ラティハンではいろいろな体験が与えられる。
いろいろなところへ出かけていって、いろいろな人と一緒にラティハンをする。
そうするといつもとは違ったラティハンが起こる。
海外に出かけていってラティハンをするのもいいかもしれない。
ラティハンに言葉はいらないから、気楽なものである。
地球上のどこででも「ラティハン始めます。」で始まってしまう。
まことに便利なものである。
最初のころは「自己催眠ではないか?」とうたがったものである。
それでもラティハンを重ねてゆくと「自己催眠でない確証」がでてくる。
こうなるとラティハンに対する「信頼」も大きくなってくる。
こういう「信頼感」ができてくると、ラティハンもまた一層受けやすくなるようである。
そうは言うものの、雨が降っても晴れてもラティハンするのが基本ですから、
あまり「めずらしい」あるいは「はなばなしい」体験を求めるのも少し違うような、、、。
本来は「ラティハンの成果」は日常生活の中で確かめられるもののようですので
「華々しい体験」はまあ自分の中にしまっておくだけで十分でしょうか。
PS
2代目に向かってしきりに自分のラティハン体験を語る人がいます。
2代目に話すぐらいですから、その人にとってはそれはもう飛び切りの体験でありますね。
それでその人はいったい何を求めて話しているのでしょうか?
自慢話ですか?
いいや、2代目の体験に比べれば自慢などはできないでしょう。
さて、そうするといったい何の為でしょう?
どうやらそれは「体験はしてみたものの意味が分からないので説明して欲しい」と。
あるいは「この体験は本物なのかどうかわからない」から「2代目からのお墨付きが欲しい」、、、と。
それはまるで「師匠に体験の認可を求めるお弟子さん」の様でありますね。
さて、「ラティハンというものは理解のレベルまで到達するもの」とはバパのコトバであります。
さあそうするとこれらの人たちは「感覚のレベルには到達した」ものの、少なくともまだ「理解のレベルまで達していない」ということが分かってしまうのでありました。
さらに言いますれば、バパが求めたラティハンの結果はそうした「神秘的体験を排除するもの」ではありませんが、それよりも「外から目で見て分かる結果」が必要でありました。
そうでなければその体験は単に「体験した者の主観的体験」になってしまうからでありますね。
そうして、そのような「主観的神秘体験を追い求める」ならば、それは「超能力を求めること」とほぼ同等のことになってしまうのでありました。
(15.7)
いろいろなところへ出かけていって、いろいろな人と一緒にラティハンをする。
そうするといつもとは違ったラティハンが起こる。
海外に出かけていってラティハンをするのもいいかもしれない。
ラティハンに言葉はいらないから、気楽なものである。
地球上のどこででも「ラティハン始めます。」で始まってしまう。
まことに便利なものである。
最初のころは「自己催眠ではないか?」とうたがったものである。
それでもラティハンを重ねてゆくと「自己催眠でない確証」がでてくる。
こうなるとラティハンに対する「信頼」も大きくなってくる。
こういう「信頼感」ができてくると、ラティハンもまた一層受けやすくなるようである。
そうは言うものの、雨が降っても晴れてもラティハンするのが基本ですから、
あまり「めずらしい」あるいは「はなばなしい」体験を求めるのも少し違うような、、、。
本来は「ラティハンの成果」は日常生活の中で確かめられるもののようですので
「華々しい体験」はまあ自分の中にしまっておくだけで十分でしょうか。
PS
2代目に向かってしきりに自分のラティハン体験を語る人がいます。
2代目に話すぐらいですから、その人にとってはそれはもう飛び切りの体験でありますね。
それでその人はいったい何を求めて話しているのでしょうか?
自慢話ですか?
いいや、2代目の体験に比べれば自慢などはできないでしょう。
さて、そうするといったい何の為でしょう?
どうやらそれは「体験はしてみたものの意味が分からないので説明して欲しい」と。
あるいは「この体験は本物なのかどうかわからない」から「2代目からのお墨付きが欲しい」、、、と。
それはまるで「師匠に体験の認可を求めるお弟子さん」の様でありますね。
さて、「ラティハンというものは理解のレベルまで到達するもの」とはバパのコトバであります。
さあそうするとこれらの人たちは「感覚のレベルには到達した」ものの、少なくともまだ「理解のレベルまで達していない」ということが分かってしまうのでありました。
さらに言いますれば、バパが求めたラティハンの結果はそうした「神秘的体験を排除するもの」ではありませんが、それよりも「外から目で見て分かる結果」が必要でありました。
そうでなければその体験は単に「体験した者の主観的体験」になってしまうからでありますね。
そうして、そのような「主観的神秘体験を追い求める」ならば、それは「超能力を求めること」とほぼ同等のことになってしまうのでありました。
(15.7)