ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

ラティハンは家を建てる為の技術

2014-10-27 | 日記
バリンドラの 1972年のアジア紙掲載の「アルジュナ コラム」からの引用です。


先生(バパの事)は、「人間はとても深く物質力によって圧倒されています。」と言っていました。

「その物質力が宇宙のすべてを包み、すべてに浸透している大生命力と人との接触を失わせたのです」とね。


聴衆のうちの一人が「その接触はまだ可能なのかどうか、そうしてどこでそれを探せばいいのでしょうか?」と尋ねました。

「それは常に可能です」と先生は言いました。

「あなたがそれを受ける意思があれば受けることが出来ます」と。


「私はそれを霊的な知識体系の中に見つけることが出来るのでしょうか?」と質問者は聞きます。

「いいえ」と先生は返します。

「大生命力との接触を通じての神の礼拝は知識体系ではなく技術です」と。

そこで質問者は「知識体系と技術の違いは何でしょうか」と聞きます。


先生はそれをこのように説明しました。

「あなたは家を建てたいと思っています。それであなたは最初に青写真を描きます。」

「青写真は家を建てる為には必要な、確かな計画の正確な表現であります。」

「しかしながらそれは家そのものではありません。」

「そうしてあなたは技術者ではないので、あなたは青写真から家を建てることができません。」

「ただ技術を持つものだけが青写真を理解して、それに従って家を作れます。」


「なぜ技術者は家を建てることができて、あなたにはそれができないのでしょうか?」

「それは技術者は技術をもっているからですね」と。

「青写真は知識体系(あるいは実現したい計画)にすぎません。」

そうして「大生命力と接触することは技術(の領域の事)なのであります。」というのが先生の説明でありました。


PS
( )内記述は訳者補足
英文はこちら<--リンク

原文はバリンドラPDF<--リンク参照願います。
242ページからの訳出です。

PS
バパは何故「家を建てること」を比喩に使うのでしょうか?
それはバパが関係していたエンタプライズの影響だと思われます。

いや、ビルのことではありませんよ。
それとは別に「建築関係のエンプラ」に協力されていた様であります。

PS
「ラティハンはテクニックである。」
始めてこれを聞いた時はちょっとしたショックを受けたものでした。

それまでは「ラティハンは神の礼拝である」と言われていただけでしたからね。

「神の礼拝」とは宗教の範疇の話です。
そうして、「テクニック」とは宗教とは全く関係のない「技術のこと」でありますね。

さあ、この2つはまるで方向が反対です。
でもバパの中ではこの2つが何の矛盾もなく共存しているのでありました。

「バパの住んでいた世界を理解する」ということはこのようにとても大変な事なのであります。


PS
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