P126
・・・・・
今、私たちは彼のロホ ラフマニroch rachmaniとラバニrabbaniに進みます。
ラーマンRahmanとラブRabbはそれぞれが神の名前と属性してムタカリミンmutakaliminとスーフィーによって見られています。(注1)
神のこれらの2つの属性は、彼の jalal ジャラル(威厳)よりも彼の jamalジャマル(美しさ)に、より関連しています。
ここでも私たちが知る限り、私たちが上で引用した理論を持つジャワ神秘主義者を除いて、スーフィーsufiはこれまでこの文脈でこれらの用語を使用していません。(注2)
P127
ルハニ ruhaniと同様に、彼らはラフマニ rahmaniとラバニrabbaniをニスバットnisbat(相対形容詞)とみなし、他の何かに属しているか、関連しているものとみなしています。
例えば、フジワリ HujwiriのKash al-Mahjübでは、彼はニスバットnisbatとして2つの場所で ラバニrabbaniという用語を使用し、それはルーフruhの特定の名前とは何の関係ありません。
ロホ ラフマニRoh rochmaniとロホ ラバニroh rabbaniは、ジャワ神秘主義者によって神のRüh(霊)を暗示すると解釈されます。
この仮定は、バパの簡単な明確化、『ロホ ラフマニRoh rochmaniとラバニ rabbaniは他のものより確かに高いです。
すべては本当に神によって考案され作られたものでした。
私たち人間は、本当に私たちの思考でそれらを理解することはできません。
そして私たちの思考、想像、理解をはるかに超えている神について言うならば、より多くそのようなことはあてはまります。』
(注:ロハニ、ラフマニ、ラバ二でさえこのように思考、想像を超えているのに、それをさらに超えた神について何をいえるのか?、、、程度の意味かと。)
これに関連して、バパは、人間は神の属性を自分自身に結合している、言い換えれば人は神の流出物である、とみなしたイブン アラビーIbn al-'Arabiとアル ジリal-JIliとは異なっています。
(注:汎神論ではこの世界は全て神の表現である、という見方をします。
それゆえに「はるかかなたかもしれませんが、神と人は連続している」と見るのです。
そうしてイブン アラビーIbn al-'Arabiとアル ジリal-JIliは汎神論者でありました。)
この点でバパは、創造主の本質と創造物の分離を維持するという正統派の考え方に沿ったものと思われます。
さて今度は、私たちは彼のロホ クドスroh Kuddusとロホ イロフィroh ilofiを扱います。
伝統的な思想では、ルーフ アル・クドスrüh al-quddüsはガブリエルJibrïl、啓示の天使を意味しました。
しかし、いくつかのスーフィー達は、比喩的にそれを理解し、それに難解な意味を与えました。
P128
アブド・アル・カリム・アル・ジリーAbd al-Karim al-Jilyのアル・インサン・アル・カミルal-Insan al-Kamilに関する研究では、ルーフ アル・クドスrüh al-guddüsについて特別な章をもうけ、その中で 彼はrüh al-guddüsを魂の魂であると語り、創造的な言葉「be」を超えているとしました。
それゆえそれは創造されることはなく、それは神の側面の特殊な一面なのであります。
神の存在(wujud)がこのルーフ rühに依存するので、それは、神ご自身のルーフ rühです。
だからそれは、神がアダムに吹きこんだ(nafakha)もの、ルーフruhとは異なっています。(注3)
アル・ジリAl-Jilyはルーフ アル・クドスrüh al-quddüsとアル・ルーフ アル・イラヒal-ruh al-ilahiを同一視します。
この点に関して、バパの見解は正統派とは異なるが、ルーフ アル・クドスrüh al-quddüsを神のルーフの中でも最高のもので、本質であるとみなしているアル・ジリのものとも異なります。
ここで、バパは、人が低位の魂のレベルから高いレベルの魂に上昇することを可能にするために、ロホ アル・クドスroh al-kuddusが仲介者として機能すると述べています。
このように、この場合、バパは正統派のように、ルーフ アル・クドスrüh al-quddüsの仲介機能を支持し、(クドスが)創造されたものである事を強調する。
しかし、彼は正統派とはルーフ アル・クドスrüh al-quddüsの本質や実体については異なった見方をしている。
正統派の教えによると、ルーフ アル・クドスrüh al-quddüsの実体は、神と預言者の間の仲介者である聖霊または天使ガブリエルangel Jibrïlです。
バパにとっては、ルーフ アル・クドスrüh al-quddüsの仲介要素は神と預言者の間に限られておらず、人間と創造主の仲介者でもあります。
P129
それはただ、天使であるよりも広い霊的な意味を持っています。(注4)
最後に、私たちはロホ イロフィroh ilofiにやってきます。
単語イロフィilofiは元のジャワ語でもインドネシア語でもなく、たぶんアラビア語に関連することもなさそうです。
それはアラビア語に対する、典型的なジャワ語の発音である可能性が最も高いです。
前述したように、ジャワ語のアルファベットとアラビア語のアルファベットの文字数の違いにより、それに応じて、ジャワ語、特にアバンガンabanganのグループによって正しく発音されないアラビア語の文字があります。
たとえば、「zuhr」という単語は「luhur」と発音されます。
ラフツlafzはラパールlapalと発音される。
ファード fard はperluと発音されます、などなど。
それゆえ、イロフィilofiという言葉は、アダファadafaの語源になるアラビア語のイダフィidafiから派生したものであり、頼りにしたり依存したりすることを意味しています。
この仮定が正しいとすれば、その神秘的な意義と意味が何であるかという疑問が残ります。
ロホ イロフィroh ilofiという言葉を使用したスーフィーsufiがいるかどうかを調べると、誰もそうしていないことがわかります。
P130
しかし、インドネシアの神秘主義者の中から、私たちはロホ イロフィ roh ilofiという言葉を使用する少なくとも1人のスーフィーsufi と出会います。
これはスマトラのシャムスディン パサイSjamsuddin Pasaiであり、バパのようにイロフィilofiと発音するのではなく、アラビア語の音韻に正しく従い、イダフィidafiとして綴っています。(注5)
しかしながら、この関係では、シャムスディン パサイSjamsuddin Pasaiとバパは同じ用語を使用していますが、それぞれ異なるものとしてそれを理解しています。
前者はムハンマドの魂(haqiqa = njawa)としてロホ イダフィroh idâfiを説明しています。
それに対して後者は、ロホ イロフィroh ilofiをロホ アル・クドスroh al-kuddusと同じ機能を持つものとして定義しています。
つまり、ロホ アル・クドスroh al-kuddusは外界から人に、ロホ イロフィroh ilofiは人の内部感覚(ラサ・ディリrasa-diri)から外界に移動します。
二つの動く方向は反対ですが、同じ目的を持っています。
それは人間がmanunggal(神と人との合一状態)に到達するために道を探している中で、神の意志によって人間が魂の低いレベルから高いレベルに上昇するのを助けることです。
この機能のために、Subudの魂についての考え方の中では、ロホ イロフィroh ilofiが最も重要な役割を果たしているようです。
人間のためにロホ イロフィroh ilofiは彼の最奥に位置しています。
ラティハンの間の動き、声や経験は、実際にはロホ イロフィroh ilofiによって生み出され、ロホ イロフィは時にはdaja hidup besar(Great Life Force大生命力)と呼ばれることもあります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここまで、英文はこちらを参照願います。<--リンク
テーマ「バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念」はここで一応終わり。
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注1:ムタカリミンmutakalimin
ムタカリミンの起源とその方法論<--リンク
これらのmutakalliminは、イスラムを守り、その法律を説明し、コーランの考えを説明することを目指しています。
それは彼らに大きな影響を与え、彼らの原則はコーランです。
議論の基礎として使用される原則はコーランです。
彼らは唯一のコーランを守るために哲学を研究する。
彼らは敵を攻撃する哲学を備えています。
その結果、彼らはコーランの方法、ハディースと仲間の言葉とは異なる、議論、意思決定と定理の決定において特別な方法を持っています。
また、ギリシャの哲学者の議論や意思決定、議論の決定方法とは異なる。
カラームKalām<--リンク
イラーム・アル・カラームʿIlm al-Kalām (アラビア語 : عِلْم الكَلام 、文字通り「談話の科学」 )は、通常はカラムに短縮され、時には「イスラム教的な学問的神学」と呼ばれ、教義を確立し、守る必要から生まれた疑惑と批判者に対するイスラム信仰です。
カラムの学者は、哲学者、法学者、科学者と区別されるmutakallim (複数mutakallimūn )と呼ばれています。
アラビア語の用語「 カルラムKalām 」は、「スピーチ、言葉、発話」を意味し、イスラーム神学に関するその使用は、コーランQuranが「神の言葉」を言及しているところに由来します。
注2:ロホ ラフマニroch rachmani
著者は『スーフィーsufiはこれまでこの文脈でこれらの用語を使用していません。』と言われますが、それは間違いです。
以下のリンク先にあります様にRahmaniというコトバはイブン アラビーIbn al-'Arabiが最初に「ナファス・ラフマーニ nafas Rahmani とは(神の)慈愛の息吹である」という主張をする中で使っている様です。
roh rahmani ロホ ラフマニについてはこちらの記事を参照願います。<--リンク
注3:ルーフruh
スーフィーが言っているルーフruhについてはこちらの記事を参照願います。<--リンク
それに対してアル・ジリAl-Jilyは「rühルーフは神の側面の特殊な一面」として「神の属性の一つ」としてとらえているのでした。
注4:天使であるよりも広い霊的な意味
天使は普通の人にはつき従いません。
しかしながら、バパが言うところのロホ アル・クドスroh al-kuddusは「つき従うかどうか」は別として、普通の人にも関与してくる存在なのであります。
注5:スマトラのシャムスディン パサイSjamsuddin Pasai
スマトラのシャムスディン パサイSjamsuddin Pasaiについてはこちらの記事を参照願います。<--リンク
PS
「THE PATH OF SUBUD」の著者のKafrawiさんと我々にとってこの論文の持つ意味についてのちょっとしたまとめ。
「THE PATH OF SUBUD」の著者のKafrawiさんはインドネシア生まれであろうと推察いたします。
それは特にインドネシア語の発音に堪能であらせられることから推察されます。
そうして、インドネシアの歴史、地理、文化に詳しく、さらにイスラムやクリスチャンについても造詣があります。
それ以外のインドネシアの宗教的な状況にも詳しい様です。
そうして、スーフィーズムについても詳しいのであります。
そのような人が、研究者が我々の協会を外から見た時にどのように見えるのか、と言う事をまとめたものが「THE PATH OF SUBUD」になります。
そうであれば、我々日本の読者にとってはとても有益な情報源になっています。
イスラムの事や、スーフィーズムの事やインドネシアの事に詳しくはない日本人にとってはとても助かる書物です。
さてそうではありますが、肝心のラティハンの本質についての考察は、これはピントがはずれています。<--リンク
Kafrawiさんはオープンを受けてはおられない模様です。
ラティハンをご自分では体験されていない様です。
(研究というものが第三者の立場でないとできない、と言われるのであればそれも仕方のない事ではあります。)
そうであれば、ラティハンを記述することは不可能であります。
そうしてそれは我々協会の会員にとっては「記述してもらう必要のないもの」、「説明してもらう必要のないもの」なのであります。
それは「しゃべるもの」ではなく「体験するもの」「実習するもの」でありますから。
さてそのようには言いますが、バパのトークやら著作物やらに出てくる文章、コトバについての考察は非常に参考になります。
それはKafrawiさんはバパの使う言葉のバックグラウンドをそれなりに理解できるからであります。
そうしてその理解は我々にとって、バパのトークやコトバを読む上で、理解する上で、とても参考になるものであります。
PS
「バパの魂(jiwa)あるいはロホ(Roh)の概念」一覧にはこちらから入れます。<--リンク
PS
文字サイズはページ右上で変更できます。
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク
記事内容についてのコメント、ご感想などは
こちらまでお願いします。<--リンク
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今、私たちは彼のロホ ラフマニroch rachmaniとラバニrabbaniに進みます。
ラーマンRahmanとラブRabbはそれぞれが神の名前と属性してムタカリミンmutakaliminとスーフィーによって見られています。(注1)
神のこれらの2つの属性は、彼の jalal ジャラル(威厳)よりも彼の jamalジャマル(美しさ)に、より関連しています。
ここでも私たちが知る限り、私たちが上で引用した理論を持つジャワ神秘主義者を除いて、スーフィーsufiはこれまでこの文脈でこれらの用語を使用していません。(注2)
P127
ルハニ ruhaniと同様に、彼らはラフマニ rahmaniとラバニrabbaniをニスバットnisbat(相対形容詞)とみなし、他の何かに属しているか、関連しているものとみなしています。
例えば、フジワリ HujwiriのKash al-Mahjübでは、彼はニスバットnisbatとして2つの場所で ラバニrabbaniという用語を使用し、それはルーフruhの特定の名前とは何の関係ありません。
ロホ ラフマニRoh rochmaniとロホ ラバニroh rabbaniは、ジャワ神秘主義者によって神のRüh(霊)を暗示すると解釈されます。
この仮定は、バパの簡単な明確化、『ロホ ラフマニRoh rochmaniとラバニ rabbaniは他のものより確かに高いです。
すべては本当に神によって考案され作られたものでした。
私たち人間は、本当に私たちの思考でそれらを理解することはできません。
そして私たちの思考、想像、理解をはるかに超えている神について言うならば、より多くそのようなことはあてはまります。』
(注:ロハニ、ラフマニ、ラバ二でさえこのように思考、想像を超えているのに、それをさらに超えた神について何をいえるのか?、、、程度の意味かと。)
これに関連して、バパは、人間は神の属性を自分自身に結合している、言い換えれば人は神の流出物である、とみなしたイブン アラビーIbn al-'Arabiとアル ジリal-JIliとは異なっています。
(注:汎神論ではこの世界は全て神の表現である、という見方をします。
それゆえに「はるかかなたかもしれませんが、神と人は連続している」と見るのです。
そうしてイブン アラビーIbn al-'Arabiとアル ジリal-JIliは汎神論者でありました。)
この点でバパは、創造主の本質と創造物の分離を維持するという正統派の考え方に沿ったものと思われます。
さて今度は、私たちは彼のロホ クドスroh Kuddusとロホ イロフィroh ilofiを扱います。
伝統的な思想では、ルーフ アル・クドスrüh al-quddüsはガブリエルJibrïl、啓示の天使を意味しました。
しかし、いくつかのスーフィー達は、比喩的にそれを理解し、それに難解な意味を与えました。
P128
アブド・アル・カリム・アル・ジリーAbd al-Karim al-Jilyのアル・インサン・アル・カミルal-Insan al-Kamilに関する研究では、ルーフ アル・クドスrüh al-guddüsについて特別な章をもうけ、その中で 彼はrüh al-guddüsを魂の魂であると語り、創造的な言葉「be」を超えているとしました。
それゆえそれは創造されることはなく、それは神の側面の特殊な一面なのであります。
神の存在(wujud)がこのルーフ rühに依存するので、それは、神ご自身のルーフ rühです。
だからそれは、神がアダムに吹きこんだ(nafakha)もの、ルーフruhとは異なっています。(注3)
アル・ジリAl-Jilyはルーフ アル・クドスrüh al-quddüsとアル・ルーフ アル・イラヒal-ruh al-ilahiを同一視します。
この点に関して、バパの見解は正統派とは異なるが、ルーフ アル・クドスrüh al-quddüsを神のルーフの中でも最高のもので、本質であるとみなしているアル・ジリのものとも異なります。
ここで、バパは、人が低位の魂のレベルから高いレベルの魂に上昇することを可能にするために、ロホ アル・クドスroh al-kuddusが仲介者として機能すると述べています。
このように、この場合、バパは正統派のように、ルーフ アル・クドスrüh al-quddüsの仲介機能を支持し、(クドスが)創造されたものである事を強調する。
しかし、彼は正統派とはルーフ アル・クドスrüh al-quddüsの本質や実体については異なった見方をしている。
正統派の教えによると、ルーフ アル・クドスrüh al-quddüsの実体は、神と預言者の間の仲介者である聖霊または天使ガブリエルangel Jibrïlです。
バパにとっては、ルーフ アル・クドスrüh al-quddüsの仲介要素は神と預言者の間に限られておらず、人間と創造主の仲介者でもあります。
P129
それはただ、天使であるよりも広い霊的な意味を持っています。(注4)
最後に、私たちはロホ イロフィroh ilofiにやってきます。
単語イロフィilofiは元のジャワ語でもインドネシア語でもなく、たぶんアラビア語に関連することもなさそうです。
それはアラビア語に対する、典型的なジャワ語の発音である可能性が最も高いです。
前述したように、ジャワ語のアルファベットとアラビア語のアルファベットの文字数の違いにより、それに応じて、ジャワ語、特にアバンガンabanganのグループによって正しく発音されないアラビア語の文字があります。
たとえば、「zuhr」という単語は「luhur」と発音されます。
ラフツlafzはラパールlapalと発音される。
ファード fard はperluと発音されます、などなど。
それゆえ、イロフィilofiという言葉は、アダファadafaの語源になるアラビア語のイダフィidafiから派生したものであり、頼りにしたり依存したりすることを意味しています。
この仮定が正しいとすれば、その神秘的な意義と意味が何であるかという疑問が残ります。
ロホ イロフィroh ilofiという言葉を使用したスーフィーsufiがいるかどうかを調べると、誰もそうしていないことがわかります。
P130
しかし、インドネシアの神秘主義者の中から、私たちはロホ イロフィ roh ilofiという言葉を使用する少なくとも1人のスーフィーsufi と出会います。
これはスマトラのシャムスディン パサイSjamsuddin Pasaiであり、バパのようにイロフィilofiと発音するのではなく、アラビア語の音韻に正しく従い、イダフィidafiとして綴っています。(注5)
しかしながら、この関係では、シャムスディン パサイSjamsuddin Pasaiとバパは同じ用語を使用していますが、それぞれ異なるものとしてそれを理解しています。
前者はムハンマドの魂(haqiqa = njawa)としてロホ イダフィroh idâfiを説明しています。
それに対して後者は、ロホ イロフィroh ilofiをロホ アル・クドスroh al-kuddusと同じ機能を持つものとして定義しています。
つまり、ロホ アル・クドスroh al-kuddusは外界から人に、ロホ イロフィroh ilofiは人の内部感覚(ラサ・ディリrasa-diri)から外界に移動します。
二つの動く方向は反対ですが、同じ目的を持っています。
それは人間がmanunggal(神と人との合一状態)に到達するために道を探している中で、神の意志によって人間が魂の低いレベルから高いレベルに上昇するのを助けることです。
この機能のために、Subudの魂についての考え方の中では、ロホ イロフィroh ilofiが最も重要な役割を果たしているようです。
人間のためにロホ イロフィroh ilofiは彼の最奥に位置しています。
ラティハンの間の動き、声や経験は、実際にはロホ イロフィroh ilofiによって生み出され、ロホ イロフィは時にはdaja hidup besar(Great Life Force大生命力)と呼ばれることもあります。
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ここまで、英文はこちらを参照願います。<--リンク
テーマ「バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念」はここで一応終わり。
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注1:ムタカリミンmutakalimin
ムタカリミンの起源とその方法論<--リンク
これらのmutakalliminは、イスラムを守り、その法律を説明し、コーランの考えを説明することを目指しています。
それは彼らに大きな影響を与え、彼らの原則はコーランです。
議論の基礎として使用される原則はコーランです。
彼らは唯一のコーランを守るために哲学を研究する。
彼らは敵を攻撃する哲学を備えています。
その結果、彼らはコーランの方法、ハディースと仲間の言葉とは異なる、議論、意思決定と定理の決定において特別な方法を持っています。
また、ギリシャの哲学者の議論や意思決定、議論の決定方法とは異なる。
カラームKalām<--リンク
イラーム・アル・カラームʿIlm al-Kalām (アラビア語 : عِلْم الكَلام 、文字通り「談話の科学」 )は、通常はカラムに短縮され、時には「イスラム教的な学問的神学」と呼ばれ、教義を確立し、守る必要から生まれた疑惑と批判者に対するイスラム信仰です。
カラムの学者は、哲学者、法学者、科学者と区別されるmutakallim (複数mutakallimūn )と呼ばれています。
アラビア語の用語「 カルラムKalām 」は、「スピーチ、言葉、発話」を意味し、イスラーム神学に関するその使用は、コーランQuranが「神の言葉」を言及しているところに由来します。
注2:ロホ ラフマニroch rachmani
著者は『スーフィーsufiはこれまでこの文脈でこれらの用語を使用していません。』と言われますが、それは間違いです。
以下のリンク先にあります様にRahmaniというコトバはイブン アラビーIbn al-'Arabiが最初に「ナファス・ラフマーニ nafas Rahmani とは(神の)慈愛の息吹である」という主張をする中で使っている様です。
roh rahmani ロホ ラフマニについてはこちらの記事を参照願います。<--リンク
注3:ルーフruh
スーフィーが言っているルーフruhについてはこちらの記事を参照願います。<--リンク
それに対してアル・ジリAl-Jilyは「rühルーフは神の側面の特殊な一面」として「神の属性の一つ」としてとらえているのでした。
注4:天使であるよりも広い霊的な意味
天使は普通の人にはつき従いません。
しかしながら、バパが言うところのロホ アル・クドスroh al-kuddusは「つき従うかどうか」は別として、普通の人にも関与してくる存在なのであります。
注5:スマトラのシャムスディン パサイSjamsuddin Pasai
スマトラのシャムスディン パサイSjamsuddin Pasaiについてはこちらの記事を参照願います。<--リンク
PS
「THE PATH OF SUBUD」の著者のKafrawiさんと我々にとってこの論文の持つ意味についてのちょっとしたまとめ。
「THE PATH OF SUBUD」の著者のKafrawiさんはインドネシア生まれであろうと推察いたします。
それは特にインドネシア語の発音に堪能であらせられることから推察されます。
そうして、インドネシアの歴史、地理、文化に詳しく、さらにイスラムやクリスチャンについても造詣があります。
それ以外のインドネシアの宗教的な状況にも詳しい様です。
そうして、スーフィーズムについても詳しいのであります。
そのような人が、研究者が我々の協会を外から見た時にどのように見えるのか、と言う事をまとめたものが「THE PATH OF SUBUD」になります。
そうであれば、我々日本の読者にとってはとても有益な情報源になっています。
イスラムの事や、スーフィーズムの事やインドネシアの事に詳しくはない日本人にとってはとても助かる書物です。
さてそうではありますが、肝心のラティハンの本質についての考察は、これはピントがはずれています。<--リンク
Kafrawiさんはオープンを受けてはおられない模様です。
ラティハンをご自分では体験されていない様です。
(研究というものが第三者の立場でないとできない、と言われるのであればそれも仕方のない事ではあります。)
そうであれば、ラティハンを記述することは不可能であります。
そうしてそれは我々協会の会員にとっては「記述してもらう必要のないもの」、「説明してもらう必要のないもの」なのであります。
それは「しゃべるもの」ではなく「体験するもの」「実習するもの」でありますから。
さてそのようには言いますが、バパのトークやら著作物やらに出てくる文章、コトバについての考察は非常に参考になります。
それはKafrawiさんはバパの使う言葉のバックグラウンドをそれなりに理解できるからであります。
そうしてその理解は我々にとって、バパのトークやコトバを読む上で、理解する上で、とても参考になるものであります。
PS
「バパの魂(jiwa)あるいはロホ(Roh)の概念」一覧にはこちらから入れます。<--リンク
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