ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

ラティハンは誰のもの?

2015-03-13 | 日記
さて、「ガイドラインを変えるのは世界大会でのみ可能です。」とは二代目のご発言です。

「それがフェアでしょう」ということですね。

「一部の人や国の意向のみでは変更できませんよ」という訳です。


通常の変更内容であれば「それでよいかな」とは思います。

利害関係者がグループの構成員だけの問題ならばね。

グループの構成員の多数決ですから、まあ「妥当」というところでしょうか。


でも、世界大会で多数決をとってもフェアとはならない問題もありますね。

「新たにグループに参加するために必要とされる要件の問題」はこれにあたります。

直接の利害関係者は、「まだグループに参加していない人たち」ですね。

でもその人たちには議決権がありません。

まだグループの構成員になっていませんからね。


すでにグループに参加している人には「もう終わったこと」ですからはっきり言って「どちらでもいい。」となりやすいですよね。

特にリーダーが「個人的には変えるのには断固反対です。」と言っているような提案にあえて「変更に賛成」とはなかなかいえませんよねえ。


強い圧力を加えるリーダーの下で本当にフェアな議論ができるのか?

このことも非常に疑問であります。

それでも二代目は「これでフェアだ」と言うのでしょうかねえ。


さて、それにもめげずに事あるごとに声を上げていく。

そういう「少数勢力」があることも確かな様です。

この人たちは何も自分の利益の為に声を上げているのではありませんよ、二代目さん。

人類のまだラティハンを適切な形で紹介されてない残り46%の人たちに代わって声を上げているだけです。 <--リンク


この問題は本当に慎重に検討する必要があります。

討議に参加する資格をまだ持っていない人の事も想像しながらの慎重な判断が必要です。

こちらに「差別するような意図」がなくても、結果的には障壁を作って新しい人が入れないようにはしていないかどうか? <--リンク


そうするとほうら「ラティハンを自分たちだけで独占するのはやめてくれ」という声が聞こえてきませんか?

「いつになったらラティハンを手渡してくれるのですか」という声が聞こえるでしょう?

「聞こえない。」というのならば、まあしかたの無い事ではありますが、、、。

でもそれでは「全人類の為のラティハン」という看板が泣いてしまいますけれどもね。

12TKL12.8(ルンガンサリ)


PS
バパが言う様に「ラティハンが全人類に与えられたもの」であるとすると、特定の個人や特定の団体が「ラティハンを自分たちの専有物のように扱う事の正当性」がまずは問われる必要がありそうです。


PS
>さて、「ガイドラインを変えるのは世界大会でのみ可能です。」とは二代目のご発言です。

>「それがフェアでしょう」ということですね。

>「一部の人や国の意向のみでは変更できませんよ」という訳です。


このような主張をしながら、じつはいろいろとルールを変更してくるのは2代目の権威をよりどころにしている上層部のおおよそ20名程度の人たちですね。

この人たちがほかの残りのすべての人たちを「教え、導ける」と。

「よかれ」としてやっていることなのでしょうが、取りようによっては「本当に傲慢なこと」であります。

立法と行政、そうして司法が20名の手の中にあるのですから、それは「民主的」というより「専制的」であります。


さて、そんななかで我々にできる事はいったいなんでありましょうか?

「目を覚まして正気でいる事」でしょうね。

それが全ての「解毒薬」であります。

PS
85CND6.11(チランダ) バパトークより引用

『さて、これはスブドのラティハン・クジワアンの過程についての話であります。
しかし実際には、私たちはただラティハン・クジワアンと言ったほうがいいのです。
スブドと言うべきではないのです。
なぜならば、そういう言い方をすれば、まるで神の恩寵を受けることができるのは、神の導きを受けることができるのは、あるいは、神からの啓示を受けることができるのは、ただスブドの中においてだけであるという風に聞こえるからです。
それは正しくありません。  
事実は誰であれ、忍耐と受容とそして誠実さをもって本当に神に全託すれば、その人はラティハン・クジワアンを受けるのです。
これはスブドの専売特許ではありません。

そして私たちがこのことに気付くこと、つまり神には限界がなく、誰でも神に対して苦情を申したてることはできないのだということを知ることは非常に重要であります。
若しもそれを理解すれば、それは私たちを心の広い寛大な人間にしてくれるでありましょう。
他の人々を受け入れることができるようにしてくれるでありましょう。
私たちは自分を特別の者だとか何かそういう風には思わないでありましょう。

そしてこれが実際のところラティハン・クジワアンの目標であります。
ラティハン・クジワアンの目標は私たちをノーマルに、当たり前にすることであります。
そして私たちの存在の内部での神の力の働きに慣れ親しんだ人間にすることであります。  
ノーマルでない人間、何か特別のようにみなされ得る人たちはラティハン・クジワアンをしている人たちではありません。』

PS
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 唯一神への信仰 | トップ | トークの解釈 »

日記」カテゴリの最新記事