我に従え
2014-12-10 | 日記
結局のところ2代目の14年3月15日のトークはそう言っているのでありました。
「リアリティーを体験した私はあなた方を導く事が出来る」と。
その意味では2代目は完璧な「経験主義者」であります。
ただしこの経験主義はご自分の経験のみを「正しいもの」と認めているかの様であります。
それは「けっして現状に批判的な人達の経験を、そうして提案を認めていない事」からもわかります。<--リンク
それでその経験の結果として最強の「バパ主義者」になっておいでの様です。
「バパの言った事、作った組織は絶対普遍である」と。
でも世の中はうつり変わってとどまるという事を知りません。
その結果として「会社寿命30年説」があるくらいです。
「同じ事を30年やっていたら会社はつぶれる」という説ですね。
「いや、それは会社の事だろう」、、、ですって。
いいえ世の中に存在している組織やルール、決めごとの寿命は大抵そんなものです。
で、バパが亡くなってから今年で27年すぎました。
従ってそろそろいろいろと手を入れる必要性がありそうです。
さてバパも「経験主義」を推奨していました。(注1)
「バパのコトバでも自分で体験してから信じなさい。」
「自分の足で立ちなさい。」と繰り返しのアドバイスであります。
そういう経験を積み重ねる為の「ガイドライン」の設定であります。
「一応ガイドライン、作っときますからね。」
「それを超える時は本当に注意しなさいよ。」という事であります。<--リンク
そしてそれはけっして「教義」や「戒律」ではありません。
「~しなさい。」、「~してはいけません。」ではないのです。
そうしてそれが「ラティハンは宗教ではない。」という意味であります。
そういう訳で「ガイドライン」は宗教のようには「責任」を取ってはくれませんね。
どこまでいっても「責任」は、そしてそれゆえに「行動の自由」は独立した個人としてのその人に属するのでありました。
注1 経験主義
たとえば57CSP6、14とか57CSP8、14あるいは65(バンドン)5,22など参照願います。
PS
ガイドラインは保護を与えるものです。
そうしてそれは別の見方では制約を与えます。
さて、どうしてバパは制約を与えなくてはいけなかったのでしょうか?
それは「オープンすればその瞬間に完成する」訳ではないからですね。
オープンは単に「スタートラインに立っただけ」であります。
そこから少しづつ前に進まなくてはいけません。
そうして、寄り道をしていたらそれだけ進み方は遅れます。<--リンク
あるいは「逆戻りの可能性」すらそこにはあります。
そういう訳で初心者にはある程度の制約はどうしても必要なのでありました。
それではその制約から自由になるのは何時でしょう?
それは「あなたの内部にガイドラインの代りが出来上がった時」でありますね。
PS
かつてバパは2代目の体験を承認されました。
これが2代目が2代目として認められることになる「事実上の2代目指名」でありました。
さて2代目はそれにならって「事実上の3代目指名」をするのでしょうか?
もしそうされるとするなら、それはもはやバパが希望された「民主制」ではなく「世襲制」に限りなく近い制度になってしまいますね。
でもそうしないと「我に従え」の「我」がいなくなってしまった時に困ってしまうのは、「従っていた人たち」なのであります。
それとも2代目は「我なき後はデジタルバパに従え」とでも言い残すのでしょうか。<--リンク
でもそれではなにやら「出来の悪いSFアニメ」の様でありますね。
追記
85CND6.11(チランダ) バパトークより引用
『さて、これはスブドのラティハン・クジワアンの過程についての話であります。
しかし実際には、私たちはただラティハン・クジワアンと言ったほうがいいのです。
スブドと言うべきではないのです。
なぜならば、そういう言い方をすれば、まるで神の恩寵を受けることができるのは、神の導きを受けることができるのは、あるいは、神からの啓示を受けることができるのは、ただスブドの中においてだけであるという風に聞こえるからです。
それは正しくありません。
事実は誰であれ、忍耐と受容とそして誠実さをもって本当に神に全託すれば、その人はラティハン・クジワアンを受けるのです。
これはスブドの専売特許ではありません。
そして私たちがこのことに気付くこと、つまり神には限界がなく、誰でも神に対して苦情を申したてることはできないのだということを知ることは非常に重要であります。
若しもそれを理解すれば、それは私たちを心の広い寛大な人間にしてくれるでありましょう。
他の人々を受け入れることができるようにしてくれるでありましょう。
私たちは自分を特別の者だとか何かそういう風には思わないでありましょう。
そしてこれが実際のところラティハン・クジワアンの目標であります。
ラティハン・クジワアンの目標は私たちをノーマルに、当たり前にすることであります。
そして私たちの存在の内部での神の力の働きに慣れ親しんだ人間にすることであります。
ノーマルでない人間、何か特別のようにみなされ得る人たちはラティハン・クジワアンをしている人たちではありません。』
PS
レビューポイントはこちらです。<--リンク
「リアリティーを体験した私はあなた方を導く事が出来る」と。
その意味では2代目は完璧な「経験主義者」であります。
ただしこの経験主義はご自分の経験のみを「正しいもの」と認めているかの様であります。
それは「けっして現状に批判的な人達の経験を、そうして提案を認めていない事」からもわかります。<--リンク
それでその経験の結果として最強の「バパ主義者」になっておいでの様です。
「バパの言った事、作った組織は絶対普遍である」と。
でも世の中はうつり変わってとどまるという事を知りません。
その結果として「会社寿命30年説」があるくらいです。
「同じ事を30年やっていたら会社はつぶれる」という説ですね。
「いや、それは会社の事だろう」、、、ですって。
いいえ世の中に存在している組織やルール、決めごとの寿命は大抵そんなものです。
で、バパが亡くなってから今年で27年すぎました。
従ってそろそろいろいろと手を入れる必要性がありそうです。
さてバパも「経験主義」を推奨していました。(注1)
「バパのコトバでも自分で体験してから信じなさい。」
「自分の足で立ちなさい。」と繰り返しのアドバイスであります。
そういう経験を積み重ねる為の「ガイドライン」の設定であります。
「一応ガイドライン、作っときますからね。」
「それを超える時は本当に注意しなさいよ。」という事であります。<--リンク
そしてそれはけっして「教義」や「戒律」ではありません。
「~しなさい。」、「~してはいけません。」ではないのです。
そうしてそれが「ラティハンは宗教ではない。」という意味であります。
そういう訳で「ガイドライン」は宗教のようには「責任」を取ってはくれませんね。
どこまでいっても「責任」は、そしてそれゆえに「行動の自由」は独立した個人としてのその人に属するのでありました。
注1 経験主義
たとえば57CSP6、14とか57CSP8、14あるいは65(バンドン)5,22など参照願います。
PS
ガイドラインは保護を与えるものです。
そうしてそれは別の見方では制約を与えます。
さて、どうしてバパは制約を与えなくてはいけなかったのでしょうか?
それは「オープンすればその瞬間に完成する」訳ではないからですね。
オープンは単に「スタートラインに立っただけ」であります。
そこから少しづつ前に進まなくてはいけません。
そうして、寄り道をしていたらそれだけ進み方は遅れます。<--リンク
あるいは「逆戻りの可能性」すらそこにはあります。
そういう訳で初心者にはある程度の制約はどうしても必要なのでありました。
それではその制約から自由になるのは何時でしょう?
それは「あなたの内部にガイドラインの代りが出来上がった時」でありますね。
PS
かつてバパは2代目の体験を承認されました。
これが2代目が2代目として認められることになる「事実上の2代目指名」でありました。
さて2代目はそれにならって「事実上の3代目指名」をするのでしょうか?
もしそうされるとするなら、それはもはやバパが希望された「民主制」ではなく「世襲制」に限りなく近い制度になってしまいますね。
でもそうしないと「我に従え」の「我」がいなくなってしまった時に困ってしまうのは、「従っていた人たち」なのであります。
それとも2代目は「我なき後はデジタルバパに従え」とでも言い残すのでしょうか。<--リンク
でもそれではなにやら「出来の悪いSFアニメ」の様でありますね。
追記
85CND6.11(チランダ) バパトークより引用
『さて、これはスブドのラティハン・クジワアンの過程についての話であります。
しかし実際には、私たちはただラティハン・クジワアンと言ったほうがいいのです。
スブドと言うべきではないのです。
なぜならば、そういう言い方をすれば、まるで神の恩寵を受けることができるのは、神の導きを受けることができるのは、あるいは、神からの啓示を受けることができるのは、ただスブドの中においてだけであるという風に聞こえるからです。
それは正しくありません。
事実は誰であれ、忍耐と受容とそして誠実さをもって本当に神に全託すれば、その人はラティハン・クジワアンを受けるのです。
これはスブドの専売特許ではありません。
そして私たちがこのことに気付くこと、つまり神には限界がなく、誰でも神に対して苦情を申したてることはできないのだということを知ることは非常に重要であります。
若しもそれを理解すれば、それは私たちを心の広い寛大な人間にしてくれるでありましょう。
他の人々を受け入れることができるようにしてくれるでありましょう。
私たちは自分を特別の者だとか何かそういう風には思わないでありましょう。
そしてこれが実際のところラティハン・クジワアンの目標であります。
ラティハン・クジワアンの目標は私たちをノーマルに、当たり前にすることであります。
そして私たちの存在の内部での神の力の働きに慣れ親しんだ人間にすることであります。
ノーマルでない人間、何か特別のようにみなされ得る人たちはラティハン・クジワアンをしている人たちではありません。』
PS
レビューポイントはこちらです。<--リンク