日本はゴールデン・ウィーク。ケンブリッヂはようやく訪れた美しい春。そんな素敵な季節を尻目に朝から晩まで図書館やミーティングルームにひきこもり、寝不足で目を血走らせた240名のMPP(Master in Public Policy)の一年生。そんな僕らが最近よく発する呪文があります。
「ペデューファ!」
「ペデューファぁa!!」
この訳の分らん呪文のような言葉が、今回のSpring Exerciseのキーワードであり、現在米国で大きな議論となっている医薬品の安全性とFDAの規制の在り方を考える上での大きなポイントになっているのです。
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1.“ペデューファ”の概要
PDUFA(Prescription Drug User Fee Act)
「処方箋薬ユーザー手数料法」は、昨日の記事で紹介した医薬行政に求められる究極のバランス
「複雑な薬を“みっちりと素早く”チェックする」
に近づくために、1992年に導入された法律です。
アメリカで医薬品のチェックを行っているFDAは、1930年の設立以来、安全で効果のある医薬品の普及に大きく貢献してきました。例えば昨日の記事でも紹介した「サリドマイド」の悲劇。ヨーロッパでは数1000人規模の犠牲が出たのに対し、アメリカではFDAの入念なチェックによって安全性に関する継続審査が行われていたため、“魔の薬”が米国市場に出回ることなく、その被害が最小限に抑えられました。
しかし、そうしたFDAの医薬行政に対して、製薬会社、そして消費者からは、1980年代より不満の声が上がりはじめました。
要するに
「審査に時間がかかりすぎる!!」
特に1980年代はHIVの患者が増加した時期です。製薬会社がこぞって開発を競ったHIVの発症を抑える新薬が、FDAのあまりに長い審査によって市場に届かないという批判が激増していました。
また、経済のグローバル化に伴う製薬会社間の国際競争も激化していました。昨日紹介したとおり、医薬品の販売には莫大な研究開発費がかかります。そして米国議会調査局(CRS:Congressional Research Service)のレポートによるとFDAによる新薬の審査が1か月が遅れることによる製薬会社の損害は1,000万ドル(12億円)と言われています。
こうした批判を受けて導入されたのがPDUFA。FDAによる新薬の審査の迅速化を図るため以下の措置が盛り込ました。
① 製薬会社からの手数料の徴収
「審査に時間がかかるのは人手が足りないからだ!」というFDAの反論に応えるべく、製薬会社は新薬のチェックをFDAに依頼する際に、手数料を支払うことになりました。この手数料によりFDAはより多くの専門家を雇うことができ、安全性や効果の検証を犠牲にすることなく、審査のスピードアップを図ることができるとされました。
② Performance Goalの設定
「審査に時間がかかるのは、人手不足のせいだけでなく、FDAが“お役所”仕事でチンタラ審査をやっているからではないの?」という製薬会社や患者の声を受け、審査時間に目標が設定されました。具体的には、
(1)通常の新薬審査については、その90%を12カ月以内に終えること、
(2)特に必要性の高い優先審査については、その90%を6か月以内に終えること、
という二つの数値目標です。
2.“ペデューファ”の効果
こうして導入されたPDUFAですが、その効果は目に見える形で現れました。PDUFA導入直前の1992年には22.6件だった年間の新薬認可件数が、導入翌年の1993年には42.1件といきなり倍近く増加しました。また、2005年に発表されたハーバード・MIT教授陣の共同研究によると、PDUFA導入前の1992年と2002年を比較すると、FDAの平均審査期間は24.2か月から14.2カ月へと、実に42%の減少しています。
こうして目に見える効果が認められるため、PDUFAはこれまで、1997年と2002年に議会で再承認されてきました。
しかし、
ここまで読まれた皆さんも想像がついているかも分りませんが、その後FDAの信頼を揺るがす事件が相次いで起こることになるのです。
この部分、日本の生物関係の学生の間では、そうは認識されておらず、どちらかというと、↓(サリドマイド)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%89%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%89
<アメリカではFDA(食品医薬品局)の審査官F.C.ケルシー女史がサリドマイドの副作用、安全性に疑問を抱き審査継続を行ったため、治験段階に数名の犠牲者を出しただけだった。後にケルシー女史はジョン・F・ケネディ大統領から表彰されている。>
ケルシー女史のパーソナル・マターとして認識されているのですが、ご当地では、「制度が機能した結果」と認識されているのでしょうか?
詳しい制度上の背景は忘れてしまいましたが、当時の米国では、薬の審査官が「継続審査」を指示すると、理由は説明しなくとも、無条件で30日か60日か、あるいはもっと違う日数だかは忘れてしまったのですが、認可が延期されるのだそうです。
通常、多忙を極める審査官が、また訴訟社会の米国において、理由もなく同じ薬について、根性悪く何度も「継続審査」を指示することはなかったのですが、ケルシー女史は、その期間が終わる直前に毎回、「継続審査」の指示を忘れず、怠らずに出したんだそうです。そうこうするうちに西ドイツで奇形性の問題が起こり、犯人はサリドマイドであることが判明して、米国では認可されないことになったようです。
私の学生時代、当時、講義を担当した教授曰く「ケルシーさんは、よっぽど変わり者で、職場で干されていて、他に仕事もなく、難癖つけるのが生き甲斐だったんですね。」なんて冗談を言っていたくらいです。
ケルシー女史本人の人格がどうだったかどうかまではわかりませんが、米国におけるサリドマイド禍の回避は完全に偶然の産物で、制度上のことではない、というのが日本の理科系の世界では通説・・・かもしれません。といいつつ私も全部の大学を網羅的に調査したわけではないので、自分の周囲のみの話ですけれど。
Whyさんが薬学系のことを学ばれていたこと、また薬害エイズ問題の解決に向けて行動されていたことは知っていたので、多分コメントくれるんじゃないかなーと期待していました(笑)。
色々書いてはいますが、僕は何せ全くのど素人。数日間600ページのリーディングとネットサーフィンをバーッとやっただけなので、色々足りない部分があると思います。今後もぜひご指摘お願いします。
という訳で、ThalidomideとFrances Oldham Kelsey女史の話について。
色々読んだり聞いたりしたところでは、Thalidomideの悲劇が米国で最小限に食い止められたのは、whyさんが書いているようなKelsey審査官の個人的資質と制度的要因の二つがあると思います。
whyさんの言うとおり、既に欧州を中心に幅広く使用が認められていたThalidomideが、Kelsey審査官一人の判断によって一年以上も審査が延長されていたため、彼女には薬を開発したRichardson-Merrell社からのみならず、FDAの幹部からも圧力がかかっていたそうです。そうした中で、薬学者として、あるいは医薬の安全性に責任を持つFDAの審査官として、納得のいく資料が提出されない限り認可は出さないというKelsey審査官の「薬学者魂」や責任感が、重要なファクターであったことは間違いないと思います。
しかし、より重要なのは、そうした彼女の責任感をバックアップし、外部あるいは内部からの不当な圧力を最小化する制度がFDAの中に用意されていたことです。
Whyさんがいみじくも指摘しているとおり、1938年に導入された当時の「Federal Food, Drug, and Cosmetic Act(連邦食品・薬品・化粧品法)」は、FDA審査官に、製薬会社から提出された証拠が十分でないと判断した場合に、審査期間を60日延長する権限を与えていました。そして、その間に製薬会社は新たな資料を提出しなければなりませんでした。
また、新薬の認可は担当審査官の了解なしには、たとえFDAの長官がYesと言っても出すことができなかった点も見逃せません。
つまり、当時のFDAには、審査官が薬学者としての専門性を元に、外部の政治的・経済的な利害から離れて新薬の安全性を考え、判断することを保障する制度があったのです。逆にいえば、如何にKelsey審査官が「薬学者魂」に満ちていても、あるいは、whyさんの教授の冗談の通り“難癖つけるのが生き甲斐”の人であっても、こうした制度的な担保がなければThalidomideは米国市場に出回ってしまっていた可能性が極めて高いといえると思います。
また、先日ケネディスクールにやって来たFDAの元長官の話では、Thalidomideの悪夢の回避は、FDAの組織文化を語る上で欠かせない要因だそうです。というのも、審査官が薬学者としての知識をもって意見することを憚らなくてよい、むしろそれは奨励されるべきものである、ということがこの一件以来組織の中で、あるいは審査官の中で確認され、共有されたからです。しかしながら、残念なことにPDUFA導入以来、その組織文化が大きく崩れていることは、この後の記事に書いたとおりです。
ちなみに、ThalidomideはKelsey審査官がFDAで担当した初めての事案であり、また彼女がThalidomideの安全性に疑問を覚えたのは、彼女が30代前半の頃に行ったグループ研究で、抗マラリア薬キニーネが胎盤喚問を通過してしまうことを発見した経験があったからだと言われています。
そういう意味では、whyさんの教授が言っていた冗談は事実に基づくものではない、文字通り冗談なのでしょう。
なお、日本の大学で本件がどのような文献を材料に教えられているかは知りませんが、FDAやThalidomideのことを調べるのであれば、アメリカの話なので英語の文献を検索されたほうが、はるかに多くの分量、質の情報を入手できると思います。
1つ勉強になりました。ありがとう。
もしかしたら薬学部ではもっと突っ込んだ教え方がなされているのかもしれませんが、私(理学部生物学科)の場合、医薬品の安全性を考える上で、光学異性体が問題になった例として教授が紹介していた時の雑談か何かで聞いた話だったと記憶しています。
よく知らないのに、ケルシー女史の人格を誹謗するような書き込みをしてすいません。
理科系は(と一般化するのも不適かもしれませんが)閉じた世界なので、時々、毒々しい根拠のないジョークが真実であるかのように語られる傾向があるので、これを教訓に伝聞は原典を当たる心がけをしたいと思います。
追伸
>数日間600ページのリーディングとネットサーフィンをバーッとやっただけ
でこれだけ語れるのはすごい!!
医薬品の安全性に関わる審査とは離れますが、サリドマイドについては最近、抗ガン剤としての効能が見直されています。(↓)
薬品の効能を考えるとき、「誰に」投与するのか?ということも重要かもしれませんね。
極端な話、低血糖な人にインシュリンを投与したら死亡するのと同じで、「正しい使い方」というファクターもあるのかな、と。
http://naze.nazo.cc/blog/200608.html#2006081068
当初の目論見どおり制度や組織が機能しないのは、やはりどんなシステム(社会)も人の意識とは切り離せないということなんでしょうね。
色々書きましたが、長年かけて色々な角度からこの問題を考えているWhyさんと比べて、僕は本当に「詰め込み」の知識のみなので、こうしてブログを使ってしっかり記録しておかないと一週間もしないうちに、脳みそから雲散霧消してしまうかもしれません…
でも、このテーマは本当に行政の在り方、官民関係の在り方、政策決定プロセス全般を考える上で示唆に富むものだと思いました(僕たちのMLで議論したとおりです!)。
もうしばらくこのテーマについての記事を書きたいと思うので、また足りない点、誤解等見つけたらぜひコメントをよろしくお願いします。
これを「相似性」というのだそうですが、薬の話もまさに相似性ですよね。
「薬はどの患者にどれだけ投与するかが重要」
「政治や政策、あるいは制度は、どんな社会にどういう運用で適用するかが重要」
わかりやすく言えば、物理の慣性の法則。
「止まっているものは止まっていようとし、動いているものは動き続けようとする。」
「物をぶん殴れば、同じエネルギーが返ってくる。」ってのも、社会と同じですよね。
改革には保守が。
メリットにはデメリットが。
ほとんど最終解脱の境地ですが(笑)
それでも一人の人間が責任を持つことのできる程度の広がりしかない(実際は必ずしもそうではないけれど)、薬の許認可を適正に運用することは、まだ様々な利害、メンバーとの調整の要求される政治改革に比べたら、まだ楽なのかな?
意味不明な書き込みスマンです。