城名 |
林館 |
別名 |
林殿町城 林城屋敷城 |
住所 |
津市芸濃町林字殿町 |
築城年 |
明応年間 (一説に正応年間) |
築城者 |
林氏 |
形式 |
居館 |
遺構 |
掘割、石塁、土塁 |
規模 |
東西280m×南北230m |
城主 |
林祐行 - 重越 - 定保 - 日向守? - 信重 |
標高 |
85m |
比高 |
40m |
歴史 |
勢陽五鈴遺響によると、明応年中(1492~1501)に長野工藤氏一族の林中守祐行が住まうとある。 |
天文5年(1536)に長野氏と対立していた関氏に攻められ、関氏の一族鹿伏兎定長の子定保が城主として入り林氏を名乗ったともいわれている。この時、林重越は追われた。 |
天文7年(1538)定保は城を築く。 |
天正2年(1574)に、滝川一益と信長の幕下になっていた雲林院出羽守に攻められた。西方の楠原・北方の楠平尾の武将もこの城に籠って守り抜いた。和議が成立する。 |
北側の閑翁寺の言い伝えでは、天正2年滝川一益の兵火に城主林日向守は翌年、当山にて切腹、寺院も全焼した、とある。 |
天正11年(1583)羽柴秀吉に攻められたが落ちなかった。のちに秀吉側についた。 |
天正12年(1584)信包は林の領主となる。また、早々に嫡男・信重が家督を継ぐ。 |
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに東軍として参戦し、所領1万石で林藩を立藩する。 |
元和元年(1615)信包が死去すると信包の家督を弟の信則が継ぐことになり、信重は幕府に申し立てをする。 |
願わず、信重は所領を没収され流浪の身となり、林城は廃城となる。信重、30年ほどの働きが無となった。 |
一族 |
長野氏の一族 |
感想 |
現在もなお城下町の風情が残り貴重な場所だと思う。ゆっくりと見せていただきたい。静かに! |
林三城は史料がほとんどない状態という。勢陽五鈴遺響、伊勢名勝志、勢陽雑記それぞれが異なった部分を記述している。また、中世城館、日本城郭大系、芸濃町史も異なった解釈をしている。疑念×疑念=収集がつかない状態、となっている。 |
林三城の内林館が本城であろう。城山城と北浦城は林信重の時にかなり広い範囲を領有していた関係から、出城的機能を持たせた簡易的なものであったと考える。 |
父、信包から領地を引き継いだ後かなり領有地の運営に活躍した様子が少ない文書から垣間見えてくる。 |
あるいは、用水の調停など領地内のもめごとの見張用に築かれたものかもしれない。城としての施設が見られないのもその辺の理由からきているのかもしれない。 |
城名 |
② 林城 |
別名 |
林城山城 |
住所 |
津市芸濃町中縄 |
築城年 |
築城者 |
形式 |
平山城 |
遺構 |
なし |
規模 |
東西200m×南北230m |
城主 |
標高 |
90m |
比高 |
10m |
歴史 |
経緯 |
芸濃郷土資料館の掲示物に示された場所を根拠にしている。現在では「しろやま」とも呼ばれていないことが地元の郷土史研究者らによって指摘されている。 |
書籍 |
三重の中世城館 三重の城 |
一族 |
関氏 |
感想 |
今日現在公式見解は不明であるが「火の無い所に煙は立たぬ」でここを林城と考えた。 |
③ 林北浦城 |
訪城未定
地図
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