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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

東京プレイボーイクラブ(2011/奥田庸介)

2012-02-07 23:48:50 | 映画 タ行

 

とても乱暴な分け方をしてみる。

映画には小説的アプローチと漫画的アプローチがあるとする。

前者は、映像が具に内面(心情)を語らんとする映画だし、

後者は、映像における形象や運動といった外面性に内面が浮かび上がってくる。

モノローグ、口語表現が概念装置化したり文語的表現が混入する前者。

ダイアローグのリズムやテンポによって「世界」が出現する後者。

しかし、いずれの場合においても重要なのは《物語》なのではないかと私は思う。

確かなプロットや魅惑の展開を望む、というわけではない。

おおよそ筋らしきものの存在しないかにみえる映画にも存在しうる《物語》。

 

私が映画における《物語》に期待したい要素は二つ。

まずは、《時間》が在る/流れていること。

映画は時間と運命共同体であるというよりも、時間そのものともいえる。

従って、私たちの日常から切り取られたその時間が活きなければならない。

そのためには、成長するにしろ変化するにしろ展開するにしろ、

あるいは停滞するにしろ後退するにしろ、必然的な《時間》を期待したい。

 

それから、「物のあはれ」のようなものも不可欠に思う。

つまり、体感的な興奮とは別の精神的な躍動や刺激や葛藤だ。

「どきどき」や「わくわく」ばかりじゃなく、「しみじみ」や「じわじわ」だっていい。

当然、「そわそわ」や「はらはら」もあるだろうし、「いらいら」や「むらむら」だってある。

しかし、それは視覚的刺激に起因する盛り上がりとは別ルートでもたらされるべきで、

作品との抱擁であり衝突であり、ひたすらな対峙かもしれない。

 

私にとって映画を観るとは、

共に同じ《時間》を共有し、《闇》(心の奥)に分け入ることだ。

そして、劇場という空間でその行為がなされるとき、第三者(他の観客)も加わり、

《時間》 も 《闇》 も増幅してゆくだろう。しかし、まずは君(映画)と僕から始めなきゃ。

 

本作においては、そのような私の求める映画体験の要素が悉く抜け落ちていた。

そこに《時間》はなく、あるのは選曲によってお膳立てされた楽曲の長さであり、

それを埋めるための画の連なり。シークエンスの継起はなく、計算による順列。

優れたショートコントはそれ自体が短篇として完結した《物語》をもっている。

それを数珠つなぎしただけじゃ、糸が切れればバラけてしまう断絶潜在ファイナルカット。

映画の描写および編集がもたらす《省略》や《結合》は、「ないもの」を見せるため。

そして、徹頭徹尾「具体的」である映画の最大の弱点が「見える」ことである以上、

「見えないもの」を見せなければ、その弱みが強みに転化することもない。

 

本作の見えている部分に関しては、

確かに新人(しかも24歳という若さ)とは思えぬ手堅い巧さを感じさせてくれていた。

昨今の日本映画にありがちな独り善がり(あるいは楽屋落ち的)な興醒めもなく、

むしろ映画から学んだスキルがふんだんに盛り込まれていることには会心。

しかし、そこから「奥」に入っていけない。「奥」へと牽引するものがない。

感情を移入したり同調させずとも、殴りかかりたくなるようなものすらない。

未熟ならば、そうした不足が行間となって前のめりにさせもするだろうが、

如才なき気鋭の新星による統率は隈なく行き届き、十二分な「完成」度。

ただ、それはあくまで見えてる部分のお話。

「漫画」としての完璧さは確かにある。

 

ところが、実際の漫画の場合、抽象化された画と音声化されない台詞のために、

読者が補完することによって生まれる《行間》が確実に存在し、

《物語》に奥行きが生まれる。

(勿論、何ら企図なくそれが可能になる訳ではないが)

映画の場合は、見えるものも聞こえるものも既に具体そのもので、

翻案不要で改変しがたい現実が呈示され続けてる。

だからこそ、積極的に「見せない」ことが求められ、「見えない」ことが刺激を与える。

そこに(描いていないのに)描かれている《内面》が画面の背後につきまとう。

しかし、本作では登場人物の誰一人として形や音や動きの向こう側が見えてこない。

肝心なところは唐突に台詞で語らせてしまったりするくせにだ。

 

ダメな人間の可笑しみとは、連綿と続くダメさや肯定に落ち着くダメさには生まれ得ない。

まして、開き直ったダメさなどひたすら痛々しい。

監督が語るように、それも或る意味「正直」かもしれない。

しかし、人間の或る側面のみをカリカチュアライズしていけば、

二者択一なフローチャートが続くだけ。

《物語》をもたず記号的に布置された人物たちの暴走は、

ドラマチックではあれどドラマではない。

 

監督は、「生きるとは理屈ではないと思う」と語っている。

確かに、「生きている」という事実は必ずしも理屈に拠らず、理屈で語り尽くせない。

しかし、それはあらゆる生命体にあてはまる現象に過ぎず、

そうした事実に《言い訳》を求めては無力にうちひしがれる営みこそが、

《真実》に迫ろうとする(決して到達はせずとも/しても瞬く間に去ろうとも)自負だ。

 

本作に出てくる人物たちの葛藤は、

いずれも「悩んでるフリ」もしくは「悩んでるごっこ」といった印象を受けてしまう。

苦しみや哀しみまでもがファッション化する時代なのだろうか。

漫画にだって真に迫る苦悩や葛藤が描かれる。小説とは異なる手法によって。

徹底的な表層化に走る作家ほど、感情に還ることを忘れない。

カメラの動きや構図そのもののに意味を担わせる訳ではない。

すべてはエモーションから始まっているからなんだろう。

本作の画モーションはなかなかだ。言葉を持たぬ画だけれど。

 

 

◆冒頭の寸劇は面白く観た。

   ストレスフルで寛容を欠いた偏狭な現代人を風刺するかのような一幕で、

   それをかわして受容する矛盾が現状の持続しか意味しない滑稽を爽快に・・・

   と思った矢先に、一撃。放置。そっか、「面白い」ための道具なんだね、感情は。

 

◆いわゆる「サンプリング」的な要素が散見できる本作。

   しかし、サンプリングというよりもむしろ、ザッピングといった印象に終始した後半。

   ただ、それが退屈回避な時間の過ごし方として機能はしている。

   そうした感覚が新世代ってやつなのだろうか。

 

◆電車に対する偏愛には賛同する(笑)

   電車待ちして撮ったであろう数々のシーンは観ていて楽しい。

   そういう「こだわり」は新人ながら天晴と素直に思う。

   自作を俯瞰してとらえる観点もあるのではないかと思う。

   (見事に《娯楽》として成立している種々のシークエンスが物語る。)

   ただし、それが故に筋が一本通っていない気がしないでもない。

   その筋とは「映像」だとか「笑い」だとかに生まれるものではなく、

   やっぱり「語りたいこと」に自ずと宿るものだと思う。

 

◇ユーロスペースで今まで経験したことないような爆音上映。

   これは監督からの注文だったりするのだろうか。ユーロだから些か違和感。

   しかも、私の観た回では半数強が中高年。彼らは大丈夫だったのだろうか?(笑)

   まぁ、要所要所で会話もかましてくださりながら、楽しんでいらっしゃったようだし・・・

   ちなみに、私の近くに座った若者(20代前半と思しき男子)は、

   上映中クスクスし通しだったので(別にウザイ感じではない)、

   その横でほとんどクスリともできない自分が申し訳なかったりもした。

   というわけで、人によってはハマりまくる映画なんだろうとも思う。

   確かに、ラストのエレカシかかるタイミングや楽曲パワーはハンパない・・・んだろう。

   ただ、余りにも精緻なエピゴーネンの連続の後では、既視感が軽く上回る。

   でも、予告編はなかなか秀逸だったと思う。

   ラストの光石研による「Hey!! 東京プレイボーイクラブッ!」は本当耳に残る。

   確かな技量(撮ったり演出したりする力)はありそうだし、

   次は自作の脚本にこだわらずにいった方が好いのでは。

   そうすれば、凡「庸」な話にも、「奥」が存在するかもよ。

 

・・・これ見てたら、映画観てなかったな、多分。


トーキョードリフター(2011/松江哲明)

2012-01-21 23:48:44 | 映画 タ行

 

運命を(一方的に)感じる映画監督は少なくないが、

縁を感じる映画監督はめったにいない。

松江哲明は、年代や生活圏といった共通項があるからかもしれないが、

積極的に追いかけていなくとも、節目節目で遭遇してしまうような縁がある。

彼のフィルモのうち僅かな作品しか私は観ていないのにだ。

 

松江監督の一作目『あんにょんキムチ』を私は学生時代に観た。

確か、TAMA CINEMA FORUMで別の作品を観るために買った一日券で

「ついでに」観ただけだった。松江監督のトークショーもついていた気がする。

作品のテーマもスタイルも、当時の自分には余り興味のもてるものではなかった・・・

はずだったのが、実際観てみると何とも言えない共時性的感覚をおぼえた。

共感とか感動とかいった類のものとは別種の、浸透の先にある沈潜。

 

2年前の映画初めは『ライブテープ』だった。

その1年前の元日に吉祥寺で撮影された作品を、年の初めに吉祥寺で観る。

そうした「儀式」的興が湧き、日常が非日常として浮かび上がる好奇心を満たしに。

見慣れた風景を銀幕で堪能するだけで興奮する序盤を過ぎると、やや退屈。

途中から気持ちが見事に乖離し始める。ところが、なぜか一周して還って来てしまう。

結局、ラストの井の頭公園では、確かに自分がそこに「居た」。

 

そんな体験もあってか、本作も今年の映画初めにしたかった。

いや、本当は2011年の内に観ておきたい、観ておくべきと思ってた。

そのいずれも叶わなくなってしまった為、「そのうち」的ポストに追いやられ始めてた。

別の映画を観る予定だったのに、開始時刻を間違えるというヘマをして、

急遽タイミングばっちりな本作を観ることにして、いざユーロ。

すると、たまたま監督のトークショー(対談)がある日だったりし、

「混んだりするのかなぁ・・・まったり観たかったなぁ」などという懸念とは裏腹に、

丁度好い塩梅の入りだった。両サイドブロックが積極的に座席選択されるという、

いつものユーロとはやや異なる雰囲気が、ちょっと変わった映画を観るに相応しく、

ひとり観賞前にプチウキウキ。張り詰めはしないけど、落ち着きながら、やや緊張。

日常をひきずりながら観たい気分と、非日常として対峙してみたい自分。

いずれにしても座席に自分を埋め込んで、さすらう男を見守るつもり。

しかし、同行を拒むかのような観察に徹しながら観てしまう自分に悲しみながら、

『ライブテープ』観賞時の感覚変遷など忘却した私の心がつぶやき続ける、

「入っていけない」。しかし、そんな自分との間に在ったはずの《壁》は消え、

在った感覚すら忘れる《とき》がくる。朝が来る。

夜の終わりと旅の終わりに、確かな安堵を覚える一方、

微かな寂しさがしっとり広がり、じわじわ支配。

その寂しさはいつまでも、味わい続けていたいもの。

終わると始まる物語。

 

 

******************************

 

松江作品は「セルフドキュメンタリー」と自他共に称される。

他者を意識した自分語りは、よほどの強烈かつ美麗な自我なら別として、

たいていは胡散臭さやフィクション以上に虚飾に充ちる。

しかし、自覚を自覚的に語ろうとする精神の表出は、迫る力が別次元。

「語る」とは字が表すように、「吾(われ)」の「言」葉によるべきものだ。

自らの感性から離れ、悟性も働かず、偽りの己をいくら呈出しようとも、

そこに「語り」はうまれない。あるのは「騙り」ばかりなり。

松江監督本人の印象通り、どこまでも正直な映画に思う。

そして、その正直を貫くことは、常にリスクを伴う受難覚悟の茨の道だ。

しかし、旅が美しいのは、旅の終わりが愛しさにあふれた寂しさをもたらすのは、

旅程で自ら選んだ苦難の数によって決まるだろう。

正直を選ぶとは、苦難を覚悟することだ。

苦しみほど自覚を確かにするものもない。

そもそも、人間の一生をとりまくのは生老病死。そこに伴う喜怒哀楽。

四苦八苦を経てきたからこそ得られる感応がある。

他人の苦しみに共感し、自分の苦しみのように「考」える。

それは非常に立派で、そういう良識が社会を「明るく」するのだろう。

しかし、そこに本当に自らが嘗めた苦汁はあるのか。

「明るい」ままで明るさを求めることは可能だろうか。

内なる自己にまとわりついてくる闇に袖を通さずに、闇を脱することはない。

自分よりも真っ暗闇な他人の闇をまとっては、

その下にある自らの薄明残した闇に安堵する。

それを確認して、安心して、真っ暗を憐れむ。真っ暗に救いの手を差し伸べる。

そんな人などほとんどいないだろう。しかし、自らの闇を着こなせる人はもっと少ない。

 

本作に収められた《暗い東京》に対して、

「もっと暗いときもあった」とか「もっと暗いところもあった」といった声が

しばしば聞かれる。確かに、私もそう思いながら最初は観ていた。そういえば。

計画停電で真っ暗になった町を訪れたときの記憶もまだ鮮明だ。

しかし、そうした比較に何の意味があるのだろう。

映画は報道ではないし、本作はジャーナリズムに基づく映画でもない。

客観指標や相対化にばかり囚われた「見識」は、時に現実を序列化し選別する。

しかし、そうした次元とは軌を一にせず、さまよう主観は常に現実だ。

眼前の世界より、「もっと」な世界に真実を見出そうとする思考。嗜好でしかない志向。

大きな「真実」で世界をねじ伏せることなど、社会の御用メディアがやればいい。

卑小卑近で脆弱な自我が確信した真実。

たとえそれが逡巡で、流離うしかできずとも、

噛みしめられる、噛みしめるに値する世界があるならば、

それこそが自分の往くべき道を報せてくれる。

そうしたものが文学で、そうしたものが映画なのかもしれない。

そんな使命に誠実で、全うしようとする本作。

 

タイトルの意味とは反するかのような、

周到な事前準備と計画的な行程によって撮られた本作。

タイトルの「漂流」とは身体の動きというよりも、心の動きを指すのかも。

いや、実際の移動も結局は《漂流》だ。

準備や計画は地図上のラインであって、実際の移動は一回性の地面との接触。

刻まれては消えてゆく一瞬一瞬。

そして、それを人は「旅」と呼ぶ。何でも「旅」に喩えたがる私。

本作では、時間の流れがまさに、旅。

序盤まどろっこしく、中盤でやや停滞するも、

終わりを意識し始めると追い立てるように去ってしまう。

沈む夕陽の様相みたい。実際は朝陽を浴びる映画だが。

いつまでもこのまま旅していたい、惜別の情。

しかし、いつまでも変わらずに続いているなら、生まれてこないその感情。

続いてきたものが壊された、3月11日。ひたすら叫ばれる、復興。

ある辞書には、「いったん衰えたものが、再びもとの盛んな状態に返ること」

とある、復興。

確実性、合理性、整合性、安定性。

それが失われたら、取り戻すことが最善か。代替に走れば解決か。

流れるということは、変わるということは、失うということで、

だからこそうまれる寂しさは、喜びと悲しみで出来ている。

旅には、二度目もオルタナティブもありゃしない。

あるのは一回性の過去と今と未来だけ。

唯一確信もてる「それだけ」を、それだけ大事にしたい旅。

バスもガイドも消えたなら、自分の脚で歩きゃいい。

 

 


デビルズ・ダブル(2011/リー・タマホリ)

2012-01-16 23:58:38 | 映画 タ行

 

やばい・・・。

結構面白かった・・・とか言っちゃいそう。

これもタダ観(こういうこと)の威力ということか?

 

まぁ、気負いや期待のないなかで観る映画っていうのは

得てして単純に楽しめてしまって結果オーライな爽快感がつきもの。

深夜映画なんてその典型。そういうのに限ってソフト化されてなかったり。

でも、最近そういう出会い(ってか、放映自体)ほとんどないなぁ。

 

だから、本作なんかも(暇だなぁ~暇だなぁ~つまんねぇなぁ~)とか

グダグダしながらザッピングしてる夜中に観ると楽しめそうじゃない?

って何、感想書く前から周到な予防線はろうとしてんだよ>俺。

でも、そもそもそういうシチュエーション自体が消滅しつつある訳で、

自ずと気張った映画生活になるのも当然。

 

そもそもあまり観る気もなかったし、期待も全くしてなかったし、

えぇ~スカラ座でやっちゃうのかよっ!?って驚きと、

シャンテで観ようと思ってた映画観る前に時間が空いてたのとで、

フラッと入ったら、フワッて入っていけて、ポニョって楽しめた(意味不明)。

 

いやね、最初の数十分は本当に退屈というか、

どうしていいかわからないくらいの虚脱感にまみれてしまって、

こんなんだったらカフェで本でも読んでりゃよかったぁ・・・って後悔しきり。

それなのに、何がスイッチ入れたかしらんが、途中から楽しみ始めてしまい、

結局気がつきゃエンドロールという、お気楽観賞に興じてしまったよ。

 

どこが好かったかと訊かれてもちゃんと答える自信はないが、

ドミニク・クーパーは好かったよ。「アカデミー賞候補の声」とかいう

中学生ですら自宅で確認できる「事実無根」な薄ら寒い宣伝文句は白けるが、

確かに声や仕草のみならず、眼(及びその周辺)が全く違う空気を醸してて、

非常に「わかりやすい」味わいが漂っていた。舞台出身のようだからかな。

まぁ、その辺はかなり大味感が滲み過ぎてて物足りなくも思われそう。

 

あと、ありがちな自己肯定というか正当化のプロパガンダ的要素の影が薄く

(ベルギーやオランダが制作してるからなのだろか)、そこが結構新鮮だった。

確かに、イラク人たちが英語ばっか喋ってんのは序盤違和感だらけだったけど、

そもそも「コスプレ大会」っぽく見え始めてしまってからは、

その不自然が逆に自然に転化しちゃったのかも。

 

それに、ラティフ(影武者の方)がやたらと純粋正義漢だったりしてツマラナイから、

いつしか頭の中で内面性解読姿勢を解除しちゃったのも好かったのかな。

ラティフ自身の手記に基づいてるという情報は少し知ってはいたけど、

「さぁ、どこまで自分をヒーローとして描いてくれんのかなぁ?」って思ってたら、

馬に乗って美女と逃亡・・・。やりすぎ。おまけにラストは復讐スローモーション。

 

そもそも、このラティフっていう人物はどう捉えていいのかがわからない。

英雄なのか?確かに、イラクを敵視する側から見れば英雄ともいえる。

敵に歯向かったわけだから。でも、当然当時のイラクにとっては敵となったわけで。

ただ、(やむを得ぬ状況とはいえ)影武者つとめたってことは「折れた」わけだよな。

おまけに、家族を「捨てた」とも言えるわけだし。

「守る」ために自らを殺して生きてる人たちだって山ほどいるだろうし。

いや、だからって彼を責めるべきだとは思わないけど。

(司法取引がある国ではこういう人物すんなり肯定できそう、という勝手な憶測)

同じ人物でも「どこから観るか」で見え方は変わるわけだけど、

成功してるとは言い難いとはいえ、その辺りの配慮はあった気もする。

本作のサダムとか、今まで観た映画で最も威厳や知性が感じられたし

(そのためにウダイのやりきれなさも理解できそうな気がしたし)、

ウダイだって(自殺未遂の描き方とか)僅かとはいえ、

残虐性やら狂乱ぶりの背後にある底なしの虚無感なんかが漂ってた気がする。

という、ハリウッドの常套ボロクソ描写とは趣異なって、なんか新鮮だったんだよね。

 

あと、脇でわずかながら出てくる中東美女たちが

どれもこれも極めて印象的で個性的で本当に魅力的だった。

14歳の娘も、新婦さんも、ラストのウダイ守ります少女も。

ま、もしかしたらそれにつきるのかも。

中東系はの美男美女の魅力ってみてるだけで惹かれて止まないものがある。

 

とはいえ、「ダブル」とかタイトルにつけておきながら、

そのあたりの特性だとかアイデンティティみたいな話には驚くほど入っていかない。

主従関係が脅かされたり逆転したり、そのうち自我が崩壊し始めたり・・・

そういうのを期待していくと(本当は期待してたけど)ノレないこと必至。

 

ただ、ラストの「その後」の説明で、登場人物の顛末を語った後、

最後の最後に「The rest is history」と出たのには、なかなか感心(?)した。

つまり、裏を返せば「今までのはあくまで彼の物語だったのです」というような。

そして、それは常に皆が知っている歴史の下敷("based" or "under")になっている。

勝手な解釈だけどね。フレーズとして単純にかっこよく思えてしまった。

ヒストリーが残り物、みたいなね。逆説的ながらも真、みたいな。

と、随分と雑な感想だけど、これくらいが丁度好い、

観ても観なくても好い(でも、観たら楽しまなきゃ損)な映画でしたとさ。

 

 


第4の革命(2010/カール‐A. フェヒナー)

2012-01-14 23:17:14 | 映画 タ行

 

冒頭にロサンゼルスの夜景が映る。

夜景・・・その言葉が意味するところは、「夜の景色」のはず。

本来の夜の景色とは、暗闇だ。しかし、現在の「夜景」という語が指示する状態は、

明らかに灯かりが散らばったり充満したりしている光景だ。

明るい夜こそが美しく、幸せな夜なのだ。

 

そんな「示唆」を勝手に解釈して急激に前のめりになって観始めたものの、

それはやはりあくまで独断独善による解釈に過ぎなかったようだった。

予告(観てない)や解説などに少しでも触れればわかりそうなものだが、

本作は明確な意図(説得)のためにつくられた、プロパガンダ的作品だ。

(エンドクレジットにはメインスポンサーとして大々的に太陽光発電会社の名も)

いや、それを間違っているとか非難しようとかいう気はないし、

そういう意見は妥当ではないだろう。

監督も語っていた通り、本作は「より多くの人を説得するため」に

「映画」という形式を借りて製作・公開の道筋を決定したらしいのだから。

そもそも、映画とはそういった側面をもっているものでもあるし、

事実歴史的にはそうした「利用」が見事に成功してきているわけだ。

だから、本作の主張は明々白々であり、それは実に簡潔明瞭にまとめられている。

ただし、本作が興味深いのは、必ずしもイデオロギー的な「原発反対」ではなく、

政治・経済的戦略としての「脱原発」更には「産業構造の転換」を提言しているところ。

個人的には諸手は挙げられぬが(正直、片手も挙げ難いけど)、

明快なロジックで「潔白」な主張を合理的に現実的具体的方策を提示して迫る手法が、

日本などで見受けられる活動や運動などとはまるで異なっていることを実感する。

《近代》の故郷であり、《近代》化の大先輩であるヨーロッパ。

社会の成熟度も上ならば、社会の動かし方のノウハウが市民レベルでまるで違う。

日本には「市民」にプロとアマがあるのに対し、向こうは原則皆がプロなのだろう。

いや、それは日本の「プロ」とは異なるプロなのだろうが。

つまり、常にスイッチオンなイメージだ。

だからこそ、《共有》に結びつきやすいのだろう。

とはいえ、日本がそこに追いつくべきだとも思わない。

経済的に追いついたからといって、近代化の段階が異なるのは事実だろう。

しかし、そろそろ「追随」こそを唯一の国是とするような姿勢をオフィシャルに

疑問視する方向性が出てきても好いと思うのだが。

個人レベル、というか(本来の)市民レベルではとっくにそうなっているのだし。

本作のような「美しい」アプローチ(あくまで「活動」に関して)を見習って、

日本人(というか、日本におけるその手の動き)が「同じ様」に試みたとしても、

同程度のクリアさをもったロジックやアプローチは困難だろうし、

たとえそれが可能だったとしても、それが快不快かかわらず「受け止められる」土壌が

日本社会にはないのが現状だろうとも思う。

だから、手法をそのまま輸入するのは疑問だ。

(繰り返しになるが、電力のことに関してではなく、「活動」「運動」のアプローチ)

 

第一、本作においては根本的な議論は省略されており、

産業構造には変革を求める一方で、経済原理や合理主義に対する懐疑は皆無。

(どころか、映画の資金調達はまさに経済原理を利用してこそ可能になった。

本ページ最下部の「監督インタビュー動画」参照。)

つまり、社会の構造や(それをつくり出している)近代人の自我への疑問はない。

エネルギー問題が論じられているとき、私のなかで常にわきたつ違和感は、

エネルギーの《消費》に対する再考が試みられぬことが多いことだ。

つまり、大量のエネルギー消費を必要とする社会の在り方についての議論が

極めて不足しているように思われる。本作でも、エネルギー消費の削減などは

端から検討の範疇にないばかりでなく、むしろ「消費=善」という見地に立脚している。

なぜなら、再生可能ネルギーへの移行を奨励する根拠(メリット)として必ず

経済原理が用いられているからだ。低コスト、合理性、持続性など。

勿論、それはそれで説得力があるし、成功すれば実際に安全性や継続性は増す。

しかし、そのことによって人間が際限なく欲望を暴走させて地球を「私物化」し、

一方で人間自身の直接的な営みが縮小される(能力が減退の一途を辿る)現実は

何ら変わらない。確かに、自然破壊は一時的には減少に転じるかもしれない。

しかし、これまで自然を破壊してきたメンタリティ自体は全く変わりはしない。

むしろ、「大切にしてやってる」くらいの傲慢さが肥大する可能性すらある。

破壊しているときにはまだあったかもしれぬ罪悪感すら消えるのだから。

 

些か私自身も極論めいた物言いになってしまったようだ。反省。

ただ、本作のような明確かつ唯一の意図が標榜されている作品について語るには、

私自身の自然な主観をそのまま吐露することこそが、誠実な対峙だと思ったもので。

 

論文的な映画であるゆえに、文学的な魅力には乏しいのが正直な感想だが、

最後の最後に、インタビューをした登場人物たちのオフショットを挿入しているのが

とても興味深いと共に感心し、ちょっと嬉しくなった。

「悪役」扱いの石油関連団体の人間が、ホッとして《個人》に戻る瞬間も映る。

これは実にフェアだと思った。そういうヨーロッパの素晴らしさは、私にとっても魅力だ。

プロパガンダとしての素性に自覚的であるがこその、中和剤的働きを発揮する。

それも「計算」・・・などと言ってしまうほど、私も意固地ではない。と思う(笑)

(ただ、公式サイトの「登場人物」にその「悪役」を掲載してないのは、残念。)

 

肝心の「エネルギー問題」自体や、本作の提言内容に関して結局触れずじまいだが

(或る意味逃げてます(笑))、私自身は代替エネルギーの議論のまえに、

「人間とエネルギー」の関係や在り方を再考するべきだと思っているので、

ついつい上記のような薀蓄ばかりが先走ってしまうのだろう。

ただ、日本が震災後に「節電」という意識を自然にもてたり、実際遂行できたのは、

恐怖や脅威に由来する危機意識や連帯感のみならず、

「モッタイナイ」のふるさと日本(笑)に住む我々だからこその

自戒があったようにも思えてならない。確かに、何でも節約節約に走れば、

それこそ経済なんか一気に先細りしちまうが(実際その傾向強いけど)、

それだって既存の経済原理のものさしに拠るわけだし。

ま、実際、社会がどうなっていくのかなんて、俺如きが見通せる問題じゃないけれど、

少なくとも映画のなかでは独自の「ものさし」を使って欲しいというのが、

私の勝手な望みなわけです。

「革命」を単純な美徳として描かないのが映画、って気がするからね。

それはジャーナリズムが作品内部に入り込んで欲しくない私の主観。

ジャーナリズムこそを成立させようとして制作した監督の強い意志には敬服します。

 

********************************

 

私が本来好んで観るようなタイプの映画でないのに、なぜ本作を観たのか。

それは、監督のトークショーがあったからという実際的理由もあるが、

それが理由たりうるのも又、最近の私の関心によるところが大きい。

 

私は学生時代、社会科学系の学部にいた為(実際はろくに勉強してないが)、

いまだにそうしたアプローチが自分の中でも自然に思えてしまうことがあるし、

たとえ違和感を覚える対象やフィールドであろうが、

問題の「現場」を覗いてみたいという衝動がいつも些か芽生えがち。

たとえば、昨年の原発反対デモなども、

足を運ぼうともしなければ、ニュースソースを集めようともしないくせに、

とても興味があったりした・・・という具合に。

《完全なる傍観》であるかのようだが、社会のなかで生きる以上、

「つながろう」などと御指導いただかなくとも、つながっているわけだから、

傍観という状態はただの無為と等価ではない。

それも一つの《行動》として、間接的にでも効力をもってしまう。

(「無用の用」とまでは当然言えないが(笑))

参加者〇万人という数字は、

その数を引いた人々が「参加しなかった」という事実をも意味する。

目撃した人、野次った人、賛同した人、さまざまいようが、

日本では「参加するかしないか」の二択による二極化だけに帰結しがちに思える。

「参加したからって・・・」または「参加してないおまえが・・・」というような。

民主主義に不可欠な議論が不足し、結論までのプロセスが蔑ろにされることが

少なくないようにも思えてくる。

多数派は少数派を抑え込もうとし、

少数派は多数派の不当を叫んでは自らの正当性を確かめる。

これでは、双方に対話も何もあったものではない。

二者ともに互いのことはわかろうとしないまま、自我ばかりが反復される再生産。

私だって、そういう流れのなかに身を置いたまま、

よりスマートでクレバーそうな安全地帯に陣取るような矮小市民。

でも、だからこそ、自らがもっともアクセスしやすいアプローチで、

対話を拒みがちな《声》に傾聴する努力を試みるべきだと思い始めてきた。

ただ、触れるだけではその意味や価値は稀薄だろう。

場合によっては、一方的批判を独善展開して安堵にひたったりもできてしまう。

だからこそ、監督(発信者)と「会える」機会は貴重に思う。

挨拶を直接交わし(こちらは拍手する程度だが)、誠意を直接目の当たりにした時、

人間に与えられた貴重な(稀少な)善なる心が頑なな自我を解きほぐしてくれるかも。

フェヒナー監督は、「私は夢想家ではなく、ジャーナリストだ」と明言していた。

否定された部分こそが、私が映画に期待する要素でもあるものだから、

私が本作に違和感を覚えるのは当然だろう。

しかし、映画とはそもそも個人的に対峙するメディアではないわけで、

個人の夢想を叶えてくれるという側面と同様に、集団を動かす力を発揮できるのだ。

いくらそうした側面を醍醐味として認めたくなかろうが、歴史的にも事実である。

しかし、そうして監督と自分との差異に思いを勝手に馳せたとき、

改めて映画の魅力を再確認できる契機がうまれもした。

集団にはたらきかける映画の力は、個人の内側から外部に向けて力を促す。

しかし、映画には同時に個人がどこまでも内部で沈潜することを可能にする。

そうした全く正反対のベクトルを同時に併せ持つような奇妙な「メディア」なのだろう。

そんなことを改めて教わることができるのも、

異なる者との対峙でしか気づけぬ多様性の可能性かもしれない。

「different」とは《引き離す》を意味するラテン語に由来する語のようだ。

引き離されたままでは、個性との邂逅はかなわない。

最近固まりがちな趣向に風穴、少しはあけなきゃな。

 

 


テトロ(2009/フランシス・フォード・コッポラ)

2012-01-08 20:28:22 | 映画 タ行

 

私が本作を初めて観たのは、一昨年(2010年)のラテンビート映画祭。

(その際の上映に関する問題については後述するとして、)

作品が放つ光彩陸離たるや、筆舌尽くし難き美の迷宮。

その際は期せずして2回観る機会を得たものの、

最低最悪な「上映」の極悪後味が払拭できず、

輸入盤(ブルーレイ)を早速入手していたが、

全篇を通してはまだ観ていなかった。

 

そうこうしているうちに日本版DVD発売の報。

そして、先日からシネマート六本木にて期間限定で上映されている。

デジタル上映でもDCPなら文句なし(撮影もデジタルだし)だったが、

ブルーレイとのことで観賞を躊躇っていたものの、再見した『TETRO』は

当然ながらやっぱりやっぱり極上で、『テトロ 過去を殺した男』も観に行くべきか。

[追記]

劇場に問い合わせたら「ブルーレイ上映」との回答だったのだが、

HDCAMでの上映との情報も見かけた。是非とも自分の眼で確認したくなってきた。

 

*********************************

 

夢はカラーかモノクロか。

たまに俎上に載ったりする奇問。

本作における答えは一見、カラー。

しかし、「過去」でもあり「物語」でもあるそれは、

《現存》でないというだけで虚構とは言い切れぬ「現実」がある。

モノクロのぬくもりに浸っている最中、不意に叩きつけられるように挿入される、

カラーパートの「どぎつさ」は、人間の内面にひろがる《記憶》に潜む破壊の衝動。

そして、そんな呪縛こそが現実の自己をつきうごかし続けるという悲劇と喜劇。

それはこの世界が「反応」という「反射」と「呼応」による響きで形成されていて、

他者が自己とすれ違うと同様に、互いに入り込んでゆく現実。

 

合同ではない相似。

同期はしないが継承されゆくシンメトリー。

物語冒頭でテトロ(ヴィンセント・ギャロ)の左脚を被ったギプスは、

中盤でベニー(オールデン・エーレンライク)の右脚へと引き継がれてゆくだろう。

ファミリーとは、絆とは、そうした負の連鎖にこそ容赦ない刻印をせまるもの。

しかし、それは単なる移植とは異なった投影として焼きつけられてゆく。

やがてギプスは外れたら、自己を支える杖との訣別迫るなら、

治癒と独歩の伴侶はまたもやファミリーか。

そこに希望の抱擁があったとすれば、

二人にもはや、《光》は要らない。

 

 

◆本作は、デジタルで撮影されている為、フィルム撮影のモノクロと質感が異なる。

   フィルムによる闇の表現(深奥をみせる)が困難(不可能)な分、

   コントラストの饗宴として光と影がより「区別」された画として浮かび上がる。

   デジタルのもつ「近さ(日常性)」とモノクロのもつ「遠さ(距離)」が融和し、

   《現在》パートであるはずのモノクロ映像にも常に夢心地がただよい続けている。

   「反転」した極彩色なカラー映像は虚飾に満ちた現実が支配する内的リアリティ。

   本作における《光》(=名声[famous])の支配と拒絶の物語は、

   モノクロとカラーの反復という運動によっても補強されている。

 

◆しかし、本作が「迷宮」的魅力に満ちる所以は、

   《光》の落とし処を安易に求めも導きもしないところにある。

   「光」を放っては浴びる父と反目するテトロは、「光」を当てる仕事に就く。

   光源の背後にまわることにより「光」に背を向けるつもりだったのが、

   誰よりも「光」そのものを凝視せねばならぬというパラドクス。

   「光」そのものであるかのようなベニーは「血のつながった」テトロを

   懸命に照らそうとする。時に「光」への憧憬に目が暗みそうになりながら。

   そこに「かつてのテトロ」の姿が浮かび上がろうとするのは運命だ。

   そのとき二人の関係は、修復ではない超克を迎えるだろう。

   「光」それ自体は臨む(望む)ためのものではなく、

   相手をとらえるためにあるものだと気づくから。

 

◆冒頭も「光」で始まる。電球のガラスを割らんとばかり暴れまわる蛾。

   しかし、「光」そのものに触れることはできない。それを虚ろに眺めるテトロ。

   タイトル「TETRO」の文字の下に映し出される「Starring Vincent Gallo」の文字。

   これは「Tetrocini」というファミリーの物語ではなく、「Tetro」という個人の物語。

   「移民ファミリーを扱った自伝的作品」といった情報を伝えたメディアの取材に

   コッポラは「あくまで個人的な作品だ」と語っていた。そう、《個人》の話。

   『ゴッドファーザー』は《ファミリー》の話でもあったが、家族の絆というよりも、

   《ファミリー》という構造が《個人》を推し進めていく強大なシステムを炙り出し、

   それはやがて背後にある《社会》の管理や支配にまで迫っていた。

   だから、そこにはいつも沈黙せざるを得ない《個人》の犠牲が語られた。

   しかし、本作では新たな世紀の新たな時代を語ろうとする意思の作用か、

   《社会》の力はあくまで遠景として、《個人》の葛藤にこそ寄り添おうとする。

   そして、いよいよもって逆襲のときが訪れる。

   映画史に燦然と輝く金字塔たる壮大な世界の物語である自作に、

   異郷で小ぢんまりと撮った個人的世界の物語で拮抗しようかという究極の回答。

   本作で描かれる「父と子」の物語の出自はコッポラ・ファミリーにあるだろうが、

   そうした合わせ鏡で完結する物語などでは決してないと私は思う。

   むしろ、社会という怪物がもたらす名声という「大量破壊兵器」を手にした男の、

   個人的矜持(芸術)と社会的要請(功利)の悶着に決闘を求めた挑戦として見たい。

   (ただ、テトロチーニ・ファミリーが移民してきた年は、

     『ゴッドファーザー』でヴィト・コルレオーネがNYに渡った1901年と符号。)

 

◆そうした観点でとらえると、記号的な固有名詞(私がわかる範囲だが)も興味深い。

   例えば、テトロの父は世界的な指揮者だったが、

   彼が師事したのは世界的指揮者「エーリヒ・クライバー」という設定。

   カルロス(Carlos)・クライバーの父親だ。この父と子の物語も壮絶だっただろう。

   しかも、エーリヒに師事したというテトロの父の名は、「Calro」。偶然とは思えぬ。

   (ちなみに、クライバー家もアルゼンチンに移住してきた過去がある。)

   また、作中で登場する(昨年のリマスター版上映も記憶に新しい)『赤い靴』は、

   まさしく芸術と社会あるいは個人の営みの間に根源的な問いを迫る名作ではないか。

   おまけに『赤い靴』監督コンビのもう一つの傑作『ホフマン物語』は、

   オッフェンバックによる未完のオペラが原作。そう、「未完」の物語。

   テトロがベニーに差し入れする本はロベルト・ボラーニョだったりするのだが、

   彼の生き様も彼の作品に描かれる人物たちも、名声との確執を思わせる。

   他にも様々な固有名詞が彩り、私では到底手におえぬ記号がちりばめられている。

 

◆名声をめぐる彷徨と逡巡という意味では、

   テトロからベニーに引き継がれる「物語」のタイトルが象徴的だ。

   「Wander Rust」と題された物語。

   船の修理が完了し、彼自身の《旅》に戻ろうとしたときにテトロがかけた言葉、

   “ The Wanderlust(旅行熱・放浪願望/ダニエル・スティールの作品名にも).

      You'll enjoy. ” からひらめいた。

   それを “ Wander Lust ” として反芻、「好いタイトルだな」と呟いたベニー。

   「さまよえる渇望」とでも訳せる物語のタイトルは、まさしく権威を巡る彷徨だ。

   ただ、権威という社会的拘束力が個人の絆を分かつのと反転するかの如く、

   権威から遠く離れた場所では、個人が心根でつながることを許そうとする。

   ラスト手前での《拒絶》は、「さまよえる渇望」の逡巡に一つ決着をつけたのだろう。

   その相手が「Alone(孤立・独立)」であり、また女性でもあるというのも含蓄か。

   当初はハビエル・バルデムが演じる予定だったらしいAloneだが、

   カルメン・マウラが演じることでそこには明らかに《母性》という象徴が加わり、

   テトロを縛る過去の片割れがそこに投影されることになったように思われる。

   勿論、名声の形成を促すジャーナリズムの象徴であることは言うまでも無い。

   (本来は独立中立たる批評家だが、実際は・・・な現実踏まえたネーミングか?)

 

◆そうした大きな話だけではなく、細部に人間の機微をユーモラスかつ皮肉に描く。

   例えば、ベニーが入院するきっかけ(散歩してた犬が離れていく)の余所見は、

   売店のヌード写真にみとれてたりしたからだし、入院先に駆けつけたテトロが

   廊下にいる入院患者の老人が手に持っている花を譲ってもらおうと紙幣を出すと

   更なる金を要求されるといった寸劇も。これも「LUST」の諸相のひとつ。

 

◆光の存在感が終始際立つ本作は、そうした光の作用にも敏感だ。

   特に前半におけるテトロの部屋にベニーが居候している時間において、

   彼らの「実存」同士が直接対峙する画を避けるかのように、

   対話の相手は常に壁に映った影だったり鏡像だったりしており、

   虚像との対話とでも言いたげな不自然な(しかし、巧みで美しい)世界が展開。

   それが、テトロの物語を鏡を介して語るとき、ベニーの物語と縒り合わされる。

   まさしく自己(テトロ)が他者(ベニー)という鏡を用いて、自己を承認する物語。

   誰の物語か?終盤で繰り広げられる二人の論争。

   「my story(=history)」に他者からの光があてられたとき、

   物語を共有してゆけるファミリーとなる。単なる、或る、家族として。

   (It's gonna be OK. We're a family.)

 

◆ラストでスクリーンいっぱいに広がり流動する光の玉。

   冒頭でも二つの玉がゆっくり離れてゆく様が映し出されている。

   その意を確認し、乗り越えるための本編であったかのように、

   最後のそれは離合集散を豊かに躍ってゆく。大きさも濃淡もそれぞれ違う。

   重なればひとつの玉のようでいて、どこか完全に融合もできない光たち。

   コッポラは、家族や絆といった共同体信奉へ単純回帰しない現代性を忍ばせる。

   《 Wander Lust 》 が辿り付いた 《 Sabbatical 》 にはいつも、

   ロストもラストも無縁なワンダーが待ち構えていることを期待して。

 

 

◇メイン三人はいずれも素晴らしいが、

   新人同然(映画は初出演)だったベニー役のアルデン・エーレンライクの絶品さ、

   格別。

   コッポラがインタビューで「実年齢重視のキャスティング」にこだわると語り、

   確かに「だからこそ」の危うさの陰にひそむ清廉さが洗練へと変貌するプロセスを

   堪能するとびきりの《時間》を観客は体感できる。

   本作を引退作にして欲しいくらい、傑作せしめる「貌」なのだ。

   とはいえ、やはり本作の好評を受けてか(興行的には不発)、

   次々と出演作も決まったようで、コッポラの最新作『Twixt』にも出演。

   パク・チャヌクのハリウッドデビューとなる『Stoker』にも出演予定。

 

◇撮影を担当したミハイ・マライメア・Jr.の貢献度は誰もが認めるところだろうが、

   彼とて『コッポラの胡蝶の夢』での大抜擢に続いての登板だったようで、

   低予算(制作費1500万ドル)でインディペンデントな映画制作を選択(?)する

   コッポラはあくまでその「名」に依らぬのみならず、そうしたスタイルの意義や価値を

   最大限に発揮するだけの才覚と挑戦を続ける野心に溢れている。

   一昨年の映画祭で私が観た4本の傑作はいずれも、

   70歳を超える巨匠たちの Born To Be Wild フルスロットルな暴走挑発。

   『勝利を』のマルコ・ベロッキオはコッポラと同い年(現在72歳)だし、

   『トスカーナの贋作』のアッバス・キアロスタミはその一歳下。

   『風にそよぐ草』のアラン・レネなど、今年の6月には90歳になるというのだ。

   自身の飽くなき探求と無垢なる好奇心を具現化してみせる手腕の確かさのみならず、

   先人への畏敬や後発への配慮と育成。

   高みに達するというのは、それだけ広い世界がみえるということなんだろう。

   そして、広い世界が見えるからこそ、内なる世界へ目を向けようとも、

   そこに閉塞感が充満することなく、むしろ無限が現出してくるのだろう。

   強い個性とは、強い個人に宿るものなのだと、彼らが描く個人が教えてくれる。

 

◇その期待の撮影監督ミハイ・マライメア・Jr.だが、

   なんとポール・トーマス・アンダーソンの次回作に参加することになったらしい。

   どうやら撮影の時期が遅れてしまった影響で、

   PTAとずっと組んできたロバート・エルスウィットが別の仕事とバッティング。

   (おそらくボーン・シリーズのスピンオフ作。

    ロバートはジェレミー・レナー専属カメラマンみたい(笑)

    『ザ・タウン』、『ミッション・インポッシブル~』、ボーン・スピンオフと3連続)

   そこでミハイ・マライメア・Jr.に白羽の矢がたったというわけ。

   しかも、「65mmで撮影するという噂」だって!?

   だとしたら楽しみだけど、フィルム撮影をどれだけ経験してるかがちょっと心配。

   でも本作で、デジタル撮影による無機質なエッヂにやわらかな光と影のなかで

   生命力みなぎらせた手腕は、フィルムの新たな可能性すら発掘しそうだな。

 

◇中堅からベテラン勢の充実仕事も本当いい。

   ヴィンセント・ギャロは、本作と『エッセンシャル・キリング』が同年公開という、

   (一昨年から)昨年のライアン・ゴズリングばりな名作三昧絶頂期。乗脂必至。

   マリベル・ベルドゥの女性と母性を兼ね備えたスマートで包容力ある魅力。

   凛としながら、しなやかたおやか。

   『天国の口、終りの楽園。』(こちらも大好き)が久しぶりに観たくなってきた。

 

◇音響と編集を担当するのは、勿論、あのウォルター・マーチ。

   ブルーレイでも「音のよさ」は段違い。

   俺なんかの耳でも「うわぁ~」って素直に思えるほどの卓越仕事。

   音楽の方だって、オスバルド・ゴリホフの絶品仕事。

   アルゼンチン(のラプラタ)で育ち、クラシック畑でもキャリアを積んだゴリホフ。

   権威《テトロの父/クラシック》と生活《アルゼンチン/バンドネオン》を

   自由に往来可能な彼は、本作に必要不可欠な最重要ピースだったかも。

   サントラも『~胡蝶の夢』同様グラモフォンから発売されるお墨付十分な名盤だ。

   (前述のカルロス・クライバーのBOXもグラモフォンから発売されている。

    クラシックに詳しくない私でも、彼が指揮する演奏の華麗さには酔いしれる。

    完全にミーハーチョイスだが、ベートーベンの第五&第七の1枚は、

    無人島に携帯していきたいくらい贅を尽くした1枚で、

    一時期は風呂場でも渋谷でも聴いていた・・・

    テトロ父の葬儀でかかるブラームスはクライバー音源ないようで、

    あれば使ったりしてたかなぁ~と勝手に妄想してみたり。)

 

 

このように愛しくてたまらない作品がいよいよ劇場公開されるというのに、

劇場に駆けつけない理由の一つは、

ラテンビート映画祭での上映素材が最悪だったから。

例えるなら、50インチのテレビでDVD再生する(よりも更に粗い)画質。

あれは本当にDVDで上映してるんじゃないかって程の最低画質だった。

おそらくDVCAMか何かで上映してたんだと思うけど、極上映像美を完全冒涜。

作品が素晴らしければ素晴らしいほど、その怒りというか虚しさは増幅するばかり。

アンケートにも(誠意をみせつつ、なるだけ語気を強めて)しっかり批判した。

だって、ああいう酷い状態で作品を公開するって、作り手に対してこそ無礼千万。

たとえば、ゴッホの絵を汚れまくったケースに入れて見せてたり、

モーツァルトの曲をチューニングにもろくにしない楽器で演奏して聴かせる、

そんな事態と変わらない。

だから、観る方としても「ただ画質が酷い」だけではない苦痛が伴う。

しかも、そういう「公開の事実」が残ることで、まともな公開の機会は奪われる。

デジタル化で手軽に開催可能となった映画祭の弊害。

昨年のラテンビートでは、あのような画質(ちなみに『テトロ』だけじゃなかったし)は

さすがになくなって、最低でもブルーレイ(推定)といった印象だった。

今回のシネマート六本木での公開はブルーレイでの上映になるらしい。

劇場もそれほど大きくないし(それでも最大箱をあてがってくれてるのは感謝)、

ブルーレイでも気にならない画質かもしれないなぁ・・・という希望的観測を胸に、

六本木へ馳せ参じるかどうか、いまだに悩み中。

あぁ、ちゃんとしたデジタル素材でのデジタル上映だったら何度も足運んだのに。

(SKIPシティ国際映画祭に予算と権威がもうちょっとあれば、かけられてたかな?)

送り手(制作)のデジタル化が進んでも、受け皿(劇場)のデジタル化がハンパなまま

フォーマットも安定しないとなると、疲弊するのは観客(というか映画ファン)ばかり。

せめて、素材の明記くらいはそろそろ誠意みせてくれても好いと思うのですが。

 

と、極上作品と折角戯れまくったあとに、愚痴ばっか書いちゃって、

すみません。とりあえず、本作が今年度ナンバーワン級なのは確実なので、

未見のかたはこの機会に是非!(DVDタイトルは『テトロ 過去を殺した男』)

(劇場観賞は自分で確かめてからでは保証できませんが、

  DVDの映像特典は[USA盤やUK盤と同じものであれば]興味深い内容。

  レンタルの方に収録されてるかはわからないけど。

  それより、海外盤にはコメンタリーが収録されていたのだが、

  そちらは国内盤には収録されないのだろうか。字幕制作のコスト削減か?

  それこそ国内盤に最も期待していた点なのだが・・・)

とりあえず、前作の『コッポラの胡蝶の夢』が厚待遇すぎる環境だった

(都内随一の劇場、今はなきQ-AXシネマ[当時はもうシアターTSUTAYAだったかも]

  の地下劇場で観られたのだ!)にもかかわらず、本当ひっそり上映終えてたし、

今作も話題的にも収入的にもパッとしないと、コッポラのインディペンデント映画は

更なる不遇な扱いを受けるかもしれないし(最新作は最低シネパトあたりが救うかな)

折角(笑)本国等でもそれほど熱い歓迎受けていなさそうな本作だからこそ、

日本の映画ファンが熱狂しちゃいましょう!

 

 

[追記]

本作のエンドロールの短さが話題になっているのを見かけたので。

確かに、あのコンパクトなエンドロールは好いですよね。

ただ、あれも実は「配慮」というか「こだわり」のようです。

というのも、輸入盤ブルーレイには映像特典としてエンドロールが入ってます。

そのエンドロールだと約3分半あって、完全に暗転して文字が上がっていくような

所謂「いつもの」タイプのエンドロールに変わってから終わります。

そのタイプで上映されたことがあるのかどうか迄はわかりませんが。

 

[追記]

爆音映画祭にて観賞(2012/07/06)

評判通りの新生っぷりに胸高鳴った。

あのウォルター・マーチも絡んでる音響設計はやっぱり完璧で、

爆音上映でも違和感なく全ての音が届く。

シャープな音も印象的だが、

重低音の心音が劇場を揺らすときの没入感は比類なき抱擁。

耳と胸が結ばれた。

 

そして、今更気づくこともいくつかあって、

そのうちの一つとしては、

テトロ(ヴィンセント・ギャロ)が文字を反転させて書いていた未完原稿で

自身がモデルとなった人物を「X(エックス)」と書いているのだが、

それはただ単に変数性的要素に拠るのみならず、

「反転しても同じ」文字だからなのでは?などと考えると、

反転と循環における中心としてのテトロのジレンマとその超克がより浮上した。

また、「父殺し」的テーマを前面に出しながら、欠落した母性をミランダが一手に引き受け、

悲劇として語られているはずの物語に、常に希望を宿していることも改めて痛感。

冒頭でベニーが「義姉」という響きに不思議な感覚を口にするのも、

伏線というより自然な現実なのかもしれない。