩んでいた。

 それは、白人社会から黒人がうける仕打ちに対するテオドロスの怒りが、

 母子の絆までも断ち切ろうとしていたからである。

 「差別を許さない」と怒りに燃えるテオドロスに、「暴力はだめだ」と釘をさすアンベルブル。

 しかし、テオドロスは詩の朗読会へ参加することを二人に報告し、二人を招待する。

 「プーシキンみたいだろ」と語るテオドロス。

 (プーシキンはエチオピアの黒人の血が流れている。)

 しかし、プーシキンみたいな最期(妻をかけた決闘の傷がもとで死ぬ)にはならないでくれ。

 

◆主人公の名「アンベルブル」は〈戦士〉を意味し、親友の名「テスファエ」は〈希望〉の意。

 ラストで生まれる「わが子」の名にアンベルブルは「テスファエ」と名づける。

 そこには、政治の信条よりも、親友への心情がこめられたと同時に、

 絶望に打ちひしがれてきたからこそ見出せる、強靭な希望がうまれたことを示唆している。

 

 


東京公園(2011/青山真治)

2011-06-23 22:38:54 | 映画 タ行

 

この映画のなかでは、いくつかの映画のタイトルや台詞が登場する。

引用とはまたちょっと違う印象で、それを「用いる」というよりも、

作品の外にある記憶を取り込もうとしているかといった感覚。

原作者も『フォロー・ミー』に着想を得たと述べている。

そして、私が本作を観ながらまず頭を過ぎったのは、『シルビアのいる街で』。

そうしたら、パンフ掲載の監督インタビューで「自分もこういう作品がやってみたいな」

と、ずばり語られていたりして。なるほど。

「シルビア」の幻影を追い求めた美青年から、

母の幻影を追い求める美青年へ。

『シルビアのいる街で』において様々な「映し」

(ガラスなどに映る、実体とは別のもう一つの像)のイメージが溢れていたように、

本作における切り返しの多用や関係の二重性などに(監督が「二面性」として語るように)

自己に存する「もう一人」の生成のプロセスが垣間見られる気がする。

私の勝手な解釈では、自己内の「無意識」(意識にのぼらぬが確かな自己)と

「意識」(他者からの働きかけにいちいち反応する自己)とのせめぎ合いが、

実にきめ細かく描かれていて、その「さりげなさ」は繊細で名状しがたい「気持ち」を

易しく優しく淡々と、並べてみせていってくれている。

 

「気持ち」というものが、自分一人で成立するものなら、

それを読み解いたり認識したりするのも、意外と簡単なのかもしれない。

しかし、「気持ち」が向いたり、「気持ち」が動かされたりするのは、

常に自分の外にある存在の仕業だったりするものだから、どこまでいっても正体不明。

「幸せ」かどうかなんて、自分がそう感じられるかどうかなのだから、

自分で何とかなるものだろう。そうであるなら、幸せだ。

しかし、そうではないカラクリがやっぱりあって、そこの複雑さに振り回される人々が、

この映画のなかにはいろんな姿で現れる。

 

「幸せの匂い」をかぎ分けられるかどうかが決め手、

だと語る光司の姉・美咲(小西真奈美)。

 

「幸せになるチャンス」は滅多になく、

それは思いも寄らぬ巡り合わせだと教えてくれるマスター(宇梶剛士)。

(ちなみに、彼はゲイなのに女性と結婚した・・・まさに二面性、そしてその複雑さこそ人間!?)

 

「赤の他人」に気持が吸い寄せられ、恋してこそ「社会」がうまれると説く美優(榮倉奈々)。

(なんか、勝手におれの中では小林秀雄の説教聴いてる感覚になっちゃったよ(笑))

 

人間関係なんてものは、そう簡単に「つながる」ことができるもんじゃない。

決して、つながったりなんかできない。別々の個体で、別々の意識なんだから。

でも、こちらから発した想いが、「そのまま」ではなくとも受け取られ、

そこから発した想いが自分に届けられ、「そのまま」とはいかないまでも受け止める。

そして、ボールをキャッチしたときの掌の痺れのような実感が、そこには残る。

それこそが「つながり」であり、それを感じられさえすれば、

つながってるみたいなものかもしれない。

 

パンフ掲載の監督インタビューで、

これまでの役者との信頼関係によって作品に磨きがかかったことで

「人間同士で何かをやっていくことが信じられるようになって、楽しくなった」

と青山監督は語っている。「そういう経験を通して、人間同士の関係みたいなものを

ビビッドに描く作業がしたくなってきた」のだと。いやぁ、ビビッドですわ。ビビッと来ます。

(いや、実際はじんわり時間をかけて余韻が浸透中ですけどね。多中心な波紋みたいに。)

 

「写真を撮る」という行為は、ファインダーを通して見た世界を残す営みである一方、

アングルや瞬間の固定によって、自分の「場所」を確認・認識する営みでもある気がする。

登場人物で最も「自分がわからない」状態(を自分でもわかってないのかも)である光司が

カメラをもって彷徨っているのも納得である。

そして、光司を通じて自分の場所を確認する初島隆史(高橋洋)は最後に、

「おれはなんでこんな遠くから眺めなきゃなんないんだよ・・・」ってことに気づく。

妻を遠い場所から見てばかりいたから、気持ちが伝わらず、近くに感じられなかった。

一方、光司は初島百合香にしばしば近づこうと試みたり、想像のなかで「実際に」近づく。

百合香は、光司のなかでは「母」であり「憧れ(写真家でもあった母)」であり「恋」である。

その終着点として、姉との撮影が「けじめ」となる。

 

まだまだ、いろいろ思い出しては、いろいろ想いがめぐりそうな、

まさに「公園」みたいな映画。

 

固有と普遍がせめぎあうかのような場所、公園。

ユニークでありながら、そこにはさまざまなイメージが内包されて映じられる世界。

それは、現在の中に過去が息づき、未来が顔をのぞかせる、想像力の作用した世界。

誰にも似ていないけど、誰かに似ている。こんな気持ち初めてだけど、なぜか懐かしい。

それは、自分のなかにたくさんの外部(時間も空間も、人も)が入り込んでくれているから。

全然知らない人たちが、思い思いに時間を過ごす場所、公園。

そうした場所の「はたらき」があってこその公園。

公園に足を踏み入れるとき、

それはそこにいる人たちとの時空の共有が、

図られているのかもしれない。

  

  


ツーリスト(2010/フローリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク)

2011-03-07 23:56:43 | 映画 タ行

 

監督、名前長すぎっ!コピペ対応必至。

監督、プロフィール凄すぎっ!家柄、学歴、そして身長(205cm!!!)。

 

まず、この映画観て第一に感じたことは、

「ツーリスト」って日本語化してんの?(そんなことかい・・・)

いや、だってさぁ、字幕も「ツーリスト」ってまんまなんだよ。

だから一瞬、「フランク(ジョニデ)という人物は、数学教師で、

二年前に妻を亡くしたツーリストです」って字幕出てて、

(しかも、その後に列車から降りる他の乗客の荷物とか持ってあげたりしてたから)

「そっかぁ、妻の死から立ち直るために、教師業を休職して日常から離れるべく

旅行業に従事したりしてんだなぁ」とか一瞬思っちまったぢゃねぇーか!

って、それは単純に俺の無学なせいかもしれんが。

英語で「tourist」憶えるまえに、既にインプットされた「ツーリスト」は、

修学旅行等でお世話になった「近畿日本ツーリスト」のそれであり、

[ツーリスト=旅行者]というより、[ツーリスト=旅行社]ってイメージなんですよ。どうしても。

だから、字幕で「ツーリスト」って表示されるたびに、意識的な脳内変換を要してしまう始末。

ってか、何で字幕によくある「観光客(に“ツーリスト”というフリガナ)」

って表記にしなかったんだろう。やっぱり戸田御大には逆らえない?

それなら仕方がないかもだ(笑)

 

本国での酷評ぶりや微コケぶりからして、

昨年の『ナイト&デイ』と印象が重なってしまいがちの本作。

他にも、大物二大スター共演とか、予告編ではMUSEが流れます!とか、色々ダブる。

『ナイト&デイ』は事前の酷評情報もあってか、なかなかどうして興奮しっぱなしだったけど、

本作は心拍数上がるほどの興奮はないものの、豪華版土曜ワイド劇場ノリで

最後まで一気に観ることはできました。

 

宣伝で「驚愕のラスト!」とか「あなたはこの罠を見破れるか!?」とか

誇大文句をのせてないのは評価できるし、本作はサスペンスではなくあくまでラブストーリー。

そうやって観ると、いろいろと楽しめる点はあるんだけど、如何せん二人とも恋物語における

ときめき成分があまり配合されていないのが残念。それはやはりサスペンスフルなつくりを

製作陣に求められた監督の「おとしどころ」が招いた結果なのだろうか。

 

でも、あんだけ化粧も演出もケバいのに、アンジーがとにかく「無駄に」綺麗。

アクションでも、ヒューマンドラマでも、とにかく「エロく」撮られることが多いアンジーが、

今回は随分と麗しく多少高貴な感じも漂い、そこにこの監督との一番の化学反応を感じた。

やたらと後姿が多いのも、彼女の新たな艶やかさを妙に引き出している気がする。

それに、この映画における「顔」は終始重要な「問題」なわけだしね。

 

そして、列車で二人が会話するシーンは、

その背後にちらつく「虚実」や「真偽」のせめぎ合いが、

『ブロンド少女は過激に美しく』や『トスカーナの贋作』を想起させ興味深い。

特に、後者と比較しながら観たりする面白さが、或る意味贅沢。

『トスカーナの贋作』(傑作!)の二人の出口なき迷宮さと、

本作の出口知りつつ迷ってあげる享楽ぶりは、

男女関係における醍醐味の光と影。

表裏一体。どちらもイタリアだ・・・。

 

脇のキャストもなかなか興味深くて、

個人的には好きなんだけど、なかなか仕事に恵まれてない気のするポール・ベタニーが

またまた空気寸前な存在感に成り下がってしまっていたりしたのは残念なものの、

ティモシー・ダルトン(たった2作だけの4代目ジェームズ・ボンド!)が

ラストに絶妙な無駄に満悦どや顔炸裂の名(迷?)演!

主演二人に金かかり過ぎた故の人選かもしれんが、

なかなか適材適所(その他も)な気がした。

 

しかし!

二人のギャラに金が流れすぎた為か、せっかくのロケ撮影にもかかわらず、

出来上がった画は随所にショボさが漂う場面が少なくない。

おそらく、セットでの撮影や合成(?)なんかも多そう。

「これ、チネチッタで撮ってるっぽいなぁ」なんて冗談半分で思っていたら、

エンドロールでちゃんと「チネチッタ」出てたし・・・。

アート系とかイタリア国産シネマとかだと、あの独特な雰囲気は本当に「映える」んだけど、

ハリウッド娯楽ムービーでは、やっぱり「ギャップ」としてしか映らなくて、ちょっと残念だった。

 

前半は執拗なまでに「音楽で盛り上げ」方式がとられていたんだけど

(その分、後半は控えめだった・・・が、それも失速してしまった要因である気もする)、

そういうのを嫌う人もいるが、私は大いに結構!派であり、

しかもジェームス・ニュートン・ハワードの職人芸であれば尚更!

8度もオスカーにノミネートされながら未だ無冠なのも納得なくらい、

作品運があまり無いのがもったいない。

トニー・ギルロイとの仕事あたりで代表作ができると好いなぁ。

 

本作の予告篇は好き嫌いあろうが、俺は実は結構好き。

しかし、それは編集やコピーなんかに対するものというよりは、

ひたすらMUSEの「MAP OF THE PROBLEMATIQUE」に対するものかもしれぬが。

で、『ナイト&デイ』でもガンガン鳴ってたMUSEの「UPRISING」は本編では全く流れず、

(まぁ、今回も予告篇オンリーの起用なんだろうなぁ)と思っていたら、

なんとエンドロールでMUSEの「STARLIGHT」が流れてくるじゃないですか!!

それはそれで嬉しかったものの、やっぱり「MAP~」のイメージこびりつき過ぎちゃってて。

予告篇は基本的にあまりちゃんと観ない(画面を注視しないようにする)ので、

画的な「こびりつき」は避けられるんだけど、音はそういう訳にはいかない。

だからこそ、本編と関係ない音楽の使用はあまり歓迎しないんだけど、

「UPRISING」と「MAP~」は、巧い具合にハマってたから好いんだけど・・・

やっぱ本編でも聴けるのをどうしても期待しちゃうんだよね(笑)

他に、最近の本編未使用楽曲の予告篇起用として好きだったのは、

『ソーシャル・ネットワーク』の「CREEP(RADIOHEAD)」少女合唱団ヴァージョンと

『かいじゅうたちのいるところ』の「Wake Up」(Arcade Fire)かな。

 

それにしても、やっぱり監督の名前長いよなぁ。(しつこい)

エンドロールで出てくる

 「A FLORIAN HENCKEL VON DONNERSMARCK'S FILM」

のシネスコ映えぶりはタダモノではない。