三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

大内山城

2019-06-28 00:02:29 | 古城巡り

 

 

城名
 大内山城
読み
 おおうちやまじょう
住所
 度会郡大紀町大内山川口
築城年
 不明
築城者 城主
 大内山但馬守興信
形式
 山城
遺構
 曲輪、堀切、石垣(年代不明)
規模
 (主郭部)東西10m×南北8m
家臣
 北畠家臣(重臣)
標高 250m 比高 60m 
歴史
 大河内城の籠城の際には大内山但馬守も参陣した。(勢陽雑記)
経緯
 大内山但馬守光成討死;天正4年12月4日多気城 (大宮町史)
書籍
 伊勢の中世 三重の中世城館 大宮町史
環境
 大内山川と梅谷川の合流地点の谷底平地を北に見おろす山地の尾根にある。
 南山麓に八柱神社がある。
現地
 古い祠が祀られ、せまい平坦地の北東に石垣状のものがみられる。この石垣は当初のものか祠の設置に伴うものか年代は不詳である。
 興信が大檀那となって建立された中野の汲泉寺には、有形文化財の永正10年(1513)銘の「雲板」があり、この寺の盆踊りには前後に出陣と凱旋を型どった行列が行われている。
 汲泉寺には大内山但馬守一族の墓がある。
考察
 大内山阿曽城主と記されることが多い。阿曽城は阿曽弾正が城主とされている資料も多く、同一人物か否か判明できない限界が現れている。
感想
 未制覇の城。麓の館跡の検証と共に中野城との関係性など事前の調査が欠かせないと考える。
大内山但馬守館跡の推定地①
 村内に中世の集落を求めるとすればその遺物量から考えて小川口、中野地区が一番妥当である。この二つの地区には大内山但馬守の伝承が集中して残っている。中野地区に残る馬場跡、屋敷跡などである。
 馬場跡は幅約2m、長さ100mの直線道路で残る。その道が馬場跡とすると近くに但馬守の屋敷が存在している可能性がある。
 その候補地は、馬場跡の南西25mに存在する地割である。東西約30m×南北約60mで高さ0.5mの土塁状のものが北と西側に残っていることとその中から発見された室町時代の遺物の密度が濃いことである。
 大内山川が南に大きく蛇行した内側で川の浸食を受けにくい屋敷地として問題ない。
大内山但馬守館跡の推定地②
 もう一つの但馬守の屋敷地の候補地は小川口である。江戸時代に大内山七人の乾氏、木曽原氏の屋敷地があった場所でもある。
 小川口を但馬守の屋敷地の候補に挙げたい。理由は中野地区と同様に室町時代末期の遺物の量である。多数の天目茶碗片、青磁器が混じる。集落のすぐ南側には中野城が存在する。中でも小川口の中央を走る道路の西側の川近くの畑から室町時代の遺物密度が濃く鎌倉時代の山茶碗の口縁も採取されている。
推定地の考察
 両地区に共通していることは、どちらも山側を背にし三方を大内山川や支流に囲まれた天然の要害の地である。現在では水量も少ないが今から400年以上も前の大内山川や支流の水量はもっとあったと考えれば城ほどの防御性は無いとはいえ両地区の集落の入口に木戸を構えれば陣地として活用できたはずである。
 両地区はツヅラト峠から、或は荷坂峠方面から進入してくる敵に対して迎え撃つ場所としてはまさにふさわしい場所である。
 450年前の戦国武将ならきっとこの地を選ぶに違いない。
備考
 大内山城-7Km(1.5Hr)-崎-7Km(1.5Hr)-阿曽館-10Km(2Hr)-三瀬館
地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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