私が本作を初めて観たのは、一昨年(2010年)のラテンビート映画祭。
(その際の上映に関する問題については後述するとして、)
作品が放つ光彩陸離たるや、筆舌尽くし難き美の迷宮。
その際は期せずして2回観る機会を得たものの、
最低最悪な「上映」の極悪後味が払拭できず、
輸入盤(ブルーレイ)を早速入手していたが、
全篇を通してはまだ観ていなかった。
そうこうしているうちに日本版DVD発売の報。
そして、先日からシネマート六本木にて期間限定で上映されている。
デジタル上映でもDCPなら文句なし(撮影もデジタルだし)だったが、
ブルーレイとのことで観賞を躊躇っていたものの、再見した『TETRO』は
当然ながらやっぱりやっぱり極上で、『テトロ 過去を殺した男』も観に行くべきか。
[追記]
劇場に問い合わせたら「ブルーレイ上映」との回答だったのだが、
HDCAMでの上映との情報も見かけた。是非とも自分の眼で確認したくなってきた。
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夢はカラーかモノクロか。
たまに俎上に載ったりする奇問。
本作における答えは一見、カラー。
しかし、「過去」でもあり「物語」でもあるそれは、
《現存》でないというだけで虚構とは言い切れぬ「現実」がある。
モノクロのぬくもりに浸っている最中、不意に叩きつけられるように挿入される、
カラーパートの「どぎつさ」は、人間の内面にひろがる《記憶》に潜む破壊の衝動。
そして、そんな呪縛こそが現実の自己をつきうごかし続けるという悲劇と喜劇。
それはこの世界が「反応」という「反射」と「呼応」による響きで形成されていて、
他者が自己とすれ違うと同様に、互いに入り込んでゆく現実。
合同ではない相似。
同期はしないが継承されゆくシンメトリー。
物語冒頭でテトロ(ヴィンセント・ギャロ)の左脚を被ったギプスは、
中盤でベニー(オールデン・エーレンライク)の右脚へと引き継がれてゆくだろう。
ファミリーとは、絆とは、そうした負の連鎖にこそ容赦ない刻印をせまるもの。
しかし、それは単なる移植とは異なった投影として焼きつけられてゆく。
やがてギプスは外れたら、自己を支える杖との訣別迫るなら、
治癒と独歩の伴侶はまたもやファミリーか。
そこに希望の抱擁があったとすれば、
二人にもはや、《光》は要らない。
◆本作は、デジタルで撮影されている為、フィルム撮影のモノクロと質感が異なる。
フィルムによる闇の表現(深奥をみせる)が困難(不可能)な分、
コントラストの饗宴として光と影がより「区別」された画として浮かび上がる。
デジタルのもつ「近さ(日常性)」とモノクロのもつ「遠さ(距離)」が融和し、
《現在》パートであるはずのモノクロ映像にも常に夢心地がただよい続けている。
「反転」した極彩色なカラー映像は虚飾に満ちた現実が支配する内的リアリティ。
本作における《光》(=名声[famous])の支配と拒絶の物語は、
モノクロとカラーの反復という運動によっても補強されている。
◆しかし、本作が「迷宮」的魅力に満ちる所以は、
《光》の落とし処を安易に求めも導きもしないところにある。
「光」を放っては浴びる父と反目するテトロは、「光」を当てる仕事に就く。
光源の背後にまわることにより「光」に背を向けるつもりだったのが、
誰よりも「光」そのものを凝視せねばならぬというパラドクス。
「光」そのものであるかのようなベニーは「血のつながった」テトロを
懸命に照らそうとする。時に「光」への憧憬に目が暗みそうになりながら。
そこに「かつてのテトロ」の姿が浮かび上がろうとするのは運命だ。
そのとき二人の関係は、修復ではない超克を迎えるだろう。
「光」それ自体は臨む(望む)ためのものではなく、
相手をとらえるためにあるものだと気づくから。
◆冒頭も「光」で始まる。電球のガラスを割らんとばかり暴れまわる蛾。
しかし、「光」そのものに触れることはできない。それを虚ろに眺めるテトロ。
タイトル「TETRO」の文字の下に映し出される「Starring Vincent Gallo」の文字。
これは「Tetrocini」というファミリーの物語ではなく、「Tetro」という個人の物語。
「移民ファミリーを扱った自伝的作品」といった情報を伝えたメディアの取材に
コッポラは「あくまで個人的な作品だ」と語っていた。そう、《個人》の話。
『ゴッドファーザー』は《ファミリー》の話でもあったが、家族の絆というよりも、
《ファミリー》という構造が《個人》を推し進めていく強大なシステムを炙り出し、
それはやがて背後にある《社会》の管理や支配にまで迫っていた。
だから、そこにはいつも沈黙せざるを得ない《個人》の犠牲が語られた。
しかし、本作では新たな世紀の新たな時代を語ろうとする意思の作用か、
《社会》の力はあくまで遠景として、《個人》の葛藤にこそ寄り添おうとする。
そして、いよいよもって逆襲のときが訪れる。
映画史に燦然と輝く金字塔たる壮大な世界の物語である自作に、
異郷で小ぢんまりと撮った個人的世界の物語で拮抗しようかという究極の回答。
本作で描かれる「父と子」の物語の出自はコッポラ・ファミリーにあるだろうが、
そうした合わせ鏡で完結する物語などでは決してないと私は思う。
むしろ、社会という怪物がもたらす名声という「大量破壊兵器」を手にした男の、
個人的矜持(芸術)と社会的要請(功利)の悶着に決闘を求めた挑戦として見たい。
(ただ、テトロチーニ・ファミリーが移民してきた年は、
『ゴッドファーザー』でヴィト・コルレオーネがNYに渡った1901年と符号。)
◆そうした観点でとらえると、記号的な固有名詞(私がわかる範囲だが)も興味深い。
例えば、テトロの父は世界的な指揮者だったが、
彼が師事したのは世界的指揮者「エーリヒ・クライバー」という設定。
カルロス(Carlos)・クライバーの父親だ。この父と子の物語も壮絶だっただろう。
しかも、エーリヒに師事したというテトロの父の名は、「Calro」。偶然とは思えぬ。
(ちなみに、クライバー家もアルゼンチンに移住してきた過去がある。)
また、作中で登場する(昨年のリマスター版上映も記憶に新しい)『赤い靴』は、
まさしく芸術と社会あるいは個人の営みの間に根源的な問いを迫る名作ではないか。
おまけに『赤い靴』監督コンビのもう一つの傑作『ホフマン物語』は、
オッフェンバックによる未完のオペラが原作。そう、「未完」の物語。
テトロがベニーに差し入れする本はロベルト・ボラーニョだったりするのだが、
彼の生き様も彼の作品に描かれる人物たちも、名声との確執を思わせる。
他にも様々な固有名詞が彩り、私では到底手におえぬ記号がちりばめられている。
◆名声をめぐる彷徨と逡巡という意味では、
テトロからベニーに引き継がれる「物語」のタイトルが象徴的だ。
「Wander Rust」と題された物語。
船の修理が完了し、彼自身の《旅》に戻ろうとしたときにテトロがかけた言葉、
“ The Wanderlust(旅行熱・放浪願望/ダニエル・スティールの作品名にも).
You'll enjoy. ” からひらめいた。
それを “ Wander Lust ” として反芻、「好いタイトルだな」と呟いたベニー。
「さまよえる渇望」とでも訳せる物語のタイトルは、まさしく権威を巡る彷徨だ。
ただ、権威という社会的拘束力が個人の絆を分かつのと反転するかの如く、
権威から遠く離れた場所では、個人が心根でつながることを許そうとする。
ラスト手前での《拒絶》は、「さまよえる渇望」の逡巡に一つ決着をつけたのだろう。
その相手が「Alone(孤立・独立)」であり、また女性でもあるというのも含蓄か。
当初はハビエル・バルデムが演じる予定だったらしいAloneだが、
カルメン・マウラが演じることでそこには明らかに《母性》という象徴が加わり、
テトロを縛る過去の片割れがそこに投影されることになったように思われる。
勿論、名声の形成を促すジャーナリズムの象徴であることは言うまでも無い。
(本来は独立中立たる批評家だが、実際は・・・な現実踏まえたネーミングか?)
◆そうした大きな話だけではなく、細部に人間の機微をユーモラスかつ皮肉に描く。
例えば、ベニーが入院するきっかけ(散歩してた犬が離れていく)の余所見は、
売店のヌード写真にみとれてたりしたからだし、入院先に駆けつけたテトロが
廊下にいる入院患者の老人が手に持っている花を譲ってもらおうと紙幣を出すと
更なる金を要求されるといった寸劇も。これも「LUST」の諸相のひとつ。
◆光の存在感が終始際立つ本作は、そうした光の作用にも敏感だ。
特に前半におけるテトロの部屋にベニーが居候している時間において、
彼らの「実存」同士が直接対峙する画を避けるかのように、
対話の相手は常に壁に映った影だったり鏡像だったりしており、
虚像との対話とでも言いたげな不自然な(しかし、巧みで美しい)世界が展開。
それが、テトロの物語を鏡を介して語るとき、ベニーの物語と縒り合わされる。
まさしく自己(テトロ)が他者(ベニー)という鏡を用いて、自己を承認する物語。
誰の物語か?終盤で繰り広げられる二人の論争。
「my story(=history)」に他者からの光があてられたとき、
物語を共有してゆけるファミリーとなる。単なる、或る、家族として。
(It's gonna be OK. We're a family.)
◆ラストでスクリーンいっぱいに広がり流動する光の玉。
冒頭でも二つの玉がゆっくり離れてゆく様が映し出されている。
その意を確認し、乗り越えるための本編であったかのように、
最後のそれは離合集散を豊かに躍ってゆく。大きさも濃淡もそれぞれ違う。
重なればひとつの玉のようでいて、どこか完全に融合もできない光たち。
コッポラは、家族や絆といった共同体信奉へ単純回帰しない現代性を忍ばせる。
《 Wander Lust 》 が辿り付いた 《 Sabbatical 》 にはいつも、
ロストもラストも無縁なワンダーが待ち構えていることを期待して。
◇メイン三人はいずれも素晴らしいが、
新人同然(映画は初出演)だったベニー役のアルデン・エーレンライクの絶品さ、
格別。
コッポラがインタビューで「実年齢重視のキャスティング」にこだわると語り、
確かに「だからこそ」の危うさの陰にひそむ清廉さが洗練へと変貌するプロセスを
堪能するとびきりの《時間》を観客は体感できる。
本作を引退作にして欲しいくらい、傑作せしめる「貌」なのだ。
とはいえ、やはり本作の好評を受けてか(興行的には不発)、
次々と出演作も決まったようで、コッポラの最新作『Twixt』にも出演。
パク・チャヌクのハリウッドデビューとなる『Stoker』にも出演予定。
◇撮影を担当したミハイ・マライメア・Jr.の貢献度は誰もが認めるところだろうが、
彼とて『コッポラの胡蝶の夢』での大抜擢に続いての登板だったようで、
低予算(制作費1500万ドル)でインディペンデントな映画制作を選択(?)する
コッポラはあくまでその「名」に依らぬのみならず、そうしたスタイルの意義や価値を
最大限に発揮するだけの才覚と挑戦を続ける野心に溢れている。
一昨年の映画祭で私が観た4本の傑作はいずれも、
70歳を超える巨匠たちの Born To Be Wild フルスロットルな暴走挑発。
『勝利を』のマルコ・ベロッキオはコッポラと同い年(現在72歳)だし、
『トスカーナの贋作』のアッバス・キアロスタミはその一歳下。
『風にそよぐ草』のアラン・レネなど、今年の6月には90歳になるというのだ。
自身の飽くなき探求と無垢なる好奇心を具現化してみせる手腕の確かさのみならず、
先人への畏敬や後発への配慮と育成。
高みに達するというのは、それだけ広い世界がみえるということなんだろう。
そして、広い世界が見えるからこそ、内なる世界へ目を向けようとも、
そこに閉塞感が充満することなく、むしろ無限が現出してくるのだろう。
強い個性とは、強い個人に宿るものなのだと、彼らが描く個人が教えてくれる。
◇その期待の撮影監督ミハイ・マライメア・Jr.だが、
なんとポール・トーマス・アンダーソンの次回作に参加することになったらしい。
どうやら撮影の時期が遅れてしまった影響で、
PTAとずっと組んできたロバート・エルスウィットが別の仕事とバッティング。
(おそらくボーン・シリーズのスピンオフ作。
ロバートはジェレミー・レナー専属カメラマンみたい(笑)
『ザ・タウン』、『ミッション・インポッシブル~』、ボーン・スピンオフと3連続)
そこでミハイ・マライメア・Jr.に白羽の矢がたったというわけ。
しかも、「65mmで撮影するという噂」だって!?
だとしたら楽しみだけど、フィルム撮影をどれだけ経験してるかがちょっと心配。
でも本作で、デジタル撮影による無機質なエッヂにやわらかな光と影のなかで
生命力みなぎらせた手腕は、フィルムの新たな可能性すら発掘しそうだな。
◇中堅からベテラン勢の充実仕事も本当いい。
ヴィンセント・ギャロは、本作と『エッセンシャル・キリング』が同年公開という、
(一昨年から)昨年のライアン・ゴズリングばりな名作三昧絶頂期。乗脂必至。
マリベル・ベルドゥの女性と母性を兼ね備えたスマートで包容力ある魅力。
凛としながら、しなやかたおやか。
『天国の口、終りの楽園。』(こちらも大好き)が久しぶりに観たくなってきた。
◇音響と編集を担当するのは、勿論、あのウォルター・マーチ。
ブルーレイでも「音のよさ」は段違い。
俺なんかの耳でも「うわぁ~」って素直に思えるほどの卓越仕事。
音楽の方だって、オスバルド・ゴリホフの絶品仕事。
アルゼンチン(のラプラタ)で育ち、クラシック畑でもキャリアを積んだゴリホフ。
権威《テトロの父/クラシック》と生活《アルゼンチン/バンドネオン》を
自由に往来可能な彼は、本作に必要不可欠な最重要ピースだったかも。
サントラも『~胡蝶の夢』同様グラモフォンから発売されるお墨付十分な名盤だ。
(前述のカルロス・クライバーのBOXもグラモフォンから発売されている。
クラシックに詳しくない私でも、彼が指揮する演奏の華麗さには酔いしれる。
完全にミーハーチョイスだが、ベートーベンの第五&第七の1枚は、
無人島に携帯していきたいくらい贅を尽くした1枚で、
一時期は風呂場でも渋谷でも聴いていた・・・
テトロ父の葬儀でかかるブラームスはクライバー音源ないようで、
あれば使ったりしてたかなぁ~と勝手に妄想してみたり。)
このように愛しくてたまらない作品がいよいよ劇場公開されるというのに、
劇場に駆けつけない理由の一つは、
ラテンビート映画祭での上映素材が最悪だったから。
例えるなら、50インチのテレビでDVD再生する(よりも更に粗い)画質。
あれは本当にDVDで上映してるんじゃないかって程の最低画質だった。
おそらくDVCAMか何かで上映してたんだと思うけど、極上映像美を完全冒涜。
作品が素晴らしければ素晴らしいほど、その怒りというか虚しさは増幅するばかり。
アンケートにも(誠意をみせつつ、なるだけ語気を強めて)しっかり批判した。
だって、ああいう酷い状態で作品を公開するって、作り手に対してこそ無礼千万。
たとえば、ゴッホの絵を汚れまくったケースに入れて見せてたり、
モーツァルトの曲をチューニングにもろくにしない楽器で演奏して聴かせる、
そんな事態と変わらない。
だから、観る方としても「ただ画質が酷い」だけではない苦痛が伴う。
しかも、そういう「公開の事実」が残ることで、まともな公開の機会は奪われる。
デジタル化で手軽に開催可能となった映画祭の弊害。
昨年のラテンビートでは、あのような画質(ちなみに『テトロ』だけじゃなかったし)は
さすがになくなって、最低でもブルーレイ(推定)といった印象だった。
今回のシネマート六本木での公開はブルーレイでの上映になるらしい。
劇場もそれほど大きくないし(それでも最大箱をあてがってくれてるのは感謝)、
ブルーレイでも気にならない画質かもしれないなぁ・・・という希望的観測を胸に、
六本木へ馳せ参じるかどうか、いまだに悩み中。
あぁ、ちゃんとしたデジタル素材でのデジタル上映だったら何度も足運んだのに。
(SKIPシティ国際映画祭に予算と権威がもうちょっとあれば、かけられてたかな?)
送り手(制作)のデジタル化が進んでも、受け皿(劇場)のデジタル化がハンパなまま
フォーマットも安定しないとなると、疲弊するのは観客(というか映画ファン)ばかり。
せめて、素材の明記くらいはそろそろ誠意みせてくれても好いと思うのですが。
と、極上作品と折角戯れまくったあとに、愚痴ばっか書いちゃって、
すみません。とりあえず、本作が今年度ナンバーワン級なのは確実なので、
未見のかたはこの機会に是非!(DVDタイトルは『テトロ 過去を殺した男』)
(劇場観賞は自分で確かめてからでは保証できませんが、
DVDの映像特典は[USA盤やUK盤と同じものであれば]興味深い内容。
レンタルの方に収録されてるかはわからないけど。
それより、海外盤にはコメンタリーが収録されていたのだが、
そちらは国内盤には収録されないのだろうか。字幕制作のコスト削減か?
それこそ国内盤に最も期待していた点なのだが・・・)
とりあえず、前作の『コッポラの胡蝶の夢』が厚待遇すぎる環境だった
(都内随一の劇場、今はなきQ-AXシネマ[当時はもうシアターTSUTAYAだったかも]
の地下劇場で観られたのだ!)にもかかわらず、本当ひっそり上映終えてたし、
今作も話題的にも収入的にもパッとしないと、コッポラのインディペンデント映画は
更なる不遇な扱いを受けるかもしれないし(最新作は最低シネパトあたりが救うかな)
折角(笑)本国等でもそれほど熱い歓迎受けていなさそうな本作だからこそ、
日本の映画ファンが熱狂しちゃいましょう!
[追記]
本作のエンドロールの短さが話題になっているのを見かけたので。
確かに、あのコンパクトなエンドロールは好いですよね。
ただ、あれも実は「配慮」というか「こだわり」のようです。
というのも、輸入盤ブルーレイには映像特典としてエンドロールが入ってます。
そのエンドロールだと約3分半あって、完全に暗転して文字が上がっていくような
所謂「いつもの」タイプのエンドロールに変わってから終わります。
そのタイプで上映されたことがあるのかどうか迄はわかりませんが。
[追記]
爆音映画祭にて観賞(2012/07/06)
評判通りの新生っぷりに胸高鳴った。
あのウォルター・マーチも絡んでる音響設計はやっぱり完璧で、
爆音上映でも違和感なく全ての音が届く。
シャープな音も印象的だが、
重低音の心音が劇場を揺らすときの没入感は比類なき抱擁。
耳と胸が結ばれた。
そして、今更気づくこともいくつかあって、
そのうちの一つとしては、
テトロ(ヴィンセント・ギャロ)が文字を反転させて書いていた未完原稿で
自身がモデルとなった人物を「X(エックス)」と書いているのだが、
それはただ単に変数性的要素に拠るのみならず、
「反転しても同じ」文字だからなのでは?などと考えると、
反転と循環における中心としてのテトロのジレンマとその超克がより浮上した。
また、「父殺し」的テーマを前面に出しながら、欠落した母性をミランダが一手に引き受け、
悲劇として語られているはずの物語に、常に希望を宿していることも改めて痛感。
冒頭でベニーが「義姉」という響きに不思議な感覚を口にするのも、
伏線というより自然な現実なのかもしれない。